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誰が私の死に向かう精神を支えるか について少しばかり
誕生日を控えて考えるのは私が死ぬ時、それほど長くは生きられそうにないと実感した時、誰が私を不安から守ってくれるだろう、支えてくれるだろうかと考えてみる。
これは、誰かが支えてくれるという前提を織り込み済みの発想だけれど、どうも、その辺りから既にあやしいと考える。
優しい声掛けが私を支えてくれるか、素敵な音楽が私の精神を不安から守ってくれるか。
もちろん、ある程度は支えてくれるかもしれない。が、それほどでもないだろう
では、何らかの宗教に帰依するか、信心をするか
つまりは、救われたいということなのだが、宗教がそういった私たちを支える方法は、極楽天国輪廻転生がありますよ。だから、不安に思うことはないのですよという、優しき欺瞞である。もちろん、それで和やかになるのならそれを受け入れる人を否定はしない。
ただ、会議派の私にはそれは無理な話で、そういうのって、私自身、つまりは自我を投げ捨てるということだよね。なんて、ひどいことを考えてしまうのだ。考えること自体が好きな人なのだ
走馬灯という語句がある。臨死体験をした人たちが、過去からのたくさんの経験が走馬灯を見るかのようによみがえったというあれである、 なんどか事故で私も死にかけたけれど、走馬灯を見ていないのは、自分が思うほどの危機ではなかったのかもしれない。 なぜ、走馬灯を見るのかと考えるならば、多分、私は不安から、自分自身を守る装置ではないのだろうかと考える。 つまり、死を前にした私を守ってくれる、支えてくれるのは、これまた私、私自身なのである。
2025032901.1743251985.txt.gz · 最終更新: 2025/03/29 21:39 by monobe