遥の花 あさまだきの靄 四と一話

の花 あさまだきの靄 四と一話

売店で駅弁を三個買い込むと、幸は列車に乗り込んだ。鬼紙家からの帰りだ。帰ろうと思えば、一瞬で帰ることも出来る。
そうしないのは、単純に列車内で駅弁を食べたい、これにつきるのだった。
一年間、幸は男と旅をしていた。その間、列車に乗ることも多く、男と駅弁を食べるのがとても楽しかった。残念ながら、今回、男はいないが、それは仕方がない、自分の気分だけで男を呼び出すのは申し訳ない。
窓際に座る、ゆっくりと列車が動き出した。
さて、どれから食べるかと考える。
駅弁はご当地物、幕の内系、いかめし系がある。
しばらく考え、幕の内を食べることにする。丁寧に包装紙をはがす、黒がこの包装紙を見たら自分も食べたいと言い出すだろう、幸が少し笑った。
いきなり、ご飯とおかずを頬張る。
あんまり、上品じゃないけれど、なんだか、楽しい。男に見られて下品だなんて思われたら大変と人前ではこういう食べ方をしないのだけれど、本当はこんなふうにがつがつと食べるのが幸は好きだったりする。
「あの、よろしいですか」
女の声に幸が見上げると、通路に立った女が笑みを浮かべていた。
口に頬張ったまま幸は頷くと、箸をもったまま、どうぞと前の座席に手をかざした。
何度か咀嚼し、ぐっと飲み込む。そして、ペットボトルのお茶を飲む。満足の息を吐いた。
ふと、幸は斜め前に座る女を見た。二十歳過ぎの女で綺麗にスーツを着こなしている。
「田村さん、どっちか食べる」
幸は封を解いていないお弁当を二つ、女に差し出した。
「朝食って、それっきりでしょう。なんか、食べたほうがいいよ」
「私の心、読んだの」
田村が呟いた。
「私は田村さんのスカウトには応じない。ついでに言うと、田村さんの所属する組織にはかなり反感、敵意を抱いている。さて、田村さんの質問に対する返答。私の前にやってきた奴に内心の自由は存在しない」
幸がにぃいと唇を歪め笑った。一瞬、田村は走ってこの場を逃げ去りたいと思った。しかし、なんとか、思いとどまる。
「逃げりゃいいのに。追いかけないよ」
幸が気楽に笑った。
そして、弁当を食べる。
田村がお腹の下、ぎゅっと力を込め気持ちを落ち着かせる。そして、言った。
「お話だけでもお聴きいただけませんでしょうか」
幸は卵焼きを飲み込んで言った。
「私の考えはかわらない。それでもいいというならどうぞ」
田村は深呼吸をすると、落ち着いて話し出した。
「いわゆる超能力を持った方達をスカウトする組織です。組織は日本政府管理下ありますが、職務の内容上、宣伝することはもちろんありません、その存在は秘匿されています。今回、特殊な機械により、貴方様が読心能力を持っていらっしゃることを確認し、お声を掛けさせていただいた次第です」
鮭の切り身を食べる、もちろん、薄っぺらいものだが、列車の中で食べるということが味を何倍にも良くしてくれるのだ。
幸は田村に向き直った。弁当を食べ終えたのだ。
「田村さん、お弁当、一つどう。好きな方でいいよ」
「いえ、仕事中ですから」
「そうか、夜も遅いのに大変だ」
がさこそと、お弁当箱を包み紙にしまい直して横の座席においた。
「心を読むし、操ることも出来る。触らずに物を動かすことも出来るし、空も飛ぶよ。瞬間移動もできるし、こういうことも出来るよ」
幸がすっと右手を田村のお腹の中にとけ込ませた。うっと、田村の体が緊張する。
「腎臓と肝臓が弱っている、晩、酒を飲みすぎだ。二四歳でこれは問題だな」
幸が手を戻す。慌てて田村が自分のお腹を両手で触った。
「開いてないよ、穴は。服も破れていないだろう」
幸は弁当二つを迷ったが、一つを選ぶと包装紙を丁寧にはずした。
「心霊手術」
「私は虚実と呼んでいる」
幸が次の弁当を食べ始めた。
田村は驚いた。こんな逸材は初めてだ。
「あの、貴方様が当組織に反感を抱いていらっしゃる理由をお聞かせ願えないでしょうか」
「幸、私の名前だ」
「幸さん」
田村が言葉を繰り返した。
幸がハンバーグとご飯を頬張った。洋風弁当だ。もりもり咀嚼しぐっと飲み込む。

「田村さんは大学を卒業して一年余り。卒業時には借金、奨学金と呼ぶのかな、それが八百万円あった、それを繰り上げて返済した。その上で、いま、預金は千万円を越えた。勤めて一年の女の子がそれだけの給料とボーナスを貰うことができる。もちろん、上司達はもっと貰っている。何処からそれだけのお金がやってくるのかを考えたことがあるかな」
幸はそう田村に問いかけると箸を止めた。
田村が何か言い掛けて、口を噤んだ。自分の言葉に自信が持てなかったのだった。
「田村さんは上司の中村礼子からこう説明を受けている。政府内部のもっとも機密性の高い重要な部署で働いて貰っている以上、詳しくは話せないって。
でも、皆さん、生き甲斐を持って仕事に励んでいらっしゃるわってね」
「はい。詳しいことは職務内容上言うことはできないけれど、上層部を信頼して欲しいと、言われています」
少し、自信なさげに田村が答えた。
ミートスパゲティ、ケチャップで和えただけだが美味しい。ほんのちょっとだけ、ベーコンが入っていた。
「中村礼子は魔女だ、本当にさ、箒に乗って空を飛ぶ。空を飛ぶくらい大したことじゃないけれど、あれは選民思想の塊だ、気をつけなよ。教会でバザーがあるんだけど、一緒しませんって声を掛けられても行くなよ、サバトの貢ぎ物にされるぜ」
田村は混乱していた。この幸さんの言うこと、一つ一つに頷いてしまう。中村さんも優しい課長だけれど、何か、何処かが違うような気がしていた。
「ついでにもう一つ」
幸が目玉焼きを飲み込み言った。
田村が自信なさげに顔を上げた。
「田村さんは四年で内定がとれなく焦っていた。この仕事はゼミの教授吉村の紹介だろう」
「どうして、幸さんはわかるの、ここにいない人のことまで」
思わず田村は素の田村として声を上げてしまった。
幸はジャガイモのサラダを食べ終えると、惜しそうに蓋をした。そして、丁寧に包み紙にくるむ。
「人は一人じゃないんだよってさ、歌がそこいらじゅうに転がっているだろう。一面、それは真実だ。深く関わっている者同士は、その間、共有の振動数を持つ、それを追跡していけば、次の奴の記憶も読むことが出来る。って、却って混乱したかな」
幸はペットボトルのお茶をごくごく飲み干した。
「吉村教授とは報告会と称して月一会っているだろう。会う場所は大学の教授の部屋だったのが、前回はお洒落なフレンチだ。教授のポケットには睡眠薬が入っていた。眠らせてホテルに連れ込もうとしていたんだけれど、びびって出来なかった。吉村教授は今度こそと思っている。気をつけなよ」
幸が窓から外を眺める、すっかり暗くなってしまった。
「私は、あの私はどうしたらいいんでしょう」
幸は窓に映る田村の表情を見る。おどおどと目が泳いでいた。
「田村さんは今まで九人の能力者をスカウトした。能力者はまず自衛隊の所属になる、上層部しか知らない教育機関に組み込まれて、その後、米軍に引き渡される。今の戦争は国同士の戦争じゃなく、テロとの戦いという。国の中にいるかもしれない過激な奴らとの戦い、言い換えれば、国は自国民と戦争をするわけだ。能力者は最前線に立ち、心を読んでこいつが敵かどうかを見分ける仕事をしている。九人の内、既に六人が死に、二人はもうすぐ米軍へと移動する。一人少ないのは、殺される寸前だった高村真理子、彼女を覚えているかい」
「覚えて、覚えています」
息が苦しい、田村は心臓が高鳴るのを感じた。高村真理子、彼女は高校生で笑顔の素敵な女の子だったのを覚えている。
「真理子さんは殺される寸前、私の姪っ子が救い出した、アフガニスタンだ」
幸は弁当箱三個を重ね、袋に仕舞い込むと、からになったペットボトルをその上に載せた。
「田村さん」
「は、はいっ」
「私は人間じゃないから、この人間の社会に関わろうとは思わない。だから、私は田村さんにああしろこうしろとは言わない。ただ、それなりの情報を得たはずだ、あとは自分で考えろ。それじゃな」
ふっと幸の姿が消えた。慌てて、田村が幸の座っていた座席に手を伸ばした。少し、暖かい。
うわぁっ、田村が悲鳴とも嗚咽ともつかない声を張り上げた。

ホームのベンチに座り、少し俯く、そして、小さく吐息を漏らした。
幸はどうするのが正解だったのだろうと考える。多分、なよ姉さんなら、襟首掴んで引っ張ってくるだろう。なかなか、それはできないなと思う。
「幸母さん、お帰り」
黒がホームを走ってきた。勢いよく黒が幸の隣に座った。
「ただいま」
幸が笑った。
「黒、母さんがいること、よくわかったな」
黒は嬉しそうに笑う。
「お父さんの力を借りたときから、なんだか、変わってきた」
「あれはもったいなかったな、一日借りていたら、母さんくらいに使えるようになっていたかもしれないぞ」
黒が首を横に振った。
「黒はね。ピンチになったら、幸母さん助けてって叫ぶ予定だから、幸母さんほど強くなりたくないんだ。それにお腹、あんなにお腹減ったの初めてだったんだよ」
「甘えん坊だな、黒は」
「長女だって、甘えたいんだよ」
にひひと黒が笑った。
幸は袋から残ったお弁当を取り出して黒に渡した。
「母さんは二つ食ったけど、黒は一つだ」
「ありがと。幸母さん」
ぱさぱさと包み紙を広げ、両膝に載せた。
「いただきます」
「どうぞ」
るんるんと鼻歌を歌いながら黒がお弁当を食べる、幸はその姿を笑みを浮かべ眺める。
ふと、あの田村にも親がいるんだろうなと思った。

田村はドアを開けると、歩みを止めず、中村課長の前まで一息でやってきた。
「お疲れさま」
中村が笑顔で言った。他の職員は既に帰り、部屋は田村と中村の二人だ。
「中村課長。お願いしたいことがあります」
座ったまま、中村が田村を見上げた。
「深刻な顔をしてどうしたの。言ってごらんなさい。相談乗るわよ」
まっすぐに田村は中村を見つめて言った。
「私が最近スカウトした田中義輝さんと辻美樹さんに会わせていただけませんか」
中村が小さく吐息を漏らした。
「詳しくは言えないけれど、二人とも重要な国家機密に携わっている、情報が漏れると大変だから、接触できる人数も限られている。残念ながら私達でも無理だよ」
残念そうに中村が答えた。
「その、国家機密って何でしょうか」
「え、驚いた。そんな質問が来るって思ってもみなかったよ」
中村は椅子を引くとゆっくり立ち上がった。中村の方が田村より少し背が低い。
「どうしたの」
中村がそっと田村を見上げる。
「質問を変えます。中村課長は魔女ですか」
田村の問いに中村はとびっきりの笑顔を浮かべ答えた。
「そうだよ」
ゆらりと中村が手を差し出す。ふわりと箒が現れた。浮き上がるように中村は箒に乗ると、田村を見下ろす。
「田村さんって案外馬鹿だなぁ、逃げの利かないところで聞くなんて。国家機密なんて、本当はどうでもいいんだけれど、私の秘密を知っているってのは問題だな」
田村が歯を食いしばった。
「誰から聞いた、答えろ。言わないなら、頭蓋骨を割って脳から情報を引っ張り出すぞ」
「言いたくありません」
中村が驚いたように目を見開いた。
「あまりの愚かさに驚いた。なら、その頭を割って、いくつも電極を突き刺してやろう」
中村の右手に大きな斧が現れた。中村がためらいなく田村の頭に斧を振り下ろす。
斧が田村の頭に食い込む寸前、止まった。
中村の前に現れた黒が斧の先端を摘まんでいた。
「魔女さんの一部は人を玩具にしか思っていないって聞いたけど、中村魔女さんは、その一部の側なんだね」
黒はそういうと、小さく呪文を唱える。斧が初めから無かったように消えた。
「何者だ、お前。どこからやってきた」
黒は笑みを浮かべる、でも、黙ったままだ、その様子に中村が怒鳴り声をあげた。
「何者だと聞いているんだ」
黒は一層、中村に微笑みかけた。中村がいらつくように歯ぎしりをする。
「お前、人じゃないな」
「あのね。中村魔女さん、クラシックローズアソシエーションから、ここに密偵で来ているんでしょう。いま、大変だよ。グランシスターが呪いを掛けられて、上へ下への大騒ぎ。それに五人の魔法使いの能力が急に消えてしまって空も飛べなくなっちゃったし。正直、中村魔女さんがここに来たのは左遷扱いでしょう。うまくすれば、組織の本流に戻れるよ。早く帰った方がいいよ」
にぃぃと黒が笑った。
中村は考える。この娘と戦って勝つことができるか。五分と五分。どうも、こいつは、正義の味方なんて陳腐な奴ではなく、田村を救い出せれば満足のようだ。ならば、グランシスターのことが気になる。
中村は一呼吸を置くと、黒に言った。
「田村は解放してやる、それでいいな」
「もちろん。中村魔女さんにも危害は加えないよ」
中村は顔を背けると、窓を睨む。ばっと窓が開いた。
「田村さん、その頭でしっかり考えろよ。余程悪いことでもしない限り、こんな給料やボーナスが出るわけないだろう」
中村は田村ににぃぃと笑うと、後は知らないと、箒に乗り、窓から飛び出していった。
黒は振り返ると、田村に言った。
「勝手に話を進めてごめんなさい」
「えと、あの、いいえ。助けていただきありがとうございます」
田村は展開についていけず、やっとそれだけ言ったが、なんだか、膝の力が抜けて、うずくまってしまった。
黒は田村を抱き上げた。田村の視界に黒の笑顔が満ちる。素敵、年下の女の子のはずなのに。

 

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遥の花 あさまだきの靄 四話

久しぶりの鬼紙家だ
ゆっくりと幸が左右を見渡す、そして見上げた。
瞬間、玄関の天井が抜けた、鬼紙の兵が十人、飛び降り、槍を幸に向ける。
幸は怯えもせずに言った
「こんばんは、幸と申します こちらに姉のなよがお邪魔しているはずですが、お呼びいただけませんでしょうか」
中の一人が槍を向けたまま、幸に問いただした。
「お約束はございますか」
ぐっと睨みつけるように言う。
「いいえ、ありません ふとした思いつきで参りましたから」
それではお引き取り願いましょう 鬼紙家では、お約束のない方にはお帰りいただいておりますゆえ」
「そうですか、仕方ありませんね」
幸が俯き、そのまま、呟いた。
「長男をはじめ、用意しておいた跡取りが鬼に食われたことで未だに神経質になっているようだな」
幸の言葉に男たちの間で緊張が走る。
幸が鬼紙家に来たのはこれが二度めだ。幸は忍び込もうと思えば、いくらでも入りこむこともできたが、なんかそれも腹が立つと、正面からやってきたのだった。
「自信がないから、怯えきって、わからないものはとにかく排斥しようとする、まるでガキそのものだ」
俯き、でも、聞こえるように言う。
「女、なんだと 我らを愚弄する気か」
驚いたように幸が顔をあげた。
「あれ、声に出てましたか」
幸がにかっと嬉しそうに笑った。奥からどたどたと駆ける足音、兵次だ。玄関口での騒ぎに胸騒ぎを感じ飛び出してきたのだった。
槍をすり抜け、兵次が割って出た。
「師匠 何してんですか」
「見りゃわかるだろう。可憐な女の子が男どもに槍を向けられ怯えている最中だ」
にひひと幸が兵次に笑いかけた。
兵次は頭を抱えたが、大きく息をし、男たちに振り返った。
「退いてくれ。でないと、お前たち、師匠に胴二つに斬られてしまうぞ。あとは俺に任せてくれ」
兵次が男たち後ろに追いやる、ふと幸が左端の男に言った。
「お前は残っていろ。言いたいことがある」
「こら、兵次」
なよが憤慨したように言った。
「早く出すぎじゃ、もう少しで幸の技を楽しめたものを」
いつの間にか、なよが兵次の隣りにいた。
何処からわいてこられましたかと言いたいが、そんなことを言えば命に関わると兵次は思う。
「なよ姉さんは冷たい。妹が脅されているのに平気で見ているんだから」
「あの程度の槍でお前がどうなるわけでもなかろう。それより、幸、何しに来たのじゃ」
「あさぎ姉さんの新作ケーキを食べてもらおうと持ってきたけど」
幸がケーキの箱を差し出した。
「帰りの電車で、ケーキ全部やけ食いすることにします。なよ姉さんが
冷たいって泣きながら」
「ま、まて」
なよがうろたえた。なよは幸に近寄るとしっかりと抱きしめる。
「怖い思いをさせてしもうた。わしがもう少し早く気づいておればよかったものを、さすれば、なんとしてでも、大事な妹を護ったに、怖い思いをさせてすまなんだのう」
「調子がいいなぁ」
あきれたように幸は言うと、なよにケーキの箱を差し出した。
「あさぎ姉さんから、みんなで食べてくださいって。みんなだよ、兵次の分も入っているからね」
なよは満辺の笑みを浮かべると、わかったわかったと頷いた。
「三毛やあかねはどうしている、それに亜矢は」
「三人とも風呂に入っておる、桧の良い風呂じゃ。それより」
なよが自分の額辺りを指さした。記憶を読めということだ。
幸がなよの額を見つめ呟いた。
「わかった そうする」
幸が頷く、なよも話は終わったとケーキの箱を抱きしめ鼻歌交じりにあてがわれた部屋へと戻っていった。
「あの、なよ様は何を」
気がかりそうに兵次が尋ねた。
「口に出して言えることなら、記憶を読めとはいわないさ。ただ、兵次、今晩はいつでも動けるようにしておけ、なよ姉さんの指示にいつでも動けるようにしておけよ」
早く帰ってお父さんに甘えたいなぁと幸が呟く、しょうがないと顔を上げた。
「そうだ 兵次の横のお前、男の振りをしているけど、腹をタオルで膨らませて、胸はさらしで押さえている、なにもんだ」
兵次が代わりに答えた。
「俺の妹、薫です」
幸が頷いた。
「薫さん、あんたに刃は向いてない、あんたらがあたしに槍を向けたとき、一人だけ刃先が震えていた。相手に刃を向けるということは、返す刃先で自分の首を飛ばされても仕方がありませんということだ。薫さん、それがわかってっから、びびって震えたんだろう」
薫はぐぎゅっと唇を結んだまま辛そうな表情を浮かべ頷いた。
幸は薫をまっすぐ見据えると、彼女の喉に右手を添える、あまりにもなめらかな動きに兵次は身動きができなかった。
「声帯に異常があって喋れないのか。あたしなら喋ることが出来るようにすることができるけど、薫さん、喋りたいか」
一瞬、薫は幸の言葉を理解できなかった。しかし、すぐに理解すると慌てて頷いた。幸が顔を兵次に向ける、兵次の表情に幸は頷くと、すぅっと薫を見据えた。幸の手の先が薫の喉にとけ込んでいく、
「声帯が機能するようしておくよ」
幸は薫の首に手を入れたまま言う。
「ゆっくり息を吐いてみろ」
薫の口から、あーという声が出る。
「もう一度だ」
次は薫の口からいーという声が出る。
今はあたしが薫の喉と声帯を操作している、自分で何とか声を出すには少なくとも一週間はかかるだろうけれど、正解を経験した筈だ。焦るな、ゆっくり練習していけ、急げば道に迷うからな」
薫は顔を上気させ何度も頷いた。
幸は兵次を見上げ言った。
「なよ姉さんが世継ぎの教育係を集めているらしいな 薫さんもそっちへ入れてやれ。斬った張ったより、適しているぞ」
「あの、しかし、我らは鬼紙私兵であるので」
「男の作った仕組みで女を翻弄させるんじゃねぇ。適材適所だ」
幸が見上げ、兵次を怒鳴りつけた。
幸は溜息をつくと、深く一呼吸をした。
「幸姉様。ここは独裁的治外法権の山里ですから、面倒ですがそれなりの手順が必要ですわ」
いつの間にか、あかねが兵次の隣に正座していた。嬉しくてたまらないと笑みを浮かべていた。
「なら、あかねが権力者の祖父さんにお願いするというのはどう」
うーんとあかねが首を傾げた。
「あかねは幸姉さんに絶対服従ですけど、お爺さまにお願いするというのは嫌かなぁ」
「えぇっ、絶対服従なのに」
「例外条項がいくつもありまして」
「なら、しょうがない」
幸は対等に喋るのが楽しい。
「幸姉様がなよ姉様にお願いするというのはいかがでしょう、選任の任もなよ姉様に任されていることですし。
「なるほどそりゃそうだ」
幸がぱっと無垢な笑顔を浮かべた。
「なよ姉様。幸ね、幸、なよ姉様にお願いがあるの」
うーんとあかねが両腕を組み、首を傾げる。
「間違いなく、蹴飛ばされますね、気色悪いって」
「だろうな。ということで、あかね、あかねがなよ姉さんに頼んでくれるかな」
「そうですね。では、善は急げということで」
すぃっとあかねが立ち上がった。
薫は驚いていた、配膳係のあかねさんは年下だけれど、優しい人だ。奉公の先輩として、部署も仕事も違うが、親しくしてくれていた。男ばかりの部署で気が張りつめる中、ほっとできる人だ。それが、神様のような女の子を姉さんと呼んでいる。考えてみれば、あかねさんのことを全く知らない。
あかねはにっと笑うと、薫の手を握る。
「大丈夫ですよ。あかねにあとはお任せください」
用事が済んだと、あかねは薫をなよの部屋へと連れて行った。
「さて」
幸が兵次に言った。
「すぐに帰るつもりだったけれど、事情が変わった。あたしは友達ん宅で待機する」
「師匠、友達がいるんですか」
驚いて兵次が言った。幸が睨む。
「あ。いえ、そうではなくて、鬼紙にという意味でして」
しどろもどろに兵次が言葉を重ねる。幸はにっと笑みを浮かべた。
「とってもいい人だ。今度、紹介してやるよ」
すっと、幸の姿が消えた。兵次はそっと幸のいた場所に手をやり、何もないことを確認する。ほっと兵次は安堵の溜息をついた。

鬼紙家の屋敷から普通に歩けば五分、小さな古民家だ。もっとも、中は現代的な設備が整っている。
辺りはもう薄暗い。
幸は引き戸の前に立つと、目立たない呼び鈴を探すことなく鳴らした。
「はーい」
インターホン越しに女性の明るい声が聞こえた。
「遅くからごめんなさい。幸です」
「え、幸ちゃん。待ってて、今、開けるから」
ばたばたという足音と共に引き戸が開いた。
「遅くからごめんなさい」
幸が言うと、心底嬉しそうに、章子は首を横に振った。
「大歓迎だよ、さあ、入って」
「遅いですから、ここで」
「えぇっ。いいから、どうぞ、どうぞ」
章子は幸の手を取ると、元気に招き入れた。
章子は台所のテーブルに幸をつかせると、お茶を沸かす。IHだ。鬼紙老の趣味で新築の家も古民家風だが、中は現代的だ。
「幸ちゃん、今夜は御舘に泊まるの」
「あ。いえ、家に帰ります。最終の電車があと一時間くらいかな」
「だめだよ、危ない」
章子が驚いて言った。
「滅多なことはないと思うけれど、うちへお泊まりよ。今夜は兵次さん、帰ってこれなくなったし、ほんと言うと、私一人で寂しいんだけど」
章子が真面目な顔をして言う。
章子は兵次の妻で、幸は兵次の師匠の娘ということになっていた。
「それじゃ、宿代がわりにこれ、あげます」
幸がケーキの箱を食卓に置いた。章子用にあさぎのケーキを一つ余計に持ってきていたのだった。
そっと章子が箱を開ける、あさぎの新作ケーキだ。
「うひゃ、美味しそう」
思わず、章子がケーキを箱から出した。
「うわ、恥ずかしい。行儀悪いなぁ」
「気にしないでください、幸は章子さんに食べてもらいたくて持って来たんだから」
「もう。幸ちゃんはいい子だなぁ」
章子は皿を持ってくるとケーキを載せた。
「半分こしようか」
「ううん、幸はお店と御舘とで二つ食べたから。それに、章子さんが美味しそうに食べるの見たくて持ってきたんだから、章子さん、食べてください」
まるで夢見るように章子はケーキを眺めていたが、そっと、フォークをさし、一口食べる。
章子の表情が消えたと同時に、両目から涙が流れてきた。
「美味しい、美味しいよ。なんで、こんなに美味しいの」
夢中になってケーキを食べ終えると、章子は食卓にふせってしまった。
「子供の幸ちゃんに、大人として、いま、とっても恥ずかしいけど、なんだか、とってもとっても、幸せな気分。ふわってなってる」
「持ってきた甲斐がありました」
幸もそっと微笑んだ。
「今度は兵次お兄さんとお店に一緒に来てください。御馳走でおもてなししますよ」
「行きたいけどなぁ。申請が通らないだろうし」
「申請ですか」
幸が呟いた。
鬼紙一族、これは鬼紙老を頂点とした絶対君主制ともいえる。一族の掟は絶対だ。
「里から出るには御舘の許可がいるんだけど、幸ちゃんちでご飯食べてきます、はどう考えても許可されないと思う」
「美味しい外ご飯を食べにいく、それが許可されないって、それはどういう理由からですか」
静かに幸が尋ねた。
「え、だって」
「理由を言葉にして教えてください」
「あの、わからない。ごめん」
「為政者、御舘は楽でいいですよね。あれこれ、口うるさく言わなくても、下の者は自分で自分自身を自縛してくれおるわいって」
幸がにっと笑った。
章子は幸の言葉に混乱してしまった、それって、えっと、どういうこと。考える、ぐっと考える。
「あ・・・」
章子が息を漏らした。
幸が少し笑った。
「章子さん。鬼紙の一族は人の世界を鬼から護るため、その一点で御舘の独裁を受け入れてきた、鬼を研究し戦うためには、みんなで仲良くというより、独裁を受け入れる方が確実ですから。でも、鬼紙老の跡を継いだはずの娘が逃げ出し、遊興三昧、あれ、これってありなの、って思う人たちも増えてきたとか」
章子が真面目にうなずいた。
「政治家の中には鬼と接触して利益を得ようとする人たち、鬼の力を利用して自衛隊を強力にしようとする人たちも現れだして、里の外は案外混乱しています。鬼が人を普通に食べる、その一点において、人と鬼の共存は避ける方がいいのは間違いなく、鬼紙家も今までと違った取り組み方が必要かもしれませんね」
「幸ちゃん、以外と賢い、美人で賢い」
「はい、幸はとっても美人でとっても賢いですよ」
幸が笑った、章子もつられて笑う。
「幸ちゃん。私はこの里を案外気に入っているんだ、不便なことも多いけれど、空気が美味しい、食べ物が美味しい、自然も豊かだしね。だから、ちょっとずつ、御舘も鬼紙のみんなも、変わっていけばいいなぁなんて思う」
「なら、幸ちゃんちでご飯食べてきますって申請してみてください、そのやりとりから変わっていくかもしれませんよ」
章子が心の底から楽しそうに笑った。
「私は幸ちゃんが好き。なんだか、とっても元気になれる。ありがとう」
「どういたしまして。母は強しです」
幸がそっと頷いた。
「三毛ちゃんに昼間会った、初めて見たけど、可愛い女の子だった」
「上の子は母さんだめだよって意見するけれど、末っ子は甘えん坊で困った困った」
全く困ったふうではなく、幸が笑う。章子は三毛が私たちは養女ですけど、気持ちは本当の実のお母さんなんですと恥ずかしそうに笑っていたのを思い出した。
「章子さんも、お腹の中、赤ちゃんがいるでしょう」
「え、わかるの」
「わかりますよ、まだ、体型はほとんど変わってませんけど、幸は目ざといのです」
にひひと幸が笑う。
つられて章子も笑ってしまった。
玄関口の呼び鈴を誰かが鳴らしたのだろう。ピンポンという軽やかな音がする。
「ひょっとして、兵次さんかも」
章子が立ち上がって壁のモニターを見る。お隣の、といっても百メートルほど先にある家の奥さんだった。
「ちょっと、いいかな」
インターホン越しの見知った顔の声に章子は今開けますとドアへ走る。
幸はこの家を取り囲む数十人の気配を感じていた。
遠見で鬼紙家を見れば、なよがにかにかと喜色満辺の笑顔でこちらにやってくる、兵次は詳しくは聞かされていないのだろう、戸惑った顔をしてなよの後ろを付いてくる。
「なよ姉さんが鬼紙家をかき混ぜた所為で溜まっていた芥が浮かび上がってきたか。どうせ、遅かれ早かれだ」
幸は呟くとシンクの壁に掛かっているプライパンを見つめた。
「何をするんですか」
章子の大声が聞こえた。
幸が視線を向けると、刀を持った男が二人、駆け込んで来、章子を突き飛ばす、幸は章子の後ろに回ると、章子を後ろから抱えるようにして倒れながらふわっと受け止めた。
きっと幸が男二人を睨みつける。
「出て行きなさい。武器を持ってやってくるなど、恥ずかしくはないのですか」
「なんだ、なんだ。威勢のいいのが一匹いる。ほぉ、これは凄い美人さんだ。ガキだけどな」
男が刀を前に突きだし、幸に近づく。幸は駆けると、フライパンを両手で握り振り上げた。
「出て行きなさい。でないと、打ちます」
幸のフライパンを上に掲げ、隙だらけの姿に男二人が笑い転げた。
ふざけたように刀をかざした男が言った。
「いいから殴ってみなよ。俺様の頭で受け止めてやるぜ」
「女をなめるな」
幸は正面から刀をかざした男の頭めがけて走る。
かざした男の刀の先が幸の喉元一センチに達した瞬間、こいつは刀を戻す意志がないのだなと把握した。
幸は右にかすかに崩れ、刀を避けると、男の顔面寸前でプライパンの柄を掴む両手をほんの少し緩める、幸の手のひらの中で柄が数センチ動いた瞬間、握り直し男の顔面にプライパンを打ち込んだ。顔面挫傷だなと手応えを感じながら、幸がそのまま、膝をついた。
「ひゃぁ、章子姉さん、やりましたよ」
自分でも驚いたと声を上げる。
「幸ちゃん、すごい、やった」
章子も興奮して叫んだ。
瞬間、兵次が飛び込んできた、もう一人の男を首投げをし、その倒れた男の胸に肘を落とした。
「章子。大丈夫か」
「私は大丈夫。幸ちゃんが助けてくれたの」
「えっ」
兵次が恐る恐る振り返る。
にっと幸が笑っていた。
「兵次兄ちゃん、ありがとう」
幸は用事が済んだと外へ走る。外ではなよがおよそ五十はいる武器を持った男たちの前で、嬉しそうににやにや笑っていた。風切り音、刃帯儀だ、家の回りを走らせ、男たちを逃げられないよう閉じこめているのだ。
「なよ姉さん。殺しちゃだめだよ、この人たちにはこれからも鬼紙家を支えてもらわなきゃだから」
「そうじゃったのう。うっかり忘れておったわい」
うひひと笑う、暴れるのが相当嬉しいらしい。
なよの正面、がたいのよい男が腰を落とし、槍をまっすぐ、なよに突きつけていた。なよが自然体に立つ、男の咆哮だ、槍が唸りをあげ、なよの心臓を貫こうと疾走する。なよがわずかに右に逸れ、左手を伸ばした。左手の甲と槍の柄が重なる、男が槍を手元に引く、それに引かれるようになよは男の前に入り、入り身、下段、右半身で男の鳩尾を拳で貫き、体を緩めながら右前にでる。なよの後ろで男がそのまま地面に倒れた。
「一対一はつまらんのう。まとめて掛かってまいれ」
なよがにかにか笑いながら怯えだした男たちに声を掛けた。
章子と兵次が家から飛び出してきた。
「幸ちゃん、大丈夫」
章子が心配していた。
「私は大丈夫ですけど」
幸がなよを見る。次々と武器を持った相手を、なよが地面にぶつけていっている。
「なよ様、かっこいい」
ほぉっと章子はなよの動きを見ていたが、決心したように、口を横に引き、しっかりと言う。
「幸ちゃん。女だからって、守ってもらえることを当てにしちゃだめだってこと、私、わかったんだ。幸ちゃんがいなければ、兵次さんが戻ってきてくれなかったら、私、殺されていたと思う。私もフライパンもって戦えるように頑張るよ」
幸は章子の真っ直ぐさを気に入っていた。
「章子さん。女は度胸。成せば成るだよ。一緒に頑張ろう」
幸は笑うと、なよに向かって声をかけた。
「なよ姉さん。一枚、分けてくださーい」
聞こえたのだろう、なよが小さく手首を震う。袖口から飛び出してくる線状のもの、空気を切り裂き、幸の寸前で止まった。絹の帯を裂いた一メートルほどの布切れだ。刃帯儀、本来は刃のように人も物も切り裂くが、ふわりと幸は刃帯儀に横座りすると章子に言った。
「幸はとっても美人でとっても賢いのですが、お父さんとあんまり離れてしまうと寂しくて泣いてしまうのです」
幸がにっと笑った。
「また来ますね、それでは」
魔女の箒のように、刃帯儀が幸を乗せ飛んでいった。
「ひゃぁ、幸ちゃん飛んでる。さすが、兵次さんの師匠のお嬢さんだ。ただものじゃないんだねぇ」
どう答えたものかと兵次は頭を抱えた。

あかねはこんなものかなと配置を見渡した。畳の大広間、時代劇での江戸城で将軍が謁見する様を思い起こせば、それなりの屋敷が一軒そのまま入るような広間だ。
中央後方は一段、高くなっており、藤の座椅子に腰掛ける鬼紙老、その隣には孫の長子、孝一郎、そのお守り役の子供が三人、向かって右は亜矢と薫、左は三毛が座っている。薫はこの状況に何がなんだかわからずにいた。身分の低い自分が天井人の鬼紙老と同じところに座っている。そして、あかねさんが鬼紙老に座る位置を指示し、かわいげのないやつだと文句を言いながらも鬼紙老がその指示に従う、これってどういうことなんだ。
「さてと」
あかねは言うと、鬼紙老に向き直った。
「今から鬼紙私兵を中心に五十人くらいやってきます。ここにいる者たちを鬼紙老を除いて殺します。鬼紙老は早朝、生きたまま張り付けにされます。こういう予定で彼らはいます」
そして、あかねは背を向けると言った。
「三毛、亜矢さん、薫さん、皆を護ってください。あかねは彼らを押しとどめます」

幸はそうだと思い立ち鬼紙老の舘に戻ってきた。あまり来たくはなかったのだが、三毛の顔を見ておこうと思ったのだ。大きな老舗旅館のような玄関に入る。ふと、幸は右端に女がうずくまっているのに気づいた。完全に気配を消している、余程の者でも気づかず通り過ぎるだろう。幸は女の記憶を遠慮なく読むと、女の前に立ち、ぎゅっと抱きしめた。
「あなたはかぐやのなよ竹の姫の密偵、いえ、娘ですね。私はかぐやのなよ竹の姫を姉と呼ぶ者です」
幸はゆっくりと体を離すと、自らに術をかけ、気配を消したままの女に囁く。
「国の民を自分は護ることができなかった。それが姉様の大きな傷となり、その傷を無くしてしまわないために、姉様は生きています。私はそれを可哀想とは思いません。立派に傷を引き受けたと思っています。ただ、姉様と呼ぶ身と致しましては」
幸は女の両手をしっかりと握りしめた。
「娘として時折会ってやって欲しいと願っております」
女の術が解け、その閉じた眼から涙が零れた。

あかねが満遍の笑みを浮かべた。
「これは鬼紙私兵の隊長様、抜き身の槍を片手にどうなされたのでしょう」
部屋に五十人以上はいる、鬼紙私兵があかねや鬼紙老を半円に取り囲んでいた。
「お前は確か、配膳係の者だったな」
「はい。覚えていただき光栄にございます」
「なぜ、お前がここにいる」
「それは、いま、この場所で隊長様と向かい合うに最適の人選であると考えやお待ちしておりました。なにやら、みなさま、難しい顔をなされて、槍や刀がこちらに向けられている、そのようにみえるのですが、これはいったい、どうしたことでしょうか」
「新しい世界を創る、ということだ。逆らえばお前も死ぬことになる」
あかねは考えるように少し俯いたが、顔を上げ言う。
「本来、鬼紙老を護るはずの鬼紙私兵が、その鬼紙老に刃を向ける。つまり、反乱ですとか、革命とかいうもので、その血祭りに私たちはあげられるということですか」
男はあかねの妙に落ち着いた受け答えに気味悪く思う。身分としては配膳係は低い身分だが、鬼紙老の口に入るものを扱うだけにその身元や思想は厳重に調べられる。当然、隊長である自分がそれぞれの詳細を知りうる立場にあるが、このあかねという女の情報が極端に少ない。何者なのだ、この女は。

あかねは手首に巻いていた輪ゴムを取ると、髪を後ろに束ねた。そして、帯を解き、着物を脱ぎさる、ブルース・リー初期のカンフーの服装だ。着物を畳み、すたすたと後ろへ脱いだ着物と帯を持って行き、何事もなかったように隊長の前に戻る。
そして、やってきた兵士たちに声をかけた。
「私は鬼紙老を護ります、結果、あなた方と闘うことになります。もし、やっぱ、怖いから闘うのやめておくという方は少し後ろへ下がって正座してください」
あかねは鬼紙私兵隊長の前に立つとにかっと笑った。
「隊長なら理解しているはず。刃を向けると言うことは、その刃で己の首を切られても文句は言えないと。ま、もっとも、頭が地面に転がっていたら喋れませんけどね」
隊長はぐっと息を吸うと、一歩下がり、腰を落とす。そして、穂先をあかねの喉元へ向ける。
「娘子供と侮ることはせぬ」
隊長があかねの喉元に向け、槍を繰り出した。あかねは避けもせず、槍先を掴んで笑った。
「修行が足りませんね」
そのまま、槍の先を掴んだまま、あかねがほんの少し、俯く。どすんとうつ伏せに隊長が倒れた。まるで、巨大な物に押しつぶされたように
悲鳴を上げ、私兵たちが刀を振り回す、槍でめった突きしようとする。あかねは気分良く踊るように攻撃を交わしながら、相手の顔面を打ち据えていく。
あかねさん、強すぎる。
あかねから少し離れたところにいるのに、薫にはあかねの打撃を見極めることができなかった。あまりにも速く、相手が倒れたことであかねが攻撃したのだとわかる。
「かっこいいです」
思わず薫が呟いた。隣にいた亜矢も言う。
「最初の槍の打突を無造作にあかねさん、掴んだ。凄い見切りと自信ですよ」
「あの、どうして隊長は槍を手放さなかったのでしょう、手を離せばあんなふうには倒れなかったはずなのに」
「離れないんです、手を離したくても張り付いたように槍が放せない」
亜矢は行きの電車でのナイフ男の手が柄から離れないように操作するなよの動きを思い出す。
倒れた兵が三十人あまり、二十人ほどは後ろに下がり、正座して頭を畳にすり付けていた。
つかつかと、あかねはうつ伏せに倒れた隊長に近づくと、その後ろ頭をすこんと叩いた。
「起きろ。いつまでも寝てんじゃない」
はじけるように隊長は体を起こすと回りを見渡す。あぁと溜息をついた。そして、胡座に座り直すとあかねに言った。
「反乱の首謀者は俺だ。俺の首を落として晒し首にでもしろ」
殺すのは簡単なんだけどね、あかねは呟くと隊長の前に正座した。
「あたしも数え切れないくらい鬼も人も殺したけれど同族は厳しいな。隊長さん、奥さんも子供もいるでしょう。あんたを殺すっていうことは、家で知らずに待っている人たちのこれからも殺すということだ。殺せなんてさ、かっこつけずに命乞いしなよ。やだやだ、男ってのはなぁ」
心底呆れたとぱたぱたと手を振り、あかねは言葉を続けた。
「反乱でも革命でもいいや、隊長さんの目的はなんだったんだ。なんか、理由があったんだろう、それを言ってくれ」
ぎゅっと、あかねが隊長の目を睨んだ。
「自由が欲しかった」
目を瞑り隊長は重々しく答えた。
「目を開けろ、歯を食いしばれ」
そういうと、隊長の頬をすぱんと平手で打つ。
「バカ野郎。ガキがあたし、彼のこと、全部好き。その程度のぼやけた言葉を偉そうに言うな」
隊長が目をきょろきょろさせる、まったく想定していない反応に頭が回らなかったのだ。
「それ、誰に借りた言葉だ。自分でひねり出した言葉じゃないだろう」
襖の向こうで衣擦れの音がした、駆け出す足音、あかねはハンカチを出すと襖に向けて飛ばした。まるで礫のようにハンカチが飛び、襖を貫いた。手首にハンカチの巻き付いた女がひとり、引っ張られるように広間に転がってきた。
「先生」
思わず、隊長が叫んだ。隊長はあかねと女の間に割り込み、あかねに懇願した。
「先生は悪い人じゃないんだ。迷い込んできた旅行者で俺たちに生きることの大切さを教えてくれた恩人なんだ」
泣き出しそうな女の顔、あかねは溜息をつくと、立ち上がり、隊長の前に立つ。
「男ってのは哀しいくらい美人に弱いんだなぁ」
あかねは女の前に行くとゆっくりと話しかけた。
「名前は」
「た、田中、朱美です」
「ふうん」
あかねは振り返ると隊長に言った。
「立って、こっちに来い」
女性が心配でよろめきながらも隊長がやってきた。
「三毛、お願い」
あかねは三毛も呼ぶと言った。
「この田中さんって人を立ったまま動けないようにしてください」
「うん」
三かが頷いて女の後ろに立つ、そして、右手を女の肩に載せた。これだけで女の体がまったく動かない。体を動かし始めるには何処かを緩めなければならない、三毛は緩みを消すように右手で女の動きを操作しているのだった。
「隊長、その額を触ってごらん」
「いや、それは」
隊長が戸惑う。あかねが言葉を重ねた。
「あたしも胸を触れといっているんじゃない。おでこをちょっと触れと言ってんだ、それくらいでセクハラとは騒がないだろう」
隊長が人差し指と中指で女の額にそっと触れる。違和感、これは。
隊長は指先に微かな円の形を感じた。
「摘まんで引っ張ってみな」
隊長が恐る恐る女の額を摘まむようにして引く。肌色のフィルムが取れ、その額には短く切った角の跡が残っていた。
「鬼、だったのか」
隊長が呻き声で呟いた。三毛が小指を少しだけ緩める。口が動くようになったのだろう、女が大声で笑った。
「男なんてぬけさくばかりだ。ちょっと、しおらしくすればすぐに信じきっちまう。これで鬼紙私兵でございとよくもまあ言えたもんだよ」
三毛が小指に少し力を入れる。女の口の動きを止めて、哀しそうに溜息をついた。
「お、俺たち、だまされていたのか」
正座したままの男たちが口々に驚きの声を上げた。
「馬鹿野郎」
あかねが男たちに怒鳴った。
「だまされていたんです、だまされていたボクは悪くありませんというつもりか。いい歳してだまされるってのが罪なんだ」
男たちが俯いて口を噤む、あかねの声に怯えたのだ。
あかねが隊長を仕方なさそうに見る。
「だまされた被害者たちは、今度は加害者になる。だから、被害者になってはならないんだよ」
「わ、わかりました」
隊長が素直にあかねに頭を下げた。
あかねは頷くと正座していた男たちに声をかけた。
「今晩のことは不問とする。倒れている奴らを医事方へ連れて行け。その後、通常業務へ戻れ。速くしないと殴り飛ばすぞ」
あかねの声に男たちは倒れている仲間を連れ、広間を逃げるように去っていく。
「隊長」
「はっ」
あかねの言葉に隊長が直立不動で答えた。
「鬼紙には多くの外へ出してはならない文書や口伝がある。だから、自由と言っても限度がある。それはわかるな」
「承知しております」
「鬼紙では長い間、里から外へでるのは許可制だったが、近日、申告制と変わるだろう。今後、こうしたい、こうありたいと思うことがあるなら、御舘に言え、いきなり、刃を向けるな」
「申し訳有りませんでした」
隊長はあかねの采配に感動していた。三毛はこの人って単純で普通にいい人なんだなと思う。
ふと、あかねは気がついて鬼の女をみつめた。近寄って、少し、背伸びをして上から見る。首を傾げ
たまま、女を睨む。
「一つ、尋ねたいことがある。あんた、生き別れの家族とかさ、いないか」
驚いたように、女が目を見開いた。
あかねが三毛を手招く。三毛は手を離して、女を正面から見た。
「そっくりだ」
三毛も呟いた。
「あんたら、妹のことを知っているのか。あたしより、十こ下で、多分、あんたの肩くらいの背になっていると思うんだ」
女が必死の表情で二人に声を上げた。
「どうしよう」
三毛があかねに囁いた。うーん、とあかねが腕を組む。
「単純にはいかないなぁ」
あかねが深刻な顔をして答えた。
幸は女の前に立つと、少し見上げる。そしてその頬に右手を添えた。
「お前、名前は」
幸が問う。
いつの間にか現れた美少女、女は一瞬、喉をつまらせた。
「田中朱美はもういい。本当の名前を言ってくれ」
「私は天津地朱女」
本名を言う。女はこの少女が自分の前に現れた瞬間、自分は審判にかけられていることを理解したのだ。
「なら、朱女(あけめ)と呼ぶ。妹と別れた経緯を話せ」
女、朱女は覚悟を決めると幸の前に正座し、話し始めた。
「原種の鬼同士の戦争に駆り出され、父は殺されました、母も父の後を追うように私と生まれたばかりの妹を残して死にました」
朱女は赤ん坊を育てることができず、かぐやのなよ竹の姫の国と隣接していたこともあり、赤ん坊を角のない鬼の国にある姫が世話をしている養護施設に置き去りにしたことを正直に話した。幸は朱女の記憶を深層まで読みながら、その言葉を聞く。
「朱女よ。かぐやのなよ竹の姫の国は滅ぼされた、角のある鬼の軍隊に」
「第一王子の軍隊だ。あいつを鬼王にさせない、だから、私は第二王子の配下に加わったんだ」
幸は妹を殺されたと思うゆえの、第一王子への怒りと恨みが朱女を突き動かしているのだと思う。
「幸母さん」
話を聞いていた三毛がぼろぼろと泣いていた。
幸とあかねはかなりの修羅場を渡っている、だから、こういうこともあるなと思うのだが、三毛には衝撃だったのだろう。
三毛がぎゅっと幸の服裾を掴む。ふと、男の泣き声が聞こえた。残っていた隊長が目を真っ赤にして泣いていた。幸は正直なところ面倒くさいことに関わってしまった、これなら玄関口で座っていた方が良かったかと思う。あかねがにっと笑う。良くも悪くもいまの自分の気分を理解するのはあかねだけかと思う。
幸は朱女の前に正座すると声を掛けた。
「朱女さんは鬼紙家の敵だ。で、あたしらは鬼紙家の側だ。いま、朱女さんの妹は幸せに暮らしている。それは安心すればいい。ただ、もしも朱女さんが妹に会いたいというなら、敵には教えられない、鬼紙家の側についてくれ、なら、便宜をはかってやる。つまり、第二王子を裏切れということだ」
朱女が両手の拳をぎゅっと強く握りしめた。
「裏切り者と呼ばれても、私は妹の姿を見たい」
呻くように朱女が言う。朱女が両手を畳につけた。
「よろしくお願いします」
「わかった。でも、朱女さん、あんたの左胸には宝具が心臓の代わりに入っている、裏切れないように第二王子に術を掛けられているんだろう」
「一目でも会えれば思い残すことはありません」
うおぉ、隊長が雄叫びを上げた。ばたばたと幸の前にやってくると、額を畳にすり付けた。
「頼む。先生を助けてやってくれ」
幸は振り返ると、あかねに視線を向けた。あかねが頷く。あかねは隊長の襟首を掴むと、薫のところまで引きずっていた。
「ま、第二王子とは面識がある。うまくやってやるよ」
幸は立ち上がるとふわりと浮き上がる。右手を伸ばす、右手が消えた。ぐいっと右手を引く。
第二王子が幸の右手に引っ張られ、どすんと畳に転げた。広間は特別に天井を高く作ってあるが、それでも、立てば天井に頭をぶつけるだろう。
「何だ。何があったんだ」
第二王子が呻きながら体を起こす。
幸が宙に浮いたままにかっと笑った。
「やぁ、久しぶりだ。元気そうでなによりだな」
第二王子が顔を上げた。
「あのときの」
「ぼこぼこに殴られて虫の息だったが、元気になったようでめでたい。早速だが、元気になったんだ、恩を返せ」
第二王子は怯えていた。自分の術を無効化するは、殴り飛ばされるはさんざんだった、今でも夢を見ては、汗ずくになって目を覚ます。
「あ、あの、恩というのは、と申しますと」
「瀕死のお前を助けてやったじゃないか、まさか、忘れたのか」
「覚えております」
悲鳴を上げるかのように答えた。
朱女は目の前で起こっていることが理解できずにいた、あの第二王子が怯えているなんて。
「あたしはお前の部下が気に入った。お前の後ろにいるだろう、彼女をあたしにくれ」
慌てて振り返る、朱女は背を伸ばすと、ぎゅっと第二王子を見返した。
「お前がいるということは、まさか、ここは鬼紙か」
ようやく、第二王子は回りを見回した。
「わかった、譲ります」
「ありがとう」
幸は第二王子の前に立つと右手を差し出した。
「彼女の心臓を出せ」
第二王子は袋を取り出すと、動いている心臓を一つ、つまみ出した。
「第二王子よ」
幸が優しく笑みを浮かべた。
「勘違いは一度までは許す」
にぃいと唇を歪めた。第二王子は顔を青くして、取り出した心臓をしまい込み、違う心臓を取り出す。幸はその心臓を受け取ると、朱女の左胸に入れる、戻す手で宝具を引っ張り出した。
「なかなか綺麗な扇だ。随分と役に立ちそうだ。餞別にこれを元部下にやるというのはどうだ」
第二王子は惜しいと思ったが、何よりも早くここから離れたかった。
「わかった。くれてやる、だから、俺を早く帰してくれ」
第二王子は帰りたい一心で懇願した。
幸が右手を振る、幸が両手を伸ばしたほどの白い紙が現れた。
「これはあたしが念写した写真だ。扇の代わりにやろう」
幸が投げるのを第二王子が受け取り、それを見る。
「ま、まさか、これは」
「失敗続きのお前だが、この写真、うまく使えば、鬼王になることができる、もっとも、使い方を間違えれば、お前の首が飛ぶ。どうするかはお前次第だ」
幸は用が済んだと、払うように手を振る。第二王子の姿が消えた。

て、どうするかなと幸が考える。なよがすっと受け入れるとは思えない。いや、どうだろう、案外、受け入れてくれるかも。つまりは反応を測りながら言葉を調整していくかと考える。
「幸母さん、ありがとう」
三毛が笑みを浮かべた。
「いや、まだなよ姉さんがいるからな。なよ姉さん、戻ってきた、いま、玄関口で喋っている」
三毛がぎゅっと拳を握りしめた。
「三毛がお願いします」
「しっかりしたなぁ」
幸は笑うと、朱女に声を掛けた。
「もうすぐ、朱女の妹を我が子として育てている人が来る。かなり頑固で怒りっぽい、すぐに手がでる。ただ、とても大事にしているのが朱女の妹、いまは小夜乃という名前だ。朱女。とにかく、怒るだろう、妹を捨てるとはなにごとと怒鳴るだろう。勢いに押されこまれないようしっかり踏ん張れよ」
朱女はどきどきしながらも、頷いた。声が緊張して出なかったのだ。
「来るぞ」
なよが広間に戻ってきた。
にかにかと笑顔なのは、散々、鬼紙私兵をどつき倒したからだろう。

三毛は駆け寄るとなよの前に立つ。
「おう。どうした、三毛」
「なよ姉様にお願いしたいことがあります」
「わしの気分は上々じゃ。ねだるなら今の内じゃぞ」
呵々となよが笑った。
三毛が大きく深呼吸をする。
「小夜乃の実のお姉さんを見つけました。会ってください」
「ほぉ。どいつじゃ」
なよが広間を見渡す。そして、朱女を見つめた。
「あれじゃな、よく似ておる」
朱女は失神寸前だった。かぐやのなよ竹の姫が母親だなんて。膝が震え立っていられない。なよはすたすたと朱女の元に来ると、右手をその頬に添えた。
「お前が姉か」
「はいっ」
「妹を捨てるとはなにごとじゃ。ま、ともあれ、お前が捨てたからこそ、小夜乃はわしの娘になった、そして、わしはなにものにも代えることのできない娘を得た。そう考えれば、礼をいうべきかもしれんな」
なよが朱女の頬をぎゅっとつねる。
「これくらいで、妹を捨てたこと、不問にしてやるわい」
幸が心底驚いたとなよに言った。
「びっくりした。なよ姉さんがこんなに物わかりがいいなんて」
なよは笑顔で幸に近寄ると右腕で幸の首をぎゅっと締める。
「なよ姉様、苦しいですよぉ」
ぱっとなよは腕を放すと幸を睨んだ。
「遠見で経緯をすべて見ておったわい。お前が策を弄すれば怒鳴ってやろうと思ったが、三毛が真っ直ぐ言いおるから仕方あるまい」
「一言もありません」
幸が降参した。すぱんと幸の頭を叩くと、朱女に向き直る。
「小夜乃はわしの娘。お前が小夜乃の姉と言うならば、朱女よ、お前もわしの娘じゃ。異存はないな」
「はいっ」
精一杯の声で朱女が答えた。

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遥の花 あさまだきの靄 二話

2018.07.20 更新
2018.06.30 更新
2018.05.26 更新

遥の花 あさまだきの靄 二話

るんるるん、にかにか、笑いがどうしてもこぼれてしまう。

食卓、亜矢は黒の隣の椅子に腰掛けた。お昼ご飯だ、自然に顔が笑いだし、両膝がリズムを刻む。
憧れの黒様の隣に座っているのだ。
長机を並べての昼ご飯。
「暢気な奴じゃのう、記憶が甦った途端、さばさばとしおって」
向かいに座るなよが亜矢の様子に呆れて言った。
「えへへっ、そんなことありませんです。母と戦うなんて、身を切られるように辛いです」
「それが、にかにかと笑って言う台詞か」
呆れたようになよが呟いた。
「それはしょうがありませんわ」
白が口を挟んだ。
「だって、亜矢は桜花淑女隊の一人ですから」
「なんじゃ、それは」
「黒姉を男から護り、同時に抜け駆けを許さない鉄の結束を持つ集団です」
「なんと、黒は宝塚のスターじゃのう」
黒が辛そうに答えた。
「あんまり、そういうの好きじゃないから」
喜々として、亜矢が言う。
「黒様に近づこうという輩は制裁あるのみですよ」
「なんじゃ、殴ったりするのか」
「いいえ、お嬢様学校ですよ。口の制裁です。何十人もで取り囲んで、悪口を言い続けます。どんな奴でも、一時間もすれば、しゃがみ込んで泣き出します」
呆れたようになよが大きく溜息をついた。
「幸も鬼をそれで引きこもりにし、まだ、そいつは外へは出てきておらん。陰湿じゃなぁ」
すっと、幸が亜矢の肩を後ろから抱き、頬を寄せて囁いた。
「亜矢。黒に様をつけて呼ぶのをやめてくれよ」
亜矢の背中がぞくっと震えた。ねっとりと纏つくような言葉が自分の首を絞めるように思えたのだ。
「あ、あの」
息切れしてうまく声が出せない。
「黒は普通の女の子だ。そうあたしが育てた。ちょっと、スポーツが得意で頭もいい、でもごく普通の女の子なんだよ。わかるか」
「は、はひっ」
歯が震えてうまく言えない。
「だからさ、様付けで呼ばれたりすると、本人は辛いわけだ。自分自身は普通の女の子なのに、様付けしようとする廻りとの評価の差に苦しむんだ。だからさ、亜矢、黒って呼んでやってくれよ」
だめだ、息ができない、過呼吸ってやつだ。
「だめだよ、母さん」
黒が亜矢の様子を見て、慌てて幸に言った。
ふっと、亜矢の体が軽くなった。気づけば、なよの隣に幸がにぃと笑って座っていた。
「ごめんね、母さん的には冗談の延長なんだけど」
「い、いいえ。大丈夫です。あの、えっと、く、黒、心配してくれてありがとう」
そっと、亜矢が幸の顔を上目遣いに見る。
「どういたしまして、亜矢」
ほっとしたように、黒が答えた。
え、これってどういうこと。亜矢って黒様が呼んでくれた。これって、黒様に名前を覚えていただいたってこと、様を付けないって、これって友達ってこと、え、あの、黒様と友達、えっ、親友ってことなの。
「やったぁ」
いきなり、亜矢が立ち上がり大声を上げた。
「にぎやかな奴じゃのう、改めて記憶を封印した方が良いかもしれんな。記憶が封印されて気弱な亜矢の方が扱いが楽そうじゃ」
「ごめんなさい」
慌てて、亜矢が椅子に座りなおした。
「考えてみれば、亜矢よ。お前、母親に高校を退学にされたのではなかったか。いや、残念なことじゃのう」
いたずらげになよが笑った。
亜矢が目を見開いた。
「うわあぁつ、そうだった。天国から地獄へ直下降だ。許すまじ、母さんめ。この恨み晴らさでか」
悲鳴のような大声を上げる。
「面白いのう、亜矢は。おもちゃのようじゃな。ま、復学はわしに任せておけ。黒と共に登校すればよいわ」
なよの言葉にぶわっと亜矢の頭の中で妄想が膨らむ。
黒と一緒に手を繋いで学校に行く、黒ってばもう、早く起きないからだよ、学校、遅れるよぉ
「うおぉぉっ。これは凄い」
思わず、亜矢の呻き声が漏れた。
慌てて、廻りを見回し俯く。
亜矢は興奮が醒めて、少し考える。
漣さんは多分、必要とあれば人を殺すことに戸惑いはないだろう、師匠という幸さんもそうだ。ここで、自分は共同生活をうまく送っていけるのか、へんなこと言ったら、すとんって首を落とされてしまうかも知れない、そう思うとさすがに亜矢も泣き出しそうになった。
後ろから誰かが肩を叩いた。
「どうしましたか」
振り返ると自分と同じくらいの背格好だろうか、エプロンをした女の子が優しく微笑んでいた。
「亜矢、初めまして。あかねといいます。なんだか、お悩みの様子ですけど、不安なことがあれば、遠慮なく言葉にする方がいいですよ、言葉にしなければ伝わりません」
「あ、あの」
亜矢が、怯えたように口を噤む。あかねは少しうつむき考える、そして顔を上げた。
「今までとは違う環境で亜矢は過ごすことになりますが」
あかねはなよと幸を指さし、亜矢に笑みを浮かべた。
「この二人以外は常識人ですし、この二人以外は人との距離感も理解していますから」
「なんじゃ、あかねよ。わしほどの常識人はおらんぞ」
「御自身で常識人などというのが、そうではない証拠ですよ」
あかねが嬉しそうに笑った。
なよの横で幸も笑う。
「なんじゃ、幸。お前も謗られておるのじゃぞ」
「日常生活に問題がなければ、常識はそれほどいらないかなぁと幸は思う」
「お前の言う常識とあかねの言う常識はちと違うわい」
なよは憮然としたが、落ち着いて亜矢に言った。
「お前はわしの弟子の孫でもある、ならば、ちょっとくらいは優しくしてやるわい。怯えるでないわ」
あかねが亜矢の両肩に手を載せる。
「なよ姉さんもこう言っているから大丈夫ですよ。それにほら」
あかねが顔を上げ、お味噌汁を味見している小夜乃に目をやった。
「亜矢」
「はい」
「お味噌汁の子がなよ姉さんの娘、小夜乃です。小夜乃と仲良くしていれば、なよ姉さん対策は万全です。幸姉さんについては黒と仲良くしていれば、幸姉さんや漣対策は問題ありません」
「あ、ありがとうございます」
感激して亜矢が礼を言う。
なよが割って入った。
「あかね対策はどうするぞ。なかなか、難しい奴じゃぞ」
「私ですか」
あかねが少し首を傾げた。
「私は武術とかよくわかりませんし、不器用ですから手品も出来ません」
そうきたかとなよは思ったが、亜矢のことを考えるといまはこのままでいいかと考え直した。ふっと、幸があかねに声をかけた。
「爺さんだ、こっちに向かっている。あと十分ってとこかな。あかね、何かあったの」
「もめ事には関わりたくはないのですけど」
思案げにあかねは少し俯いたが顔を上げると、にっと笑った。
「あかねは佳奈さんちに逃げます。お爺さまがいらっしゃいましたら、何処かに逃げたとお伝えください」
幸が頷く、あかねは台所に戻ると、いくつかおにぎり握り小皿に移した漬け物をお皿ごと、風呂敷に包みそそくさと出ていった。
幸が立ち上がる。
今週の食事当番は小夜乃とかぬかと男だ、男が味噌汁の大鍋の取っ手を持った瞬間、幸が飛ぶように男の元に寄ると、もう片方の取っ手を掴んだ。
「ありがとう、幸」
「どういたしまして」

食卓横のテーブルに味噌汁の大鍋を置く。男が向こう側一番端に座るのを見送り、幸が元の椅子に座った。
亜矢がおおっと息をのんで幸の振る舞いを見ていた。
まるっきり、純真無垢な、花畑で花冠を作っていそうな、そんな笑顔の素敵な美少女だった、先ほどのねとつくような脅しを仕掛けた相手とは思えない。
「凄いであろう、亜矢」
亜矢の思いを察してなよがにんまりと笑った。
「ま、とにかく、あかねと父さんは普通の人間じゃ。虐めるでないぞ」
亜矢は声を出せず、ただ、こくこくと頷いた。
小夜乃が長机の食卓に山盛りの漬け物の大皿を三枚並べる。かぬかが、器用に大きなおひつを二つ抱えテーブルにどんと置いた。
「お昼ご飯、出来たよ」
黒が立ち上がり、亜矢を促した。
「一緒にご飯、食べよ」
極上の黒の笑みに、亜矢は見とれたが、黒に遅れてはと急いで立ち上がった。

「亜矢は妙子から教わった呪術を覚えておるようじゃ。わしがそれに磨きをかけよう。幸は体術を教えてやれ」
「わかった」
なよの言葉に幸は頷くと、一口、味噌汁を啜った。しっかりと出汁が利いていて美味しい。
「なよ姉さん。小夜乃の味付け、随分、美味しくなった。これで、いつでも嫁に行けるな」
「どの時代のおっさんの台詞じゃ」
なよも小夜乃が誉められると嬉しいらしく、にかっと笑みを浮かべた。
「かぬかは炭水化物系が上達しているし、あさぎ姉さんの指導の賜かな」
あさぎが慌てて首を振った。
「かぬかが頑張っているからだよ」
あさぎがかぬかに笑いかけた。
「あ、ありがとう」
少し頬を赤く染めてかぬかが礼を言う。もしもできるならとかぬかは思う。
お店の隣で、定食屋ができればいいなと。術の修行もしなければならないけれど、やっぱり料理を作っている時が一番楽しい。

ふと、亜矢が気づいた。
「あの。幸乃さんが」
亜矢は幸乃の姿が見えないことに気がついた。
「なんじゃ。幸乃は父さんの、部屋におる」
なよは、父さんの中にと言いかけたが、部屋と言い換えた。
「一緒にご飯は」
「亜矢よ。お前、幸乃をどう見た」
「あの、えっと。とても綺麗な人で、透き通るような涼しげな感じで、優しくて、えっと、とても素敵な人でした」
なよがわざとらしく溜息をつき、亜矢を睨んだ。
「透き通るようなではなく、実際、透けて後ろの壁が見えておったであろうが」
そういえばと、亜矢がそのときの様子を思い出した。
「呪いをかけられたのじゃ」
なよが重々しく答えた。
「え、呪い」
なよは頷くと、じっと亜矢の目を見つめた。
「一人は半分透けて、もう一人はというと、子供に戻ってしもうた。幸乃と幸は一卵性の双子じゃ」
なよが真面目な顔をして適当なことを言う。
「ええっ」
亜矢が目を見開いて幸を見つめた。
「なよ姉さん、それはもう言わないで」
幸が調子を合わせて言った。
「いつか、きっと元に戻ることができる、そう信じているから」
心細げな幸の言葉になよは重く溜息をつくと、ゆっくりと頷いた。
「亜矢よ。この話は終わりじゃ、お前も忘れろ。それから、幸乃の前では、透明、幽霊、そういった言葉は禁句じゃ。幸乃を傷つけてしまうからな」
なよの悪ふざけだが、亜矢は感じいって、素直に口を噤んだ。
ひょっとして、私はこの呪いから幸乃さんを救い出すためにここにやってきたのではないだろうか、真の運命の扉を開けるために。
亜矢はこういう発想をする女の子だった。

「邪魔をするぞ」
店の方から鬼紙老の声が響いた。
「見てきます」
三毛が立ち上がった。

三毛が鬼紙老を連れてくる、幸は立ち上がり、にぃっと笑いかけた。
「爺さんはここに座れ。深刻な話はなよ姉さんが担当だ」
幸は台所でおにぎりを作り、お椀にお味噌汁を注ぐとお盆に載せた。
幸が店にでると、平次が入り口で直立不動の姿で立っている。
「こら、平次」
「師匠」
怯えを隠しきれず、平次の声が微かにうわずった
「可愛い女の子が健気に頑張っているアットホームが売りの店だぞ。むさいおっさんが表から見えるところに立つな」
幸は怒鳴ると、平次を手で招く。
「申し訳ありません」
平次は駆け寄るとカウンターに背を屈め座った。
平次は東京支社長とここで修行をした、そのせいで幸には到底かなわないことを理解していた。
「昼飯まだだろう。聞きたいこともある、遠慮せずに食え」
幸が平次の前におにぎりと味噌汁を差し出した。
「いえ、あ、あの」
「同じ言葉を繰り返させる気か」
幸が睨む、慌てて、平次がおにぎりを頬張った。
幸は平次の斜め前に座る。かなりの男嫌いである、息がかかるのもいやなわけだ。
「修行は続けているか」
慌てて、平次は食べかけていたおにぎりを飲み込んだ。

「続けさせていただいています」
修行時、散々、平次は幸に脅されていた。
「鬼紙老は何しに来た」
「そ。それは」
平次が言いよどんだ。
「なんだ。師匠に話せないのか」
「申し訳ありません。私は鬼紙です」
緊張し、目を瞑る。 幸がにぃいと笑った。
「まぁ、いいさ。なよ姉さんが鬼紙老から話を聴いている。あかねの母親が鬼紙家から逃げ出した。仕方ないさ、免疫がないからな」
驚いて平次が幸を見つめた。
「分かりやすい奴だな、お前は」
幸は笑うと、言葉を続けた。
「鬼紙家は男が跡を継ぐ決まりだ。だから、男の子には早い段階から家の暗部を教える、逆に女の子は他家に嫁ぎ鬼紙から離れるから、暗部を教えず蝶よ花よと育てる。鬼紙家次期当主に居座るにはかなりの覚悟が必要だが、ま、逃げ出すのも無理はない。いまは亭主も子供も捨て、マンション住まい、本人も二度と鬼紙家に戻るつもりはないだろう」
「しかし、それでは鬼紙家が途絶えてしまいます、あかね様ならば鬼紙家を継ぐ器量がございます」
ふっと、あかねが平次の後ろに立った。そして、嫌そうな表情を浮かべ、手を横に振る。
「あかねは私の可愛い妹だ、鬼紙家を継がせるわけにはいかないな」
平次の後ろであかねがうんうんと大きく頷いた。
「しかし、それでは鬼紙家が」
「鬼紙家は男が継ぐ。あかねの弟、長男がいたろう、そいつを跡取りになるようしっかり育てればいいだろう」
そうだそうだと口を動かし、あかねが頷く。
「確かにそれはそうなのですが」
「鬼紙老はあかねを溺愛しているからな。あかねは可愛いし、頭もよい、その上、人を引きつける魅力もある」
あかねが平次の後ろで頭を抱えた。
「話は付けたぞ」
いつの間にか、なよが平次の前に立っていた。
「鬼紙家は長男が継ぐ、ただし、長男はまだ小さな子供じゃ、数人の補佐を取り付ける、あかねは、必要とあらば、不定期に助言をすればよい。大筋はそんなところじゃ」
あかねが嫌そうな顔をし、ぱたぱたと手を横に振る。
「まぁ、大事なお爺様のためなら、あかねは喜んで尽力をつくすであろう」
にかにか、笑いながらなよが言う。あかねの動きが面白くて仕方がないのだ。
「数人の補佐ってどうするの」
幸が尋ねた。
「わしが鬼紙家に乗り込み、これはというのを選ぶ」
なよが自信満々に答えた。
「それじゃあ、その間、亜矢は」
「ふむ。連れていこうと思う。亜矢はもう家にはもどれんであろう、ならば、鬼紙にもいくらか知見を得ておくのもよいであろう」
「なよ姉さん。用心棒代わりに三毛を連れていってくれないかな」
「なんじゃ、幸も気になるのか」
「多分、三毛は人にもっと関わる方がいい こんなんでも母親ですから、人並みに我が子の心配くらいはしますわ」
茶化すように幸は答えたが、本心でもあった。
「わかった、そうしよう」
なよは頷くと、平次を見据えた。
「平次よ、わしと二人の会わせて三人。夕方には鬼紙家に行き、二、三日逗留する。旨い酒と肴を忘れるな」
「承知しました」
平次はなよが屋敷にやってくるという不安はあったが、それ以上になよの手腕を期待した。

「さて」
なよがにかっと笑った。
「あかねの珍妙な創作ダンスも楽しめた。部屋に戻り、旅の支度でもするかのう」
驚いて、平次が振り返る。店を飛び出すあかねの後ろ姿だけが見えた。


特急列車に乗り換える。 自由席、亜矢は走り込むと、座席を確保した、なよが窓側に座り、その向かいを三毛、その隣りに亜矢が座った。 にたにたとなよが笑う、片手には日本酒一升瓶をしっかり掴んでいた。
「列車の旅はよいのう」 
「なよ姉さん、気をつけないと」
三毛が心配そうに言った。

「街の結界から離れるとなよ姉さんを暗殺しようという輩が現れるかもしれません。鬼紙家の車だったら安全だったのですが」
なよが、三毛の言葉にふふんと笑う。
「三毛よ。鬼紙家という権威記号に惑わされるな」
すっと、なよが座席を横に移動する、座席の中からぶわっとナイフの先端が現れた。なよが驚くふうもなくナイフの先を摘んだ。三毛と亜矢が驚いて、後ろの席へ走る、三十代くらいの男が、ナイフの柄から手を離そうともがいていた、何故か手が離れないらしい
「三毛、亜矢、戻ってこい」
なよの言葉に二人は一瞬戸惑ったが、なよの言うとおりに席に戻った
「わしの指先をよく見ておけ」
ナイフの先を摘むなよの手が微妙に動く。
「力の方向、角度、うまくすれば、相手の手の筋肉をこれだけで操作することができる。背もたれの上から奴とわしの手の動きを見比べておけ。勉強じゃ」
なよがにかっと笑った。

なよは件の男を解放した後、窓辺に戻り、手酌で湯呑みに酒をつぐ。酒飲みの性である、水面が丸くなるほど酒をつぎ、口から迎えにいく。
「窓からの風景を眺め、命の水をいただく、幸せじゃのう。鬼紙の車がリムジンといえど、この解放感と心地の良い喧噪はあるまいて」
三毛は暢気すぎると言いたかったがそれを言うのをやめた。多分、なよ姉さんは充分にわかっている
亜矢はなよの姿に祖母を思いだしていた。修行は無茶すぎると度々思ったけれど、それ以外は笑顔の絶えない祖母だった よく似ている、祖母はなよに憧れていたのだろうなと強く思う。
「おばあちゃん」
ふと、亜矢から言葉が漏れた
「わしをおばあちゃんと呼ぶとは、なかなか豪気のある奴じゃ」
なよがいたずらが成功した子供のように笑った。
「も、申し訳ありません。あの、祖母のことを思い出して」
「よいわい、わかっておる。妙子も思ったことを、口に出してよいかどうか、考える前に言うてしまう奴じゃった。それでも、周りから好かれておったのは気持ちのよい奴じゃったからであろう」
なよが穏やかな表情で目を瞑る。
「わしの中では妙子は、亜矢、お前と同じ年頃じゃ。亜矢、お前にとっては、祖母であるのだろうがな。わしの国はその頃、鎖国をしていたから、妙子がどのようにして暮らしたのかは知らぬ。ただ、まっすぐに生きたことに違いはないようで、少しは安心した」
なよは目を開けると、嬉しそうに笑みを浮かべた。
「亜矢よ。祖母の道を辿るなら、その道をしっかり進め。そして、行くのなら、祖母の先を行け」
亜矢がこくこくと頷く、魔女のことはもうすっかり忘れていた
「そして、三毛よ お前には幸から言付かっておる」
「幸母さんが」
「三毛よ、この旅では亜矢とわしをお前が守る。そこまでは聴いておるな」
三毛がじっとなよを見つめ頷いた。
「殺すな。命を奪わずにわし等二人を守れ。それが幸がお前に与えた命題じゃ。しっかりとこなせよ」
「殺さずに」
「相手を止めるには、殺してしまえばたやすい。殺さずに止める方が難しい、より高みを目指せ」
なよがもっともらしく言う。実際は命を奪う業の深さを理解して欲しいというのが、幸の言葉だったが、いまの三毛にそのままを伝えるのは避けた方がよいと考えた。
三毛は唇を噛みしめ頷いた。
不意になよが顔を通路に向けた。一人の男が立ち止まり、会釈をし笑みを浮かべた。
「これは姫様、お久しぶりにございます」
「なんじゃ、神崎ではないか、ならば、か弱いわしを刺し殺そうとしたのはお前の手のものじゃな」
「いえいえ、あれは少しばかりの御挨拶でございます、先生の結界から離れ、前鬼、後鬼も従えていない。これは、てっきり賞金というボーナスをくださるものと思いまして、いやはや、勘違いをしてしまいまして申し訳ありません」
すっと、三毛の体の軸がほんの少し前進する。
「妹の娘がおる、前鬼後鬼よりも頼りになるぞ」
「妹とは」
ふっとなよは目を開き、そうかと呟いた。
「お前は知らないのだな、わしは単純に匿われていたのではない、わしは優しいお父様と可愛い妹、幸と暮らしておる。家族で楽しい日々を過ごしておるぞ」
にぃぃと唇を歪め、神崎に笑いかけた。
神崎の顔が赤くなり、見る間に青くなる。
「神崎よ。幸に殺されぬようにな、それとも二百年生きて、生き飽きたのならば、幸に胴を真二つに切ってもらえ。わしから伝えておくぞ」
「め、滅相もございません」
あまりに慌てたのか、表情を作る余裕もなく、口早に神崎が言った。
「私は姫様を尊敬しておりますゆえ。おおっ、私は先ほどの狼藉者を捕らえなければ。それでは、失礼おば」
慌てたように神崎が去る。
「なにが狼藉じゃ」
なよは呟くと湯呑みに残った酒を飲み干した。
「なよ姉さん」
三毛が言った。
「なんじゃ」
「神崎が二百年生きているって」
「あいつは江戸時代終わり頃のとある大名のなれの果てじゃ。えらく、鬼を憎んでおる、鬼が死に絶えるまで、あいつは生き続けるつもりかもしれんな。ま、そんなことより」
なよは少し視線を上にすると、亜矢の後ろ辺りに声をかけた。
「あかね、来い」
驚いて、亜矢が座席越しに振り返った。
あかねは立っていた乗客に会釈をし座席を譲ると、すとんとなよの隣りに座った。
「あかねさん、どうして」
亜矢が呟いた。
「旅のお供もいいかなぁと思いまして」
「何を言うておる、あれほど行くのを嫌がっておったくせに」
なよがあきれて言った。
「まぁ、そうなんですけど。お父様に脅されてしまいました」
「脅すとは」
「なよに任せておけば大丈夫だと思うけれど、逆にやりすぎて、違う、それも大きな問題が起きなければいいよね。お父様ったら笑顔でそんなことを仰いますから、微力ながら、ちょっと見張っておこうと」
「ほんに、父さんは狸のところがあるからのう」
なよは笑うと言葉を続けた
「ならば、期待通り、少し遊んでみるかの、面白そうじゃ」
「いいえ、必要なことだけをしてくださいませ、なよ姉様の手を煩わすのは心くるしゅうございます」
亜矢はなよとあかねのやりとりを見ていて思う。記憶が蘇るほどに、妙子の美化されたかぐやのなよ竹の姫への記憶が蘇る。美しくて凄い方だと熱を帯びた口調で言う祖母の姿を思い出す。
いま、自分は目の前でその凄い人を見ている、そして、先ほど優しく声を掛けてくれた、さほど、年も変わらない女の子、あかねが忌憚なく愉快に喋っている。なんだか、いいなぁと思う。
「いいなぁ」
ふっと、亜矢が呟いた。うっかり声に出てしまったのだ。
にっと、あかねが笑みを浮かべて亜矢に言った。
「亜矢は一週間、うちで修行するそうですけど、その後はどうするの」
このことについては三毛も気になっていたのか、亜矢に目をやった。
「ごめんなさい、わからないです」
「それじゃあ」
と、三毛が続けた。
「これから、どうしたいと思う」
亜矢は口を噤んでしまった。
母と妹は魔女だ。それも狂信的と言ってもいいかもしれない。自分は祖母の記憶を思い出したまま、家に帰ることはできるだろうか。そして、教わる術をはいどうぞと母さん達に渡せるだろうか、祖母がなんとしても守ろうとした術を。
一人暮らしになるのかな、生活していけるのだろうか。
すっと三毛は亜矢の手を握り言った。
「お姉ちゃんって、呼んでもいい」
上目遣いに見る三毛の瞳。学園の妹と称される黒様の妹、三毛さんがお姉ちゃん、お姉ちゃんって、ふぅっと亜矢が意識を失った。
何事かと慌てた三毛になよが笑いかけた。
「まさか、三毛がのう。案外、三毛と亜矢は気が合うかもしれんな」
「あ、あの、これって」
「記憶が蘇って脳に負荷がかかっているところへ、嬉しすぎて気を失ったんですよ」
おかしくてたまらないと、あかねが言った。
「三毛は頑ななところが多いです。案外、亜矢がそういうところ、解してくれるかもですね」

亜矢を少し斜め、三毛の膝に頭を置き、眠らせる。要領よく、あかねは済ませると座席に座りなおした。
「亜矢って、面白い人ですね」
あかねが感心したように言った。

「そうじゃな、産まれてすぐに病院から祖母妙子に誘拐され、六歳、小学生になる歳まで育てられた もちろん、英才教育を受けるためじゃ、あやつもむちゃをしよったものじゃて」
三毛は思う、他人の心の中を平気で読む二人の会話だ。でも、三毛も亜矢のことはなんだか気になる、黙って聴いていようと思う。
「ま、息子が魔女と結婚したということが、そもそもゆるせんかったのじゃろう」
「つまりは、嫁姑戦争でもあるわけですね」
「そちらの割合の方が大きいかもしれんて」
なよは妙子の性格を思い出したのか、にやりと笑った。
「ただ、なよ姉さん。多分、亜矢さんは教わったもの、思い出したものを魔女に伝えることをしないと思います」
「家の中では随分と冷たくあしらわれておったようじゃ。その上、祖母の思いを思い出してしまっては、はい、どうぞと差し出すことはできんじゃろう。さてなぁ」
「でも、伝えなかったら、それはそれでいいんじゃないですか、しょうがないなぁ、期待したのにって愚痴を聞かされるだけで、親子なんだから」
「教えない場合は薬を使う、脳を潰して取り出すわけじゃな」
ふっとなよが俯く。
「あ、あのね。うちで暮らすのが一番だよ、絶対」
慌てて、三毛が言った。
「しかし、魔女からこやつを預かると約束した期間は一週間、それを過ぎれば約束じゃからな、不安は大いにあるが返さねばならん」
「なら、三毛が言うよ。亜矢に帰っちゃだめ、ここでみんなと暮らそうって言う、つれてきた魔女のおばさんにも亜矢が残りたいって自分の口で言ってくれるようにお願いする、そしたら、三毛はなにがあっても亜矢を守るよ」
「なよ姉さんはひどいなぁ」
あかねが呟いた。
「なにがひどいものか。少し背中を押しただけじゃ」
なよは平気なふうに返事をすると、三毛をぎゅっと睨んだ。
「亜矢が自分の口で残りたいと言えば何の問題もない。だが、できるのか」
「できる、できます」
三毛がまっすぐに答えた。
なよは笑うと言った。
「ならば、がんばれ」

アナウンスだ、次の駅にもうすぐ到着する。ふと、なよは視線を先に送り笑った。
「神崎め、わしがこの列車に乗っているのを随分と吹聴したらしい。駅のホームが賞金稼ぎや人でないものでいっぱいじゃ。なにやら、楽しいのう」
三毛が慌てて言った。
「亜矢を起こせばあかねと三人、花魁道中の儀で一気に鬼紙家へ移動できるよ」
「ほんに三毛はまじめじゃのう、そういう人生はつまらんぞ。人生、山あり谷あり、暗殺者ありじゃ」
楽しそうになよが笑った。


何がどうしたっていうんだ、お袋の目、完全にイってる、幸輔は母親と高級車の後部座席、黒壇の木刀を抱えて、天井を見上げていた。
中学三年、授業中にいきなりお袋が教室に乱入して拉致された。
お母様、どうされたんですかと叫ぶ担任の声も聞こえていないようだった。
親子じゃなきゃ犯罪だ、いや、親子でも犯罪だよ。
「谷崎、もっとスピードを出しなさい。信号など守らなくともよろしい」
お袋が叫ぶ、確か先月どこかの警察で一日署長をやってたよな、おふくろ。
代々名門の政治家一族、俺、いま、急カーブで違う未来へ向かっているんじゃないか、参ったなぁ。
「幸輔。姫様の危機です。駅に到着したらホームへ走りなさい。なんとしても、姫様をお守りするのですよ」
完全にイった目で、お袋が叫んだ。
「あ、あの、姫様って、お袋の妄想の」
「妄想ではないと何度言えばわかるのです。千年以上の年月を生き続ける絶世の美女、姫様の存在を疑うとは、我が息子ながら情けない」
急ブレーキのけたたましい音と共に車が停止した。
「奥様、改札の手前です」
広い改札口に頭を突っ込むように車が止まっていた。
「無茶だよ、お袋」
二人は車から飛び出すと改札機の上を走りホームへの階段を駆け上った。後ろから駅員の怒号か聞こえる。

ありかよ、これって。
幸輔が呟いた。
多分、電車に乗り込むつもりだった本来の乗客たちだろう、駅のベンチの下に頭から潜り込んで震えている、思い切った乗客は線路を走って逃げている。
何から逃げている。
人じゃないもの達から。
三メートルを越える狼の顔をした二足歩行の奴ら。軍服を纏った鬼達、ホームがいっぱいだ。それから、あれは、なんて言えばいいんだ。

「な、なんですか。これは」
遅れてやってきた駅員が呆然と呟いた。
列車がやってきた。お袋、器用に駅員の両肩に飛び乗って、列車を睨む。
「幸輔。先頭から三番目の車両です。狼男の首、へし折ってやりなさい」
言うよりも早くお袋、駅員から飛び降りて、奴らに飛び込んでいった。
「逃げた方がいいよ、あいつら、本物だから」
お袋の後を走る。ほぼ、産まれると同時に修行させられたと言ってもいい、天城流剣術高儀派、木刀を背に垂直な崖を駆け上る修行があった、人を相手にする剣術じゃないってことだ。
駆け上り斬る、三メートルを超える狼男の首を袈裟掛けに斬る、確かに手応えがある、なのに狼男の目が笑った。
「子供の遊び場じゃねえぞ」
声帯が人と違うのだろう、くぐもった声で言う。ふわりと女の子が目の前に浮かんだ、そして、木刀の先を無造作に押し下げる。
鎖骨が折れ、狼男の首が傾いた。
「手伝ってくれてありがと」
女の子が笑みを浮かべ着地する、同時に反転して狼男の膝を蹴り潰す。

可愛い、見とれてしまう、幸輔は我を忘れ、あかねの姿に見とれていた。
同学年、それとも、いっこくらい上かも。
わっぱ、色気付く暇はないぞ
幸輔の頭の中に女の声が響いた。
立っている奴らが減り、向こうが見渡せる。
列車の前にすっくと立ったなよが愉快に笑っていた。お袋の言っていた姫様、凄い美人だ。
「あかね、戻ってこい」
なよの言葉にあかねは頷くと、あかねは幸輔の手を取り言った。
「さあ、おいで」
「あ、あの。ボク、いや、あの、俺は」
幸輔が顔を真っ赤にし何か言おうとしたが、照れて何も言えないでいる。
「ん、私に惚れたの、参ったなぁ。私、年下は対象外なんだ」
にっとあかねが笑った。
「えっと、あの」
あかねの笑顔に幸輔が余計に緊張する。ふぃっと、あかねは幸輔の前に立つと、ふわりと少し浮き上がる。
「ごめんね」
あかねが幸輔に口づけをした。
あかねがちょっと舌を入れる。
「あわわっ」
幸輔の力が抜けて、後ろに尻餅をついてしまった。
「君のファーストキス、もーらい」
あかねは笑うと、幸輔を片手に抱え、投げ飛ばした。
飛んできた幸輔を三毛が受け止めた。
三毛は溜息をつくと幸輔をホームに降ろす。
こういうのがトラウマになるのかなぁ、三毛が呟いた。

「姫様の御存命、これほどかすりは嬉しいことはございません。」
幸輔の母、かすりはなよの足下に額をすり付けるように土下座する。

なよは背負っていた亜矢を降ろすと、困ったように頭をかいた。
かすりが土下座するその前に、なよは膝をつき、正座した。
「かすりよ、久しいな。顔を上げよ」
おそるおそると女、かすりが顔を上げた。
「元気そうでなによりじゃ。しかし、お前はどしてわしを憎まんのじゃ」
「姫様を憎むなど考えたこともございません」
「わしは無能であった、民を角のある鬼どもにむざむざ殺されてしもうた。中にはかすりの係累もおったであろうに、申し訳なく思う」
「我ら草は誰一人として姫様に恨みを持つものなどおりませぬ」
なよは両手を差し出すと、かすりをぎゅっと抱きしめた。
「姫様だめです」
かすりが喘いだ。
「私のようなものに触れては姫様がケガレます」
「かすりが小さな子供の頃、わしの膝に乗り遊んだものじゃ、あの頃とお前は何もかわらん」
かすりはもう息も絶え絶えだ。
なよが顔を上げた。
「花魁道中の儀」
なよの言葉に三毛がまず反応した。
「しゃん」
大きく、三毛が叫ぶ。
あかねもしゃんと叫ぶ。
「頼むぞ、かすり」
かすりはぎゅっと両手を握りしめると叫んだ。
「しゃん」

駅員は女たちの周りに白い靄がたちこめ、靄が消えたときには女たちが消えてしまったのを見る、なにかが終わったと駅員は気づいた。反転し、階段を駆け下りる。いつまでもここにいたらどんな目に合うかしれない。
早く逃げなければ。

なんて言うか、とにかく、いろいろ、きつい、幸輔は俯き溜息をついた。
鬼紙家専用無人駅のプラットホームだ。かすりは気を失い寝かされていた。
「神崎め、今度、会うたら、首を引きちぎってやるわ」
なよが憎たらしそうに言った。
「姫様、そのような乱暴なお言葉、いけませんわ」
あかねが気楽そうに笑った。
「わしを姫様と呼ぶでないわ。しもたのう、草にわしが生きていることを知られてしもうたわい」
三毛が尋ねた。
「草ってなんなの」
「忍者、わしの密偵みたいなものじゃ。諜報活動を行う。この国の要所要所に置き、情報収集をさせておった。わしは死んだということにしておったのじゃが、生きているのを知られてしもうたわけじゃ」
「なよ姉さん、お姫様に戻るの」
「わしは、なよ。お前の酒飲みの姉じゃ」
三毛がほっとしたように笑みを浮かべた。

「なよ姉さんは怖いけど、とっても、優しいから」
「わしは優しくなどないわい、怖い怖いお姉さんじゃ」
なよが気恥ずかしそうに笑った。
三毛にはなよの膝で意識を失ったままの女性がまるで安心しきった子供のように思えた。
「そうじゃ、わっぱ」
なよが少年に声をかけた。この状況である、幸輔は飛び上がってなよのもとへ走ってきた。
「名前はなんという」
「幸輔です。あの」
「どうした」
「いったい、何がどうしたのか。現実なのか夢なのか」
なよは深く息を漏らすと、一度俯き、見上げた。
「とにかく、幸輔。座れ、わしは見上げて喋るのは嫌いじゃ」
なよが軽く睨むと、幸輔は慌てて、地面に座り込んだ。
「まず、幸輔よ。お前に兄弟はいるのか」
「弟と妹がいます」
「なるほど。それでその二人もかすりに剣術を教わっているのか」
「いえ。俺だけです。あの、それって」
なよは微かに吐息を漏らした。
「どうやら、かすりはお前を自分の跡取りにするつもりのようじゃな」
「あの、母さんはいったい。俺は、なにがなんだか、今の状況がわかりません。さっきの狼男だって」
「説明くらいはいくらでもしてやるが、聞けば後戻りはできんぞ。今までの生活を続けたいのであれば知らぬほうがよい。かすりにはわしから注意しておいてやろう」
「今までの」
幸輔がなよの言葉を繰り返した。
多分、そうだろう。深入りすれば、このわけのわからない世界から抜け出すことは出来なくなると思う、後悔するだろう、今のまま行けば、親父と同じ与党政治家としての安定した生活が待っている、総理大臣は無理でも、大臣職には就くことが出来るんじゃないか。
幸輔が戸惑いながら答えた。
「ごめんなさい」
幸輔の返事になよは笑顔を浮かべた。
「謝ることなどない。それでいい」
「いま、お前のところの運転手が車をとばしてこちらに向かっておる。なるほど、あやつも元はこちら側か」
なよは幸輔に向き直り言った。
「かすりと話をしよう。幸輔、お前はホームの向こう、声の聞こえぬところまで行け」
慌てて幸輔がホームの先へと走った。
「やぁ、本当に逃げましたね」
特に感慨深く思うこともなく、あかねが言った。
「意志のない奴はそれでいいと思う」
三毛が呟いた。あかねがにっと笑った。
「おや、三毛、怒っている」
「怒ってない、ううん、この気分、怒っているのかなぁ」
三毛がかすりを見て呟いた。
「多分、ちょっとだけ怒ってる」
ふふんとなよは三毛の顔を見て笑う。しかし、すぐにかすりの顔を見下ろすと、軽く額を叩いた。
「かすり。起きろ」
かすりがゆっくりと目を開ける。にかっと笑ったなよの顔を見上げて、慌てて起きあがると、なよに正座し頭を下げた。
「姫様、お久しぶりでございます」
「顔を上げよ。お前の顔を見たい」
なよの声にかすりがおどおどと顔を上げた。
「なるほど、きかんぼうだった頃の面影があるわい」
なよはかすりの正面に正座し直すと、かすりに深く頭を下げた。
「姫様、何を」
「わしは国の主じゃった。鬼どもに国を滅ぼされほとんどの者を殺されてしもうた。いわば、難破した船の船長だけが生き残ったようなものじゃ。かすりはわしの生き残った国の民、わしの娘じゃ。日頃、為政者として好きなことを言っていたくせに、民を守ることが出来なんだ。頭を下げるだけではたりんであろうが」
「もったいのうございます、姫様、どうぞ、顔を御上げくださいませ」
かすりは感極まりながら、なよに何度も頭を下げる。なよは顔を上げると、改めて言う。
「わしは国を再興するつもりはない、わしの仕事は国民を弔うことじゃ。わしは一人でも多くの御霊に安らいでくれと祈りたい」
なよはかすりの手を両手でぎゅっと握りしめた。
「わかってくれるな、娘よ」
「はい。姫様のお気持ち、わかります」
「わしは娘たちにも密偵をさせた、非道い母親じゃ。すまなんだのう」
「姫様のお役に立てるのなら本望にございます」
「ありがたい。しかし、国を再興する意志がわしに無い以上、密偵の職を解く。お前はわしの可愛い娘じゃ」
なよがかすりをぎゅっと抱きしめる。かすりがそのまま気を失う。なよは体を離すと、かすりを横に寝かせた。そして、幸輔を手招いた。
幸輔が息せききって走ってきた。
「幸輔よ、話は終わった。もうすぐ、車が来る。今日のことは忘れて、勉学に励めよ」
なよがそっと微笑んだ。
車の音だ。凄い速度でやってくる。無人駅のホーム、急ブレーキ、軋む音がやんだ瞬間、なよの上を両手、ナイフ構える運転手が浮かんだ。突き出すナイフ、その運転手の手首に三毛の左手が触れた瞬間、運転手の体が背中からホームに叩きつけられる、刹那、運転手は体勢を入れ替え俯せに着地した。掛けだそうとした瞬間、あかねが言った。
「おやめなさい」
りんとした声に運転手と三毛の動きが止まった。
「ここは鬼紙家の領地。許可を得ない争いは許しません」
幸輔が運転手に言った。
「佐藤。母さんも大丈夫だ、気を失っているだけだから」
運転手は構えを解くと、かすりの前で跪き、かすりを抱きかかえた。何事もなかったように車に戻る。幸輔も後を追い乗り込んだ。車はそのまま、街へと戻っていった。
三毛が大きく息を吐いた。
「緊張した。止めてくれてありがとう、あかね」
三毛が呟く。
「どういたしまして。あと、印籠があれば面白かったのですけど」
あかねは気楽に笑うと、なよに声を掛けた。
「そろそろ兵次を呼びましょうか。館まで送ってもらいましょう」
「あの運転手。兵次では勝てんな」
興味深そうになよが言った。
「三毛も自信ありません」
「三毛は技量はあるが、勝つことへの執着が薄いからのう」
「私なら勝ちますけどね」
「あかねは悪人じゃからな」
なよは笑うと、思い出したと振り返り、亜矢を見つめた。
「いびきをかいて寝ておるわい」
なよは立ち上がると、亜矢に声を掛けた。
「起きろ。置いていくぞ」

 

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遥の花 あさまだきの靄 小夜乃、説教する

「田、中」
小夜乃は表札を人差し指で撫ぞりながら、小く呟いた。そして、にっと笑みを浮べると、よしと呟く。幸に書いてもらった地図のノートをしっかりと抱きしめた。
小夜乃は門柱を背に辺りを見回す。幸の姿は見えない、もちろん、幸は壁の、小夜乃から少し離れたところで、背をもたせかけているのだが、小夜乃は気づかない、幸の隠形は目の前にしても、気づかないだろう。
ふと、小夜乃は道を何度も行き来する女の子を見つけた。
深刻な顔をしている。
そして、小夜乃の隣り、塀に背を預けた、溜息をつく。小夜乃は驚いて女の子を見上げたが、思いきって、声をかけてみることにした。
「あの、お姉さん、どうされましたか」
響子は全く小夜乃に気づいていなかった。驚いて小夜乃を見る。
「え、あ、あの。いや、なんでもない」
目をおよがせながら、響子が答えた。人がいることに全く気づかなかったなんてと響子は自分自身が冷静でないことを思い知らされた。こんなことではいけない。
「君もこの家に用事があるの」
「いいえ。でも、母様とここで待ちあわせの約束なんです」
可愛い、素直に笑顔を向ける小夜乃に響子の胸が高なった。そんな趣味はないからと慌てて気持ちを落ちつかせる。
「お姉様は何かお悩みの様子ですけど、こちらのお家と何かあるのですか」
真っ直ぐに自分を見る小夜乃にどぎまぎして息を飲む。
私に向って、この子、お姉様と言った。お姉様って、うわぁ、響子は体が浮いてしまいそうになったが、気持ちを落ちつかせて答た。
「用事は確かにある」
小夜乃はその言葉になにか深刻に思いつめたものを感じた。
「母様がこちらに用があるらしく、でも、まだ、母様は来ておりません。よろしければ、お先にどうぞ」
「いや、私は後でいい。そうでないと、君の母様は、その用とやらを済ますことができなくなるだろう」
小夜乃はノートを足元に立てかけ、すいっと、両手で響子の右手を握った。そして、しっかりと響子を見据えた。
「それはどういう意味でしょうか。お姉様のお言葉、物腰、尋常ではありません」
響子は息を飲んだ。鉢巻姿の可愛い女の子、真っ直ぐに自分を見つめている。手が暖かくて柔らかい。
「おおぉい」
幸が今やってきたとでもいうように、道の向うから歩いてきた。
はっと小夜乃が振りかえる、幸はにっと笑うと唇に人差し指を当て、そして、上を指差した。その方向には、電信柱に烏、すっと烏の姿が消える、幸が烏の首の辺りを片手で掴んでいた。もう片方の手を烏の顔に寄せ、その頬を中指で弾く。そして、烏を放り投げた。空中で烏は意識を取り戻し、飛んでいった。
「小夜乃。待たせたかな」
「小夜乃もつい先程来たばかりです」
なんて綺麗な女の子だ、響子は思わず息を飲んだ。欠点というものがまるでない。同い年か、一つ下かもしれない、なんて、綺麗なんだ。
「幸母様、お話をお聴きください」
小夜乃は響子の手を両手をしっかりと握ったまま言った。
「なんだ、小夜乃。必死だな」
幸は気楽に笑みを浮べる。
「初めまして。この子の母で幸といいます。本当は姉の娘なのですが、私のことも母と呼んでくれています」
「初めまして。響子、橘響子といいます」
響子は緊張した面持ちで答えた。同学年、ひょっとしたら、一つ下かもしれない女の子に緊張したのだ。その上、初めて会う得体の知れない人間に本名を名乗るなんて。
「響子さん、顔に悲壮感が出てるよ。可愛い顔が台無しだ」
幸は気楽に言うと、響子の全身を俯瞰する。
「小夜乃。響子さんの左手、学生鞄を預からせてもらいなさい」
響子は、その言葉、口調に理解した、とても、逆らえない。いや、そうじゃない。気づいた、この窮状から抜けだすには、この人、幸という人に話を聞いてもらえれば。
小夜乃が手を差しだすと、響子は一度鞄を下し
取っ手を小夜乃に向けた。小夜乃は両手で鞄の取っ手を掴み引きあげる、少し小首を傾げた。
簡単に引きあげた小夜乃に響子は驚いた。鞄大の幅一センチの鉄板が二枚入っている。幸は鞄から手前の一枚を抜きだした。まるで軽いダンボール紙を摘みだすように。
「呪文が違うな、抜けている」
鉄板には細かに漢文が掘りこまれている。幸が鉄板に指を走らせる。響子が驚いた、すらすらと人差し指で鉄板を削っている。こんなもんだと幸は呟くと、鉄板を鞄に戻した。
「響子さん。鞄をもってみなさい」
驚きを隠せないまま、鞄を持ちあげる。なんだこれは、軽い、鞄に何も入っていないみたいだ。
「術をただそのまま受け継いだやつと、術の理を理解しているやつの違いだ。さて、太股や脇腹の棒手裏剣からするに、忍術系のようだね。魔女と戦う気なのか」
響子はぎゅっと唇を噛みしめた、そして呻くように呟いた。
「仇討ちです、亜矢は私の一番の友人でした」
「亜矢というのは」
そしらぬ顔で幸が尋ねた。
「この家の長女で、私の一番の親友です」
「仇討ちって、殺されたのか」
「わかりません、でも」
「詳しく話してみてくれ」
幸がかすかに口角をあげ、笑みを浮べる。それだけで、響子はこの人なら信頼できると信じることができた、小夜乃は思う、あとで、幸母さん、美人は得だろうって笑うんだろうなと。
「亜矢のお母さんが、窓から、3階の教室の窓から箒に乗って入ってきました。そして、亜矢を連れ去ったんです」
響子の眼から、ぼろぼろと涙が溢れた。
響子は溢れだすように、亜矢が魔女の母親を恐れていたこと、いつかは殺されるかもしれないと語っていたこと、幸に話す、そして、何度も、家の前に来ながら、怖くて帰ってしまった自分自身を責めた。
そっと、幸は響子を抱きしめると、耳元で囁いた。
「もう、苦しまなくていいよ」
幸のその一言に、響子は背中に背負っていた重荷がすっと消えていくのを感じた。

「呼びリンを鳴らしますか」
小夜乃がスイッチに手をかけた。
「もう少し待ってからにしよう。大きなの召喚するために頑張ってさ、ドアの向うで呪文を唱えている」
幸は言うと、門扉の手前に真っ直ぐ立つ。腕を組み、にぃぃと嗤う。
「来るぞ」
呟いた瞬間、いっぱいに開いた竜の顎が、幸の目の前に現出した。竜が口を閉せば幸を丸ごと飮み込むだろう。
「よう、黒龍よ。びびったか、口が固まっているぞ」
すたすたと、幸は黒龍の横に回り込んだ。
竜の首だけだ、首から後ろがない。幸は黒龍の首の後ろに手を添えると、すっと横へ動かす。黒龍の全体が現われた、後尾は屋根の向う、遙かにある。
「術者に呼びだされたは仕方がないが、半端すぎて、首までしか呼んでもらえなかったか、お疲れさんだな」
響子は小夜乃の隣りで足がすくんでいた。
百メートル、いや、もっとだ。あんな大きな竜を手で引っ張りだした。その竜が幸さんを恐れている。恐れて動けずにいる。
幸は黒龍の前に立つと、やわらかな笑みを浮べ、両手を差しだした。両手の間の空気か震え、それが低い音となる。低音が物語りを語るように揺れる。黒龍が両目を閉ざし、納得したとでもいうように、微かに頭
を上下させ、色水を薄めるめるようにして消えた。
「幸母様、あの音は」
「竜の言葉だ。直接、竜の言葉で、帰ってもいいと伝えただけだよ。そのものの言葉を語ることができれば、効率の悪い呪文の詠唱など必要はないってことだ」
小夜乃は改めて、幸を自分の理解の範疇外の人だと思う。隠れて、こそこそと戸棚からお煎餅を取り出してにやけている幸を思いだす、いま、目の前にいる人と同じ人なんだと考える、単純に面白いなぁと思う。
「さて。お待ちかねだ。小夜乃、響子さん、ついておいで」
門扉を開け、すっと敷地内に入る。数メートル先に大きな玄関のある、ちょっとしたお屋敷だ。
「魔女の庭ってやつだな」
「それは」
小夜乃が尋ねた。
「見慣れない花や草が生えている、魔女の魔法は呪文だけじゃない、薬を使う。その原料だ。屋敷も一階から上は普通の生活だけれど、地下一階と地下二階は魔法の研究室と倉庫だ。妹は地下一階だな」
幸は玄関を軽く叩くと、にぃぃと笑った。
いきなりドアが開けはなたれた。女が大きな斧を幸の頭に振り下した。寸前、斧が幸の頭の上で止る。幸が右の親指と人差し指で刃を摘んでいた。
「お出迎えありがとうございます。こういう趣向大好きですよ」
「何者だ」
幸が嬉しそうに微笑んだ。
「そうですよね。折角、電信柱の上から、見張っていたのに、首掴まれて、元の肉体にまで、弾きとばされて、大笑いですよね。亜紀さんのお母様」
幸が摘んだ斧の先を下へ投げ落す。斧の柄が女の手から離れ、地面にめり込んだ。
うひゃ、やる気全開だ、後ろで響子が幸の振舞を見ていて、息を飮む。
「御不信のことと思いますが、こちらに伺ったのは簡単なこと。えっと、何処へやったかな」
幸が右手をゆらゆらと動かす、ふわりと猫のマリオネットが現われた。
「これ、お母様にお返しします、亜紀さんです」
ぽんと母親の手に置いた。そして、すっと玄関口を見渡し、とんと爪先で地面を蹴る。玄関の叩きが電動で後方に下がり、地下への階段が現われた。
「亜紀さんの肉体はこちらですね。お邪魔します」
「待って、亜紀の、亜紀の魂は」
幸が不思議そうに母親を見つめた。
「なんだか、お嬢さんのこと心配されているようですけれど」
「亜紀は私の大切な娘です」
母親は幸を恐れてか、言葉が変わる。
「マリオネットに憑依させるということは、五感が著しく低下しますよね。そんな状態で外に出せば、どんな災厄に襲われるかしれない、それを考えるなら、亜紀さんが大事じゃないのかなぁって思ったんですけど」
「そうじゃなくて、これは魔女としての重要な儀式で」
幸はわざとらしいくらいにっこりと笑った。
「お母様のしていることは、子供を嫌う親がしていることと同じですよ。ま、でも、ご心配になる必要はございません。実は亜紀さんの魂は私のポケットの中です」
一瞬、小夜乃が母親をじっと見据えた。
幸は小夜乃と響子についてくるよう目配せをすると、階段を降りた。下は小さなホールくらいはある。片面は魔導書だろう、一面の本棚に本がぎっしり並べられている。その本棚の手前にベッドがあり、薄暗い灯りが仰向けに寝る亜紀の顔をうつしていた。
幸が亜紀の魂の入ったガラス球を小夜乃に手渡した。小夜乃は頷くとガラ球を手に亜紀の横に立つ。そっと、上着をたくしあげ、お臍にガラス球を載せる、球の中の白い靄がすっと亜紀の中に入っていった。
ほっと小夜乃が息を吐く。
幸は亜紀に顔を寄せると、声をかけた。
「おおい。亜紀さん、おはよう」
亜紀が目を開く。幸の顔を見た瞬間、ベッドから跳びおりて、蹲まってしまった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
亜紀が幸を怯え、呻くように謝りつづける。
小夜乃が呟いた。
「母様のポケットの中で何があったのでしょう」
「うーん。どうしてだろうね」
にぃぃと幸が唇を歪めて笑った。
響子は二人の後ろでことの顛末を、混乱しながらも理解しようとしていた。
幸さんはさっきの電信柱の烏を手を伸ばしただけで掴んだ。これは物品寄せだ。そして、烏に憑依していた魔女の魂を呪文も唱えずに弾きとばした。そもそも、竜の言葉であの竜を追いかえしてしまった。なにもかもが規格外だ。橘は忍術が主で呪術は補助でしかないから、詳しくはしらない、でもそうだ、代々伝わる魔除けの呪文を書きなおして、それも指先で鋼鉄の板をえぐって。
呪文は大きな力と繋るためのもの、その呪文を唱えないということは、自らが既に大きな力を持っているということだ、そんな人間がいるのか。そうだ、今は悩んでいる場合じゃない、今のうちに亜矢を救いださなきゃ。
「用事も済んだし帰ろうか」
幸が小夜乃に話しかけた。
「母様、少しお時間をください」
小夜乃は言うと、亜矢の母親の前に正座した。
そして、語りかける。
「親子とは一体、何なんでしょう」
思いがけない、小夜乃の言葉に魔女の母親は、答えを準備できずにいた。
「子供は親の一部でしょうか、それとも、独立した存在でしょうか」
いきなりの小夜乃の言葉に、何を言えばいいのか、見つけられずにいる。響子はとにかくと幸に囁いた。
「一体、何が」
「問答による説教。正義感が強すぎてね、ちょっと困っている」
幸が苦笑する。
「追いつめてすぎて、相手が泣きだしてしまう。適当なところで抱えて帰るつもり」
「あの、私は亜矢を探してきます」
「先に言えばよかったかな、亜矢はここにいないよ」
あっさりと響子に答えた。
「おっと、亜矢の母親の顔色が変ってきた。響子さん、ついてきなさい」
すっと後ろから小夜乃を抱え、階段を上り、庭を通りすぎ、門扉を開けて外に出る、あまりにもの滑らかさに、響子は焦りながら幸の後を追いかけ外に出た。
「幸母さま、まだ、半分も話していません」
小夜乃の抗議に幸が楽しそうに笑った。
「ごめん、ごめん。でも、これ以上追いつめたら、あの母親、自殺してしまうかもしれないぞ、さすがに亜矢に恨まれる」
「それは」
小夜乃が力を抜く、幸がそれを感じて、地面に下した。
「小夜乃はまだまだです」
「世の中にはいろんな奴がいる、時間をかけて学んでいけばいいさ、方向はだいたい合ってんだから」
幸があっさり答える、そして、響子に声をかけた。
「あたしの姉さんが二、三日の旅に出た、亜矢は鞄持ちでついていたんだ」
「それは」
「歩きながら喋ろう」
幸は小夜乃と手を繋ぐと駅に向って歩きはじめた。
「あの。幸さんはなぜ亜矢を」
「今朝、うちに魔女が亜矢を連れてきたんだ。修行をつけてくれってね。うちは別にそういうことしてないからって断わったんだけれど、亜矢の様子を見て一週間預ることにしたんだ」
「様子ですか」
心配げに、響子が呟いた。
「心配する必要は何もないよ」
にかにかと笑いながら昼御飯を食べていた亜矢の様子を思いだす。
「ただ、これだけは言っておく」
響子が不安に目を見開いた。
「響子の知っている亜矢はもういない。亜矢は変わってしまった」

微かに唇を噛む。
「まさか、あんな」
「幸さん、それは」
「響子、三日後にうちに来なさい、自分の目で確かめるのがいいだろう」
幸は響子の目をじっと見つめ呟いた。
駅前にやって来た。
「響子さんは電車か」
気楽に幸が尋ねる、さきほどまでの深刻さのかけらもなく尋ねる幸に混乱しながらも、駅名を言った。
「手前の駅だ。そうだ、響子さん、これから用事はあるのか」
「いえ、とくには」
「なら、うちにおいで。帰りは送ってあげるよ」
「は、はぁ」
幸は財布から千円札を一枚とりだすと、小夜乃に手渡した。
「これで、三人分の切符を買ってくれ」
「はい。行ってきます」
小夜乃が券売機に走りよる。
「小夜乃ちゃんって、可愛いですね」
「だろう。若いってのは一所懸命なんだ」
「あの、幸さんって、私より年下なんじゃ」
「上だよ。十幾つで、空飛ぶ魔女を小指捻るように手玉に取れるかよ」
気楽に笑った。小夜乃が駆け戻ってきた。
「はい、おつりです」
「おつりは、小夜乃。自分の財布にしまっておきなさい」
「いいんですか」
「いいさ、幸もその方がさ、保護者しているなぁって気分になる」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」


駅を出て、いつもの町に戻る。
ほっと小夜乃が溜息をついた。緊張していたのだろう、気が抜けたのか、小夜乃の足が少し縺れる、幸はよいしょっと小夜乃を背負った。
「ごめんなさい、幸母様」
「いいよ。今日は大冒険だった。帰ったらあさぎ姉さんに美味しいの作ってもらおう」
小夜乃が安心したように、体を幸の背中に預けた。響子は電車の中で、人の多いなか、ぎゅっと幸の手を握る小夜乃を見ていた。自分も子供の頃、そうだったなと思う。
ものごころつく前からの修行で社会と隔離されていた、だから、人の多いところはとても怖かった。詳しくは知らないけれど、小夜乃ちゃんも今日は頑張ったんだなと思う。
「おおい、幸ちゃん」
商店街入口、佳奈が声をかけた。
「佳奈姉さん、ただいま」
幸が立ちどまり、微笑んだ。佳奈は幸の前に立つと幸の後ろを覗きこんだ。
「小夜乃ちゃん、お出掛けだったのかい。よくなよちゃん、許したねぇ」
「なよ姉さんは旅行へ行ってます、だから、いまは幸が小夜乃の母さんですよ」
幸が朗らかに笑った。
普通に馴染んでいるんだ、響子は二人の会話を聴いて思う。あんな凄い幸さんが、ここでは、普通の人として、普通に喋っている。
「この子は」
佳奈が響子に興味を抱いた。
「は、初めまして」
「あたしは佳奈。この商店街の魚屋」
「私は、えっと、橘響子といいます」
「響子さんか。響子さんは彼氏いるのかい」
「え」
いきなりの言葉に響子が戸惑った。
「佳奈姉さん、夕子さん、あきらめたんだ」
いたずらげに幸が言った。
「あきらめたわけじゃないんだけどさぁ」
うーんと佳奈が腕を組み考えこむ。
「うちの息子は普通だから、普通の娘がいいかなぁって気もするんだ」
「それは残念」
幸がにっと笑った。
「え、響子さんも普通の人じゃないのかい」
にひひと幸が笑った。
「そうだよね、幸ちゃんと並んで歩いてんだから」
「ひどいなぁ、佳奈姉さんは」
幸が楽しそうに笑う。
「そうだ、幸ちゃん。さっき、あさぎさんから電話があったんだ、夕方、新作ケーキ試食会、あとで行くからね」
「うっしゃっ」
幸が鼻息荒くうなずいた。
「最高だ。佳奈姉さん、早く来てね。佳奈姉さんが来るまで、ケーキ、誰にも食べられないよう、命をかけて守るよ」
「うん。走っていくよ」

佳奈と別れ、少し足早に歩く。響子も横を小走りに歩く。えっ、響子が幸の足元に気がついた。着地した足がそのまま、すっと前に滑っている、だから歩いているのに速いんだ。
「あのケーキって」
「あぁ、うちは喫茶店なんだけどさ。店長やっているあさぎ姉さんの新作ケーキは秀逸なんだ」
幸が少し真面目な顔をして言う。
角を曲った。
しばらく歩いてあるのが、元会計事務所、あさぎの喫茶店だ。
白が店の隣りにある通用口から出てきた。
「あ。幸母さん、お帰り」
「ただいま、白」
一瞬、響子が固まった。
「白様、どうして」
響子が呟いた。
白はふっと響子を見つけると、軽く会釈し、幸の後に回った。そして、小夜乃を掲げるように、よいしょっと持ちあげ、道路に立たせた。
「小夜乃、お帰り」
「白姉様、ただいまです」
少し寝惚けたまま、小夜乃が答えた。
「幸母様。ありがとうございます」
「どういたしまして」
「さ、大人の難しいお話はわかりません。さぁ、入りましょ」
白が何もなかったかのように、すっと小夜乃を喫茶店へと連れて入る。
すぐに黒が出てきた。
「白がお客様だって」
ふっと、黒の視野に響子が入った。

「黒様、そのお姿、素敵です」
ぼぉっと熱を帯びた瞳で響子が呟いた。
「うわぁ、橘さん」
思わず、黒が呟いた、できれば、すぐに家に入ってドアを閉めたい。
すっと、幸は響子の首に片手を大きく絡めると、響子の耳元に口を寄せた。
「響子さんは桜花淑女隊なのかい」
「桜花淑女隊 隊長です」
「そうか。なら、話が早い」
じわりと幸の口調が変わっていく。
響子は何か不穏なものを感じ、息を飮む。
「今のいま、桜花淑女隊は解散だ」
その言葉に反発の声を響子は上げかけたが、その声は出せなかった。恐怖が背中からはいあがって来る。その恐怖がぐっと心臓を締めつけるのだ。
「黒は普通の女の子だ、それは間違いない、あたしがそう育てたんだからな。もちろん、頭も切れるし、運動もできる、でも、普通の女の子なんだよ。黒も自分が普通の女の子と思っている、だから、様付けされると辛いんだよ」
「で、でも」
「あたしは自分の娘が苦しむのが嫌なんだ。だから、響子さん、あたしの娘を黒って呼びすてにしてやってくれよ、なぁ」
なんだか、肺が押しつぶされそうだ。このままだと、私、死んでしまう。
「なぁ、黒から、親しげに響子って、呼んでもらいたくないかい。高校生活なんて短いもんだ。様付けして、ずっと、黒と距離を保ちつづけるのがいいのかい、それとも、黒とさ、親しくお喋りしたくないかい」
響子の脳裏に、黒と学校からの帰り道、笑いながら一緒に買い食いをしている自分の姿が浮かぶ。そうか、一言、一言言えば。
「響子さん、黒もきっと、響子と友達になりたいって、そう思っているぜ」
じわりと、幸が響子の背中を押した。
「あ、あの。あの、黒、こんにちは」
思いきって、響子が叫んだ。
「響子、いらっしゃい」
黒が柔らかに笑みを浮かべる、そして、手を差し出した。
黒様が、ううん、黒が私の名前を呼んでくれた そして、私だけに笑顔を浮かべてくれている こんな、こんな素敵なことってあるんだ。
思わず響子は黒に駆け寄り、両手で黒の手を握りしめた。
「うひゃぁ、黒、黒、好きです、愛してるよぉ、結婚して」
「えっと、あの」
戸惑う黒に幸は笑っていたが、後ろから響子の首に腕を回すと、ぐいっと後ろへ引き寄せた。
「当家では、不純異性交遊は禁止でございますが、同じく不純同性交遊も禁止とさせていただいております」

「死ぬかと思った」
響子が溜息をつく。家の台所、真ん中に置いたテーブルにある椅子に深く座った。
「あの、黒さま、いえ、あの、黒は」
幸がガスでお湯を沸かす、紅茶の用意をしていた。
「あさぎ姉さんが新作ケーキを作ってんだ、黒はその手伝いと味見要員だな。ま、ゆっくりしてくれ」
「は、はぁ」
響子は深く息を吸い、そして、ゆっくりと吐く 少し、気持ちが落ち着いた。
「気楽にしてくれ。無邪気で純粋な女の子がお茶の用意をしているんだ、緊張するような要素なんて、何一つ、ねぇじゃねえか」
火加減を見ながら幸が笑った。
響子としては百も反論する言葉があったが、言い返すことなど、とても出来ないと思う、命がいくつあっても足りない。
「幸母さん、白には無理です」
あたふたと白が幸の後ろへ駆けてきた。
「なんだ、どうした」
「二人とも土間に正座して、頭を下げるばかり」
「誘拐しようとしたのは事実だ。でも、小夜乃も許しているし、お父さんはお客さんとして迎えなさいと言った。ということは、白、大ピンチだな」
気楽に幸が笑った。
幸の視野に智里が入る、畑仕事から戻ってきた様子だ。
「おーい、智里」
幸が手を振り、声をかける、気づいた智里は縁側から台所へやってきた。
「幸さん、どうしました」
「お客様に紅茶をお願い」
智里は少し笑みを浮かべると頷いた。
「今日は千客万来ですね」
智里は響子の制服を見て言った。
「黒の御学友ですか」
「朝の亜矢と同じだ。もっとも、魔女じゃなくて、見習い忍者だけどね」
幸は答えると白と一緒に二人の魔女のもとへと行った。
「はじめまして、私は智里。あなたは」
「橘、橘響子です」
「響子さん、黒がお世話になっています」
響子が慌てて顔を横に振った。
「こちらこそです」
響子はほっとしていた、智里さんって普通の人だ、やっぱ、普通がいいよ、幸さん、機嫌損ねたら殺されそうだし あ、でも、どうしたんだろう、智里、何か覚えのある名前だ。
智里は戸棚からお菓子を出すと響子の前に置いた。
「どうぞ、紅茶はスコーンとセットが美味しいですよ」
「ありがとうございます」
智里は手際よく紅茶を入れると、響子の前に置いた。
「お相伴していい」
「はいっ」
少し緊張した面もちで響子が返事をする、智里は少し笑うと自分のティーカップを響子の向かいに置き、椅子に腰掛けた。
「黒は学生生活を楽しんでいますか」
「いえ、あの、私、黒に負担を掛けていたみたいで反省しています」
響子は幸の言葉を思い出し、俯いて答えた。
「亜矢さんと同じですね」
食事時の突飛な亜矢の発言を思い出して、智里は愉快そうに笑った。
「私、亜矢に合わせる顔がありません きっと、亜矢に軽蔑されます」
響子が口ごもった。
「大丈夫だと思いますよ」
智里の言葉に響子が顔を上げた。
「あの、亜矢は」
智里はどう答えたものかと考えたが、一番似合った言葉を見つけだした。
「亜矢さんは黒になついています」
「えっ」
「うーん、二、三日したら戻ってくるでしょうし、響子さんの目で確かめてください」
智里は静かに笑うと紅茶を啜る。
「あの、質問していいですか」
響子が言う、智里がカップを置き頷いた。
「智里さんも幸さんみたいなんでしょうか。あの、術とか」
智里は少し俯いて考えたが、ゆっくりと顔を上げた。
「ここに来るまでは、それなりに自分は使える、そう思っていたのですけど、うん、ここでは、ちょっとわかり始めただけの初心者です、幸さんの足下にも及びません。響子さんは忍者なんですね、そういうことにお詳しいの」
「忍者の家系に生まれました、見習いじゃありませんけど」
少し口をとがらせていう、幸の見習い忍者という言葉に反感があるらしい。
「そうか。響子さんはまだ人を殺したことがないのね」
笑顔のまま、智里が囁く。その瞬間、響子の記憶が繋がった。
殺人鬼、赤報会の智里、凄腕の抜け忍だ、だめだ、怖くて動けない なんで、こんな目の前に。
「あぁ、知っていたのね」
智里は少し笑みを浮かべると響子を落ち着かせるように静かに言った。
「ここにお世話になってから、私は人を殺していないし殺すことはないです。それに響子さんは黒の友達ですから、危害を加えることはできない、私にとって黒は妹みたいなものですから」
響子は椅子から浮かしかけた腰を降ろし座りなおした。
「ごめんなさい、親切にしていただいてながら」
申し訳なさそうに響子が言った。
「自分の行いの結果です」
仕方なさそうに少し笑みを浮かべる智里に響子は胸が苦しくなる。
「響子さん」
「はい」
「響子さん、どんなことがあっても人を殺してはなりません。上からの命令であり、相手が敵であったにせよです」
「でも、それは」
「殺した筈の彼らがいつも私を責めるのですよ。なぜ、お前はまだ生きているのだと」
目を覚ました小夜乃がやってきた。
「どうしたのですか、智里お姉様」
「小夜乃、おはよう。私はいつも通りですよ」
「いいえ、泣いていらっしゃいます」
小夜乃が両手で智里の右手を包んだ。
「なんでも、小夜乃にお任せですよ」
「そうですか、でも、これは私の問題ですから小夜乃に預けるわけにはまいりません、でも、応援してくれれば嬉しいかも」
小夜乃が喜んで、智里にふれーふれー智里と言う、響子はそれを見て、可愛いなぁと思う、弟二人あげるから、妹に頂戴と言いたい気分だ。
「響子お姉様は、お泊まり大丈夫でしょうか」
ふいに小夜乃が響子に声を掛けた。
「え、私」
満遍の笑みで小夜乃が頷いた。
「あ、いやその、急なことだし」
響子としては、憧れの黒がいるのである、もう一度、黒に会いたいとは思うが、やはり、幸が怖い。
「大丈夫だ、小夜乃」
そうそうに二人の説得を終え、幸が小夜乃の隣りにやってきた。
「響子さんは今日、お泊りしたいと思っているに違いない、でもさ、大人だから、一度は遠慮するんだ。二度、お願いするのが、小夜乃、大人への礼儀だぞ」
にぃと悪戯げに、幸が響子に笑いかけた。
逃げ道を絶たれた、響子が観念した。
「あの、響子お姉様」
小夜乃が思いきって言う。
「ありがとう、小夜乃ちゃん。二回、言ってくれて。お世話になります」

今日は喫茶店の休業日、窓には青色のカーテン、日差しが薄青く、店内はひんやりしている、まるで海の中にいるようだ。ケーキ試作のため、厨房からチョコレートの香りが漂っている、その香りだけが現実へと自分を引き戻してくれる。
響子はほっと息を吐いた。家へ連絡するのに、携帯の電波が届くのは喫茶店だけであったのだ。
響子はスマホを鞄に仕舞うと、椅子の背凭れに背中を預け、あぁと小く声を吐く。
幸さんの出鱈目な強さを目の当たりにして、びびってやってきたら、幸さんが黒様のお母さんでって、幸さんの方が年下じゃないか。伝説になっている智里さんに出くわし、あぁ、小夜乃ちゃん、可愛かったなぁ。なんだか、わけのわかんない日になってしまった。
爺ちゃんに、いや、お爺様に外泊するなんて言ったら、絶対、反対するって思ったのに、幸さんがそういうときは、「無の娘が泊れと言った」と言えって、そういったら、あっさりわかったって。これって、幸さんが無の娘ってことだよね、「無」ってなんなんだ。
「あら。こんにちは」
夕子が響子を見つけ、微笑んだ。
「えと、あの、お邪魔しています」
夕子は笑顔で頷くと、一つおいて、隣りの椅子に座った。
「光が青くて外の音も聴こえない、落ち着くでしょう」
「は、はい」
金髪碧眼、白磁のような白い肌。羽があったら、本物の天使だ。天使が隣りの隣りの椅子に座って、分厚い木のテーブルに頬を寄せている。
「大勢でおしゃべりするのも楽しいけれど、こうして、じっとしているのも好きなの」
錯覚だろうか、肌が光を発しているようにすら見える。
「響子さんですね。さきほど、小夜乃がお客様ですよって、嬉しそうにお話してくれました」
響子はどういう表情をしていいのか途方にくれたが、小夜乃の笑顔を思いおこせば、なんだか、自分自身も嬉しい気分になる。
「小夜乃はいい子です」
「私もそう思います」
響子が答えた。
「幸さんにも受けいれてもらえて良かったですね」
「それは、うーん」
夕子がいたずらげに笑った。
「私はここに来るまでたくさんの裏の仕事をしました。忍者の下働きもしたことがあります。私は幸さんや皆さんに受けいれてもらえて、今が一番楽しいんです。幸さんは自分自身を悪人だって言ってますけど、私には優しくていい人なんですよ」
「あの、幸さんって何者なんですか。とても信じられないような」
夕子は片頬をテーブルに載せたまま笑った。
「知りません。ただ、どう考えても普通に生きてきた人じゃないでしょう。だからね、尋ねないことにしているんです」
そっと、夕子が目を閉じる。
響子はその表情に絵画のような非現実感と美を感じた。
本当に天使が休息しているみたいだ。
街中のちょっとお洒落な喫茶店のはずなのに、まったく違う世界に迷いこんだみたいだ。
ふと夕子が目を開け体を起した。
「人の気配がしますね」
夕子は立ちあがると、ドアの前まで行き、少しカーテンを開けて外を覗く。ドアを先頭に百人程の行列ができていた。
「これは」
夕子が呟いた。
佳奈が通用口から飛びこんできた。
「大変、大変」
佳奈が二人を見つけ、やってきた。
「新作ケーキ試食会、ばれてる」
「並んでいる人達、試食会目当てですか」
驚いて夕子が佳奈に尋ねた。佳奈が頷いた。
「絶対、ケーキ、足りませんよね」
夕子が心配げに言う。
「まずは容疑者確保だ」
いきなり幸が現れ、滑かにドアを開け、先頭の一人を抱きかかえ、ドアを閉めた。あまりにも、滑かな動きで拉致された本人すら気づかなかった。
「さて、木村さん。詳しいお話を伺いましょうか」
にかっと、幸が笑った。
「ごめん、幸ちゃん」
申しわけなさそうに、常連の木村が頭を下げる。
「お店の前から、甘いチョコレートの匂いがしてね、これは、秘密の試食会だってぴんと来てね、うろうろしてたら、どんどん、人が集まってしまって」
木村はきっとこれは試食会よと、先頭の数人に喋り、それがびっくりするほど、広がっていって自分でもどうしようと怯えていたことは、意識して喋らなかったが、幸は木村の心を読みながら彼女の話を聴いているので、その事実も把握はした、でも不問にしておくかと思う。
「とにかく、みんなを呼んでくる」
幸が中へと駆けていった。
ちょうど、全員が揃ったとき、かぬかが厨房から出てきた。
「ケーキ、できたよ」
両手、思いっきり広げた大きなトレイにいっぱいのチョコレートケーキが並んでいる。艶やかに光っている。おおぉと唸る声。
「かぬか。大変だ」
「なんだ、幸」
「試食会、ばれて、店の前、百人以上並んでいるんだ」
かぬかが慌てて、トレイをテーブルに置き、窓に近寄る。
「どうする、とても、足りない」
その声を聴いて、後から出てきた黒が涙目になる。
「ケーキ、食べられないの」
黒が今にも泣きそうだ。
可愛い、心の中で響子が叫んだ。怜悧な表情の黒様も素敵だけれど、涙目の黒様、うるうるして、可愛い、可愛い、そうだ、写真、写真を撮らなきゃ。
思わず、響子は鞄に手を突っ込んだが、手が止る。写真、撮ったら、幸さんに殺されるかもしれない。あぁ、せめて、目に焼きつけよう。
「どうしよう、材料もないし」
あさぎがおろおろと呟いた。
「大丈夫だ、あさぎ姉さん」
幸が自信に満ちて言った。
幸はあさぎに駆けよった。
「材料は幸が用意します。そして、みんなで作ろう」
ほっとしたのか、幸の力強い笑顔にあさぎが頷いた。幸はカレンダーを一枚剥し裏を表にマジックで書く。
「木村さん、おいで」
幸は木村を呼びよせると、カレンダーに案内を書きだした。
「本日は長蛇の列にご参加いただきありがとうございます。当店では、本日、休日を利用しまして、秘密のケーキ試食会開催をしております。お並びいただいた方々にも試食していただければと、お一人様一個ずつのプレゼントをさせていただきたく存じます。なお、お時間がまだかかります。お待ちいただけない場合も、来週月曜日から、ハーブティセット税込み九百円で御用意させていただきます。なお、二度お並びになるのは御遠慮ください、また、スマホ等で人を呼び列を延すのは御遠慮ください。見つけたら、ぶん殴る」
長いかなと幸は少し唸ったが、まっいいかと呟く。
「木村さん、はい、どうぞ」
「えっと、私がこれを並んでいる人に」
怖け、木村が幸を見上げた。
「うん、説明してください」
幸はにっと笑うと、木村の首に両腕を絡め、耳元で囁いた。
「終ったら、木村さん、みんなで一緒にケーキを食べよう。旦那とお嬢さん分の土産も用意するよ」
木村が大きなトレイに載ったケーキを目の端で見る。
「わかった、頑張るよ」
「ありがとう。木村さん」

幸は木村を追い出すと椅子の上にすっくと立った。
「ピンチは商機。常連倍増計画開始。幸は材料を仕入れて十分で帰ってきます。それまでに、みんなでケーキを作るための準備をしてください」
幸は見渡すと智里に声をかけた。
「智里がリーダー。佳奈姉さん、智里を助けてください」
「よし。わかった」
佳奈が愉快に答えた。
「あ、あの。そういうのは、あまり得意じゃなくて」
慌てて、智里が言う。
「大丈夫だ、幸の目に間違いはない。小夜乃も智里を助けてくれるな」
「はい」
元気に小夜乃が答えた。
ぶわさっと、幸が大風呂敷を取り出した。緑色の唐草模様である、幸はそれをマントのように首に巻く。
「では。行て参じまする」
すっと幸の姿が消えた。
ふと白が言った。
「多分、幸母さんは服のセンスがないと思う」
「ちょっと、唐草模様はねぇ」
恵子が呟く。
「先生がいるときと、いないときでは、かなり違うよね」
佳奈が頷いた。
「それ、言えてます」
恵子が思いだす。
「仰向けに寝転がって煎餅噛ってて、粉が目に入ったって、ばたばたしていましたよ」
「なんというか、完璧な人間はいないってことだね」
佳奈の言葉にみなが頷いた。
「あ、あの。準備をお願いします」
動揺しながらも、智里が声をあげた。

 

 

予想していたものと違った。わぁどうしようと、あさぎはカウンターにしゃがみこんでしまった。
みんなが新作ケーキを静かに食べていたのだ。誰も何も言わず食べている、黒なんて、泣きながら食べている、美味しくなかったのかと、あさぎは震えてしゃがみこんでいた。
幸は一口食べて食べるのをやめた。
つまりは美味しすぎるのだ。男となよが居ないいま、自分まで、このケーキの美味しさにぼぉっとしてしまうと、結界が緩んでしまいかねない。響子はちゃっかり、黒の前に座っていた。黒がしくしく泣きながらケーキを食べている。美味しいよぉって呟いている。黒様、可愛いとケーキを食べるのも忘れていた。
幸は黒の横に立つと声をかけた。
「黒。母さんの分も食べな」
「だ、だめだよ」
幸が笑った。
「母親は子供が美味しそうに食べていると、それだけで満足なんだ。いいから食え」
「いいの」
幸が大きく頷いた。
「ありがとう。幸母さん」
黒は幸からケーキ皿を受けとると、ケーキをフォーグで四等分する、その一つを食べたあと、もう一つにフォークを差し、響子に向ける。
「はい。響子、あーんして」
「え。えっ、あの、黒」
「はい、あーん」
黒が響子に微笑みかける。思いって、響子がぱくっとケーキを頬張った。黒は立ちあがると、白と小夜乃にもケーキを食べさせにいった。
黒様、いえ、黒があーんって言って私にケーキを、響子はぼぉっと黒のアップを何度も思いだす。一瞬、びくっと響子の動いた。
まさか、これって、間接キス、これって、キス。
これはもう嫁にしてもらうしかない、思いかけたが、幸の顔を思いだして、踏み止まった。
幸は佳奈の横に行くと真面目な表情で佳奈に言った。
「佳奈姉さん。あさぎ姉さんのケーキを商店街で売るっての、どう思う」
「そりゃ。願ったり叶ったりだけど、どうして」
「注目はほどほどかなと思って」
佳奈は幸がテレビや雑誌の取材を全て断わっているのを思いだした。考えてみれば、ここにいる全員、一般の世界で普通には暮せてはいけない、ここはシェルターのようなものだ。
佳奈は頷くと立ちあがる、幸とカウンターの後、あさぎの隣りにしゃがんだ。
「幸、どうしよう」
涙ぐみながらあさぎが言う。
「とっても美味しいよ。みんな、びっくりしているだけだよ。黒なんか、美味しすぎて、泣いてたもの」
あさぎがほっとしたように微笑んだ。

驚いた。
響子は広間で男を除く全員が一緒に雑魚寝をしているということ、ましてや、寝る向きもばらばらだし、場所も決っていないということに驚いた。もちろん、響子は黒の隣りだ。ただ、緊張して眠れない、横を向くと黒の寝顔が見える、顎の辺りまで掛布団をたくしあげて、とっても、可愛い。
薄暗がりのなか、ぼぉっと眺めていたせいか、喉が乾く。響子はそっと立ちあがると、水を飮みに台所へ向った。微かに明り。男と幸がテーブルにつき、喋っている。
「響子さん、おいで」
幸が背を向けたまま言う。少し怯えながらも、二人に近寄る。
「どうぞ」
幸が椅子を引くと、響子は恐縮しながら座った。

幸はお茶を注ぐと、響子の前に湯呑みを置く、
「少し飲んだらいいですよ」
「ありがと、うございます」
そうだと思いだした。幸さんはお父さんの前では、言葉使いが丁寧なのだ。そっと、お茶を口に含む、美味しい。
「美味しいです」
幸がそっと笑みを浮べる。
男が興味深そうに言った。
「響子さんは黒と結婚するのかい」
「あ、あの。ごめんなさい、変なこと、言ってしまいました」
響子が俯く。男はうーんと唸る。
「いつかは黒も結婚するのかなぁ」
「幸は男の人は苦手だから、女同士の結婚はありだと思う」
「女同士か。それじゃ、響子さんと黒の結婚もありかい」
幸が少し考える。
「響子さんがお嫁さんに来てくれるならありかな。姑さんに黒が苛めたれたらいやだもの」
「そうだなぁ。もしも、黒が苛められたら、父さん、抗議に行くかもしれない。うちの黒はお箸より重いものは持たせたことがありません、もっと大事にしてくださいって」
幸が楽しそうに笑った。
「お父さんは子離れできていません」
「それはお互いさまだな」
男がそっと笑みを浮べた。
「橘と言えば、響子さんのお爺さんは幻妖齋という名前だったじゃないかい」
男が響子に言った。
「は、はい。変な名前ですけど。あの、おじさんはご存知なんですか」
「二十歳頃かな、一緒に仕事をしたことがあったよ。もう、随分、昔の話だね」
「おじさんが無さんなんですか」
幸がすっと男に頭を差しだす。男はこつんと叩くと、溜息をついた。
「ごめんなさい、お父さん」
幸がにっと笑った。
「ま、いいよ」
男は響子に向きなおると仕方なそうに笑った。
「若いころの渾名だよ。目立たない、いるかいないかわからないって意味さ」
「あの、おじさんはみなさんからとても信頼されていて」
「ありがとう」
男が笑った。目立たないの言葉の意味をわざわざ解説する必要はない。
「橘家といえば、忍者の世界では大家だ。男の子が生れれば跡継ぎ、女の子の場合は政略結婚だ。響子さんは許婚がいるのじゃないかい」
「うわぁ」
響子が頭を抱えた。
「そうなんですよ、最悪です。政治家の長男ですよ。嫌ですよ」
「響子さんは会ったことがあるのかい」
響子が顔を顔を上げた。
「何度も会わされました、同い年のつまんない奴です。黒様の方がずっと素敵です」
幸が響子の手を握った。
「男の創りだした仕組みに女が従う必要はないよ。幸ががつんってかましてやるよ」
「ほどほどにね」
男が気楽に笑った。

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遥の花 あさまだきの靄 小夜乃

「好機到来です」
店の前、小夜乃は額にはちまきをするとぎゅっと結んだ。
小夜乃は一人で外を出ることができない、鬼に襲われる格好の餌となる、なよはそれを心配し、できるだけ小夜乃が外に出ないように、どうしても出るときは、自分か黒が同行するようにとしていた。
小夜乃はしっかりした女の子である、いつまでもそんなことでは自分がだめになってしまうと考える。
そんな時に、なよがしばらくの間、鬼紙家へ行くことになったのだ、この機会に一人旅を、日帰り旅をするのですと小夜乃は決心したのだ。
「とにかく列車に乗ります、町の結界の外で買い物をし帰ってくるのです」
「ということは、まだ、はっきりとした目的地を決めていないってことだ」
幸が煎餅をかじり、にかっと小夜乃に笑いかけた。
「幸母様、どうして」
「店の前で小夜乃が気合いを入れている、なよ姉さんはいない、なよ姉さんの日頃の態度と小夜乃の性格を思えば出かけようとしているんだなくらいわかるよ。止めはしない、実朝も肩とまっているんだからさ」
「実朝、よろしくお願いします」
小夜乃が肩にとまる文鳥、実朝に笑いかけた。
「たださ、目的地が決まっていないのなら、亜矢の家に行かないか。用事があるんだ、向こうで落ち合おう」
小夜乃はしばらく考え、少しほっとしたように頷いた。
「お願いします」
幸はノートを取り出すと、亜矢の住所、道順、降りる駅、正確に書き、小夜乃に手渡した。
「およそ電車で三十分、駅を降りて十五分歩けば亜矢の家だ。私は一時間ほど用事を済ませてから飛んでいく」
「ちょうどいいです」
小夜乃が笑った。
「それじゃな、何かあったら、もちろん、実朝もいるけどさ、私を呼べよ なよ姉さんの小言を聞き続けるのはつらいからさ」
幸はいたずらげに笑みを浮かべた。小夜乃はお辞儀をすると駅に向かってしっかりと歩きだした。幸は完全に気配を断ち、小夜乃の数歩後ろを歩き始めた。

「どうするよ」
「さすがにやばいって」
三人の新米魔女が改札口の隅で密談をしていた。上からの指示だ、かぐやのなよ竹の姫の関係者を拉致せよ、厳命だ。
「いつも偉そうにしているMKがびびって青い顔して逃げ出したんだよ、あたし等になんとかできるわけないじゃん」
「でもさぁ」
三人とも顔面蒼白だ。簡単な魔術も満足に使えない、ほとんど素人。それくらいの素人でないと、この町では自由に動けない。
魔女の一人がひきつったように顔をこわばらせると、視線で二人を促した、慌てて、二人はその視線の先を見つめたが、ぎゅっと視線を戻すと、小声で囁きあった。
「鉢巻をした子供、mkの報告書の子だ」
「どうしよう」
「うっかり気づかなかったってことにしようよ」
「でも、ばれたらあたし等が殺されるよ」
「どっかで、上の奴らが監視しているかもしれない」
三人は決心すると、何気なさそうに小夜乃に向かって歩く、ポケットにはナイロン袋に入れたハンカチ、クロロフォルムが滲みこませてある、先頭の魔女が駆けだした、ポケットからハンカチを抜き出す。
小夜乃が立ち止まり、先頭の魔女をじっと見つめる、ハンカチを掴む魔女の手が小夜乃の口元に近づいた瞬間、小夜乃は両手で魔女の手首を掴むとすとんと姿勢を落としつ体の向きを反転させた。ふわりと魔女が投げ飛ばされる。
小夜乃が二人の魔女をぎゅっと睨んだ。
「悪いことはだめです」
小夜乃が強く言った。
「人と生まれたからには、常に善悪を考え、善を為すこと。自身の行為が悪であるならば勇気をもってその行為を中止しなければなりません」
年下の女の子に真っ直ぐに諭され、二人は自分自身の情けなさに座り込んでしまった。
小夜乃は振り返ると投げ飛ばした魔女の手をとり、体を起こす。
「あの、ごめん、ごめんなさい」
手を取られたままの魔女が涙ぐみながら小夜乃に謝る。
亜矢さんと同じ匂いがする、複雑なハーブの香り。この人たちも魔女。そうなら、これは亜矢さんが術を教えてもらえるための人質を穫ろうということだ。
小夜乃は先ほどの食事の後、なよが言っていた言葉を思い出した。亜矢が教わった術を伝えることを拒否すれば、殺されるかもしれないということを。このまま自分が電車に乗って行けば、このお姉さんたちは殺されるのだろうか。もしも、一緒に行って、魔女の人たちに、こういうことはやめてくださいって言えば。

すっと、幸が刀を空から取り出した。
「やぁ。どうしたんだい」
男だ。杖を器用に使い、男が駅からやってきた。
幸が慌てて刀を消した。
「お父様。どうして、ここに」
小夜乃が驚いて言った。
「鉢巻して気合い入れて出かけるのを見たからさ、危ないことがないようにと駅に先回りしたんだけど、駅に着く以前に危ないことが起こってしまったとはね」
男は気楽そうに笑うと、小夜乃と魔女のすぐ横にしゃがんだ。
「お姉さんの手首、離しなさい。鬱血しそうになってるよ」
慌てて、小夜乃が手を離した。
「ごめんなさい」
小夜乃が魔女に頭を下げた。
「あの、こちらこそごめんなさい」
後の二人もやってくると、ごめんなさいと小夜乃に頭を下げた。
「あの、いえ、こちらこそ」
少し戸惑いながら小夜乃が答えた。
男はほっとしたように小夜乃を見て言う。
「小夜乃は今日何処へ出かけるつもりなのかな」
「亜矢さんのお宅へ行く予定だったのですが、お父様、この人たちに命令した人のところへ行って、悪いことを命令するのはだめですって言いに行く方がいいのかなと思っています」
「なるほどね、父さんにはそういう発想はなかった、勉強になるなぁ」
男はしゃがんだまま、小夜乃を見上げた。
「その役、父さんにくれないかな がつんと大きな声で言ってくるよ」
「でも」
「大切な自分の娘が決して安全でないところへ行こうとする、それを見送るのは辛いよ それに父さん頑張って言うよ、だめなものはだめですって」
小夜乃は男の口から大切な自分の娘と言われたことがとても嬉しかった。
「お任せしてもいいですか」
「もちろん だから、亜矢さん宅に行っておいで」
小夜乃は幸せそうに頷くと、頭を下げ行ってきますと言った。
男は小夜乃を見送ると立ち上がった。幸がぎゅっと男を抱きしめていた

「ごめんなさい、お父さん」
幸は男が声をかけなければ、三人の魔女の首を切り落としていただろう。
すぐに幸が姿を消した。小夜乃を追ったのだった
展開についていけず、三人の魔女は男を見つめていた。
男は目の前の魔女をみつめると、にっと笑った。
「洋子さん、近くの駐車場に車を停めてあるだろう 協会まで送ってくれないかな」
魔女は頷いた次の瞬間、男が自分の名前を呼んだことに驚いた。
男はいたずらが成功した子供のように笑顔を浮かべると、杖を頼りに立つ。
「道々、何故、魔女になったのか、幸恵さんや詩織さんにも教えてもらおう」


「これはなかなか」
洋子の運転でやってきたのは、カトリックの教会だった。
およそ三百台の駐車場、その端に車を停めると四人は駐車場奥の小径を歩く。
昼下がりの木漏れ日が小径を降り注ぐ。
「これはお弁当がいるね。ピクニック楽しいだろうな」
気楽に男が言う。
道の向こうから、結婚式下見の男女が歩いてくる、とても楽しそうだ。
すれ違う、男がにっと笑って手を小さく振った。すれ違う二人が笑顔で頷いた。
「教会だから結婚式もやっているんだね」
緊張した顔で洋子が頷いた。
五分も歩いたろうか、白亜の教会が見えてきた。
青空のもと、教会は清らかであり、神聖な場に見えた。

四人は歩き、教会の裏側へ回り込む。裏側は垂直の外壁、普通にあるビルディングである。中央の自動扉を入る、エントランスの向こう、エレベータだ。
「三階です」
詩織が言う。
幸絵が思い切って言った。
「ごめんなさい、あとは私たちでなんとかしますから、ここから帰ってください。上の人たちはとても怖い人たちで、呪いで人を殺すことも平気です」
洋子も言った。
「私たちが言えることではありません、それはわかっています、でも、さっきの女の子の言葉で思いました、私には勇気が足りませんでした」
洋子の言葉に二人も頷いた。
男がそっと笑みを浮かべた。
「なかなかねぇ、私もそれじゃあとはよろしくって言えないんだよ。あの子は必ずお姉さんたちどうでしたかと私に尋ねる。途中で帰ったから知らない、これでも父親だからさ、そうは言えないよ。それに、そんな怖い上司のところへ、君たちは意見を言いにいくわけだ。勝算はあるのかい、上司がなるほどと頷いて君たちを無事解放してくれると思えるかい」
三人が沈んだ面持ちで俯いた。
「年を取ると、若い人のまっすぐが眩しいなぁ。さて、私は娘に約束した。悪いことはだめですって言ってくるってさ」
男は左手でエレベーターのスイッチを押す、ドアが開いた。男がエレベーターに入ると、それを追うように、三人もエレベーターに入る。洋子が唇を引き締め、3Fを押した。

エレベーターが降下していく。
慌てて洋子が何度も3Fのボタンを押す。
「大丈夫だよ」
男が一瞬、子供のような笑顔を浮かべた。
「地下の貴賓室に招待してくれるのさ」
やがてエレベーターが止まり、ドアが開く。
薄暗い地下の、鍾乳洞のような世界が広がっていた。男がエレベーターを降りる、三人もそれに従った。
杖を、男が半分エレベーターに残るように転がした。
洋子が呟く。
「エレベーターのドアが閉まりきらないように」
「いや、ただの嫌がらせさ。ドアが閉まったり、開いたり、楽しいだろう」
エレベーターが繰り返し開閉する音を背に四人が歩く。辺りは湿り気を帯び、かすかな明かりは、古びた街灯が、それも石油ランプのような古風なランプがいくつも辺りをほのかに照らしている。
「天井もかなり高い、街を模したシェルターみたいだ、三階建ての家が十分に建つ高さだね、魔術で掘ったんだろうな」
詩織が悲鳴を上げた。
視線の先に何か人型のものが斜めに転がっている。よく見るとあちらこちらに打ち捨てられた卒塔婆のように立っている。
男が近づいて見てみる、
「処女の棺だ。魔女裁判で使われたものだよ」
男が戸惑いなく棺を開ける、内側には無数の太い針が中に閉じ込められた魔女を串刺しにする。男は中の太い針を一本折り眺めてみる。
「レプリカだね、あんまり良い趣味じゃないな、こういうのって」
「あ、あの」
女の子三人、怯えて今にも座り込んでしまいそうだ。
「魔女が魔女を拷問するための道具を揃えている、ま、もっとも、キリスト教の教会を隠れ蓑にしているくらいだ、これくらいの矛盾はどうってことないんだろうね」
「これは現実なんでしょうか」
「実際に起こっていること、という単純な意味では現実だな、エレベーターの設置は魔法じゃない、専門の業者さんたちが足場を作ってしたんだろうな、業者さんたちの戸惑う顔が浮かぶなぁ」
女の子三人、辺りを見渡す。いくつもの拷問器具を立てたり、転がしたり、雰囲気作りをした人たちの様子、多分、どれ一つも一人では運べないだろう、エレベーターに載せておろして、三人くらいで持ち上げて運んだのだろうか、そんな風に考えると、少しずつ恐怖心が和らいでいく。男はそんな三人を見ると、楽しそうに笑った。
歩く、遠くに灯りのともる家が見えた。
「あれだな。洋子さん、詩織さん、幸絵さん」
「はい」
「おへそのちょっと下、ぐっと力を入れなさい、そうすれば気持ちが収まる。あとは、私がいるから大丈夫だよ」
三人は不思議な気分でいた、なんといっても、自分たちが誘拐しようとした女の子の父親だ、怒りの矛先を向けるでもなく、楽しんでいるようにすら見える、それに、そんな男を今では自分たちはすっかり信頼してしまっているということだ。
男が洋館の大きなドアの前に立つ。二階建てのイギリスの少し田舎辺りにあるようなレンガ造り、暖炉の煙突もレンガで作られてあり立派だ。男が軽くドアを叩く。
「旅の者にございます、道に迷い難渋しております、どうか、戸を開け、暖をいただけないでしょうか」
中から年を取った女性の声がした。
「それはそれは、さぁ、ご遠慮なくどうぞ。鍵はかかっておりませんわよ」
洋子は男が片腕なのを思い出し、ドアのノブに手を伸ばしかけたが、男が首を横に振った。そして、視線で三人に自分の後ろに下がれという。素直に三人が男の後ろに控えた。男がノブを回し、ドアを少し開けたところで、思いっきりノブを押し込みドアを閉めた。
爆音だ、ドアが揺れ、耳を劈く獣の咆哮が辺りの空気を震わせた。
「さてと。もう、いいかな」
男が何事もなかったかのドアを開ける。
ドアの大きさそのままの犬の首が大きく口を開けたまま上を向いていた。
「ケルベロスの首を一つ切るとは、動物愛護団体に叱られますよ」
中央には細かな彫刻がふんだんに飾られたテーブル、その奥に一人の女性が腰かけていた。シスターの衣を身にまとった、それが協会の最高指導者グランシスターだった。
男とシスター笑顔で会釈をする。
「お騒がせてしてごめんなさい、女の一人暮らし、物騒でしょ」
「そうですね、この頃は世の中もぎすぎすして、随分と暮らしにくくなりました」
男は振り返ると、女の子三人に入るよう促した。
おずおずと三人が入ってくる。
「あらあら、この子達。どんな子を連れてくると思っていたら、殿方をお連れするとは、最近の子は困ったものだわ」
「いやいや、この子達を責めないでやってください、実は私の末っ子が彼女たちに連れ去られそうになりましてね、大事な娘を怖い魔女に連れ去られては大変と私が娘に代わりやって来たわけです。片足で疲れました、座らせていただいてもかまいませんか」
「きづかずにごめんなさい、どうぞ、お座りになって」
シスターの言葉に男は正面の椅子に座った。
「もう少しお話をさせていただきます。末っ子からの伝言です。人として生まれたからには善を為せ、もしも、己が行いが悪であるなら、勇気を持って悪と決別し善を為せ。以上です」
シスターは困惑したように目を見開いていたが、いきなり、大笑いをした、腹がよじれる、そんな下品な笑いだった。


男は気にした様子もなく、静かに眺めていた。ようやく、シスターの笑い声が収まる、男は何も言わず、微笑んだままだ。その様子にシスターの気が障った、シスターが男を睨みつける。それでも男は笑みを浮かべたまま喋らない。
ふと、男が今気づいたとでもいうように唐突に言った。
「あぁ、私の順番でしたね、ここは私がうちの娘を馬鹿にするのかと怒って、あなたが上から、社会のそもそも論を展開するという流れでしたか。このやり取りを考えれば。これは失礼」
シスターが容姿からは想像のつかない低い声で囁いた。
「いけ好かない男ね、呪うわよ」
「およそ百八十年前」
男がいきなり呟いた。
いったい何を言いだすのかわからず、シスターが半分口を開け男を見る。
「あなたがこの国に来た時、魔術はキリスト教よりもはるかに古い生活の知恵だった。自然、いえ地球と表現するほうがいいかな、地球と密につながる方法だった。若いあなたはすべての人が幸せであるようにとこの国にやって来たはず。人は年を取るほどに我執にとらわれ保身を図る、人の寿命は頑張っても百年と少し、人はそれくらいで死ぬ方が地球だとか、環境だとか、自然だとかには良いのかもしれませんね」
「お前、何者だ」
シスターがいきり立ち、男を睨みつけた。
男は両腕を組み、かすかに首を傾げる。
「哲学的な問いですね。生まれた瞬間から、人は何かを学び、自分自身を作っていく。私はいったいどんな自分を作って来たか。改めて考えると、若気の至りとでも申しましょうか、恥ずかしいことばかりです」
目を瞑り、少し俯きながら男が感慨深く言う。
洋子たち三人は二人のやり取りに立っていられず、しゃがみ込んでいた。
グランシスター、協会で一番偉い人、独裁者と言ってもいい、誰も彼女の前では恐怖にひれ伏す、なのに、まるでグランシスターを小ばかにしたように返事をする男。
「お前に呪いをかけます」
グランシスターが叫んだ。男が目を開け、にぃいと笑った。
「では、私もあなたに呪いをかけて差し上げましょう」
男は先ほどの棺の針を差し出した。
「この針を地下の迷宮から、およそ八十メートルの岩盤を貫き、地上三階、執務室のあなたのところへお送りします」
針が消える、次の瞬間、グランシスターの額寸前に針が浮かんでいた。
「なに、なによ、これは」
「もしも、あなたが」
男が囁いた。
「ごほ、げほ。あれ、風邪かな。に、あれば、その針はあなたの額を割り、脳を貫通して、飛んでいきます。もしも、それを避けたいのであれば、ごほっ、やっぱり、地下は湿気が多いのかな、であれば、それを避けることができます。ご理解いただけましたか」
「なによ、消しなさい。こんなことをしてただで済むと思うの」
グランシスターが顔をまっかにし叫ぶ。男は、特に気にするようすもなく、テーブルの掛布を取り除いた。テーブルには一面に巨大な魔方陣が描かれていた。
「それに触るな」
グランシスターがありったけの声で叫んだ。

「えっと、これかな」
男が魔方陣の一部を掛布でごしごしと消した。グランシスターの声が消えた、姿だけがある、口角泡を飛ばし、両腕を振り上げている。男はもう一角の文字と内側の円をほんの少し消す。
「これでこちらの情報も向こうへ伝わらなくなった。やぁ、ほっとするね」
「あ、あの。これで良かったのでしょうか」
戸惑う洋子の言葉に男は笑みを浮かべた。
「これから、たくさんの魔物が襲ってくる。頑張って戦おう」
「ええっ」
三人の言葉に男が嬉しそうに笑った。
「と、言いたいけれど、君たちだけ先に地上へ返しておく方がいいかな、それじゃ」
こんこんと扉を叩く音が聞こえた。
三人がおびえたように扉を見つめた。
「旅の美少女です、道に迷い難渋しております。どうぞ、お助けくださいませ」
「どうぞ、お入りください」
男が答えた。ゆっくりと扉が開いていく。唇を震わせ、三人が小さく縮こまる。
「無茶ですよ、師匠は。お父さんを手伝って来いと穴に蹴り飛ばされました」
漣は尻もちをついたのだろう、お尻をはたきながら屋敷の中に入って来た。

「お父様、この方たちは敵ですか、すとんと首を落としておきますか」
「もしも、そういったことをすると、帰ってから、ここへお座りただけますかの一言を皮切りに、末っ子の説教が始まる。人として生まれたからにはと」
男が深刻な顔をして言った。一瞬、漣の体が震えた。なよを前にこんこんと説教を続ける小夜乃の真剣な表情、前に座る泣きそうななよの表情。
「いたずらに生命を奪うのはよくありません、妹に説教されるのは嫌ということとはかかわりなく」
「お父様、この方は」
漣が指さす。グランシスターが大声で呪文を唱えている、声は聞こえないが。
「魔法使いの、ここで一番偉い人が、なぜか父さんのことに腹を立てて、これは召喚魔法だな、たくさんの魔物をこの屋敷の周りな集めているんだ」
ふと、漣は気づいた、その魔女の額、寸前に大きなとげのようなものが浮かんでいる、手を伸ばしかけて、漣はそれは立体映像であることに気が付いた。
「こめかみ、血管が破裂しそうですよ。お父様はいけ好かない奴を怒らせる天才です」
「ちょっと呪っただけであんなに怒るなんてね、ご自身はさんざん人に呪いをかけてきたのにさ」
漣が愉快に笑った。
「師匠に蹴落とされて最低と思っていましたけど、なかなかのご褒美です。楽しくなりそうです、そうだ、これは」
漣が興味深そうにケルベロスの頭を眺めた。
「地獄の番人と言われる頭三つの犬、ケルベロスだよ」
ふと、男が扉の向こうに視線をやった。
「ケルベロスの本体も召喚されてやってきたようだ。ひのふのみの、十一体、そろそろ、グランシスターも限界だろう、外へ出てお歴々面々ご尊顔拝するかな」
男はしゃがみ込んでしまった三人に声をかけた。
「一緒においで。この屋敷は咢だ。このままここにいたら、魔物の胃袋へ入ってしまうよ」

「これは壮観です」
漣が犬の頭を引きずり出し、見上げる。三階建てのビル、それくらいの高さだろうか、様々な形をした魔物が屋敷を囲み男と漣を見下ろしていた。
「四角い岩をいくつも切り出して組み立てた人型したのも、魔物でしょうか」
「一つ一つの岩に霊を憑依させて組み合わせたものだ。それぞれの干渉力を切れば、ばらばらの岩に戻るよ」
「つまり細かく切っちゃえということですか」
「そうだね、もしくは解呪術で繋がりを解くかな」
「解呪術は教わっていません。ですから、切ります」
「蛸に似たのもいるねぇ、旧支配者を模したのかな、ちょっと切りにくいかな。ま、それぞれの特徴を捉えてさ、楽しんでください」
漣がにぃぃと笑みを浮かべ、頷いた。
「奴らは睨むだけでどうして襲ってこないのでしょうか」
「その理由は簡単、彼らの立場になって考える。召喚されてきたけれど、足元に一匹の蟻。召喚者はこれを倒せと命令した。えっと、これって踏みつぶせばいいのかなぁって戸惑う方が当たり前だろう」
「では、びっくりさせてやります」
漣が右足のつま先でとんと地面を叩いた。

「こんなの、どう報告すればいいんだ」
洋子が思わず呟いた。
「報告しなければいいんじゃないかい」
いつの間にか男が洋子の隣に立っていた。
漣が飛びあがり、白い棒で岩のゴーレムを一刀両断する、そのまま、返す勢いで、隣の黒くうごめく何かを払う。
「あ、あの」
洋子は怯え、上目づかいに男を見る。
「わかっていましたか」
男は頷くとにっと笑った。
「駅で待ち伏せをしているときからね」

男はにっと笑みを浮かべた。
「扱いは他の二人と一緒だ 危害は加えないよ」
言い残し、男は隣りへ、そして辺りを見渡す。
「助かった、ありがとう」
「どういたしまして。あと、ケルベロスはどうしますか」
後ろで低くうずくまっている、出遅れたせいで、刃の餌食にはならずにすんだようだが、漣の気迫にすっかり怖じ気ついていた。
「首を返してやるかな」
漣は頷くと自分の身長より遙かに大きいケルベロスの頭の耳を両手で抱え、放り投げる。
「精霊の体を繋ぐのはそれほど難しくはないんだ」
男はとんとんと器用に瓦礫の上を渡るとケルベロスの前に立った。慌てて漣も男に駆け寄る。
男が呟く。
無は呪を唱えず、ただ、強く意念を用いるのみ
男の呟きに呼応したかのように、ちぎれた首が動き出し、元通り首が繋がる。
「どうする、ペットとしてこの子を飼うかい」
「笑さんの竜之介や、それから実朝みたいにとも思いますけれど、うーん」
漣は首を傾げ考えたが、あっさりと答える。
「やっぱいいです。門番がいなくなっても困るでしょうから」
「なら、このままでいいだろう、魔女も寝込んでしまったし、呪文の力も消えた、そのうち、自力で帰るだろうさ」
男と漣は三人のもとへ戻った。
「さ、帰ろうか」
五人が元のエレベーターまで向かう、エレベーターの入り口は開いたまま止まっていた電源そのものが切られてしまったようだ。
男が手前の岩肌をこんこんと叩く。
「これかな」
岩壁の少し突き出した部分を両手で掴みぎゅっと回す、岩壁が扉のように開き、そのすぐ奥に梯子が見えた。
男は一歩前に進み見上げる、梯子が闇の中へ消えていく。
男は振り返ると三人に言った。
「洋子さん、幸恵さん、詩織さん、三人、頑張って梯子を登ってください 私は上から攻撃されないように先に上に登りましょう」
男が漣に向き直り言った。
「三人が落ちそうになったら支えてくれるかな」
漣が頷く。
「お父様には絶対服従でございます」
漣がにぃっといたずらげに笑みを浮かべた。
「いや、そういうのはいいよ」
男は困ったように苦笑いを浮かべると小さなガラス球を取り出した。ふっと球の中に小さな炎が灯る、男は漣にそれを渡すと浮き上がり闇の中へ消えていった。
「どうぞ、梯子を登ってください」
漣の言葉に洋子が梯子に手を伸ばした。闇の中、漣がガラス球を軽く放り投げる。ガラス球はふわりと浮き手元を照らす。
三人が梯子を登り始めた。
最後は詩織だ。漣は詩織の下を、三人が登るのと同じ速度で浮かび上がっていく。

漣は男が何故、自分の名前を呼ばないのかを理解した。先頭の洋子が滑らかに登っていく、左右のぶれがないのだ。他の二人はあきらかに力味過ぎている。
それでも男が三人を同じように扱っているなら、漣は今はそれを指摘するのはやめておこうと思う。
「急いでください。あまり、ゆっくりしていると酸素や筋肉の乳酸の都合で落ちてしまいます」
漣としては、受けとめられないかもしれませんよの一言も加えたいところだが、男を困らせないように言うのをやめておく。

漣は必死になって登る幸恵と詩織を同じ速度で浮かびあがりながら見る。魔女の服装だけれど、全くの素人だ、好んで魔女になったようには思えない。お父さんの関りかたを考えるなら、魔女から抜けだそうとしているのだろう。二人とも息が荒い。それもそうだろう、多分。半分は来た。
瞬間、後を登る詩織の左手が梯子を掴みそこねた。ぐらりと揺れる詩織を漣が支えた。
「ごめんなさい」
「謝る必要はありません。早く登ってください」
「はいっ」
体勢を整え、詩織が梯子を掴んだ。
男は穴の一番上で、四人を待っていた。最初に洋子がやってきた。
「おつかれさま」
男が気楽に声をかけた。洋子が息を整えて言った。
「あの、えっと。ありがとうございます」
場違いなほど、気楽な男の言葉にどう返答すればいいか、戸惑ったのだ。
「えっと、このあとは」
「ここは結婚式場の祭壇裏側と繋がっている。みんなそろったら洋子さんの車で逃げよう、そして、うちへ来てくれ。場所は知っているんだろう」
「はい、わかりました」
洋子が頷いた。
「ところで、洋子さんはこういう仕事がしたくて警官になったのかい。潜入捜査は大変だろう」
一瞬、洋子は息を飲んだが、観念して答えた。
「父も母も警察官でしたから、子供の頃から自分も警察官になるものだと思っていました」
「なら、びっくりしただろうね。魔法だとかさ、わけのわからない奴らばかりで」
男が愉快に笑った。
「こんなの、警察の仕事じゃないですよ」
「確かにそうだな。もう何年になるかな、この国は鬼と戦うため、魔法使いや呪術使いを警察や自衛隊にとりこんだ、術者は喜んで自分達の術を彼等に教えた。強くなった鬼達に自分達だけで戦うのを恐れた、自信がなかったんだろうな。もともと、警察官も自衛官も体力はあるし、精神力も頑強だ。すぐに術も身につけて、今では、術師が彼らの下働きだ。もう、笑うしかないな」
「本当に鬼がいるなんて思いもしませんでした。まさか、警察官になって、呪文の練習をするなんて、考えられないです。もう辞たいです」
「鬼の存在は国家機密だ、ばればれでもさ。だから、辞めさせてはくれないだろうな」
「あの、叔父さんも術師なんですよね」
「ええっ、やだよ。失礼だな」
男がくすぐったそうに笑った。
男が下を見る。三人がやって来た。

男は後から来た三人にも、状況を説明した。
「洋子さんと幸恵さんと詩織さんは、とにかく車に向かって走ること、いいかな」
男の言葉に三人が頷いた。五人が地下から飛び出す、結婚式場だ、先頭を漣が走る。長机を飛び越え、外へのドアを蹴り抜いた。
綺麗に設え、色とりどりの花が咲き誇る中庭だ、振り返る、後ろを走る三人も息せききって駆けてきた、中庭を越え、森の小径を走れば、駐車場だ。
漣が、前を向き、微かに顔を上げる。
五、六、漣が呟く。
箒に跨った魔法使い、六人が漣をにらみつけていた。
にぃぃと漣の口元が笑う。
「投降しなさい」
中央の魔法使いが漣を見下ろし言った。
漣は無言で白い自在を取り出す。
「手加減はしてやろう」
次の瞬間、中央の魔法使い、箒の後ろに立っていた。回し蹴りが見事に魔法使いを壁に放り投げる。
顔面から魔法使いが壁に激突する。
鼻っぱしらが折れた。
漣が空に浮かぶ箒の上でとんとんと箒の柄を爪先でつつく。扇型に五人の魔法使いが漣に向きなおる、背にしていた弓を引き、鏃を漣に向けていた。五本の矢が放たれた。すいっと漣は避けるが、行きすぎた矢が反転し漣に向き加速する。
「ほぉ、キューピットの矢だ。久しぶりに見たなぁ」
「どうしましょう」
洋子が焦って言う。
「しばらく遊びそうだし、君たちだけ、先に車まで送ろう」
男はよれた背広の上を片手で器用に脱ぐとすいっと空に投げる。
「あちらが魔法の箒なら、こちらは魔法の絨毯といいたいところだけれど、これでがまんしてくれ」
背広が反転し、三人を後ろから拾いあげる。
「それじゃ、後でね」
男が笑う。
三人を載せた背広が駐車場へと飛んだ。
漣はというと、気分よく箒の上でゆらゆら踊っている。五本の矢が縦横無尽に漣を貫こうとする。するすると漣が矢を擦り抜ける。
魔法使いは理解できないものを見るように呆けてそれを眺めていた。
「そろそろ行くかな」
男が呟く。そして唸る、調子が遅く早く変化する、大量の呪文を効率よく唱えるための、中間言語だ。5本の矢がすとんと下に落ち、どすんと5人の魔法使いがまっさかさまに地面に落ちた。
「なよの解呪法は効くなぁ」
男は呟くと、漣に声をかけた。
「さぁ、行くよ」

漣は箒から降りると男の前にやってきた。
「さぁ、帰ろうか」
漣が頷く。男は自在を出すと杖がわりに歩く。漣は半歩後ろ、男の後ろを歩いた。後ろからの攻撃に備えてだったが、落ちた魔法使いたちに攻撃の意思はなかった。十数年、厳しい修行を経て、やっとのことで得た魔法が一瞬の後、使うことができなくなったのである、二人の存在など、もう、彼らの頭の中にはなかった。
「お父さん、誰も攻撃してきません」
「触らぬ、なんとかには祟りなし。自分たちが干渉しなければ、無事でいることができると判断したんだろう。正解だと思うよ」

駐車場に至る木漏れ日の小径を歩く。
連は男の後ろを歩きながら思う。中肉中背、少し疲れた風のある男性、たまに無精髭の生えているときもあるが、髭は似合わないからと剃るのを心がけているようだ。ズボンの裾はよれている。師匠が言っていた。服の替えは三着、それを着回している。お洒落には程遠い。靴は底に穴が開いたら新しい靴を買う。黒が言っていた。右でも左でも履ける靴があったらいいね、そうしたら、二倍使えると言っていたと。少なくとも見た目には、とても、なんだかなぁという人だ。でも、師匠にしても、黒にしても、お父さんが大好きだという。百歩譲って、そうだ、恥ずかしそうに笑うときがある、その時はちょっと可愛いかなと思わなくでもない。それを言えば、こんなおっさんに可愛いなんて言わないでくれよと困惑するだろう。
ふと、男が小径傍の赤煉瓦の花壇に腰を降ろした、俯いている。
「どうしました、お父さん」
「ちょっとね」
男は呟くと左手で胸、心臓の辺りを押さえた。慌てて、連は男に駆け寄ると顔を覗き込んだ。男の顔が土気色をしていた。
「はしゃぎすぎたかな、かっこ悪いなぁ」
「師匠を呼びます」
連が叫んだ。
「いや、それよりも。父さんの背中、両手で押さえていてくれないかな」
慌てて、漣が男の背中を押さえる。漣の手のひらが暖かくなる、男の手のひらから、強い気が放たれ、それを漣の手のひらが返す、それによって、冷たく止まりかけた男の心臓が動き出した。
「やぁ、もう大丈夫だ。漣、ありがとう」
漣が唇を噛み締めて、ぎゅっと男を睨みつけた。
「お父さんは本当に本当にです」
言葉が続かず男を睨む。
「心配してくれて、漣、ありがとう」
男が困ったような恥ずかしそうな笑みを浮かべた。

漣は不思議に思う、男と二人、赤いブロックの花壇に腰掛けて座っている。考えてみれば、漣は、こうして男といるのは初めてのことだった。
「漣」
男が言った。
「はい」
漣は返事をすると、男に向き直った。
「街路樹の葉に日差しも和らいで、外をぼぉっと座っているのもいいもんだね。これで、あさぎのお弁当でもあったら最高だな」
「お父さんはのんびりしすぎです」
男は笑うと素直に頷いた。
「もっともだな、その上、はしゃぎすぎて死にそうになるし、かっこ悪いなぁ。でも、漣がしっかりしてくれているから安心だ」
「安心してください。骨は拾って差し上げますから」
「気が早いなぁ。うちに帰ったらおとなしくしているよ」
男が楽しそうに笑う。
漣は不思議に思う。のんびりと日向ぼっこをしているこの人は、魔女協会の大物に呪いをかけたり、空を飛んだり、あの魔法使い達を無力化してしまったり、外見とは違い凄い人なのだ。
自分をじっと見ている漣に男が気づいた。
「どうしたんだ、漣」
「お父さんがイケメンでなくて本当に良かったです」
「イケメンじゃないのは自分でもわかっているけれど、娘からまっすぐに言われるのはきついなぁ」
「でも、お父さんがイケメンだったら、師匠となよ姉さんの間で、お父さん取り合いの戦争になりますよ。世界が滅びるかもしれません」
「なるほど、戦争を未然に防げているのは父さんのお陰だ」
「はい」
男が楽しそうに笑った。
「漣は面白いことを考えるなぁ、そういえば、漣はどうして、幸を師匠と呼び続けるんだい」
「それは」
初めて、漣が口ごもり俯いた。
男はそんな漣を見て、呟いた。
「心配する必要はないよ」
男は前を向き、視線を漣から外した。
「漣がうちに来た理由は鬼と戦う力を得るためだ。で、その力は充分に得たはず」
漣が息をのんだ。
「師匠と呼ぶのは、まだ修行中ですと表すためじゃないかい、ここにいることを自分に納得させるためのさ」
男の言葉に漣が唇を噛む、顔面は蒼白だ。
男は漣に顔を向けると笑顔で言った。
「鍾馗の長がやってきたら、父さん、長の前に立ってさ、おもいっきり仰けに反って、顔を睨んで言ってやろうと思うんだ。漣は私の娘です、私の家族ですってさ。漣。父さん、そう言ってもいいかい」
「あ、ありがとうございます」
漣が身を乗り出して、男に言った。しかし、自分の大声に照れたのか、両手で自分の顔を隠す。
「うわぁ、恥ずかしいです、節操のないことを言ってしまいました」
男は笑みを浮かべると、正面を向いた。
「うちの家族は誰一人血が繋がっていない、面白いものだなぁ」
男は呟くと目をつぶる。瞼をすり抜け、柔らかな日差しが届く。ふと、影になる。
「お父さん、握手です」
漣が男の前に立ち、左手をまっすぐ男に差し出した。男も手を差しだし、手を握った。
「ありがとう。漣、これからもよろしく」
「こちらこそです。血の繋がっていない家族はたまに握手をする必要がある、お父さんが前にそう仰いました」
「そうだったね、父さんもたまには良いこというなぁ」
「たまにはです」
にっと漣が笑みを浮かべた。

もうしばらくしたら歩けるようになるからと、男が花壇の赤いブロックに座り続ける。漣はちょっと嬉しそうに男の横に座りなおした。
漣がふふんと鼻歌を歌う、こんなことは初めてだ、よほどに安心して楽しいのだろう、そして、自分が鼻歌を歌っていることに気づき、顔を赤らめ俯いた。
「漣、男はね」
「はい」
「歳をとると言わなくてもいいことを、言うようになるものなんだ 漣、鼻歌、うまいじゃないか」
「ひどいですよ、お父さんは」
一層に漣は顔を赤らめた
「そうだ、漣。小夜乃から言祝ぎ歌を教わりなさい。この歌はこれからの漣を助けてくれるだろう」
漣は小夜乃が歌をうたうのを聴いたことがある、聴いているだけで、気持ちがふわっと軽くなったのを思い出した
「言祝ぎ歌には大の歌四曲、中の歌が二十四曲、小の歌は七十二曲、合わせて百の歌がある 四季二十四節気七十二候に準えたものだ。修得の困難と地味さで、すべてを歌うことのできるのは小夜乃と父さんだけ 幸も中の歌までは覚えたんだけど、途中で飽きてしまったからさ 折角だから、師匠を越えてくれ 小夜乃と上手く和音を響かせることができれば」
男はふっと言葉を止め、後ろを振り返った
「洋子さん、警察へ向かっているようだ」
「うちに来るはずだったのでは」
「そうなんだけどね こんなわけのわからないおっさんよりも、警察に行くのが当たり前だろう、洋子さん自身、警察官でもあるからね」
漣は洋子の姿を思い出す、なにかしらの訓練を受けた人だとはおもったけれど、そうだったのかと思う。でも、それだからといって納得はいかない。
「恩知らずですよ」
「別に恩を売るつもりもないし、元々、小夜乃を誘拐しようとした人たちだからね。まぁ、いいよ」
「誘拐、そんな話は聞いていません」
「うん、言ったら、多分、漣は手伝ってくれないだろうなと思ったからさ」
男が楽しそうに笑った。
「笑い事ではありません。それを知っていれば」
「ただね、小夜乃はその三人を許してしまった、それじゃぁ、しょうがないよ」
いたずらが成功した子供のように男がにっと笑った
あきれたように漣はため息をついたが、ま、いいですと呟いた
もう一度、男が振り返る。
「おや、信号待ちで幸恵さんと詩織さんが車から飛び出した、うちに向かおうとしているようだ」
漣はふんと顔を逸らす。
「漣は二人の顔がわかるだろう、二人をうちへ連れてきてくれないかな、すぐに警察が追ってくるだろう」
「だめです。師匠からお父さんを守るよう命令を受けました」
「でも、もう助けてもらったよ」
「うちに帰るまでは命令は継続しています」
漣が向こうを向いたまま、男の上着の裾をぎゅっと握った。
「それじゃ、黒に頼むか」
漣は振り返ると大きく頷いた。
「黒はうちで一番人当たりがいいです。黒が適任です」
「漣もわかりやすいなぁ」
男は笑うとゆっくりと立ち上がった。
「三人には魔女の呪いがかかっている。薬を使った深い暗示だ。警察にその暗示を解くことができればいいんだけどね」
漣も男の上着の裾を掴んだまま、立ち上がる
お父さんを確保です」
捕まってしまったのならしょうがない、ぷらぷら、駅まで歩いて、電車乗って帰ろうか」
漣が嬉しそうに頷いた
そうだ、駅前でうどんでも食おう、あさぎには内緒でさ」
漣が満辺の笑みで、男の背中に額を押しつけた

街の中央、多くの車が行き交う、平行する歩道にもたくさんの人だ、多くの店が並び、立ち止まる人も多いため、二人、詩織と幸恵が急ごうとしても、なかなか進めない。
警官だ、二人の警官が幸恵と詩織の前に現れた、慌てて立ち止まり、振り向き方向を変えようとしたとき、二人は警官がもう二人、自分たちのすぐ後ろを追っていたことに気がついた。
「少し、お伺いしたいことがあります、署まで御同行願えますか」
警官の一人が穏やかに言った。
「あ、あの、私たち約束があるんです」
「それほど、お時間はかかりません、終われば、約束のところまでお送りいたしましょう」
警官がにこやかに笑顔を浮かべた。
ふいに女の子が二人の警官の間から顔を出した。
「お姉さんたち、詩織さんと幸恵さんかな」
おどおどと、二人がうなずいた
黒だ、黒は警官の前に出ると、二人に言った。
「お父さんからお二人をうちに連れて来てくださいって連絡をもらったから、迎えにきたんだ、さぁ、行こう」
「ちょっと、君」
警官が黒の肩を叩いた。
黒があっさりと振り返る。
「こんにちは」
黒が愛想良く微笑んだ。
「このお嬢さんたちは警察に来てもらいます。用事が済めば君のところに二人を送っていってあげるよ」
「うーん」
黒は俯き、しばらくして、顔を上げた。
「多分、おじさんは悪い人じゃないと思う。でも、おじさんは上司が悪い命令をしたとき、まっすぐ、その命令を断ることができるの」
黒がまっすぐに警官の目を見つめた。
一瞬、警官の目が泳いだ。
黒は笑みを浮かべると、警官の両手を取り、右手と左手を指を絡ませ握らせた。
「おじさんは三十分間、このまま、自分の手と手を握っていてください」
そして、隣の警官の片腕を取り、先ほどの警官の腕の間を通し、同じく、手を握らせる、あとの二人も同じく両手を握らせた。
「みんな、三十分間そのままです」
四人の警官が笑みを浮かべたまま数珠つなぎになる。
黒は詩織と幸恵の手を握ると歩きだした。
「えっと、あの、今のは」
「ただの暗示です。三十分、経てば意識を取り戻します」
「おおい、黒、ここだよ」
啓子が道路の端に停めた車の前で、手を振った。
黒は走ると、車の後ろ座席へ二人を座らせた。
「啓子さん、迎えにきてくれてありがとう」
啓子が援農用使っている古い軽バンだ。後ろの荷物置きには農作業用の道具が積まれていた。
「ついでだよ。今日は先生ちに泊まる日だからさ」
啓子がエンジンをかけ、車を走らせた。
「黒。二人はどちらさん」
「詩織さんと幸恵さん。詳しくは知らないけれど、しばらく、うちで暮らすことになると思う」
「あの、初めまして」
詩織が思い切って啓子に言った。
「初めまして。私は啓子。あんたたちもなんだか訳ありのようだね」
運転したまま、啓子が言う。
「ま、先生ちに来るなんて、余程のわけでもなきゃ、来ることもないか」
黒が楽しそうに笑った。
「啓子さんもそうだよね」
「黒もな」
啓子がにっと笑って答えた。


後日談

ほっと一息ついて、漣が窓の横、喫茶店のテーブルにつく。朝十一時からお昼二時までのランチタイム、あさぎの手伝いだ、ウエイトレスを勤め、少し暇になったこの時間、やっと椅子に座ったのだった。
あさぎが紅茶とケーキを漣のテーブルに置いた。
「お疲れさま」
「あさぎ姉さん、ありがと」
漣は座り直すと、あさぎに笑みを浮かべた。
あさぎも漣の前に座る、
「漣。なんだか、明るくなった気がするよ。お客さんとも楽しそうに喋るし」
そうかなぁ」
漣が柔らかな表情で答えた
それは小夜乃の件で、男と漣が家に帰ってきた次の日だ、男は漣を連れて鍾馗の国へ赴き、漣を正式に養女として迎える意思を長に伝えたのだった
でも、なんだか、いま、とっても、いい感じなんです」
少し恥ずかしげに漣は自分自身に語りかけるように呟いた
あさぎは漣の顔がとても柔らかくなったと思う、父さんは詳しいことは語らない、
ふと、漣は窓の外に何かの気配を感じた、いや、気のせいかもしれない、そんなとても小さな違和感だ。
「漣、お客さんだ。いや、漣のお客だ」
いつのまにか幸が漣の横で、窓から下を見下ろしていた。漣が向きを変え、幸の横で窓から下を覗きみる。
子犬だ、白い、両掌に載りそうな小さな犬がこちらに向かって座っていた。
くうん、くーうんと鼻を鳴らしている。
あさぎも窓際に寄って、見下ろした。
「なんだか、可愛い」
漣は窓から子犬を見下ろしていたが、腑に落ちないと幸に向き直った
「全く覚えがありません」
漣が幸に言う
「すべての存在には固有の振動数がある、姿形が変わってもな」
幸は、にぃぃと笑うと子犬の額を指差した。
「額に瞼があるだろう、三つ目の犬だ」
「まさか、ケルベロス」
「漣にこがれてやって来たんだろうな」

 

 

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遥の花 あさまだきの靄 一話

 

遥の花 あさまだきの靄 一話

幸はあさぎの隣でにひひと笑い呟いた.
「これは痛いや。痛い痛い」
二人は喫茶店のカウンタの後ろ、モーニングとランチの間、常連客が窓際で珈琲を飲む一人.忙しくなる少し前の時間、あさぎと幸が並んでカウンターにいたのだった。
「どうしたの」
「駅の改札を通って、こっちに向かってくる人たちがいるんだ。うちのお客様だよ」
幸がそうあさぎに答えたとき、夕子が奥からやってきた。
「そろそろ、ランチのお客様、増えてくるかなって、手伝いにきました」
「ありがとう、夕子」
あさぎが振り返り、笑いかけた.
「ね、夕子」
幸が夕子の前にかけより声をかけた.
「天使と魔女って、仲はいいの」
夕子がにこやかに答えた.
「魔に心を売った、唾棄するべき存在です.見つけたら、殲滅ですよ」
口元に笑みを浮かべたまま、ぎろっと、夕子の眼が空を睨んだ.
「幸さん。楽しい宴の始まりですか」
「訊いてみただけ。それより、お父さん、夕子を呼んでいる.かぬかと手伝いに行ってくれるかな」

幸は夕子を奥にやると、あさぎに言った。
「ちょっと、めんどくさい人たちが来る。幸が相手します」
「ありがとう、ごめんね」
「どういたしまして」
幸も笑みを浮かべると、お盆にお冷を二つ、それにメニュを載せ、歩く、ドアを開け、明るく声をかけた。
「いらっしゃいませ。どうぞ」
少し戸惑った表情を浮かべ、二人の女が入ってきた。
幸は流れるように二人を座席に座らせると、お冷を置き、メニュを年かさの女に手渡した。
あさぎは二人を見た瞬間、厨房へと戻る、距離を置いた方がいいと判断した。
四十代の女と娘だろうか十代後半の女の子、その組み合わせは特に不思議ではない。ただ、問題は二人が同じ黒のワンピースに、頭には赤色の大きなリボン、肩には黒い子猫、箒まで持っていた。
そうだ、アニメ映画で見たことがある。
「あさぎ。ウィンナー珈琲じゃ。わしが作るより、あさぎの方が美味い。不思議じゃのう、同じ材料なのに」
なよが厨房にやってきた。
「なんじゃ、どうした、あさぎ」
「あ、あの。ええっと」
どう答えたものかと、あさぎが戸惑う.ひょぃとなよが店の中を覗いた.
「これは痛いのう。片田舎の小さな街に漫画の扮装とは。痛い痛い」
なよが、遠慮なく声を張った.
すたすたと、なよはテーブルに近寄ると、空いた椅子にどかっと座った.
「あさぎ。ウィンナー珈琲はこっちに運んでくれ」
なよは年かさの女の顔を見るとにかっと笑った.
「久しいのう。魔女KS。十年ぶりか」
「かくやのなよたけの姫。なぜ、あんたがここにいる」
女の声に微かに怯えの色が滲む.
「おるもなにも、わしはここで暮らしておる.

「ならば、鐘馗の姫を強くしたのは、あんたか」
なよがにたりと笑った。
「なんのことかわからんな。しかし、あやつもうちに来た当初は大人しかったが、先日などどうじゃ、肩をおもみしますと言うたはいいが、手が滑ったと首を絞めよりおる。恐ろしいやつじゃ」
にかっとなよが声に出して笑った。
「この娘にも教えてやってくれないか」
女は立ち上がると、なよに頭を下げた。娘は硬直したように唇を引き締めている。
「ハーブティとチーズケーキです」
その場の空気を変えるように幸が声をかけた。
幸が二人の前にハーブティとケーキを並べる。三毛がウィンナー珈琲をこぼさないよう運んで来た。
「幸よ、お前はどう思う」
「そうですね。やめておいた方がいいんじゃないかな。えっと、あなたの家族構成を教えてください」
すいっと、幸が娘に尋ねた。
「は、はいっ。両親と妹が一人です」
「家族は仲がいいの」
「ふ、普通には」
幸の視線がなよに向いた。なよが頷く。
「姫は強くなり、攻めてくる鬼たちを一人で倒すことができるようになった。そして、父である王は娘の強さに恐れるようになった。疑心暗鬼、姫はそれを知ると、国から離れた。それを思うとき、正解はなんなのであろうと思う。ま、お前も必要以上の力を得ようとするな。身を滅ぼすぞ」

一瞬、娘が怯む、その瞬間、女が娘を睨んだ。
ほんの一瞬だったが、なよを幸も三毛も、あぁそういうことかと思う。
幸は一つ吐息を漏らすと、なよに言った。
「なよ姉さん。どうかな、教える可能性は九十九パーセントありませんという前提で、一週間お預かりして様子をみるの」
なよは重々しく頷くと、女に言った。
「教えてやる可能性は一パーセント。それでもよいか」
女が目を見開き頷いた。
なよが頷く。
「話は終わりじゃ。ハーブティが冷めてしまうぞ。早く飲め」

なかば追い出すように女を帰らせると、なよは娘に向き合って座った。
「どうじゃ、あさぎのハーブティとチーズケーキは美味かったであろう」
ふと、娘は緊張を忘れてぼぉっとする。それほど、あさぎのチーズケーキは美味しかった。
「お前。名前は」
「田中亜美、です」
呆れたようになよは溜息をつくと、残った珈琲を飲みほした。
「あ、あの」
なよの表情に、何がなよの機嫌を損ねたのかと慌てる。
「なよ姉さん。お客さん、増えてきたよ」
幸が声をかける。そして、幸は田中の亜美の後ろに立ち、赤色のリボンをほどいた。そして、指先を亜美の首に溶け込ませる、小さな金属の塊を取り出し握りつぶした。
「リボンと箒は預からせていただきます。あと、その黒猫の名前は」
何があったか、わからず、亜美は戸惑ったが、黒猫を抱き上げ言った。
「えっと、黒子です」
なよが耐えられず吹き出した
「幸よ。名づけのセンスはお前と同じじゃの」
「素直で良いです」
幸も笑うと、ふわっと硝子球を出す、そして、黒猫の首筋にあてた。硝子球の中が白く濁る。そして、その硝子球を消した。
なよが立ち上がった。
「さて、邪魔にならぬよう中に入ろう。幸も来い、なんといっても、お前が漣の師匠なのじゃからな」
驚いて亜美が幸を見つめた。
「この世界、目立たないのが一番だ。それに言っておく。相手を把握できないうちは、本名を名乗るな。ろくなことにならねぇぞ」
幸が笑みを浮かべたまま、囁いた。


縁側に二人座る、亜美と幸だ。
昼間、日差しがやわらかい。見渡せば、畑、その向こうは梅林だ。
鶏が目の前を通り過ぎた、草を啄んでいる。

不思議だと思うけれど、でも、不思議じゃないようにも思う。
あったかい縁側、右隣には幸という美少女、左隣には、竹取物語のかぐや姫。とりあえず、私は固まってしまっています。
「亜美自身は、そんな力、欲しいとは思ってないだろう」
幸は亜美に向き直り、笑った。
「あ、あの。いえ、そんなことは」
しどろもどろに亜美が答えた。
「つまらんのう。小物ばかりじゃ。昔の魔女はわしとやりあえる奴もおったに」
「なよ姉さん、昔っていつ頃のこと」
ふっとなよは思い出すように顔を上げる。
「江戸の初め、もう四百年ほど経つか。キリスト教、耶蘇教とゆうたか、それと一緒に魔女がこの国に入って来た。面白い奴もおったわ」
なよは少し顔を上げ、空を見る。
「今の魔女組織は組織を守ることに汲々としておるが、当時は自由な奴らが多かった」
「鬼の影響かな。鬼の勢力拡大に危機感を抱いたのか」
幸がなよに言う。
「いや。それはきっかけにしかすぎんな、魔女も人間世界に慣れ親しみ、能力が劣化した、一部がそれに危機感を抱いたんじゃろう」
なよが正面を見る。
「来たぞ」
なよが呟いた。
夕子がにこやかに笑みを浮かべ歩いてくる。
ふわっと、彼女の手に自在が現れた。
「もう、幸さんったら、だめですよ。魔女はだめなんですから」
夕子が間合いを縮めた。
「だめだよ、夕子さん」
幸が亜美を覆いかぶさるようにかばう。
「どうしてですか。こいつは魔女です」
幸は亜美を抱きしめたまま、夕子に顔を向けた。
「亜美さんは魔女にさらわれて、魔女にされそうになったのを助け出したの」
なよは笑うと、夕子に語り掛けた。
「よう見てみい。まだ、魔女の匂いが然程せぬであろう。そうじゃ、夕子、お前、清めてやれ」

「あ、あの。私、そういう趣味はなくて」
慌てて、亜美が言った。
「おでこです、痛くないから。さあ、目を瞑りなさい」
夕子は亜美に笑顔を浮かべると、亜美の肩を抱く。
亜美は夕子の笑顔に頬が紅潮する、なんて綺麗な人なんだ。視界が白一色になった。天使の羽だ、亜美は自分自身がいつの間にか大きくて白い天使の羽に包まれていることに気づいた。
なんだか、体が軽くなっていく、不思議に気持ちが楽になっていく。
「では、あさぎ姉さん手伝ってきます」
ぼぉっとしたままの亜美を後に、夕子がお店へと歩いていった。
「どうじゃ、亜美。気分が軽くなったであろう」
いたずらげになよが笑った。亜美はお腹の中に溜まっていた澱のようなものがすっと消えて、体が軽くなった気がした。なんだか、気分もいい。
ふと幸が振り返った。
「お父さん、駅まで帰ってきた。迎えに行ってくる」
幸が立ち上がって駆けだした。
戸惑っている顔をした亜美を、おもしろそうになよが笑った。
「あやつはお父さん大好きファザコンじゃ。ほおっておけ」
なよはいつものことと気にせずにいる。
「さて」
なよが呟いた。
「お前の母親は魔女のようじゃな。さっきの奴はダークローズアソシエーション、この国でいくつかある魔女の協会の中でもっとも古い魔女の集まりに属しておる」
亜美は一週間前、魔女の宅急便のキキと同じ扮装をした母親を見て、何かの冗談かと思ったことを思い出した。
そしていきなり言ったのだ。お前は魔女になるのです、高校も退学ですと。もう狂ったのかと思った、目は笑ってないのに、口元がにぃって笑っているんだ、怖かった。
「お前は自分が魔女の家系にあると知ったのはいつじゃ」
「一週間前です。っていうか、いまも理解できません」
「まぁ、そうじゃろうな。その顔では」
なよは愉快なものをみるようににたっと笑った。
「奴らはどこかでここの女が鬼の軍隊と一人ででも戦うことができることを知った。これはいい、この力を取り込みたいとお前を送り出した。お前はまったくの素人じゃが、才能だけはやたらにあるからな」
「才能っていわれても」
気弱に亜矢が答えた。
「お前が小さな頃から魔女として修行していれば、相当な能力を持った魔女になったであろうに、なぜ、今頃になって魔女にしようとしたのか。妹はとっくの昔に魔女であるのにのう」
「妹、えっ、亜紀を知っているんですか」
なよはあきれたように亜矢の膝を指さした。膝の上には猫の形をした、木製のマリオネットが転がっていた。
「う、うわっ。黒子、黒子が人形になってる」
「正確には人形に戻っているじゃ」
なよは亜矢の言葉を訂正すると、すいっと亜矢の目を見つめた。
「幸がそれから魂を抜き取った、だから元の人形に戻った。お前の妹は幸のポケットの中で眠っておるわい」
そして、にぃっと笑うと言葉を続けた。
「魔女として妹御はたびたびにおいて、お前を見張っておったのじゃろうな。面白い家族じゃ」
亜矢は何か確かだったはずのものが、ぐらぐらと崩れていくように思った、なんだか、気を失ってしまいそうだ。
「なよ姉様、いじめはだめですよ」
漣が戻って来、茫然としている亜矢を見つけて言った。
「戻ってきたか、漣。ちょうどいい、漣にも関わりがある話じゃ、ついでにわしの話を拝聴せい」
「嫌というとうるさいので喜んで拝聴させていただきます」
漣が座りなおし、なよの前に正座した。
「一言多い奴じゃのう。まぁよい」
なよはにやっと笑う。
「こ奴は田中亜矢、魔女見習い。漣、お前の活躍を知った魔女たちが、強くしてくれと放り込んできたのが亜矢じゃ。お前、先輩としてどう思う」
亜矢は漣の居抜くようなまなざしに、あぁ、自分はなぜここにいるのだろうと思う。本当だったら、まだ、午前の授業中だったのに。
「人にしては破格の才能を有していますけれど、それを使う技術はないようですね。悪いことは言いません、普通に生きていかれることをお勧めします」
「まぁ、そう思うわな」
なよが小さく吐息を漏らした。
「ところが、こやつの母親と妹が既に魔女であるからのう、何も覚えずに帰ってきましたとはいかんのじゃ」
「簡単ではありませんか」
漣が戸惑うことなく答えた。
「魔女とやらを皆殺しにしてきてあげましょう」
すいっと漣が自在を空から引き出した。
「亜矢さんでしたか、ご家族の顔を教えてください。ご家族は半殺しで済ませるよう努力いたします」
漣が綾の目を見据えたまま言う。
「え、あ。いえ、あの」
亜矢が口ごもった。
「なんじゃ、びびっとるのか。茶を飲む時間で漣は仕事を済ませてくれるぞ」
にぃぃとなよが笑った。

「おや。かわいいお客様ですね」
幸乃が亜矢の顔を覗き込んでいた。
「幸乃。今日は父さんの体の中に潜り込んではおらんのか」
いつの間にかいた幸乃になよが驚いた。
「お父様に追い出されてしまいました。仕方ないので、今日一日は開放してさしあげるつもりです」
幸乃が笑みを浮かべる。なんて綺麗な人だ、亜矢が今の自分の立場も忘れて幸乃に見とれていた。
「そいつは亜矢、魔女見習いじゃ。魔女が送り込んで来おった。修行させてやってくれとな」
なよの言葉にすっと幸乃が亜矢を見つめた。
「亜矢さん」
「は、はいっ」
亜矢の声がうわずった。
「なよは意地悪ですが、本当は心のよい者です。なよに頼りなさい。もともと、あなたはなよと縁もあるのですから」
「そ、そうします」
見とれながら亜矢が脊髄反射のように答えた。
幸乃はそっと頷くと部屋を出て行った。
なよが瞬きせず亜矢を見つめていた。
「縁とな」
ふと、なよは表情をかえ、亜矢の左手首を掴んだ。
「古くはなっておるが、護り髪がある。これは・・・。亜矢、お前は爪原妙子とはどういう関係じゃ」
「え、あの。おばぁちゃんです。えっと、お父さんのお母さんで」
漣が興味深そうになよの顔をのぞき込んだ。
「その人とはお知り合いですか」
「ん。わしの弟子じゃ。智里は娘と思うておるし、ここ百年ほどで、唯一人の人間の弟子じゃ。十年ほど前に亡くなったがな」

「どんな方だったんですか」
漣がなよに尋ねた。
「和名を妙子。山窩の女。山を駆ける狩猟民族じゃ、なかでも、あやつはまじないをなし、人の国から、角のある鬼の国を横切ってわしのもとにやってきおった」
「人の身で鬼の国を突き進むというのは驚きですね」
「その亜矢と同じくらいの年格好じゃ。わしも面白いと思ったからな、一年間下女としてこき使って、その後、二年間、じっくり教えてやった。亜矢よ、妙子は幸せに暮らしたのか」
「祖母は私が中学生の頃、亡くなりました。やさしい人だったけれど、あまり思い出せないんです」
亜矢が唇をかみ、俯いた。
なよは興味深そうに亜矢の顔を見つめた。ふっと、右手を伸ばすと、亜矢の頭に手をやり、数度、髪を払う。
「妙子よ、もう、よい。亜矢の記憶を返してやれ、すべてはわしに任せろ」
いきなり、亜矢は這いつくばると、なよの足元に額を擦り付けた。
「かぐやのなよたけの姫様。これは、私の孫、亜矢にございます。息子が魔女にたぶらかされ、なよたけの姫様の術を孫を通して取り込もうといたしました。若ければ、魔女など叩き斬ってやるのですが、私も歳をとり、それができませぬ」
「顔を上げよ、妙子」
まるで別人のようにしっかりとした表情で、亜矢がなよを見つめていた。
「久しいのう、妙子。お前の孫、亜矢については、すべてをわしに任せよ。安心して、この世との繋がりを解き、次の命を生きよ。いずれまた、どこかで出会おうぞ」
「妙子は幸せ者でございます」
亜矢が感極まったような号泣する。ゆっくりと泣き声が消えていき、気の抜けた表情の亜矢が顔を上げていた。
「たくさん、思い出しました。祖母について修行したこと、祖母の山窩のまじないも。とても、やさしい祖母だったことも。祖母の願いであるなら、母や妹と戦うことも厭いません」
「極端な奴じゃのう、妙子とそっくりじゃ。ま、気楽にいけ、親子同士で戦うなど言うでないわ」
飽きれたように、なよは言うと、軽く亜矢の頭を叩く。
「幸い、幸い。亜矢が幸せでありますように」

「なよ姉さぁん。お昼ご飯だよ」
黒が台所からやってきた。
「おう、忘れておったわい」
亜矢が黒の声に振り返った。
「え、えっ、黒さま」
驚いて、亜矢が叫んだ。
「えっと、田中さん」
黒が戸惑うように呟いた。

 

 

るんるるん、にかにか、笑いがどうしてもこぼれてしまう。
食卓、亜矢は黒の隣の椅子に腰掛けた。お昼ご飯だ、自然に顔が笑いだし、両膝がリズムを刻む。
憧れの黒様の隣に座っているのだ。
長机を並べての昼ご飯。
「暢気な奴じゃのう、記憶が甦った途端、さばさばとしおって」
向かいに座るなよが亜矢の様子に呆れて言った。
「えへへっ、そんなことありませんです。母と戦うなんて、身を切られるように辛いです」
「それが、にかにかと笑って言う台詞か」
呆れたようになよが呟いた。
「それはしょうがありませんわ」
白が口を挟んだ。
「だって、亜矢は桜花淑女隊の一人ですから」
「なんじゃ、それは」
「黒姉を男から護り、同時に抜け駆けを許さない鉄の結束を持つ集団です」
「なんと、黒は宝塚のスターじゃのう」
黒が辛そうに答えた。
「あんまり、そういうの好きじゃないから」
喜々として、亜矢が言う。
「黒様に近づこうという輩は制裁あるのみですよ」
「なんじゃ、殴ったりするのか」
「いいえ、お嬢様学校ですよ。口の制裁です。何十人もで取り囲んで、悪口を言い続けます。どんな奴でも、一時間もすれば、しゃがみ込んで泣き出します」
呆れたようになよが大きく溜息をついた。
「幸も鬼をそれで引きこもりにし、まだ、そいつは外へは出てきておらん。陰湿じゃなぁ」
すっと、幸が亜矢の肩を後ろから抱き、頬を寄せて囁いた。
「亜矢。黒に様をつけて呼ぶのをやめてくれよ」
亜矢の背中がぞくっと震えた。ねっとりと纏つくような言葉が自分の首を絞めるように思えたのだ。
「あ、あの」
息切れしてうまく声が出せない。
「黒は普通の女の子だ。そうあたしが育てた。ちょっと、スポーツが得意で頭もいい、でもごく普通の女の子なんだよ。わかるか」
「は、はひっ」
歯が震えてうまく言えない。
「だからさ、様付けで呼ばれたりすると、本人は辛いわけだ。自分自身は普通の女の子なのに、様付けしようとする廻りとの評価の差に苦しむんだ。だからさ、亜矢、黒って呼んでやってくれよ」
だめだ、息ができない、過呼吸ってやつだ。
「だめだよ、母さん」
黒が亜矢の様子を見て、慌てて幸に言った。
ふっと、亜矢の体が軽くなった。気づけば、なよの隣に幸がにぃと笑って座っていた。
「ごめんね、母さん的には冗談の延長なんだけど」
「い、いいえ。大丈夫です。あの、えっと、く、黒、心配してくれてありがとう」
そっと、亜矢が幸の顔を上目遣いに見る。
「どういたしまして、亜矢」
ほっとしたように、黒が答えた。
え、これってどういうこと。亜矢って黒様が呼んでくれた。これって、黒様に名前を覚えていただいたってこと、様を付けないって、これって友達ってこと、え、あの、黒様と友達、えっ、親友ってことなの。
「やったぁ」
いきなり、亜矢が立ち上がり大声を上げた。
「にぎやかな奴じゃのう、改めて記憶を封印した方が良いかもしれんな。記憶が封印されて気弱な亜矢の方が扱いが楽そうじゃ」
「ごめんなさい」
慌てて、亜矢が椅子に座りなおした。
「考えてみれば、亜矢よ。お前、母親に高校を退学にされたのではなかったか。いや、残念なことじゃのう」
いたずらげになよが笑った。
亜矢が目を見開いた。
「うわあぁつ、そうだった。天国から地獄へ直下降だ。許すまじ、母さんめ。この恨み晴らさでか」
悲鳴のような大声を上げる。
「面白いのう、亜矢は。おもちゃのようじゃな。ま、復学はわしに任せておけ。黒と共に登校すればよいわ」
なよの言葉にぶわっと亜矢の頭の中で妄想が膨らむ。
黒と一緒に手を繋いで学校に行く、黒ってばもう、早く起きないからだよ、学校、遅れるよぉ
「うおぉぉっ。これは凄い」
思わず、亜矢の呻き声が漏れた。
慌てて、廻りを見回し俯く。
亜矢は興奮が醒めて、少し考える。
漣さんは多分、必要とあれば人を殺すことに戸惑いはないだろう、師匠という幸さんもそうだ。ここで、自分は共同生活をうまく送っていけるのか、へんなこと言ったら、すとんって首を落とされてしまうかも知れない、そう思うとさすがに亜矢も泣き出しそうになった。
後ろから誰かが肩を叩いた。
「どうしましたか」
振り返ると自分と同じくらいの背格好だろうか、エプロンをした女の子が優しく微笑んでいた。
「亜矢、初めまして。あかねといいます。なんだか、お悩みの様子ですけど、不安なことがあれば、遠慮なく言葉にする方がいいですよ、言葉にしなければ伝わりません」
「あ、あの」
亜矢が、怯えたように口を噤む。あかねは少しうつむき考える、そして顔を上げた。
「今までとは違う環境で亜矢は過ごすことになりますが」
あかねはなよと幸を指さし、亜矢に笑みを浮かべた。
「この二人以外は常識人ですし、この二人以外は人との距離感も理解していますから」
「なんじゃ、あかねよ。わしほどの常識人はおらんぞ」
「御自身で常識人などというのが、そうではない証拠ですよ」
あかねが嬉しそうに笑った。
なよの横で幸も笑う。
「なんじゃ、幸。お前も謗られておるのじゃぞ」
「日常生活に問題がなければ、常識はそれほどいらないかなぁと幸は思う」
「お前の言う常識とあかねの言う常識はちと違うわい」
なよは憮然としたが、落ち着いて亜矢に言った。
「お前はわしの弟子の孫でもある、ならば、ちょっとくらいは優しくしてやるわい。怯えるでないわ」
あかねが亜矢の両肩に手を載せる。
「なよ姉さんもこう言っているから大丈夫ですよ。それにほら」
あかねが顔を上げ、お味噌汁を味見している小夜乃に目をやった。
「亜矢」
「はい」
「お味噌汁の子がなよ姉さんの娘、小夜乃です。小夜乃と仲良くしていれば、なよ姉さん対策は万全です。幸姉さんについては黒と仲良くしていれば、幸姉さんや漣対策は問題ありません」
「あ、ありがとうございます」
感激して亜矢が礼を言う。
なよが割って入った。
「あかね対策はどうするぞ。なかなか、難しい奴じゃぞ」
「私ですか」
あかねが少し首を傾げた。
「私は武術とかよくわかりませんし、不器用ですから手品も出来ません」
そうきたかとなよは思ったが、亜矢のことを考えるといまはこのままでいいかと考え直した。ふっと、幸があかねに声をかけた。
「爺さんだ、こっちに向かっている。あと十分ってとこかな。あかね、何かあったの」
「もめ事には関わりたくはないのですけど」
思案げにあかねは少し俯いたが顔を上げると、にっと笑った。
「あかねは佳奈さんちに逃げます。お爺さまがいらっしゃいましたら、何処かに逃げたとお伝えください」
幸が頷く、あかねは台所に戻ると、いくつかおにぎり握り小皿に移した漬け物をお皿ごと、風呂敷に包みそそくさと出ていった。
幸が立ち上がる。
今週の食事当番は小夜乃とかぬかと男だ、男が味噌汁の大鍋の取っ手を持った瞬間、幸が飛ぶように男の元に寄ると、もう片方の取っ手を掴んだ。
「ありがとう、幸」
「どういたしまして」

食卓横のテーブルに味噌汁の大鍋を置く。男が向こう側一番端に座るのを見送り、幸が元の椅子に座った。
亜矢がおおっと息をのんで幸の振る舞いを見ていた。
まるっきり、純真無垢な、花畑で花冠を作っていそうな、そんな笑顔の素敵な美少女だった、先ほどのねとつくような脅しを仕掛けた相手とは思えない。
「凄いであろう、亜矢」
亜矢の思いを察してなよがにんまりと笑った。
「ま、とにかく、あかねと父さんは普通の人間じゃ。虐めるでないぞ」
亜矢は声を出せず、ただ、こくこくと頷いた。
小夜乃が長机の食卓に山盛りの漬け物の大皿を三枚並べる。かぬかが、器用に大きなおひつを二つ抱えテーブルにどんと置いた。
「お昼ご飯、出来たよ」
黒が立ち上がり、亜矢を促した。
「一緒にご飯、食べよ」
極上の黒の笑みに、亜矢は見とれたが、黒に遅れてはと急いで立ち上がった。

「亜矢は妙子から教わった呪術を覚えておるようじゃ。わしがそれに磨きをかけよう。幸は体術を教えてやれ」
「わかった」
なよの言葉に幸は頷くと、一口、味噌汁を啜った。しっかりと出汁が利いていて美味しい。
「なよ姉さん。小夜乃の味付け、随分、美味しくなった。これで、いつでも嫁に行けるな」
「どの時代のおっさんの台詞じゃ」
なよも小夜乃が誉められると嬉しいらしく、にかっと笑みを浮かべた。
「かぬかは炭水化物系が上達しているし、あさぎ姉さんの指導の賜かな」
あさぎが慌てて首を振った。
「かぬかが頑張っているからだよ」
あさぎがかぬかに笑いかけた。
「あ、ありがとう」
少し頬を赤く染めてかぬかが礼を言う。もしもできるならとかぬかは思う。
お店の隣で、定食屋ができればいいなと。術の修行もしなければならないけれど、やっぱり料理を作っている時が一番楽しい。

ふと、亜矢が気づいた。
「あの。幸乃さんが」
亜矢は幸乃の姿が見えないことに気がついた。
「なんじゃ。幸乃は父さんの、部屋におる」
なよは、父さんの中にと言いかけたが、部屋と言い換えた。
「一緒にご飯は」
「亜矢よ。お前、幸乃をどう見た」
「あの、えっと。とても綺麗な人で、透き通るような涼しげな感じで、優しくて、えっと、とても素敵な人でした」
なよがわざとらしく溜息をつき、亜矢を睨んだ。
「透き通るようなではなく、実際、透けて後ろの壁が見えておったであろうが」
そういえばと、亜矢がそのときの様子を思い出した。
「呪いをかけられたのじゃ」
なよが重々しく答えた。
「え、呪い」
なよは頷くと、じっと亜矢の目を見つめた。
「一人は半分透けて、もう一人はというと、子供に戻ってしもうた。幸乃と幸は一卵性の双子じゃ」
なよが真面目な顔をして適当なことを言う。
「ええっ」
亜矢が目を見開いて幸を見つめた。
「なよ姉さん、それはもう言わないで」
幸が調子を合わせて言った。
「いつか、きっと元に戻ることができる、そう信じているから」
心細げな幸の言葉になよは重く溜息をつくと、ゆっくりと頷いた。
「亜矢よ。この話は終わりじゃ、お前も忘れろ。それから、幸乃の前では、透明、幽霊、そういった言葉は禁句じゃ。幸乃を傷つけてしまうからな」
なよの悪ふざけだが、亜矢は感じいって、素直に口を噤んだ。
ひょっとして、私はこの呪いから幸乃さんを救い出すためにここにやってきたのではないだろうか、真の運命の扉を開けるために。
亜矢はこういう発想をする女の子だった。

「邪魔をするぞ」
店の方から鬼紙老の声が響いた。
「見てきます」
三毛が立ち上がった。

三毛が鬼紙老を連れてくる、幸は立ち上がり、にぃっと笑いかけた。
「爺さんはここに座れ。深刻な話はなよ姉さんが担当だ」
幸は台所でおにぎりを作り、お椀にお味噌汁を注ぐとお盆に載せた。
幸が店にでると、平次が入り口で直立不動の姿で立っている。
「こら、平次」
「師匠」
怯えを隠しきれず、平次の声が微かにうわずった
「可愛い女の子が健気に頑張っているアットホームが売りの店だぞ。むさいおっさんが表から見えるところに立つな」
幸は怒鳴ると、平次を手で招く。
「申し訳ありません」
平次は駆け寄るとカウンターに背を屈め座った。
平次は東京支社長とここで修行をした、そのせいで幸には到底かなわないことを理解していた。
「昼飯まだだろう。聞きたいこともある、遠慮せずに食え」
幸が平次の前におにぎりと味噌汁を差し出した。
「いえ、あ、あの」
「同じ言葉を繰り返させる気か」
幸が睨む、慌てて、平次がおにぎりを頬張った。
幸は平次の斜め前に座る。かなりの男嫌いである、息がかかるのもいやなわけだ。
「修行は続けているか」
慌てて、平次は食べかけていたおにぎりを飲み込んだ。

 

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なみゆい


googleは、あまり好きではないのですが、google翻訳を利用しています。
作者 朽身揺歯

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目次


異形

異形 流堰迷子は天へと落ちていく

異形 雨夜閑話

異形 月の竹 眠るモノ

異形 撃

異形 漣

異形 月の糸

遥の花 藍の天蓋

遥の花 あさまだきの靄


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