異形 月の糸 二話

「お父さん、かんてき、持って来たよ。炭もあるからね」
黒が七輪と炭を入れた袋を両手に満辺の笑みを浮かべていた。
「黒、口元。ほら、涎が出ているぞ」
男が笑った。慌てて、黒は荷物を降ろすと、袖元で口を拭った。
恥ずかしそうに黒が笑う。
「面白いな、黒は」
男も楽しそうに笑うと糸の先に視線を戻した。
梅林を越えたところにある小川、その辺で男は魚釣りをしていたのだ。
「黒。いっぱい食べろよ、父さん、大きいの釣るからな」
「うん。ピクニックみたいでわくわくするよ」
男は満足げに笑みを浮かべると、ふぃと視線を糸の先に向けた。くくっと浮きが沈む。すぃっと併せ、竿を上げる、銀にきらめく魚を釣り上げた。
黒が目を輝かせ、魚を受け取った。
「大きいよ、三十センチくらいある」
「皆が来るまで、ちょっと試食しようか」
「しよう、しよう」
黒は器用に魚を三枚に降ろし、酢を塗り、塩を振った。七輪に載せると、しばらくして香ばしいにおいがあたりに漂いだした。
「お酢をつけると香ばしくなるって、あさぎ姉さん言ってた」
「いいにおいだ。ん」
ふっと、男は視線を上げた。黒の後、黒も振り返ると、遠く、ぼぉっとした表情で歩く智里を見つけた。
「おおい、智里さーん、こっち、こっちだよ」
黒がぴょんぴょん飛び跳ねながら大きく手を振った。
焦点定まらないままに、智里は立ち止まり、ぼぉっと眺めていたが、意識を取り戻すと、足早に駆けてきた。

「申し訳ありません。先生、黒さん」
「謝る必要は何もないよ。ね、智里さん、具合はいかが」
心配げに黒が智里の顔を覗き込んだ。
「住まわせていただいて、三日になりますが、時々、足がふわっとなってしまって、気持ちも良い気分で、何も考えられなくなってしまいまして」
黒が不安そうに男を見つめた。
男は安心させるように笑った。
「一週間もすれば無事に生活できるようになるよ。智里さんはね、二十代半ばだけれど、人が身につけることのできる技量ぎりぎりのところまで格闘術を身につけた、酷い修行でね。その負荷が当たり前になっていたところから、不意に解放されて、感性が戸惑っているんだよ」
智里は不思議に思う、家の裏庭がこんな広大な土地になっていること、そして、この男性は一体何者なのだろう。皆からお父さんと呼ばれる、少しやつれた感じの中年男性、特に特徴も無く、町ですれ違っても、思い出せないほどの。
「智里さん、今日はなよも機織りに専念すると言っている、ゆっくりしたらいいよ」
男は黒に目をやり言った。
「魚が焼けたぞ。智里さんと分けなさい」
黒は嬉しそうに頷くと、半身を皿に載せ、お箸を添えた。
「どうぞ、智里さん」
「あ、ありがとうございます」
男も笑みを浮かべ頷くと、釣りを再開した。
「美味しい」
智里が呟いた。
黒も魚を食べる。にっと幸せそうに笑みを浮かべた。
「智里さん、いっぱい食べてください」
男が苦笑する。
「頑張って釣るよ」

三毛と白がそれぞれ長机を頭上、高く掲げ走ってきた。その後を小夜乃が折り畳み椅子を両手に二つ、走って来る。小夜乃も今はすっかり元気になっていた。

「お父さん、ここに机を置くよ」
三毛と白が机を並べる。そして、小夜乃が椅子を組み立て並べた。
「まだ、椅子が要りますわ。黒姉(ねえ)」
白が言った。
「わかった、取ってくる」
黒がすぃっと家に向かって駆け出した。白と三毛も後を追った。
「みんな、元気だなぁ。小夜乃もすっかり元気になったね」
男が笑みを浮かべた。
小夜乃もそっと笑うと頷いた。
「自由に動けるのは楽しいです」
そして、智里を見つめた。
「智里さん。今日はゆっくりしてください、昨日はなよ母様のお供で大変だったとか」
慌てて智里が頭を振った。
「お供させていただけるだけで、ありがたいと」
「なよは人望があるからなぁ」
男が笑った。
「お父様も人望がありますわ」
小夜乃が真っすぐに言う。
「え、私がかい」
「はい。みんなお父様のこと、大好きですもの」
「そうか。なら、頑張って魚を釣るよ。みんなを飢えさせたら申し訳ないからね」
男は笑うと釣り糸を川面に沈めた。
ふと、智里は餌を付けずに釣り針を沈めるのに気づいた。擬餌のルアーでもない、釣り針だけだ。男がすぅっと竿の先を走らせる、つうんと引き上げると魚がかかっていた。
魚の移動を読んで、引っ掻けているのだ。普通のどこにでもいる中年男、としか見えない。でも、考えてみれば、なよ様でさえ、一目を置いている様子。
「あの、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
智里は思い切って男に声を掛けた。
「ん、何かな」
川面に糸を垂らしたまま、男が返事をした。
「あの。貴方様は」
「私のことかい」
智里が戸惑いながらも頷いた。
「さて・・・。ま、この地の元管理者。この子達の父親みたいなものかな」
にっと男は小夜乃に笑みを浮かべた。
小夜乃も頷くと、微かに頭を下げお辞儀をする。
「お父様にはお世話になっております」
「いいえ、どう致しまして」
男はかしこまって答えると、くすぐったそうに笑った。
「智里さん」
「はい」
「君がこうして、ここにいるのも何かの縁だ。なよが君を受け入れたのも、君の中に何か思うところがあったんだろうと思うよ。君の体は無茶な練習で悲鳴をあげている、このままなら、後数年と生きられないだろう。ここで養生をしなさい。体が整えば、何十年か先、老衰で死ぬことができるからさ」

「先生」
かぬかが鍋を両手に走って来る。
「鍋。七輪に置いてもいいですか」
「いいよ。うどんはあつあつが美味しい」
「鍋焼きうどんです」
竿を置き、男が鍋をのぞき込む。
「これはいいね、楽しみだ、うどんはかぬかが打ったのかい」
かぬかが照れたように笑った。
「もともとうどん屋ですから」
ふと、かぬかは真顔になり、男に尋ねた。
「あの。幸はもうすぐ帰って来るのでしょうか」
「そうだね。お昼の準備が終わるころには戻って来ると思うよ」
「そう、ですか」
かぬかの顔に微かな緊張が走った。
男は困ったように笑みを浮かべると、かぬかに言った。
「こちらに背中を向けなさい」
「は、はいっ」
かぬかが男に背を向けた。
男はかぬかの頭に両手をやると、頭の埃を払うように両手を動かす、そして、首、肩、背中を払って行く。
「かぬか。同じように、胸、お腹、腰を両手で払って行きなさい」
かぬかは不思議に思った。手で払って行くにつれて、なんだか、緊張が体から落ちて行く。
「太もも、膝、臑、ふくらはぎ、足首に足の甲まで払うこと」
「はい」
素直にかぬかは体を払って行く、不思議に緊張が解け体が軽くなって行った。

「父さん、古式寿法か。扱える者がまだおったのじゃのう」
なよが自在を担いでいた。その自在には何個もの折り畳み椅子が差してある。
「地味な術は廃れやすいからね」
男はなよに笑いかけた。
「智里にも教えてやってくれ」
なよは自在を降ろすと、素直に頭を下げた。
「なんだか、なよが可愛くなった」
男が笑った。
「わしとて、多少の礼節は心得ておるわい」
照れたようになよは少し頬を赤らめた。

男は笑うと智里にも同じように、払ってやる、急に智里は体が軽くなって、つまずきそうになる、とんとんと足を踏み代える、なんて軽い。体が風船みたいに浮いてしまいそうだ。
「智里、覚えておけ。今のが古式寿法 払いじゃ。いまの状態が己の筋肉と体重の関係じゃ。軽いであろう、それが本来のものじゃ、忘れるなよ」
「はいっ」
智里が直立不動になり、元気に返事をする。
「堅苦しい奴じゃ」
ふと、なよが興味深そうに男を見つめた。
「いつぞやの話で父さんの頭の中には、先代、先々代と、先祖の記憶が残っているとか、いったい、父さんに頭の中にはどれほどの記憶が残っておる」
男はふっと考え、そして、答えた。
「あるお爺さんが一本の光る竹を切ると、そこから女の赤ん坊が現れたという、父さんの先祖はその様子を見ていた。おおっ、なんと可愛い赤子ぞと呟いたとか」
「あれは戯作者の作り話じゃ。くだらんことを言うでないわい」
なよの照れた言葉に、男が楽しそうに笑った。

あさぎがバスケットを抱えて走って来る。その隣りを黒が特大のおひつを両手に抱えてやってきた。
「おむすび、いっぱい作るよ」
うきうきと黒が叫んだ。
白と三毛もかんてきと、炭の入った箱を持ってきた。
「お父さん。幸母さんとあかねちゃん、もうすぐ帰って来るかなぁ」
三毛が男を見上げた。

男はすっと家の方角を眺めて言った。
「こっちに向かっているようだよ。もうすぐ帰って来るんじゃないかな」
三毛がほっとしたように微笑んだ。
「三毛は母さんが帰って来て嬉しいか」
三毛が特上の笑みで頷いた。
男は笑うと三毛の頭をなでる。
「みんな、一緒が良いな」

「ただいま、ただいま」
幸は家から飛び出すと、駆け出して来る、背中に大きな風呂敷包み、両手には大きな買い物袋。
「お父さぁん」
叫ぶと同時に両手を広げた途端、両手の荷物が宙に浮かんだ。
「酒が」
瞬間、呟いたなよと黒が姿を消した。幸は、ばふっと男に抱き着くと、顔を見上げた。
「ただいま、お父さん」
「お帰り。楽しかったか」
「うん」
幸は笑みを浮かべると、隣りにいる三毛に笑いかけた。
「三毛、いい子にしてたか」
「はい」
素直に三毛が返事する、
「白はどうだ」
「白はいつもいい子ですわ」
当然のように言う白に、幸がくすぐったそうに声を出して笑った。そして、ようやく、幸は男から手を離すと、小夜乃に声をかけた。
「小夜乃、元気にしていたか」
「はい」
ほっとしたように小夜乃が笑みを浮かべた。
「あさぎ姉さん、ただいま」
「お帰り、幸」
「かぬか。ただいま」
「お、おかえり」
戸惑いながらかぬかが答える。
「お。鍋焼きうどんだ。かぬかが作ってくれたのか」
「あ。あぁ」
緊張した面持ちでかぬかが答える。
いたずらげに幸は舌をだすと、智里に目をやった。
「智里さん」
「はい」
緊張した面持ちで智里が返事をした。
「智里さん。ここは智里さんの家だ、そして、私達は智里さんの家族だ。幸は智里さんを家族と認めた。それはどんな状況になっても変わらない」
強い幸の言葉に智里は気持ちが高ぶり声が出ず、ただただ頷いた。
「あれ。なよ姉さんと黒は」
なよと黒は途中、幸の手から離れたいくつもの紙袋を、地面に落ちる寸前、抱きとめたのだった。
なよが袋を前に地面に胡座をかく。
袋を覗き込むと何本もの一升瓶が入っていた。
「これは清酒霞桜ではないか。最上級品じゃ」
にやけたなよが袋から酒瓶を並べ出す。黒はというと、袋にあった箱詰めの御饅頭をさっそく取り出し、食べていたのだった。
「黒さん。お行儀が悪いですよ」
遅れて戻って来たあかねが、軽く黒をにらんだ。あかねも幸と同じく、風呂敷袋を背負い、両手にいくつもの紙袋を携えていた。
「え・・・」
初めて黒は自分が御饅頭を食べていることに気づいた。
「思うより早く体が動くこと、武術では大切ですけどね」
「あかねちゃん、ごめんなさい」
黒がしおらしくあかねに言う。くすぐったそうにあかねが笑った。
「背中の風呂敷には御饅頭や色んな特産品、なよ姉さんの酒の肴まで入っています、当分、おやつに不自由しませんよ」
「いやっほう」
黒が喚声をあげた。しかし、あかねが両手に荷物を持ったままなのを見て、慌てて言った。
「あ、持つよ、荷物。えっと、あの、勝手に食べないから」
あかねは笑うと、両手の荷物を黒に手渡した。
「みんな、待ってるよ」
黒が幸せそうに笑みを浮かべた。

あかねがなよに声をかけた。
「お酒は後です、お昼御飯ですよ」
「おおっ、そうじゃったな」
なよは酒瓶を袋に戻すと立ち上がった。
「良い妹たちに恵まれて、わしは果報者じゃ」
「正確には好物の霞桜をまとめ買いして来る良い妹たちにですよね」
あかねがなよの言葉を訂正した。
「あかねの生意気な口ぶりも、いまは可愛くてしかたがないのう」
「それはどうも」
あかねはなよの言葉を流すと、少し先、智里を見つめた。
「あれが智里さんですね。なるほど、面白いことになりそうです」
「幸は面倒ごとが好きじゃからな」
「幸姉さんは男を毛嫌いする分、女性には優しすぎるのですよ。でも、そのおかげであかねも妹にしていただいたのですから、そんなことを言ってはなりませんね」
不思議そうに首をかしげる黒に、あかねはそっと笑みを浮かべた。

 

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異形 月の糸 三話

男は静かに自室で本を読む。その足元で、幸は両手を広げ、仰向けに寝転がっていた。
「お父さんは充電器。幸は充電池。引っ付いていないと幸は充電不足になってしまうのですよ」
「そうだったのかい、初めて知ったよ」
男が気楽そうに笑った。
「旅から帰って来て、なんだか、幸が甘えん坊になった気がする」
「だって」
「どうしたんだい」
「寂しくて泣いてしまって、あかねちゃんに頭をなでてもらって、あぁ、お姉さんなのに格好悪いよぉ」
男は笑うと、幸に言った。
「なら、父さんに甘えるのをやめたらいいんじゃないか」
「ううん、幸は考えました。十二分にお父さんに甘えておくこと、充電するんだよ。お父さんの優しさを充電して貯めておくんだ」
不意に幸がばたばたと足を動かし始めた。
「大変です、足が攣ってしまいました。幸が溺れてしまいますよ」
「それは、大変だ。よし、父さんの手を掴め」
差し出す男の手を幸は両手で掴むと、ほっと息を漏らした。
「お父さんは幸の恩人です。ありがとう」
「どう致しまして。いつでも呼んでくれ、助けに行くよ」
幸はうふふと嬉しそうに笑うと、手を放し、男の足、ふくらはぎを両手で掴んだ。
「随分、筋肉がついて来たよ。前は幸の手首と同じくらいの太さだった」
「白が厳しいからね。リハビリは辛くってこそ効果があるって、歩いたり、階段上がったりさ。結果としてはそれが良かった、白には感謝だな」
幸がとても澄んだ笑みを浮かべた。
「なるほどね。幸はしっかり白のお母さんだ」
幸はやっと体を起こすと、男を見つめた。
「みんな、幸にとって本当の娘だし、こんな幸せな生活ができるのはお父さんのおかげだよ。ありがとう」
「幸の力だよ。父さんはちょっと手助けしただけだよ」
男は笑みを浮かべると、開いたままの本を閉じた。
「時間かな」
なよの声が襖の向こうから響いた。
「幸、はようせい。時間じゃ」
なよは襖をがらっと開け放った。
「はよう準備せい。奴らにも説明せねばならん」
幸は立ち上がると頷いた。
「お父さん。ちょっと用事を済ませてくるよ」
「そっか。父さん、あさぎのお店にいるよ。そうだな、なよ、かぬかは父さんが預かろう」
ふと、なよは考えたが、頷くと男に言った。
「気を使わせて悪いな」
「どう致しまして」
男が笑みを浮かべた。

梅林の修行場になよと幸。その二人の前に緊張した面持ちの智里が直立不動で立っていた。黒に白に三毛、小夜乃とあかねも三人を囲むように立っていた。
なよと幸も揃うと、幸は智里を見つめ、それから、なよに視線を向けた。
「智里」
なよが智里に声をかけた。
「はいっ」
「お前が所属していた赤炎会に坊主が来て、お前に術を掛けたのを覚えているか」
「能力を超えた力を発揮するという」
智里が赤炎会 総帥の横に立つ僧の姿を思い出した。今となってははるか昔の話のようだ。
「その僧は父さんの知り合いでのう、この地を壊滅せんと欲しておる。お前がこの地に来る可能性を読み、術を仕掛けたのじゃ」
智里は混乱していた。顔すらはっきり覚えていない。確かに力を与えてやると術を掛けられたのは覚えている。でも、なにか目の前で唱えていただけで。
「白は智里の左足。三毛は右足を押さえなさい」
幸が二人に指図した。
「あ、あの。それって」
白が戸惑いながら言った。
「あと五分で智里は理性を無くし暴れる。なよ姉さんが解呪法を唱える間、動けないように押さえなさいということだ。黒は右腕、あかねちゃんは左腕を押さえること」
「はい」
あかねはすっと智里の背後から寄るとその左腕に自分の体を押し付け、両手で包むように
包み込んだ。
「え。あ、あの」
黒が戸惑うのを、すいっと目を細め、あかねが黒に言った。
「右は智里さんの利き腕です。黒さん、気を抜かずしっかりとなさい」
「は、はい」
黒も智里の右腕を体で押さえ込んだ。
「智里さん、ごめんなさい。ちょっとだけ、我慢してください」
黒が戸惑いながら言った。

男はテーブルにつくと窓から外を眺める。昼間のはずなのに、奇妙に薄暗い。
かぬかは男の前に座ると、緊張した面持ちで男を見つめた。
「先生。なにが起こるのでしょうか」
男はゆっくりとかぬかに顔を向けると、そっと笑みを浮かべた。
「鬼が攻めて来るのさ」
「え・・・」
驚いてかぬかは目を凝らし、窓の外を睨んだ。じわりと巨大な影が浮かび上がり、道向こう、二階建の高さは充分にある鬼の姿が浮かび上がった。憤怒にこちらを睨みつけている。
「あと四つ」
男が他人事のように呟く。まるでその言葉に呼応したかのように、あと四体の鬼が現れた。後ろ、二階建の家が鬼の姿に隠れた。
「戦闘術をしっかりと身につけた鬼だ」
「先生、大変ですよ。どうしたら」
男がにっといたずらげに笑みを浮かべた。
「かぬか、頑張れ。応援してるぞ」
「せ、先生」
思わず、かぬかが立ち上がった。
「む、無理ですよ。先生」
「落ち着きなさいな、かぬか」
いつの間にか、かぬかの横に幸乃が座っていた。
「為せば、成るです」
「そ、そんなぁ・・・」


「希代の魔術師 無がここに居ると聞いた、案内願いたい」
重低音の鬼の声が響いた。男とかぬかは、ほぉっと下から鬼の顔を見上げていたが、納得したように顔を見合わせた。
「先生。奴ら、先生の顔知らないようです」
「面が割れてないのなら」
男は顔を上げ叫んだ。
「うちにはそういう人はいません。多分、おっしゃっているのはお隣のむ・とうさんだと思います、趣味のマジックをよく子供たちに見せていましたから。ただ、先程、急に引っ越しをなさって、今はいらっしゃいません」
男の全く戸惑いのない声に、かぬかが驚いた。
「我らに臆して逃げ出したか」
二人の頭の上で嗤うように、鬼の声が低く響いた。
「先生、それ、ありですか」
ひそひそとかぬかが男に言った。
「面倒臭いじゃないか。それとも、折角の実践の場だ、かぬか、頑張ってみるかい」
「用事も終わりましたから、戻りましょう」
即効、かぬかは答えた瞬間、
「何言ってやがる、無よ」
甲高い声が響いた。鬼の足元、じわりと僧形の男が現れた、深く編み笠をし、顔が見えない。
「やぁ、愚円。その額はお若い人のお洒落かい」
編み笠を降ろした愚円の額には角が一本、生えていた。
「鬼はいいぞ。力は湧き上る、術の威力も全く違う。寿命も人の二倍だ」
微かに狂気を宿した眼で愚円が嗤った。
「長生きしてもたいしていいことはないぞ。それより、赤炎会の女の子に術をかけたろう」
「あぁ。上手く行けばと思ったが、失敗だったようだな、お前がここで戯れ言を騙っているということは」
「町中で発動すれば大量殺人になっていたぞ」
「いいじゃないか。俺は何も困らないよ」
男は微かに吐息を漏らすと呟いた。
「とりあえず、愚円。君は退場だ」
その瞬間、愚円を硝子球が包み込み、愚円共々飛び去った。
「自力で脱出するころには海の向こうだな」
鬼達が男を注視していた。
「かぬか。これは言い逃れできそうにないな」
かぬかが思い切ったように頷いた。
「頑張ります」

「いいなぁ、お父さんと一緒に戦えて」
幸が店の窓に額を押し付けたまま呟いた。
智里の件が済むと同時に幸は店へと走り、男と鬼のやり取りを見つめていたのだった。
「あの位置関係だと、かぬかさんの補佐ということでしょうか」
いつの間にか、あかねも幸の隣りで二人を見つめていた。
「実質、お父さんがかぬかを動かすことになる、でも、それによって、かぬかは強くなるよ」
「いいですねぇ、かぬかさん」
あかねが呟いた。
「もう、何処に行ったかと思ったら」
黒があたふたとやって来た。白も三毛もだ。
「幸お母さん。どうしたんですか」
白が文句を言いかけた時、鬼と対峙する男とかぬかの姿を見つけた。
「三人も早く来い。お父さんの戦う姿、滅多に見られないぞ」
幸が緊張した面持ちで呟いた。
「始まったか」
なよが小夜乃と智里を両脇に抱え、走ってきた。
「なよ姉さん、これからです」
視線を二人に向けたまま、幸が答えた。
なよはほっとして、二人を降ろすと言った。
「二人ともしっかりと見ておけ。滅多に見れるものではないぞ。術師 無の戦いなど」

「見学者も揃ったことだし、そろそろ頑張るかな」
男は呟くと、かぬかの後ろに立った。
「まずは左」
すっとかぬかの腰に男の右手が触れる。一瞬で足も動かさず、二人の体が左へ移動した。瞬間、もといた場所を鬼の拳が地面を穿った。
「あわわ、なんですか。今の」
「足を動かさない歩法だ。身体操作と寿法の合成だよ。本家の術師も江戸時代の始めくらいまでは使えて当たり前だった」
男がすっとかぬかの腰の後ろに触れた。一瞬で、前方に移動する。大振りの剣が空気を切り裂いた。
かぬかが上を向く、牙をむいた五つの鬼の顔が空を埋め尽くしている。しかし、不思議なほど心が落ち着いて恐怖心が現れない。それは、鬼の顔に恐怖が現れたからだ。
つっと二人が浮かび上がり、鬼の眼の高さに止まった。鬼が手出しできずにいる。
「かぬか、思い浮かべなさい。自分が鬼と同じ大きさになっている、そして向かい合っているのだと」
「はい・・・」
かぬかが心を沈め、巨大化した自分の姿を思い浮かべた。
「実体のかぬかは虚像の掌だ。その掌で前の鬼を投げてみなさい」
「撃つのではなく、崩す」
「そうだ。いま、かぬかの思うように移動できる。やってみなさい」
かぬかが大きく息を吸った。
「行きます」
ぐっとかぬかが目の前にいた鬼を睨みつけた。かぬかと鬼の視線が重なる。視線を繋いだまま、鬼の足元に急降下する、鬼の姿勢が微かに前のめりになった瞬間、かなかは翻り、鬼の肩へと一瞬で飛び上がる、その肩を鬼の踵微かに後ろを目指して全身で押し出した。滑るように鬼が前のめりに落ちた。
かぬかが涙を流しながら、強く息喘いだ。
「ちょうど良い方向と長さだ」
男は頷くと、驚いて退いた四体の鬼に語りかけた。
「確か君は銀髪烈鬼というのじゃなかったかな。なら、君達は鬼王を警護する者達だ。違うかい」
「そうだ」
鬼が重々しく答える。
「多分、さっきの小鬼に上手く言われたんだろう、無を倒すのは貴方方しかいませんとかさ」
鬼が無言で答えた。
「鬼王の警護がこれで甘くなる、小鬼は何か策略があったんじゃないかなぁ」
明らかに鬼達の顔に動揺が走った。
「何事にも優先順位がある。早く王の安否を確認するのが本来の君達の役目かもしれないね」
銀髪烈鬼が他の鬼に目配せをする。倒れた鬼も含めて四体の姿が消えた。
「最後に訊ねたい、お前はどうして己自身が戦おうとしない」
男は少し考え、あっさりと答えた。
「だって、弱い者いじめは格好悪いじゃないか」
瞬間、鬼が牙を剥き出しに男を睨んだ、鉛のような鬼の重い気が男を襲う、男は片手でそれを払うと、笑みを浮かべた。
「いつか、君がこの娘に勝てたら、その時は相手をしてあげよう。でも、この娘は強くなるよ君達が束になっても敵わないくらいにね」
鬼の姿が消えた、二人が地面に降り立つ。
「せ、先生」
「ん」
「は、ハードル上げ過ぎです」
緊張が解けたのか、膝から崩れるようにかぬかがしゃがみこむ、地面に尻餅をつきそうになる瞬間、男がかぬかを抱き上げた。
「白澤さんなら、余裕で勝てる相手だよ」
男が楽しそうに笑った。

「いいなぁ、かぬか。お姫様だっこ、いいなぁ」
幸が額を硝子窓に押し付け、男とかぬかを見つめていたが、はっと気が付くと、硝子窓から離れた。
「黒。お風呂の用意だ」
幸がお風呂の竈へと走った。


男はかぬかを椅子に座らせると、白に言った。
「かぬかの首の後ろ手を当てて暖めて上げなさい、もう片方の手で頭も支えるようにね」
「はい」
白は返事をすると、かぬかの後ろに立つ。
「小夜乃と三毛はかぬかの足をさすってやってくれ。あさぎはハーブティ、少し甘めのを用意してくれるかな」
四人は男の指示に素早く従う。男はほっと息を漏らすと、少し離れた椅子に腰掛けた。
なよも男の前に座った。
「鬼の世界でも派閥争いが活発になっているのかな」
「鬼の王もそれなりの歳じゃ、賑やかにもなろうて」
「なよの元亭主殿も、それだけ歳をとったんだね。あ、痛ったた」
ぎゅっとなよが男の頬をつねっていた。
「つまらぬことを言うでないわい」
なよは手を戻すと、呆れた顔をして、溜息をついた。
「要らぬことを父さんは知っておるのう。ま、今の奴のことなど、わしの知ったことではない。奴が権勢に溺れてしもうたのが、この成り行きのおおもとじゃ。わしとしては、民を殺された恨みは簡単には消えぬ。鬼の王がどうなろうと知らぬわい」
男は右手を伸ばすと、そっとなよの頭をなでた。
「なよに幸いがもたらされますように」
男はそっと笑みを浮かべると、小夜乃に声をかけた。
「小夜乃。かぬかと智里を連れて、なよとお風呂に入りなさい。沸いたようだ」
小夜乃は頷くとかぬかを立たせ、肩で支える、慌てて、智里も反対から支えた。
「なよ母様。お風呂、いただきましょう」
なよは、くっと顔を上げると、振り返った。
「ゆっくり風呂に入るとしよう」
男が見送る、白と三毛が男の前に座った。
「お父さん、どうしたらいいんでしょう」
深刻な顔をして、白が男に訊ねた。
「それは難しい質問だ。だってね」
言いかけて、男は言うのをやめた。
あさぎの注いでくれたハーブティを一口、飲み、白の眼をじっと見つめる。
「今まで通りの日常を送ること、それが大事だよ。そしてね、そのためにはどうすればいいのか。自分の持っている札、これから持つだろう札を考えて道筋を見いだして進むこと。学校や商店街、白を向かえてくれる場所は増えたと思う、白なりの道筋を考えてみなさい」
白は吸い込むように男の眼を大きく見つめ、そしてしっかりと頷いた。
「さぁ、白もお風呂に入りなさい。まだ、ちょっと肩が固まっているぞ」
男が片手で白の肩を払う、ほっと白は笑みを浮かべると、立ち上がった。
「お父さんも一緒に入っていいんですよ」
「はは。それは勘弁してくれ、父さん、恥ずかしがり屋だからね。最後、お風呂を洗いながら入るよ」

白を見送ると待っていたように三毛が男の前に座った。
「千客万来だなぁ」
「あ、あのね、お父さん」
「どうしたんだい、三毛」
「三毛も強くなりたいんです」
三毛がじっと男の眼を見つめた。
「実践経験は少ないけど、三毛は強いよ」
「でも、あんな大きな鬼となんて、どう戦えばいいかわからないです」
男は眼を閉ざすと、微かに俯く。
そのまま、呟いた。
「多分、幸は娘が鬼と戦うのを避けたいんだろうな、鬼と出くわしても大丈夫なように、その場を逃げることができるような方向で教えているようだ」
男は眼を開くと三毛に言った。
「黒はね、妹二人を守りたいから強くなりたいと言った。白は、強くなるのはもう充分だと思っているようだ、三毛は何故、強くなりたいのかな」
「それは・・・、強くなることが楽しいから」
三毛が困ったように答えた。
「人はね、自分が何かを得たら、それを他人に評価して欲しいと思う、基本的な欲求だ。それが、ごくたわいないものならいいんだけど、そうじゃない場合は大変なことになる。新しい力を手にいれたり、武器を手に入れると、使いたくなる。こんなに凄いんだよってね。そして、次はそれを所有する正当性を妄想し始める。三毛、それは良く覚えておきなさい」
「ごめんなさい」
三毛がぎゅっと目を瞑って俯いた。
男は深く溜息をつくと、柔らかな笑みを浮かべた。
「三毛、立ちなさい」
「は、はい」
慌てて、三毛が立ち上がった。
「幸の教えたなみゆい。舞にも似た動きだけれど、幸の使う武術の要諦が詰まっている。前半の途中、自然体から、両手を前に出して、右足を半歩出す一連の動きがあるだろう。それを、そこの広いところでやってみなさい」
言われた通りに三毛が動く。ほんの一分ほどの、とても滑らかで、一切の角を廃した舞だ。
「相当、練習しているんだな。しっかりと整っているよ」
「ありがとう、お父さん」
「どういたしまして。次はね、上半身の動きと下半身の動き、ちょっとだけずらしなさい。上半身をほんの少しだけ、先にする」
三毛は頷くと、もう一度、同じ動作を繰り返そうとしたが、すぐに足を滑らせ、尻餅をついてしまった。
「それが本来の浮脚だ。アイススケートってのは、氷とエッヂの間に解けた水があるんだけどね。つまりは浮いているからこそ、あれだけ速く移動できるんだ。今の三毛は初めてスケート靴を履いた子供だね」
尻餅をついたまま、三毛はぼぉっと男の言葉を聞いていたが、はっと気が付くと、男の顔を見つめた。
「お父さん」
「ま、ほどほどに頑張れ」
「うん。お父さん、ありがとう」
「どういたしまして。三毛も風呂に入って来なさい」
三毛も頷くと白の後を追った。
男がふっと吐息を漏らす。
「当分は頑張って生きるか」
男が呟いて、顔を上げると、あかねが笑みを浮かべて男の前に座っていた。
「三毛さんのことは、あかねが引き受けます。命にかけても、我を見失った三毛さんを引きずり戻します」
「まっ、そうならないことをまずは期待するよ。必ずそうなるわけじゃないからね。そうだ、あかねちゃん、さっきの、ちょっとは勉強になったかい」
「勉強になりました、自分より巨大なものとの戦い方が分かりました。空を移動する術も見ることができましたし、あとはできるように練習するだけです」
「あかねちゃんなら、すぐに出来るようになるだろう」
男は笑うと少し冷めたハーブティを少し口に含む。
「ところで、お父さん」
「ん」
男が顔を上げた。
「あかねのお願いも聴いてください」
「どんなお願いかな」
「お父さんはあかねちゃんと呼んでくれますけど、ちゃんを無しにして、あかねって呼んでください」

男が思い出すように言った。
「最初、うちに来た時、あかねちゃんと呼んで、それ以来だったね。いいよ、それじゃ、あかね」
「はい。あはは、家族になった気がします」
「言葉は難しいなぁ。ただ、あかねのお父さんやお母さんのことをないがしろにしちゃだめだよ」
ふと、あかねは眉を曇らせ俯いた。
「私は父や母にとっても酷いことをしました。私は娘失格なのですよ。たとえ、笑顔を浮かべてくれていても、本心は恐怖を抱いている、私が両親をそんなふうにしてしまったのですから、自業自得です。幸い、弟が生まれ、いま、妹が母のお腹の中です。私がいない方がいいんです」
「多分、両親は苦しんでいるだろう、素直に娘を抱き締めることができない自分自身にね」
「なら、苦しまないように離れてあげるのも親孝行です。鬼紙家にはたまに御祖父様の顔を見に行きますし、現当主の護衛役もすることがあります。御祖父様がいらしてくださる間は鬼紙家にも参りますが」
あかねは一層に俯くと、拳をぎゅっと握った。
「あかね。左手を出しなさい」
あかねが不安げに顔を上げ、左手をそっと差し出した。男は右手で握手をすると、左手で、あかねの手を包み込む。
「一つの拳よりも、手を二つ、繋いだ方が暖かいだろう」
「はいっ」
あかねが目を輝かせた。
「あかねにはたくさんの家族がいる。それをいつも心に留めなさい」
男は振り返ると、カウンターの裏にしゃがみこんで隠れているあさぎに声をかけた。
「あさぎ。出ておいで」
「えっと、いいでしょうか」
あさぎが恐る恐る顔を出した。
「話が深刻になって、ちょっと居ずらくて」
男がくすぐったそうに笑った。
「あさぎもあかねの手をぎゅってね、握ってくれ」
あさぎは柔らかな笑みを浮かべ、差し出されたあかねの手をしっかりと握った。
「あかね。これからいっぱい、お喋りをしよう」
「あさぎ姉さん、ありがとう」
あかねは手を離すと、じっと自分の手を見つめた。
「あかねは発見しました」
「何を発見したの」
あさぎがあかねの隣りに座り、訊ねた。
「あかねは案外単純で、とっても幸せなんだって」
あさぎはあかねに体を寄せると、ぎゅっと抱き締めた。
「ありがとう、あかね」
あさぎが呟いた。
男は笑うと、あさぎに言った。
「あさぎは、何か、悩み事はないかい」
あさぎは顔を上げると、男に笑みを浮かべた。
「ありましたけど、いまはなくなりました」
笑顔であさぎが答えた。

なよとかぬかが風呂から上がったらしく、あさぎとあかねも風呂へ入りに行った。
男はほっと息を漏らすと、少し冷めたハーブティを一口飲む。
「幸乃。血の繋がった家族じゃない、思いの繋がった家族は、たまに手を繋がないとならないのかも知れないね」
ゆらりと幸乃は男の体から出ると、隣りに座った。
「お前様。幸乃とも握手です」
にっと笑って、男が幸乃と右手で握手をした。
「幸乃、ありがとう」
「ありがとうとは」
「父さんの横にこうして居てくれることへの感謝、ということかな」
幸乃の頬が朱に染まった。
「まぁ。お前様は、ほんに女たらしですわ」
男は笑みを浮かべると、手を離し、目を瞑った。
「泣いたり、笑ったり、怒ったり、色んな声が聞こえる、とっても賑やかで楽しいんだよ」
「怒るのは主になよですけど」
幸乃が笑みを浮かべた。
「確かにそうだ、なよはカルシウムが足りないのかなぁ」
男はいたずらげにそう呟くと、目を開け、ハーブティを飲み干した。
「あさぎのハーブティも美味しい、これはあさぎの才能だな」

 

 

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異形六話

この温泉街の中でも一番の高級ホテル。廊下には、プレートを掲げた重厚な扉が並ぶ。ふと、幸は、何か用事を済ませた後だろう、少し先を歩く仲居に気づき、音をさせず走り寄ると、後ろから抱き締めた。
「あはは、だーれ、だ」
「お、お客様、困ります」
低い声で幸が囁いた。
「なんだよ、寂しいなぁ。あたしの声、忘れたのかよ」
「うっ、うわぁあ」
仲居は腰を抜かし、尻餅をついてしまった。幸は仲居の前に回り込み、にっと笑った。
「やっぱり、あの時の瞳さんだ。元気にしてた」
「は、はい。おかげさまで・・・」
幸もぺたんと廊下に座ると、目を逸らそうとする瞳をじっと見つめた。

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異形五話

ふぅっっ、深呼吸をする。
笑顔、笑顔、口元、そう、頬の上辺りを引き上げるようにして、そうすれば極上の笑みになる。
さぁ、行くぞ。
商店街の入り口、幸はぐっと握り拳を作ると商店街の中へと向かった。

「ええっ、スーパーの方が良いよ、買いやすいもの」
「だめ、幸はね、一人ででも色んな人と会ってお喋りしたり、自分の意志を伝えたり、そういう訓練しなきゃね、いつまでも、お父さんの後に隠れて買い物するわけにもいかないでしょう」
「でも、商店街っていちいち声を掛けなきゃならないし、スーパーなら何も喋らずに買い物ができるし」
「つまりはお喋りしなさいってこと、いいね」

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異形七話

窓からの月明かり、瞳はそっと幸の寝顔を見つめた。
幸と瞳はこの十日間、一つの部屋に布団を二つ並べ寝ていたのだ。
明日が、ちょうど、十日目、明日の昼には幸に付き添われ自宅へと戻る予定だった。

瞳は上半身を起こし、そっと幸の顔を覗き込む。
月明かりに照らされた幸の、なんて神々しく美しい、それは人の域を遥かに越えた美だった。

「キスはやめてくれよ。あたしは父さん、一途なんだからさ」
幸は目を開けるとにっと笑った。
「ごめんなさい、起こしてしまって」
「いいさ、こんな奇麗な月を見ずに寝るのはもったいない」
窓からの月は冴え冴えと部屋の中を照らし出す、充分な明るさだった。
幸は立ち上がると、瞳に待ってなと言い残し、台所へ。そして、お盆にマグカップを二つ載せ戻ってきた。

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異形十話 最終話

花見と言っても、桜の花を愛でるというような風情はない。所狭しと屋台の並んだ先、公園を一歩入れば、満開の桜が青い空をその無数の花びらで見事に遮ってしまう。
しかし、一度、視線を落とせば、ビニールシートの青が辺り一面、賑やかな花見客が持参する小さな空にあちらこちらと埋め尽くされている、まるで、空にいるようなものだ。
男はビニールシートの端に座り、缶ビールを少しずつ飲んでいた。商店街の花見、幸がしばらく前から、週に一度、魚弦で1時間ほどだが、手伝うようになり、そのよしみで男も商店街の花見に参加したのだった。
「先生が来てくれるなんてびっくりだよ」
洋品店の女店主が男の前で笑った。しばらく前に膝を痛め、折り畳みの座椅子にすわっているのだが、それが正座する男の背の高さにあい、ちょうどいい話し相手になっていた。

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異形一話

深夜の街を一人の男を背負った、裸の女が歩く。
雨が降りしきる人通りの絶えた街。
よろよろと倒れそうになりながらも歩き続ける。柔らかな部屋の中でしか歩いたことのなかった女の足は既に血だらけとなり、それでも、歯を食いしばり耐え続ける。
濡れた髪が女の顔を隠す、しかし、微かに覗くその口元には荒れる息と共に笑みがあった。

息が出来ない、心臓がどくどくする。
あぁ、私は生きているんだ。
私に生命を分けてくれた人、この恩、いま返します、これが私の約束。

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異形三話

「お父さん、もう寝た」
そっと呟く。
枕を抱え、幸はそうろと、男の部屋の襖を開けた。もう一緒の部屋に寝るのは卒業しなさいと男は幸に隣りの部屋をあてがったのだった。
男は心配していた。幸は既に呪術についても、武術についても男の能力を超えていた。
男はそれを素直に喜んだのだが、一つの問題が残ったのだ。幸は変わらず、極度に父親への依存を残していた。慕ってくれる娘はとても可愛い、だが、考えるの は、あの魔物は幸を拘束し、自らの道具として扱った。自分自身はどうなのだ、幸を独立し自我を確立させた一人の人間として育てるべきではないか。今のまま では、俺はあの魔物と対して変わらぬ扱いを幸に為しているのではないか。

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異形四話

闇の中、男は頭を抱え悩んでいた。
一体なんてことを、俺はしたのか。
それは旅行の夜だった、自分の前に幸を座らせ、その幸の浴衣を脱がしてしまった、滑らかな肌、その時の甘い感触が指に残る、もちろん、父親としてそれは許 される行為ではない、ましてや、幸がいてくれないと生きていけないなどと、幸の心を縛ってしまうようなことを言ってしまった。そうだ、もしも、幸に異変が 起こらなければ、間違いなく、幸を最後まで・・・。
心が不安定だった、それは確かだ、しかし、それは醜い言い訳だ。
幸はどれほど傷ついただろう、幻滅したろう。

「おーい、お父さん、一緒に晩御飯作ろぉ」
襖が開き、幸が男の部屋を覗き込んだ。

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異形二話

「うわぁぁっ、お父さん、お父さん、お父さん」
女の悲鳴に男が駆けつけた。男の税理士事務所兼自宅の一室での出来事だった。
女はぶるぶると震え、部屋の片隅にうずくまっていた。
「大丈夫、もう大丈夫」
男は女を抱き締めた。
「お父さん、お父さん、お父さん、どこ」
「ここにいる、ここにいるよ」
女の荒い息が少しずつ収まり、震えが止まる。泣き濡れた眼差しで男を見上げた。

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異形八話

「お父さん、好きな人ができたの。結婚を前提にお付き合いしていて・・・」
深刻な顔をした幸の唇から言葉がこぼれて行く。夢ではない、現実に俺の前に幸が立っている。
昼過ぎ、台所で珈琲を飲んだ後のことだ。椅子から立ち上がろうとしたところに、幸の告白。
いつの間に・・・、いや、いまはそんなことを考えている場合じゃない、俺はどう答えればいい。何か言わなきゃならない。なんて言うんだ。
まさか、こんな言葉が幸の口から出るなんて思いもしなかった。俺は、俺は・・・。
俺は幸の父親だ。そう、幸の父親なんだ。

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遥の花 藍の天蓋 三話

駅の改札を出た。
「竜之介君、とうとう黒さん宅へ来たよ」
笑は肩に乗った竜之介に声をかけた。
竜之介は頭を少し上げると、辺りを見渡した。
改札から出ると、ごく普通の商店街だ。たくさんの人が行き交う、日曜日のお昼前。
笑は大きく深呼吸をし、よいしょっと、肩に掛けた鞄をたぐし上げた。
「暖かい日曜の朝、見上げれば青空、気持ちいいね」
竜之介が囁くように言った。
「笑、少しは緊張しろ。術者達は無を畏れているが、同時に無を倒せば、国の指導者達に自分を売り込むことができるということも知っている。油断しているとまきぞえを食らうぞ」
「う、うん。わかった、緊張することにする」
笑はぐっと両手を拳に力を込めたが、ふっと力を抜くと龍之介に行った。
「黒さん、朝ご飯は食べないでね、美味しいの用意しているからって、言ってくれたけど、お腹すいたなぁ」
「笑が寝坊した、それだけのことだ」
「起こしてよ、もう」
「気持ちよさそうに寝ていたからな」
「寝顔が可愛くて起こせなかったとか」
「種族が違うからな、美醜はわからん」
「冷たいなぁ、龍之介くんは」
笑は楽しくてたまらないと笑顔を浮かべた、そして、辺りを見渡す。
「迎えに来てくれるって」
笑が呟いた、ふっと笑の視線が固まった。
「凄い綺麗な人だ。モデルさんかな、さらさらの金色の髪、白磁の肌、紺碧の瞳、こんな綺麗な人っているんだなぁ」
やわらかに歩いてくる女の美しさに同性である笑の心臓が少し高鳴る。
「あれは人じゃない、気をつけろ。笑」
龍之介は呟くと、微かに姿勢を起こす。
「大丈夫ですよ、敵ではありません」
龍之介の姿勢を察知し、女が笑みを浮かべた。女は二人の前まで来ると、愛くるしく笑顔を浮かべた。
「初めまして、黒さんから聞いています。笑さんと龍之介君ですね。私は夕子と言います」
笑が安心して笑った。
「初めまして、今日はお招きいただきありがとうございます」
笑みに反して、龍之介は夕子を睨みつけたまま呟いた。
「何者だ、お前」
「だめだよ、龍之介君。失礼だよ」
慌てて言い繕う笑を無視するように龍之介は夕子を睨みつけた。
「なよさまが私を使いに出した理由がわかりました。龍之介君が笑さんの守護者に値するかどうか、面識のない私にどう対応しようとするかで、確認したかったのでしょう」
微かに龍之介が唸り声を上げた。
「今のところ、守護者として及第点に達していますよ。少し遊びますか」
にぃぃっと夕子が微笑んだ。
「強いな、お前」
龍之介が呟いた。
夕子は半歩下がると、視線を龍之介に向けたまま、小さく頷いた。
「強いですよ。いまはなよさまのしもべですが、元は武装天使。たとえ神の名を持つとしても、獣に負けるわけにはいきませんわ」
龍之介は夕子を睨みつけたが、ふうと力を抜くと、器用に笑った。
「俺の負けにしてくれ。俺の大事は勝つことじゃない」
夕子は万遍の笑みを浮かべ、頷いた。
「龍之介くんは尊敬するに値します。私的には、笑さんの守護者合格です」
すいっと、夕子は笑の手を握ると歩き出した。
「行きましょう、お二人が素敵な方達で良かったです」


凄いことだ、笑は夕子に手を引かれながら思う。
天使に導かれているんだ、いえ、ネロやパトラッシュじゃなくて、決して天国に行くわけじゃないけれど。そして、目の前で夕子さんの髪の毛が日差しにきらきら光っている。とっても奇麗だ、なんだか、気持ちがふぁっとしてきそう。このまま、天国に導かれるのもありかもしれない。
「おおい、夕子ちゃーん」
その声に夕子が立ち止まり、振り返った。
「恵子さん」
夕子が笑顔を浮かべた。恵子は走り寄ると、興味深そうに笑と龍之介に目をやった。
「この子たちが、昨日、黒の言ってた、笑さんと龍之介君かい」
「初めまして。笑です」
「私は恵子。えっと、どういうんだろう、一週間に二日は先生宅で暮らしている。そして、黒の母さん、幸ちゃんの二番弟子、そんなとこかな」
「素敵で優しいお姉さんです」
夕子が恵子の言葉を繋いだ。
「あんたも強いのか」
龍之介が呟いた。
「え、あたし。あたしは強くない、強くない。あたしは農業要員、畑仕事を手伝うだけだよ」
恵子は手を振ると、愉快に笑った。
「それじゃ、あたしは佳奈さんとこ、寄っていくから、後でね」
恵子は手を振ると商店街へと走って行った。
「あいつの足の運び方、相当なもんだぞ」
龍之介が呟いた。
「恵子さんは人の領域をとっくに越えています。でも、幸さんになよさんにあかねさん、ずば抜けていますからねぇ」
夕子がほっと溜息をついた。
夕子は佳奈の名前を聞いて、少し緊張していたのだ。佳奈から自分の息子の嫁になってくれと頼まれていたからだった。もっとも、それについては、幸が一言で拒否したのだけれど、それでも、夕子は佳奈に少しばかりの苦手意識を抱いていた。
しばらく歩き、あさぎの喫茶店が見えてきた。
「あそこですよ」
夕子が笑に言った。
「なんだか、いい雰囲気ですね」
笑は単純に喜んだが、龍之介は緊張した。なよや、それよりも強いという幸、なによりあの無がいるわけだ、緊張しないわけがない。
喫茶店に入ると、あさぎが笑顔で三人を迎えた。
「三女のあさぎです。どうぞ、座ってくださいな」
あさぎは笑をカウンターに座らせると、夕子に言った。
「どうだった、初めてのお使い」
夕子がくすぐったそうに笑った。
「ここに来てから、初めての外です。刺激はありますけど、うちが一番かな。はぁ、やれやれ」
あさぎが楽しそうに笑う。夕子も、笑も隣の席に座った。
「ハーブティいれるね」
ふっと、夕子が席を立った。
「黒さん、呼んでこなきゃ」
夕子が奥へと走った。
「あ、あの」
笑があさぎを見上げた。
「えっと、初めまして、笑です。そして、こっちが龍之介です」
笑が龍之介を指さした。
「初めまして」
あさぎが龍之介に笑いかけた。
「笑さんのボディガードさんですね。お疲れさまです」
「いや、俺はたいして役立っていない」
龍之介が呟いた。
「笑さんは楽しそうですよ、なら、龍之介さんは役立っているし、あ、でも、多分、笑さんは龍之介さんがいてくれるだけで、幸せなんじゃないかな」
あさぎの言葉に笑が目を輝かせた。
「そうなんですよ。彼氏と同棲している気分なんです」
男が笑の隣りの座席で笑った。
「単純に笑さんの護衛と考えていたんだけどな。なんだか、映画みたいだね」
「え、お父さん」
「私にもハーブティを頼むよ。さっきから座っているのに、無視されて父さんは哀しい。男親はだめだなぁ」
驚いてあさぎが男を見つめた。
「娘の前で気配を消さないでください」
あさぎは笑うと、男の前にハーブティを置いた。
あわてて、笑は立ち上がると、男に深く頭を下げた。
「あの、助けていただいて、本当にありがとうございます」
「どういたしまして、元気そうで何より」
すっと、男は龍之介を見つめた。龍之介は極度の緊張状態だ、石のように固まってしまっていた。
「素敵な彼女ができた気分はどうだい」
いたずらげに男が笑った。
「ふ、ふ、ふつつかものですが、こ、今後とも。あ、いや」
龍之介が口ごもった。
男は楽しそうに笑うと、ハーブティを飲み干し立ち上がった。
「ゆっくりしていってください。私は部屋に戻るよ」
自在を杖代わりに男は部屋へと戻る、ほぼ、同時に黒がお店に飛び込んで来た
「笑さん、龍之介君、ようこそ」
黒は片手にひとかじりした御煎餅をもったまま、笑顔を浮かべた。
「黒さん、お招きありがとうございます」
黒は友人を家に招くのが初めてだったこともあり、なんだか、照れてしまってうまく言葉が選べない、あさぎが黒に声をかけた。
「一緒にご飯食べるって言ってたよね。黒も座って。美味しいのつくるからね」
黒が目を輝かせてうなずいた。


黒は食べ終えた後、少し用事をすませてくるから出かけていった。
笑と竜之介は広間の縁側にほぉっと座る。目の前に畑と田圃が広がり、その向こうはひたすら梅林だ。
「子供の頃、父さんから、術師の桃源郷の話を聞いたことがある。それって、こういうことなんだねぇ」
「俺が住んでいたのも、こういう、笑とは別の世界だった。もう、古い話だ」
竜之介が笑の隣でつぶやく。ただ、意識は背後を探っていた。
「やっぱり、気になるよね」
竜之介がゆっくりと頷いた。
広間の片隅に布団が敷かれ、女の子が寝ていたのだ。
「黒さん、自分のお母さんだって言ってたよね。十日前におじさんが帰って来るのに合わせて、十日したら起きるからと寝たきりだって」
「つまりは今日、目覚めるわけだ」
竜之介が呟いたとき、畑から小夜乃が走ってきた。
「こんにちは。笑さんと竜之介さんですね」
小夜乃は笑の隣に座ると微笑んだ。
「初めまして。小夜乃と申します」
「あ、なよさんの娘さん」
小夜乃が頷いた。笑は額に絆創膏を貼り、肩に文鳥を乗せた女の子を見ると、なぜだか、緊張がふっと消えた。
「初めまして。えっと、お母さんにはとてもお世話になっております」
「ご迷惑をかけていなければいいのですが」
ちょっといたずらげに、小夜乃が笑みを浮かべた。
「かわいい鳥だね」
「文鳥の実朝です。竜之介君と同じで、私を護ってくれています」
布団の動く音がした。
笑と小夜乃が振り返ると、幸が布団から上半身を起こしていた。
「おはよう、小夜乃」
抑揚のない声で、幸が言った。
「おはようございます。幸母さん」
「うん、よく寝た。そちらの方は」
「黒さんのお友達です」
「そうか」
幸は起きあがり、笑のところまで歩いてくると、正座して頭を下げた。
「黒の母、幸です。黒がお世話になっています」
あわてて、笑も向き直ると、足を揃えた。
「こちらこそ、大変お世話になっています」
幸はじっと笑を見つめ、そして、竜之介を見つめた。
「これも縁というものだろうな」
幸は誰に言うでもなく、呟くと、小夜乃に囁いた。
「お父さん。私のこと、怒っているだろうな」
「怖いですか」
「怖い。いや、それ以上に申し訳ないんだ。十日の間、父さんと出会った瞬間からの今までを思い返していた。私はつくづくだめな奴だよ。恩を仇で返してしまった」
幸はゆっくりと立ち上がると小夜乃に言う。
「とにかく、お父さんに謝ってくるよ」
小夜乃はじっと幸の目を見つめ、そして、笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ、幸母さん」

幸は男の部屋の前に立つと、腰を降ろし正座した。そして、ゆっくりと頭を下げる。
襖を開け、男は困ったように笑みを浮かべた。
「幸は真面目だなぁ」
男は呟くと、幸の前に同じく正座する。
「お早う、幸」
男の言葉に幸はゆっくりと顔を上げた。
「私は悪い娘です。お父さんを傷つけてしまいました、殺そうとしました」
「困ったね。父さんは悪者で、殺されるというか、正義の味方に成敗されてもしょうがない奴で、でも、できれば、何処かの知らない人に成敗されるより、幸に殺される方がいいかなぁって思っていたりするんだけどね」
「お父さんは良い人だ」
幸が叫んだ。
「なら、左手を出しなさい」
幸が恐る恐る左手を差し出した。男がその左手をしっかりと握る。
「幸もぎゅっと力を入れなさい」
男の言葉に幸は手にぎゅっと力を込めた。
「片方が握っているだけじゃだめなんだ。お互いがぎゅっと手を握って初めて繋がったことになる。父さんは幸の手をこれからもね、ぎゅっと握るから、幸も父さんの手をしっかり握っていてくれ」
幸はもう片方の手を添え、宝物のように胸に抱いた。
そして、呟く。
「今も私はお父さんの娘でしょうか」
「幸は父さんの大切な娘だよ、ずっとね」
「幸、父さんの右に座りなさい」
男の言葉に、急いで幸は男の隣りに正座した。男が左手を前に出す、それを見て、幸は右手を前に差し出した。
「いいかい」
「はい」
幸が元気よく答えた。ぱんと二人がそれぞれの手を一つに打ち合わせた。
「仕切り直しだ、よろしくな、幸」
「こちらこそです、お父さん」
幸が満辺の笑みを浮かべた。
男が店の方角を見た。
「幸。あさぎがお客さん一杯で大変だ、手伝ってきなさい」
幸は頷くと、男をぎゅっと抱き締め、そして、あさぎを手伝いに店へと行った。
男は柱にもたれ掛かると、小さく呟いた。
「行ってしまったか、それでいいよ、幸。そうだ、幸乃、いいかな」
慌てて、幸乃は男の体から飛び出すと、向き直って、頭を下げた。
「おまえ様。幸を許していただきありがとうございます」
「許すも許さないもないよ。幸は大切な自分の娘だからさ」
男は膝をつき、頭を深く下げている幸乃に笑いかけた。
「幸乃も生真面目だなぁ、顔を上げてくれ」
戸惑うように幸乃が顔を上げた。
「幸も少し見ないうちに随分大人になったね、見かけが子供だからかな、少し戸惑うよ。それは、父親としては少し寂しいけれど、娘の成長は素直に嬉しい。みんなのお陰だな」
男は小さく溜息をつくと、いたずらげに笑みを浮かべた。
「幸乃。お前に体を用意しようと思う」
男の言葉に、幸乃は驚いて目を見開いた。
「もっと早くに、幸乃の気持ちに気づいて、体を作ってやれば良かった」
幸乃がぼぉっと男の顔を見つめる。
「体を」
いきなり幸乃は強くかぶりを振った。
「だめです。お前様、指を使うおつもりですね」
「そうだよ」
男は残った左手に目をやった。
「幸は小指。幸乃は薬指。いいんじゃないかな」
「だめです、だめです。もうこれ以上、お前様の体を傷つけることなどできません」
幸乃が叫んだ。
「ま、感情を高ぶらせずに聞いてくれ」
男は気楽に笑みを浮かべると言った。
「私は幸にとって、どうしても必要な人間ではなくなった。そして、私の体は確実に衰えた。私は自分が死んだ後、幸を泣かせたくなかった、それが一番の気掛かりだったのだけれど、その心配もなくなった、あとはみんなに任せれば安心だ。なら、梅林の向こうにでも、小さな小屋を作って一人で生きるのもありかなと思うんだ。ただ、私の頭の中にはホンケ初代からの記憶が詰まっている、この記憶を私の代で終わらせてしまうのは辛い。だから、体を作るのと一緒にその記憶を幸乃に継いでもらおうかなと思うわけだよ」

縁側にて、あかねも笑の隣に座った。十羽ほどの鶏があちらこちらで草をついばんでいる。三毛に頼まれて、鶏を運動させるため、十羽を引き連れ歩いた帰りだった。
「なよ姉さんが言ってました。笑さんに糸を染めてもらおうって」

「そ、それは困ります」
慌てて笑が言った。
あかねがくすぐったそうに笑った。
「もう、こりごりって感じですね」
笑も仕方無さそうに笑みを浮かべた。
「命のやり取りが日常の世界はもう勘弁してくださいって気分ですよ」
あかねがふっと思いついた。
「母親が機を織る、娘が染めた糸で。これ、いいかも」
あかねの言葉の意味を笑が理解した。
「そうです、そうです。小夜乃さん、私から染色を学んでみませんか」
唐突な話の展開に小夜乃は驚きはしたが、それはやってみたいと強く思った。ただ、戸惑う。
「あの、私は人ではありません、それでもいいのでしょうか」
「えっ」
「私、角のある鬼です」
そっと、小夜乃は人差し指で自分の額を指さした。
「角が伸びたら、幸母さんに切ってもらっています」
笑がぱたぱたと手を振った。
「それは問題ないです。種族より性別です。男でなければいいです」
笑があっさり過ぎるほど簡単に答えた。
「もう私はすっかり男性恐怖症ですよぉ。初めて出来た彼氏に裏切られて殺されそうになったんですよ。龍之介君が一緒じゃないと、怖くて街も歩けません」
あかねが大袈裟に溜め息をつく、
「うちにも筋金入りの男性恐怖症の姉がいます、大変だ、回りが」
あかねの言葉になよが大笑いした。いつの間にか、なよがあかねの隣りに座っていた。
「確かにそうじゃ、振り回されて大変じゃわい」
「なよ母様」
小夜乃は立ち上がると、なよの前に立った。
「笑に教えてもらえ。ただし、わしは厳しいぞ」
ぎゅっと睨むなよに、小夜乃はしっかりと頷いた。
あかねは席を立つと、小夜乃に座らせ笑みを浮かべた。
「あさぎ姉さんのように、何か一つ、秀でたものがあると、それが自信になります、良かったですね」
「こら、あかね。わしの取って置きの台詞を取るのではないわ」
あかねはいたずらげに笑うと、鶏を引き連れ鳥舎に戻った。

鳥舎では、かぬかが鍬で鶏糞を集めては、浅い木箱に移していた。乾燥熟成させて、肥料にするのだ。
土間であることを除けば、人が普通に住めるほど、清潔にしてある。
「鶏を入れていいですか」
あかねがかぬかに声をかけた。
「どうぞ、入っていいよ」
かぬかが返事をすると、あかねが扉を開ける、鶏が次々と入って行く。
「三毛さんの教育の賜物ですね」
「うん、鶏の教育、躾っていうのかなぁ。それに、ほら、壁にも埃一つないよ」
感心したと、かぬかが頷いた。「三毛はまだ帰ってこないのかな」
「三人で佐倉家を探りに行きましたから、まだ、しばらくは帰ってこないと思います。私はそうだな、一と二の草を覗いてみるかな」
「あ、あのさ」
かぬかが戸惑うようにあかねに言った。
「連れてってくれないかな、一緒に」
あかねはにぃぃっと笑みを浮かべると答えた。
「かぬかさんはホンケからのお預かりの方。うっかり、怪我でもさせようものなら、白澤さんに大目玉ですよぉ」
「意地悪だよ、あかねさんは」
泣きをいれるかぬかに、あかねが微笑んだ。
「では、行きましょうか、かぬかさんは、命にかけてもこのあかねがお護り申し上げます」
「頑張る、足手まといにならないようにする」
かぬかがぎゅっと力を込めて言った。

智里と夕子、二人、畑の端、畦に座って、ぼぉっと空を眺めていた、空は透き通るように青く、真っ白な雲がいくつか流れて行く、空の高みでは風が速いようだ。
「少し早いですけど、お弁当にしますか」
智里が言った。
夕子は嬉しそうに笑うと、風呂敷を解いて、大きめのタッパーと水筒を取り出した。
「皆さんと食べるお昼も楽しいですけど、こんなふうに外でお弁当を食べるのも大好きです」
夕子はタッパーを開けて、智里に差し出した。
「いただきます」
智里はタッパーからおにぎりを一つ出すと、ほお張った。

「あさぎさんのおにぎりは食べやすい堅さで具も美味しいし、大好きなんです」
智里は穏やかに笑みを浮かべた。なんて、幸せなのだと思う、こんな酷い自分がこんなにも幸せで良いのか、許されるのか。
「ど、どうしたのですか、智里さん」
智里が泣き出したのを見て、夕子が慌てて声をかけた。
「私のような悪人が、こんなこんな」
ぼろぼろに泣き崩れる智里に夕子は戸惑った。
思い切って、しっかりと智里を抱きしめた。
「いいんです、いいんですよぉ」
なんだか、夕子まで泣き出しそうになる、そんな二人をなよは呆れ顔で見ていたが、二人の頭を軽く叩いて言った。
「いつまで泣いておる、しっかりせんか」
「は、なよさま」
驚いて、智里は袖口で涙を拭くと顔を上げた。
なよは背中に背負った大きな竹かごを地面に降ろすと、智里にハンカチを差し出した。
「これで涙を拭け」
「い、いけません、ハンカチが汚れます」
智里の言葉になよが言葉を重ねた。
「同じことを二度言わせるな」
申し訳ありませんと、智里は謝ると、なよのハンカチを受け取った。
「夕子よ、なぜ、お前まで泣く」
「え、あ、あの、わかりません」
夕子が仕方なさそうに俯く。
「夕子さん、ごめんなさい。私、時々、こうなってしまって」
「ま、智里よ」
なよが言った。
「泣き出す間隔は随分広くなった、そのうち、なんとかなるわい」
なよはにかっと笑うと二人の隣りに座った。
「家から種芋を持ってきた。二人が耕してくれた畑に昼から植えるからな、今のうちにしっかりあさぎのおにぎりを食って休んでおけ」
なよは隣りでおにぎりを頬張る二人を楽しそうに眺めた。
しばらくして、男が畦道を杖をつきながら歩いてきた。
「せいがでるね」
男が笑った。
男はなよのところまで来ると竹籠をのぞき込んだ。
「じゃがいもだな。これは楽しみだ」
「父さん、何処に行く」
「ん、リハビリ兼ねての散歩だ。なかなか、いい感じで歩けるようになったよ」
「幸はどうした」
なよが眉をひそめた。
「あさぎを手伝っているよ。この時間、店はいっぱいだし、かぬかも出かけたからね」
なよは少し俯いたが、顔を上げると男を睨みつけた。
「父さんは家で皆と暮らす、違えてはならんぞ」
「なよは聡いなぁ、大丈夫、散歩だけだよ」
男が仕方なさそうに笑った。
なよは智里に目を向けると言った。
「智里、父さんの供をせい。ついでに術の一つも教わってこい」

わけがわからないまま、智里は男の後ろを歩く。畑を越え、梅林の中程を歩いていた。この向こうは川が流れている。
考えてみれば、智里は男と二人きりになるのは初めてだった。希代の魔術師、神とも正面きって戦うことの出来る男と聞いていた。ふと、男が立ち止まり、振り返った。
「智里、横を歩いてくれるかな。後ろを歩かれると、なんだか見張られているようで落ち着かないからさ」
「申し訳ありません」
慌てて、智里は男の隣を歩いた。
川にでると、流れにそって上流へと歩く。緩やかな坂道だ。
「私はさ、何処か小さな小屋を建てて、一人で暮らすのもありかなと思っていたんだけど、なよに見透かされてしまった」
「それはどうして」
男がくすぐったそうに笑った。
「格好悪いから秘密にしておくよ」
男は立ち止まると、回りを見渡した。
「そこに座ろう」
水楢の木の根本に男は座ると、幹に背を預けた。智里も少し離れて隣に座った。
「まだ、完全じゃない。疲れると、左右の連動があやしくなるなぁ」
男は呟くと、智里を見た。
「智里。刃帯儀は使えるようになったかい」
ふわっと智里が両手を前に差し出す。細い帯がゆるゆると頭の上で円を描いた。
「これが精一杯です」
智里が仕方なそうに笑みを浮かべた。
「なんだ、動くじゃないか。ああやって動くだけでもたいしたものだよ」
「でも、まだ。これでは役に立ちません。刃とは言えません」
「動きが鈍いのはしょうがない。だって、智里自身が動かないように押さえつけているんだからね」
男は左で頬杖をつくと、楽しそうに笑った。
「それは」
智里は驚いた。いったい、それはどういう意味なんだろう。
「あの帯は智里の腕と同じだ。ならさ、智里はさっきのおにぎり、どうやって食べたんだい」
「それは、タッパーから取り出して、それを」
男は嬉しそうに笑った。
「おにぎりをタッパーから取り出すのに、腕の動きなんかいちいち考えないだろう。刃帯儀も同じだ、動かそうとするんじゃない、考えなくてもそのように動くものなんだよ」
一瞬、智里の口から、あ、という小さな声が漏れた、その瞬間、刃帯儀が加速した、唸りを上げ回転する。
「目で追えません」
智里が叫んだ。
「でも、どんなふうに動いているか、その刃帯儀は智里の一部だ、わかるんじゃないかな」
「わかります」
目では追えないけれど、智里は自分が自分の腕を動かすくらいの確実さでその動きを感じ取っていた。そして、止まれと強く念ずる、刃帯儀は停止し、智里の袖口に戻った。
そして、智里は男に駆け寄ると、男の前にひざまづき頭を下げた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
男は気楽そうに笑みを浮かべると、左手の先を智里の額に当てた。
「一つ、便利な術を授けておこう。でないと、なよにけちだと言われかねないからね」
瞬間、衝撃が走った、智里が尻餅をついた。
「見えます」
智里が呟いた。
「術の手順と完成形の記憶だ。一から修行すれば十年はかかるだろうけど、熱心に練習すれば一ヶ月でなんとかなると思うよ」
ふと、男は横を向くと、視線を遠くに向けた。
「小夜乃と笑さんだ」
ゆっくり立ち上がると、男は智里に声をかけた。
「立ちなさい、小夜乃と笑さんが来る。せっかくだ、合流しよう」
智里は素早く立つと、男の見た方向を見つめる、でも二人の姿は見えない。
「遠見だよ、幸やなよが使うだろう。二、三度見れば仕組みがわかる、そうすれば使えるようになる、術なんてそんなものさ」
男も二人を迎えるように立ち上がった。
「喫茶店の常連さんで、香坂さんっているだろう」
智里は戸惑いながらもうなずいた。
「あさぎにブルーベーリーパイを作ってもらって、それをお土産に、一度、相談に行きなさい。彼女は智里の先輩みたいなもんだから、気持ちのこととかね、相談にのってくれるだろう」
驚いて、智里は息を飲んだ。
そして、声をあげようとしたとき、小夜乃の声が響いた。男と智里を見つけた小夜乃と笑が駆けてきたのだった。

智里は二人と合流し、彼女も染色の話を笑から聴く。男は、一人部屋に戻ると椅子に座る、そして背中を背もたれに預けた。
「ちょっと、はしゃぎすぎたかな」
男は深く息を吸い、そして、ゆっくりと吐く。そして、左手で服の上から心臓を軽く押さえた。
ふと、男は手を離すと襖の向こうに目をやった。
「いいよ。入っておいで」
男の声にゆっくりと襖が開く。
「お父さん、具合はどう」
黒、白、三毛が部屋に入って来た。
「大丈夫。元気だよ」
いきなり、白は男の後ろに立つと、両手を男のお腹に当てた。
「顔が土気色です。内蔵も冷えています」
白の両手がすっと男のお腹の中に消えた。
「内蔵を温めます」
そして、白は少し顔を上げ、二人に言った。
「黒姉はお父さんの首から肩をさすって。三毛は右足を」
二人も男に駆け寄った。
「極楽、極楽。熱い温泉に入っているみたいだ」
「お父さんはお気楽すぎます。内蔵が冷えきっているんですよ、いま、中から温めています」
白が両腕を男の体の中に差し入れる。
やがて、白は手を男の体から抜き出すと、一息、大きく息をついた。
「ありがとう、黒も三毛ももういいよ。血の循環が良くなった。体がほかほかする」
男が笑顔を浮かべるのを見て、三人はほっと息を漏らすと、男の前に並んで座った。男も目の高さが同じになるように、椅子から床に座りなおした。

「三人で笑さんの実家を見てきたんだったね。どうだったかな」
男の言葉に黒が顔を上げた.
「鬼がいました」

 

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遥の花 藍の天蓋 蛇足 神の剣

すいっと男は剣先を躱すと、幸の背中に回り込んだ。
「なんていうかな、父さんは悪人だ、誰に殺されても仕方ないかなと思っている。だから、知らない奴に殺されるよりもさ、幸に殺される方がいいかなと思っていたんだけどね、でも、ここが崩壊してしまうことは避けたいと思うんだよ」
駆けてくる足音、三毛が息をきらしながらやって来た、幸はすっと刀を消すと姿を消した。
「お帰りなさい、お父さん」
満辺の笑みで三毛が言った。
「やぁ、三毛。元気にしていたか」
「はい」
三毛が大きく頷いた。
「二週間ぶりだなぁ、帰って来たのは。そうだ、三毛。羊小屋を見せてくれないか」
三毛は照れながらも笑みを浮かべると、男の手を引っ張った。
八畳ほどの小屋だ。壁は板張り、二方向に窓があり、思ったよりも明るい。男は三毛とこの小屋を造っている際中に、ここを出て、鬼と戦うことになったのだった。
二頭の子羊が小屋の外で草を食んでいる。
部屋の片隅に小さな机と椅子がある。
「ここは三毛の秘密基地だな」
三毛は照れたように笑うと、机の上にあった帳面を男に差し出した。
表書きに、観察記録とある。
男がページを繰る。天気、気温、湿度、山羊の体温、食事量、事細かに書き込んであった。
「山羊愛に溢れているなぁ」
男が楽しげに笑った。
「お父さん」
三毛が真剣な顔をして、男を見つめた。
「幸母さんからお父さんを守るよ、必ず」
男はくすぐったそうに笑うと、三毛の頭を軽く叩いた。
「だめな親だ、娘にこんな心配をかけるなんてな」
男は溜息を漏らすと、窓から外を眺めた。畑の向こう、梅林が続く。
「そうだ。夕子さんとはまだ話をしてなかったな。川で釣りをしているようだ。ちょっと行ってくるよ」
歩きだした男のために、三毛が急いで扉を開けた。外では仲良く二匹の山羊が草を食んでいた。
三毛も男の横を歩く、そっと男の腰の上に手を添える。杖を足代わりに器用に歩く男を見て、三毛が涙ぐむけれど、それを隠すようにして言った。
「夕子さん、とてもいい人だよ」
「そりゃ、そうだ。なんて言ったって天使だからね」
「お父さん。夕子さんの羽根を見た」
「まだだよ。でも、なよが言ってたよ、なよが自分の名前を羽根に書いたとか」
「ひどいよ。羽根の色が白くなってきて、余計に文字が目立つようになったんだから」
三毛が嬉しそうに笑った。
「でも、夕子さんはそれを喜んでいるんだろう」
「うん」
三毛が元気に頷いた。
「なよは他人を引き付ける魅力を持っている。だから、夕子さんも羽根の名前が誇らしい、そう思うんだろうな。知里さんなんか、なよに心酔しているものな」
「なよ姉さんは、怒ったら、とっても怖ろしいけど、だからこそ、とっても優しい人なんだなって思う」
男は少し驚いて、三毛を見た。
「三毛もちょっと見ない間に、しっかりしたなぁ」

三毛が恥ずかしそうに笑った。
「お父さんに褒めてもらえるのが、一番嬉しいです」

川辺に行くと、夕子が土手で釣りをしていた。土手から一メートルほど下のたっぷりとした水の流れに糸を垂れている。
「夕子さん、釣果はどうかな」
男の声に驚いて夕子が振り返った。
「あ、あの。ひょっとしてお父さんさんですか」
夕子の声に男が頷いた。
夕子は慌てて竿を置くと、男に駆け寄った。
「初めまして。ここで生活させていただいています。夕子です。本名は」
男は笑みを浮かべて首を振った。
「だめだよ、夕子さん。この世界、どんな相手にも本名を教えてはね」
ふと、男は夕子の耳に視線をやった。
「唐突だけどね、左の耳に付けたピアス、くれないかな」
「こ、こんなものでよければ、どうぞ」
慌てて、夕子はピアスを差し出し、男に手渡した。
「本当にいいのかな、これって神の剣だろう」
初めて、夕子は唇を引き締め、男に言った。
「神には私から三行半です」
男は愉快に笑った。
「面白い人だな、夕子さんは」
不思議そうに三毛がピアスを覗き込んだ。
「お父さん、これが剣なの」
「そうだよ」
ふわりとピアスを放り投げる。虚空から剣の先端、といってもゆうに数メートルの幅はあるだろう、天に向かって浮かび上がった。
「神が悪を征するため、一部の天使に授けたのがこの剣。折角だから、抜いてみよう」
男が微かに左手を振る、それに呼応するかのように、剣がその全体像を出現させた。二十、いや三十メートルはあるだろうか、巨人の持つような剣が浮かび上がった。
驚いて、夕子は男を見つめた。剣全体をあんなにも簡単に取り出してしまうなんて、まるで、それは
「あ、あの。お父さんさんは神様ですか」
真顔で夕子は男に訊ねた。
「いや、普通の人だよ」
男はなんでもないことのように答えた。
風、一瞬で、なよが男の横に立ち、剣を睨んでいた。
「すまぬ、父さん、ぬかった」
なよが呟いた。
「呪を解除して、属性を空虚へと変えてくれるかな」
男がなよにだけ聞こえるように小声で言った。
なよが不思議な音で唸り出す、そして、次第にそれは美しい響きに変わった。意味は解らない、でも、体をゆだねたくなるような、やわらかな音だ。
三毛はこれが解呪法だと気づいた。見上げると、剣の色が白く変わり、なんとなくだが、ふわふわに柔らかくなったように見える。
男が言った。
「自在のね、三分の二くらいの長さでいいかな」
なよが歌いながら微かに頷く。白いそれは収束してゆき、自在、もしくは筒と呼ぶ武器に変わった。
「自分で創らずにすむのは、楽でいいなぁ」
男は笑うと、左手を伸し、掴んだ。
「重さも釣り合いも丁度良いよ」
なよはほっと息を漏らすと、唖然と見上げていた三毛に言った。
「三毛。いいところにおったのう、いまのは、わしの解呪法でもかなり高度のものじゃ。能く学べよ」
三毛はうまく声が出せずに、ひたすらこくこくと頷くのが精一杯だった。
「夕子さん。これをあげよう、剣の代わりだ」
ふっと夕子は自在を受け取ったが、慌てて男に尋ねた。
「あの、私なんかにいいのでしょうか」
「いいよ。使い方は幸か黒、それにここにいる三毛に教えてもらいなさい」
「お父さん。三毛が教えてもいいの」
「いいよ。三毛も随分うまくなった」
なよが男の裾を軽く引いた。
「父さんは許すのか。剣の呪が幸を変調させたのだぞ」
男にしか聞こえないほどの声でなよが囁いた。
男は笑みを浮かべると、夕子の頭に手をやった。
「夕子さんがこれからも幸せでありますように」
男の言葉に夕子がとても柔らかな笑みを浮かべた。そして、ほっとしたようになよが息を漏らす。
「夕子さんは被害者だよ。許すも許さないもないよ」
男がなよに小さく呟いた。

「先生。お帰りなさい」
遠くからかぬかの声が聞こえた。
前掛けをしたかぬかが走って来た。美味しいうどんを提供する喫茶店として、一部で評判となっているのだ。一瞬、かぬかが驚いて立ち止まった。しかし、すぐに男に駆け寄り声をあげた。
「先生、足がありません」
かぬかは自分でも間の抜けたことを叫んでしまったと悔いた。男はそんなかぬかを楽しそうに眺めた。
「かぬかもしっかり修行しないと、こんなふうになってしまうぞ」
男がいたずらげに笑った。
「笑ってる場合じゃないですよ、先生」
「まぁ、確かにそうなんだけどね。でも、生きているだけで幸いかな。さすがに首を落とされたり、胴体を半分にされたら生きてはいられないし」
男はかぬかの反応を楽しむように笑った。
「ありがとう、かぬか」

男の笑顔に、かぬかが気恥ずかしそうに俯きはにかんだ。
ふと、男は家の方角に視線をやった。
「三毛。力を貸してくれ」
「はいっ」
三毛が素早く男に寄り添った瞬間、二人の姿が消えた。
なよが視線を家に向けた。
「これは一大事じゃ」

台所の椅子に座った幸の太ももから血が流れる。両手で包丁の柄を握り締め、幸が自分の太ももを突き立てていた、男が、包丁の背を掴み、押し上げようとするが、幸の両手の力に押され込む。三毛が幸の左腕を掴んで引き戻そうとしていた。
「ごめんなさい、お父さん、ごめんなさい。幸も足を切ります」
幸が泣き叫ぶ。

「力を抜きなさい」
男が幸に叫んだ。幸が激しく首を横に振る。
「黒、白、あかね」
男が三人の名を呼ぶ。 ぶわっとテーブルの上に三人が現れた。強引に男が呼び込んだのだ。
「黒は幸の右手を引っ張りなさい、あかねは幸の後ろから肩を引く。白は包丁が抜けたら治療」
男の指示に素早く対応した。
「お父さん、幸母さんの力が強過ぎます」
三毛が叫んだ。
幸の拳が微動だにしない。
「幸、力を抜きなさい」
「ごめんなさい。幸はとても悪い娘です」
嗚咽しながら、幸が呻く。
飛び込んできたなよが抱きかかえた小夜乃をテーブルの上に放り投げる。
「あわあっ」
小夜乃が慌てながらも幸の前に着地した。
「父さん、小夜乃じゃ」
男がなよの言わんとすることを把握した。
「小夜乃。寿歌、二十四節気七十二候 雨氷 草木萠動」
男の言葉に小夜乃が反応した。
小夜乃はひとつ大きく呼吸をすると、幸の拳に両手を添え、笑みを浮かべた。
「ゆらゆら、凍えた雨粒も日差しを豊かに浴びて参ります。暖かな雨は大地を温め、命に新しい季節が来たことを教えてくれるのです。ゆらゆらゆらり、風は揺れ」
呟くように小夜乃が歌いだした。
三毛が思い出した。寿歌、古の術。音律そのものが力を及ぼす、ほとんど絶えてしまったと言われてた難しい術だ。
微かに幸の包丁を握り締める拳が緩んだ。
「あさぎ。立ちなさい、幸の包丁を取り上げなさい」
あさぎは、幸が自分の膝に包丁を突き立てたのに怯えて、流し台の足元にしゃがみ込んでしまっていた。あさぎは弾けるように立ち上がり、幸の手から包丁を取り上げ、流し台に仕舞い込んだ。あふれる血を抑えこむように白が幸の傷口を両手で塞ぐ、白の両手が幸の膝に溶け込んだ。白が傷口を凝視する。白の指先が繊細に動き出す。
緊張が解けたのだろう、小夜乃の肩の力が抜ける、なよが素早く小夜乃を抱き上げた。
男はそっと笑みを浮かべ、小夜乃に言った。
「ありがとう、小夜乃。助かったよ」
「お父さんに教わった歌をうたっただけです」

小夜乃は少し顔を赤らめたが、にっと笑みを浮かべた。
男は笑を返すと、幸を抱きしめた。そして、ゆっくりと手を離すと、囁いた。
「いま少し、休みなさい」
幸の力が抜け、微かな寝息を立てる。
「黒。幸を寝かせつけてくれるかな」
黒と白が頷くと、二人して幸を抱え台所を出る、なよはほっと息を吐くと、椅子に座った。
「幸はどれくらいで元に戻る」
なよの言葉に男は少し首を傾げたが、考え込むように呟いた。
「二週間。余裕を考えて、三週間というところかな」
男の言葉になよが頷いた。
「幸乃、いいかな」
男の言葉に、ふわりとその背中から、幸乃が浮かび上がった。そして、男の横に立つと、男に囁いた。
「ほんにお前さまは幸に甘過ぎます」
「しょうがない、可愛いな娘だからさ」
男がいたずらげに笑みを浮かべた。
「ありがとう、お前様」
幸乃は仕方なさそうに笑みを浮かべると、幸の元に向かった。
「あさぎも椅子に座りなさい」
「ごめんなさい、お父さん。逃げてしまって」
「あさぎは精一杯頑張ったよ」
 男の言葉になよが笑った。
「幸のあの剣幕じゃ。怪我せなんだだけでもよかったわい」
漣にかぬかに夕子が部屋に戻ってきた。

「おおっ、そうじゃ、待っておれと言うて、そのままじゃったのう」
なよが三人の姿を見て、思い出した。
「それで、なよ姉さん、何があったんですか」
かぬかが尋ねた。 なよは、神の剣の話を除いて、すべてを語った。
「先生。戻って来てくれますよね」
なよの話に、かぬかが心配そうに呟いた。
「帰ってくるよ。かぬかのうどんをくわなきゃね」
男は笑みを浮かべると、器用に椅子から立ち上がった。 ふと、なよが思いついたように言った。
「あかね。父さんのお供について行け。いろいろ、片手片足では不便じゃ」
「はい。行きます」
あかねが即答した。
「いいよ。見た目の印象より、案外、普通に動けるからさ」
あかねが大きくかぶりを振った。
「一人、杖をついて歩いて行くお父さんを、それじゃぁと見送ろうことなどできません。恥をかかせないでください」
なよが楽しそうに笑った。
「父さんの負けじゃ。そうじゃ、漣も一緒に行け」
「え。漣もですか」
少し、不満げに漣が答えた。漣としては、幸の方が気掛かりだったのだ。
「白澤が妙なちょっかいをかけぬよう、二人して父さんを守ってくれ」
あかねが鬼紙老の孫娘、漣は鍾馗の姫。白澤も二人が居れば、思うように男にかかわれないだろうと、なよは考えたのだった。

男の三歩先を漣が歩く、あかねは男の右を歩く。
「なんだか、護衛されているみたいだ」
「お父さんは無理をし過ぎです」
列車を降り、プラットホームを歩く、人の通りは少ない。
「漣。そこのベンチに座りましょう」
あかねの言葉に、ホームのベンチ横に漣が立った、男がベンチの中程に座り、両端に漣とあかねが浅く腰をかける。
「幸姉さんの包丁を握る手を引き戻すために、お父さんはあかねと黒さんと白さんを呼び寄せました。今のお父さんの体力や精神力では無茶です」
あかねの言葉に、男が微かにうなずいた。
「疲れがどっと来てるよ。最初から小夜乃に寿歌をうたってもらえば良かったなぁ」
男が気楽そうに笑った。 漣が興味深そうに言った。
「先程からの寿歌というのは何ですか」
男は漣を見ると、微かに笑みを浮かべた。
「寿歌。もしくは言祝ぎ歌と呼ばれている七十二の歌だよ」
男は前を向くと呟いた。
「音にはね、力がある。例えば、歌。歌はね、聴く人の気持ちを楽しくもすれば、悲しくもする。寿歌は、音という振動の組み合わせで人の心を操る術だ。いや、うまく使えるようになれば、人だけでなく、植物の成長を早めたりさ、命すら自由に操ることができる。ただ、とても難しい術で、小夜乃はよく頑張ったなぁと思うよ」
ふと、男は漣に向き直り言った。
「身体の調子が悪い時には小夜乃に歌ってもらいなさい。もともと、寿歌はそのためのものだ」
漣が頷く。この幸師匠のお父さんは不思議な人だと思う。掴みどころのない狡猾さと、純真さを合わせ持っているようだ。 漣が男の顔を間近でじっと見つめた。
「お父さんはどうして寿歌を知っていたり、とても、強かったりするのですか」
男は少し目を伏せ考えると、再び、漣を見て笑った。
「教わったことを教わったままにしているのはだめ。それを手掛かりに本質を探り出すこと。そうすれば、教わった以上のことが出来るようになる。深く深く考えるんだよ」
男は笑みを浮かべ、軽く漣の頭を叩く。
「漣。幸に数学と物理を教え込まれただろう」
漣は顔をあげると、男をじっと見つめた。
「はい」
「あれは、考え方を学ぶためのものだよ、しっかりね」
漣がそっと笑みを浮かべた。
「幸師匠はお父さんは女たらしだと言いました。いま、本当にそうだなぁと思いました」
「ええっ、ひどいなぁ」
男は嬉しそうに笑みを浮かべ、前を向く。 あかねが呟いた。
「適当に相手をしておきましょうか」
「いや。せっかくだ、ちょっと、お喋りするよ」

線路の上、唸り上げ、砂塵が舞う。音が次第に消え、薄茶色の風が消えた時、一人の男がプラットホームの白線の上に立っていた。薄茶色のマントを身に纏い、
ああ、これは西部劇のガンマンかぶれだと、男は楽しそうに見つめた。
目深に被った帽子を人差し指で微かに持ち上げる。腰の拳銃が鈍く光った。しかし、顔はまだ、十代後半くらいの幼さを残している。
「無に会わせてもらいたい」
男は澱みなく答えた。
「それは無理というものだよ」
ガンマンがぎろっと睨んだ。
「お前達が無の関係者だということはわかっている。死にたくなければ答えることだな」
「私は多分、無を一番よく知る人間だ、彼を裏切ることはさ、出来ないよ」
男が笑みを浮かべ言った。
「隣の女はお前の娘か」
「あぁ、大切な娘たちだよ」
「その娘らの命とどちらが大切だ」
ガンマンが絵にかいたようににやりと笑う。
「あまりにも分かりやす過ぎます」
あかねが呟いた。
「相手するのが哀しいですよ」
漣も相槌を打つ。
「純粋培養、何処かでとち狂った典型だな。銀の銃弾を装填したリボルバー、銀は勿体ないなぁ、高いのに」
いきなり、あかねは立ち上がると、男の前に立ちはだかった。
「お父さんを連れて逃げなさい」
「だめだよ。お姉ちゃんを見捨てて逃げるなんてできない」
漣が叫んだ。
きっとあかねがガンマンを睨みつけた。
「撃ちたいなら私を撃ちなさい」
あかねの眼差しにガンマンが狼狽えた。
自分より、少し年下のまさしく美少女が俺を睨みつけている、口をぎゅっと引き締め、瞬きもせずに、俺を睨む。
ガンマンは圧倒されたように、一歩後退りした。
しょうがないなぁと男は呟くと、杖を頼りによろよろと立ち上がる、そしてあかねの前に立った。
「お前達には、長い人生がある。父さんはね、娘達のためなら、たとえ殺されても、悔いはないよ」
男が杖を頼りによろよろとガンマンに歩み寄る。
漣が駆け寄り男の手を両手で掴んだ。
「やだよ、お父さん」
漣の泣き叫ぶ声に、ガンマンが後退りしながら、しどろもどろに言った。
「や、その。そういう深刻なのじゃなくて。あ、あのさ」
男がふいっと横を向き、柱の影で成り行きを見ていた、顧客先へでも行くのだろうか、ごく普通のサラリーマンの隣りへと歩く。
「どうだい。楽しんでもらえたかな」
サラリーマンが観念したように頭を下げた。
「一人前気取りの愚かな息子だ、覚悟が足りなさ過ぎる。鬼に勝てないはずだ」
「なるほど、君の息子かい」
「一切の欲を退け、法術師として、厳しく育てたつもりだったんだが、たまたま観た映画にのめり込んであのざまだ」
「純粋に育て過ぎて、免役がなかったという奴だな」
男が楽しそうに笑った。
目をやると、漣とあかねが倒れたガンマンをがしがしと踏み付けていた。
「なんというか、子育てというのは難しい。普段は善い娘達なんだけどね」
男は溜息をつくと、言った。
「楽しい余興だった」
男が去ろうとするのを、呼び止める。
「あれに、あんたの術を教えてやってくれないか」
男は怪訝そうに振り返った。
「いいのかい、君」
「鬼と五分で闘えるようにしてやりたいんだ」
「鬼と五分ねぇ。そうだな、これから、三週間、ホンケの精鋭に術を教え直す。そのついでに預かろうか、童子級の鬼くらいなら、充分、闘えるようにようにしてやるよ、あとはあれの頑張り次第だ」
男は一歩戻ると尋ねた。
「いま、この国の上はどうなっているんだ」
微かに俯いたが、ゆっくりと顔を上げると、重い口を開いた。
「鬼派、米派、独立派の三派に別れている。平安の初め辺りまで、この国は鬼に支配されていた、その後、鬼と決別出来たが、またぞろ、江戸時代、次はポルトガルやオランダとの貿易を初めに、江戸から明治のきっかけにもなった黒船来港から太平洋戦争の終結とともに実質、この国は欧米の植民地となったと言ってもいいだろう。鬼は欧米の植民地に甘んじるくらいなら、この国の統治権をよこせという、それに米派が米国を後ろ盾に異議を唱えた。政治の世界も術師の世界もこの三派に別れて、三つ巴の様相だ」
「で、君は独立派だな。ついでに言うと、三つ巴と言っても、独立派の分はかなり悪いとみた」
「そうだ、だからこそ、力が必要だ。この混乱に乗じて、真の独立をもたらしたいのだ」
「そうか」
男が小さく呟いた。
「三週間の教授に値する情報をいただいた。私は世捨て人だから、どれにも組みはしないけれど、せっかくだ、しっかり、教えてやるよ」
男は話は終わったとでもいうように、場を離れ、三人の元に戻ってきた。
「二人とも乱暴だなぁ。彼、ぼろ雑巾になったしまったじゃないか」
男が気楽に笑った。
「お父さんに銃口を向けるなどと、万死に値します。それでも、お父さんのお話は、こちらで聴いておりましたので、殺す手前で終わっています」
あかねがつま先でぐったりしたガンマンをつついた。
「息子が心配で父親が物陰から様子を覗いているなんて、子離れできていない証左ですよ」
漣が呆れたように言葉を繋いだ。
「それは耳が痛い。うちも可愛い娘ばかりだから、なかなか、子離れできないよ、困った、困った」
漣が唇をとがらせた。
「お父さんはいいんです。特別に許します」
「思いで繋がる家族は親離れや子離れすると、家族でなくなってしまうのですよ」
幸せそうにあかねは囁くと、つま先を仰向けに倒れたガンマンの背中に差し込んだ。ぐっと蹴り上げる、宙に浮かんだガンマンを倒れないよう漣が背中を押し上げた。
「意識はあるようだね」
男の言葉にガンマンが目を開けた。
「この娘達は強いだろう。無の弟子だからね」
「無の弟子」
ガンマンが言葉を繰り返した。
「片手片足の父親を守るためにね、修行してくれたのさ」
男は適当なことを澱みなく言うと、ガンマンに笑いかけた。
「鬼に勝ちたいんだろう。これから三週間、この娘達が君に鬼に勝つための術を教え込む。ま、頑張ってくれ」
「鬼に勝てるのか」
ガンマンが目を輝かせた。
「そうだな、茨木童子とかさ、童子級なら勝てるようにしてくれるよ。後は君の頑張り次第だろうな」
「俺、やる。やります」
ガンマンが目を輝かせた。
「そうか、頑張れ」
男が愉快に笑った。

 

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遥の花 藍の天蓋 蛇足 白受難

驚いた、あのすかした親父が無だったなんて。
ガンマンと徒名か定着してしまったのだが、本名、和弥は西の幽霊屋敷の表に置かれた縁台に一人座り、頭を抱えていた。
かなりのイケメンを予想していたんだろう、それがこんなおっさんだったなんて、申し訳なくってさ、そう言って、気楽に笑う無を前に、俺は茫然としてしまった。
確かに優喜が先生、先生と呼んでいたが、まさか、あのおっさんが無だなんて、思いもしなかった。
いや、思いたくなかったのかもしれない。神狩りの二つ名を持つ男。まさしく神と真っ向戦うことのできる唯一の男、そう聞かされ育ってきた。右手にサイコガンを持った男、そんなアニメじゃないけれど、それがくたびれた中年のおっさんだったなんて、そりゃないよ。俺の子供の頃の憧れを返せってんだ。
「どうしたんだ、ガンマン。さすがにへたばったかい」
優喜が和弥を見つけ、隣りに座った。
ふと、和弥が呟いた。
「なぁ、優喜。あのおっさん、本当に強いのか」

「俺よか、遥かに強いぞ」
「いや、そうじゃなくて。神狩りと言われたほどに、ってことだよ」
優喜は、うーんと唸って顔を上げた。
「それは知らない、俺は神様と知り合いじゃないからな。ただ、白澤様は先生のこと、びびってる。俺はそう思う」
「白澤様って、ホンケを統べるという、あの白澤様か。体術や妖術はもちろん、数百年は生きているって」
優喜は頷くと、目を瞑って俯いた。
「先生がどれほど強いか知らない、ただ、あかねさんや漣さんの異常な程の強さは分かるだろう」
和弥が息を飲んだ。
「あぁ」
「この二人よりも遥かに強いのが先生の四女 幸、さんだ。そして、その幸さんも先生には絶対服従だ」
優喜はゆっくりと目を開けると、空を見上げた。青い空に真っ白な雲が一つ、二つと浮かんでいた。
「もう四年になる。狐の面を付けた軍隊がホンケを    攻め込んだことがあるんだ。白澤様はすぐに察知し、町の人間をすべて北の山に非難させ、俺達兵隊を引き連れ、結界の前で待ち構えた。奴らは重火器を備え、最新の設備を持った軍隊だった。白澤様の結界も、対魔術塗装を施された戦車が打ち破って行くんだ。もうだめだって思った時、白澤様の隣りに現れたのが、幸だった。幸が自在片手に軍隊に向かって突っ込んだ。自在が戦車を切っちまうんだよ。豆腐みたいに切ってしまって、中も血だらけだ。戦車三十台、ロケットランチャーを傾げた歩兵もいた、多分、三千人は居た、幸が縦横無尽に駆け回るたびに、血に真っ赤に染まった戦車が細切れになるんだ、歩兵たちも、首をちょん切られて、胴を斜め二つにされて、俺、思わず、持ち場を離れて飛び出してしまったんだ、その時、一瞬、遠く離れた幸と目が合った、そして、確かに俺の耳元で聞こえたんだ」
「お前の頭も斬り落としてやろうか」
「うわあぁつ」
優喜は縁台から飛び出すと、地面にはいつくばり蹲ってしまった。
あかねが邪悪の塊のような笑みを浮かべていた。
「男のお喋りはみっともないですよ」
優喜は荒い息を吐き、涙ながらに振り返った。
「あかねさん」
「声、似ていたでしょう」
あかねがいたずらが成功した子供のように笑った。
「その話は地震による災害ということになっています、たとえ、弟弟子であろうと、軽々しくいいなさんな」
「申し訳ありません」
優喜が頭を下げた。
「さて、ここからが大変だったのです。優喜はどうせ気絶して見ていなかったでしょうけど」
「は、話すんですか」
「だって、こういう話って、言いたいじゃないですか」
あかねが縁台に座った。
「狐面の軍隊は、人である自衛隊員を鬼に変えてしまうという鬼神化計画の端緒であったのですが、それはおいといて、まだ、その時点では、ホンケの町は無事被災することなく済んでいたのです。それが、なぜ、町の三分の一ががれきと化すことになり、地震ということになったのか。それは幸お姉ちゃんと白澤さんの口論から始まった二人の喧嘩、それが町の三分の一を破壊する大喧嘩になったからなのです」
一息ついたところに、漣が屋敷から駆け出してきた。
そして、あかねの前に立つと、自分の唇にそっと人差し指を触れる。
「お父さんからの伝言です。お喋りはその辺で勘弁してください、って」
うっとあかねは息を飲むと、気もそぞろに立ち上がった。
「さて。ガンマンも修行を初めて二週間、それなりに強くなったということで、息抜きのためにピクニックに出掛けます、綾さんがお弁当を作ってくれています」
「いや、あの、話の続きは」
戸惑いながら和弥が尋ねた。
ぎっとあかねは和弥を睨みつけると、話を続けた。
「目的地が鬼の国にあるので、ちょっぴり、いざこざもあるかもしれませんが、それについては、ガンマンに頑張ってもらうこととして、楽しいピクニックにしましょう」


駆けてくる足音。
「あかねちゃーん」
白とかぬかが駆けてきた。
あかねがほっとしたように笑みを浮かべた。白はぎゅっとあかねを抱き締めると、嬉しそうに笑った。
「元気だった」
「あかねはいつも元気ですよ」
「ちょっと日に焼けたみたい」
あかねの笑みに白は頷くと、今度は漣をぎゅっと抱き締める。
かぬかは背中の荷物を降ろすと優喜に声を掛けた。
「お久しぶりです、優喜さん。精鋭の皆さんも元気ですか」
「綾と二人で先生付きになったからさ。他の奴らとは会っていないんだ。まっ、滅多なことはないと思うよ」
かぬかは頷くと、和弥に目をやった。
「こちらが噂のガンマンさんですか」
「噂ってなんだよ」
かぬかはそっと両手を合わせ、お辞儀をする。
「なんと申せばよいのやら。御愁傷様です」
かぬかがくすぐったそうに笑った。
「あ、あのなぁ」
「初めまして」
白がふっと和弥の前に立った。
「あかねの姉 白です。そして、こちらがかぬかです。今日はピクニックと聞いてやってきました。和弥さんでしたよね、今日はよろしくお願いしますね」
和弥はどきっとした。なんて、綺麗で優しそうな人なんだ、和弥は、ここに来てからというもの、かなりの女性不信に陥っていたが、それもあり、白がまるで救いの女神のように見えたのだ。
「あ、あの。初めまして。お、お父様にはお世話になってます。えっと、妹さんにも」
「世話のしがいに欠けますけどね」
あかねが憎まれ口をたたく、白はそれを笑みで流すと、かぬかに目をやった。
「お父さんに挨拶に参りましょう」
白とかぬかが屋敷に入って行った。
「や、やぁ。あかねさん」
「どうしたんですか、急に笑って。気色の悪い」
「あの、白さんも強いのかなぁ」
「白姉さんは、争い事が苦手です。でも、活法に秀でていますから、マッサージでもしてもらったらいいです。疲れなんかすぐになくなりますから」
あかねはそう言い残すと、漣を連れて屋敷に戻った。
「さて。俺達も準備するか」
優喜が立ち上がると、慌てて和弥が声を掛けた。
「白さんって、彼氏いるのかな」
「は・・・・。ガンマン、何言ってるんだ」
「いや、あのな」
和弥が頬を赤らめ俯いた。
何純情やってんだと優喜は言いかけたが、あかねに漣、美人ではあるが、きつい女達に辟易としていたところに、白の八方美人だ。ま、しゃあないかなと思う。
「白さんたちの母親はすげえ男嫌いで、先生以外の男は滅亡すりゃいいと思っている人だ。彼氏なんてできたら、次の瞬間、抹殺だよ。ガンマン、相手が悪いぜ」
「でも、恋愛は自由だ、それに誠意を持ってお願いすれば」
優喜は和弥がかなりの思い込み野郎だということを思い出した。重症にならない内に諦めさせておくほうがいいかもしれない。
優喜は気持ちを改め、しっかりと、和弥を見つめた。
「白さんは白澤様の孫娘だ」
「それって、猫又ってことか。いや、でも、先生の娘って」
「先生の四女 幸さんが白さんを自分の娘にするって、白澤様から奪い取ってしまった。先生はその代償に俺達精鋭に術を教えてくれることになったんだ。ガンマンもさ、二週間、先生に術を教わって思っただろう。それまでの修行が子供だましみたいなものだったってさ。それだけ、先生の術には価値がある。そういう意味では白さんに俺達は感謝しているが、同時にどれほど白さんが素敵な女性になろうとも、俺達は白さんに手を出さない。俺達は既に代償として術を授かっているんだから」
「それは、あんたら精鋭の言い分だ。もう、俺の愛に歯止めは効かねえ。それに、俺は猫派だ、猫だろうと猫又だろうと愛しきってみせるさ」
ガンマンがそう言い切った瞬間、すっと刃がガンマンの喉に触れた。
「それ、本気なの」
黒が姿勢を落とし、ガンマンの真正面から、刀の刃をガンマンの喉に向けていた。
「うわぁ、わっわっ」
ガンマンが驚いて尻餅を付いてしまった。
「うーん、信念が足りない、不合格。残念でした」
黒が面白そうに笑った。
「どうしたんですか、黒さん」
黒は刀を宙にしまうと、優喜に笑い掛けた。
「お久しぶり、元気そうですね。ピクニック、お弁当と来たら、黒も参加します。外で食べるお弁当が楽しみ」
黒が食い気だけでやってきたこと、優喜は納得した、黒さんの食い気は恐ろしい。
「あんた、誰だ」
尻餅を付いたまま、ガンマンが黒に吼えた。
「白の姉だよ、よろしく」
黒はあっさり答えると、優喜に向き直った。
「お父さん、会って来ます。それじゃ、後で」
黒が屋敷へ駆け込んで行った。
ガンマンは大きく息を吐き、立ち上がった。
「深窓の令嬢が黒のジャージ姿で、やってきた」
優喜は大きく溜息を付くと、ガンマンに言った。
「ここでの恋愛はやめておけ。あかねさんは鬼紙家の御令嬢、漣さんは鍾馗の姫君、黒さんと白さんは白澤様の孫様。とんでもないのばかりだ。命がいくつあっても足りないさ。その上」
優喜はなよの名前を上げかけたが、自分自身がその名を出すことが恐ろしく、名前を言うのをやめた。なよまでやってきたら、かなわない。

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遥の花 藍の天蓋 四話

遥の花 藍の天蓋 四話

「お腹、空いたよぉ」
黒が正座し、ぐすぐすと泣いていた.皆が雑魚寝をする広間、朝、黒の横には幸となよ、黒の後ろに男が座っていた.昨晩は柱にしがみついて、断食を敢行.

「やぁ、白と三毛がいなかったら、黒はすっかり子供だな」
幸が気楽に笑った。
「なにをぬかしておる」
隣に座ったなよが肘で幸を小突いた。
「母親のくせにぐっすり眠りおって。わしは黒の泣き声ですっかり睡眠不足じゃ」
幸が申し訳なさそうに笑った。
「子供の泣き声にも動じず寝るのもまた修行ということで、なんとか」
「わけのわからんこと、ぬかすでないわい」
「さてと」
男が声をかけた。
「漫才はそれくらいにして、黒のジャージ、上に巻き上げて背中を出してくれ」
男は黒の後ろで硯に墨をする。墨はごくありきたりのものだが、水の代わりに椿油を使う。二人は左右から、黒のジャージの背中を引き上げた。
男は表情を消し、黒の背中に筆で寿文を書いていく。それは文字のようでもあり、図形のようでもある。
「わしの知らぬ呪文じゃな、幸は知っておるのか」
「見たこと無い、全部は読めない」
男は筆を置くと、ほっと一息ついた。
「寿法、まったく別系統の呪術、それを再構成して作った寿文だよ、一年前くらいかな、作ったのは」
男は少し疲れたように笑を浮かべた。
「二人とも、もういいよ。手を離しなさい」
なよと幸はジャージから手を離し、黒から一歩離れた。
「どうだ、黒。気分は」
黒が背中を向けたまま答えた。
「なんだか、お腹いっぱいです」
ふっと数センチ、正座したまま浮き上がると、黒は男に向き直り、笑顔を向けた。
「一日、頑張ってきます」
「怪我のないようにな。精鋭には全て伝えてあるからね」
「はい」
黒は元気に返事をすると、幸となよに顔を向けた。
「行ってきます」
瞬間、黒の姿が消えた。
なよが思わず溜息をついた。
「なんとな。幸の速さを新幹線に例えるなら、黒は自転車の立ちこぎで、新幹線の速さに追いつきおったぞ」
「力が有り余っているんだ。びっくりした」
幸は驚きながらも、立ち上がると、座椅子を取りに行き、男を座らせる。

 

 

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遥の花 藍の天蓋 一話

秋野菜の種を蒔く季節だ、見上げれば、視線が空が突き抜ける、このまま、目を凝らせば、瞬く星ですら見えるかもしれない。
ふと、夕子は手を止めると、空を見上げた。夏の終わりの季節、秋野菜を育てるための準備に畑を耕す。
ここへ来て三日が経つ。戦うつもりでやって来たのが、今はここの家族の一人として、畑を耕している自分がいる。
慣れない作業でくたくただ、でも、不思議と楽しい、それに自分を受け入れてくれた御恩を返すためにも、頑張らなきゃと思うのだ。

台所のテーブルに幸となよがいた。二人して隣同士に座り、お茶をいただく。
「どうするな、幸」
「幸としては、やさしいお姉さんが増えて嬉しい。なよ姉さんが二人みたいにならなくてよかった。かなりきついもの。幸、泣いちゃう」
「何をぬかすか」
なよは溜息をつくと、軽く幸の頭を叩いた。
幸は笑うと、なよの湯飲みにお茶を注いだ。
「この国の政府はわしだけでなく、皆を標的にしたかもしれんぞ」
「その程度のこと、たいしたことじゃない。いつも通りの生活を続ける。それだけのことだよ」
幸は椅子の背もたれに体を預けると目をつぶった。
「お父さんの持っている記憶が幸にもある、千年以上昔、人は鬼からの独立を目指して、鬼との百年戦争が始まった。それまでこの国の人達は鬼の支配下にあったわけだ。ほぼ、完全な独立を果たした、それから、およそ、江戸時代の終わり、明治の始め辺りまで、その独立が続いた。でも、それ以降は、主の変更はあっても、ほぼ傀儡政権だ、幸は必要とあれば、主の首も傀儡の首もすとんと落とすよ」
「恐ろしい奴じゃのう、お前は」
呆れたようになよが答えた。
「人の世界にそれほど興味はない、この国を潰せば、幸が治世をしなければならなくなる、それは願い下げ、つまりはあちらから関わって来なければいいだけの話だ」
幸は目を開けると、寂しげに笑みを浮かべた。
「そんなことよりも、智里さん、小夜乃ちゃんと笑っていたね。初めて見たよ、智里さんの笑うのを」
なよは小さく吐息を漏らすと言った。
「智里も少しずつ心が柔らかくなって来ておる。今日は啓子と援農じゃ、あやつも啓子とも話すようになったわい。善きことじゃ」
幸はそっと笑みを浮かべると、立ち上がった。
「そろそろ夕子姉さん、限界だ。小夜乃と白に頼んでくる」

日差しの中、夕子は麦藁帽子を被ってはいたが、それでも体が熱をおびて、頭に熱が集中していくのがわかる、でも、もう少しだけと、鍬をふるった。
「おおぃ、夕子姉さん」
声に夕子が顔を上げると、白と小夜乃が大きく手を振っていた。
「いま、行きます」
二人は畑の向こうから駆けてくる。白はいつもの銀色のマット、小夜乃は大きめの日傘を抱えていた。
二人は夕子の前まで来ると、畦にマットを敷く。そして、ふゎっと白は夕子を後ろから抱きかかえると、マットに足を投げ出し座らせた。小夜乃が日傘を広げ、夕子に影を作る。
ほんの数秒の出来事だ。
「あ、あの、えっと」
「夕子姉さん、無理し過ぎですよ」
白が笑った。
「夕子姉さん、これを」
小夜乃が水筒からお茶を汲むと、コップを夕子に手渡した。
「あ、ありがとうございます」
そっとコップに口を付ける、少し甘いお茶。
「美味しい」
小夜乃が嬉しそうに笑った。
「ステビア、甘いハーブのお茶です」

「お父さん」
幸は男の部屋の前に立つと小さく呟く。そして、そっと襖を開けた。
「どうした、幸。なんだか、お悩み中だな」
椅子に座ったままの男は安心させるように笑みを浮かべた。幸は男に駆け寄ると男にしがみついた。怯えたように幸の体が震える。そっと、男が幸の頭を撫でた。
「人を簡単に殺すことが出来ると言いました」
「なるほど、自分の言葉に怯えたか」
「術師集団を送り込もうとしてきた人たちを許せなくて」
男は幸の頭を軽く叩くと、幸を目の前に立たせた。
「本来、お互い、不干渉がいいのだけれどね。ところが、ここが、この国の支配者層にとっては、目の上のたんこぶになってきた、好き勝手が出来なくなって、ここの存在がわずらわしくなってきたんだろう」
「楽しく暮らしているだけなのに」
幸が思いつめたように囁いた。
「ま、そのことは父さんに任せなさい。幸はこの異界の管理者だ。みんなの幸せをゆっくりと考えなさい。争うことなく静かに暮らせば良いと思うよ」
「ありがとう、お父さん」
泣き濡れた瞳のまま、幸は微笑んだ。
「幸。白と小夜乃が困っているようだ。天使の体はちょっと違うからな」
「うん、行ってくる」
幸は頷くと部屋を出た。
ちょろいな・・・、ふと幸の言葉が唇から漏れる。
「あっ」
廊下の向こう、なよが目を見開き、幸を見つめていた。
「なよ姉さん。ちょっと、夕子さんのとこ、行ってくるよ」
幸がなよの隣りをすり抜けた。
「まて、幸」
なよが声をあげた。びくんと幸が固まる。
「父さんの能力は、いくら体力を取り戻しつつあるというても、全盛期の半分、いや、三分の一やもしれん。わかっておるのか」
幸が振り返り、にっと笑った。
「かまわないよ。だって、お父さん、男だもの」
幸が背を向け、外へと向かった。

ずかずかとなよは男の部屋に入ると、椅子に座ったままの男を睨みつけた。
「いやぁ、三分の一は言いすぎだよ、まいったなぁ」
男が気楽に笑った。
「幸が父さんから離れてしまったこと、受け入れるのか」
「いずれはそうなると思っていたし、そうなる方がいいよ。ま、突然だったから驚きはしたけどね」
男は椅子の背もたれに背中を預け、目を瞑る、平次君や当主殿が居て、幸も随分いらいらしていたからなぁと、その時の様子を思い出して、笑いそうになる。
「自分が死ぬことで、幸が狂って、世界を滅ぼすということは避けることができた、それだけで良しとするよ」
男は目を開けると、なよに笑いかけた。
「父さんはお手軽に世界を守った勇者ということでいいんじゃなかな」
「父さん、辛くはないのか」
なよが男を睨みつける。
「いい年こいたおっさんが哀しいとか、辛いとかいうのは、みっともないだけだよ」
男は気分を変えるように、深呼吸をした。
「二、三日留守をするから、後はよろしく頼むよ」

そして、男が呟いた。
「幸乃、父さんから出なさい。幸乃には留守番を頼むよ」
瞬間、男の胸から仰向けに幸乃の上半身が現れた。
「嫌です、例え幸がどのように考えても、幸乃はお前さまの妻です」
幸乃が感情を露わに叫んだ。
「夫婦は一心同体、幸乃は何処までもお供いたします」
幸乃は一途にしがみつくと、男の体に潜り込んでしまった。

「守るものが出来たから、励みになるかな」
男はなよに目をやると、少し恥ずかしそうに笑った。
「なよ。何も今生の別れを言うわけじゃない、帰ったらゆっくりするよ」
立ち上がりかけた男をなよが引き止めた。
「待て、わしが護髪をしてやる」
なよは男の前に正座をすると、くっと見上げた。
「父さんの右腕は幸の作った義手、左手には幸の護髪が入っておる。ならば、わしは父さんの右足に護髪をしてやろう」
なよが髪を一本抜き、男の右足に結ぶ。
「初めて見たよ」
「何を見た」
「上からなよのつむじを見下ろした。三つある」
「つむじくらい、帰ってきたらいつでも見せてやるわい」
見上げたなよの瞳が濡れていた。
なよは辺りを見渡した、
「よし、あかねが帰ってきおった。あかね、来い」
風が突き抜けた、と感じた瞬間、開いた襖に手を掛け、あかねが息を弾ませていた。
「力関係上、仕方なくは走って来ますけどね、用事がある時は」
あかねが顔を上げ、絶句した。なよ姉さんが泣いている。
「急ぎじゃ、父さんの左足にお前の護髪をしてくれ」

あかねは素早く男の前に正座すると、後で留めていた髪を解し、髪を一本、男の左足に結んだ。
「詳しい事情は知りません。ただ、お父さんは御自分が思われる以上に必要な人で」
くっと、あかねが男を見上げた。
「あかねにとっても、とても大切な人です」

男は笑みを浮かべるとそっと指先であかねの頬に触れた。
「ありがとう。とっても嬉しいよ」
男は手を戻すと、よしと呟いて立ち上がった。
「それじゃ、出かけてくるよ」
「まて、父さん。一つ聞かせてくれ」
なよの声が震えた。
「どうしたんだい」
なよが深呼吸をし、きっと男を見つめた。
「父さん、本当は己の出自をわかっているのであろう。しばらく前に、思い出した。父さんはホンケの初代にそっくりじゃ」
男は襖に手をかけたが、ふと、手を戻し、背を向けたまま言った。
「幸にも伝えていない記憶だよ。先々代が初代の細胞から作り出した赤ん坊が父さんだ。ま、誰にも言わないでくれ、特に白澤さんには秘密だぞ。子供の頃かな、白澤さんに初代ってどんな人だったって聞いたことがあるんだ。映画俳優のブロマイド、少女のような表情で、このお方にそっくりってね。白澤さんの乙女心を傷つけたら大変だ」
男はくすぐったそうに笑うと部屋を出た。
慌てて、あかねが部屋を飛び出す。男の姿は既になかった。
「なよ姉さん。これは、いったいどういうことですか」
「わし自身がこの状況を戸惑うておる」
なよはそう呟くと俯いた。

三毛は山羊小屋の中で男と同じ、やわらかな笑みを浮かべた。数日の間、男と山羊小屋を作っていたのだ。十畳は充分ある、天井も高くて普通に歩くことも出来る。
そして、三毛は男と一緒に山羊小屋を作ったのが嬉しくて、なんだか誇らしくて、つい笑ってしまうのだ。のこぎりで板をまっすぐに切ることも出来るようになったし、金槌で釘をまっすぐ打つようできるようになった。お父さんと一緒に山羊小屋を作ったからだ。単純なことだけど、なんだか、とっても嬉しい。なにより、お父さんと一緒に一つのものを作ったということが嬉しくて仕方がないのだ。

「おーい、三毛」
黒が扉を開け、小屋に入って来た。
「黒姉ちゃん」
「晩御飯の用意をしよう」
しかし、黒は三毛の隣にすっと座ると、柔らかに笑みを浮かべた。
「いいの、できたね」
「うん」
三毛がとびきりの笑顔で頷いた。
黒は小屋を二人が作っている時、手伝おうとしたのだが、男と作業をする三毛の楽しそうな顔を見て、遠慮したのだ。末っ子でもあり、三毛は何かにつけて、遠慮する。それが習慣になってしまっているのだろう、だから、父さんと生き生きと笑顔で作業をする三毛の邪魔をしたくなかったのだ。
「あのね。黒姉ちゃん、三毛はここにいるととっても楽しい。じっとしていても楽しいんだ」

「ここは三毛の宝物だな」
黒の言葉に、そっと三毛は頷いた。
二人が家に戻ると皆が、いつものように晩御飯の用意をしている。黒と三毛も椅子やテーブルを運ぶのを手伝い始めたが、ふと気になって黒は白にたずねた。
「お父さんは」
「わからない、誰も知らないみたい」
困惑したように白が尋ねた。
「幸母さんも知らないの」
黒の問いに、白が頷いた。三毛が気づいた。
「あれ、なよ姉さんも」
小夜乃がお皿を両手に頷いた。
「なよ母さまは用事があるとのことでホンケに伺いました」
天使の夕子姉さんが増えた以外、いつもの風景。でも、何か違うと三毛は確信した。


あかねは六十絡みの男の背後に立つと、男の喉に軽く短刀の先を当てる。
深夜、とある政治家の寝室だ。
「な、何者だ」
無言であかねは短刀を持つ手に力を加える。つぅっと男の喉仏から、赤い血が流れた。
「質問は認めません。なお、警備の者はおりませんし、警備会社から警備員も来ることはありません。貴方は、一人きりです」
「ま、待ってくれ。俺は何も悪いことなどしていない」
あかねの手にくっと力が入る。
「助けて、助けてくれ」
「何も悪いことはしていないなんて、笑えない冗談」
あかねは政治家の耳元に口を寄せ、囁いた。
「お尋ねします。とある男から呪術集団の最近の行動について、抑制するよう依頼がありましたか」
あかねの言葉を聞いた途端、足の力が抜けたように、しゃがみこんでしまった。
「俺じゃない、俺じゃないんだ。俺はそんな大それたことを」
すっとあかねが政治家の頭に手を載せる。
政治家が気を失いつんのめるように倒れた。

お父さん、仕事が早い。なかなか、追いつけない。
あかねが唇を噛んだ。
幸お姉ちゃんがお父さんを嫌うようになったのは、私のせいだ。平次を住まわせたことで、おかしくなったんだ。幸お姉ちゃん、男の存在だけで、くたくたになってた。それが・・・、お父さん、ごめんなさい。

深夜、黒は男の部屋、灯りも点けず、いつも男が座っていた椅子に座る、窓からの白い月明かりが険しい表情を浮かべた黒の横顔を映していた。

「おおい、黒。眠れないのか」
幸が襖の向こうで黒に声を掛けた。そっと、襖を開けた幸に黒は視線を向けると静かに言った。
「幸母さん、教えて欲しいことがあります」
黒は椅子に座ったまま、幸に向き直ると、両膝をそろえた。
そして、幸の目をじっと見据えた。
「幸母さん、お父さんがいません。晩御飯の時に幸母さんはお父さんが何処に行ったかわからないと言いました。でも、それはおかしいです。幸母さんがわからないはずがありません。ひょっとして、幸母さんが意図的のお父さんは追いやったのではありませんか」
静かな黒の眼差しに幸は戸惑いながらも答えた。
「ほら、呪術士集団がここを襲おうとしてさ、今後、そういうことが起こらないように父さんに頼んで」
ゆっくりと黒が立ち上がった。
「それはこの国を影から動かしているモノ達と戦うことになるかもしれない。今のお父さんには厳しい。それは、黒よりも幸母さんの方が分かっているのではありませんか」
「いや、だって。父さん、男だし。男は、あの」
言い繕うとする幸にそっと、黒が笑みを浮かべた。
「幸母さん。もう遅いので寝ます、お休みなさい」
黒はすっと幸の横を擦り抜けると、寝間に向かった。
次の日の朝、黒と白と三毛の三人は姿を消していた。

「よぉ、白澤。ちと、用事があって来たぞ」
ホンケ、城内、二の丸に居た白澤に、後ろからなよが声を掛けた。白澤の隣には、多分、小学生くらいの年齢だろう、上質な着物を着つけてもらった男の子が、不思議そうになよを見ていた。
「警備のものをどうした」
白澤が叫んだ。
「わけを話したらどうぞと言うてくれた。教育が行き届いておるのう」
「そんなわけがあるか」
なよは愉快に笑うと、ふと、気づいたように男の子を見た。
「新しい御当主様か」
白澤が気持ちを落ち着かせ答えた。
「まだ、教育中だ。いずれ、ホンケを統べる方となる」
「叔母さんはどなた」
男の子が尋ねた。
ひくっとなよの頬が引きつった。
「叔母さんはのう、お前の父親の兄の、その娘。つまりはお前の従姉じゃ」
なよはやわらかな笑みを浮かべ、男の子に近づくと、ぎゅっと頬をつねった。
「従姉弟同士じゃ。わしのことは、なよお姉さんと呼んでくれ」
白澤があわてて、なよの手を払いのけると、男の子を後ろに庇った。

「妙なトラウマを御当主に与えるな」
下の階から次々と警備の者達が駆け上がって来た。手に手に薙刀、刺股等、武器を携えている。
「御当主、お怪我はありませんか」
先頭に陣取った警護長が叫んだ。
白澤は疲れたように首を振ると、警護長に言った。
「慌てるでない。御当主は大丈夫だ」
白澤はなよに目をやり言った。
「かぐやのなよ竹の姫。何用で参ったのだ」
「本家の敷地内に家を所望する。なに、贅沢は言わん。あばら家で良い、それなりにこちらで普請はする。ただ、そうじゃのう、城から離れている方が気楽じゃな」
「さては、あの女に追い出されでもしたか」
「いや、仲の良い姉妹じゃ、邪推せんでくれ。ま、なんというかな。ちと、別荘というところかのう」
白澤はなよの意図が全く判らなかったが、ここで男との接点を残しておく方が賢明と考えた。
「西の向こう、山の麓に朽ち掛けた屋敷がある、それをやろう。部屋で月見もできるぞ」
なよは笑うと、それで良いと頷いた。
「さて。次はと」
なよが呟いた時。
「なよ姉さん」
黒の声が警護隊の向こうから聞こえた。黒と白と三毛、跳ぶように駆けてくる。
息を切らせながら、三人がなよの前に飛び出して来た。
「ひどいですわ」
白が息せきながらなよに言った。
「私達だって」
白澤が白を睨んだ。
「白。いったい、何があった」
うわっと白が黒の背中に隠れた。
黒は怯えながらも首を左右に振る。三毛はというと、なよの後ろに隠れていた。
なよは面白そうに声を上げて笑うと、白澤に言った。
「わしの可愛い妹たちに、白澤よ。あんまり睨まないでくれ」
さてと、なよは呟くと辺りを見渡した。
さすがに無と呼ばれた父さんじゃ、遠見でも、姿を見せん、護髪は父さんが危険にさらされんと発動せんが
離れていると駆けつけるに時間がかかる、まずはあかねと合流するか
「黒白三毛。花魁道中の儀、あかねと合流するぞ」
「はいっ」
三人が大声で返事をした。
「それでは白澤。これで失礼する。見習い御当主殿。お前は痛みを失ってしもうておる。それでは人の上に立つことはできんぞ。ま、これからはわしがしっかりいじめてやるから安心せい」
黒が大声でしゃんと叫んだ。白に三毛、次々と叫ぶ、それにつれ、四人の姿が薄れ消えた。

「警護長」
白澤が声を上げた。
「はっ」
「城に残る精鋭をここに呼び寄せよ」
「今すぐに」
警護長が緊張した面持ちで返答した。

あさまだき、朝日が昇る前の沈黙の時間、高級住宅街を男は歩いていた。個人宅の壁が百メートル、二百メートル、そんな邸宅が立ち並ぶ住宅街だ。
徹夜は堪えるなぁ、男は呟くと、とある屋敷の塀の途中、立ち止まった。ふわりと男は飛び上がると、塀の向こうへ消えた。

小夜乃は昨晩のなよの言葉を思い起こしていた。
ここを出て行くことになるかも知れないと。
幸母さんがお父さんを嫌いになった。お父さんという歯止めがなくなれば、幸母さんの暴走が始まるかもしれない、もしも、始まれば誰も止めることはできない。
そうなる前に。
小夜乃は自分ができることは何か。それを考える、この楽しい生活をこれからも続けたいと願う、そのために自分のできる精一杯のことをしなきゃならない、そう思うのだ。

塀の中では人だかりがしていた。男がその後ろで
中を覗き込む。最前列の十人が消音器付きの銃を二人に突き付けた。流れ弾に当たらぬよう、慌てて、人だかりが変形する。
男と女、ホンケの精鋭が銃を突き付けられていたのだ。
「この程度の障害を抜け切れないなんて、修行のやり直しだなぁ」
男は呟くと、最後尾の男に尋ねた。
「彼らは何者だい」
声を掛けられた男はなんの警戒もなく答えた。
「それをこれからお教えいただこうというんだ、忍び込んだはいいが、警戒態勢随一の屋敷だ、すぐにあぶり出してやったわけさ」
自慢げに言う、
「親方様はいないようだね」
「この頃は朝帰りだ。帰ってこられるまでに白状させないとこっちが危ない」
「親方様は優しい方だと聞いているよ」
「昔はそうだったんだが。ん、あんた、誰だ」
「私かい。君達の敵だよ」
男は笑みを浮かべると、すっと右手を最後尾の男の額に手をそえた。かくんと膝がくずれ重力のままに倒れる。
男は人込みをかき分け、精鋭二人の前にやって来た。背中に銃口を向けた形だが、男は気にする様子もなかった。
「久しぶりだな。ちゃんと修行はつづけているかい」
「先生・・・」
女の方が呟いた。
「ついでだ、助けてあげるよ」
男はなんの気負いもなく言うと、銃口に向き直った。
「何者だ、お前は」
銃を向けた中央の男が叫んだ。
男はそれに答えるように笑みを浮かべた。
「敵」
一言呟いた途端、男の姿が消えた。大声で叫んだ男が仰向けに倒れる。次々とドミノを倒すように男達が倒れて行く、血を流すこともなく、気絶して行くのだ。
二人の精鋭は思い出した、男が真面目に動いた時は、その動きが速すぎて、全く目で追えなかったことを。
「ま、こんなところだ」
二人が慌てて振り返った。男が後ろで笑っていた。
「あ、ありがとうございます」
二人が言うと、男は一瞬、照れたように俯く、感謝されるのは得意ではない。
「君達は何しにこの屋敷に忍び込んだのかな」
「それは、白澤様から、この屋敷の主を探れと」
女がなんの躊躇いもなく答える。精鋭の男も頷いた。
「人ではなくなったかも知れないとのことです」
男は精鋭達を完全に掌握していた。
男は呪術集団の指揮者が鬼であるかもしれないと思う。なら、呪術集団が襲ってくるのも頷ける。
「一度、会ってみるかな。朝帰りというなら、もうすぐ帰って来るだろう」

かすかなエンジン音、太陽が昇る前の薄い紫色の時間。塀に設えた車用の自動門扉が横に開いて行く、黒塗りのリムジンがゆるやかに屋敷の中を進む。程中、不意に車が停まり、ドアが開いた。
羽織り袴の老人が一人、その後ろを運転手が付き従う。男はその二人を静かに眺めていたが、微かに眉をひそめた。
「二体はきついかな」
男は呟くと、精鋭二人に言った。
「二人とも原種の鬼だ。君達は私が戦っている隙に逃げなさい」
二人の顔色が青ざめた。
「先生」
「以前ならさ、どうということなかったんだけど、私も弱くなってしまってね。隙を見て二人とも逃げろよ」
男は呟くと、数歩、足を進める。
そして、お互いが立ち止まった。
男が言う。
「鬼王の末っ子 荒貘王子と瓜神王子。原種の鬼で唯一、その名に神を持つ鬼だったかな」
老人が両目を細めるようにして笑った。
「何者かね。人にしては、やけに鬼のことに詳しいじゃないか」
「ここの主を食った上で人に化けたということか。原種の鬼は誇り高いと聞くけれど、例外もあるんだね」
「何者かと尋ねておる」
いらついたように老人が言った。
「老人が荒貘王子、運転手が瓜神王子。格上の瓜神が運転手役ということは、荒漠よ。あんた、瓜神の手のひらでダンスをする役だな。うまく煽てられ、瓜神の手のひらで気分よく踊っている訳だ」
「何者かと尋ねているのだ」
男がにぃぃっと笑った。
「瓜神を見てごらん。余裕でにやけているよ」

顔を引きつらせ、老人が後ろを振り返った瞬間、男の姿が消えた。男は老人、荒貘王子の頭上急降下、自在を両手に王子の脳天を、瞬間、男の右腕が消えた。幸の作った義手が消えたのだ。
男は姿勢を変えると自在を左足で踏み込んだ。荒貘王子が文字どおり真二つになる、    しかし、力んだ左足の動きが遅れた。瓜神王子が抜き払った剣が男の左足を太ももから切り落とした。男は自在で地面を打ち、勢いで後ろに跳びはね、間合いを開けた。
男は右足で着地すると、左を力む。左の太ももから吹き出した血の流れが止まる。
「その武器。お前が無だな」
瓜神王子が剣を構えたまま言った。
男が笑みを浮かべ言う。
「鬼王には上がつかえて、なれそうにもない。なら、単純な荒貘王子を隠れみのに、人の世に君臨してやろう。おおかた、そんなところじゃないかい」
「ああ、その通りだ。人は欲の塊だ。面白いほど餌になびく」
ゆっくりと瓜神王子が剣を振りかざす。
「無を倒したとあれば随分と箔が付く、ありがたいことだ」

「いや、私を倒すのは無理だよ。だって、私の娘たちは強いからさ」
男が言い終えた瞬間、刃帯儀が飛ぶ、瓜神王子の腕を足を首に巻き付き捕らえて行く。
「すまん、遅くなった」
なよがいきなり男の隣に現れた。瓜神王子が空中に張り付けになる。
「久いな、瓜神。お得意のつまらぬ策を弄しておったか」
「お前はかぐやのなよ竹の姫、どうしてここに」
「父親の危機に子が助けに来る、さほど、不思議ではあるまい」
なよが男に振り返る。男の様子になよは息を飲んだ。
「黒、白、三毛、あかね」
なよが大声で怒鳴る、瞬間、四人が瓜神王子の間合いに現れた。一瞬で四人が瓜神王子を粉微塵に切り裂いた。四人は着地すると緊張が解けて、座り込みそうになったが、男の様子に驚いて駆けつけた。
「お父さん」
黒が叫んだ。
右腕がなくなり、左足も太ももから断ち切られた男の姿を見たのだ。
「格好悪いとこ見せてしまったなぁ」
男は照れたように笑うと、自在を器用に使い、歩く、そして、自分の左足を、よっと声だし、左腕で抱きかかえた。
ぼっと炎を放ち、左足が燃える。そして、灰になり消えた。冷たい、氷のような炎だった。
「あとは白澤さんに片付けてもらうかな」
黒が男にしがみつく、そして左から男を支えた。
「無理しないで」
黒が思い詰めたように男に言った。
白も三毛もあかねも男に寄り添い、心配そうに男を見上げた。
「心配掛けてごめん」
男は素直に言うと、力が抜けたように地面に座り込んだ。
なよが刃帯儀に使う絹の端切れを白に渡した。
「それで父さんの足を止血せい」
白が慌てて、絹で男の足、その切り口を包む。
なよは振り返ると、精鋭二人を手まねいた。あたふたと二人がなよのもとにやって来る。

「白澤に連絡しておけ。原種の鬼。荒貘と瓜神、二体、古の約定により抹殺したとな」
ふっと男は二人を見上げると笑った。
「優喜君、綾さん、うちの娘たちは強いだろう。私はこんなんだから、もう君たちに教えることはできないけれど、うちの娘たちに教わって、もうちょっと強くなりなさい」
男は楽しそうに笑みを浮かべ、目を閉じた。
「お父さん」
三毛が叫んだ。黒も白も慌てて、男の顔を覗く。
「気絶中じゃ。そのうち目を覚ますわい」
なよの言葉にあかねもほっと息を吐く、あかねだけが、三人の後ろで正座していたのだ。
「あかね。いらぬことを考えるな」
なよはあかねに言うと、自在を二本取り出し、絹で担架を作る。
「三毛、たまにはお前が先頭を行け、黒は後ろ。あかねと白は横から支えろ」
なよの指図に四人は男を急拵えの担架に寝かせる。
精鋭、二人がなよに報告した。
「あと五分で白澤様一行がこちらに参ります」
その報告に、ぎろっとなよが睨みつけた。
「お前達は白澤の部下じゃから、白澤に向けて、様付けするのは不思議ではない。しかし、他家の者に言う時には白澤一行と言え。様をつけるな」
二人はなよに目に竦み上がり、唯々うなずいた。
「も、申し訳ありません」
青い顔をしながら答える。なよはにかっと笑った。
「とはいえ、白澤には別荘をもらった。なにやら、西の外れ、部屋で月見のできる屋敷と言っておったが、お前達、案内できるか」
「は、はい。もちろん」
「ならば、道案内をせい。あとは別荘をわしにくれた御白澤様に任せておけばよいわ」
なよに言葉に白が慌てた。
「なよ姉さん。家には帰らないの」
「大事な娘たちの気持ちを奪った男を、幸が許すと思うか」
三毛が泣きそうになって言った。
「それじゃ、お父さんと暮らせなくなるよ」
なよはその言葉に少し俯いたが、顔を上げ言った。
「小夜乃がなんとかするじゃろう」

小夜乃は機のある部屋で正座をし、目をつぶっていた。小夜乃はなよが機を織る、その音を聴くのが好きだった。
小夜乃は自分が角の鬼であることを知った夜、男にこのまま、ここにいさせて欲しいと願い出た時のことを思い出していた。
「小夜乃がいなくなると、みんな、寂しいし、叔父さんも泣いてしまうかも知れない。小夜乃、何処に行ったんだろうって、みんな、ご飯も食べずに探して回るだろう。だから、小夜乃、ここに居てください。小夜乃、君は自分で思っている以上に大切な人なんだよ」
男はいたずらげに笑った。
「ありがとう、ございます」
「それに叔父さんは幸で手一杯だ」
「え」
「幸は国を潰してしまうだけの力を持っている、叔父さんは幸にそんなことをさせないようにしなきゃならない。なよもね、それだけの力は持っている。さすがに、叔父さんも二人は無理だ。なよは小夜乃に任せるよ」
「はい、頑張ります」
小夜乃が元気に答えた。男が楽しそうに笑った。

今がその時だと思う。小夜乃は閉じていた目を開けた。そして、立ち上がると襖を開けた。

小夜乃は台所のテーブルでお茶を飲んでいる幸を見つけ、テーブルを挟んで幸の前に座った。
「どうしたの、小夜乃。そんな難しい顔をしてさ」
幸は湯飲みをテーブルに置き、笑った。
「幸母さん、お尋ねしたいことがあります」
「ん」
「お父さんを何処にやりましたか」
「お父さんにお願いしたんだ。ここに攻め込もうとした呪術者達が二度と来ないようにして欲しいって」
幸がたいしたことでもないというように、あっさりと答える。
「それはとても危険なことです。お父さんは力が弱くなっています、なよ母さんからそう教えていただきました。もし、お父さんが敵にやられたらどうするんですか」
幸はたいしたことではないと笑みを浮かべた。
「敵は未知数だ、厳しいかもしれないな。でも、お父さんは男だし」
小夜乃は幸を睨みつけると、テーブルを両手で激しく叩いた。
「どうしてなんですか。お父さんはみんなを大切に思ってくれています。中でも幸母さんをとっても大切に思っていてくれています。そんな、お父さんにどうしてそんなことが言えるんですか」
小夜乃は思わず、立ち上がると、ぎゅっと幸を瞬きもせず見つめる。
「な、なんだよ」
幸は小夜乃の激高に思わず言葉を詰まらせた。
「だ、だって、お父さんは男だ。男はとっても悪い存在なんだ、邪悪なんだ。だから、いなくなった方がいいんだよ」
幸の言葉に、ぎゅっと小夜乃は幸の目をまっすぐ見つめる。
「そ、そんな、見据えるなよ」
幸が少し身を引き呟く。
小夜乃が強く幸の両手を握った。
「幸母さん。男とか女とか関係ありません。お父さんはお父さんです。お父さんなんですよ」
ふっと力が抜け、幸はテーブルに俯せてしまった。
「お父さんの右腕を斬ってしまった時、二度とこんなことはしないようにって誓ったのに」
幸が力無く呟いた。

「こら、精鋭。御殿医を引っ張って来い。足の治療をさせるぞ」
「はいっ」
なよの言葉に精鋭の優喜が駆け出した。
西の屋敷、といっても、誰も住まなくなって十年以上は経つだろう。広い屋敷だが、壁は崩れ、屋根の崩落した箇所も多い。
「なよ姉さん、大丈夫かな、ここ」
黒が心配げになよを見た。
なよが屋敷の端から、端まで眺める。
「配膳所回りがましのようじゃ。右端じゃ、営繕できるか見て来い」
黒がなよの言葉に駆け出した。
「そこの精鋭、来い」
綾が慌てて走ってくる、なよの自走式刃帯儀、かぐやの竹の姫は文人であり、政治家であると聞いていた、とんでもない話だ、白澤様ともひけをとらない技術と絶対的な自信を持っている。
「布団一組と、しばらくここで暮らすに必要な生活必需品を買い集めて来い」
なよは分厚い財布を綾に手渡した。
「私が」
驚いて綾が顔を上げた。
「私でよろしいのでしょうか」
「お前ではならん理由がない」
あっさりなよは答えると、三毛を呼んだ。
「三毛。白は父さんの看病。お前は荷物運びじゃ」
「お父さん、大丈夫かなぁ」
心配そうに三毛がなよを見つめる。
「大丈夫、心配するでないわ」
にかっとなよが笑った。元気づけられるように、三毛は安心の吐息を漏らすと、綾と買い出しに向かった。
黒が戻ってきた。
「大丈夫、壁も柱もしっかりしているよ」
なよが黒の言葉にうなずいた。
優喜も医者を背負い走ってきた。
「うわっ。かぐやの」
思わず御殿医が叫んだ。
「わしの父さんが大怪我じゃ。しっかり治療せよ。もしも」
言いかけて、なよが凄みのある笑みを浮かべた。
黒とあかねが男の乗った担架を持ち上げた。

綾は戸惑っていた。
隣りを歩く三毛、沈んだ顔で歩く。
「あの、三毛さん」
綾の声に三毛は笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、考え事をしていました」
「財布、私が持っていていいのでしょうか」
「え、いいですよ。なよ姉さんが綾さんを認めたのですから。えっと、お布団は後にしましょう、かさ張りますから。まずはお鍋とか炊事道具かな」
三毛がそっと笑みを浮かべた。

ホンケ、それは一つの呪術集団であると同時に白鷺城を模した城を中心にした城下町であり、およそ一万人が生活する都市でもある。呪術者はその内、千人、もちろん、その頂点には当主と白澤がいる。
綾と三毛は城の西側にある市にいた。
城の西側の通りに商業施設が並ぶ。城の方針により、鉄骨やセメントの利用を極端に制限されていることもあり、全ての商店が木造平屋から、高くても三階に留まっていた。行き交う買い物客も多い、自動車は許されず、大きくても大八車だが、誰もがごく簡単な呪術なら使うこともでき、思うほどの不自由はない。
「うひゃ、にぎやかですよ、綾さん」
人波を書き分け、三毛が綾を見上げた。
綾がはにかむように笑みを浮かべた。

なんて可愛い妹だろう。
綾は素直にそう思う。先生の娘、特に三姉妹の連携攻撃、先程の鬼を斬る滑らかさは相当な使い手だ。でも、少し見上げて、えへへと笑う女の子。可愛くて、御人形のようで、ぎゅっと抱き締めそうになる、何考えてんだ、私。
「どうしましたか、綾さん」
「え、あの。なんでもないです」
「それじゃ、まず、箒ですとか掃除道具から買いましょう」
あちらこちらの店を覗き、二人が買い物をする。掃除道具の他、鍋や炊事道具、布団は綾が纏めたものを背中に背負った。
三毛は箒を担ぎ、それに鍋だとかを差す。
「綾さん。あんまり、おしゃれじゃないですね」
お互いの姿に二人は顔を合わせて笑った。
綾を先頭に西の屋敷へと帰る、たくさんの人だ。
すれ違う人達、ふっと綾の小さな鞄に誰かの手が入る、財布が抜き取られた瞬間、三毛はふっと手の力を抜き、箒を手放す、姿勢を落とし、その財布を掴むと、ぐっと捻った。一秒にも満たない瞬間、財布を片手に三毛は箒を背負い、何もなかったように歩く。
財布の両側面には薄いチタンの金属板が入っている、すった女がその手首を押さえた。あまりの速さに関節が対応できなかったのだ。
「綾さん、財布を落としましたよ」
三毛が綾に声をかけた。
振り向き、綾が焦る。
「ありがとう。怒られるところだった」
焦りながら、綾が鞄に財布を入れ直す。
「大丈夫ですよ、なよ姉さんはそういうのはあまり怒りません。それに、その財布、呪いの財布ですから。すぐになよ姉さんの元に戻ってきます」

えっと綾が驚いた瞬間、後ろから手拭で誰かが口を塞いだ。同じように三毛も口を塞がれる、クロロフォルムだと気づく。三毛には耐性があったが、逆らわずに目を瞑った。
二人が運ばれて行ったのは、荒れ果てた神社の境内だ。
無造作に三毛は立ち上がると辺りを見渡す。男が八人、女が三人。全員が驚いて、三毛を見つめた。三毛は手首に包帯を巻いた女に目をやった。
「お父さんならこう言います。お金が欲しいのならば、まっとうに働きなさいと。あなた、これを機会に足を洗いませんか」

呆気に取られたように女は口を明けたまま、三毛を凝視した。綾が首を振りながら、やっと目を覚ました。綾が素早く回りを見渡す。
十一人、五人までなら、なんとか闘える。十一人は無理だけれど、時間くらいは稼げるか。
すっと三毛が綾の肩に手を置いた。
「なんだか、知らねぇけど、分厚い財布を置いて、少しばかり殴られてくれれば解放してやるぜ」
一番がたいのいい男が言い放った。
「財布は姉からの預かり物ですから渡すことはできません。貴方達こそ怪我をしないうちに去りなさい」
三毛が毅然とした姿で言う。
何処の社会でも荒くれた人間は居る。特に白澤は城内のことと、当主の世話に関心が集中し、城外のことにはあまり関心を持たないため、こういう荒々しい派がいくつか存在する。
三毛の言葉に男達が大笑いをした。
「あんまり鼻っつらがでかいと後で泣きを見ることになるぜ」
三毛は大笑いする男達の肩越しに、背を向けている男の姿を見つけた。
「そこの黒い背広の人。貴方は彼らの用心棒ですね。彼らとは全く気配が違います。技量も彼らとはかなり違うようですね」
ゆっくりと男が振り返る。右腕のない、隻腕の男だ。
すいっと三毛が目を細めた。
「面白そうな女だな」
隻腕の男が呟く。
「初めまして」
三毛が答えた。
「その片腕と黒い服と、なにより、その気配。叔父さん、お父さんを、無をご存じですね」
不意に隻腕の男が目を見開いた。
「お前、無の娘か」
「以前、無断でいらっしゃった方ですね。まだ、この世界から足を洗っていらっしゃらなかったのですか」
隻腕の男は前に出ると、左腕で刀を抜いた。
「先生。いや、俺達、そこまでは」
慌てて、がたいのいい男が叫んだ。さすがに刃傷沙汰になると、城からの追求を免れられない。
三毛も真っすぐ立つ。およそ五メートル、間合いはお互い届いていない。
三毛は左足を大きく引き、極端に平たい半身をとる。そして、姿勢を大きく下げた。
隻腕の男が気づいた。姿勢を下げることで、三毛の間合いが伸び、既に自分が三毛の間合いに入ってしまったことを。
綾も感じていた、いま、この時点で三毛が勝ったことを。隻腕の男は唸り声を上げたが、思うように動けない。三毛は既に闘う気でいた。お父さんの名を貶めた奴を許すわけにはいかない。
ぎゅっと男を睨みつける。
誰も動けない。三毛の気配に脅えたのだ。
「あんた。何してるのよぉ」
いきなり女が飛び込んできた。隻腕の男にしがみつく。
「もう、危ないことはしないって約束してくれたじゃないの」
膝を崩し、男の腰に両手でしがみつく。
「どけ、邪魔だ」
「いいえ。離さない、離すもんか。こんな刀は捨てて、一緒になってくれるって言ったろう」
女が叫び、涙ながらに男を責める。
ふっと、三毛は腰を上げると、降ろした荷物を持ち上げた。
「帰りましょう」
三毛は笑みを浮かべると、綾を促した。
「はっ、はいっ」
綾は緊張に吃りながらも立ち上がると、立ち去る三毛の後を追った。
緊張が抜けたように、隻腕の男は大きく息をついた、そして、力が抜けたように、地面にしりもちをつく。女が大声で泣きながら男を強く抱き締めた。
「泣くな。二度と刀は持たない」
男があきらめたように言った。
「約束ですよ、叔父さん」
黒が笑みを浮かべ、二人の横にしゃがんでいた。
「誰だ、お前」
「さっきの子の姉です」
黒があっさりと答えた。
「このお方があたしにあんたが危ないって教えてくださったんだよぉ」
女が何度も黒に頭を下げる。
「無事に済んで良かったですね」
女に言うと、黒は隻腕の男を軽く睨んだ。
「おかみさんのお腹には新しい命があります。その子を片親にするような愚かなことは謹みなさい」
驚いて、男が女を見つめた。
黒は立ち上がると、がたいのいい男の前に立った。
男達はあっけにとられ、茫然と立ちすくんでいた。
「貴方達。もしも、私や妹に不満があるならば、西に朽ちかけた屋敷、西の幽霊屋敷と呼ばれているらしいですね。当分、その屋敷にいますから来なさい。少しばかりこわい目に合わせてあげましょう」
にぃいと黒が目を細めた。男が地面にしゃがんだ、腰を抜かしたのだ。かまわず、黒は包帯を手首に巻いた女の前に立った。
「ご、ごめんなさい。二度と、二度とスリはしません」
黒は答えずに包帯の巻かれた手首を両手で包み込む。
そして、手を放すと、女に笑みを浮かべた。
「痛みはどうですか」
驚いて、女は自分の手首を見た。完全に痛みが消えていた。
「それでは」
黒が呟く、ふっと黒の姿が消えた。

心配そうにあかねと白は御殿医の治療を見つめていた。包帯を巻き直し、医師がほっとしたように軽く息を吐く。
「一週間は安静。動いてはならんぞ」
男は少し笑った。
「善処致します」
「他人事のように言うでないわ。で、白澤殿にはここに千尋がいるのを言うなということだな」
「面倒臭いので、できるだけ、その方向でお願いします」
「強く問われれば言うぞ、わしも命は惜しい」
男は、横になったままうなずく。
「ま、新当主の教育で白澤さんも忙しいでしょう」
男は呟くと、体を起こそうとした。
「言うそばから、何をしている。静かに横になっていなさい。血も減っているのに、輸血ができない体とは」
医師が困り切ったように言う。
白は正座をすると、枕代りに、両膝に男の頭をそっと載せる。
「お父さん。もうすぐ三毛が布団を一式用意して来ますから、それまで、じっとしていてください」
「後で薬を取りに来るように」
医師が立ち上がったのを見て、優喜が素早く、医師の履物を用意し、外へと送り出した。
「なよはどうしたのかな」
あかねが男に寄り、答えた。
「なよ姉さんは竈が一つ使えるようだからと、倒れた柱ですとかを、薪代りに集めています。あかねも手伝って来ます」
立ち上がりかけたあかねを、男が呼び止めた。
「待ちなさい、あかね」
「はい」
あかねは男の横に正座し、少しうつむく。
「あかねが自分を責めていること。心を読まなくてもわかるよ。あかね、聴きなさい」
「はい」
あかねが力無く、呟く。
「二つのこと、これはね、関係は無い。あえて言うなら、間が悪くて、関係あるように見えるだけのことだよ。そして、幸が男全体を恨むのは仕方がないんだ、父さんだけさ、別扱いにしてくれていたけれど、本当は、そういうの、とても不安定で、幸も頑張ったと思う。右腕の時から、随分経つからね」
男はあかねに笑ってみせた。
「お互い、親離れ、子離れする時期が来ていたんだろう。今回、父さんはさ、娘に頼まれて、ちょっと良いかっこしようとして、失敗して、他の娘たちに心配を掛けてしまった、格好悪い父親なんだよ」
男は左手であかねの手を握ると、笑った。
「格好悪い父さんでごめんね」
あかねは両手で包み込むように男の手を取ると、ぎゅっと自分の額に押し当てた。
「うわぁ、ごめんなさい、お父さん、ごめんなさい」
堰を切ったようにあかねの感情が溢れた。
普段のあかねからは全く想像できないほど、泣きわめくその姿に、男は右手であかねの頭をなでてやろうとしたが、改めて、その腕がないことに気づかされた。

黒は両手に紙袋を持って戻って来たが、その様子に靴を脱ぐのも忘れ、男に駆け寄った。
「大丈夫。まだ、父さん、死んでないよ」
男が静かに言う。ほっとして、黒は腰が抜けたように床に座り込んでしまった。
「黒姉、靴を脱いでください」
白も気を落ち着かせると、黒に言った。
黒も両手の荷物を降ろし、ほっとした表情を見せると、靴を脱ぎ、土間の上がり間口に置いた。
やっと、あかねは泣き止むと、なよ姉さんの手伝いを
してきますと呟き、部屋を出た。
しばらくして、三毛と綾が戻って来た。
「ただいま。いっぱい、買ったよ」
三毛がこの場の空気を変えるかのように、元気に言った。

 

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遥の花 藍の天蓋 ガンマン

遥の花 藍の天蓋 ガンマン

男は店の隅に座る。店ではこの席が一番迷惑がかからない。あさぎの淹れた珈琲をゆっくりと飲む。
昨晩は賑やかだったと思い出す.笑が初めて泊まった、ただでも賑やかであるのに、笑が加わることで一層にぎやかになり、疲れ果てたのだろう、龍之介が男の横でぐったりと寝込んでいる、喫茶店に避難したわけだ.
時計を見る、朝9時、起きるまで寝かせておくかと思う.

「あの、お父さん、いいかな」
あさぎが男の前に立っていた。
「甘いにおいがするなぁ、あさぎ、試食かい」
「はい」
あさぎが笑みを浮かべ頷いた。そして、あたふたと調理場に戻り、皿を一つ、男の前に置いた。十センチ径の正方形ケーキ、チョコレートで覆われており、ホワイトチョコレートで描かれた模様、これはアイリッシュだなと男は思う。
「あさぎはデザインの才能があるのかもしれないね、とても、美味しそうだ。もったいないけど、食べていいかい」
男が顔を上げた。
「どうぞ、お願いします」
あさぎが男の前に座った。
フォークで半分に切り、口に運ぶ。
「美味しいなぁ、この甘さは砂糖よりも、そうか、安納芋だな。チョコレートのパリンと割れるのも楽しい。美味しいの、ありがとう、あさぎ」
あさぎがくすぐったそうに笑みを浮かべた。
「こちらこそです、ありがとうございます、お父さん」
男は少し照れたように笑うと、ふっと顔を奥に向けた。
「来たようだよ」

黒が駆け込んできた。
「お父さん、お父さん」
黒の声に男が笑った。
「ここにいるよ」
黒はにっと笑うと、竜之介をすくい上げ、膝に載せる。そして、男の隣に座った。
黒が照れたように笑う。
「黒も試食してくれるかい」
「いいの」
「いいよ」
男が笑った。
黒はあさぎを見つめると、ちょっと恥ずかしそうに笑った。
「あさぎお姉さん、いいかな」
「感想、お願いね」
黒はしっかり頷くと、男からケーキの載ったお皿を受け取る、黒の幸せそうな顔に男は笑った。
一口食べて、黒が目を輝かせた。
「美味しいです、あさぎ姉さん。チョコレートの苦みとスポンジのしっかりした甘さが重なってとても楽しいです」
「ありがとう」
あさぎも楽しそうに笑を浮かべると、ハーブティを用意するため、厨房へ戻る。
「お父さん、美味しいね」
黒が嬉しくてたまらないと笑う。
「なんだか、黒は子供だなぁ」
「そうだよ、お父さんの子供だもの」
黒が幸そっくりの笑顔で笑った。
「でも。昨日の朝、三人でさ、笑さんの実家に原種の鬼がいたって報告してくれたときには、すごく大人っぽかった」
「だって」
黒が不安そうな表情を浮かべた。
「黒は原種の鬼、それも第二王子にびびったか」
黒が仕方なそうに頷いた。
「しかし、なぜ、第二王子、自らが人の国にやってきたんだろうな、鬼の世界では雲上人だ、手足のように動く部下が数え切れないほどいるだろうに」
男は少し考えるように視線を落とす。
いまの鬼王の寿命が尽きれば、実質、第一王子と第二王子のどちらかが新しい鬼王になるだろう。順位から言えば、第一王子が鬼王になるが、第二王子はなかなかの野心家だ。第一王子を暗殺すれば、しかし、それは難しい、ただ、鬼王の前で二人が決闘するとなれば、話は別だ、勝った方を鬼王は新しい鬼王と指名するだろう。ただ、男は考えた。鬼王の長寿はなよの延命術によるものだ。もしも、鬼王がもう一度延命術を望むとしたら
「それは無理というものじゃ」
男の前に座り、あっさり、なよが答えた。
「延命術を二度施すことはできん、術的に不可能じゃからな」
「それじゃ、なよは鬼王がどちらかに王を譲ると考えるかい」
「鬼王は子供を作りすぎた、原種の鬼同士を戦わせることで、数を減らす、実力で最後に残った一人を鬼王とする、そんなところじゃろうな」
男は頷くと、少しいたずらげに笑みを浮かべた。
「やっぱり、なよは第一王子に勝ってもらいたいかい」
「つまらんことを父さんは知っておるのう、確かにあやつはわしの実子じゃが、先頭になってわしの国に攻め込みおった、いま、わしの子供は小夜乃だけじゃ」
黒はわけがわからず、いきなり現れたなよと男の顔を交互に見つめた。
「あの、なにがなんだか、わかりません」
なよが黒に笑いかけた。
「父さんがえらくおもしろいことを考えておるものじゃから、少しばかり、口を挟んだだけじゃ」
「なよは、心を読むのに遠慮がないからなぁ、人権蹂躙だよ、困った困った」
男が楽しそうに笑った。
「あ、あの、第一王子がなよ姉さんの」
「そこは忘れておけ」
なよがぎゅっと黒を睨んだ。
「わ、忘れます」
黒は即答した。
二人のやりとりを男は楽しそうに見ていたが、ふと、黒に声をかけた。
「人の国に鬼が入れば、白澤さん以下精鋭の仕事だ。ただ、白澤さんは新しい当主の教育に懸命で、今回の件は精鋭に丸投げだろう、白澤さんはそういう無頓着なところがあるからさ。で、精鋭が笑さんの実家に行けば、力の差は歴然だ、精鋭が勝つ可能性は全く無い」
男は黒の目をじっと見つめた。
「黒、第二王子と戦ってみるかい。もっとも、殺してしまうと、人と鬼の関係が難しくなるから、半殺しにして、簀巻きに繰るんで、鬼の世界に送り返す、それだけでいいんだけどね」
男はそう言うと緩やかに笑った。
慌てて黒が首を振った。
「む、無理です」
「倒せとは言ってないよ。ちょっと、気絶させれば、あとは精鋭に任せればいいんだから」
男が楽しそうに笑った。
「もう、お父さんは意地悪だよ」
「なら、一つだけ約束してくれたら、父さんの能力、一日
、貸してあげよう」
「えっ」
黒が男を見つめた。黒はどきどきして男を見つめた。
「あの、約束って」
「簡単なことだよ、一日だけ断食してくれればいいだけだよ」

黒が息を飲んだ.怯えたように俯く.
男がなぐさめるようい言った.
「無理しなくていいよ.父さんもさ、黒がお腹減らしてるの見るの辛いからさ」
ふぃっとなよが笑った.
「ならば、父さん、力をわしに貸せ.第二王子の顔面、思いっきり、どついて来てやる」
「うーん、なよはちょっとなぁ」
「なんじゃ、わしでは不満というか」
「だって、なよは力をね、一日で返してくれるかい」
なよが嬉しそうに笑った.
「返すわけなかろう、無の力じゃぞ。父さんもいまはこんなじゃが、その力、健康な体が受け入れれば、鬼王ですら、奴の顔を踏みつけることもできる、何が哀しゅうて返すものか」
男は仕方なさそうに溜息をつくと、少し笑った.
黒は涙をため、なよの手を両手で握ると、ふるふると首を振った.
「お願い」
そして、男に、目を向けた.
「返事、待って欲しい」
「いいよ。ゆっくり考えなさい」
黒はゆらゆらと立ち上がると店の奥へと歩いていく.
男が見送った.
「面白い奴じゃのう。一日の断食ができぬとは。一日でも父さんの力を得れば、効率よく強くなれるものを」
「もったいないなぁ」
幸がなよの前に座っていた.
「いいんじゃないかい」
男が幸に言った.
「黒が危ないってなったら、幸、助けに行くだろう」
「うん」
「なら、時間を掛けて修行するより、友達を作って遊びに行ったり、そういう時間を過ごすのもありだよ」
幸が仕方なさそうに笑った.
「そりゃそうだ」

ふと、幸が窓の外を見つめた.途端、顔を顰める.
男はその表情の変化を見て笑った.
「幸の孫弟子だよ.やさしくするのは無理かい」
「あぁ、もう絶対無理」
ふっと、幸は男に口付けすると、慌てて奥の家へと戻る.
「どうしたんじゃろうな、ガンマンは」
「さあね、慌てて、ほら、前の人にぶつかった.お辞儀して、また、走りだしたよ」
「父さんは幸に遠見を教わったのか」
「習っていないよ.術なんか、二、三回、見れば使えるようになるもんだよ」
なよが深く息をした。
「父さんは恐ろしいのう」

喫茶店のドアが大きく開け放たれた.
「先生」
ガンマンが倒れこみながら叫んだ.

「あ、あのお父さんはこちらです」
あさぎが片手にハーブティのポットを載せた盆を片手に答えた。
あさぎの視線を追う。朧気に男の姿が見えてきた。
「先生、お願いです。助けてください」
ガンマンは男の駆け寄ると、ひざまずいて頭を下げた。大声に竜之介が目を覚まし、慌てて笑を探して、店から家へと戻る。
空いた席に男はガンマンを座らせると言った。
「血相を変えてどうしたんだい」
「先生。もう独立派はおしまいです」
ガンマンはそう言うと、うわぁっと声を出して泣き出した。
男はあさぎの淹れたハーブティを一口飲むと、テーブルに置く。
「カモミール、それにレモングラスだな」
「なかなか、父さんも詳しくなったのう。わしも珈琲派じゃったが、あさぎのハーブティは良いと思う」
「で、なよ。ガンマンは何を言いたいんだろう、心、読んでいるんだろう」
「なんじゃ、わしに訊くのか」
「だってね、感情の共有を要求されて、それを受け取ってから、話を聞くのは面倒くさいし、なら、なよから聞くのが、早くて正確かなってね」
なよは呆れたように笑うと、少し背を伸ばし、改まった口調で言った。
「この国の上層部は鬼派、米派、独立派に分かれておる、ガンマンの実家は独立派の術師旧家じゃが、およそ五十人の弟子や使用人、全てが鬼派、米派と鞍替えし、両親と妹は座敷牢に幽閉中、進退窮まった状況じゃ」
「そうかい。独立派はどんどん減っていくねぇ」
男は頷くと、軽くガンマンの肩を叩いた。
「助けるというのは、君の家族を救い出した上で、五十人を見せしめに抹殺してくれということだね。それじゃ、ちょっと張り切ってみるかな」
「い、いえ。あの」
ガンマンが顔を上げた。
その様子を見て、なよが笑った。
不意にガンマンの両肩を女の子の両手がぐっと握り込んだ。あかねだ。あかねがゆっくりと座席の背もたれの後ろに現れ、ガンマンの両肩を握りしめたのだ。
あかねはガンマンの耳元に顔を寄せると囁いた。
「順番通せよ。お前の師匠は誰なんだ」
「あ、あかねさんです」
怯えながらガンマンが答えた。
「なら、まずはあたしに相談するのが筋じゃないかい。それとも、年下の女の子じゃあ、当てにならないと踏んだのか」
あかねがにやりと笑った。
男があかねに声をかけた。
「いじめるのはそれくらいにして、頼みを聞いてくれるかい」
あかねはあたふたと回り込むと、なよの隣に座り可愛く笑顔を浮かべた。
「彼んちが鬼派と米派に分かれたというのは、鬼派と米派が結託しはじめたということかもしれない。あかね、彼んちを独立派に戻してきてくれるかな」
あかねがくっと頷いた。
「この二つは敵対しているほうが良いということですね」
「そうだね。いろんな奴がそれぞれ、いろんな風に主張している方が平和なんだよ。力が集まりだすとろくなことがない。引っ張りあって停滞している間が花というものさ」
男が冷めたハーブティを飲み干した。
「そうだ、三毛と白、一緒に行っていいですか」
「そうだね、黒はいま悩み中だし、三毛と白がよければね」
「そういえば、黒、考え込んでいるようでしたけど」
「一日、断食をって勧めたんだけどね」
あかねが笑った。
「それは、かなり厳しいですよ」
「読みが甘かったなぁ、一日くらい大丈夫だと思ったんだけどな。さて、三毛、白、来れるかい」
男が呟くと、慌てて、三毛がやってきた。
「お父さん、呼んだ」
「ちょっとね、頼みたいことがあってね」
あかねがにっと笑った。
「私と一緒に暴れに行きませんか」
慌てて三毛が男の顔を見た。
「いいよ。三毛、行ってくれるかい」
「はい、行きます」
三毛は笑うとあかねに言った。
「あかね、よろしくお願いします」
白が駆けてきた、すでにお出かけようにおしゃれをしている。
「あ、白さん」
ガンマンが立ち上がった。
一瞬、誰だっけと白は考えたが、そういうのは、おくびにも出さず笑みを浮かべた。
男がいたずらげに笑う。
「ガンマン、うちの娘を誘惑するのはやめてくれよ」
男の言葉に白はあのときのこと思いだし、如才なく笑った。
「ガンマンさん、なにやら大変そう。きっと、お力になれると思いますわ」

ふと、喫茶店の窓を通して、男は遠くを眺めた.
「あぁ、これは面白いなぁ」
男はあかね見つめると言った.
「あかねは、遠見はできるのかい。遠くを見たり、触れたりするさ」
「さすがにそれはまだです」
「なら、右手で父さんの額を触ってみなさい」
あかねは腰を浮かすと、そっと男の額に手を触れた.手は握ったことがあるけれど、額を触るって初めてだ、あかねは自分が緊張をしているのを感じていた.
ふわっと、違う風景が目の前に見えた、これはどういう。
あかねは深呼吸をすると、男の額から手を放した.
「いろいろ、びっくりです」
あかねは呟くと、少し視線を上げ考える.そして言った.
「今日はお爺様のところに泊まります.明日の朝に遊びに行くことにします」

この古い都市の南西にある妙蓮寺、有数の古刹である。
その門の高さは三毛のゆうに五倍はあるだろう。
「こけおどしですよ、こんなものは。三毛は右、私は左です」
そう言うと、あかねは左手を左の門扉に合わせた。三毛は右手で門扉に触れる、二人、向かい合った。
二人の姿が一瞬、ゆらぐ。
轟音と共に門扉が飛ぶ。蝶番が引きちぎれ、そのまま、二枚の門扉が空気を引き裂き、銃を構えていた米兵達に激突した。
あかねは重なった門扉の近くに寄ると、隙間から中をのぞき込んだ。
「ちょっと手加減しすぎたかなぁ」
あかねが片手を門扉の下に差し込む、無造作にそのまま手を振りあげる。簡単に門扉を跳ね上げた。白がやってきて、倒れている兵士達の顔をのぞき込んだ。
「どうする、あかね。足はそのままにしておこうか」
「折角の白の実習です、ついでに持病も治してやってください」
白は笑うと、しゃがみ、兵士の体に手を溶け込ませた。
あかねと三毛は破壊、白はその治療実習に来たわけだ。
「まだいますね」
あかねは呟くと、しゃがんで玉砂利をいくつか拾う。
「ガンマン」
あかねが言い放った。
一瞬で、和哉は直立不動に立つ。
「他人に頼るその性根を叩き直せ。二度目はないと思え」
あかねは立ち上がると拾った玉砂利をふわっと上に軽く投げる。空中に浮かんだ玉砂利が境内に植えられた巨木へ向かって飛ぶ。
三毛が目でその方向を追った。狙撃者が茂る葉に姿を隠していた。
「あかね。今のはなよ姉さんの」
「礫技(つぶてぎ)、です。砂利が相手の額に張り付き、一時間で頭蓋骨を貫通して飛んでいきます。ここで術を解除できるのは私だけです」
にぃいと唇を歪めるようにあかねが笑った.
「あかね、そんなふうに笑うと悪人みたいだよ」
心配そうに、三毛が言った.
「私は悪人ですよ、正真正銘の.だからこそ、決心が変わらないのです」
あかねはそういうと、今度は慎ましやかに笑みを浮かべた.
「ま、彼らには」
あかねは倒れた射撃兵を見下ろし言った.
「是非とも、心から独立派に与していただき、勢力図の書き換えにお手伝いをいただきたいところです」
「終わったよ、あかね」
白が立ち上がると、あかねに声をかけた.
「半時間くらいで目覚めると思う」
「重畳です。では、本丸に行きましょう」
あかねはガンマンを指で招いた.
「自分ちでしょう。前を歩きなさい.万が一のときには、可愛い女の子三人を身を挺して護らなければならないのですからね」

北東にある宝物会館の二階、畳張りの大広間、入り口に四人はいた.その前にはおよそ五十人の独立派から寝返った弟子達、それと額に角を生やした鬼達が四人を待ち構えていた.
一番奥に、ガンマンの家族が枷に繋がれ正座していた.
心底驚いたと、恰幅のよい鬼が一体、前に現れ言った.
「寺の倅が助けを呼ぶために逃げだし、やっとのことで、連れてきたのが小娘三人とは、とち狂ったとは、まさしくこのことだな」
大口を開けて鬼が笑った.
瞬間、あかねは笑う鬼の隣に立つと、刀の切っ先を鬼の喉元に当てた.
「静かにしてくれ。あたしらはお上品なんだ」
鬼がぐっと息を飲む.

あかねは先頭にいた女の顔を睨みつけた.額に角がある.
「あたしの記憶では、原種の鬼、末子で唯一の女、笹や野瓜子姫とお見受け致します」
微かに女の鬼が歯ぎしりをする.鬼は自分の名を当てられることを好まない.
すいっと、あかねは刀を消すと、硬直した鬼を無視し、白と三毛の前に戻った.
「原種の鬼一体と、ちょうど七十の敵、うち五十は人です.どっちにしますか」
三毛が少し笑った.
「あかねは原種の鬼と戦いたいと思っている」
三毛の言葉に、あかねは両手を合わせると、にこっと笑い、小首を傾げた.
「三毛は七十の方でいいです。でも、あかねの戦うところを勉強したいので、先に戦います」
三毛の言葉にあかねが頷いた瞬間、三毛の姿がぶれる.

あかねの背後で、どんという大きな音が響いた。三毛が先ほどの鬼の背中を蹴り抜いたのだ。
そして、三毛はゆっくりと歩く。術師の呪が完成するのを待つ。僧兵の姿をした十人が三毛を取り囲んだ。
三毛が足を止めた。
「宝蔵院流の槍ですね。とってもいいです、相手のしがいがあります」
正面の僧が気合いもろともに槍を繰り出した。ふわりと三毛が槍の上に立つ、慌てて引き戻す槍に乗り、僧の顔面を蹴る。僧が倒れた瞬間、次々と槍が繰り出された。
宝蔵院流の槍は十字となり、引き戻す槍の動きででも、相手を斬る。ふわり、ふわりと三毛が槍を避ける。
「あぁ、呪文の詠唱が完了したようですね」
三毛は呟くと、すいっと姿勢を落とした。一人の僧の足を蹴る、倒れた僧の槍を取り、ふわりと浮かび上がった。
「槍の使い方をお教えします」
呟くと同時に正面の僧の胸を刺す。返す勢いで後ろの僧を袈裟がけに斬る。
白が言った。
「遠慮がないなぁ。治療されることを前提に斬っているんだろうけれど」
三毛の首、後ろから剣が凪ぐ、ふっと力を抜き、三毛は刃から逃れ、振り向いた。
二人の少年が剣を構え、空に浮かんでいる。
「護法童子、呪文が完成したようですね」
仏法を守護するという、護法童子が呪文によって現れたのだ。
立円と横円、二人の護法童子が、剣で二つの円を描く、
二つの剣が密な刃となり飢えた龍のように刃が空を喰らう。
三毛は大きく息を吸うと、自在を下段に構えた。まったくのがら空きだ。龍が三毛を刃のあぎとに飲み込もうという一瞬、姿勢を落とす。体を伸ばし、床とまったくの平行になる。護法童子の足首を捕らえた。自在を掬い上げる、護法童子二人が床に激突し、その姿を消した。
振り返り、鬼を睨む。二十はいる鬼の顔に怯えが走った。
ずいっと、笹の屋瓜子姫が鬼達の前に立つ。
三毛はすっと笑みを浮かべると、あかねに声をかけた。
「あとはお任せします」
そういうと、三毛は治療をする白のもとへと戻った。
手を相手の体に差し入れる白の動きを興味深くのぞき込む。
あかねは瞬きせず三毛を見つめたが、ふっと息を漏らした。気分を変えるように、瓜子姫を見つめた。
「さて、どうする。私は以前、原種の鬼に勝てなかった。それがあるから、末子とはいえど原種の鬼に勝っておくかなと思っている、でも、弱いものいじめは良くないなぁと思うからさ」
ぐっと瓜子姫があかねを睨みつけた。
片手にその身長ほどの剣を支え持つ。それを両手に持ち直した。下段から上段へと剣を持ち上げた。
鬼達が瓜子姫の背後から期待の視線を送る、反して。微かに瓜子姫の視線が泳いだ。
ぐっと唇を噛みしめ、瓜子姫があかねに向かって走り出す。あかねの脳天を剣が打ち砕く、しかし、すっと避けたあかねの目の前を剣が走る。ふわりとあかねは浮かび上がると、瓜子姫の後頭部に手を添え、床に顔面を押しつけた。
「動くな、そのままにしていろ」
あかねは囁くと、床に押し当てた、瓜子姫の横に正座し、その耳元に囁きかけた。
「あんたは原種の鬼としての体力はあるが、技や心構えはまったくの素人だ。鬼達の当然という期待に応えなければと随分無理をしたな。いいから、そのまま、俯いていろ。お前の良いようにしてやる」
すすり泣く瓜子姫の声があかねに聞こえた。
「泣くな、歯を食いしばれ。泣くのは解決を遅らせてしまう」
あかねは何事もなかったように立ち上がると、妙蓮寺の和尚、和哉の父親に視線を向けた.
「当主、来い.手枷だけのはずだ、普通に歩いて来れるだろう」

あかねの言葉にむっとした顔を向けたが、いきなり立ち上がりやってきた。
当主の手枷をそのままに、あかねが笑みを浮かべる。
「無事、済みました。御子息の決死の御活躍により状況は好転いたしました。私も彼の師として、誇らしゅうございます」
「ありがとう、礼は改めて行うことにする」
手枷を気にしながら、当主が答えた。
「さて」
あかねは辺りを見渡し、先程の三毛に背中を蹴られ二つ折りになっていた鬼を見つけた。白の治療を受け、呆然と座り込んでいる。
「そこの、嘗様儀童子、こっちへ来い」
鬼が驚いてあかねを見た。しかし、あきらめたように俯くと、よたよたとやってくる。
あかねが二人にだけ聞こえる声で言う。
「独立派の雄、妙蓮寺が鬼派に鞍替えする。そして、あたしや妹たちは、その手土産だ。どっちが最初に書いた品書きかは興味ねぇけど、五十人の直弟子と使用人が鬼派に変わっているというのを、当主が気づかないというのは無理があるな」
当主が俯いた。
「状況は変わった。独立派に未来はない」
「知らぬは、わざと逃げさせてもらった息子のみか」
あかねは呟くと、ガンマンを手招きした。喜色万辺でガンマンがやってきた。
「お疲れさまだったな」
あかねがガンマンに笑いかけた。
「いえ、師匠方ご尽力があればこそです。ありがとうございます」
「最初の一歩はガンマン、いや、和哉の勇気があればこそだ。誇らしいぞ、これからも独立派を引っ張って行ってくれ」
いつもは厳しいあかねの言葉にガンマンは目を潤ませながらうなずいた。
「あとは。ん、そうだな」
あかねはじっと俯いて、はいつくばっている笹屋の瓜子姫の横に座った。
「もういいよ、顔を上げなさい」
おそるおそる顔を上げた。鬼達も特に大きな怪我もなく済んだようだ。
「単純に聞きたいことがある、いいか」
瓜子姫がうなずいた。
「あからさまに聞く。好きな男はいるか、心に誓った相手はいるか」
瓜子姫がゆっくりと首を横に振る。
「なら、和哉と政略結婚をしろ」
「えっ」
驚いて瓜子姫が目を丸くした。あかねは手を差し伸べ、瓜子姫を前に座らせた。
「なぜ、お前がここに来たのか、言わなくてもわかるよ。だから、お前が和哉を気に入れば、そのまま、ここで生活をすればいい。和哉は面食いだ、美人で良かったな」
急な展開についていけず、言葉をだせずにいた。あかねは立ち上がると、瓜子姫に手を貸し、和哉の前に瓜子姫を立たせた。
「和哉、政略結婚だ。原種の鬼、笹屋の瓜子姫を嫁に貰え、そうすれば、鬼王も手を出しにくくなる、ま、呈のいい人質だ、大切にしろよ」
一瞬、和哉は狼狽えたが、瓜子姫が美人であるし、なにやらしおらしい姿に、あかねや三毛にはない、なんだか、はいと素直に言ってくれるのではという雰囲気に、急に瓜子姫がいとおしく思えた。
「よ、よろしくお願いします」
つまりながらも、和哉が瓜子姫に声をかけた、はにかむように瓜子姫が笑を浮かべた。
「単純にバカップルを作ってしまったか。瓜子姫、和哉は素直で嘘のつけない、正直者だ、言い換えれば、ガキだな、立派なここの跡取りとして育ててやってくれ」
「ひどいですよ、師匠。俺、俺、頑張りますから。あ、あの、それで」
ふっと和哉が瓜子姫を見つけた。
「あ、あの、よろしければ」
「はい」
「言葉の終わりに、だっちゃ、と付けていただいたりとか」
「それでよければ、だっちゃ」
あかねが和哉の顔を睨みつけた。
「これからは、お前をおたくガンマンと呼ぶ」
「師匠、俺の心の中、読んだんですか。ひどいですよ、人権侵害です」
あかねは和哉を無視するように瓜子姫に言った。
「あんまり、こいつの言うこと聞かなくていいぞ。そのうち、四六時中、虎じまのビキニを着てくれと言い出すからな」
「そ、それはさすがに恥ずかしいです、だっちゃ」
瓜子姫が両手で顔を隠し俯いてしまった。
「案外、気が合うかもな」
あかねはじろっと和哉を睨みつけると大きく溜息をついた。
「さて、御当主。今日は婚約の祝いだ」
当主が血管が切れるかと真っ赤な顔をしていた。
「なんだ、御当主。赤い顔をして、息子の嫁に照れているのかい、あんまり、顔を赤くしていると赤鬼と間違われるぞ」
あかねが愉快でたまらないと笑った。

「大変だよ」
三毛が慌ててやって来た。白も駆けて来る。
「黒姉が第二王子と戦う」
三毛が叫んだ。
あかねが驚いて目を見張った。
「さすがに私たちが全員でかかっても、勝てませんよ」
「それは大丈夫」
白が説明した。
「黒姉、お父さんの力を一日だけ借りたから」

「ちょっと、待ってください。初耳ですよ、それ」
あかねは人目も気にせず、声を上げた。
「健康な体がお父さんの力を発揮する。百パーセントのお父さんの力を見ることができるってことですよ、なんて羨ましい。あ、そうか。黒の一日断食ってそのためだったんですね、もぉ、お父さんは言葉が少なすぎます。わかっていれば、こんなとこに、うぅっ」
あかねは大きく息を吐くと、二人に振り返った。
「ぐずぐずしていると、黒の活躍を見逃してしまいます、行きますよ」
「で、でも」
三毛が戸惑うように言った。
「まだ、ここから離れられないよ」
「そうですわ。流れが変わってしまいます。それに、さっきの米兵もそろそろ、目を覚ましますわ」
白が三毛に代わって説明をする。
「あぁ、見たい、見たい」
あかねがだだをこねるように叫んだ。
「お父さんの動きを学ぶ最高の機会ですのに」
あかねはぜいぜいと激しく息をしていたが、無理矢理気を落ち着かせると、小さく呟いた。
「あかねはこれでも、頭の中は大人ですから、こういう手段は執りたくありません。ありませんが、今だけ、子供に戻ります」
あかねは大きく息を吸うと、おもいっきり叫んだ。
「お姉ちゃーん、助けて」
思わず白がうひゃぁと声をあげた。
普通に歩いてきたとでもいうように、自然に、幸があかねの前に立っていた。エプロンはあさぎの手伝いをしていたのだろう、右手にはつまみ食いのお煎餅が一枚。
「どうしたの、何かあった」
「お姉ちゃん」
半音高くあかねは声を出すと、幸に走りよりしがみついた。そして、顔を上げ、泣きぬれた瞳で幸を見上げる。
「お姉ちゃん、お願い」
「え、ええっ、どうしたの」
「あかねも黒の頑張っているの、応援したいの。すぐ近くで」
あかねがきらきらと泣きぬれた瞳でじっと幸を見つめた。
幸でもどきっとする表情である。
「お願い、幸お姉ちゃん」
「わかった。大丈夫、あとは任しておきな」
にっと幸が笑った。
「いいの」
「いいよ。しっかり、黒を応援してくれ」
「うん」
そっと、あかねは眩しそうに笑を浮かべた。
あかねはゆっくりと手を放すと白と三毛、二人に向き直った。
「うっしゃ、行くぞ」
二人に駆け寄り叫んだ。
「花魁道中の儀、発。しゃん」
慌てて二人もあかねに駆け寄り、しゃん、しゃんと叫ぶ。三人の姿が薄れ消えた。
全員が言葉なく呆気にとられていた。
幸はぐるりと見渡し、表情を変えず、ばりっと煎餅をかじる。
エプロン姿の美少女がいきなり現れ、お煎餅をかじっている。誰もどう対応すればいいのか、見当もつかなかったのだ。
ふぃっと、幸は瓜子姫の前に立ち、見上げた。
「次期鬼王が決まれば、あなたは唯一の原種の鬼の女だ。子供を産むための道具にされるだろう。あなたもそれが嫌で、人間の世界にやってきたわけだ。隣の男、こいつは私の孫弟子にあたるわけだが」
幸がガンマンを見上げた。
「あかねがお前に教えた術をしっかり身につけていれば、この程度の鬼や軍隊に慌てる必要はなかったはずだ」
「も、申し訳ありません」
和哉が直立不動で答えた。幸の恐ろしさはさんざんあかねから教えられていた。
「ま、言ってもしょうがない」
幸は仕方なさそうに首を振ると、当主に向き直った。
「ま、御当主。跡取りに良い嫁ができて良かったな」
「お前等は勝手に」
当主が呻いた。
「なんだよ、愛し合っている二人の仲を裂こうというのか。嫌なおやじだなぁ」
瓜子姫に言う。
「頭の固いおやじだけれど、それだけに単純だ。うまく甘えておけばいい」
幸は笑うと隣にいた鬼に言った。
「ここでは、あんたが一番上らしいな、新様儀童子」
ふぃっと、幸は表情を曇らし、鬼を見つめ、かすかに俯いた。
「辛かったろうな、お前」
「な、なんだ」
「鬼の世界は絶対的な身分制だ。本来なら、お前はこんな前線に出てこなきゃならない立場じゃない」
「な、なんだ。急に」
すっと幸は視線を上げ、鬼の目を見つめた。
「権力争いで、お前は下の身分の者に破れた。殺されずに済んだだけ良かっただろうと言われただろう」
鬼が一瞬、息を飲んだ。
相手の記憶を読みながら、理解者を演じる、幸の得意でもある。
「あなたは本当はここにいるんじゃない。もっと、上の立場だ。大局を指図しているはずじゃなかったのか」
鬼の目が動揺を隠しきれずに動く。
「泣くな、目をつぶれ」
幸の声に鬼がぎゅっと目をつぶった。
幸は浮かび上がると鬼の耳元に顔を寄せる。
「いつまでも妻は優しくない、ふがいないと強い言葉をお前に浴びせたろう」
「俺は、俺は」
鬼が聞き取れないほどの小さな声で呟く。
「子供はどうだった、父親としての威厳を守ることができたか。いつもと変わらない笑顔で迎えてくれたか」
鬼が目をつぶり、唇を噛みしめた。
「二人に怒りをぶつけてはならない、妻も子供を辛い思いをしたんだ、あなたへ強い言葉は二人の悲鳴でもあったのだよ」
幸は少し言葉を落とし、語り続ける。
「これから、どうしたらいいのか、二人を幸せにしてやるにはどうすればいいのか。目をつぶり、口を閉ざし、私が再度、あなたに声をかけるまで、両手で耳を塞ぎ考えなさい。一番、あなたや家族にとって良い方法を考えなさい」
すっと、幸が離れる。鬼が両手で耳を塞ぎ、座り込んだ。
いたずらが成功した子供のように、にぃぃっと幸が笑った。
「さて」
幸は瓜子姫に言った。
「婚約をするなら、お前の身内もここにいる方がいい。鬼王をここに呼べ」
「ええっ、む、無理ですよ。私なんかのために来ません、それに、一触即発の」
「面倒くさい親子関係だな」
幸は考えていたが、ふっと顔を上げた。
「天井が随分高い。がらの大きい奴でも大丈夫だろう」
幸は浮き上がると、右手を伸ばす、手のひらが消えた。
ぐぃっと幸が手を戻した瞬間、大きな鬼が幸の手に引っ張り込まれ、勢いよく、床に尻餅をつく。
「な、なんだ。なにがあったんだ」
呆然と高間宮王子が呻いた。
「やぁ、高間宮元王子、久しぶりだ」
高間宮王子が幸に気づいた。
「うわぁ、お前は」
幸がにかっと笑った。
「私はお父さん以外から、お前なんて言われたくない。一度、言ったよな」
あきらかに高間宮王子は怯えた表情を浮かべたが、すぐに平静を装う。
「これは幸さん、久しぶりですな」
幸は何事もなかったように頷いた。
「久しぶりだ、四角達はうまく国を運営しているか」
「四角・・・」
「金角、銀角、右角、左角、まとめて四角でいいだろう」
幸は床に着地し、瓜子姫の隣に立った。
「呼んだのは他でもない。お前の妹、笹屋の瓜子姫が婚約した。お前も祝ってくれ」
「な、なんだと」
思わず、高間宮王子が声を張りあげた。
「なんだ」
幸が高間宮王子をかすかに睨んだ。
「相手があたしの孫弟子では、不満というのか」
「あ、いや、いや、そうじゃない。突然のことに驚いた。そう、驚いただけだ」
瓜子姫は目の前でのやりとりが信じられなかった。
原種の鬼の中でも、一番の乱暴者とされた高間宮王子が自分自身よりも小さな女の子を畏れているなんて。
にっと、幸が笑った。
「なんだ、あたしの誤解か。それは申し訳なかったな」
幸は瓜子姫に向き直ると、楽しそうに言った。
「よかったな、瓜子姫。兄も祝福してくれたぞ」
瓜子姫はもうどう言ったらいいのか、わからなくなっていたが、とにかく、高間宮王子に深く頭を下げた。高間宮王子はあきらめたように溜息をつくと言った。
「久しぶりだな、笹屋の瓜子姫よ、おめでとう。でも勘違いするな、これは結婚おめでとうではない、お前が幸さんと縁ができたこと、これにおめでとうと言っているのだ」
幸は笑うと、高間宮王子に言った。
「そうだ、ついでにここの鬼を引き取ってくれ」
「こいつらは何故ここにいる。いや、そもそも、ここは何処だ」
「妙蓮寺、独立派の敷地内だ」
「なるほど、噂に独立派の一部が鬼派と迎合しつつあると聞いたことがある」
「ま、お前にとっても、鬼派が勢力を増すのを歓迎したくはないだろう。独立派は独立派でいてくれるほうがいい。だから、この鬼達を、お前、引き取ってくれ」
高間宮王子は幸の言葉にしばらくの間考えていたが、ゆっくりと頷いた。
「承知した」
幸は頷くと、座り込んだ鬼の耳元で囁く。はっと、鬼が目を見開いた。
「そうか」
鬼が呟き、慌てて、高間宮王子の元に駆け寄った。
「これは、第三王位継承者高間宮王子とお見受けいたします。私、新様儀でございます、王子の元で働きたく」
「わかった、新様儀童子。期待しているぞ」
「ありがたき幸せにございます」
感極まって新様儀童子の声がうわずった。
「銀角、来い」
高間宮王子が声を発した。一陣の雲が現れ、銀角が姿を現した。
一瞬、銀角の視界に幸が入る。飛び跳ねるように、銀角は幸の前に駆け寄ると、土下座をし、床に額をすり付けた。
「これは幸様。ご尊顔を拝することができましょうとは、恐悦至極にございます」
「元気そうでなによりだが、お前の主が気分を害しているぞ」
幸が苦笑いをする、はっと気づき、銀角が振り返った。高間宮王子が醒めた目で銀角を眺めていた。
「あ、いや、王子。これは」
「構わぬ。誰とて己が命が一番大切だろう」
高間宮王子はわざとらしく溜息をつき言った。
「これは新様儀童子、それとその部下達だ。我が支配下に入る。国へ連れていき、教育せよ」
「は、直ちに」
高間宮王子と笹屋の瓜子姫を残し、すべての鬼が高間宮王子の国へと移動する。残った鬼はこの二人だけだ。
「やぁ、なんか広くなった」
幸が気楽に笑った。
「気楽な奴だ」
高間宮王子が小さく呟いた。
ふと、幸が数歩、横に移動する。轟音と共に大きな固まりが現れ、高間宮童子に激突した。数メートル押しやられたが、なんとか、姿勢を起こす。
「なんだ、何が」
首を振りながら、高間宮王子が立ち上がる。
「お前の兄貴だよ。余呉閂王子、第二王子だ」
幸が平静に言う。
ぼろぼろに殴られ気を失った余呉閂王子が仰向けにひっくり返っていた。
「あ、兄者」

幸は余呉閂王子の傷の様子を睨んだ。体中、拳の形に黒くえぐれている、なかなかの拳速だと思う。
「兄者、どうした、誰にやられた」
余呉閂王子が何かを言おうとするが、息を吐くことすら苦しくてかなわない。
幸はすたすたと余呉閂王子のところにやってくると、浮き上がり顔をのぞき込んだ。
「さすがの原種の鬼も、ここまでやられると虫の息だな。回復するに半年はかかるだろうけれど、その間に第一王子が鬼王を継承してしまう」
幸はどうしようかなと小さく呟いたが、ま、いいかと、顔を上げ、高間宮王子に言った。
「その兄貴を仰向けに寝かせろ」
幸の言葉にまるで部下のように高間宮王子が従う、当然、言うことをきく、幸の意志が高間宮王子をそのように動かした。
幸が余呉閂王子の額に手をかざす。すっと、王子の息が整いだし、傷も薄れだした。
「完全には治さない、ぼこすかにやられたこと、しっかり覚えておいてもらわなきゃな」
幸が気楽に笑った。
ゆっくりと高間宮王子が余呉閂王子の背中に手をやり、上半身を起こす。
すいっと幸が一歩下がった。
「ばかもの」
いきなり現れたなよの回し蹴りが余呉閂王子に頭に激突する、あらぬ方向に向いた頭を幸が両手で直した。
「首が飛んでも、しばらくなら生きているってのは面白いものだな」
「お前は」
高間宮王子が叫んだ。
「かぐやのなよ竹の姫」
そう言った瞬間、なよの拳が高間宮王子の顔面を強打した。尻餅をついた高間宮王子に怒鳴りあげた。
「高間宮よ、お前を育てたのはこのわしじゃ。お母様と呼べ」
「なよ姉さんはご機嫌斜め。黒は、どうだった」
幸が気楽に尋ねた。なよは片手に持っていた一升瓶の酒を一口飲むと、幸に言った。
「せっかく、激しい攻防の戦いを肴に飲むつもりじゃったのに、黒のたこ殴りじゃ、背中が寒くなってしもうたわ」
「まぁ、そうだろうね」
幸も先ほどの余呉閂王子の姿を思い浮かべて頷いた。
「こちらに来れば賑やかかと思ったが、こちらの祭りも終わったようじゃのう」
がっかりとなよが言った。
「ううん、これから、ガンマンと原種の鬼 笹屋の瓜子姫の婚約の宴会があるよ。あとは、米兵さんたちがそろそろ乱入してくると思う」
にかっとなよが笑った。
「よし、宴会の準備をしておけ。わしは米兵とやらを苛めてこよう」
「殺しちゃだめだよ。なよ姉さん、彼らは独立派になるんだから」
「大丈夫じゃ、任せておけ」
なよの姿がふっと消えた。
しゃん、しゃん、遠くで声が聞こえた。ふわりとあかねと三毛と白が幸の前に現れた。
ふっとあかねが倒れる。慌てて、三毛があかねを後ろから抱え込んだ。
「うわ、あかね、大丈夫」
白が慌てて言った。
幸はあかねを見つめると、愉快に笑った。
「いま、あかねは全神経を総動員して、黒の動きを復習しているんだ、三毛、あかねをしっかり支えていなさい。そしたら、三毛はあかねの命の恩人だ。後で、あかねから黒の動きを解説してもらったらいいよ。で、白、黒は来ないのか」
白は困ったように視線を反らしたが、仕方ないと幸に言った。
「黒姉は家に帰りました。お父さんに力を返して、あさぎ姉さんに朝御飯を作ってもらうって」
「一日貸してもらったのに、半日で返すなんてなぁ、まぁ、黒らしいけれど。母さんももうすぐ帰るよ、ランチの時間は混むから、あさぎ姉さんの手伝いをしなきゃ」

「俺は何処にいるんだ」
消え入りそうな声で余呉閂王子が呟いた、意識を取り戻したらしい。
幸が答えた。
「あんたをぼこぼこにして、簀巻きにくるんで鬼の世界に送り返す予定だったんだけど、あんたの妹、笹屋の瓜子姫の婚約の祝いだ。瓜子姫側の出席者として、あたしの娘がこちらに送り出したんだ。ということで、めでたい、めでたい」
余呉閂王子は幸の言葉が理解できず、しばらくの間、宙を眺めていた。しかし、やっと状況が飲み込めると、大声で怒鳴りあげた。
「なんだ、高間宮。そのふぬけた顔は、これ以上、女子供になめられてたまるか」
いきなり立ち上がると、声高に唸りをあげた。
「俺の呪でこの辺り一帯焦土と化してくれるわ」
いきなり、余呉閂王子が呪文を唱えだした。王子を囲い込むように薄青い球が出現した。呪文を唱える間、攻撃を遮る結界だ。
「やめろ、兄者。落ち着け」
幸がおもちゃを手に入れた小さな子供のように笑みを浮かべた。
「高間宮よ、お前の兄貴は愉快な奴だなぁ」
「この呪文は確実に何もかも吹き飛ばしてしまうぞ」
幸はふわりと浮かびあがると、高間宮王子に言った。
「あたしは余呉閂の呪を止めようと思う。高間宮、弟のお前が選べ。こいつを殺して止める方法と、殺さずに止める方法。どっちにする」
「殺さずに頼みたい」
「なんだ、いいのか。いつか、こいつはお前の敵になるかもしれないぞ」
高間宮王子が黙ったまま頷いた。ふっと幸は笑うと、余呉閂王子の前に浮かんだ。効力の巨大な呪は完成させるのに時間がかかる。余呉閂王子が呪を唱えるほどに、空気の密度が増す。
「やあ、腕っぷしは弟が上だが、呪術はあんたの方が上だな。で、腕っ節も呪術もはるかにあたしの方が上だ」
幸がにぃぃと唇を歪め笑う。
「解呪術 第一二七六式発動」
余呉閂王子の真後ろで声が響く。言葉にならない唸るような声だ。
「もう一つ、補填 第三四九八式 これは結界削除分」
余呉閂王子の右耳のすぐそばに幸の唸る声が響く。
「お前の近くにある空気を震わせている。巧くすれば、それが耳元であたしの声として聞こえるだろう」
青の結界が消えた。余呉閂王子の膝が崩れ、そのまま、仰向けに倒れてしまった。

幸は呆然と眺めていた当主の妻を見つけると、余呉閂王子のことなどどうでもいいと、妻の元に足を運んだ。
「名前は君枝さんだな。あたしはあんたの息子の師匠の姉だ。この度は、原種の鬼 笹屋の瓜子姫と御子息の婚約おめでとう。これから盛大に宴会をしてもらいたい。いいかな」

 

 

 

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遥の花 藍の天蓋 蛇足 御茶会

「竜之介君、今晩、何にする」
笑が肩に載った子猫の竜之介に言った。
笑の耳元で竜之介の声が聞こえた。
「笑の喰いたいものを選べばいい、俺は居候だ、気にするな」
珍しく仕事を早く終え、笑は竜之介を肩に載せたまま、近所のスーパーマーケットへ来たのだ。竜之介は一日、笑の肩に載り、ぬいぐるみの振りをしている。もちろん、それによって笑は肩に載せた人形と会話する痛い女になってしまったと回りから見られているが、笑もそれは承知だ。
ただ、笑は恥ずかしいという気持ちよりも、家族が出来た、そんな嬉しさや充実感の方が大きく、今の状況を積極的に楽しんでいるのだ。
不意に竜之介がくんくんと鼻を鳴らした。
「なんだ、香ばしい良い匂いがするぞ」
「たこ焼きだよ。さっき、スーパーの入り口に屋台のたこ焼き屋さんが来てたよ。竜之介君、たこ焼き食べる」
「あ。うぅ、いや、俺は居候だ、気にするな」
あきらかに竜之介は笑の肩で、そわそわと落ち着きをなくしていた。よぼど、たこ焼きが気になるらしい。
笑はスーパーマーケットの入り口まで戻ると、屋台のたこ焼き屋の前に並んだ。
スーパーに来たときは、まだ、屋台は準備中だったのに、たこ焼きの匂いにつられてだろうか、既に十人ほどの客が待っていた。やがて、笑の番になる。
「竜之介君。何個食べる」
「いや、俺は」
竜之介が微かに俯いた。
笑は笑顔を浮かべると屋台の店員に言った。
「十個入り、一つ、お願いします」
店員は笑の仕草に戸惑うことなく、笑の言葉を繰り返し、焼きたてのたこ焼きを経木の舟に詰めていく、手慣れた手つきだ。
「はい、お待たせ。五百円です」
「ありがとう」
笑は支払いを済ませると、近くにあったベンチに座った。
「竜之介君、一つだけ、つまみ食いしよう」
笑はたこ焼きを袋から取り出すと、長めの楊枝だ、一つ差した。竜之介はふわりと笑の膝に載ると、両手を拝むようにして楊枝を短く持ち、たこ焼きを自分の口元に持ってくる。後ろ足を伸ばしてぺたんと座る格好はテディベアのようだ。
器用に息を吹きかけ、少し冷ましてかぶっと一口食べる。
幸せこの上ない笑顔を竜之介が浮かべた。
「ありがとう、笑。このたこ焼きは今まで喰った中で一番美味い」
笑も嬉しそうに笑うと、視線を上げ、屋台を見る。
「黒猫亭って書いてあるよ。また、見つけたら買おうね」

買い物を終え、笑は自宅へと急ぐ。あの時から、三週間は経つだろう、それでも恐怖は消えない、竜之介がいるからこそ、明るく振る舞えるのだ。
「止まれ、笑」
竜之介が囁いた。
住宅街、夕刻、西日が眩しくて、その顔までは、はっきりしない、数十メートル先、二つの人影を見る。
家が立ち並ぶこの通りには他に人影もない。
「笑。どうやら俺の初仕事だ」
ふわりと竜之介は浮かび上がると白虎の姿に戻り、笑の前に出る。
どうしてだろう、笑は二つの影の内の一つが笑ったような気がした。
影の一つが片膝に立ち、細長い棒を掲げる、一際眩しく光りだす、もう一つの影が刀を引き抜いたのだ。
「来るぞ」
竜之介の声が終わる瞬間、赤色の煌めきが走った。瞬間だ、一気に数十メートルの距離が縮まった。竜之介が刀を持つ手元に噛みつこうとした瞬間、ふわりと刃が後ろに下がる、影が右手を弛ませ、刃が竜之介とすれ違う、
「逃げろ、笑」
竜之介が叫んだ途端、黒が笑と刃の間、刃を防ぐように、自在を突き立てた。刃が自在の寸前で停止した。
「なよ姉さんは十回に一回は勢いを消し切れません」
にっと黒が笑った。
「今のは、九回の口じゃ」
ふんと、なよは笑うと、やってきた智里の持つ鞘に刀を納めた。
なよは振り返ると唖然としている白虎を見て、にやりと笑った。
「さすが、神の名を持つ霊獣 白虎様じゃ。ただの虎と違うて、間抜け面がよく出ておる、顔の神経と筋肉が発達しておるのじゃな」
「お前。かぐやのなよ竹の姫だな」
竜之介が唸った。
「ほぉ、それなりに格のある白虎じゃな、わしの名を知るとは」
「鬼の女王が何故こんなところにいる」
「なるほど、ここ数年のことは知らぬようじゃな。わしの民は角のある鬼に全滅された、一人を除いてな。で、ま、色々あり、今は無の娘 次女のなよじゃ。よろしくな」
黒も隣に尻餅をついたままの笑に笑いかけた。
「無の四女 幸の娘 黒です。よろしく」
「こ、こちらこそ」
笑は戸惑いながらも答えた。黒は笑みを浮かべ頷いた。
「やっと、昨晩、お父さんが戻って来てくれまして、旅の話にお二人のこともあって、どんな風が遠くから覗いてみようということだったのですが。驚かしてごめんなさい」
「黒、謝るとは何事じゃ。まるで、わしが悪いことをしたようではないか」
にかっと、なよは笑うと手を上にのばして、竜之介の鼻を叩いた。
「可愛い子猫に戻れ。道が狭うてかなわん」
竜之介はむすっとした顔をしたが、素直に子猫の姿に戻ると、笑の肩に戻る。
「笑。あっちの女はかぐやのなよ竹の姫。見た目は若い女だが、竹取り物語、あれにでてくる姫のなれの果て。千年以上生きている女だ。油断するな」
「なんと、口の悪い白虎様じゃ」
なよは嬉しくてたまらないと、竜之介の頭を軽くはたくと、すいっと笑の両目を見つめた。

「名はなんという」
なよの言葉に笑が緊張する。
「笑うと書いて、笑といいます」
笑の心臓が高鳴った。
「ほぉ、若いのに随分苦労をしてきたようじゃのう。苦労をしても、心は腐っておらぬようじゃ。わしはなよという。わしの後ろ、刀を持つは娘の智里。お前の横におるのが黒じゃ。よろしくな」
なよの言葉にうまく返事ができず、ただただ、笑は頷いた。
なよは視線を竜之介に向けると笑いかけた。
「ここ数年を知らぬとは、お前、どこぞの召還術士に取り込まれておったようじゃな。さても、まぁ、よい姫様に巡り会えたものじゃのう」

 

不意になよは龍之介の首を摘み上げた。
「さて、わしはこいつに剣術の基礎を教える。お前たちは晩飯の用意じゃ、もう一度、スーパーに行ってこい」
智里が驚いて言った。
「剣術をですか、手を使うことが出来ないのに」
「こいつは父さんから術を受けておる。声を発すると同じに、念で剣を振るうことができれば、面白い使い手になるぞ」
なよはにかっと笑うと、ふっとその姿を消した。
「あの、展開についていくことができません」
呆然と成り行きを目の当たりにしていた笑が戸惑うように言った、
「えっと」
黒が困ったように答えた。
「笑さんちにお邪魔して、みんなで晩御飯を食べましょう、準備ができるまでの間、龍之介さんをお預かりして鍛えてあげるということになります」
黒が大きく溜息をついた。
智里が笑に頭を下げた。
「ごめんなさい、ああいう母なもので」
 
三人、両手いっぱいの荷物を持ち、笑のアパートに戻ってきた。
笑が右手の荷物を降ろし、鍵を開ける。
「どうぞ、お入りください。ちらかってますけど」

黒は少し驚いた。
八畳一間、入り口の右手には備え付けの小さな炊事道具に古びたコンロ。左手奥にはスーツケースと大きめの鞄、両方とも半開きになっていて、あぁと黒が気づいた。鞄を棚と、もの入れ代わりに使っているんだ。その向こう、寝袋と毛布が一枚。毛布は小さく折り畳んである、多分、これは竜之介のベッド代わりだろう。他には何もない。
黒は単純にそれをかっこいいと思う。
「私も好印象です」
智里は呟くと、笑のあとについて部屋に入る。黒も従った。

白虎に戻った竜之介の目前には、なよに刃を向けた刀がまるで構えるように浮かんでいた。
「少々、刀がぶれておるな。しかし、最初でここまで出きればよしとするかな」
なよは笑うと、半歩踏み込む。竜之介の間合いに入った。
「わしを半分にするつもりで来い」

竜之介は混乱していた。かぐやのなよ竹の姫、優れた政治家であり文人であると聞いていた。とんでもない、全力で刀で斬りつけるのを、鼻歌まじりに避けながら、気づけば俺の鼻先で笑っている。どう動いているんだ。
「少しは学習したようじゃな。無鉄砲に飛び込んでこんというのは」
すいっとなよは白虎に寄ると、その鼻を軽くはたいた。
「ま、刀を自在に使うための道筋くらいは見えた筈じゃ、お姫様を護りたければ修練せよ」
竜之介は猫の姿に戻ると、なよを見上げて言った。
「かぐやのなよ竹の姫。術を教えてくれてありがとう」
「どうしましてと言いたいところじゃが、気色悪いのう、いきなり、素直になりおって」
「俺は笑を護れなかった、あれが敵なら笑は殺されていた」
「笑がまっ二つになっておったな」
なよは竜之介の首筋を摘むと持ち上げた。
「そろそろ、晩飯の用意も出来たじゃろ。缶ビールを買って帰るぞ」
なよが子供のようににかっと笑った。

スーツケースを横にして、小さなホットプレートを載せる。
「大丈夫、安定しています」
智里がホットプレートを少し揺らして確認する。
「たこ焼きがもんじゃ焼きになっちゃった」
黒が嬉しそうに笑った。
「お店のものなのに、ごめんなさい」
笑が黒に謝った。
店を早めに切り上げたので、これはなよのわがままだが、結局、用意していたたこ焼きの材料が残ってしまったのだ。
「なよ姉さんには逆らえないし。笑さん、もんじゃ焼きも美味しいと思うよ、チーズやたらこ、美味しいの、作るよ」
笑が嬉しそうに笑顔を浮かべた。
ふと、黒が笑の瞳をすっと見つめた。
「白虎と人、それでも家族なんだね」
笑がしっかりと頷いた。
「うちと一緒だ」
黒が振り返って、智里に笑いかけた。
ドアが開いた、なよが帰ってきたのだ、両手にスーパーの袋、中身はすべて缶ビールだ。
竜之介も飛び込んでくると、笑の膝に載った。
「お帰り、竜之介君」
ほっとしたように笑が笑った。
「なんじゃ、もんじゃ焼きか。がきのおやつではないか。ま、ビールには合うがな」
なよはどさっと缶ビールの袋を床に置き、ホットプレートの前に陣取った。
「笑は飲めるのか」
「え、あ、あの。少しは」
「なら、相手せい。黒は高校生、智里は外では飲みよらん」
くったくなく、なよは笑うと、袋から無造作に缶ビールを取り出し、笑に手渡した。
「なんもない部屋じゃのう。貧乏なのか、笑は」
うっと黒が息を詰まらせた。黒と智里、関心はあったが、常識として尋ねるべきでないと思っていたことをなよがあっさり言葉にしたのだ。
「えっと、あの。お金持ちじゃないですけど、普通に働いていて、生活にはとくに問題はなくて、あまり、あの、荷物は軽い方がいいかなぁって思うだけで」
戸惑う笑になよが笑った。
「なるほど、変わった奴じゃ。父さんが自分の姿を笑に見せたわけじゃ」
「それは」
黒がもんじゃを焼きながら、なよに尋ねた。
「ん、父さんが幸に追い出されて家出していた間じゃ、生け贄とされた十人の女を助けたが、己の姿を見せたのは笑だけじゃ。言い換えれば、姿を見せてもかまわん、まったくの部外者ではないということじゃろう」
なよの言葉に笑は唇を噛みしめ俯いた。そして、戸惑うように言う。
「私は四季合わせ方、です」
「なるほど、ちと、よく顔を見せい」
なよは身を乗り出すと、笑の顔をじっと見つめた。
「四季合わせ方は三家ある、三つの草、一の草は伊倉家、二の草は仁木家、三の草は佐倉家。佐倉笑、これがお前の名じゃろう。およそ、二百年前の佐倉家の女主によく似ておる」
なよは姿勢を戻すと、小さなコテでさっそくもんじゃ焼きを食べ始めた。
「うん、うまいぞ、黒。さ、皆も食え」
唖然と黒はなよを見つめた。
「ええっ、なよ姉さん。四季合わせ方って何なんですか。話が途中ですよ」
「四季は季節の四季にあらず、色を四季と呼び換えたもの。ま、染め物屋さんじゃ」
笑が顔を上げた。
「呪術師の服や持ち物を染めることで、その方の能力を一割ほどですが、上げるのが仕事です」
笑がほっと吐息を漏らした。
「黒よ。わしの十二単を覚えておろう。随分と、あの当時はお前等三姉妹を虐めてやったからのう」
「覚えてる、いまはなよ姉さんが優しい人だってわかっているけど、その時は、本当に怖かった」
黒が微笑んだ。
「ふん、まぁな。あの十二単も佐倉の家が染めたものじゃ。それぞれの色に染める草木土、それらが持つ、人の能力を増幅させる成分を、肌や呼気から少しずつ吸収するわけじゃ。もっとも、わしは色に頼らずとも強いがな」
なよはぐびぐびと缶ビールをあおると、大きく息を吐き、幸せ満点の顔で笑った。
「ビールの最初の一杯は至玉じゃのう」
一気に半分になった缶ビールを下に置くと、なよは笑に言った。
「佐倉家は三草の中でも、厳格に一子相伝を繰り返してきた家柄じゃ。今でも三の草でなければならんという術師も多かろう、そんな名家のお嬢様が一人で貧乏暮らしとはどういうことじゃな」
「あの、ビール。いいでしょうか」
笑の言葉になよは笑うと頷いた。笑が先ほどの缶ビールを開け、ごくっと一口飲み干した。
「中学生の頃です。父と母が術師たちの争いに巻き込まれて殺されました。私は父の弟である叔父夫婦に引き取られました、三草の秘伝書と一緒に」
「それは知らなかったな、その頃、わしの国はほぼ完全に鎖国をしておったからのう」
なよは微かに目を伏せた。惨殺されていった国民のことを思い浮かべたのだろう。
「叔父夫婦は佐倉の後継者になりたいと願っていたのですが、一子相伝です。叔父夫婦は後継者になりたい、私はこんな世界から逃げ出したい、ですから学校を卒業して、一年前、就職とともに、佐倉家から離れ、秘伝書も叔父に手渡したのですよ」
笑は両手で缶ビールを握りしめた。
「なるほど、詰めが甘かったということか。ん、智里、黒、食わんか。わしが全部食うてしまうぞ」
「詰めが甘いとは」
思い切って智里がなよに尋ねた。
「秘伝書が二冊あるということじゃ。一つは叔父の手元に。もう一つは笑の頭の中ということじゃな。秘伝書の中身を知っておるものがおるというのは、気色の悪いものじゃろうて。一子相伝が前提である、それ自体が価値となる、そこに秘伝書の中身を熟知している者が他におるなど、とんでもないことじゃろうな」
なよは、存外、笑が生け贄に選ばれたことと、叔父夫婦とには関係があるかもしれんと思う。
「大丈夫だ、俺がどんな奴からも笑を護ってやる」
いきなり竜之介は声を上げると、笑の肩に飛び乗った。
「俺はもっと強くなる」
ぎろっとなよが竜之介を睨んだ。
「馬鹿者」
なよが怒鳴った。
「竜之介、お前の目的は笑を護ることじゃ、強くなることではない」
竜之介は一瞬怯んだが、吠えたてた。
「強くならなきゃ、笑を護れない」
いつの間にか、黒がもんじゃ焼きをすべて食べていた。
「ごめんなさい、食べちゃった。まだまだ、焼くから、笑さんも智里さんも竜之介君も食べてね」
ついと、黒がもんじゃ焼きの具をホットプレートに流し込んだ。
「ほんにお前は幸に似てきたのう」
黒がくすぐったそうに笑った。
「竜之介君」
黒が小エビや天かすを入れながら言う。
「つまりはね、竜之介君が強くなることと笑さんを護るっていうのは、ある時点までは同じ方向を向いているんだけど、途中からね、方向がずれてしまって、竜之介君が強くなることと笑さんを護ることが同じじゃなくなってしまうって、なよ姉さんは言いたいんだけど、なよ姉さんは人を怒らせるのが好きだから、相手が怒るような順番で喋るんだよ、そういうの、慣れてね」
なよが呆れたように言った。
「黒よ。お前はわしの母親か、つまらんことを」
 

えへへと黒は笑うと言葉を続けた。
「さっき、なよ姉さんが襲って来たとき、竜之介君は笑さんを連れて素早く逃げるのが正解だったと思う。戦いになれば笑さんは足手まといになる、それに機先も取られているから、余程、相手が弱くないと勝てないよ。だから、相手が強いかどうかわからないときは、相手が強いと仮定して動かなきゃだめ。とすれば、逃げるのが最適解になる。ましてやね、この部屋はお父さんの結界が施されている、敵は入れないよ。つまりはこの部屋にまでさえね、逃げ込めば、じっくりとどうすればいいのか、お茶を飲みながら考えることもできるんだよ」
竜之介は瞬きもせず黒を見つめていた。
「わかった、俺の考えが足りなかったよ。ありがとう、黒先生」
感動した面もちで竜之介が言った。
「どういたしまして。でも、今のは、なよ姉さんが言おうとしたことを、普通の順番で喋っただけなんだけどね」
「黒先生ときたか。竜之介、わしにも先生と言うて、敬い讃えよ」
なよの言葉に竜之介はぷぃっと顔を背け、笑の膝の上に戻り丸くなってしまった。
竜之介の振る舞いになよは声を出して大笑いした。

なよは食べ終えたあと、笑の寝袋を枕代わりに一眠りと寝転がった。
黒は気にすることもなく、後かたづけを続けた。
智里は困ったように横目でなよを覗いたが、すまなさそうに笑に頭を下げる、笑が慌てて顔を横に振った。
「暢気な姫様だな」
竜之介が悪態をつく。
「あの、もう少ししたら帰りますから」
智里が戸惑うように言った。
片づけを終えて、黒も笑の隣に座る。
「この部屋の結界はね、中にいる人が楽しかったり幸せだと思うほど強くなる、随分、しっかりとしたよ」
黒が気楽そうに笑った。
「笑さんが極端に荷物を少なくしているのは、いつでも逃げ出せるようにするためでしょう、多分、叔父さんたちから」
驚いて笑が黒を見つめた。
「あまり、人の事情に深入りするのは良くないかもしれないけれどね」
黒の言葉に智里が言った。
「もしも、そうなら、相談してください。きっと、その方がいいです」
「あ、あの」
笑が言葉に詰まった。
「口伝じゃろう」
なよが目を開けて、いたずらげに笑った。
なよは寝転がったまま、肘を枕に笑を見上げた。
「二百年前、わしの十二単を佐倉に作らせたときじゃ。納品の時にな、工程に関わったすべての職人を呼んだ。そしてな、一人一人、どんな作業をしたかを問うて、ねぎらった後に、少し多めの金子を与えてやった」
「なよ姉さんがそんな良いことを」
「なんじゃ、黒。その物言いは。ま、もっとも、それは十二単に妙な仕掛けを作っておらんか、一人一人心を読んでいったわけじゃが、その時、佐倉家の口伝を知った。一割どころではない、二倍も三倍も、着た人間の能力を上げてしまう色の組み合わせがあるということをな」
なよは起きあがると、あぐらをかいた。
「詳しくはしらん。じゃが、能力を倍増する代償に極端に寿命が減ると聞いておる」
「子供が一週間で老人になります」
強く拳を握った。
「口伝としたのは、万が一にも流出をさせてはならないということ、そして、偶然に作ってしまわないようにと警戒したからです」
笑が唇をかんだ。
なよは笑を瞬きせずに見つめた。
「お前の叔父は、口伝を知ればそれを作るような奴なのか」
なよの言葉に躊躇いながらも笑は頷いた。なよは微かに吐息を漏らした。
「一の草が、世界と戦うこの国のため、軍の依頼に基づき、色を組んだ。それによって、兵士の能力は上がったが、連合国軍にはかなわなかった。ほんの七十年ほど昔の戦争話じゃ。しかし、人を鬼に変え、その上で口伝による色を組めば兵士の能力は極端に上がるじゃろう。それが笑の叔父殿の考えであろうな」
「叔父は必ず理由を付けて、色を組みます」
笑の言葉に、なよは竜之介を睨み、にやっと笑う。
「よう、竜之介。びびったか、このお姫様を手に入れようとするのは、叔父だけではなさそうじゃぞ。この国の上の方は三竦み状態、米派、鬼派、独立派がしのぎを削っておる。どれもがお前のお姫様を狙ってくるぞ」
まっすぐ、竜之介がなよを見つめ返した。
「笑を護ることになったのは、無の命令だ。俺は無が恐ろしくて、その命に従った。愛想いい顔の奥から吹き出してくる気配がたまらなく恐ろしかった。だけど、俺が笑を護り続けようと思うのは、単純に笑が気に入ったからだ」
ふふんとなよがにやついた。
「まさか、のろけ話を聞くとはのう」
なよは、最後に残った缶ビールを袋から取り出すと、ぐびぐびと飲み干した。
「笑。冷蔵庫を買え、ビールが冷えておらんわい」
とんと空き缶を置くと、改まった様子でなよが竜之介に言った。
「もしも、お前が役立たずの能なしで、笑を奪われたのなら、わしは口伝が公になるよりはと、笑をまっふたつに切り捨てるかもしれん。そのこと、しっかりと覚えておけよ」
ゆっくりと立ち上がると、なよは首を回し、大きく深呼吸をした。
「さて、帰るぞ」
なよが、あっさりとドアを開け、外に出た。
「お騒がせしました、それでは」
智里が、刀と、ビールの空き缶でいっぱいになった袋を抱えて後を追った。
黒も荷物を風呂敷に纏めると、ぐいっと背負う。
「笑さん、また、遊びに来てもいい」
不意に笑は正座をすると、黒の目を見つめた。
「あの、黒さん」
笑の言葉に、立ち上がりかけた黒は風呂敷を背負ったまま座った。
「黒さん。私は姫様ではありません、護られるだけでは辛いです」
「それで」
黒が呟いた。
「私も戦います」
笑がじっと黒の目を見据えて言った。
「黒さん、私に戦い方を教えてください」
「どうして、辛いの。護られて」
「それは」
笑が言いよどんだ。
黒はそっと笑みを浮かべると言った。
「護られるだけでは、竜之介君に対して自分が卑怯だと、そう思うならそれは間違いだし、それでも、卑怯だと言うのなら、卑怯でいいと思う。戦い方を教えるということは、武術や呪術を教わるということ、ときにね、その戦いは関係のないたくさんの人を巻き込むことがある、自分自身だって危険になる。笑さんはわかっているんじゃないかな、だって、お父さんやお母さんが殺されたのでしょう」
黒が言葉を重ねた。
「ぶつかり合うだけが戦い方じゃないし、なにより、笑さんは自分自身を護ることが、記憶を守ることが大切なんだと思う。だから、笑さんを危険にすることになるから、戦い方を教えることはできないよ」
黒は笑の手をぎゅっと握った。
「危ないと思ったら逃げる。いまのやり方が正解だと思う。でも、逃げるのに疲れたら、うちにおいで。なよ姉さんはあんなだけど、長女の幸乃姉さんはしっかりしているし、三女のあさぎ姉さんはとっても可愛いんだ」
「あんなで悪かったのう」
ぎゅっと、なよが黒の頬をつねった。
「痛ったたっ」
「遅いと戻って来たら、なにやら、偉そうなことを言うておるわい。こら、笑」
黒が笑みを浮かべたまま、頬をさすった。
「はいっ」
笑が飛び上がるように返事をした。
「お前、物事の是非をしっかりと睨んで考えろ。感情でうろうろするでないわい。それと、黒」
「はい」
「お前は笑が足手まといにならぬよう、危険の避け方、逃げ足の早さを教えろ。それくらいなら良いじゃろう」
「うん、そうする」
黒が頷いた。
「笑さん、竜之介君、それじゃね。明日、また」
ばたんとドアが閉まる。
大きく一息ついて、笑が言った。
「いっぱい、びっくりしたねぇ、竜之介君」

 

 

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遥の花 藍の天蓋 ラズベリーパイ

智里は緊張していた.忍び込んで要人を暗殺したことはいくらもある。でも、お昼前のこの時間に呼び鈴を鳴らして訪問するなど初めてのことだった。
大丈夫、押して、音が鳴って、香坂さんが出てくれば、営業スマイル、こんにちはと言えば良いだけだ。
いや、これはインターホンだから、まずはどちらさまという声が出る。明るい声で喫茶店の名前を言えばいい。
智里は大きく深呼吸をすると、ボタンを押す。
「どちらさま」
後ろから声がした。素早く右に寄りながら反転する。攻撃を避け、状況を確認するためだ。
女の子、智里はほっと息を漏らした。
「こんにちは、智里さん。十分間、うちの前で硬直してましたね」
にかっと笑う女の子は香坂の娘、円(まどか)だった。
驚いた、確かに呼び鈴のボタンに気を取られていたのは確かだけれど、背中に人の気配を感じ取れなかったなんて、それでも、智里は緊張を抑え、笑顔を浮かべた.
「こんにちは。今日はお伺いして、お母様にお話をうかがおうと」
「知ってますよぉ、昨晩、母さん、大変でしたよ.どこまで喋ったらいいんだろう、これはいいか、あれはまずいかって。で、母さんに言ってやったんです。喫茶店のマスターに頼まれたんだから、何もかも喋ったらいいんじゃない、がつんと言っちゃえ、って」
円は戸惑うことなく、智里の手を取ると、門扉を開いて中に入った.
普通の住宅街の一軒.ただ、家の大きさは隣、正面の家と比べて二回りは小さいだろう、代わりに庭が大きく取られ、中央に大きな樹、あとで教えられた名前だがカイノキというらしい、それを囲むようにたくさんの花が植えられている。そして、敷地を囲むように刺のある背の低い潅木が植えられていた.これもあとから教えられた名前だが柊という.
木の根元に白いテーブルと椅子が三つ、置かれていた.
「智里さん、いらっしゃい」
香坂がサンダルをつっかけ、家から出てきた。
「あ、あの。いつも、ご贔屓にありがとうございます。えっと、あの、あさぎからこれを」
戸惑いながら智里は紙袋を香坂に手渡した。
香坂が袋の中をのぞき込んだ。
「ラズベリーパイね、あさぎさん、覚えてくれていたんだ」
香坂は笑うと顔を上げた。
「以前、お店でいただいたとき、美味しくてね、ホールで食べたいなぁって言ったのよ」
香坂が子供のように微笑んだ。智里はそれを覚えていたのが男であると言いたかったのだが、それを言い出せず曖昧に笑みを浮かべた。
「さぁ、どうぞ」
香坂が智里を木の下の椅子に座らせる。
円がパイを受け取り言った。
「紅茶の用意をしてくるよ。母さんは智里さんとお話していて」
円が台所へと走っていった。香坂も智里の前に座ると、智里を興味深そうに見つめた。
智里は気まずそうに俯いていたが、意を決したように顔を上げた。
「私は暗殺や拉致、たくさんの人を殺しました」
香坂は頷くと、囁いた。
「それで、いま、苦しくて仕方がないということね」
香坂が目を細め、智里を見つめる。
「なるほど、こんな自分がこれほどに幸せでいいのか、と悩んでいるわけね」
香坂の言葉に智里が深く頷いた。香坂は背もたれに背中を預けるとふっと息を吐く。
「人を殺すのは悪いこと、どうしようもなく、それは悪いことなのよ。智里さん、わかるかな」
智里が頷いた。
「殺した人を生き返らせない以上、悪を為したことは消えないし、何かで補うってことも出来ない。でもね、そんなことは百も承知なわけ」
香坂がばしっとテーブルを叩いた。驚いて、智里は顔を上げた。
円の声がした。
「用意できたよ」
片方に半円のラズベリーパイとナイフ、もう片方で、器用に紅茶セットを持つ。香坂がパイを受け取り、テーブルに起き、円が紅茶セットを置いた。香坂が半円のパイを三等分する。
「横から見ても厚みがあるわねぇ、美味しそう」
香坂がうっとりとパイを見つめた。
「あさぎさんって、料理の天才だものね」
そう言って、香坂が自分の言葉に頷いた。
円が紅茶の準備をする。茶葉をまずは蒸らす。
「母さん、声聞こえてたよ。御近所迷惑だ」
円は笑うと、智里を見つめた。
「喫茶店のマスター、無とね、初めてあったとき、怖かったんだよ。なんていうかな、もう絶対に関わっちゃだめだ、すぐに逃げるんだって思ったよ。今はね、あんな、気のいいおじさんしているけどさ。幸さんがやってくる何年も前の話、怖かったよね、母さん」
香坂が深く頷いた。
「あれはねぇ。鬼よりも怖いよ、でも、それ以外、選択肢がなかったんだ」
香坂が顔を上げた。
「先に言うべきだったけど、私も暗殺者だった、政治家や官僚、大企業の重役、国の内外関わらず殺した、特に紛争地では息をするように人を殺した」
智里は信じることができなかった、とても品の良い婦人、そして可愛い娘、どこにそんな陰があるというのだ。
「本当に」
智里の言葉に香坂は頷いた。
「智里さんとは別の組織。でも、やっていることは同じだったと思う」
円はパイを三つに切り分けると、二人の前に置き、紅茶をカップに注ぐ。紅茶の香りが一気に膨らんだ。
「智里さん、まずは紅茶をどうぞ」
円の言葉に智里はカップを口まで持ってきたが、かなり動揺していたのだろう、口を付けただけでカップをテーブルに置いた。香坂が一口パイを食べる。
「あぁ、これ。この味だわ」
うっとりとしたように香坂が目を細めた。
円は智里に笑みを浮かべると、少し顔を寄せた。
「私はまだ小学生でした。私はすっごいお嬢様で屋敷には何人もの召使いがいたんです。お父様は忙しい方であまり屋敷にはいらっしゃらなかった。母ともあまり会ったことがありません、母は趣味と慈善事業に熱心で、私のことは女中と家庭教師に任せっきりだったんです」
智里は混乱していた、円さんは何を話してるのだ、母親は香坂さんで、それなのに、慈善事業がって、どういうことだ。
「夜中、珍しく私は目をさまして、お手洗いに行くため、廊下を歩いていたとき、父の書斎で呻くような声と物音を聞きました。そっと、ドアを開けると、父はナイフで首を刺され、崩れ落ちたのです」
円がすぃっと香坂を見つめた。
「私が犯人」
仕方なさそうに香坂が答えた。
「まさか仕事を見られてしまうなんて思いもしなかったし、そう、あれは、円の言葉に動揺したのよ」
香坂は一口紅茶を飲むと智里を見つめた。
「貴方は私の父を殺しました。これで、私の人生も狂ってしまいました、貴方はその責任をとることがでいるのですか。って小学生が私を見据えていうのよ」

「すっかり虚をつかれたわ。自分でも信じられないくらい動揺したの」
円が笑った.
「子供特有の素直な質問をしただけなのに、母さん、硬直したんだよ」
「私には円は人間じゃない、異質のものだって恐怖でいっぱいになったのよ」
香坂は告げ口する女の子のように拗ねた口ぶりで智里に言った。
「あ、あの、えっと。お話は戻りますが、円さんは香坂さんの子供では」
混乱しつつも、智里は言った。
円はわざと難しい顔をし、智里に言った。
「私、円は実の父を殺され、犯人に誘拐された哀しき乙女でございます」
「ついて行くって言ったのは円よ」
香坂が即座に否定した。
円は椅子の背もたれに背中を預け、紅茶を一口すする。
「不思議な程ね、悲しくなかった、父親が目の前で殺されたのに。流行の家族崩壊だったのかなぁ。ううん、それは本当じゃないな、多分、私は命の大切さ、それは自分の命も含めてだけど、命の大切さを知らなかったんだと思う、あの時までは」
「あの時」
智里が聞き返した。
円がすっと香坂に視線を送る。香坂も重々しく頷いた。
「私は円を背負って屋敷を飛び出したのよ、すっかり、円に飲み込まれていた。子連れで組織に戻ることもできないし、ということは、組織を抜けたとなる、追っ手がやって来るのは確実。どうすればいいのか」
香坂はふっと言葉を飲み込み、少し冷めた紅茶を飲み干した。
「私の師匠は無の知り合いだ、おおよそ、どこいらかに無が住んでいることは知っているって程度だったけど。そうだ、私は無の傘下に入れば、安泰だと思った、幸ちゃんが来てからの、人の良いおやじじゃなかった頃の無に睨まれて無事な組織なんてなかった」
智里も以前から、無の噂は聞いていた。和やかな男を思うと噂が噂を呼び、恐ろしい虚像を作り出していたのかなと思っていた、それだけに、以前の無の話は半信半疑ながらも興味深い話だった。
「円を連れてこの町の駅に辿りついた。ここだと思った、だって、私には一メートル先が無の結界で霧に包まれていたんだから」
香坂は腕を組み、少し体を起こす。そして、思い出すように目をつぶった。
「私は結界の中では異分子だ。いずれ、無があらためるためにやって来るだろう。その時、なにもかも話して、結界の住人にしてもらおう。額を地面に擦りつけてでも」

香坂の言葉に円はほおばったラズベリーパイを飲み込み笑った。

「改札口を出て、私と母さんは改札口すぐそこのバス停のベンチに座った。もうくたくた」
円が空を見上げる、青い空だ。
「大変だぁって顔を上げると、今日と同じ雲一つない青空。母さんには見えなかったろうけど。それがさ、一瞬で真っ暗になったんだ。私は体も心もくたくただったけれど、不思議と楽しかった。狂っているのかなぁ、自分の父親を私の目の前で殺した女と行動を共にしているのに。あの時は、あぁ、と大きく伸びをした瞬間だった」
円は俯くと、初めて不安げな表情を浮かべた。
「真っ暗になったんだ。何も見えない全くの闇。座りこんでいたバスのベンチの感触も消えて、瞬間、体が無くなった。意識だけが残ったんだ。気が狂うと思った、五感全てが無くなってしまう。こんなに心細くて、私、叫ぼうとした、でも、叫ぶ声すらないんだ。私には何時間も何日もに思えた。心の中でごめんなさい、ごめんなさいって呻いていた。永遠の闇だと思った、実際は一分くらいだったけど」

ふっと香坂が言葉を発した。
「二人して無の作り出す闇が消えて、光が戻ったとき、私には白い靄が消えて、すっきりとした青空が見えた」
香坂は智里に笑いかけると、ちょっと、恥ずかしそうに笑った。
「ごめんね、関係のない話を繰り返して」
「あ、あの。色々、驚きで」
智里はうまく言葉に出来ず言いよどんだ。
「智里さん、私も円もね、無には、いや、喫茶店のマスターって呼んだ方がいいのかな。感謝しているのよ、それは本当、間違いない」
香坂がいたずらげに笑った。
「ただ、幸ちゃんが来る前の術師としての無と邂逅したということを誰かに喋ってみたかっただけ。いまは本当に優しい良い父親しているもの、想像できないよ、あの頃から思えば」
円も笑うと、少しティーカップを口に運ぶ.
「私は死んだことになっていて、捜索されることもない.そして、母さんは学校の給食のおばさんとコンビニの掛け持ち、私は高校生.休みの日には母さんと木の下でお茶を飲んだり、本を読んだり、お喋りしたり.遥に貧乏だけど、今の方が、生きているなと思う」
円は紅茶を飲み干すと、香坂に顔を向けた.香坂も頷く.
そして、香坂が智里を見つめた.
「優しい人間より、悪人である方がすっきりしていいもんだ」
香坂が静かに呟いた.
「為した悪は消えない.殺した連中が夢に出てくる.それをなかったことにするのは意味がないんだよ」
智里は香坂の表情の変化に驚いた.確かにこの眼は数え切れないほどの死を目の前で見ている.
「連中と一人でやりあうのはどだい無理な話だ.ならば、助けてくれる味方を増やせばよいそれだけのこと」
ふっと、香坂はやわらかな笑みを浮かべた.
「前を歩いている人がハンカチを落としたとする、すっと駆け寄ってさ、ハンカチを拾って、落ちましたよと声をかける、すると、ありがとうって言ってくれる、人からのありがとうを集めてさ、連中が押し寄せてくるのは防ぐ、いくつも、いくつものありがとうを集めて、それを積み重ねて、確かに私は散々ひどいことをしたけど、いまは良いこと、善いこと、いっぱいしているんだ、たくさんの人たちが感謝してくれているんだ。たくさんの善いことを前に押し出して、連中を乗りきるのさ」
円はいつのまにかスマホを操作していた.そして、顔を上げると香坂に言った.
「ニュースだ.テロに失敗した連中が、人質取って立てこもっている」
香坂が紅茶をぐっと飲み干した、そして、立ち上がる.
「ハンカチ拾うのも、テロリストを殴って失神させるのも同じこと。命がかかっている分、ポイントが高い気はするけどさ」
「パスポートとか用意してくるよ」
円があたふた家の中へ走る.
「あ、あの。えっと」
智里があたふたと香坂を見つめた.
「実地研修させてあげる。要点は気絶はさせるけれど殺さないこと.テレビカメラに映らないこと、これくらいかな」
智里は思った.ああ、確かに二人はこちら側の人だ.智里もお腹にぐっと力を入れ、立ち上がった.

 

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遥の花 藍の天蓋 二話

優喜は驚いてその様子を見つめていた。
かぐやのなよ竹の姫、元は一国の女王であり、優れた政治家でもある。見た目は二十代半ばくらいにしか見えないが、一千年以上の齢であるという。
その女王が普段着に、手ぬぐいでマスクをしている。そして、大きな木づちを軽々と片手で操り、半分朽ちた土壁を潰しているのだ。組み込まれた竹を燃料にするという。
先程までは、朽ちた柱を短く揃えて切り、二つあるおくどさんの一つが無傷だと、頭を突っ込んで埃や炭を取り除いていた。
ふっと、なよが優喜を睨んだ。
「こら、わっぱ。図体の大きいのが、ぼぉっと突っ立っているのではないわ、目障りじゃ。小さくしゃがんで泥遊びでもしておけ」
「申し訳ありません。手伝います」
慌てて、優喜が叫んだ。
「ならば、ほれ」
なよは大きな木づちの杵側を軽々と掴むと、柄の橋を優喜に向けた。緊張した面持ちで優喜が柄を掴む、なよが手を離した瞬間、木づち本来の重さに、優喜は前のめりになりながらも、両手で掴み直した。
ふふんとなよは笑みを浮かべた。
「お前はわしの父さんの生徒であろう、父さんに恥をかかせるでないぞ」
なよは優喜に近づくと、腰から下はとんとんと足で蹴り、腰から上は手で軽く叩いた。
「木づちを落ち上げてみろ」
なよの言葉に木づちを、まるで紙一枚の重さしかない、驚いて、優喜は振り上げた木づちの先を見つめた。
「術と呼ぶほどのものではない。ちょっとしたこつじゃ。じんわりと、姿勢を確かめろ」
優喜は不思議なほどすっきりとした気分で、そうだ、息が体全身を行き渡る気がする。
「精鋭は二十人いると聞く、お前は中でどれほど強い」
なよがにかっと笑った。
「俺は・・・、三番目」
優喜が考え言う。
「ならば、お前、二番目と本気で十回戦えば、何度、勝つことができる」
優喜は頭の中で相手の顔を思い浮かべる、そして、その拳の速さを測る、
「三回です」
「ばかもん」
なよがすこんと優喜の頭をはたいた。
「な、なんですか」
優喜が思わず木づちを落とした。
「そういう時は、十回戦うことはできません、一度目で、どちらかが相手を殺しますから、と答えるんじゃ」
なよが愉快に笑った。
「ま、しばらくは父さんの世話を手伝ってもらわねばならん。指折り数える腑抜けの方が安心かもしれんのう。ところで、お前の名は」
優喜は不思議に思う、さんざん、子供扱いされ、頭を叩かれる、それでも、いやな気がしなくて、これが、多くの民衆をひきつけたかぐやのなよ竹の姫の魅力なのかもしれない。
「俺、優喜と云います」
「なんと書く」
「優喜、優しく喜ぶと書きます」
「なんとまぁ、愛情の深い名じゃ。その名に恥ずかしくないようにせいよ」
かかっとなよが笑った。
あかねが走り込んでくる、がばっとなよに抱きついた。なよがわかっていたかのように、あかねの頭をなでる。
「少しは気持ちは晴れたか」
あかねはうなずくと、小さく呟いた。
「お父さんはとっても優しい」
俯くあかねの言葉に、なよはそっとうなずいた。

「ただいま」
三毛が両手背中に荷物を背負っている、綾も背中に布団を背負っていた。
男は仰向けに寝ていたが、白に助けられ体を起こした。三毛があたふたと荷物を降ろし、男の前に座った。
「大丈夫、お父さん」
「父さんは元気だよ。心配かけてしまったな」
男の言葉に呆れたように白が言った。
「お医者様は一週間、絶対安静とおっしゃいましたわ。お父さん、自覚してください」
「あはは、白に叱られた」
嬉しそうに、男が笑った。
綾が背中の布団を降ろし、男の横に敷いた。
「お父さんの血は変わっていて、輸血ができないと、お医者様はおっしゃっていましたけど」
白が心配そうに男に言った。
「母さんはお父さんに血を半分分けていただいたと言ってました。お母さんの血なら輸血できるのでは」
男は少し笑みを浮かべるような、そんな柔らかな表情をした。
「父さん、こんなだけどさ。自意識過剰なのかな、娘たちにはね、かっこいいって思われたいのさ」
白が溜息をつく。
「それなら、一週間、絶対安静ですからね」
男は照れたように笑みを浮かべると、うなずいた。

夕刻までに、八畳ほどの板の間と、それに連なる小さな土間が、なんとか、生活できる空間となった。
なよはふっと男を見やると、かすかにうなずく。
「そろそろかのう」
「気を使わせてしまうね」
男はなよの言葉に答えた。
「さぁ、帰るぞ」
なよが皆に声をかけた。
「ええっ、泊まる、泊まるよ」
黒が驚いて声を上げた。
「そうだよ。三毛もここで暮らします」
男は家の方角を眺めた。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、家がね」
男が呟いた。
「家が危機じゃ。幸の力が弱って、小夜乃とあさぎが結界を支えておる。早く戻らんと、白澤の精鋭に入り込まれてしまうからな」
にぃぃっとなよが優喜に笑いかけた。おどおど、優喜が俯く。完全に優喜はなよに飲み込まれていた。
「ま、ということだよ。家をお願いします」
男が三毛に笑いかけた。
白が顔を上げた。
「交替ならいいですか。ずっと家に帰ってでは、お父さんのことが気になってなりませんもの」
男がうなずいた。
「一人だけ残ってくれるかな」
男の言葉になよがあかねを見る。
「ならば、あかね、お前が残れ」
あかねが頷くのを確認すると、なよが黒達三人に合図をする。
「それでは、父さん。わしは来ぬが、元気にしておれよ」
「ありがとう、幸を頼むよ」
「ほんに甘い父親じゃのう」
男は笑うと楽しそうに微笑んだ。
「しゃん」
黒が叫んだ、それをきっかけに白と三毛も声を上げる。花魁道中の儀、どのような結界も距離も関係なく移動する。四人の姿がふっと消えた。

部屋の中程に囲炉裏がある、三毛が持ち運びのできる簡単な囲炉裏を柱や瓦を砕いたもので作り出したのだ。いま、真ん中で薪火が燃えている。
男は囲炉裏の向かいに座るあかねに言った。
「ちょっとした別荘気分だ」
「お父さんは気楽すぎます」
「なんだか、白にもあかねにも叱られて。子供が成長するのは楽しい」
男がいたずらげに笑った。
「優喜君、綾さんも囲炉裏においで。少し、肌寒くなってきた」
四人が囲炉裏を囲む。
あかねが五徳を用意し、鍋をかける、味噌汁だ。
「優喜君は随分、なよに押さえ込まれてしまったみたいだな。精鋭でも一番の乱暴者だったのにね」
慌てて、優喜は首を振った。
「もう散々です。自信の塊が歩いているみたいですよ」
「あれで、繊細なところもあるんだけどね」
そう言いながら、男も頷く。
そういえばと、男が綾を見た。
「白澤さんのところに戻らなくてもいいのかい」
「優喜と私は先生付きとなりました。寝袋一式も用意しています」
綾が少し、嬉しそうに言う。
「ただ」
不安げに綾が言葉をつないだ。
「この屋敷は有名な西の幽霊屋敷と呼ばれているので、なんだか」
「ふうん」
男はふっと、部屋の片隅丑寅を見つめる。
「そ、そういうのはやめてください、先生」
怯えて、綾が声を発した。
「なんだ、綾さんは幽霊とかだめなのかい」
「いえ、本当にここは、探検に来た子供が一人、意識を失って目が覚めないという」
「精鋭ともあろう綾さんがそれでは困るなぁ」
男は燃えている薪を一本取ると、振って、火を消す。煙が立ちのぼった。あかねは男から薪を受け取ると、立ち上がっる。
「綾さん、あかねと一緒に行きなさい」
男の言葉に従い、綾もあかねと部屋の丑寅に立つ。あかねがゆるりと薪を動かす。次第に煙が形を作り出した。大きな球体にいくつもの模様が浮かぶ、模様、いや、大きく口を開けた顔だ、いくつもの顔に埋め尽くされている。
「呪詛を喚いています。かなり古いものです」
あかねが男に言った。
「ここは西ノ宮の屋敷と呼ばれていてね、百年以上前、白澤さんに蟄居させられ、全員打ち首になっている。その人たちの恨みだけが残ったんだろうね。浄化してくれるかな」
あかねは頷くと、燠火で球体を撫でて行く。いくつもの顔が、ほっとしたように口を閉ざし消えて行く。
いくつもの顔が消えた後、球体の中に、半透明の少年が膝を抱え、眠っていた。
「綾さん、その子は生き霊だ、硝子球に入れなさい」
男の言葉に、綾は硝子球を取り出すと、少年の体に硝子球を添える。すると、少年の体が薄れて行き、硝子球が白く濁った。
優喜が思い出した。
「あれは油問屋 田仲屋の子供です、植物人間になってしまったと聞いています」
男は少し頷くと、優喜と綾に言った。
「二人でその子を返して来てくれるかな。その子のお臍の上に、硝子球を置けばいいよ、生き霊が本体に戻る、そうすれば意識も戻るからさ」
驚きながらも二人は頷くと、田仲屋に向かって走った。
男はひとつ、息をすると、あかねに笑いかけた。
「ここは専制君主制だ。本家当主は王様みたいなもの、なんだか、息苦しいな」
「みんな、白澤さんが怖いのですね」
「それもあるし、人は、その日、普通に食べることができれば、あまり不満は持たない。あまりね」
男は吐息を漏らすと、呟いた。
「父さんとあかねだけだよ。幸乃、出て来なさい」
いきなり、幸乃は男の体から飛び出すと、男の目の前に正座し、額を床に擦り付けた。
「申し訳ありません、おまえ様。すべては幸乃のせいです。幸乃がしっかりと幸の変化を見定めておけば」
言葉の最後が、涙と嗚咽で途切れる。
「顔を上げてくれ、幸乃」
男がはじめて狼狽えた。

ザウルスで書いた分をあとで入れること

 

「お父さんは大変です」
あかねが少し笑みを浮かべる。男はほんの少し頷き、囲炉裏の赤い炭を見つめた。
「でもね。みんなが居てくれるというのは、とっても嬉しくてね、というのはさ、幸の父親になって、あかねも幸の妹になってくれて、黒達は幸の娘だ。一人だった父さんがね、いまは大家族の一人だ。足や腕を無くしてもね、それ以上に幸せなんだよ」

男は少し恥ずかしそうに笑った。瞬きもせず、あかねが男の目を見つめた。
なんか、照れるねと聞こえない声で男は呟く。
あかねがにっと笑みを浮かべた。
ふっと男が斜めを見る。
「たくさんのお人が御到来か」
男が呟いた。
「優喜と綾は甘過ぎます、追い払えばよいのに。あかねが追い返してきます」
あかねが立ち上がるのを見て、男が笑った。
「二ついいかな」
「なにでしょうか」
「祝いの品々に魚の一夜干しがある、炭火の遠火で焼いたら美味しそうだ。みんなでいただこう」
「お父さんは困った人です」
あきれたようにあかねが答える。
「それで、お父さん、もう一つは」
「ま、子供が意識を取り戻したことを単純に喜んでいる人達だ。怪我をさせないようにね」
あかねが男の言葉に頷いた。
「善処いたします」

あかねがこの廃屋の門に、仁王立ちで、行列を迎える、先頭は二つの籠、その後を祝いの品々を載せた大八車が続く。その数、およそ、数十を連ねていた。
「床が抜けるではありませんか」
あかねが小さく呟いた。
あかねの姿を見つけたのだろう、籠から優喜と綾が飛び出してきた。慌てて、二人が駆け寄るのを見あげ、あかねが呟いた。
「籠でご帰還とはなかなか、と言葉を続けたくはありますが、まぁ、いいです。我慢します」
申しわけありませんと二人が頭を下げる、あかねは二人を手で制すると、先頭を歩く男に声をかけた。
「何か御用でしょうか」
先頭の男がにこやかに答えた。
「私どもは田仲屋の者にございます。今夜、精鋭のお二人様よりお話をお聞きいたしまして、こちらの先生が田仲屋嫡子をお救いいただきましたこと、まずは御礼の品々を御用意致しました」
あかねは見上げると、ふうんと頷いた。
「くれるのですか」
「はい、もちろんでございます」
男の張り付いた笑顔を無視し、あかねは列の横を歩き出す。中程の大八車に寄ると、すぃっと干物を指差し、大八車を引いていた男に笑みを浮かべた。
「干物、いただいてもよろしいですか」
あかね、極上の笑みである、あかねは指図する人間より、実際に汗をかいて働く人を敬う、差し出された干物を抱え、柔らかにお辞儀する、差し出した男の方が恐縮して、頭を深く垂れる。次にあかねはいくつもの樽酒を見つけた。
「お酒、いいですか」
あかねの笑みに、男はどきまぎしながら、頷いた。
あかねは小さな樽をよいしょっと受け取ると、にこっと笑顔を浮かべた。
あかねは愛想を一通り振りまくと、先頭に戻ってきた。
そして、優喜と綾の隣にいた店の男に声を掛けた。
「これで充分です。美味しくいただきます。ありがとうございました」
言葉は丁寧だが、気のない言葉だ。
「あ、いえ、すべてお渡しするよう
あかねは軽く樽酒と干物を優喜に手渡す。
「このようなあばら屋住まい、このようにたくさんいただいても、雨ざらしにして、腐らしてしまうだけです。これで充分」
そっけなく返事を返すあかねに、慌てて、店の者が頭を下げた。
「どうぞ、すべてお受け取りくださいませ。嫡子をお探ししていただいたお礼が一夜干しと樽酒一つでしたでは、私が主に叱られます」
つまらなそうに見上げると、とんとつま先で地面打つ、ふわりとあかねが宙に浮き、男を正面から見据えた。
うっと男が息をのんだ。宙に浮くだけでも高位の術師であるのに、ましてや、一切の呪文も唱えていない。恐ろしい、これはまるでお城の白澤様を前にしているようではないか。
「良いことを思いつきました。田仲屋は明日、臨時休業、跡継ぎ様がお目覚めになられたのです、朝から晩までお祭り騒ぎ、お得意さまや
取引先はもちろん、近所の方達、店の者も盛大に酒さかなを振る舞われるのがよろしい。荷物はそれにお使いなさい」
「そそれは。私の一存では、そのような大層なことは決められませんので、まずは旦那様に」
ふっとあかねは右手の親指と人差し指で男の鼻を摘んだ。
くっと捻る。
あわわっ、男が慌てて顔を後ろに引いた。
「鬼紙家とは、田仲屋は古いつきあいのはず。そうではなかったですか」
「あ、はぁ、もちろん」
男が涙声で答えた。
にぃぃっとあかねが笑みを浮かべた。
「私は鬼紙家の孫娘、あかねです。明日はお爺様と田仲屋さんのお祭りに伺うことにさせていただきますわ。ついでに旧家の人達も呼びましょう、とても賑やかなお祭りになるでしょう、とっても楽しみ」
男が震え、尻餅をついた。
「鬼紙老の御孫様」
ふっとあかねが倒れた男の耳元に口を寄せた。
「虎の威を借る、可愛い子狐です、こーん」
あわわわと倒れた男が言葉にならない声を出す。
「優喜さん」
「は、はい」
「白澤にも田仲屋の祭りのこと、伝えなさい。あかねが是非ご一緒にお祭りを楽しみましょうと言っていたと」
優喜は頷くと、干物と樽酒を綾に手渡し掛けだした。

不意にあかねは万辺の笑みを浮かべ、後ろの列に両手でおもいっきり手を振った。
「みなさん。お仕事お疲れさまです。でも、食べ切れません、飲み切れません、明日は田仲屋さんは一日中、お祭りをされるとのこと。みなさんで、大いにこのお荷物、食べてください、お酒も飲んでください」
あかねの声の抑揚に微妙な変化があった。隣にいた綾も気づいていなかったが、寿歌の抑揚を言葉に加えることで、扇動したのだ。
うぉぉっという歓声が響いた。あかねと綾は番頭を駕籠に放り込む。そして、あかねが手拍子を打つ。小気味良い拍子が響く、あかねが歌いだした、本家の祭り歌だ。同じく歌い出すもの、おどけて踊りだすもの、列が一気に賑やかになる。
「さあさあ、みなさま、明日はお祭り、お帰りになったらさっそく祭りの準備ですよ」
あかねの掛け声に、一行が踊り歌いながら帰っていく。
あかねはにこやかに手を振った。
そして、低く呟いた。
「寿歌、恐いな」

部屋に戻ると、綾が男に干物を手渡した。
「綾さん、これは美味しそうだ、ありがとう。そうだ、お酒はなよ用かい」
あかねが針金を曲げ、大ざっぱに網を作った。
「樽酒を返したなんて知れたら、おおめだまですよ」
あかねが笑った。
「あかねは気が利くなぁ。それに言祝ぎ歌も一つが充分使いこなせれば、他も使えるようになるだろう。いい歌を聴かせてもらったよ」
あかねが頬を赤らめた。
「歌は、ちょっと恥ずかしいです」
「あかねさん、とっても綺麗で可愛かったです」
綾が目を見張って言った。
素直にあかねは照れ笑いを浮かべる。男も楽しそうに笑った。
「ただ、可哀想なのは優喜君だね。今頃、白澤さんに難しい顔をされているだろう」
男が遠火に焼く魚の焼け具合を覗く。
「大丈夫ですよ。さすがに白澤さんも面と向かっては怒れないでしょうから」
あかねが平気な顔をして答えた。
「あの、なにがどういうことで」
綾の言葉にあかねが答えた。
「ホンケの豪商 田仲屋の跡取りが意識不明になった。何処で何時に意識不明になったかわかっている、救い出すのはとても簡単なこと。なぜ、放置されていたのか。つまりは一定の術師以上は犯人がわかってたわけですよ、犯人が白澤さんだったって」

 

 

 

 

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なみゆい


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作者 朽身揺歯

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