遥の花 あさまだきの靄 二話

遥の花 あさまだきの靄 二話

るんるるん、にかにか、笑いがどうしてもこぼれてしまう。

食卓、亜矢は黒の隣の椅子に腰掛けた。お昼ご飯だ、自然に顔が笑いだし、両膝がリズムを刻む。
憧れの黒様の隣に座っているのだ。
長机を並べての昼ご飯。
「暢気な奴じゃのう、記憶が甦った途端、さばさばとしおって」
向かいに座るなよが亜矢の様子に呆れて言った。
「えへへっ、そんなことありませんです。母と戦うなんて、身を切られるように辛いです」
「それが、にかにかと笑って言う台詞か」
呆れたようになよが呟いた。
「それはしょうがありませんわ」
白が口を挟んだ。
「だって、亜矢は桜花淑女隊の一人ですから」
「なんじゃ、それは」
「黒姉を男から護り、同時に抜け駆けを許さない鉄の結束を持つ集団です」
「なんと、黒は宝塚のスターじゃのう」
黒が辛そうに答えた。
「あんまり、そういうの好きじゃないから」
喜々として、亜矢が言う。
「黒様に近づこうという輩は制裁あるのみですよ」
「なんじゃ、殴ったりするのか」
「いいえ、お嬢様学校ですよ。口の制裁です。何十人もで取り囲んで、悪口を言い続けます。どんな奴でも、一時間もすれば、しゃがみ込んで泣き出します」
呆れたようになよが大きく溜息をついた。
「幸も鬼をそれで引きこもりにし、まだ、そいつは外へは出てきておらん。陰湿じゃなぁ」
すっと、幸が亜矢の肩を後ろから抱き、頬を寄せて囁いた。
「亜矢。黒に様をつけて呼ぶのをやめてくれよ」
亜矢の背中がぞくっと震えた。ねっとりと纏つくような言葉が自分の首を絞めるように思えたのだ。
「あ、あの」
息切れしてうまく声が出せない。
「黒は普通の女の子だ。そうあたしが育てた。ちょっと、スポーツが得意で頭もいい、でもごく普通の女の子なんだよ。わかるか」
「は、はひっ」
歯が震えてうまく言えない。
「だからさ、様付けで呼ばれたりすると、本人は辛いわけだ。自分自身は普通の女の子なのに、様付けしようとする廻りとの評価の差に苦しむんだ。だからさ、亜矢、黒って呼んでやってくれよ」
だめだ、息ができない、過呼吸ってやつだ。
「だめだよ、母さん」
黒が亜矢の様子を見て、慌てて幸に言った。
ふっと、亜矢の体が軽くなった。気づけば、なよの隣に幸がにぃと笑って座っていた。
「ごめんね、母さん的には冗談の延長なんだけど」
「い、いいえ。大丈夫です。あの、えっと、く、黒、心配してくれてありがとう」
そっと、亜矢が幸の顔を上目遣いに見る。
「どういたしまして、亜矢」
ほっとしたように、黒が答えた。
え、これってどういうこと。亜矢って黒様が呼んでくれた。これって、黒様に名前を覚えていただいたってこと、様を付けないって、これって友達ってこと、え、あの、黒様と友達、えっ、親友ってことなの。
「やったぁ」
いきなり、亜矢が立ち上がり大声を上げた。
「にぎやかな奴じゃのう、改めて記憶を封印した方が良いかもしれんな。記憶が封印されて気弱な亜矢の方が扱いが楽そうじゃ」
「ごめんなさい」
慌てて、亜矢が椅子に座りなおした。
「考えてみれば、亜矢よ。お前、母親に高校を退学にされたのではなかったか。いや、残念なことじゃのう」
いたずらげになよが笑った。
亜矢が目を見開いた。
「うわあぁつ、そうだった。天国から地獄へ直下降だ。許すまじ、母さんめ。この恨み晴らさでか」
悲鳴のような大声を上げる。
「面白いのう、亜矢は。おもちゃのようじゃな。ま、復学はわしに任せておけ。黒と共に登校すればよいわ」
なよの言葉にぶわっと亜矢の頭の中で妄想が膨らむ。
黒と一緒に手を繋いで学校に行く、黒ってばもう、早く起きないからだよ、学校、遅れるよぉ
「うおぉぉっ。これは凄い」
思わず、亜矢の呻き声が漏れた。
慌てて、廻りを見回し俯く。
亜矢は興奮が醒めて、少し考える。
漣さんは多分、必要とあれば人を殺すことに戸惑いはないだろう、師匠という幸さんもそうだ。ここで、自分は共同生活をうまく送っていけるのか、へんなこと言ったら、すとんって首を落とされてしまうかも知れない、そう思うとさすがに亜矢も泣き出しそうになった。
後ろから誰かが肩を叩いた。
「どうしましたか」
振り返ると自分と同じくらいの背格好だろうか、エプロンをした女の子が優しく微笑んでいた。
「亜矢、初めまして。あかねといいます。なんだか、お悩みの様子ですけど、不安なことがあれば、遠慮なく言葉にする方がいいですよ、言葉にしなければ伝わりません」
「あ、あの」
亜矢が、怯えたように口を噤む。あかねは少しうつむき考える、そして顔を上げた。
「今までとは違う環境で亜矢は過ごすことになりますが」
あかねはなよと幸を指さし、亜矢に笑みを浮かべた。
「この二人以外は常識人ですし、この二人以外は人との距離感も理解していますから」
「なんじゃ、あかねよ。わしほどの常識人はおらんぞ」
「御自身で常識人などというのが、そうではない証拠ですよ」
あかねが嬉しそうに笑った。
なよの横で幸も笑う。
「なんじゃ、幸。お前も謗られておるのじゃぞ」
「日常生活に問題がなければ、常識はそれほどいらないかなぁと幸は思う」
「お前の言う常識とあかねの言う常識はちと違うわい」
なよは憮然としたが、落ち着いて亜矢に言った。
「お前はわしの弟子の孫でもある、ならば、ちょっとくらいは優しくしてやるわい。怯えるでないわ」
あかねが亜矢の両肩に手を載せる。
「なよ姉さんもこう言っているから大丈夫ですよ。それにほら」
あかねが顔を上げ、お味噌汁を味見している小夜乃に目をやった。
「亜矢」
「はい」
「お味噌汁の子がなよ姉さんの娘、小夜乃です。小夜乃と仲良くしていれば、なよ姉さん対策は万全です。幸姉さんについては黒と仲良くしていれば、幸姉さんや漣対策は問題ありません」
「あ、ありがとうございます」
感激して亜矢が礼を言う。
なよが割って入った。
「あかね対策はどうするぞ。なかなか、難しい奴じゃぞ」
「私ですか」
あかねが少し首を傾げた。
「私は武術とかよくわかりませんし、不器用ですから手品も出来ません」
そうきたかとなよは思ったが、亜矢のことを考えるといまはこのままでいいかと考え直した。ふっと、幸があかねに声をかけた。
「爺さんだ、こっちに向かっている。あと十分ってとこかな。あかね、何かあったの」
「もめ事には関わりたくはないのですけど」
思案げにあかねは少し俯いたが顔を上げると、にっと笑った。
「あかねは佳奈さんちに逃げます。お爺さまがいらっしゃいましたら、何処かに逃げたとお伝えください」
幸が頷く、あかねは台所に戻ると、いくつかおにぎり握り小皿に移した漬け物をお皿ごと、風呂敷に包みそそくさと出ていった。
幸が立ち上がる。
今週の食事当番は小夜乃とかぬかと男だ、男が味噌汁の大鍋の取っ手を持った瞬間、幸が飛ぶように男の元に寄ると、もう片方の取っ手を掴んだ。
「ありがとう、幸」
「どういたしまして」

食卓横のテーブルに味噌汁の大鍋を置く。男が向こう側一番端に座るのを見送り、幸が元の椅子に座った。
亜矢がおおっと息をのんで幸の振る舞いを見ていた。
まるっきり、純真無垢な、花畑で花冠を作っていそうな、そんな笑顔の素敵な美少女だった、先ほどのねとつくような脅しを仕掛けた相手とは思えない。
「凄いであろう、亜矢」
亜矢の思いを察してなよがにんまりと笑った。
「ま、とにかく、あかねと父さんは普通の人間じゃ。虐めるでないぞ」
亜矢は声を出せず、ただ、こくこくと頷いた。
小夜乃が長机の食卓に山盛りの漬け物の大皿を三枚並べる。かぬかが、器用に大きなおひつを二つ抱えテーブルにどんと置いた。
「お昼ご飯、出来たよ」
黒が立ち上がり、亜矢を促した。
「一緒にご飯、食べよ」
極上の黒の笑みに、亜矢は見とれたが、黒に遅れてはと急いで立ち上がった。

「亜矢は妙子から教わった呪術を覚えておるようじゃ。わしがそれに磨きをかけよう。幸は体術を教えてやれ」
「わかった」
なよの言葉に幸は頷くと、一口、味噌汁を啜った。しっかりと出汁が利いていて美味しい。
「なよ姉さん。小夜乃の味付け、随分、美味しくなった。これで、いつでも嫁に行けるな」
「どの時代のおっさんの台詞じゃ」
なよも小夜乃が誉められると嬉しいらしく、にかっと笑みを浮かべた。
「かぬかは炭水化物系が上達しているし、あさぎ姉さんの指導の賜かな」
あさぎが慌てて首を振った。
「かぬかが頑張っているからだよ」
あさぎがかぬかに笑いかけた。
「あ、ありがとう」
少し頬を赤く染めてかぬかが礼を言う。もしもできるならとかぬかは思う。
お店の隣で、定食屋ができればいいなと。術の修行もしなければならないけれど、やっぱり料理を作っている時が一番楽しい。

ふと、亜矢が気づいた。
「あの。幸乃さんが」
亜矢は幸乃の姿が見えないことに気がついた。
「なんじゃ。幸乃は父さんの、部屋におる」
なよは、父さんの中にと言いかけたが、部屋と言い換えた。
「一緒にご飯は」
「亜矢よ。お前、幸乃をどう見た」
「あの、えっと。とても綺麗な人で、透き通るような涼しげな感じで、優しくて、えっと、とても素敵な人でした」
なよがわざとらしく溜息をつき、亜矢を睨んだ。
「透き通るようなではなく、実際、透けて後ろの壁が見えておったであろうが」
そういえばと、亜矢がそのときの様子を思い出した。
「呪いをかけられたのじゃ」
なよが重々しく答えた。
「え、呪い」
なよは頷くと、じっと亜矢の目を見つめた。
「一人は半分透けて、もう一人はというと、子供に戻ってしもうた。幸乃と幸は一卵性の双子じゃ」
なよが真面目な顔をして適当なことを言う。
「ええっ」
亜矢が目を見開いて幸を見つめた。
「なよ姉さん、それはもう言わないで」
幸が調子を合わせて言った。
「いつか、きっと元に戻ることができる、そう信じているから」
心細げな幸の言葉になよは重く溜息をつくと、ゆっくりと頷いた。
「亜矢よ。この話は終わりじゃ、お前も忘れろ。それから、幸乃の前では、透明、幽霊、そういった言葉は禁句じゃ。幸乃を傷つけてしまうからな」
なよの悪ふざけだが、亜矢は感じいって、素直に口を噤んだ。
ひょっとして、私はこの呪いから幸乃さんを救い出すためにここにやってきたのではないだろうか、真の運命の扉を開けるために。
亜矢はこういう発想をする女の子だった。

「邪魔をするぞ」
店の方から鬼紙老の声が響いた。
「見てきます」
三毛が立ち上がった。

三毛が鬼紙老を連れてくる、幸は立ち上がり、にぃっと笑いかけた。
「爺さんはここに座れ。深刻な話はなよ姉さんが担当だ」
幸は台所でおにぎりを作り、お椀にお味噌汁を注ぐとお盆に載せた。
幸が店にでると、平次が入り口で直立不動の姿で立っている。
「こら、平次」
「師匠」
怯えを隠しきれず、平次の声が微かにうわずった
「可愛い女の子が健気に頑張っているアットホームが売りの店だぞ。むさいおっさんが表から見えるところに立つな」
幸は怒鳴ると、平次を手で招く。
「申し訳ありません」
平次は駆け寄るとカウンターに背を屈め座った。
平次は東京支社長とここで修行をした、そのせいで幸には到底かなわないことを理解していた。
「昼飯まだだろう。聞きたいこともある、遠慮せずに食え」
幸が平次の前におにぎりと味噌汁を差し出した。
「いえ、あ、あの」
「同じ言葉を繰り返させる気か」
幸が睨む、慌てて、平次がおにぎりを頬張った。
幸は平次の斜め前に座る。かなりの男嫌いである、息がかかるのもいやなわけだ。
「修行は続けているか」
慌てて、平次は食べかけていたおにぎりを飲み込んだ。

「続けさせていただいています」
修行時、散々、平次は幸に脅されていた。
「鬼紙老は何しに来た」
「そ。それは」
平次が言いよどんだ。
「なんだ。師匠に話せないのか」
「申し訳ありません。私は鬼紙です」
緊張し、目を瞑る。 幸がにぃいと笑った。
「まぁ、いいさ。なよ姉さんが鬼紙老から話を聴いている。あかねの母親が鬼紙家から逃げ出した。仕方ないさ、免疫がないからな」
驚いて平次が幸を見つめた。
「分かりやすい奴だな、お前は」
幸は笑うと、言葉を続けた。
「鬼紙家は男が跡を継ぐ決まりだ。だから、男の子には早い段階から家の暗部を教える、逆に女の子は他家に嫁ぎ鬼紙から離れるから、暗部を教えず蝶よ花よと育てる。鬼紙家次期当主に居座るにはかなりの覚悟が必要だが、ま、逃げ出すのも無理はない。いまは亭主も子供も捨て、マンション住まい、本人も二度と鬼紙家に戻るつもりはないだろう」
「しかし、それでは鬼紙家が途絶えてしまいます、あかね様ならば鬼紙家を継ぐ器量がございます」
ふっと、あかねが平次の後ろに立った。そして、嫌そうな表情を浮かべ、手を横に振る。
「あかねは私の可愛い妹だ、鬼紙家を継がせるわけにはいかないな」
平次の後ろであかねがうんうんと大きく頷いた。
「しかし、それでは鬼紙家が」
「鬼紙家は男が継ぐ。あかねの弟、長男がいたろう、そいつを跡取りになるようしっかり育てればいいだろう」
そうだそうだと口を動かし、あかねが頷く。
「確かにそれはそうなのですが」
「鬼紙老はあかねを溺愛しているからな。あかねは可愛いし、頭もよい、その上、人を引きつける魅力もある」
あかねが平次の後ろで頭を抱えた。
「話は付けたぞ」
いつの間にか、なよが平次の前に立っていた。
「鬼紙家は長男が継ぐ、ただし、長男はまだ小さな子供じゃ、数人の補佐を取り付ける、あかねは、必要とあらば、不定期に助言をすればよい。大筋はそんなところじゃ」
あかねが嫌そうな顔をし、ぱたぱたと手を横に振る。
「まぁ、大事なお爺様のためなら、あかねは喜んで尽力をつくすであろう」
にかにか、笑いながらなよが言う。あかねの動きが面白くて仕方がないのだ。
「数人の補佐ってどうするの」
幸が尋ねた。
「わしが鬼紙家に乗り込み、これはというのを選ぶ」
なよが自信満々に答えた。
「それじゃあ、その間、亜矢は」
「ふむ。連れていこうと思う。亜矢はもう家にはもどれんであろう、ならば、鬼紙にもいくらか知見を得ておくのもよいであろう」
「なよ姉さん。用心棒代わりに三毛を連れていってくれないかな」
「なんじゃ、幸も気になるのか」
「多分、三毛は人にもっと関わる方がいい こんなんでも母親ですから、人並みに我が子の心配くらいはしますわ」
茶化すように幸は答えたが、本心でもあった。
「わかった、そうしよう」
なよは頷くと、平次を見据えた。
「平次よ、わしと二人の会わせて三人。夕方には鬼紙家に行き、二、三日逗留する。旨い酒と肴を忘れるな」
「承知しました」
平次はなよが屋敷にやってくるという不安はあったが、それ以上になよの手腕を期待した。

「さて」
なよがにかっと笑った。
「あかねの珍妙な創作ダンスも楽しめた。部屋に戻り、旅の支度でもするかのう」
驚いて、平次が振り返る。店を飛び出すあかねの後ろ姿だけが見えた。


特急列車に乗り換える。 自由席、亜矢は走り込むと、座席を確保した、なよが窓側に座り、その向かいを三毛、その隣りに亜矢が座った。 にたにたとなよが笑う、片手には日本酒一升瓶をしっかり掴んでいた。
「列車の旅はよいのう」 
「なよ姉さん、気をつけないと」
三毛が心配そうに言った。

 

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遥の花 あさまだきの靄 一話

 

遥の花 あさまだきの靄 一話

幸はあさぎの隣でにひひと笑い呟いた.
「これは痛いや。痛い痛い」
二人は喫茶店のカウンタの後ろ、モーニングとランチの間、常連客が窓際で珈琲を飲む一人.忙しくなる少し前の時間、あさぎと幸が並んでカウンターにいたのだった。
「どうしたの」
「駅の改札を通って、こっちに向かってくる人たちがいるんだ。うちのお客様だよ」
幸がそうあさぎに答えたとき、夕子が奥からやってきた。
「そろそろ、ランチのお客様、増えてくるかなって、手伝いにきました」
「ありがとう、夕子」
あさぎが振り返り、笑いかけた.
「ね、夕子」
幸が夕子の前にかけより声をかけた.
「天使と魔女って、仲はいいの」
夕子がにこやかに答えた.
「魔に心を売った、唾棄するべき存在です.見つけたら、殲滅ですよ」
口元に笑みを浮かべたまま、ぎろっと、夕子の眼が空を睨んだ.
「幸さん。楽しい宴の始まりですか」
「訊いてみただけ。それより、お父さん、夕子を呼んでいる.かぬかと手伝いに行ってくれるかな」

幸は夕子を奥にやると、あさぎに言った。
「ちょっと、めんどくさい人たちが来る。幸が相手します」
「ありがとう、ごめんね」
「どういたしまして」
幸も笑みを浮かべると、お盆にお冷を二つ、それにメニュを載せ、歩く、ドアを開け、明るく声をかけた。
「いらっしゃいませ。どうぞ」
少し戸惑った表情を浮かべ、二人の女が入ってきた。
幸は流れるように二人を座席に座らせると、お冷を置き、メニュを年かさの女に手渡した。
あさぎは二人を見た瞬間、厨房へと戻る、距離を置いた方がいいと判断した。
四十代の女と娘だろうか十代後半の女の子、その組み合わせは特に不思議ではない。ただ、問題は二人が同じ黒のワンピースに、頭には赤色の大きなリボン、肩には黒い子猫、箒まで持っていた。
そうだ、アニメ映画で見たことがある。
「あさぎ。ウィンナー珈琲じゃ。わしが作るより、あさぎの方が美味い。不思議じゃのう、同じ材料なのに」
なよが厨房にやってきた。
「なんじゃ、どうした、あさぎ」
「あ、あの。ええっと」
どう答えたものかと、あさぎが戸惑う.ひょぃとなよが店の中を覗いた.
「これは痛いのう。片田舎の小さな街に漫画の扮装とは。痛い痛い」
なよが、遠慮なく声を張った.
すたすたと、なよはテーブルに近寄ると、空いた椅子にどかっと座った.
「あさぎ。ウィンナー珈琲はこっちに運んでくれ」
なよは年かさの女の顔を見るとにかっと笑った.
「久しいのう。魔女KS。十年ぶりか」
「かくやのなよたけの姫。なぜ、あんたがここにいる」
女の声に微かに怯えの色が滲む.
「おるもなにも、わしはここで暮らしておる.

「ならば、鐘馗の姫を強くしたのは、あんたか」
なよがにたりと笑った。
「なんのことかわからんな。しかし、あやつもうちに来た当初は大人しかったが、先日などどうじゃ、肩をおもみしますと言うたはいいが、手が滑ったと首を絞めよりおる。恐ろしいやつじゃ」
にかっとなよが声に出して笑った。
「この娘にも教えてやってくれないか」
女は立ち上がると、なよに頭を下げた。娘は硬直したように唇を引き締めている。
「ハーブティとチーズケーキです」
その場の空気を変えるように幸が声をかけた。
幸が二人の前にハーブティとケーキを並べる。三毛がウィンナー珈琲をこぼさないよう運んで来た。
「幸よ、お前はどう思う」
「そうですね。やめておいた方がいいんじゃないかな。えっと、あなたの家族構成を教えてください」
すいっと、幸が娘に尋ねた。
「は、はいっ。両親と妹が一人です」
「家族は仲がいいの」
「ふ、普通には」
幸の視線がなよに向いた。なよが頷く。
「姫は強くなり、攻めてくる鬼たちを一人で倒すことができるようになった。そして、父である王は娘の強さに恐れるようになった。疑心暗鬼、姫はそれを知ると、国から離れた。それを思うとき、正解はなんなのであろうと思う。ま、お前も必要以上の力を得ようとするな。身を滅ぼすぞ」

一瞬、娘が怯む、その瞬間、女が娘を睨んだ。
ほんの一瞬だったが、なよを幸も三毛も、あぁそういうことかと思う。
幸は一つ吐息を漏らすと、なよに言った。
「なよ姉さん。どうかな、教える可能性は九十九パーセントありませんという前提で、一週間お預かりして様子をみるの」
なよは重々しく頷くと、女に言った。
「教えてやる可能性は一パーセント。それでもよいか」
女が目を見開き頷いた。
なよが頷く。
「話は終わりじゃ。ハーブティが冷めてしまうぞ。早く飲め」

なかば追い出すように女を帰らせると、なよは娘に向き合って座った。
「どうじゃ、あさぎのハーブティとチーズケーキは美味かったであろう」
ふと、娘は緊張を忘れてぼぉっとする。それほど、あさぎのチーズケーキは美味しかった。
「お前。名前は」
「田中亜美、です」
呆れたようになよは溜息をつくと、残った珈琲を飲みほした。
「あ、あの」
なよの表情に、何がなよの機嫌を損ねたのかと慌てる。
「なよ姉さん。お客さん、増えてきたよ」
幸が声をかける。そして、幸は田中の亜美の後ろに立ち、赤色のリボンをほどいた。そして、指先を亜美の首に溶け込ませる、小さな金属の塊を取り出し握りつぶした。
「リボンと箒は預からせていただきます。あと、その黒猫の名前は」
何があったか、わからず、亜美は戸惑ったが、黒猫を抱き上げ言った。
「えっと、黒子です」
なよが耐えられず吹き出した
「幸よ。名づけのセンスはお前と同じじゃの」
「素直で良いです」
幸も笑うと、ふわっと硝子球を出す、そして、黒猫の首筋にあてた。硝子球の中が白く濁る。そして、その硝子球を消した。
なよが立ち上がった。
「さて、邪魔にならぬよう中に入ろう。幸も来い、なんといっても、お前が漣の師匠なのじゃからな」
驚いて亜美が幸を見つめた。
「この世界、目立たないのが一番だ。それに言っておく。相手を把握できないうちは、本名を名乗るな。ろくなことにならねぇぞ」
幸が笑みを浮かべたまま、囁いた。


縁側に二人座る、亜美と幸だ。
昼間、日差しがやわらかい。見渡せば、畑、その向こうは梅林だ。
鶏が目の前を通り過ぎた、草を啄んでいる。

不思議だと思うけれど、でも、不思議じゃないようにも思う。
あったかい縁側、右隣には幸という美少女、左隣には、竹取物語のかぐや姫。とりあえず、私は固まってしまっています。
「亜美自身は、そんな力、欲しいとは思ってないだろう」
幸は亜美に向き直り、笑った。
「あ、あの。いえ、そんなことは」
しどろもどろに亜美が答えた。
「つまらんのう。小物ばかりじゃ。昔の魔女はわしとやりあえる奴もおったに」
「なよ姉さん、昔っていつ頃のこと」
ふっとなよは思い出すように顔を上げる。
「江戸の初め、もう四百年ほど経つか。キリスト教、耶蘇教とゆうたか、それと一緒に魔女がこの国に入って来た。面白い奴もおったわ」
なよは少し顔を上げ、空を見る。
「今の魔女組織は組織を守ることに汲々としておるが、当時は自由な奴らが多かった」
「鬼の影響かな。鬼の勢力拡大に危機感を抱いたのか」
幸がなよに言う。
「いや。それはきっかけにしかすぎんな、魔女も人間世界に慣れ親しみ、能力が劣化した、一部がそれに危機感を抱いたんじゃろう」
なよが正面を見る。
「来たぞ」
なよが呟いた。
夕子がにこやかに笑みを浮かべ歩いてくる。
ふわっと、彼女の手に自在が現れた。
「もう、幸さんったら、だめですよ。魔女はだめなんですから」
夕子が間合いを縮めた。
「だめだよ、夕子さん」
幸が亜美を覆いかぶさるようにかばう。
「どうしてですか。こいつは魔女です」
幸は亜美を抱きしめたまま、夕子に顔を向けた。
「亜美さんは魔女にさらわれて、魔女にされそうになったのを助け出したの」
なよは笑うと、夕子に語り掛けた。
「よう見てみい。まだ、魔女の匂いが然程せぬであろう。そうじゃ、夕子、お前、清めてやれ」

「あ、あの。私、そういう趣味はなくて」
慌てて、亜美が言った。
「おでこです、痛くないから。さあ、目を瞑りなさい」
夕子は亜美に笑顔を浮かべると、亜美の肩を抱く。
亜美は夕子の笑顔に頬が紅潮する、なんて綺麗な人なんだ。視界が白一色になった。天使の羽だ、亜美は自分自身がいつの間にか大きくて白い天使の羽に包まれていることに気づいた。
なんだか、体が軽くなっていく、不思議に気持ちが楽になっていく。
「では、あさぎ姉さん手伝ってきます」
ぼぉっとしたままの亜美を後に、夕子がお店へと歩いていった。
「どうじゃ、亜美。気分が軽くなったであろう」
いたずらげになよが笑った。亜美はお腹の中に溜まっていた澱のようなものがすっと消えて、体が軽くなった気がした。なんだか、気分もいい。
ふと幸が振り返った。
「お父さん、駅まで帰ってきた。迎えに行ってくる」
幸が立ち上がって駆けだした。
戸惑っている顔をした亜美を、おもしろそうになよが笑った。
「あやつはお父さん大好きファザコンじゃ。ほおっておけ」
なよはいつものことと気にせずにいる。
「さて」
なよが呟いた。
「お前の母親は魔女のようじゃな。さっきの奴はダークローズアソシエーション、この国でいくつかある魔女の協会の中でもっとも古い魔女の集まりに属しておる」
亜美は一週間前、魔女の宅急便のキキと同じ扮装をした母親を見て、何かの冗談かと思ったことを思い出した。
そしていきなり言ったのだ。お前は魔女になるのです、高校も退学ですと。もう狂ったのかと思った、目は笑ってないのに、口元がにぃって笑っているんだ、怖かった。
「お前は自分が魔女の家系にあると知ったのはいつじゃ」
「一週間前です。っていうか、いまも理解できません」
「まぁ、そうじゃろうな。その顔では」
なよは愉快なものをみるようににたっと笑った。
「奴らはどこかでここの女が鬼の軍隊と一人ででも戦うことができることを知った。これはいい、この力を取り込みたいとお前を送り出した。お前はまったくの素人じゃが、才能だけはやたらにあるからな」
「才能っていわれても」
気弱に亜矢が答えた。
「お前が小さな頃から魔女として修行していれば、相当な能力を持った魔女になったであろうに、なぜ、今頃になって魔女にしようとしたのか。妹はとっくの昔に魔女であるのにのう」
「妹、えっ、亜紀を知っているんですか」
なよはあきれたように亜矢の膝を指さした。膝の上には猫の形をした、木製のマリオネットが転がっていた。
「う、うわっ。黒子、黒子が人形になってる」
「正確には人形に戻っているじゃ」
なよは亜矢の言葉を訂正すると、すいっと亜矢の目を見つめた。
「幸がそれから魂を抜き取った、だから元の人形に戻った。お前の妹は幸のポケットの中で眠っておるわい」
そして、にぃっと笑うと言葉を続けた。
「魔女として妹御はたびたびにおいて、お前を見張っておったのじゃろうな。面白い家族じゃ」
亜矢は何か確かだったはずのものが、ぐらぐらと崩れていくように思った、なんだか、気を失ってしまいそうだ。
「なよ姉様、いじめはだめですよ」
漣が戻って来、茫然としている亜矢を見つけて言った。
「戻ってきたか、漣。ちょうどいい、漣にも関わりがある話じゃ、ついでにわしの話を拝聴せい」
「嫌というとうるさいので喜んで拝聴させていただきます」
漣が座りなおし、なよの前に正座した。
「一言多い奴じゃのう。まぁよい」
なよはにやっと笑う。
「こ奴は田中亜矢、魔女見習い。漣、お前の活躍を知った魔女たちが、強くしてくれと放り込んできたのが亜矢じゃ。お前、先輩としてどう思う」
亜矢は漣の居抜くようなまなざしに、あぁ、自分はなぜここにいるのだろうと思う。本当だったら、まだ、午前の授業中だったのに。
「人にしては破格の才能を有していますけれど、それを使う技術はないようですね。悪いことは言いません、普通に生きていかれることをお勧めします」
「まぁ、そう思うわな」
なよが小さく吐息を漏らした。
「ところが、こやつの母親と妹が既に魔女であるからのう、何も覚えずに帰ってきましたとはいかんのじゃ」
「簡単ではありませんか」
漣が戸惑うことなく答えた。
「魔女とやらを皆殺しにしてきてあげましょう」
すいっと漣が自在を空から引き出した。
「亜矢さんでしたか、ご家族の顔を教えてください。ご家族は半殺しで済ませるよう努力いたします」
漣が綾の目を見据えたまま言う。
「え、あ。いえ、あの」
亜矢が口ごもった。
「なんじゃ、びびっとるのか。茶を飲む時間で漣は仕事を済ませてくれるぞ」
にぃぃとなよが笑った。

「おや。かわいいお客様ですね」
幸乃が亜矢の顔を覗き込んでいた。
「幸乃。今日は父さんの体の中に潜り込んではおらんのか」
いつの間にかいた幸乃になよが驚いた。
「お父様に追い出されてしまいました。仕方ないので、今日一日は開放してさしあげるつもりです」
幸乃が笑みを浮かべる。なんて綺麗な人だ、亜矢が今の自分の立場も忘れて幸乃に見とれていた。
「そいつは亜矢、魔女見習いじゃ。魔女が送り込んで来おった。修行させてやってくれとな」
なよの言葉にすっと幸乃が亜矢を見つめた。
「亜矢さん」
「は、はいっ」
亜矢の声がうわずった。
「なよは意地悪ですが、本当は心のよい者です。なよに頼りなさい。もともと、あなたはなよと縁もあるのですから」
「そ、そうします」
見とれながら亜矢が脊髄反射のように答えた。
幸乃はそっと頷くと部屋を出て行った。
なよが瞬きせず亜矢を見つめていた。
「縁とな」
ふと、なよは表情をかえ、亜矢の左手首を掴んだ。
「古くはなっておるが、護り髪がある。これは・・・。亜矢、お前は爪原妙子とはどういう関係じゃ」
「え、あの。おばぁちゃんです。えっと、お父さんのお母さんで」
漣が興味深そうになよの顔をのぞき込んだ。
「その人とはお知り合いですか」
「ん。わしの弟子じゃ。智里は娘と思うておるし、ここ百年ほどで、唯一人の人間の弟子じゃ。十年ほど前に亡くなったがな」

「どんな方だったんですか」
漣がなよに尋ねた。
「和名を妙子。山窩の女。山を駆ける狩猟民族じゃ、なかでも、あやつはまじないをなし、人の国から、角のある鬼の国を横切ってわしのもとにやってきおった」
「人の身で鬼の国を突き進むというのは驚きですね」
「その亜矢と同じくらいの年格好じゃ。わしも面白いと思ったからな、一年間下女としてこき使って、その後、二年間、じっくり教えてやった。亜矢よ、妙子は幸せに暮らしたのか」
「祖母は私が中学生の頃、亡くなりました。やさしい人だったけれど、あまり思い出せないんです」
亜矢が唇をかみ、俯いた。
なよは興味深そうに亜矢の顔を見つめた。ふっと、右手を伸ばすと、亜矢の頭に手をやり、数度、髪を払う。
「妙子よ、もう、よい。亜矢の記憶を返してやれ、すべてはわしに任せろ」
いきなり、亜矢は這いつくばると、なよの足元に額を擦り付けた。
「かぐやのなよたけの姫様。これは、私の孫、亜矢にございます。息子が魔女にたぶらかされ、なよたけの姫様の術を孫を通して取り込もうといたしました。若ければ、魔女など叩き斬ってやるのですが、私も歳をとり、それができませぬ」
「顔を上げよ、妙子」
まるで別人のようにしっかりとした表情で、亜矢がなよを見つめていた。
「久しいのう、妙子。お前の孫、亜矢については、すべてをわしに任せよ。安心して、この世との繋がりを解き、次の命を生きよ。いずれまた、どこかで出会おうぞ」
「妙子は幸せ者でございます」
亜矢が感極まったような号泣する。ゆっくりと泣き声が消えていき、気の抜けた表情の亜矢が顔を上げていた。
「たくさん、思い出しました。祖母について修行したこと、祖母の山窩のまじないも。とても、やさしい祖母だったことも。祖母の願いであるなら、母や妹と戦うことも厭いません」
「極端な奴じゃのう、妙子とそっくりじゃ。ま、気楽にいけ、親子同士で戦うなど言うでないわ」
飽きれたように、なよは言うと、軽く亜矢の頭を叩く。
「幸い、幸い。亜矢が幸せでありますように」

「なよ姉さぁん。お昼ご飯だよ」
黒が台所からやってきた。
「おう、忘れておったわい」
亜矢が黒の声に振り返った。
「え、えっ、黒さま」
驚いて、亜矢が叫んだ。
「えっと、田中さん」
黒が戸惑うように呟いた。

 

 

るんるるん、にかにか、笑いがどうしてもこぼれてしまう。
食卓、亜矢は黒の隣の椅子に腰掛けた。お昼ご飯だ、自然に顔が笑いだし、両膝がリズムを刻む。
憧れの黒様の隣に座っているのだ。
長机を並べての昼ご飯。
「暢気な奴じゃのう、記憶が甦った途端、さばさばとしおって」
向かいに座るなよが亜矢の様子に呆れて言った。
「えへへっ、そんなことありませんです。母と戦うなんて、身を切られるように辛いです」
「それが、にかにかと笑って言う台詞か」
呆れたようになよが呟いた。
「それはしょうがありませんわ」
白が口を挟んだ。
「だって、亜矢は桜花淑女隊の一人ですから」
「なんじゃ、それは」
「黒姉を男から護り、同時に抜け駆けを許さない鉄の結束を持つ集団です」
「なんと、黒は宝塚のスターじゃのう」
黒が辛そうに答えた。
「あんまり、そういうの好きじゃないから」
喜々として、亜矢が言う。
「黒様に近づこうという輩は制裁あるのみですよ」
「なんじゃ、殴ったりするのか」
「いいえ、お嬢様学校ですよ。口の制裁です。何十人もで取り囲んで、悪口を言い続けます。どんな奴でも、一時間もすれば、しゃがみ込んで泣き出します」
呆れたようになよが大きく溜息をついた。
「幸も鬼をそれで引きこもりにし、まだ、そいつは外へは出てきておらん。陰湿じゃなぁ」
すっと、幸が亜矢の肩を後ろから抱き、頬を寄せて囁いた。
「亜矢。黒に様をつけて呼ぶのをやめてくれよ」
亜矢の背中がぞくっと震えた。ねっとりと纏つくような言葉が自分の首を絞めるように思えたのだ。
「あ、あの」
息切れしてうまく声が出せない。
「黒は普通の女の子だ。そうあたしが育てた。ちょっと、スポーツが得意で頭もいい、でもごく普通の女の子なんだよ。わかるか」
「は、はひっ」
歯が震えてうまく言えない。
「だからさ、様付けで呼ばれたりすると、本人は辛いわけだ。自分自身は普通の女の子なのに、様付けしようとする廻りとの評価の差に苦しむんだ。だからさ、亜矢、黒って呼んでやってくれよ」
だめだ、息ができない、過呼吸ってやつだ。
「だめだよ、母さん」
黒が亜矢の様子を見て、慌てて幸に言った。
ふっと、亜矢の体が軽くなった。気づけば、なよの隣に幸がにぃと笑って座っていた。
「ごめんね、母さん的には冗談の延長なんだけど」
「い、いいえ。大丈夫です。あの、えっと、く、黒、心配してくれてありがとう」
そっと、亜矢が幸の顔を上目遣いに見る。
「どういたしまして、亜矢」
ほっとしたように、黒が答えた。
え、これってどういうこと。亜矢って黒様が呼んでくれた。これって、黒様に名前を覚えていただいたってこと、様を付けないって、これって友達ってこと、え、あの、黒様と友達、えっ、親友ってことなの。
「やったぁ」
いきなり、亜矢が立ち上がり大声を上げた。
「にぎやかな奴じゃのう、改めて記憶を封印した方が良いかもしれんな。記憶が封印されて気弱な亜矢の方が扱いが楽そうじゃ」
「ごめんなさい」
慌てて、亜矢が椅子に座りなおした。
「考えてみれば、亜矢よ。お前、母親に高校を退学にされたのではなかったか。いや、残念なことじゃのう」
いたずらげになよが笑った。
亜矢が目を見開いた。
「うわあぁつ、そうだった。天国から地獄へ直下降だ。許すまじ、母さんめ。この恨み晴らさでか」
悲鳴のような大声を上げる。
「面白いのう、亜矢は。おもちゃのようじゃな。ま、復学はわしに任せておけ。黒と共に登校すればよいわ」
なよの言葉にぶわっと亜矢の頭の中で妄想が膨らむ。
黒と一緒に手を繋いで学校に行く、黒ってばもう、早く起きないからだよ、学校、遅れるよぉ
「うおぉぉっ。これは凄い」
思わず、亜矢の呻き声が漏れた。
慌てて、廻りを見回し俯く。
亜矢は興奮が醒めて、少し考える。
漣さんは多分、必要とあれば人を殺すことに戸惑いはないだろう、師匠という幸さんもそうだ。ここで、自分は共同生活をうまく送っていけるのか、へんなこと言ったら、すとんって首を落とされてしまうかも知れない、そう思うとさすがに亜矢も泣き出しそうになった。
後ろから誰かが肩を叩いた。
「どうしましたか」
振り返ると自分と同じくらいの背格好だろうか、エプロンをした女の子が優しく微笑んでいた。
「亜矢、初めまして。あかねといいます。なんだか、お悩みの様子ですけど、不安なことがあれば、遠慮なく言葉にする方がいいですよ、言葉にしなければ伝わりません」
「あ、あの」
亜矢が、怯えたように口を噤む。あかねは少しうつむき考える、そして顔を上げた。
「今までとは違う環境で亜矢は過ごすことになりますが」
あかねはなよと幸を指さし、亜矢に笑みを浮かべた。
「この二人以外は常識人ですし、この二人以外は人との距離感も理解していますから」
「なんじゃ、あかねよ。わしほどの常識人はおらんぞ」
「御自身で常識人などというのが、そうではない証拠ですよ」
あかねが嬉しそうに笑った。
なよの横で幸も笑う。
「なんじゃ、幸。お前も謗られておるのじゃぞ」
「日常生活に問題がなければ、常識はそれほどいらないかなぁと幸は思う」
「お前の言う常識とあかねの言う常識はちと違うわい」
なよは憮然としたが、落ち着いて亜矢に言った。
「お前はわしの弟子の孫でもある、ならば、ちょっとくらいは優しくしてやるわい。怯えるでないわ」
あかねが亜矢の両肩に手を載せる。
「なよ姉さんもこう言っているから大丈夫ですよ。それにほら」
あかねが顔を上げ、お味噌汁を味見している小夜乃に目をやった。
「亜矢」
「はい」
「お味噌汁の子がなよ姉さんの娘、小夜乃です。小夜乃と仲良くしていれば、なよ姉さん対策は万全です。幸姉さんについては黒と仲良くしていれば、幸姉さんや漣対策は問題ありません」
「あ、ありがとうございます」
感激して亜矢が礼を言う。
なよが割って入った。
「あかね対策はどうするぞ。なかなか、難しい奴じゃぞ」
「私ですか」
あかねが少し首を傾げた。
「私は武術とかよくわかりませんし、不器用ですから手品も出来ません」
そうきたかとなよは思ったが、亜矢のことを考えるといまはこのままでいいかと考え直した。ふっと、幸があかねに声をかけた。
「爺さんだ、こっちに向かっている。あと十分ってとこかな。あかね、何かあったの」
「もめ事には関わりたくはないのですけど」
思案げにあかねは少し俯いたが顔を上げると、にっと笑った。
「あかねは佳奈さんちに逃げます。お爺さまがいらっしゃいましたら、何処かに逃げたとお伝えください」
幸が頷く、あかねは台所に戻ると、いくつかおにぎり握り小皿に移した漬け物をお皿ごと、風呂敷に包みそそくさと出ていった。
幸が立ち上がる。
今週の食事当番は小夜乃とかぬかと男だ、男が味噌汁の大鍋の取っ手を持った瞬間、幸が飛ぶように男の元に寄ると、もう片方の取っ手を掴んだ。
「ありがとう、幸」
「どういたしまして」

食卓横のテーブルに味噌汁の大鍋を置く。男が向こう側一番端に座るのを見送り、幸が元の椅子に座った。
亜矢がおおっと息をのんで幸の振る舞いを見ていた。
まるっきり、純真無垢な、花畑で花冠を作っていそうな、そんな笑顔の素敵な美少女だった、先ほどのねとつくような脅しを仕掛けた相手とは思えない。
「凄いであろう、亜矢」
亜矢の思いを察してなよがにんまりと笑った。
「ま、とにかく、あかねと父さんは普通の人間じゃ。虐めるでないぞ」
亜矢は声を出せず、ただ、こくこくと頷いた。
小夜乃が長机の食卓に山盛りの漬け物の大皿を三枚並べる。かぬかが、器用に大きなおひつを二つ抱えテーブルにどんと置いた。
「お昼ご飯、出来たよ」
黒が立ち上がり、亜矢を促した。
「一緒にご飯、食べよ」
極上の黒の笑みに、亜矢は見とれたが、黒に遅れてはと急いで立ち上がった。

「亜矢は妙子から教わった呪術を覚えておるようじゃ。わしがそれに磨きをかけよう。幸は体術を教えてやれ」
「わかった」
なよの言葉に幸は頷くと、一口、味噌汁を啜った。しっかりと出汁が利いていて美味しい。
「なよ姉さん。小夜乃の味付け、随分、美味しくなった。これで、いつでも嫁に行けるな」
「どの時代のおっさんの台詞じゃ」
なよも小夜乃が誉められると嬉しいらしく、にかっと笑みを浮かべた。
「かぬかは炭水化物系が上達しているし、あさぎ姉さんの指導の賜かな」
あさぎが慌てて首を振った。
「かぬかが頑張っているからだよ」
あさぎがかぬかに笑いかけた。
「あ、ありがとう」
少し頬を赤く染めてかぬかが礼を言う。もしもできるならとかぬかは思う。
お店の隣で、定食屋ができればいいなと。術の修行もしなければならないけれど、やっぱり料理を作っている時が一番楽しい。

ふと、亜矢が気づいた。
「あの。幸乃さんが」
亜矢は幸乃の姿が見えないことに気がついた。
「なんじゃ。幸乃は父さんの、部屋におる」
なよは、父さんの中にと言いかけたが、部屋と言い換えた。
「一緒にご飯は」
「亜矢よ。お前、幸乃をどう見た」
「あの、えっと。とても綺麗な人で、透き通るような涼しげな感じで、優しくて、えっと、とても素敵な人でした」
なよがわざとらしく溜息をつき、亜矢を睨んだ。
「透き通るようなではなく、実際、透けて後ろの壁が見えておったであろうが」
そういえばと、亜矢がそのときの様子を思い出した。
「呪いをかけられたのじゃ」
なよが重々しく答えた。
「え、呪い」
なよは頷くと、じっと亜矢の目を見つめた。
「一人は半分透けて、もう一人はというと、子供に戻ってしもうた。幸乃と幸は一卵性の双子じゃ」
なよが真面目な顔をして適当なことを言う。
「ええっ」
亜矢が目を見開いて幸を見つめた。
「なよ姉さん、それはもう言わないで」
幸が調子を合わせて言った。
「いつか、きっと元に戻ることができる、そう信じているから」
心細げな幸の言葉になよは重く溜息をつくと、ゆっくりと頷いた。
「亜矢よ。この話は終わりじゃ、お前も忘れろ。それから、幸乃の前では、透明、幽霊、そういった言葉は禁句じゃ。幸乃を傷つけてしまうからな」
なよの悪ふざけだが、亜矢は感じいって、素直に口を噤んだ。
ひょっとして、私はこの呪いから幸乃さんを救い出すためにここにやってきたのではないだろうか、真の運命の扉を開けるために。
亜矢はこういう発想をする女の子だった。

「邪魔をするぞ」
店の方から鬼紙老の声が響いた。
「見てきます」
三毛が立ち上がった。

三毛が鬼紙老を連れてくる、幸は立ち上がり、にぃっと笑いかけた。
「爺さんはここに座れ。深刻な話はなよ姉さんが担当だ」
幸は台所でおにぎりを作り、お椀にお味噌汁を注ぐとお盆に載せた。
幸が店にでると、平次が入り口で直立不動の姿で立っている。
「こら、平次」
「師匠」
怯えを隠しきれず、平次の声が微かにうわずった
「可愛い女の子が健気に頑張っているアットホームが売りの店だぞ。むさいおっさんが表から見えるところに立つな」
幸は怒鳴ると、平次を手で招く。
「申し訳ありません」
平次は駆け寄るとカウンターに背を屈め座った。
平次は東京支社長とここで修行をした、そのせいで幸には到底かなわないことを理解していた。
「昼飯まだだろう。聞きたいこともある、遠慮せずに食え」
幸が平次の前におにぎりと味噌汁を差し出した。
「いえ、あ、あの」
「同じ言葉を繰り返させる気か」
幸が睨む、慌てて、平次がおにぎりを頬張った。
幸は平次の斜め前に座る。かなりの男嫌いである、息がかかるのもいやなわけだ。
「修行は続けているか」
慌てて、平次は食べかけていたおにぎりを飲み込んだ。

 

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異形 流堰迷子は天へと落ちていく 四話

男、死ぬ

「幸は世界で一番幸せな女の子だと思うよ」
幸は男の膝を枕に横になる、晩秋の小春日和、お昼前。
縁台に座る男の膝に頭を預け、広がる畑を眺めた。畑の向こうに時々白い影が動く、子山羊が三匹、草をはんでいるのだ。
秋野菜、緑色が広がる収穫前の一時。
「頑張って世話をしてたからね、幸は」
「ううん、今の幸せは、幸がお父さんにひざ枕をしてもらっているっていうこと、そして、お父さんも世界で一番幸せなお父さんなのです」
「父さんもか」
「そう、可愛い娘のひざ枕ができるなんて、こんな幸せなことはないよ」
男はくすぐったそうに笑った。
「幸、父さんを幸せにしてくれてありがとう」
「どういたしまして」
幸はにひひと子供っぽく笑うと、ぱたぱたと足を振る。

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異形 流堰迷子は天へと落ちていく 三話

鬼紙老とあかね

「お父さんは、あかねちゃんの父親を連れてきて。幸はちょっと遊んでくるよ」
門柱の手前に男と幸とあかねが立っていた。通りの向こうからやってくるのはあかねの父親、大きめの旅行鞄を転がしやって来る、治療が功を奏したのか、血色も良いようだ。
ただ、あかねの父親の後ろには。

「あれって、気づいていないのかなぁ」
幸が愉快で仕方ないと低く笑う。

「気づかないし、彼は先天的に影響を受けにくい人なんだよ」

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異形 流堰迷子は天へと落ちていく 一話

短編幻想小説『異形』の続編です

月曜日 18 7月 2011 at 12:42 pm.

瀟洒なホテルのラウンジ、碧のドレスを見に纏った女が一人、カウンターにいた。深い海の色をしたカクテルを前に、物憂げに頬杖をついている。
若い男が一人、何げない仕草で女の隣に座った。
「君の瞳はどうして虚ろなんだい」
女はふっと顔を男に向けた。
赤くひいた唇が妖艶な気配を漂わせる美しい女だった。
「好きな男が席を外している、それだけのこと」
「君みたいな素敵な女の子を独りにしておくなんて信じられないな」
女は吐息を漏らすと、男を軽く睨んだ。
「そこさ、あたしの待ち人の席なんだ。外してくれないかな」

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異形 流堰迷子は天へと落ちていく 二話

あかねの思いは

月曜日 18 7月 2011 at 2:49 pm.

「母さんにも困ったもんだなぁ」
幸は笑うと、洋品店の女主人を布団から助け起こした。
旅から帰ったことを佳奈に報告した、その時、幸は佳奈から洋品店の女主人が寝込んでいると聞き、シャッターの裏側、店の奥の寝室へ女主人を見舞いに来たのだった。
幸は女主人を布団に座らせると、頭からゆっくりとマッサージを始めた。
「母さん、ちょっと痩せたね。礼子さんに心配させちゃだめだよ」
「あの子も学校が忙しいからね、あたしのことなんざ、気にもかけちゃいないよ」
娘が二人、次女は結婚して家を出たが、長女の礼子は、未婚で、女主人と一緒に暮らしているのだった、しかし、勤めている高校が忙しく、ほとんど、家にいることができずにいた。

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異形 撃 二話

あかねが背中の女の子をのぞき込む。すやすや眠っている、小学校二、三年か、ただ、幸の子供の頃は間違いなく、こんな美少女であったに違いないと思う。そう、幸姉さんにそっくりだ。
「どれどれ」
なよは疲れ果てたように呻くと、立ち上がり、男の背中をのぞき込んだ。
「あぁ、あ」
と、なよは思わず声に出す、そして、大きく溜息をつくと、いきなり、女の子の頭をすこんと右手ではたいた。
「狸寝入りするな、幸」
「ててっ、ごめん、なよ姉さぁん」
子供になってしまった幸は照れ笑いのような表情をなよに浮かべた。

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異形 撃 一話

娘3人、学校へ通う。学園物語にする予定はないけれど

日曜日 30 10月 2011 at 11:30 pm.

「あれは」
男が小さく呟いた。
夕刻、中学校から帰る白の姿だ、友人だろう、同じ制服を着た女の子と公園のベンチでお喋りを楽しんでいる。
男は白の世界が少しずつ広がって行くのを感じた。
学校に通わせたのは正解だったかなと思う。
黒が中学三年、三毛は一年、白が二年と一年ずつずらしたのだが、黒と三毛は出席日数を計算し、出来るだけ学校に行かないようしている。同い年の人間が嫌いなようだ。白だけが、医者になるのを目指し、真面目に学校へと通っていたのだった。
男は少し笑みを浮かべると背を向けた。

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異形漣 五話

各駅停車の電車、七人がけの椅子の中程に、漣、その両脇を幸とあかねが座った。
約束の日の一日前の朝、三人は本家へと向かっていた。
「幸姉さん。漣さんを返すのは明日なのに、どうして」
「明日じゃ、間に合わないからね」
幸は本家の方角を眺めると、にぃぃっと笑った。
「相変わらずの当主だなぁ」
恐縮したように漣が言った。
「幸師匠。こんなにしてまでいただき、申し訳ありません」
幸は気楽に笑うと背もたれに背を預けた。
「本家の不手際だ。幸はこれでも当主の姪だからな」
あかねが不思議そうな顔をした。
「あのおっさん。なにかしでかしたのですか」
「した」
幸は一言言うと、目を瞑った。

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異形 漣 竹林にて

両腕を組み、鼻歌など口ずさみながら竹林の小径を歩く。
黒と三毛を従え、なよはにかっと嬉しそうに笑みを浮かべた。
「あさぎが作ってくれた弁当に日本酒、言うことないのう」
三毛が辺りをうかがいながら、なよに言った。
「なよ姉さんはお気楽すぎます」
「三毛の生真面目にも困ったもんじゃ。青い空、小春日和の風、沢山の敵、言うことないではないか」
「でも、なよ姉さん」
黒が気配を探ろうと半眼のまま、囁いた。
「かなり強いよ。数え切れないくらいだ」
「惑わされるな、黒」
なよは一升瓶を掲げ、空の青を映す。

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異形漣 四話

血だらけになった男を仰向けに寝かせ、幸は豊饒の歌を囁きながら、その体に両手を入れる、男の体は液体になったかのようにその両手を受け入れていく。
一心不乱になった幸の表情は深く沈み、窓からの月明かりだけが幸の横顔を照らす。
大丈夫だよ、お父さん。
「入っていいか」
襖の向こうからなよが声をかけた。
「どうぞ」
幸が呟くように答える。なよは静かに入ると、後ろ手に襖を閉める。
そのまま、男の椅子に腰掛けると男を見つめた。
「深く眠っているようじゃな」

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異形 漣二話

梅林の中央、幸は漣を見上げると、にっと笑った。
「本当に漣の親父が望んでいるのかどうかは知らない。しかし、約定の言葉は交わした。これは、絶対だ。漣、修行を途中で挫折することは許さない、いいな」
緊張した面持ちで連が頷いた。
「漣、横に立て」
幸は漣を見上げた。
梅林の緑が日差しを青に染める。
心地よい風が流れていた。
「舞を教える。動きの要、全てを内包した舞だ」
ゆっくりと漣の体が動きだした。
「か、勝手に体が動きます」
「漣の神経に干渉している。時間があればじっくりと見取り稽古をしたいところだけれど、時間がないからな。体の動くままに動いてみろ」
「はい」

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異形 漣一話

「しょうがないな、出るか」
深夜、幸は呟くと椅子から立ち上がった。
夕食の後、鬼紙家から遣わされた車に鬼紙老と津崎かなめを載せ、あかねはどうしようかと少し迷ったようだが、万が一のため、一緒に乗り込み送っていくこと にした。
三人が帰った後、片づけを手伝い、幸は男の部屋で時間を過ごす。

襖を開ける、廊下を渡り、幸が寝間を覗き込む。啓子が大いびきをかいて眠っていた。
「あやつは蓄膿症の気味があるようじゃのう。小夜野も早めに寝てよかった、奴よりも後に寝ようとすれば、到底、眠れそうにないわ」
背後から、なよが気楽に笑った。

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異形漣 四話

血だらけになった男を仰向けに寝かせ、幸は豊饒の歌を囁きながら、その体に両手を入れる、男の体は液体になったかのようにその両手を受け入れていく。
一心不乱になった幸の表情は深く沈み、窓からの月明かりだけが幸の横顔を照らす。
大丈夫だよ、お父さん。
「入っていいか」
襖の向こうからなよが声をかけた。
「どうぞ」
幸が呟くように答える。なよは静かに入ると、後ろ手に襖を閉める。
そのまま、男の椅子に腰掛けると男を見つめた。
「深く眠っているようじゃな」
「うん。今のうちに切れた体をすべて繋ぐよ」
「幸。お前のその手はいったいどうなっておるのか、わしにすらわからんわい」
幸は少し大人びた笑みを目許に浮かべ、しかし、すぐに表情を消すと、その動きに専念した。なよはふと暗がりの中、幸が成長しているのに気が付いた。黒、か、黒よりも少し年上の女の子に幸が成長していた。
「なんともはや、面白い妹じゃ」
なよは呟くと、窓から空を見上げた。少しふっくらした上弦の月。
「姉として、ちぃとは手伝うてやろう」
なよが両手を月に向け、搦め捕るように指を動かす。白く輝く糸、月の光は紡ぎ上げられ、一本の糸となって足元を巡っていく。
糸が伸び、幸と男を白く淡く光で包み込んで行く。
「父さん、少し楽そうだ。ありがとう、なよ姉さん」
「わしとて、元は月人。この程度の芸当はできるわい。そう言えば、父さんも月の光を治癒に使うておったな。いくらか月人の血が父さんにも流れているのかもしれんな」
「かもしれないね」
幸が手を休めないまま、答えた。
「本家の先々代につれ去られて来た赤ん坊が父さんだ。出生の秘密を知っている先々代は出生のこと、一つもあかさず亡くなってしまった」
「少しくらい話せば良いのにのう」
「何か理由があったんだろうな。でも、幸にはどうでもいいこと、父さんは父さんだもの」
なよは穏やかに笑みを浮かべ、立ち上がった。
「皆が心配して、父さんに元気になってくれと祈っておる。代表して、わしが覗きにきたわけじゃ」
「大丈夫と伝えてください」
「承知した」
なよは答えると、襖を開け、入って来た時のように静かに襖を閉めた。

「なよ姉さん、どうだった・・・」
黒が心配げに顔を上げた。黒は沈んで、今にも泣き出しそうになっている。他の者も俯き肩を落としていた。
なよは、黒を心配がらせて楽しもうと思っていたが、その黒の様子に軽口を噤んだ。
「大丈夫。幸がそう言っておった」
黒は笑みを浮かべると、腰が抜けたように仰向けに倒れてしまった。
「なんじゃ、どうした、黒」
「なんだか、力が抜けて」
仰向けになったまま、涙を流す。笑顔を浮かべたまま、黒が涙を流した。
「良かった」
なよは足先で黒の脇腹を小突くと、呆れたように笑った。
「黒。今晩はゆっくり眠れ、その間の抜けた顔のままな」
なよはあさぎに向き直ると声を掛けた。
「あさぎ。ご飯が残っておったろう、夜食じゃ、おむすびを作ってくれ。腹が減ったわい」
「はい。すぐに作って来ます」
あさぎも安心したのか元気に答えた。白と三毛も元気に立ち上がると、あさぎについて台所へ向かった。黒もばたばたと立ち上がる。
「食べる、黒も夜食食べるよ」
「黒。お前も手伝って来い」
「う、うん」
黒の走って行くのを小夜乃はほっとした笑顔で眺めた。
「なよ母様」
「どうした、小夜乃」
「今の母様は百点満点です」
「生意気言うでないわい」
なよがくすぐったそうに笑った。
「さて。あかね、漣」
「はい」
「徹夜になるぞ。交替で祈れば、幸の助けになるからな」
なよは漣を見て言った。
「漣は知らんじゃろうが、ま、師匠の親じゃ、一緒に祈ってくれ」


「みんな、寝ちゃったよ。なよ姉さんまでぐっすり」
幸は寝ている男の耳元に顔を寄せ、囁いた。
「疲れたんだろうね」
男はまったく反応せず、目を閉ざしたままだった。口元に指先を近づけると、微かに呼吸をしているのがわかる。
「お父さんがいない間、鍾馗の一族のね、女の子を預かったよ」
反応のない男に幸はひたすら言葉を掛け続けていた。
「真っすぐな子だった。術を授けてやって欲しいってねことだった。だからね、教えているよ、もうすぐ黒に近づくと思う」
そっと幸は男の頬に手を添えた。
「お父さん、幸は元の姿までは戻れなかったけど、多分、お父さんと初めて会った時くらいまでには成長したよ。いままで、せっかく、育ててくれたのにまた小さくなってごめんね。もう一度、幸を育ててね、でも、二回目だもの、幸は前よりしっかりしたよ。自分を見失って泣いたりしないよ」
幸は月明かりの中、男をじっと見つめた。
「お願いです、お父さん。目を覚ましてください」
幸の瞳から大粒の涙がこぼれた。
「もう一度、お父さんの声が聴きたいよ、一緒の笑いたいんだよ、お父さん」
幸が瞬きもせず、男の顔を見つめる。
微かに男の口元が動く。男が小さく幸と呟いた。
「お父さん」
男はゆっくりと目を開くと、幸を見つめて微かに笑みを浮かべた。
「幸、ありがとう」
男は一言発するだけでも体力を大きく消耗してしまうのだろう、目をつぶる、でも、微かに笑みを浮かべた。
幸は男の手を両手でしっかり握った。
「幸の手は小さくて華奢なのに、あったかくて、力強くて、なんだか安心してしまうよ」
男が目を瞑ったまま笑う。
「お父さん。お帰りなさい」
幸は涙で声にならない声をしゃくり上げる。
「ただいま」
男は小さな声でゆっくりと答えた。
白に車椅子を押され、男は漣に稽古をつける幸の姿を眺めていた。
この車椅子は元々佳奈のお祖母さんが使っていたらしい、黒が思い出して借りて来たのだった。
白はうっとりとこの現状を受け入れていた、父を看護するために医師となった私、父をひたすら支えながら、生きて行くことを選んだのだ。あぁ、なんて、健気なのであろう。
「なぁ、白。父さんね、車椅子は無しでいいよ」
「だめです」
「困ったねぇ」
男は少し笑うと、車椅子に背を預けた。
まだ、歩くには充分でないが、どうも、人が背中に居るのは落ち着かない。松葉杖なら歩けるだろう。
「幸母さんからも二日間は歩かせてはだめって言われています」
男の考えを察したように白が言う、仕方なさそうに男は笑みを浮かべた。
「厳しい主治医だなぁ」
男が帰って来た次の朝のことだった。

漣は無の話を子供の頃から聞かされていた、小さな子供の頃は、いたずらをすると無に連れ去られてしまうぞとか、頭からむしゃむしゃ食べられてしまうぞと脅されたものだった。だから、いま、こうして車椅子に背を預け、笑みを浮かべている男がその無であるとが信じ切れずにいた。
でも、幸師匠の父なら凄い能力者なのかもしれない。
ふと男は漣の視線に気づくと、声を掛けた。
「君が漣だね。昔、鍾馗の国に行ったことがあるよ。ちょうど、君が生まれて、国はお祭り騒ぎだった」
「それじゃ、お父さん。漣ちゃんの本当の名前を知っているんですか」
驚いて、白が男に訊ねた。
「漣じゃないのかい。さんずい偏のさざなみという漢字だ」
驚いて、白が漣を見つめた。
「なよも知っているだろう。当時、なよたけの姫の特使もお祝いに駆けつけていたからね」
漣は戸惑いながら白に打ち明けた。
「始め、術師の方に名前を知られるのが怖くて名乗らなかったのですが」
「術師に本当の名前を知られるのは危険だし。でも、そういうことは」
白が男に振り返った。
「うひゃぁ。凄いですよ、お父さん」
「ん、どういうことだ」
「白は初めて漣ちゃんに会った時に、漣という呼び名を思いついたんです。あ、幸母さんも知っていたんですね」
幸は振り返るとにかっと笑った。
「知ってたよ」
「もう、幸母さんってば。早く教えてください」
白が興奮して、漣の手を握り締めた。
「漣ちゃんと白は縁があります。これからも友達です、いいえ、姉妹ですよ」
漣が照れたように笑みを浮かべた。
「これからもよろしく。白さん」
白はとびきり上等の笑顔を浮かべた。
「さて。そろそろ、漣を返してくれ。まだ、修行の途中だ」
「わかりました。お父さん、家に戻りますよ」
白が男の車椅子を押す。
「あ、あのね。お父さん」
幸が男に声をかけた。男が振り返ると、幸がそっと笑みを浮かべた。
「お父さん。二日間は無理しないで幸の言うこと、聴いてね。無理しちゃやだよ、ね」
男は頷くと、少しいたずらげに笑った。
「心配してくれてありがとう」
幸は思わず駆け出すと、男を抱き締めた。
「お父さん。帰ってきてくれてありがとう」
幸の声が震えていた。
「幸は柔らかくて、暖かいな」
男がそっと呟いた。

男が家に戻った後も、幸は男を見送っていたが、漣を思い出し、振り返った。
「悪いな、漣。漣が自分の父さんを思い出して悲しくならないようにと、お父さんに甘えるの我慢していたんだけどな。なんだかさ、お父さんでもう頭の中がいっぱいになってしまってさ」
「あ、あの。いいえ。私はまだいっぱい覚えなきゃならないことがありますし。それに、父さんのこと、好きですけど、それほどには」

漣が素直に困惑して答えた。

「どうじゃ。具合は」
なよはかじっていた煎餅を飲み込むと、男に訊ねた。台所、黒があさぎにタコ焼きのタネの作り方を教わっていた。
「随分、いいよ。優秀な先生が居てくれるからね」
男の言葉に白が満足げに笑顔を浮かべた。
なよも笑うと、テーブルの煎餅に手を伸ばす。
「ほんに女は大変じゃ。男の我儘に振り回されてあたふたせねばならん」
「みんなに迷惑かけたね」
「あかねの機転がなければ、父さんと幸とわしは地面に激突じゃ。いま、思うても足がすくむわい」
「幸に聴いたよ。ありがとうとしか言いようがないよ。あさぎ」
「はい」
あさぎが手を止め、振り向く。
「大声で呼んでくれたんだね。ありがとう」
あさぎが照れたようにくすぐったそうに笑った。
「黒と白と三毛は受け止めてくれて、小夜乃も大声で呼んでくれた。これは当分、頭が上がらないな」
「漣もあかねと一緒に布団を積み上げて大声を上げておったぞ」
なよが付け加えると、男は微かに視線を落とし、テーブルを見つめた。
「父さんも煎餅を食うか」
男はふっと笑みを浮かべると、顔を上げた。
「白先生が許してくれそうにないよ。それに、一人で手洗いに行けるようになるまではあまり食べたくないなぁ」
「なるほど、困った患者じゃ」
なよが笑った。
「白、お前も父さんの後ろに立たず、テーブルに座れ。後ろに立たれては、父さんも落ちつかんわい」
慌てて白も車椅子の横の椅子に座った。
「幸から、この一カ月のこと、聞いたか」
なよが男に訊ねた。
「テレビに出たことも聞いたよ」
「そうですよ、黒姉ちゃんだけ。白も出たかったのに御留守番だったんですよ」
男は笑うと白の頭をなでた。

「留守番は大事だよ。白まで出掛けたら結界が弱まってしまうからね。白は幸の娘なんだから」
白が満足そうに頷いた。
「あの一件で、この国が鬼の支配下に陥るのは、なしくずしにだが防げた、当分はな」
「あぁ、当分はね」
男は頷くと、思案げになよを見つめた。
「鬼の世界は、鬼と角の無い鬼と鍾馗の三者が互いに制することで安定していた。その安定が崩れたのは人が鬼と結託したからだろう」
「日本の支配者層の一部は古より鬼と深い交流があった。いや、鬼に隷従しておった。それを考えれば、いずれはこのような状況になったであろうな」
なよが煎餅の粉を払うように両手を振った。
「父さん、どうするな。このままじゃと、いずれはこの国、鬼の支配下になるぞ」
男は目を瞑ると微かに息を吐く。
「なんていうかな。父さん、若い頃、随分とね、鍾馗に悪さをしたんだ、なよも噂くらいは聞いただろう。だから、鍾馗には負い目がある。それにね、佳奈さんや皆が、普通にね、暮らせる社会の方がいいな」
男は目を開けると、柔らかに笑みを浮かべた。
「ま、そいうことだ」
男の言葉になよは満足げに頷いた。
「それでこそ、わしの父さんじゃ」
「認めてくれてありがとう」
男がいたずらげに笑った。

漣と三毛が闘っていた。お互いの攻防を紙一重で躱して行く。
三毛の蹴りが漣の顔面を薙ぎ払う。漣が蹴りに吸い込まれるように顔面で受ける、その寸前、漣が沈み、三毛の軸足を崩す。
三毛の軸足がふわりと浮かんだ、瞬間の体軸の変化だ。幸が漣の背後に回り、背中を軽く押す。弾かれたように漣が前進し、その左手が浮かぶ三毛の顎に触れた。
瞬間、あかねが三毛の足元に潜り込むと、三毛の膝の裏を軽く肩で押す。三毛の膝が緩み、上体が反ることで漣の左手から逃れた。

四人の攻防と補佐に、目を見張るように、小夜乃がその様子を見ていた。
「凄いね、実朝。小夜乃もあんなふうに動けたら外の世界で夕飯のお買い物も御手伝いできるのかなぁ」
小夜乃が肩に乗る実朝に話しかける。実朝が少し困ったかのように小首を傾げた。
小夜乃の隣、まるで始めからいたかのように幸乃が現れた。
幸乃が柔らかに笑みを浮かべる。
「幸乃様」

「小夜乃は強くなりたいの。実朝が助けてくれるから、強くなくても大丈夫でしょう」
「いいえ。助けてもらえることを当たり前に思うのは嫌いです」
幸乃は嬉しそうに微笑むと、四人の動きを眺めた。
「小夜乃はあの子達の動きが見えるのですね」
「はい」
幸乃が小夜乃に振り返り言った。
「小夜乃には眼の良さと勘の良さがあります。もう少し待ちなさいな」

あたふたと台所にあかねと三毛、小夜乃も戻ってきた。
「おう、どうした」
「なよ姉さん、幸母さんが家に戻ってなさいって」
三毛が答えた。
「幸姉さんは特別な稽古を漣につけるつもりなのでしょう」
あかねは空いた椅子に座ると、御煎餅を一枚取る。
「どんな稽古なんだろう」
三毛が好奇心旺盛に言う。
「お父さんは知っているの」
「知っているというか、わかってるよ」
「見たらだめかなぁ」
「だめだよ。本当は幸もその稽古はつけたくないんじゃないかな。でも、これからの漣には必要な稽古なんだ。とっても、辛い稽古なんだよ」
男は哀しげに笑みを浮かべると、白に言った。
「白、珈琲、だめかな。ちょっとだけ」
「はい、だめです」
にこやかに答える。
「白は厳しいなぁ」
「お父さん、あーんして」
あさぎの隣にいた黒が振り返り、男に声をかけた。瞬間、黒が投げた、男の口の中、
「お、珈琲飴か」
「お父さん、それで我慢してください」
黒が楽しそうに笑った。
「もう。黒姉ちゃんは甘いんだから」
「お父さんと姉ちゃんはインスタントラーメン仲間だからね、助け合うのさ」

梅林の中央、幸は漣の前に座ると、少し見上げた。
「随分強くなったのが自分でもわかるだろう」
連は慌てて、正座をすると額を地面にこすりつけた。
「ありがとうございます」
「顔を上げてくれ。幸は人に頭を下げるのは嫌いだけど、下げられるのはもっと嫌いなんだ」
連は跳ね上がるように頭を上げた。
幸はくすぐったそうに笑みを浮かべると、小さく吐息を漏らした。
「今の漣なら、大勢の鬼が向かってきても制することが出来るだろう、娘達に教えたのもここまでだ。ただ、漣にはもう一段階、教えておくべきかと思う」
「もう一段階」
「あぁ、ごく単純なことだ、向かってくる奴を殺すってことさ」
幸は立ち上がり、両手でお尻の砂を払う。
「立て。漣」
「はいっ」
幸の前に漣が直立不動になる。
「自在を出して、構えろ」
ふわっと、漣の右手に自在が現れ、幸に向かって、中段に構えた。隙を誘うのではなく、絶対的な防御の姿勢だ。
幸が右手を横に伸ばした、指の先にはもう一人、幸が立っていた。次々と幸が現れ、漣を大きく囲みだす。
唖然と漣は大きく眼を見開いてその様子を見つめていた。
「ちょうど、千人の幸が、漣、お前を囲んでいる。大サービス、一人ずつの攻撃だ、手加減もしてやるし、わかりやすい隙も作ってやろう。どういうことかわかるな」
「は、はい」
怯えたように漣が呟いた。
「二度は言わない、幸を殺せ」
一人の幸が漣に向かって駆け出す、悲鳴とともに、漣が自在の先を幸に向けた。
「漣、走れ。間合いを崩して、首を切れ」
漣が中段から、自在の下に潜りこむように姿勢を落とした。
「幸師匠、無理です」
もう一人の幸が漣の手の上から自在を握り、救い上げるように飛び込んできた幸の首を切り落とした。
「うわぁぁっ」
漣が悲鳴を上げた。首の落ちた体が二、三歩走り、地面に崩れた、首から血が噴出す。
「休んでいる暇はないぞ。次は心臓を打ちぬけ」
「はいっ」
悲鳴とも返事ともつかない声を漣が張り上げた。


「始まってしまったか」
男が小さく呟いた。
「きついことをするのう」
なよが俯く。
男が深く溜息をついた。

「命を奪っているんだ。そいつのこれからの未来というのを奪っている、それがどんなものであってもな」
「はいっ」
漣が返事をすると同時に、幸の眉間を割る。
骨の感触が腕から背中に伝わる、命を奪うというのは、これほど、おぞましいものなのか。
「恐怖や違和感を快感とするな、そのまま受け止めろ。傷を苦痛のまま受け入れろ」
「は、はいっ」
喘ぐ粋の中、漣が思いっきり返事をする、そうしなければ、気を失ってしまいそうになるのだ。
すいっと、最後の幸が漣の前に現れた。ぐっと、連は息を呑み、弾けるように幸の喉に自在を突き立てた、ふわっと幸はそれを流すと漣の後に回り込み、そのまま、連に尻餅をつかせた。
「本体は勘弁してくれ。まだまだ、お父さんに甘えたりないんだ」
にいぃっと幸が口元を歪ませ、笑みを浮かべた。
「どうだ、漣、楽しかったか」
漣が首を横に振った。
「辛いです、とても辛いです」
「それでいい。命を奪うってのは大罪だ」
幸は後ろから漣をしっかり抱きしめた、そして、頬を漣の頬に寄せる。
「漣、お前は鍾馗の救世主となり、その国と地位を取り戻すだろう。だか、平穏な時代になれば、漣、お前の居場所はそこにはない。強くなりすぎた」
微かに漣の体が震える。
「泣くな。ことが済むまで泣くな。泣けば決意が緩んでしまうぞ」
漣が歯を食いしばる。
「いつか、漣、ここに帰ってこい。幸の妹としてここで暮らせ。畑仕事をし、ヤギや鶏の世話をしよう。あさぎ姉さんの店でアルバイトをしよう。物産展で声張り上げて売り子をしよう」
漣がしっかりと幸の腕を握った。
「ありがとう、幸お姉ちゃん」
漣が眼を瞑ったまま、囁いた。

男が戻ってから三日が経ち、男はふらつくこともあるが、ゆっくりと今までの日常生活を取り戻しつつあった。
自分の部屋、事務椅子に座る、ふっと息が漏れた。一カ月のこと、男は一切語らず、記憶も沈め炊いた。
窓から外を眺める、放し飼いにした鶏が草を啄んでいた。
男はゆっくりと娘たちの顔を思い浮かべる。単純率直に面白いなと思う、まさか、こんなふうに賑やかになるなど、思いもしなかった。自分の半生を思い起こして、幸せすぎると思う。
「お父さん、いいですか」
襖の向こうから白の声が聞こえた。
「どうぞ」
白が襖を開け入る。
「お加減いかが」
「白のお陰だ、とってもいいよ」
白が嬉しそうに笑みを浮かべた。
男が椅子を指さす。
「ごめんね。まだ、ものを掴むのが難しいんだ」
白は承知したと男の前に椅子を置くと、足を揃えて座った。
「白はまじめに学校に行っているのかい」
「通ってます」
「楽しいかな」
白が笑みを浮かべ頷いた。
「でも、いま、ちょっと浮いてしまってますけど」
「どうしたんだい」
「学級崩壊ですよ。騒ぐから、先生の声が聞こえないんです」
「話には聞いたことがあるよ」
「だから、白は、先生の声が聞こえねえだろう、静かにしろって怒鳴ったんです」
「なんだか、幸みたいだなぁ」
男が笑った。
「それで向かって来た男の子たちを軽くピンタしたら吹っ飛んでしまって」
「白は確かに幸の娘だね」
「そして、お父さんの娘でもあります」
白が言葉を返した。
「なるほど。これは父さん、責任重大だ」
楽しそうに男が答えた。
白が幸せそうに柔らかな笑みを浮かべる。
「さて。お昼は畑に机を出しての、お外ご飯です。あさぎ姉さん渾身のお昼ごはんですよ」
「それは楽しみだ」
男の笑顔につられるように、白が声を出して笑った。
「お父さん」
「ん」
「帰って来てくれて、ありがとう」
「どう致しまして」
男も楽しそうに笑った。

 

 

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異形 漣 三話

漣は驚いて、その光景に見入っていた。
幸が蹲って泣いていた。
「お父さんのお茶碗、割れちゃったよ」
黒さん達から母さんと呼ばれる美少女、こんな綺麗な女の子、見たことがない、それでいて、男っぽい言葉に自信に満ちた眼差し。
父さんよりも遥かに強い、いや、桁が違い過ぎる。

「うるさいわ、静かにせい」
なよは幸の頭をはたくと、呆れ顔で言った。
「わしの気に入りの湯飲み。黒の丼茶碗、店の客用の珈琲カップセット。次々と割ってしまいおって。これだけ割れば、不吉もなんもあるか」
なよは怒鳴ったが、深く溜息をつくと、おろおろと見つめていた黒を手招きした。

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異形 月の糸 あかね

異形 月の糸 あかね


「お給料、三桁ですよ。あなた、頑張ってくださいね。壮介のために」
恵美子が万遍の笑みを浮かべて言う。
「いや、お前。そうはいうけど、親父の家ってのはさ」
言い終えるすべもなく、妻の笑みが光の速さですべてを飲み込んでいく、俺は押しつぶされ、息が出来ず、喉を詰まらせ、自分の呻き声で目を覚ます。毎朝、こんな夢を見るのだ。そして、少し人間不信になる。

啓介は、布団から、体を起こした。二十畳の日本間。羽毛布団が心地よい。障子は純白、朝の明かりを淡く呼び込み、この部屋全体ををやわらかく照らしだしている。山一つを覆うように造られた邸宅だ。遠くに山鳩の声、近くに囀るのは雀の声か。
「叔父様。お目覚めなさいましたか」
少しあどけない、しかし、芯のしっかりした声が襖の向こうから聞こえた。
「ありがとう、起きたところだよ」
ゆっくりと襖が開き、入ってきたのはあかねだった。
「叔父様、着替えでございます。もうすぐ、朝餉の用意が出来ますから、どうぞ、お顔を洗って居間にお越しくださいませ」
笑顔で、あかねが言った。
「世話をかけて申し訳ないね」
あかねはかぶりを振ると、悪戯げに笑みを浮かべて答えた。
「鬼神家現当主の叔父様でございます。どうぞ、ふんぞり返って偉そうにしてくださいませ」
「柄じゃないよ。まさか、僕に順番が回ってくるとは思わなかったんだから」
啓介は、小さく溜息を漏らし、少し肩を落とす。そして、あかねに顔をそむけ、障子の向こう、朝の空を思い浮かべた。
「今日は良い天気のようだね」
「はい。鬼退治には絶好の日和です」
「ほんと、そうだ」
啓介が戸惑うように小さく呟いた。
「叔父様。ご心配なく、お供も居ります」
「お供って」
それには答えず、あかねはにぃっと唇の両端を引くように笑みを浮かべると、顔を隠すように頷いた。

まさしく城だ。啓介は着替え終え、廊下を歩いていた。廊下と言っても、小さな車くらいなら走れるのじゃないか。雨戸が開け放たれ、硝子戸から朝日が差し込む。朝の光に、少し気持ちが落ち着く。立ち止まり、啓介は窓から外を眺めてみた。一つの山を覆うように作られた城、いや、鬼紙家の邸宅だ。見下ろせば、渓谷が見える、谷が深すぎて、底までは光は届かない、そうだ、あの闇の中では光を嫌うモノ達が、今も蠢いているのだろうか。
ふと啓介は子供の頃を思い出した。鬼紙家は八百年続く旧家であり、その血統を絶やさぬため、意識的に男子を産み育てる。つまりは長男が不慮の事故や病気で亡くなっても、家が存続するためだ。ただ、啓介は七番目であり、加えて、正妻の子ではなかったので、この本邸には子供の頃に二度来たことがあるだけだ。
しかし、と思う。まさか長男が鬼にとり憑かれて兄達を殺してしまうとは。

「こんちわ。・・・あ、いえ、おはようございます」
振り返れば、少女。絵に描いたような令嬢だ、黒のジャージと少し日に焼けているのを除けば、午後の昼下がりにテラスで紅茶を飲むに相応しい、美少女。
「やぁ、おはよう。君は」
「初めまして、黒です。あかねちゃんに呼んでいただきました」
にっと楽しげに浮かべる少女。笑みを浮かべると深窓の令嬢から、一瞬にして近所のお姉ちゃんのような朗らかな笑顔になる。向き合う者を自然と笑み浮かべさせる、そんな笑顔だ。
「ええっと、黒さんか。あかねの友達だね、叔父さんはね」
「現当主でしょう、御老よりも偉い人だ」
「偉くはないよ。偉そうな顔をするのが仕事なだけさ」
啓介は不思議に思う。何故、こんな返事をしたのだろう。中学、いや、高校生くらいの女の子に。どうしてだか、不思議に安心するのだ。ほっと啓介は吐息を漏らすと、黒に笑いかけた。
「ありがとう」
「ありがとうって」
「はは、どうしてだろうね。自然にありがとうって言ってしまった」
「それじゃ、黒も言います。叔父さん、ありがとう」
黒もにっと笑顔を浮かべると、啓介を促した。
「朝御飯ですよ。大金持ちの朝御飯です。楽しみ」

時代劇に出てくる武家屋敷のように、居間に箱膳が並べられ、上座に啓介と御老が正座する。
「おはようございます」
頭を下げ、啓介が御老に挨拶をする。御老は鷹揚にうなずくと、顔を上げた。
「だめです、おじい様」
末席に座るあかねが柳眉を曇らせ、御老に言葉を掛けた。
「おじい様。おはようには、おはようで返すのが礼儀です」
「ふん。あの女と住むから、お前はそのような生意気な女になるのだ、困ったものよ」
むっとした顔をしながらも、御老は啓介に顔を向けると、おはようという。
啓介が本邸に来てから、一週間になる、毎度の朝の行事だ。
初めは御老がぼけたのかと思ったのだが、なるほどと合点がいった。東京本社勤務から出張という形で、初めて本邸に一ヶ月間住む込む。東京本社とは鬼紙家の財産管理会社だ。しかし、実際は広範な、つまり、合法違法問わず情報収集と操作をその主な職務としている。一ヶ月この屋敷に住むにあたって、集めた情報の何処かに御老が孫のあかねに特に目を掛けているとあったが、それは正確ではなかった。
溺愛している、つまりは孫のあかねと話をしたいがためだけに、この朝の行事は続けられているのだ。
しかし、考えてみればそれも仕方がない。
あかねは利発で美しい女の子だ。それに、まるで心を読むかのように、その応対は見事だ。場を読み、過不足なく対応する。情報にはその他にも、あかねは優れた格闘技の持ち主であるとあったが、それは訂正しなければならないだろう、あの華奢な腕では、おひつを両手で運ぶのすら。あれは・・・。
あかねは両手でおひつを抱え、黒の後に置いた。
「黒さん、おひつは後ろに置いておきます。お変わり自由です、調理のものに言いましたから、おかずも三人分、用意しますよ」
黒はあかねに向き直るとあかねの手をしっかり両手で握った。
「ありがとう、呼んでくれて。あかねちゃん、大好き」
「もう、黒さんは。御飯を前にすると子供になるんだから」
「だって、このアジの干物もとっても良い仕事だよ。お味噌汁の出しは昆布、それも羅臼昆布と利尻昆布をぴったりの按配にしてだしがとってある。とっても、贅沢だよ」
柔らかな笑みを浮かべる二人に啓介は何かほっとした気分を抱いた。本邸へ来てからの、居こごちの悪さ、得体の知れない気配のようなものが、この黒という名の女の子の笑顔ですっきりと払われた気がする。
ふと、啓介は黒の隣に誰かが居るような気がした。考えてみれば、黒の隣が不自然に一人分、空いている。啓介は目を凝らして、その空間を見つめみてた、誰か居る。誰か居るようなのだが、どうも妙だ、見えてこない。
「これは失礼いたしました」
空間から小さく声が流れた。
やがて、黒の隣に、これは、ベトナムのアオザイだろうか、薄茶色の民族衣装を身に纏った少女が現れた。漆黒の黒髪を肩の辺りでぱっつりと切った、一重の涼しい瞳をした女の子だ。
「普段から陰形を心がけております故、ご不審の念を抱かせてしまいました、申し訳ありません」
ついと、少女は啓介を見つめると、微かに頭を下げた。
「あ、いや。いいんだ、そういうのも慣れたよ」
黒があわてて、啓介に言った。
「漣ちゃんはとっても良い子なんです。ちょっと人見知りなだけで」
御老が珍しく、黒の言葉を継いだ。
「啓介」
「はい」
「本来ならば、漣様が上座に座らなければならん、鍾馗の姫様だからな。その隣は黒、ホンケ白澤の孫じゃ」
御老の言葉に啓介は目を丸くした。
鍾馗と言えば、鬼にその領土を征服され、難民となっていたが、その後、ホンケの力添えにより、鬼との連戦に勝利し続け、ほぼ、もとの領地を取り戻しつつあるという、それを考えるなら、黒さんと姫君の仲がよいのも不思議ではない。あかねはこの二人とも友人なのだろうか、情報にはなかったことだ。
ふと、啓介はあかねの姿が消えていることに気がついた。
あぁ、姉さんか。
長女、礼子夫婦がやってくると、あかねは姿を消すのだ。

「おはようございます」
鬼紙家長女、礼子が大きいお腹を抱えるようにやってきた。その後を赤ん坊を抱いた夫がやってくる。二人は黒の向かいに座ると、礼子が黒に話しかけた。
「お久しぶり。先生はお元気」
「はい、元気です。今頃は母さんと畑仕事をしていると思います。あの・・・、お腹は」
「もう、予定日まで一ヶ月もないの、大変」
黒は如才なく笑みを浮かべると、礼子に言った。
「男の子、それとも女の子ですか」
「えへへ。女の子、上の子が男の子でしょう。男の子はつまらないわ。女の子だったら、一緒にお買い物もできるようになるだろうし、楽しみ」
どう返事をすればいいのかわからず、黒は曖昧に笑みを浮かべたまま、頷いた。
礼子の夫、一郎が改まった顔をし、啓介に言った。
「当主、おはようございます」
「おはよう」
「今日は鬼退治でございます。本来、この行事は当主の儀礼的なもので、鬼に見立てた者を刀で斬るまねをするだけのものなのですが、今回に限り、実際の鬼を」
「大丈夫ですわ、啓介さん」
夫の言葉を遮り、意地悪く、礼子が笑った。
「鬼紙家の当主として啓介さんが後れをとることなどありえません。それに黒さんもついていらっしゃいますものね」
いつのまにかご飯を頬張っていた黒は、声を出せずうなずき、お茶を飲む。
「任せてください、頑張ります」
あきれた顔をして、礼子は黒を見つめたが、ほっと溜息をつくと、いただきましょうと言い、お箸を持つ、いただきますの言葉もなしに食事が始まった。

鬼神排儀式と称される行事が鬼紙家にはある。本邸にある能舞台で開催される。荒れ狂う鬼を当主が刀で成敗していく動きを舞に仕立てたものであり、年に一度、この季節に行われる。ただ、実際に鬼がこの国に明らかな影響を与え、国民の多くが鬼の存在を認めたいま、このように様式上の鬼退治で良いのか、それが礼子により発せられ、当主が実際に鬼と戦うということになったのだ。
たぶんに礼子の現当主への嫌がらせである、下位の者が当主に収まったことが余程腹に据えかねたのだろう。ただ、礼子なりの計算では、この提案は御老によって却下され、それが現当主啓介に対して礼子自身の立場を強いものとし、いずれは自分の息子に当主を禅譲させようという考えがあったのだろう、御老の承諾に、礼子が俯き唇を噛むのを啓介は見ていた。
啓介自身も当主であることへの強い思いはなかった、だから、代わってくれと礼子がうまく言ってくれさえすれば、すぐにでも降りて逃げ帰りたくあるのだ。中堅の商社に経理で勤める会社員がいきなり、鬼だの術師だのわけのわからない連中の中に放り込まれたのだ、逃げ出して何処に不思議があるというのだ。
啓介は少し息をもらして顔を上げた。嬉しそうに御飯を頬張る黒という女の子、隣に居るはずの目を凝らさないと見えてこない引きこもり系の女の子、この二人を供に鬼退治をせよということなのか。桃太郎に倣うのなら、お供は三人。まさか、あかねが供についてくれるというのか。この人選、御老はいったい何を考えているのだろう。

個々食べ終え、席を立つ。やがて、喉に食事が通らない啓介と、丼茶碗になみなみとお茶を入れがふがふ飲む黒、多分、隣には姫様もいるのだろう。
ふと、黒は漣の膳を見た。
「漣ちゃん、食べていないの」
「はい、私は自分の作ったものしかいただかないことにしています。ごめんなさい、早くに言えば、黒さんに食べていただけたのに、冷めてしまいました」
「毒とか入ってないよ」
「ええ、そう思います。ですが、いま、私が死にますと、折角の進撃が止まってしまいます。そのため、例外なく他人が作ったものはいただかないことにしているのです」
「ね、漣ちゃん、用事が終わったら時間あるかなぁ」
「と、言いますと」
「うちでいっぱい御飯を食べよう。うちなら大丈夫だよ」
ふと、俯き、漣は考えたが、笑みを浮かべると頷いた。
「ありがとうございます、楽しみです。ですから、どうぞ、私の分も食べてくださいな」
黒はくすぐったそうに笑みを浮かべると、小さく、ごめんなさいと呟いた。
黒は漣の分も食べると、満足そうにお腹をぽんぽんと叩いた。
「まぁ、黒さん。行儀が悪いですよ」
膳を片づけるのを手伝っていたあかねが笑った。

鬼紙家本邸にはおよそ百人の人間が居る。御老を筆頭に鬼紙家本家、その下には分家である鬼神十家から選ばれた者達がそれぞれ、食事の用意をする賄い方、屋敷の維持管理をする繕い方、鬼や妖を研究する計り方、鬼紙私兵、なお、鬼紙私兵は平時は森方として、植林をはじめ、農耕を主としている。

あかねは改まった表情で啓介の前に正座をすると、微かにお辞儀をする。
「今日の鬼神排儀式には、この三人がお供いたします」
あかねの振る舞いに啓介は息を飲んだ。可愛くてよく気のつく賢い姪、それだけではない触れるだけで斬られてしまいそうな鋭さ、鋭い刀が喉元に突きつけられた、そんな緊張感を味わう。
「そ、そうか・・・、よろしく」
「三人とも、希代の魔術師 無の弟子にございます。一人ででも鬼の軍隊を打破できる力量を持っております、どうぞ、ご安心くださいませ。なお」
啓介が息を飲んだ。
「このこと、東京本社にお伝えになられますと、速やかに叔父様を殺すことになります、奥様や壮介様の悲しむ顔を見たくございません。何卒、お忘れなきようお願いいたします」
あかねはゆっくりと頭を下げると、ふっと顔を上げた。
「と、いうことで、叔父様。お出かけのご準備をどうぞ」
今までの笑顔であかねは啓介を促すと、鬼紙私兵女方が二人、あかね両脇に正座し、啓介にお辞儀をする。
あかねは三人を見送ると、黒と漣に向き直った。
「さて、黒さん、漣さん、御準備の方は宜しいですか」
漣は微かに視線をあかねに向け囁いた。
「私にとって、鬼との戦いは日常の一つでしかありません。今回は姉弟子であるあかねさんからのお声をいただき参上した次第です。お声をいただいた瞬間から準備は出来ております」
「黒も。黒もご飯食べたから大丈夫、いっぱい、動くよ」
あかねは安心したように笑みを浮かべ立ち上がった。
「あかねは着替えがあります。お二人とも、玄関先にどうぞ。車を回しておきます」

玄関と言っても、鬼紙家のそれは、神社の拝殿のようにも見える。左右を狛犬が屋敷に背を向けた形で今にも飛びかからんとしている。
黒は興味深そうに狛犬の口を覗き込んでいたが、車の音に振り返った。
「変な車だ。とっても変」
黒が楽しそうに笑った。車から降りてきた運転手に黒は笑いかけた。
「変、とっても変な車。とっても胴長」
降りてきた運転手は困ったように額に手をやったが、諦めたように笑う。
「リムジンって言うんだ。変な車じゃないぞ」
「でも、胴長。背の低いバスみたい」
黒はリムジンに近寄ると窓を覗き込んだ。
「真っ黒だ」
ふと、運転手は真面目な顔になって、黒の背中越しに話しかけた。
「お前。強いのか、御当主様をお守りすることが出来るのか」
黒い車窓に運転手の真剣な顔が写る。
黒がそのままの姿で呟く。
「黒は強いよ、とっても強い。でも」
黒は振り返ると運転手に言った。
「おじさん程じゃないけどね」
運転手がたまらず大笑いした。
「こいつは参った。何処でそういう台詞を覚えるんだ、この頃のガキは」
黒は柔らかな笑みを浮かべると、運転手に尋ねた。
「ガキじゃないよ、黒だよ。ね、鬼紙家は、現当主派と礼子派に分かれている。圧倒的に礼子派のようだけど、おじさんはどちら派」
黒の言葉に運転手は驚いた。言葉の内容もそうだが、静かに語りかける言葉に先ほどまでのはしゃいだ子供っぽさは微塵もなく、柔らかな物腰と笑み、どれほどの修羅場をくぐれば、そんな表情を浮かべることができる。
「俺はどちら派でもねぇ。俺は鬼紙私兵、鬼紙家存続が唯一の大事だ」
ふいと黒が視線を運転手の隣にやった。
「合格です、平次さん」
いつの間にか、あかねが運転手の隣に佇んでいた。あかねは黒のカンフー服で運転手を見上げる。
「これは、あかねお嬢様」
あかねは淑やかな笑みを浮かべると、少し、恥ずかしげに俯いた。
「平次さんに運転をお願いしたのは正解でした。よろしくお願いしますよ、平次さん」
あかねは平次の右手をとると、しっかりと両手で包みこんだ。
「ま、まかせてください」
平次が緊張して叫ぶように答えた。
「何、緊張してんだ。この国の男は性的異常者が多いと聞いたが、さしずめ、お前はロリコンとかいう輩だな」
「なんだと、黒」
「ち、違うよ。黒じゃないよ。もぉ、漣ちゃんったら」
慌てて、黒は両手をぱたぱた振ると、視線を隣に移した。ゆっくりと、平次の目に、女の子の姿が浮かび上がってくる。
「なんだ、見えてなかったのか。修行が足りないな」
黒は溜息をつくと、漣に言った。
「漣ちゃん、性格が変わった」
「いいえ、師匠から男は危険な存在だから、やられる前にやれ、と教えていただいています」
「あぁ、母さんか。母さん、極端だものなぁ」
黒は溜息をつくと俯いた。
はっと平次はあかねの姿に気づき、声を上げた。
「まさか、あかねお嬢様がお供をされるのですか」
「はい、そのつもりですけど」
きょとんとした顔であかねが平次を見上げた。
「だ、だめです。情報では既に部隊は鬼の巣窟になっていると聞きますぞ。そんなところにあかねお嬢様をお連れすることなどできません。こいつらならばともかく」
横目で平次は黒と漣を睨んだ。

「平次。聴いてください」
あかねは哀しげな笑みを浮かべ、平次の目をじっと見つめた。
「御当主はまったくの素人。半年前までは普通の会社員。到底、鬼と戦うことなどできようはずはなく、こうやって助っ人をお願いいたしましたが、全て他家の者が助けたとあっては、鬼紙家の体面にも関わります」
あかねは瞳を潤ませ、強く平次を見つめた。
「こんな私でも鬼に立ち向かい、叔父様に助けていただいたと話をすれば、叔父様の体面、ひいては鬼紙家の体面を守ることが出来ます」
「ならば私がお供に参ります」
「それはだめです」
あかねはふっといたずらげに笑みを浮かべると、手を伸ばし、平次の鼻の頭を捻った。
「新婚三ヶ月さんにそんなことはさせられませんわ」

「なるほど、勉強になります」
二人を見ていた、漣が小さく呟いた。
「ん、どうしたの」
漣が黒を見上げた。
「あの、黒さん。漣は美人でしょうか」
「え。あ、うん。美人だと思うよ」
「ですか。なら、使えますね」
漣が一人うなずいた。
「あの、それって・・・」
黒が戸惑ったように漣に言った。
「黒さん。幸師匠の鋼鉄の正面突破力。なよ姉さんの蟻のはいでる隙もない全包囲力、これにあかねさんの王水のごとくの人心浸透力が加われば怖いものなしですよ。勉強になります」
「いや、あのね」
黒は漣の隣で溜息をついた。あぁ、純真な子供が大人の影響で汚れていくよぉ。

「なんだか、賑やかだね」
当主が着替え終え、やってきた。あかねは笑みを浮かべると、当主の前に立ち、ネクタイを整える。
「女の子が三人寄れば喧しいものですわ」


平次は戸惑っていた。当主達四人を陸上自衛隊第三基地一キロ手前で下ろし、あかねの指示通りにやってきたのが、この喫茶店の前だ。車を停め、運転席から辺りを見渡す。住宅地、何処にでもある普通の住宅地だ。
女の子が運転席の窓をこんこんと叩く。
「こんにちは。平次さんですね」

平次は用心深くドアを開け、車から出た。窓を開けるだけでは、かえって攻撃も防御もやりづらい。
「君は」
三毛は笑顔を浮かべ、平次を見上げた。
「三毛といいます。えっと、鬼紙家の人ですよね」
平次は視線を外さず、微かに頷いた。この世界、例え相手が子供でも油断は出来ない。
「昨日の晩、黒姉ちゃんがお邪魔したと思いますが、妹の三毛と申します」
「そうか、黒さんの妹か」
平次は少しほっとしたように息を吐くと、笑顔を浮かべた。
「俺は平次。鬼紙家の兵隊、鬼紙私兵だ。あかねお嬢さんからこちらに赴くように言われてな、やってきた」
「あかねちゃんから、連絡はいただいています。あ、車、通行の邪魔になりますよね。ちょっと片付けておきます。そうだ、出しておかなきゃならない荷物、ありますか」
「特にはないが、どこかに駐車場があるのか」
「はい」
三毛は頷くと、家に向かって声をかけた。
「幸母さん、力を貸してくださぁい」
よし、っと三毛は頷くと、車に向き直った。
「無術は呪を唱えません、ひたすら意念を用いるのみ」
三毛が小さく呟き、車を見つめる、微かに唇を震わせ、意念を補強する。色があせるように車が消えた。
三毛はほっとしたように肩の力を抜くと、平次に言った。
「さぁ、中へどうぞ」
平次は慌てて、車のあった辺りを手で探る。
「あ、大丈夫ですよ、壊していません。違う場所に移しただけですから」
あたふたと言い訳をする三毛を見て、なんだか、平次は笑ってしまった。驚きのあまり、感情が制御できなくなったのか、どう言えばいいのかわからない。そうだ、平たく言えば、こいつは参った、そういう気分だ。
「三毛さんは凄いんだな」
「いいえ。母さんの力を借りただけで、三毛だけでは無理ですよ」
三毛は笑みを浮かべると、喫茶店へと平次を案内した。
喫茶店は一枚板のテーブルが中央、その周りに椅子が置かれており、カウンター席もある。カウンター席には女が一人、四十代くらいだろうか、ケーキセットを前に店員と談笑している。もう一人、テーブル席に窓を背にして男が一人、珈琲を飲んでいる。
平次がテーブル席に着くと同時に、店員がやってきた。
「あさぎといいます。平次さんですね、あかねちゃんから聞いています」
平次はあさぎを見て、胸が高鳴る思いがした、綺麗な人だ。
「は、はい。あかねお嬢様からこちらで、まま、待つようにと」
美人に緊張してどもってしまう自分がふがいない。
あさぎは、ついっとメニューを取り出すと、平次に見せる。
「一番のお勧めは、ハーブティとケーキセットですけど、男の方には甘いものはどうかな」
「いっ、いえ。自分、甘いものは好物です」
あさぎは笑みを浮かべると頷いてカウンターへと戻る。平次は肩を下ろして、深く息を漏らした。ほんの少しだけ結婚したことを後悔、いや、後悔などしていない。
「平次さん、どうしたの」
三毛が怪訝そうにたずねた。
「いや、なんでもないよ。それより、この喫茶店は鬼紙家と何か関係があるのか」
「んと、わからないです。でも、鬼紙のおじいちゃん、時々、来てくれますよ」
「鬼紙のおじいちゃん」
「あ、ごめんなさい。鬼紙老がちゃんとした呼び名ですよね」
「いや、いいんだ」
平次はいつもの苦虫を噛み潰したような御老の顔と、おじいちゃんという言葉が上手く重ならなかった。ここでは愛想の良いじいさんをしているのか。
「なんじゃ、居ったのか」
三毛は眉間にしわを寄せると、鬼紙老の口真似をし、手を差し出す。
「食え。なんとかというケーキだ」
三毛は平次に笑いかけた。
「こんな感じです」

「よう、恵美子さん。どうした、機嫌良さそうじゃな」
なよはカウンターに座る常連の恵美子に声をかけた。
「なよさん。ありがとう、子供が勉強面白いってね、言っているのよ。なよさんのおかげよ」
「家庭教師という程でもない、ちと、勉強のやり方を教えただけじゃ」
なよは恵美子の隣に座ると言った。
「知らぬことを知るのは楽しい、それだけのことじゃな。子供はたまに背中を押してやらねばならん。気が向いたら、また教えに行ってやる」
ふと、なよが平次に気づいた。
面白そうに笑みを浮かべると、平次の隣に座った。
「三毛。こやつがあかねの言っていた男か」
「そうだよ。平次さん、これから一週間、修行するんだよ」
「よくもまぁ、幸が承諾したのう」
「あかねちゃんが、涙目でお姉ちゃんお願いって言ったら、だいたい通るもの」
「はは、確かにそうじゃな」
愉快になよは笑うと、平次を見てにたっと笑った。
「あの、なんのことか、わからないんだが。俺はここで時間をつぶして、連絡あり次第、迎えに行く予定なんだがな」
「その予定は無しじゃ。電車とバスと歩きで帰りおるわい」
平次は理解できず、天井を睨んだが、三毛が腕の裾をくっくっと引っ張るのに気づき、三毛に顔を向けた。
「あかねちゃんから頼まれました。平次さんに一週間、武術と呪術を教えてほしい。基礎はできているからって。鬼紙家の、現当主をしっかりと守ってくれる信頼置ける人が欲しい、平次さんなら信頼できるからって」
一瞬で平次は顔を赤くすると、大声で異議を叫ぼうとした、その瞬間、なよが平次の顎をかんと掌で打ち上げた。
「痛てて」
なよが嬉しそうに笑い、言った。
「上品な店じゃ、大声を出すでないわい」
「俺は鬼紙私兵の」
「なにが鬼紙じゃ。鬼紙など、まだまだひよっこ。随分と、わしも、鬼紙の始祖をいじめてやったが、思い出すと懐かしいのう」
驚いて平次はなよの顔を見つめた。一瞬で青ざめる。そして、小さく呟いた。
「まさか、かぐやのなよ竹の姫」
「いまはこの家の次女なよじゃ。よろしくな」


現当主啓介と三人は隊内の執務室に通された。
基地の中だ。来客用のソファに啓介が座る。ソファの後ろに三人が立つ。後ろはドアだ。
啓介の前には分隊長と補佐が座る。分隊長は小柄ででっぷりと太った姿、反して、補佐は実務上がりか、胸板の分厚い男だ。
ついと黒は制服を着た男の後ろに並ぶ五人に目をやった。五人の額、あれは角だ。
元は人間だろう、鬼神化兵計画のここは実験場だ。
黒は微かに息を吐く。
鬼神化兵、人間の一部と鬼の共同開発によって実現化された技術だ。鬼の遺伝子をウイルスによって人間の体に組み込み、人間の細胞を鬼の細胞に近似させる。筋力の強化と寿命もおよそ人間の二倍にはなる。ただ、問題は脳も鬼の特徴を備えるため、感情の起伏が激しくなることと、そして、人間を見下すようになる、そのため、指示系統の混乱が生じやすいなど、運用の問題があった、でも。黒は目の前の五人が適切に組織に従属しているのを見て取った。多分、脳が変化しないような方法を見つけたのだろうと思う。

啓介は腹に力を入れ、ぐっと分隊長を見つめた。
「鬼紙家当主 鬼紙啓介です。今回は当主就任の挨拶と視察のため、伺いました」
「これは恐縮ですな。鬼紙家御当主、直々のお越しとは」
余裕の笑顔で分隊長が答えた。啓介は分隊長が名刺を出し名乗るかと、間を置いたが、その様子はなく、それではと、言葉を繋いだ。
「実は、貴隊に鬼が存在するという情報を得て、確認のため、伺った次第です」
分隊長は大声で笑うと、ソファの背もたれに背中を預けた。
「参りましたな。そのようなデマを真に受けられましては」
「こちらに鬼は存在しないと、そういうことですか」
分隊長は大きく頷くと、身を乗り出した。
「おとぎ話、想像上の生物とされていた鬼が実在していた、これはもう否定しきれないでしょうな。我々は国民の生命財産を護るため、その鬼とも戦う所存でおります」
そう言いきり、笑うと、振り返り、角を生やした兵を順に見た。啓介もそれにならい、五人の兵を見る。
「おわかりいただけましたかな」
万遍の笑みを分隊長が浮かべた。
「鬼紙老にもよろしくお伝えください。さて、これで、よろしいかな」
不意に補佐が顔を上げ、呟くように低い声で啓介に言った。
「ここは、素人と女子供の来る場所ではない。早々にお引き取り願おう」
啓介は大きく息を吸い、吐き出した。
「鬼紙家も随分となめられたものですな。およそ、八百年、鬼の研究を通じて、この国を鬼から護ってきた、その鬼紙家を、たかが自衛隊如きが、見せびらかすようにずらりと並べた鬼を前にして帰れとは」
微かに足が震える。啓介はおもいっきり体に力を込め、震えを押さえる。
補佐がつまらないものを見るように啓介を眺めた。
「鬼紙家当主殿、雉も鳴かずばという言葉をご存じかな」
啓介の背中、あふれるように汗が吹き出した。
ついとあかねは啓介の隣に座ると、啓介に笑みを浮かべた。
「叔父様、立派です。叔父様を鬼紙家当主として尊敬いたします」
あかねは補佐に向き直ると笑顔のまま、話しかけた。
「鬼紙家の歴史から計れば、現政権もあんたら戦争屋もぽっとでの素人。素人くんだりが、わかったような顔をして鬼に関わるんじゃねぇ。そういうことです」
目の前の補佐のこめかみがどくどくと、ひきつった。
「面白いなぁ」
あかねは顔を上げると、五人の鬼神兵をじんわりと眺めた。
「やあ、兄さん達、鬼になって気分は最高かい。人間やめなきゃよかったかなぁとか悔いはしないかなぁ」
あかねの挑発に、鬼の足が微かに前方に擦り出され、睨みつける、臨戦状態だ。
補佐が低く呟いた。
「自ら、帰りの扉を閉ざされましたな。障害物排除せよ」
ソファの背に足をかけ、鬼神兵が飛び出した。
瞬間、あかねはふわりと浮かび上がると、独楽のように鬼の首を蹴る、首がちぎれ頭だけが飛んだ、黒はすばやく啓介の体を後ろから抱え、背後に飛び退いた。銃を用意していなかったのだろう、分厚いタガーがあかねの首をなぎ払う、それを緩やかに避けると、あかねは目にもとまらぬ速さで、鬼の剣掴む拳に両手を添え押し出す。すとんと鬼の頭が落ちた。
あわてて、三体の鬼があかねから間合いを置いた。啓介はあかねの豹変ぶりに足が震え、黒が後ろから支えていなければ、立ち続けることも出来なかったろう。
「間合いに意味はない」
あかねは呟くと微かに姿勢を落とした、瞬間、あかねの姿が消える。目が追えない、一人は顔面を壁へと踏みつぶされ、もう一人は胴体が半分にちぎれ、大音響とともに、最後の鬼は頭を床に押しつぶされていた。
あかねは埃を払うように両手を打つと、じわりと右足を上げ、補佐の胸を足で押し出す。額にあかねの足跡を残したまま、気絶した補佐がソファを転げ落ちた。
ゆっくりと足を戻すと、分隊長に向かって、にたぁっとあかねは笑いかけた。
「少し、身のあるお話をしましょう。邪魔もいなくなりましたことですし」
あかねはがくがくと震える分隊長の前に立つとじわりと前かがみになってその顔を睨みつけた。
「おい、聴いているのかよ。拝聴してくださっているのかって訊いてるんだ」
「は、はい。き、聴いております」
あかねはソファに座ると分隊長に言った。
「この分隊は鬼に征服されつつあったところを、鬼紙家の尽力で、鬼と戦う力を得、全
ての鬼を退治した。そういのでいいんじゃないか」
「え・・・」
「物わかりの悪いおっさんだな。そうすりゃ、八方うまく収まるじゃねえか」
「は、はい。その通りです」
あかねは分隊長の胸ぐらを右手で掴むと片手でぐいっと持ち上げた。
「お前、わかってんのか。二十代、三十代、これからの連中を己の欲で鬼にしちまったんだぞ。奴らにも家族があったんだ。妻や子供、これからを約束した恋人がいたかも知れねぇ。みんな、反古にしちまったんだ。鬼の計略にまんまとはまった年寄りの欲でな」
あかねは分隊長の顔をテーブルに擦りつけた。
ふっとあかねは柔らかな笑みを浮かべると、立ち上がり、黒と漣に振り返った。
「分隊長さんもご理解いただけたようです。お二人で鬼退治をお願いいたします」
漣が小さく手を挙げた。
「質問があります」
「はい、どうぞ」
「かなりの数、鬼の気配がする。ただ、鬼のようでもあり、人間のようでもある、そんな気配もあります。どう対処すれば良いでしょうか」
一瞬、あかねは後ろを向くと、分隊長の頭を殴りかけたが、歯ぎしりをしつつ、気持ちを落ち着かせ、深呼吸をする。そして、二人に向き直った。
あかねは嬉しそうに笑みをたたえると言い切った。
「人が鬼に変わるなどあり得ませんし、あってはならないことです。人は人として、人の世界に住み、鬼は鬼として鬼の世界に住めば良いだけのこと、きっと、それは人に擬態しようとする鬼に違いありません。迷うことなく退治してください」
漣がうなずき言った。
「了解した」
ゆっくりとドアを開け、外にでる。慌てて黒も漣のあとを追った。

二人、通路を歩く。
ふと漣が黒に言った。
「あかね先輩も漣も、居場所は師匠のところだけなのです。父は実は気弱な人です、立場上、強くは見せておりますが、漣を恐れています。漣は、この戦争が終わりましたら、師匠の元に参ります。黒さんの可愛い妹になります。どうぞ、お願いですから受け入れてください」
黒はとても柔らかな笑みを浮かべると、漣の手を握って歩く。
「約束。一緒にご飯を食べよう、一緒に働こう、一緒に笑って、一緒に泣こう、一緒に暮らそう。一緒にこうして歩こう」
ぎゅっと黒は握る手に力を込めた。
「漣ちゃんが妹になってくれて嬉しい」
漣はほっとしたように小さく笑みを浮かべたが、改めて表情を引き締めた。
「気がかりがなくなりました」
漣が走る。通路の向こう、幾つもの銃口が向けられていた。迷彩を纏った鬼達だ。
鼓膜をつんざく銃声が通路を充満する。漣が無数の銃弾をすり抜ける、音の数倍の速さだ。その風圧に鬼達の体が浮いた。
黒は自在で流れ弾を払い、壁を蹴る。セメントの壁に大穴が開いた、その向こうは中庭だ。黒は通路を飛び出し、通路と平行に走る。通路を抜けた向こうにある建物、そこに鬼の気配が集中していた。
壁が微塵に破裂する、漣が通路から飛び出した。
「漣ちゃん、鬼は」
「既に血肉の塊です」
こともなげに漣が答えた。
黒は思う、鬼ってなんなんだろう、人とどう違うのか。小夜乃ちゃんは角のある鬼だけれど、とても優しくて面倒見の良い女の子だ。角が伸びてくると幸母さんに切ってもらって、絆創膏を貼っている。洗面所でそっと絆創膏をはがして、伸びていないか、心配そうに鏡を覗くのを見たことがある。まだまだ、子供なのだ。
一際大きな建物、あれが研究棟だ。微かにうなるような機械音。嫌な予感がする。

「二人とも元気だなぁ」
幸は呟くと窓から二人の姿を眺めた。視界の向こう、異質の形をした円柱形の建造物、あれが鬼神化計画にて、人を鬼に変える研究施設だ。黒と漣が向かっている。
「幸お姉ちゃん」
驚いたようにあかねが声をかけた。幸は振り返ると、いたずらげに笑みを浮かべた。
「いきなり顔を出してごめん。二人の護り髪が反応してさ、やって来た」
あたふたとあかねは幸のそばによると、幸の指先の示す方向を見つめた。
「ロボット・・・」
あかねが呟いた。
「映画とかである、パワードスーツって奴だ。かなりの速さと力がある、人なら勢いに振り回されて気絶してしまうだろう、鬼の男は脳が筋肉でできているからな」
幸は笑うと部屋の中を眺めた。
「既に宴の後か」
いきなり分隊長が立ち上がると大声で笑った。
「形勢逆転だな、超強化型パワードスーツXZ?3型、すぐに先程の奴らを殺して、ここに来るぞ。内部絶対零度のアクチュエーター採用、抵抗0が生み出す高速は」
幸は笑みを浮かべると、分隊長に言った。
「うるさい。お前、気絶」
ばたっと、分隊長が白目を剥いて、まさしく落ちた。
あかねが興奮して、幸の服の袖を引っ張った。
「パワードスーツ、三体ですよ、2対3ですよ」
「あかねちゃん、行きたいの」
「はい」
新しいおもちゃを目にした子供のようにあかねが元気よく返事した。
「それじゃ、幸は当主とお喋りしているよ」
あかねは笑みを浮かべると、
姿を消した。
さて、と幸は呟くと、倒れた死体を避けて歩き、鬼紙家当主啓介の前に座った。
「初めまして。幸と申します」
啓介は困惑しどう答えたものかと、次の言葉を思い浮かべられずにいた。
いきなり現れた美少女。あかねと同じか、それとも少し年下。あまりにもこの風景とそぐわない。
「えっと、君も強いのかな・・・」
我ながら、なんて間の抜けたことを言ってしまったんだろう、啓介は頭を抱えた。幸はくすぐったそうに笑うと、啓介を興味深そうに見つめた。
「嗜み程度ですわ。ご安心ください」
幸はそう答えると、部屋を見渡す。壁を染め上げる血の色が黒ずみ始めている。
「鬼紙当主様、不遜なこととは存じますが、少し、込み入ったお話をさせていただいてよろしいでしょうか」
「ど、どうぞ」
幸は頷くと、緩やかに話し出した。
「御当主はあかねちゃんがいなければ、本邸に来てから、五回、死んでいます。二回は毒殺、三回は車中にて、運転手が暴漢となり襲う、すべてあかねちゃんがそうならないように、御当主を護っています」


「これは、御褒美ですよ」
鬼が長刀を振り降ろした。反転しつつ、ふわりとあかねが浮かび上がり、パワードスーツにくるまれた、鬼のこめかみを蹴る。その蹴りを擦り上げた長刀の腹で鬼が制した。
「攻撃を防御してくれるなんて、最高です」
パワードスーツは鬼よりも二周りほど大きい、鬼の姿は、胸から上だけが外に現れている。
「あかねちゃん、この人達、強いよ。どうしよう」
黒の言葉に鬼の攻撃をすり抜けながら、あかねが声を上げた。
「黒さん、実力の六割しか出ていませんよ。しっかりなさい」
あかねは一瞬の間を読み、鬼の刀の根元を両掌で挟み込んだ。超音波寸前の甲高い音が響き、根本で刀が折れる。あかねはそのまま刀を振り上げると、鬼の足の甲に深々と突き刺した。
「一体ずつ、潰していきますよ。黒さん、漣ちゃんに加勢して、まずは一つ、潰しなさい」
「はいっ」
あかねの剣幕にの黒は直立して返事をすると漣に向かって走った。
漣は攻撃しきれずにいた。三メートルはあるだろうか、長刀を振り回す、子供のような鬼の剣技だが、ヘリコプターのプロペラの如くの勢いに臆していたのだった。
走りながら黒が叫んだ。
「音と先端の速さに惑わされないで。それほど速くはないよ」
鬼が振り向いた瞬間、黒は姿勢を地面すれすれまで落とし、片手地面に両足で鬼の膝横を蹴り抜いた。鬼の体が泳ぐ。瞬間、漣が一点集中、自在、鬼の首を貫いた。白煙、抜いた自在の跡から、液体窒素が吹き出し、鬼がそのままの姿で凍り付いた。
黒が振り返ると、あかねは倒した鬼の上に立ち、研究棟を睨んでいた。もう一体は、と黒が素早く目で探す。
凍り付いた右腕が転がっていた。少し離れたところには首、胴体も三つになって、斜めに転がっていた。
あかねちゃんは幸母さんの初めての弟子で、必要以上に教えて過ぎてしまったかなと母さん、笑っていたことがある。
「黒さん、漣ちゃん。一体だけですけど、かなり強い鬼がいます。多分、原種の鬼でしょう」
研究棟を睨みつけたままのあかねの両手に二本の自在が現れた。いや、半分の長さだ。
「幸姉さんなら、素手で大量殺戮も出来ますが、あかねはまだまだその域に至っていませんので、久しぶりに武器を使います」

原種の鬼、黒があかねの言葉を繰り返した。
齢九百年と噂される鬼王と角のある鬼の女との間に生まれた鬼を原種の鬼と呼ぶ、純血種の鬼の上位に位置する強い能力を持った鬼。
黒もたくさんの鬼を見てきたが原種の鬼に対するのは初めてだ。

一瞬、体が反応した。黒は漣をだき抱え跳んだ。
漣の居た場所が黒く焦げ、異臭を放っていた。
研究棟に幾つもの煌めきが見える。
「無粋な」
あかねが研究棟を睨み呟いた。
「あかねちゃん、一度、退却しよう」
黒が叫んだ。
「レーザー励起には時間がかかります。照準が定まり、レーザーが射出されるまでに移動すれば特に問題はありません」
「でも、数が多いよ」

空中で硝子の割れる音がした。
「あれは」
漣が呟いた。
硝子球が割れ、細かな破片がいくつもいくつも重なり、研究棟と三人の間を壁になり渦巻く。
発射されたレーザーが擦り硝子を通して眺める花火のように、乱反射され消えていく。
「お姉ちゃん」
あかねが呟いた。
硝子の壁がそのまま研究棟へと移動していく。そして、研究棟の表面を削り取り、消えた。
ほっと吐息を漏らすと、あかねが呟いた。
「それでは参りましょうか」

幸は啓介に振り向くと、笑いかけた。
「あかねちゃん達、楽しんでますわ」
状況が読めず、啓介は曖昧な笑顔を浮かべるしかなかった。
「話は戻りますが」
啓介が言った。
「姉が狂いだしていると」
「はい。正妻の子である自分が女であるというだけで当主になれない、そのことで、不満や被害妄想に駆られています。正気に戻すには礼子の子を当主とし、後見役を礼子にする。啓介さんは東京本社の代表取締役に専念し、礼子の息子が元服すると同時に退職する。かなりの給料と退職金は用意されるでしょうし、それでいいのではと。もちろん、啓介さんが鬼紙家当主として頑張っていくという決意ならそれで結構ですけど」

幸のすべてを見透かすような柔らかな眼差しに、これはと啓介は理解した。分水嶺、返答如何によって、これからの人生が完全に変わる、啓介の手が汗ばんだ。
意地を、虚勢を張るか、それとも・・・、啓介は大きく溜息をついた。
こういうことは正直に言う方がいい。
「つい先程までなら、幸さん、君の言葉に渡りに船と従っていたに違いない」
啓介が思いきって顔を上げ、幸を見つめた。
「と、申しますと」
「困ったことに、あかねからね、鬼紙家当主として尊敬するなんてね、言われてしまったんだよ。だから、結果として、幸さんのいう形になるかもしれないけれど、それを前提にすることは、私には出来ないんだ」
表情を変えぬまま、幸が呟いた。
「男という存在にはあきれますわ」
幸は笑うと、肩の力を抜いて吐息を漏らした。
「せっかく、あかねちゃんの仕事を減らそうと思いましたのに」
幸は立ち上がると、窓辺により、研究棟を眺めた。三人は既に研究棟に乗り込んだようだ。
幸は啓介に向き直ると、窓に腰掛けた。
「せっかくの鬼退治。桃太郎がお喋りに興じているだけでは面白くありません。御当主、原種の鬼を見に行きましょうか」
啓介は深呼吸をし、唇を噛みしめると、立ち上がった。
ふと、幸は思いついたように、窓の桟に立つと、左手を前に出し、その手が消えた。
「わっ、うわっ。な、なんですか。幸母さん」
服の衿を幸の左手に掴まれた三毛が現れた。
キャベツを抱えたままの三毛が唖然として周りを見回した。
「な、なんですか、これ。血だらけですよ」
幸は三毛の前に立つと笑みを浮かべた。
「いい機会だ。原種の鬼を見ておけ」

研究棟地下、体育館ほどの広さ、煌々と灯りがともり、燕尾服にステッキとシルクハット、但し、その背は三メートルはあるだろう、鬼が宙に浮いた安楽椅子に腰掛けていた。
幸と三毛と啓介の三人は壁を抜けるように現れた。
三人の位置は、ちょうど鬼の背後になる。
「あれが原種の鬼」
三毛が呟いた。
その声に鬼が背を向けたまま嘲るように言った。
「鼠が三匹、迷い込んだようですな」
幸がここぞと鬼の態度にわめいた。
「どこぞの遊園地のかぶりモノじゃあるめいし、こんな可愛い女の子が鼠なわけねえだろう。こちとら、立派な人間様の御一行だ」
鬼の座る椅子がふわりと回り、鬼が正面を向く。
「これは元気なお嬢さんですな」
額に長い角を二本生やし、顔は赤ら顔。余裕があるのだろう、薄笑いを浮かべている。
幸が唇を歪め笑う。
「高間宮王子。お前は鬼王の器じゃないな」
「なんだと」
一瞬で鬼の顔が憤怒に赤く染まった。
三毛は気づいた。いま、幸母さんが勝った。戦いは既に始まっていたのだ。鬼の感情がぶれ、もう力を充分に発揮することは出来ない。
「鬼王もそう長くはない、お前は他の原種の鬼を出し抜くため、人の科学技術を得ようとした、その時点で鬼王失格なんだよ」
「お前、何者だ」
鬼の怒声に怯むことなく、幸が言い放つ。
「直近の部下に裏切られるような沸点の低さと、その上、人望の無さではしょうがねえな」
幸の狂言とはったりが効を奏した。鬼の両手が怒りに震える。
幸母さんのはったりに、いま、鬼の頭の中では裏切り者の部下を思い当てようと必死だ。
風切る音。
あかねが鬼の首を自在で切りつけた。

鬼がするりと避けた。
瞬間、黒と漣が凪ぐ。三人の刃と化した自在を、鬼は慌てるふうもなく、避けていく。
幸が悔しそうに額に手をやる。
「うひゃぁ、奇襲でも全然、かなわねぇ。ま、いい。これも勉強だ。三毛、行ってこい」
「はいっ」
三毛はキャベツを横にいた啓介に手渡すと、飛び出した。
「御当主、うちで穫れたキャベツだ。帰ったら食ってくれ。千切りにして大蒜醤油で食えば最高だ」
幸はそう言うと見上げた。
全く格が違う。四人の動きが逆に遅く見える。
「ただの筋肉馬鹿じゃねえってことか」
「これはピンチってことかなぁ」
啓介が思わず呟いた。
ふぃっと幸は見上げると、啓介に笑みを浮かべ言った。
「大丈夫ですわ。だって、私が居りますもの」
「なら、安心だ」
啓介が笑みを浮かべた。
「面白いおっさんだな。あかねちゃんが肩入れするわけだ」
幸は四人に声をかけた。
「撤退だ、戻ってこい」
幸の言葉が終わるよりも早く三毛は戻ってくると幸にしがみついた、怖かったのだろう、肩が震えている。黒とあかねも漣の手を引き戻ってきた。
三人とも激しく息をし、床に座り込んでしまった。
「黒、びびったか」
涙目で黒が頷いた。
「あかねに漣もお疲れさま」
幸は軽く三毛の肩を叩くと、前に出、鬼から五人を守るように立ちはだかった。
「おや、心地よい風が吹いていたのですが、止まってしまいましたな」
鬼が平気な顔をして言う。
「こら、赤鬼。とっとと鬼の世界に帰れ。ここは人の世界だ」
「なにを今更」
鬼はやっと幸に向き直ると笑いかけた。
「それは降参ということでしょうかな」
幸は一瞥をくれると、大声で鬼に言った。
「およそ千三百年前、人と鬼との約定により、お互い不可侵が成立したはず。その約定を違えるは許されない。ここは人の世界、直ちに鬼の世界に帰れ」
「ほほう、古い話をご存じですな。しかし、ここの責任者、なんと言いましたかな、小太りの男ですが、この棟を私に譲渡すると申しましたぞ、ならば、この棟は鬼の世界の飛び地のようなもの、つまり、そちらが不法侵入者ということですな。確か、進入者は如何様にされても不服は出せないと約定にありましたな」
幸はにぃいっと唇を歪め笑う。
「残念だったな、ここは民主主義の国だ。どこぞのえらいさんが仰る言葉より、民意の方が優先されるんだよ。この場で民意はあたしだ。ここは人の世界、だから、とっとと帰れと言うんだ」
「無茶なお方だ」
鬼の方が幸の言葉にあきれる。一体、これほどの自信が何処から出てくるのか。鬼は不思議に思った。
幸はふっと肩の力を抜くと、優しく言う。
「なら、ゲームをしよう。それで決着を決めるのはどうだ」
「ゲーム、ほう、どんなゲームですかな」
幸はふと俯いたが、顔を上げると鬼に言った。
「サッカーをしよう。あたしが向こうの壁中央に蹴る、それをあんたが止めるって寸法だ」
「ふむ、しかし、ボールがありませんな」
幸が不思議なものを見るように言った。
「いや、あるだろう。あんたの首の上、すとんと落としてやるから、それをボールにしよう、中身、詰まってなさそうだから、よく弾むぜ」
鬼は一瞬、幸の言葉が理解できなかった。
「原種の鬼ってのは、生命力が強いらしいな。首切ってもしばらくなら生きていて、繋げば元通りになるってじゃないか。首のないお前さんがうろうろする、こりゃ見物だな」
鬼の顔が一気に充血した。
椅子から飛び降りると、幸の前に仁王立ちになる。。
「生意気な小娘が。先程からの無礼。どうしても私を怒らせたいようだな」
吠える鬼の怒声が床を震わせた。
「いや、怒るかどうかはあんた次第。つまりは己の器量ってもんがどれほどのもんか、ちぃぃっと見せてもらったわけだ、まっ、図体の割にはちんけな奴だってことだな」
平気な顔をして幸は笑うと、ふわりと右手に自在を取り出した。
鬼を睨みつけたまま、幸が声を上げる。
「三毛、俯くな、顔を上げろ。黒、いつまでも泣いてるんじゃない。あかね、しっかり見ていろ。漣、お前は修行のやり直しだ、もう一度、鍛えてやる」
はっとあかねが顔を上げると倖に駆け寄った。そして、二人の動きがよく見えるよう、少し離れ、正座する。

慌てて三人もあかねの隣に正座した。
「この小娘達は何をしている」
赤鬼、高間宮王子があかね達を睨んだ。
すいっと幸が自在を中程に持ち、自然体に構える。
「決まってんだろう。師匠の動きを一瞬たりとも見落とすまいと殊勝な弟子達だ。既にあの子達にお前への恐怖はない。さて、あんたには敬意を示してやろう、高間宮王子。遠慮するな、そのステッキは趣味人気取りの仕込み刀だ、気兼ねなく抜いてくれ」
赤鬼、高間宮王子は左手にステッキを持つと、こいぐちを切る。
間合いは、単純に背の高さから考えれば、高間宮王子の間合い、幸には遠すぎる。
ゆっくり幸は自在を頭の上にかざした。
「あたしの頭の上、この棒にそいつをおもいっきり打ちおろしてくれ」
「どういう意味だ」
「察しの悪い奴だな」
幸はにたっと笑うと言葉を続けた。
「約定に違反した高間宮王子をあたしは半死半生、ぼこぼこにしてやるつもりだ。ただ、どうせなら、死にものぐるいでかかってきてくれる方がこの子達の修行にはいい、あたしがどれほどのものか、まずは、単純な力比べをしょうってことだよ」
高間宮王子の顔色が赤色、幸の言葉に深紅に変わった。
「我が打ちおろさば、その姿、微塵となるぞ」
「しっかり、停めてやるさ。びびったんなら、袈裟でも、横に凪ぎ払ってもいい、斬ると見せて、蹴るのもありだ、もっとも、そんときは、あんたは高間宮王子って原種の鬼から、ただの、赤鬼一号に格下げだがな」
気楽に幸が笑った。
一瞬、高間宮王子の体が大きく広がった、広がった筋肉が降り上げ、直刀を激しく打ち降ろす、しかし、音がしない。
幸の自在と高間宮王子の直刀は確実にぶつかっている。じわりと力が引き込まれ、体全体が吸い込まれる感触に、高間宮王子は慌てて、退くと、幸との間合いを取る。
あかねは二つの棒の交差する瞬間を睨んでいた。あれこそ、力の含みと流しだ、あかねは理解した。高度な身体操作で相手の打撃を無力化する動きだ。
「あたしがどれほど使えるか、合点がいったかい。それじゃ始めるかな。黒、三毛、あかね、漣、ついてこい」
 

四人は素早く立ち上がると、幸の後ろに控える。幸はすたすたと歩くと、高間宮王子の右太股を自在で打つ。呻き声と共に高間宮王子が後ろに退いた。幸の上段が高間宮王子の太股の高さになる。
そのまま、幸は追うと、左の太股を打つ、たまらず、高間宮王子は膝をついた。
黒がその動きを目を見張って驚いた。
幸母さんは普通に歩いている、打つ速さもそれほどじゃない。どうして、あの鬼は打たれるままにいるんだろう。
幸はふわりと浮き上がると、自在を後ろ手に持ち、膝をついた高間宮王子の横面を打ち据えた。勢いに体ごと飛んだ。朦朧とした意識の中で、高間宮王子はいったい何が起こっているのか、理解しようとしたが、自身の膝辺りの背しかない女になぶられているこの状況がどうしても理解できなかった。
起こりがないんだ、黒が気づいた。母さんの動きに滞りがない、起こりもなくて、鬼は動きが読めないんだ、そういえば、鬼が母さんを探すように視線を巡らせている。
母さん、目の前にいるのに。
「落ち着け、高間宮王子」
倒れたままの、鬼の前で、幸が声をかけた。
「少し待ってやろう。倒れている奴を打てば、まるでいじめだ。教育にも悪いからな」
幸は自在を消すと、四人に向き直った。
「漣、久しぶりだ。元気にしてたか」
幸は柔らかに笑みを浮かべると、漣に尋ねた。
「はいっ、元気です」
ふっと、幸は漣の頬に触れる。
「無理しなくていいよ。当分、うちで暮らせ。長にはあたしから言っておく、どうしても手が必要というなら」
幸が黒と三毛を見た。
二人ともうなずく。
「ちょっと、泣き虫だけど、なんとかなるよ」
いきなり漣は幸にしがみつくと、幸の胸に顔を埋めた。
幸は笑顔を浮かべると、漣を抱きしめた。
「あかねは当分、鬼紙家か」
幸の後ろであかねが頷いた。ふと、あかねは当主を思いだした、慌てて辺りを見回す。あっけにとられた顔で、啓介は元いた場所、キャベツを抱いたまま、正座していた。
あかねは駆け寄ると、啓介に言った。
「叔父様、早くこちらへ」
「いや、それがね」
啓介が困りきって答えた。
「腰から下が浮いたような感じでね」
完全に啓介は腰を抜かしていた。
「失礼をお許しください」
あかねは言うと、啓介を後ろから抱え上げ、走る。
途中、高間宮王子の倒れている、その横を通り、一瞥をくれたが、気にする風もなく駆け抜けた。
高間宮王子はあかねのそれを見、怒りに震えた。自意識の高い高間宮王子にとって、それは幸に殴られる以上の侮蔑だったろう。
叫んだ。
「金角、銀角、右角、左角。来い」
声に呼応するように、黒い靄が天井からゆらゆらと降り立ち、形が定まって行く。やがて、高間宮王子の頭一つ分は上背のある赤鬼が四体、現れた。
振り向き、幸は新たな鬼を見つけると、驚いた表情で叫んだ。
「右角様、どうして」
幸は一瞬、しまったという表情で両手で口を隠した。
驚いて、高間宮王子は幸と呼び出した右角を見比べていたが、はっと気づくと、叫んだ。
「金角、銀角。右角を取り押さえろ」
一瞬、金角と銀角は戸惑ったが、右角を二人で取り押さえる。一番、戸惑い途方に暮れたのは右角だろう、呆然と開いた口がそれを物語っている。高間宮王子はなんとか起きあがると、一人、呟いた。
「まさか、右角が裏切っていたとは」
三毛は思う、幸母さんのはったりの続きで、一人の鬼の未来が潰えました、南無。多分、幸母さん、心の中では笑っていると思う。ただ、これで、四体がうまく連携することはなくなったのは事実。
「ごめんなさい、右角様」
しおらしく、しかし、聞こえよがしに幸が言う。
元気を取り戻した高間宮王子が左角に命じた。
「その女を殺せ」
左角が幸の前に立つ。
幸は顔を真上に向け、左角の顔を眺めた。
「無駄にでけえな」
幸が呟く。この地下のホール、かなり天井は高いが、それでも、少し飛び跳ねれば、頭をぶつけるかもしれない。額に角一本の赤鬼だ。
幸は右のつま先を軽く上げ、地面をとんと打つ。ふわりと浮かび上がり、左角と同じ目の高さになる。そして、静かに言った。
「お前さんの上司はあたしを殺せと言う。命令通り、あたしを殺すのかい」
「それが命令とあらば」
静かに左角が答えた。
「ここは人の世界。古の約定により、あたしは高間宮王子を打ち据えた。義はこちらにある。それでもあたしを殺すのか」
微かに左角の眼が泳いだ。
「左角。十年ほど前までは、鬼の世界も平和だった。それが、鬼王の力が弱まると同時に、原種の鬼達が跋扈しだし、お互いが次の鬼王になろうと争いだした」
師匠の騙りが始まった。漣が息を飲んだ。相手の記憶を読みながら、同時に状況判断、有利に対象を操る特殊操法。師匠は効率よく鬼の中に反乱分子を創りだそうとしているんだ。

「階級制も緩み、いくらかは自由なりだした社会が、原種の鬼の台頭によって、随分、息苦しくなったろう、原種の鬼同士が反目しあい、争いが増えた。階級社会が一気に復活した。そうなると、上が戦争を始めれば、下は追従するしかないわな」
幸が目を見開き、左角を見つめる、左角は、まるで、その目に吸い込まれていくように感じた。足が不安定になり、寄って立っていたはずの何かが、まるで幻のように思えてくる。
「お前には子供がいるだろう。高間宮王子の供で、なかなか、家族に会えない。そんな、お前が久しぶりに息子に会ったとき、お前、どう思った、子供の、その変貌ぶりだ」
「お、俺は・・・」
左角が言い淀む、左角が言葉にしたくないこと、言葉にすればそれを直視なければならなくなる。
左角の足が微かに震えるのに漣が気づいた。
高間宮王子が怒鳴った。
「何をしている、早く奴を殺せ」
漣にはわかっていた、既にあの左角という鬼には幸師匠の声以外、何も聞こえないことを。
あ、折れた、あかねが心の中で呟いた。左角が膝を曲げ、正座すると、幸に頭を下げたのだ。ここからでは、幸姉さんの顔は見えないけれど、慈愛に満ちた笑みを浮かべているのだとあかねは思う。幸は地面に降り立つと、左角をそのままに、黒達の元に戻ってきた。
「な。男なんてちょろいもんだろう」
にっと笑うと幸が小さく呟いた。
「母さんってば」
黒が呆れたように呟く。
漣が幸に走り寄った。
「幸師匠」
「漣」
雪は漣をしっかりと抱きしめ、耳元で囁いた。
「漣、全ての存在が幸せな世界は論理的に成り立たない、世界が加速度的に膨張しない限りはな。ただ、誰もが少しずつの不満を持ちながらでも生きていく、そんな世界は可能だ。お前は母を殺した鬼を八つ裂きにしたいかもしれない、でも、それはお前自身の心を八つ裂きにしていくことでもあるのだよ」
幸は瞬きせず、漣を見つめ、もう一度、漣を大切に抱きしめた。
漣の頬が火照り、足に力が入らない。
「幸師匠のお考えのままに」
喘ぐように漣が呟く。
漣の力が抜けよろけそうになるのを、黒と三毛が走り寄って、漣を支えた。
幸は二人に漣を預けると、ようやく体を起こし、立ち上がりかけた高間宮王子の前に立った。
「よう、面白いことになったな」
幸は見上げると、高間宮王子の顔を見て笑った。
「お前、何をした」
「ん、ちょっとお話しただけさ」
幸はふわりと浮かび上がると、高間宮王子の目の前に浮かんだ。
「高間宮王子。お前、私の命令を聞け」
「なんだと。そんな女子供の言うことを、原種の鬼たる」
ぐいっと幸が自在の先端を高間宮王子の頬に押しつけた。
「な、何をする」
押されたまま、呻いた。
幸は呆れたように息を漏らすと言った。
「わかってんだろう、あたしに勝てないってことがさ。だから、この棒を振り払うこともせず、状況に甘んじているわけだ。面倒くさいな、男ってのはよ」
「お、おのれ。小娘が」
歯ぎしりをするのだが、手が出せない。

高間宮王子は心の奥底から蠢きはいあがってこようとする感情、この恐怖という感情に初めて遇し、すぐにでもこの場から逃げ出したいと思っていた。しかし、その自身の感情を認め、逃げ出すことは原種の鬼として出来ようことではなかったのだ。
「お前は俺に何をせよと言うのだ」
高間宮王子が微かに俯き言った。
凄い、母さん、三毛が息を飲んだ。あの鬼を手懐けてしまった。あんな強い鬼を。三毛は黒に声をかけようとして黒のジャージの裾をちょっと引っ張る。漣を支えながら黒も頷いた。
「幸母さん、どうするんだろう」
「多分、漣ちゃんがうちで暮らせるように展開させるんだと思う」
黒が囁いた。そして、あかねを見る。あかねも頷くと、幸に視線を戻した。
「まずはあたしの前に並べ」
そして、幸は振り返ると金角に言った。
「右角を離してやれ、首がしまって白目向いているぜ」
幸が笑った。
「左角も来い」
幸の言葉に左角は駆け出す。五体の鬼が幸を前にし、神妙に正座した。
「高間宮王子、お前は鬼王の器じゃない。お前はたくさんの鬼の信頼を集め、治世を行うというより、体制に対する反逆者、歌舞伎者だ。わかるか、高間宮王子」

「歌舞伎者・・・」
高間宮王子が言葉を繰り返した。
幸はすいっと視線を巡らせると言った。
「一族と共に鬼王から独立せよ。そして鍾馗と連携せよ」
驚きのあまり、五人の鬼は口を開け放ち、呆然とお互いの顔を見合わせた。
「出来るはずがない」
高間宮王子が叫んだ。
「鬼王と、その近衛兵が怖いか。多くの鬼を敵に回すことに竦みあがっちまったか」
幸が静かに言った。
「お前の領地は一部、鍾馗の国と接している。鍾馗の長と不可侵条約を結べ。鍾馗も戦で人口が減った。うまく交流すれば、お前の領地も今よりは豊かになり、誰もが少しずつの幸せを得ることが出来るだろう」
高間宮王子が俯き、ぐっと拳を握った。不安げに金角達が高間宮王子を横目で伺う。

黒があかねに囁いた。
「あかねちゃん、これって」
あかねは黒の横に寄ると呟いた。
「これは歴史的事件です。鍾馗と鬼は数千年、争ってきました。それが一部とはいえ、和解するかもしれない瞬間です。大変な歴史的転換ですよ」
あかねが高間宮王子を見つめた。
高間宮王子が顔を上げ、はっきりと言った。
「わかった。鬼王から独立しよう。そして、鍾馗との交流も努力しよう」
幸はふっと笑みを浮かべると、小さく頷いた。
「高間宮王子、お前を認めてやろう。ならば、二つ、餞別をやる」
ふわっと幸の手のひらに硝子球が浮かんだ。
「まずは結界だ。お前の領地を結界で包んでやる。中から外へは出られるが、外から中には入ることが出来ない。門は鍾馗の領地側に一つ用意してやろう」
すいっと硝子球が消えた。
「さて、もう一つは鍾馗のことだ、これは長を呼び出せば早いな」
すっと幸が右手を横に伸ばす、その手が消えた。
「図体がでけぇから重いな」
幸が勢いをつけて、右手を引き戻す。ぶわっと鍾馗の長がたたらを踏んで現れた。
長には天井が低く、前かがみで、長が辺りを見回す。
「何処だ、ここは」
鬼が呆然とした表情で鍾馗に見入っていた。
「やぁ、久しぶりだな、長」
声に長が振り返る、幸の姿を見つけた途端、怯むように体を後ろに引いた。
「なんだよ、可愛い女の子相手にさ。落ち込むじゃねぇか」
幸が嬉しそうに笑った。
「お前はどうして」
「御足労痛み入る。なに、たいした用事じゃない。原種の鬼 高間宮王子が鬼王から独立した。長よ、不可侵の条約を結べ。高間宮王子には話を通してある」
高間宮王子も左角も、いまの状況をどう判断すればよいか理解できなかった。鬼王とも比肩するという、鍾馗の長を呪も唱えず力ずくで呼び出し、いきなり命令をする。これは現実のことなのか、それとも長い夢なのか。
あかねは息を呑んだ。目の前で大変なことが起こっている。歴史的転換だ。
「これは、人の出る幕じゃないねぇ」
呆然と口を開けたまま、啓介が言った。あかねはすっかり啓介の存在を忘れていたが、そんなそぶりは見せず、啓介の言葉に頷いた。
「叔父様、僥倖です。人の身でこの場に居合わせるのは」
啓介が頷き、見上げる。
一つの場所に鬼と鍾馗が争うこともなく、お互いを眺めている。共に次の言葉が整理つかないのだろうと啓介は思う。
それにしてもと思う。この幸という、あかねよりも少し年かさの女の子はいったい何物だ。無という希代の魔術師がいるという、あかねがその弟子なら、この女の子が無なのか。無についての情報は極端に少ないが、男性だったはずだ。なら、この女の子は無の娘と云うことか。しかし、たとえ、この子が無の娘としたにしても、遙かに人の域を越えている。
無とて人であるなら、その域は限れる。術も使わず鍾馗の長を呼び出すには、遙かに格が上でなければならない、人より上位の存在であるという鍾馗を呼び出すということは、この女の子は人ではないのか。
「叔父様」
あかねが啓介の上着の裾をそっと引く。俯いて考え込んでいた啓介が顔を上げたとき、信じられない光景が目の前に広がっていた。
鍾馗が片手、高間宮王子が両手で握手をしていた。
「叔父様、人は出遅れました」
「あぁ、だね。でも、良いんじゃないかな。人は混乱をもたらすよ」
あかねは目を見開き、啓介の目を見つめたが、ふっと笑みを浮かべると、小さくうなずいた。
幸は長を送り返し、高間宮王子に言った。
「対等な条約だ、物怖じするなよ。正式な締結には私も行く、邪魔が入らないようにな」
幸は笑みを浮かべると、言葉を続けた。
「善き心を育てよ」
高間宮王子一同、まるで幸の部下になったかのように深々と頭を下げる。幸は王子一同を送り返すと、ゆっくりと着地した。
「幸母さん、凄いです」
幸がにっと笑った。
「お父さん以外の男は単純だ、ま、これで、漣もうちで暮らし易くなる」
「それだけのために」
黒が驚いて言葉をついだ。
「あぁ、そうだ、それだけだ」
幸がはっきりと言い切った。
ふっと幸は啓介を見つけ言った。
「二日後に条約締結だ、鬼紙家も一枚かんどけ」
「それは人を牽制するためですか」
啓介が言った。
「察しが良いな。ただ、人のお偉方を敵に回すかもしれない、臆したのならかまわないぜ」
「貴方を敵に回すより、ずっと素敵だと思います」
啓介は本心からそう言った。
「案外、あんたは当主に向いているかもな」
幸はそう答えると、気持ちを切り替えるように大きく深呼吸する。
そして、少し緊張した面持ちで唇を横に引く。しかし、ふっと力を抜くと、頬に両手を添えて口角を上げ、極上の笑みを浮かべた。
まるでドアを開けるように、空間がドアの形に穿たれ、目の前には、畑を背にした、なよが幸を睨みつけていた。
「わぁ、なよ姉ちゃん、大好き」
ばふっとなよに抱き着くと、幸はなよの胸に顔を埋めた。
「なよ姉ちゃんはおひさまの匂いがするよ」
ふっと幸は笑みを浮かべたまま、顔を上げた。
「だめかな」
「知らぬうちに抜け出しおって。わしの性分は知っておろう。許すと思うか」
なよは引きつった笑みを浮かべた。
「頑張って収穫します」
幸は素早く答えると、畑と駆け出した。ふと、なよは黒達が呆然とその有り様を眺めているのに気が付いた。
「ぼぉっとするでないわ、もうすぐ運送業者がやって来おる、それまでに収穫を済ませねばならんぞ」
「はいっ」
あたふたと黒と三毛が畑へと走る、
「おや、漣ではないか、ちょうど良い、お前も手伝え」
「頑張ります」
あたふたと漣も畑へと走った。
「なんじゃ、あかね。そのおっさんは」
あかねも少し緊張しつつ、答える。
「あかねの叔父様です」
「ん、となると鬼紙家の当主か。なるほど、よう見れば、三代目とよう似ておる。初代と二代目までは野獣のような奴じゃったが、三代目はひ弱でのう。ま、鬼紙家の当主ならばこちら側の人じゃ。遠慮なく、収穫を手伝うてよいぞ」
「叔父様。なよ姉様の気が変わらぬ内にどうぞ」
訳の分からないまま、啓介もあかねの後を追った。
なよは切り取られた空間を覗き込み、地下の様子を眺めた。
「なるほど、高間宮か。あいつは阿呆じゃからな、扱い易いわい」
なよは撫でるようにして空間を綴じる、目の前には、いつものように裏庭に面した洗濯物が翻っていた。

「なよ母さま。後で、皆さんに謝ってください」
小夜乃がキャベツを幾つも抱え、なよに言った。
「小夜乃は厳しいのう」
頭を抱えるように、でも、何処か嬉しそうになよが答えた。
「なにやら、デパートなるものと、約束してフェアだとかいうものをするというから、このように慌しくなるのです。これでは、商店街に買いに来てくださるお客様の分がなくなります」
「悪い、悪い。今回だけじゃ、勘弁してくれ」
なよは、小夜乃の抱えていたキャベツを下から抱えあげた。
「ああ、忙しい、忙しい」
逃げるようになよが行く。
「もう。なよ母さまったら」
小夜乃が仕方なさげに呟いた。

(後半、面倒くさくなり、随分と端折ってしまいました。後日、文章を付け加えるかもしれません 2014.06.10)

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異形 月の糸 四話

「あのね。お父さん、いいかなぁ」
夜、襖の向こうで黒の小さな声がした。
男は椅子に座ったまま、視線を襖の向こう、黒、白、三毛の姿を捉えていた。
「どうぞ、お入り」
男が声をかけると、三人が俯き入って来た。
「どうしたんだ、暗いなぁ」
突っ立ったままの、三人に笑いかけた。
「布団の上に、お座り。いいから」
男が促すと、おとなしく、三人、布団の上に正座をする。
「何か悩み事かな」
我慢しきれなくなったのか、俯いたまま、黒がぼろぼろと涙をこぼす。
男は椅子から離れると、三人の前に座った。
「なんだか、大問題のようだな。よし、父さんが解決してやるぞ。だからね、何があったのか話しなさい」
それでも、黒はしばらくの間、声に出せず俯いていた。
「黒は、役立たずです」
消え入るような声で、黒が言う。
男は静かに黒を眺め、その頬に右手を添えた。
「父さんも幸もね。黒が役に立つかどうかなんてね、考えていない。ただ、自分達の娘が幸せに楽しく生きていきますようにってね、願っている。まずは、それを忘れないでくれ」
男はそっと手を戻すと、笑いかけた。
「昨日、たくさんの鬼と戦ったらしいね、最後には高間宮の原種の鬼まで出て来たそうじゃないか、大変だったな」
「お父さん、あのね」
黒が顔を上げ、思い切ったように男を見つめた。
「黒は一体も鬼を殺せませんでした。漣ちゃんはいっぱい鬼を殺すことができたのに、黒は殺すのが恐くて、気絶させるのが精一杯で役に立たなかったんです」
「戦いの中で、技術的には、殺すよりも、無傷で気絶させるのが方が難しいんだけどな」
男は立ち上がると、椅子に座り直した。
「それで黒はどうしたいんだ」
黒は顔を上げ、男の目を見つめた。
「鬼を殺せるようになりたい。ためらわずに殺せるように」
男は天井を眺め、しばらく考えたが、黒を見つめると、静かに言った。
「それはだめ。だって、自分の可愛い娘が、鬼であろうとさ、命を奪うのをね、求めることなんかできないよ」
困ったなぁと、男は呟くと、ほお杖をつき、うーんと唸る。
ふと、男は黒をじっと見つめると、優しくささやいた。
「ひょっとして、鬼は悪い奴って、黒は考えていないかい、白や三毛は、鬼をどう思っている」
三人とも驚いて、目を見開いた。男が何を言おうとするのか、全く想像できなかったのだ。
男が呟くように語りだす。
「歴史の話をしょう。今から、一千年と少し、昔のことだ、人と鬼との百年戦争があった。すべての史書からその存在は抹殺されている、それほどの忌むべき戦争だった。なよは、月からやってきた戦争の調停者だ。なよを中心とした人と鬼の有志により、戦争は終わったのだけれど、お互いの恨みや怒りはそう簡単には消えない。そこで、人と鬼の不可侵の条約が結ばれたんだ。人と鬼は一切関わらず、その存在を互いのお伽話の中に封じ込めたわけだ」
男は三毛に笑みを浮かべた。
「三毛は桃太郎のお伽話を知っているだろう」
「は、はい」
戸惑いながら、三毛が答えた。
「鬼の世界でのお伽話にも、桃太郎というお伽話がある。悪い人間を退治するってね。つまりは悪い人間がいると同様、悪い鬼がいて、そういうのがこちら側に干渉し、人の前に現れる。つまり、黒も白も三毛も、ある特定の鬼しか見ていないから、鬼全体が悪と思ってしまうわけだ」
「でも、鬼は、角のある鬼は」
白が反論しようとして、はっと気が付いた。
「小夜乃は角のある鬼だけど、白の大切な家族だろう」
白は小夜乃の笑顔を思い出した。白姉様と笑顔を浮かべる、とても大切な妹だ。
「小夜乃は、なよが無茶を言ったり、怒ったりすると、身を呈してなよを勇めようとする。それは母親のなよがとっても大切で、なよがみんなに嫌われてしまわないように願っているからだろうね」

ごく少ない機会だが、小夜乃を連れ、町に出ることがある、三毛は思う。少し、不安げにぎゅっと手を繋ぐ小夜乃、その手が不安を伝えている。でも、にっと笑みを浮かべるのだ、そして言う、三毛姉様、ありがとうって。
男は言葉を続けた。
「一千年以上の時を経て、人と鬼を分け隔てる仕組みが機能しなくなったし、それに乗じて、暗躍する人も鬼も増えた。出会わない方が幸せなこともあるのだけれどね」
男は柔らかな笑みを浮かべると、順に三人を見つめた。
「戦うって言ってもさ、戦い方は無数にあって、直接的に相手に危害を加える戦い方は、その一つにしか過ぎないってことを忘れないでくれよ」
男は黒の頭に右掌を載せ言う。
「黒が幸せでありますように」
同じように白と三毛にも祝の言葉を言う。
「お父さん、ありがとう」
黒がほっとしたように言った。男は笑うと言葉を続けた。
「鬼も婚姻により子を成す。金角には息子が一人、銀角は一男一女、右角は娘が一人、左角は息子が一人。子供をもつ親でもあるということだ」
三人は納得した、一面からしか、世界を見ていなかったことに。
「さて。お悩み相談は終了でいいかい。父さん、眠いよ」
男を残し、黒と白と三毛は、しっかりとお辞儀をし部屋を出る。
声が出せないほど、価値観の変化に興奮していたからだった。
男はふっと力を抜くと、壁に背中を預けた。
「散々、人も鬼も殺してきて、こんなことを言うなんて、茶番もいいところだな。幸乃、父さん、なんだか、三人に申し訳ないよ」
始めからいたように幸乃は男の隣りに、壁に背を預け現れる、そして、男の頭に手を載せる。
「幸い、幸い」
幸乃がそっと笑みを浮かべた。
「幸と幸乃は、常におまえ様を肯定しております。お忘れなさいませぬよう」
 


「十分休憩」
そう智里は、冷たく平次に言い残すと、なよの元へと戻る。梅林での早朝の習練に平次はぐったりしていた。
「お疲れさん、赤光の殺し屋と言われた智里さんだ、さすがに良い動きをするなぁ」
気楽そうに啓子は平次に笑いかけた。
「あんた、誰だ」
平次は啓子の気配に全く気づかなかったのだった。いつから隣りにいたんだ。
「二十分くらいは二人の格闘を見ていたよ、ここで。しかし、平次さん、手加減してもらえてよかった、よかった」
気楽そうな啓子の言葉に、悪態の一つも返したかったが、平次は黙り込む。ここの奴らは、己と強さの質が違い過ぎる。
「あんたら、なんで、そんなに強いんだ」
「いやいや、あたしはそんな強くない」
ぱたぱたと啓子は手を振った。
「あたしは並です。あぁ、あたし、啓子。名前、名乗ってなかったよね」
「俺は・・・、あぁ、知っているんだったな」
啓子は面白そうに笑った。
「鬼紙平次。あかねちゃんの策にまんまと引っ掛かった、優しくて生真面目な兄さんだ」
「策なんて言うな。あかねお嬢様は御当主の守り人に俺をお選びになった、そして、俺はあかねお嬢様のご期待に答えるよう努力する、それだけのことだ」
女で苦労する口だなと、啓子は思ったがおくびにも出さず、笑みを浮かべた。
「あかねちゃんの目は確かだと思うし、しっかり励んでください、では」
鍬を携え、啓子は平次を後にした。
ぱたぱたと白と小夜乃が駆け寄ってきた。白は丸めた銀色のマットを抱えている。
「平次さん、おはようございます」
白が声をかける、平次は軽くうなずくと言った。
「おはよう。白と小夜乃だったかな」
「はいっ」
元気に二人は返事をすると、平次の足元にマットを広げた。
「次の練習のために、平次さんの体を整えます。仰向けに寝てください」
白はそそくさと、平次を仰向けに寝かせつける、そして、マッサージを始めた。
「小夜乃ちゃんは平次さんの首回りをお願い」
「わかりました」
平次にはいま何が起こっているのか、理解できなかった。白の手が肩に触れたと思った途端、仰向けに転がっていた。ここの女達は一体、何者なんだ。まるで、俺は木偶の坊だ。
ほぼ、年齢と同じだけの年数を修行に費やしてきたはずだ、命を賭した戦いを繰り返した、なのに、なんだ、この無力感は。
「なに、ガキが深刻な顔をしておる、見事に似合わんぞ」
なよがにぃいと笑い、平次の顔をのぞき込んでいた。
一瞬、頭で考えるより早く体が動こうとする、体が動かない。
「だめですよ、平次さん。施術中です」
気楽に白が笑った。
「お前はまな板の鯉と同じじゃ、じっとしとれ」

どうとでもなれと、平次はぎゅっと眼を瞑った。
「緊張はだめですよ、力を抜いてください」
白が声をかける。なよが笑った。
「緊張するななどと、白は難題を言いおるな。間抜け面を拝みたいが、畑に啓子が来ておる。ちと、邪魔しに行くかな」

啓子はというと、鍬で畑の畝たてをしていた。崩れた畝を修正する作業だ。
「熱心じゃな、啓子」
「やぁ、なよちゃん」
「なにが、なよちゃんじゃ。調子の狂う奴じゃな。人の姿でわし程、長生きしている奴はそうそうおらんぞ」
なよは落ち着いた笑みを浮かべ、ふわりと空中から鍬を取り出すと、啓子の反対側を作業しだした。
ほぉと、啓子が声を上げた。
「いつも、思うんだけど、どうやっているの、空中から簡単に物を取り出すの。父さんや幸ちゃんも簡単に棚から取り出すようにするけれど」
「たいしたことはないわい。昔の術師なら大抵の者が使うておった。旅するに便利じゃからな。もっとも、ここで使えるのは他にはあかねくらいか。黒も使えんようじゃしな。いや、黒は妹達が危機に陥った時は使いおるのう」

ふと、なよがいたずらげに笑みを浮かべた。
「それより、お前、平次に会ったであろう。鬼紙にはひどい目にあったお前じゃ。意趣返しに、稽古と称して苛めてはどうじゃ」
なよの言葉に啓子が笑った。
「なよちゃんは悪いこと言うなぁ。大学出て、入った会社が実は鬼紙家の財産管理会社、洗脳されて、有象無象の戦闘員、全身タイツに仮面被って。子供向けのテレビドラマかってなもんだけど、まっ、幸ちゃんに出会えたので、ちゃら、ううん、おつりが返ってくるよ」
啓子は手を止めると、ふっと家の方を眺めた。
「結婚は出来なくなったけどね」
「なんじゃ。農家に出入りして、引く手あまたであろうに」
「うちの嫁に来てくれ。言われるけどね、幸ちゃんを思うと、どんな男も頼りなくてガキに見えてしまう。どんな、いい男を前にしても、尊敬出来ないっていうのかなぁ」
「それは重症じゃな。どんな医者でも治せんわい」
なよが呆れて笑い出す、啓子も少し恥ずかしそうに笑った。

「戸惑うな。術で蹴り足は折れないようにしているはずだ。気合入れて、蹴り出せ」
智里が小声だが鋭く声を発した。
智里が右手を前に差し出し、平次がそれを蹴り上げる。あまりにも単純、簡単なことのはずだ、なのに。
まるで鋼鉄の塊を蹴ったような感触だ、足に術をかけていなければ確実にこの足が折れていただろう。
たかが手の平、それも女の小さな手だ。それがどうして鋼鉄の塊を蹴るような衝撃が返ってくるんだ。
最初は自由に組み手をしていたのが、単純な単式練習になる。これでは習い始めのガキではないか。
その様子を見ていた白が思いついたように黒と三毛を呼んだ。
「黒姉ちゃん、三毛」
三毛がエプロンをしたまま駆けてくる、かぬかにうどんの打ち方を教わっていたのだ、黒も御煎餅をくわえながら、
「また、黒姉ちゃん、つまみ食いして」
白が睨むのを恥ずかしそうに黒が笑った。
「黒姉ちゃん、三毛。平次さんを動かします」
白が声をかけると、二人も平次の後ろに回った。
「智里さん。自由組み手をお願いします、平次さんを三人で動かしますから」
白の声に、智里は瞬時に状況を理解し、正面から平次の顔面を右拳、打ち込んだ。同時に黒が平次の左手を掴み、その手を智里の腕に添える、白が平次の右腰を蹴り、左半身に開かせる、三毛が平次の腰を両手で前方に押し出した。黒が平次の左手の平を智里の肘、肩へと流し、智里の顎の下へ、三毛が平次の右太ももを両手で掴み、右足を智里の背中側に引っ張る、白は飛び上がると、平次の両肩を上から落とし、姿勢を落とす。上反りになった智里の横、三毛は浮かび上がると、平次の右手を逆手に持ち、智里の胸の間、急所に肘を落とす。
当たる瞬間、智里は腰の力を抜き姿勢を落とそうとしたが、平次の右足に当たり、落とせない。三毛は瞬間、手を引き戻す。三人がばっと平次から離れた。
「平次さん。経験です、一度、速い動きを経験すれば、上達が早まります」
白が言うと、黒がすっと平次の背後に立ち、右肩を押す、三毛が姿勢が崩れないように、平次の腰を支える。
なんて、練習だ。智里はひたすら防戦に回りながら三人の連携に驚いていた。
茫然と小夜乃はその様子を見つめていたが、はっと気づくと智里の後ろに回った。
「智里さん。がんばれ」

三毛の帰りが遅いとかぬかもやって来た。小夜乃が懸命に智里を応援しているのを見て、とにかく判官びいきのかぬかも、小夜乃の横に立って叫んだ。
「しっかり、智里さん」
智里は驚いていた、自分が声援されている。
こんなことは初めてだ。常に影の存在で戦う姿を見られることもなく、修行時代、いままでの師匠達からも罵声しか浴びたことがなかった。欠点を挙げつられ、否定されることしかなかったのに。

「面白いことをやっておるな」
小夜乃の声を聞きつけ、やってきたなよと啓子は二人の様子を興味深そうに眺める。
「智里が見るからに劣勢じゃのう」
「そりゃ、そうですよ」
多分、平次がいなければ、そく3人は智里を制していただろうなと啓子は思うが、それをいうと平次がかわいそうだなとも思う。言わぬが情けというやつか。
不意になよが啓子の腰、後ろに手をやった。
「啓子。お前も参加してこい」
ぐわっと啓子の体が浮いた。なよが右手だけで、啓子を智里に向けて投げ飛ばしたのだ。

高さ三メートルは充分、足から着地した瞬間、前転、空中で受け身を取り、勢いを抑えると、啓子は智里の後ろに潜込んだ。低い姿勢から、智里の両肩の中央に右の掌を添える。
すいっと啓子が右掌を右の肩に流す、スイッチを押されたように、智里の右手が伸びる、平次は流しきれず、両手で智里の    掌打を搦め捕ろうとする、まるで蛇だ。
智里の腕がまるで蛇のように平次の防御を擦り抜ける、すぃっと啓子が智里の左肩を右に押す。
弾かれた、平次の腕の中で、何かが爆発した、素早く黒が平次を後ろに引き、間合いを開ける。
「今のって」
知里が呟いた。
「虚実の掌打。虚から実に変化することで、全方位に衝撃を与える」
啓子は簡単に解説すると、言葉を続けた。
「次は蹴りでやってみよう」
開いた間合いに、智里の左の蹴りが走った。

「若い人は元気だ」
男がなよの横で呆れたように言う。
「二人とも強くなるぞ」
なよが男に言った。
「まぁ、平次君には一週間しかないからさ。でも、そろそろかな」
男の言葉になよが頷いた。
「双方やめい。そこまでじゃ」
なよの言葉に二人と四人、瞬時に固まった。
「黒白三毛、平次の筋肉を解せ。特に白、血流を調整じゃ」
なよは言うと、知里に歩み寄った。
「知里、勉強になったか」
「は、はい」
「よし」
なよは小夜乃に向き直った。
「知里の筋肉を解せ。それから、かぬか。お前は風呂をわかして来い」
「わかりました」
かぬかが家へ向かって走る。小夜乃が知里を座らせるのを確認した後、なよはにっと啓子に笑いかけた。
「啓子。いつの間にやら、随分、強くなったではないか」

「え・・・」
微かに啓子の顔が引きつる。
「何をびびっておる、単純に褒めただけじゃ」
呆れたようになよが笑った。
「えへへ。頑張りました」
「虚実は刃帯儀の基本じゃ。ついでに教えてやろう」
「いいの。これからは、なよ師匠と呼ばせていただきます」
啓子が目を輝かせた。
「いらぬわ。今まで通りで・・・、いや、ふむ。普通になよ姉さんと呼べ。そうじゃ、啓子は知里に虚実を教えろ。いずれは知里にも刃帯儀を教えてやるつもりじゃが、基礎の基礎から教えるのは面倒じゃ。わかったな」

ふっとなよが家の方を見る。
「風呂が沸きだしたようじゃ。啓子、知里をおぶって風呂にほうり込んで来い。小夜乃も行け」
「わかりました、なよ姉さん」
啓子は元気に返事をすると、軽々と知里を背負った。
「啓子さんは嘘つきですよ」
小さく、知里は呟くと恨めしげに睨む。
「えぇっ、そんなことないよ」
「啓子さん、自分は農業要員で格闘技なんて全然、っておっしゃっていました」
啓子が楽しそうに笑った。
「ごめん、確かにそう言った。だってさ、面倒臭いもの」
啓子は正直に言うと、ごめん、ごめんと言葉を重ねた。

三人を見送り、なよは平次の顔を覗き込んだ。
「少しは息が整ってきたようじゃな。父さんも絶妙なところで止めおるのう」
既に、男は姿を消していた。
「あの啓子という女」
平次が呟いた。
「俺にも自分は並だと言っていた」
愉快になよが笑った。
「それは本当じゃ、ここでは並の腕前じゃ」


幸はあさぎの隣りに立つと、見上げてにっと笑った。
喫茶店、モーニングの客が帰り、ほっと一息つく時間。
「あさぎ姉さん、お疲れさま」
「幸こそ、手伝ってくれてありがとう」
幸は少し恥ずかしげに微笑むとカウンター、目の前の客に笑いかけた。
「まだ、お客さんが一人残ってんだけどね。しっかり終わった感で喋られるのはなぁ」
佳奈がちょっと拗ねたように言う。
「しょうがないよ。佳奈さんは身内だもの。幸のお姉さんだからさ、手伝ってくれてもいいくらいだよ」
「接客は魚屋で勘弁してよ、たまには私も客でいたいんだから」
幸は笑うと、佳奈の隣りに腰掛けた。
「どうしたの、佳奈姉さん、落ち込んでる」
佳奈は俯き溜息を漏らすと、呟くように言った。
「私、おばあちゃんになるかもしれない」
「えっと、それは」
幸がそっと笑みを浮かべた。
「健君が十八歳、恵美ちゃんが十六歳だったよね。どっち」
俯いた佳奈が呟いた。
「恵美が妊娠していた」
「ということは」
幸が言葉をつないだ。
「相手の男から、慰謝料ふんだくった上で、殴りつけてボコボコにして、簀巻きにしてどぶ川にほうり込めばいいんだよね」
幸は椅子から降りると、にっと笑った。
「女の敵は許さない」
慌てて、佳奈が手を振った。
「いや、あの、そこまでは」
「馬鹿者」
なよが裏口から店に飛び込んでくると、幸の頭をはたいた。
「ものには加減というものがあるわ。それに、佳奈、幸の極端な男嫌いは知っておろうに。こやつに相談すればどうなるか考えろ」
「だって、なよ姉さん」
拗ねるように言う幸をなよがぎゅっと抱き締めた。
「その男に母親が居れば、お前を憎み続けるじゃろう、それが恨みの連鎖になる。たとえ、居らずとも、お前の行為による禍根はあちらにもこちらにも穿たれることを忘れるな」
なよは力を緩め、幸に言った。
「カウンターを見てみい」
あさぎがカウンターの向こうで震えながらしゃがみこんでいた。
「あさぎ姉さん」
幸が呟いた。
「姉をびびらせるのではないわい」
なよは振り返ると、あさぎに声をかけた。
「いつまで、狼狽えておる、顔を出せ、あさぎ」
「は、はいっ」
あさぎは立ち上がると、はにかみながら幸に言った。
「頼りない姉でごめんね」
幸が大きくかぶりを振り、小さくごめんなさいと呟いた。
なよは大きく息を吐き出すと、カウンターに腰掛けた。
「片手間に、鬼と鍾馗の条約を締結させたと思えば、この有り様、釣り合いが悪いのう。ま、それも、幸、お前の個性じゃ」
なよは笑みを浮かべると言った。
「あとはわしに任せろ。父さんに泣きついてこい」
なよが幸の背中を押す、唇を噛んで幸は、自分が泣き出すまでに男にしがみつきたいと走った。
なよは小さく吐息を漏らし言った。
「さて。恵美はどうしたいと考えておる、いや、佳奈、何故、恵美が妊娠していると気づいた。恵美が言うたのか、それとも頭の中、覗いたのか」

幸は川で釣りをしている男の背中にしがみついた。男はすっと顔を上げる、それと同時に二人を水の結界が包み込んだ。
「どうしたんだ。泣いてさ」
「幸は悪い娘です」
「ん、幸は善い娘じゃなかったのかい」
「だって・・・」
男は少し笑うと、竿を横に置き、幸に振り返った。
「なるほど、あさぎを恐がらせてしまったか」
男は人差し指で幸の涙を拭った。

 

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異形 月の糸 一話

「幸はお父さんが好き。お父さんは幸が大好き」
男の部屋、事務椅子に座る男の背もたれに手を添え言った。
「あれ、父さん、幸が好きだったかなぁ」
「ええっ、お父さん。お父さんは幸が好きだよね、ねえったら」
「ちょっと待ってくれよ、父さん、思い出すからな。父さんは幸が好きだったかな、どうだったかなぁ」
「思いだせ、お父さん、思い出せっ」
幸が男の後ろでぴょんぴょん跳ねながら歌う。ふと、男が顔を上げた。

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異形 月の糸 二話

「お父さん、かんてき、持って来たよ。炭もあるからね」
黒が七輪と炭を入れた袋を両手に満辺の笑みを浮かべていた。
「黒、口元。ほら、涎が出ているぞ」
男が笑った。慌てて、黒は荷物を降ろすと、袖元で口を拭った。
恥ずかしそうに黒が笑う。
「面白いな、黒は」
男も楽しそうに笑うと糸の先に視線を戻した。
梅林を越えたところにある小川、その辺で男は魚釣りをしていたのだ。
「黒。いっぱい食べろよ、父さん、大きいの釣るからな」
「うん。ピクニックみたいでわくわくするよ」
男は満足げに笑みを浮かべると、ふぃと視線を糸の先に向けた。くくっと浮きが沈む。すぃっと併せ、竿を上げる、銀にきらめく魚を釣り上げた。
黒が目を輝かせ、魚を受け取った。
「大きいよ、三十センチくらいある」
「皆が来るまで、ちょっと試食しようか」
「しよう、しよう」
黒は器用に魚を三枚に降ろし、酢を塗り、塩を振った。七輪に載せると、しばらくして香ばしいにおいがあたりに漂いだした。
「お酢をつけると香ばしくなるって、あさぎ姉さん言ってた」
「いいにおいだ。ん」
ふっと、男は視線を上げた。黒の後、黒も振り返ると、遠く、ぼぉっとした表情で歩く智里を見つけた。
「おおい、智里さーん、こっち、こっちだよ」
黒がぴょんぴょん飛び跳ねながら大きく手を振った。
焦点定まらないままに、智里は立ち止まり、ぼぉっと眺めていたが、意識を取り戻すと、足早に駆けてきた。

「申し訳ありません。先生、黒さん」
「謝る必要は何もないよ。ね、智里さん、具合はいかが」
心配げに黒が智里の顔を覗き込んだ。
「住まわせていただいて、三日になりますが、時々、足がふわっとなってしまって、気持ちも良い気分で、何も考えられなくなってしまいまして」
黒が不安そうに男を見つめた。
男は安心させるように笑った。
「一週間もすれば無事に生活できるようになるよ。智里さんはね、二十代半ばだけれど、人が身につけることのできる技量ぎりぎりのところまで格闘術を身につけた、酷い修行でね。その負荷が当たり前になっていたところから、不意に解放されて、感性が戸惑っているんだよ」
智里は不思議に思う、家の裏庭がこんな広大な土地になっていること、そして、この男性は一体何者なのだろう。皆からお父さんと呼ばれる、少しやつれた感じの中年男性、特に特徴も無く、町ですれ違っても、思い出せないほどの。
「智里さん、今日はなよも機織りに専念すると言っている、ゆっくりしたらいいよ」
男は黒に目をやり言った。
「魚が焼けたぞ。智里さんと分けなさい」
黒は嬉しそうに頷くと、半身を皿に載せ、お箸を添えた。
「どうぞ、智里さん」
「あ、ありがとうございます」
男も笑みを浮かべ頷くと、釣りを再開した。
「美味しい」
智里が呟いた。
黒も魚を食べる。にっと幸せそうに笑みを浮かべた。
「智里さん、いっぱい食べてください」
男が苦笑する。
「頑張って釣るよ」

三毛と白がそれぞれ長机を頭上、高く掲げ走ってきた。その後を小夜乃が折り畳み椅子を両手に二つ、走って来る。小夜乃も今はすっかり元気になっていた。

「お父さん、ここに机を置くよ」
三毛と白が机を並べる。そして、小夜乃が椅子を組み立て並べた。
「まだ、椅子が要りますわ。黒姉(ねえ)」
白が言った。
「わかった、取ってくる」
黒がすぃっと家に向かって駆け出した。白と三毛も後を追った。
「みんな、元気だなぁ。小夜乃もすっかり元気になったね」
男が笑みを浮かべた。
小夜乃もそっと笑うと頷いた。
「自由に動けるのは楽しいです」
そして、智里を見つめた。
「智里さん。今日はゆっくりしてください、昨日はなよ母様のお供で大変だったとか」
慌てて智里が頭を振った。
「お供させていただけるだけで、ありがたいと」
「なよは人望があるからなぁ」
男が笑った。
「お父様も人望がありますわ」
小夜乃が真っすぐに言う。
「え、私がかい」
「はい。みんなお父様のこと、大好きですもの」
「そうか。なら、頑張って魚を釣るよ。みんなを飢えさせたら申し訳ないからね」
男は笑うと釣り糸を川面に沈めた。
ふと、智里は餌を付けずに釣り針を沈めるのに気づいた。擬餌のルアーでもない、釣り針だけだ。男がすぅっと竿の先を走らせる、つうんと引き上げると魚がかかっていた。
魚の移動を読んで、引っ掻けているのだ。普通のどこにでもいる中年男、としか見えない。でも、考えてみれば、なよ様でさえ、一目を置いている様子。
「あの、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
智里は思い切って男に声を掛けた。
「ん、何かな」
川面に糸を垂らしたまま、男が返事をした。
「あの。貴方様は」
「私のことかい」
智里が戸惑いながらも頷いた。
「さて・・・。ま、この地の元管理者。この子達の父親みたいなものかな」
にっと男は小夜乃に笑みを浮かべた。
小夜乃も頷くと、微かに頭を下げお辞儀をする。
「お父様にはお世話になっております」
「いいえ、どう致しまして」
男はかしこまって答えると、くすぐったそうに笑った。
「智里さん」
「はい」
「君がこうして、ここにいるのも何かの縁だ。なよが君を受け入れたのも、君の中に何か思うところがあったんだろうと思うよ。君の体は無茶な練習で悲鳴をあげている、このままなら、後数年と生きられないだろう。ここで養生をしなさい。体が整えば、何十年か先、老衰で死ぬことができるからさ」

「先生」
かぬかが鍋を両手に走って来る。
「鍋。七輪に置いてもいいですか」
「いいよ。うどんはあつあつが美味しい」
「鍋焼きうどんです」
竿を置き、男が鍋をのぞき込む。
「これはいいね、楽しみだ、うどんはかぬかが打ったのかい」
かぬかが照れたように笑った。
「もともとうどん屋ですから」
ふと、かぬかは真顔になり、男に尋ねた。
「あの。幸はもうすぐ帰って来るのでしょうか」
「そうだね。お昼の準備が終わるころには戻って来ると思うよ」
「そう、ですか」
かぬかの顔に微かな緊張が走った。
男は困ったように笑みを浮かべると、かぬかに言った。
「こちらに背中を向けなさい」
「は、はいっ」
かぬかが男に背を向けた。
男はかぬかの頭に両手をやると、頭の埃を払うように両手を動かす、そして、首、肩、背中を払って行く。
「かぬか。同じように、胸、お腹、腰を両手で払って行きなさい」
かぬかは不思議に思った。手で払って行くにつれて、なんだか、緊張が体から落ちて行く。
「太もも、膝、臑、ふくらはぎ、足首に足の甲まで払うこと」
「はい」
素直にかぬかは体を払って行く、不思議に緊張が解け体が軽くなって行った。

「父さん、古式寿法か。扱える者がまだおったのじゃのう」
なよが自在を担いでいた。その自在には何個もの折り畳み椅子が差してある。
「地味な術は廃れやすいからね」
男はなよに笑いかけた。
「智里にも教えてやってくれ」
なよは自在を降ろすと、素直に頭を下げた。
「なんだか、なよが可愛くなった」
男が笑った。
「わしとて、多少の礼節は心得ておるわい」
照れたようになよは少し頬を赤らめた。

男は笑うと智里にも同じように、払ってやる、急に智里は体が軽くなって、つまずきそうになる、とんとんと足を踏み代える、なんて軽い。体が風船みたいに浮いてしまいそうだ。
「智里、覚えておけ。今のが古式寿法 払いじゃ。いまの状態が己の筋肉と体重の関係じゃ。軽いであろう、それが本来のものじゃ、忘れるなよ」
「はいっ」
智里が直立不動になり、元気に返事をする。
「堅苦しい奴じゃ」
ふと、なよが興味深そうに男を見つめた。
「いつぞやの話で父さんの頭の中には、先代、先々代と、先祖の記憶が残っているとか、いったい、父さんに頭の中にはどれほどの記憶が残っておる」
男はふっと考え、そして、答えた。
「あるお爺さんが一本の光る竹を切ると、そこから女の赤ん坊が現れたという、父さんの先祖はその様子を見ていた。おおっ、なんと可愛い赤子ぞと呟いたとか」
「あれは戯作者の作り話じゃ。くだらんことを言うでないわい」
なよの照れた言葉に、男が楽しそうに笑った。

あさぎがバスケットを抱えて走って来る。その隣りを黒が特大のおひつを両手に抱えてやってきた。
「おむすび、いっぱい作るよ」
うきうきと黒が叫んだ。
白と三毛もかんてきと、炭の入った箱を持ってきた。
「お父さん。幸母さんとあかねちゃん、もうすぐ帰って来るかなぁ」
三毛が男を見上げた。

男はすっと家の方角を眺めて言った。
「こっちに向かっているようだよ。もうすぐ帰って来るんじゃないかな」
三毛がほっとしたように微笑んだ。
「三毛は母さんが帰って来て嬉しいか」
三毛が特上の笑みで頷いた。
男は笑うと三毛の頭をなでる。
「みんな、一緒が良いな」

「ただいま、ただいま」
幸は家から飛び出すと、駆け出して来る、背中に大きな風呂敷包み、両手には大きな買い物袋。
「お父さぁん」
叫ぶと同時に両手を広げた途端、両手の荷物が宙に浮かんだ。
「酒が」
瞬間、呟いたなよと黒が姿を消した。幸は、ばふっと男に抱き着くと、顔を見上げた。
「ただいま、お父さん」
「お帰り。楽しかったか」
「うん」
幸は笑みを浮かべると、隣りにいる三毛に笑いかけた。
「三毛、いい子にしてたか」
「はい」
素直に三毛が返事する、
「白はどうだ」
「白はいつもいい子ですわ」
当然のように言う白に、幸がくすぐったそうに声を出して笑った。そして、ようやく、幸は男から手を離すと、小夜乃に声をかけた。
「小夜乃、元気にしていたか」
「はい」
ほっとしたように小夜乃が笑みを浮かべた。
「あさぎ姉さん、ただいま」
「お帰り、幸」
「かぬか。ただいま」
「お、おかえり」
戸惑いながらかぬかが答える。
「お。鍋焼きうどんだ。かぬかが作ってくれたのか」
「あ。あぁ」
緊張した面持ちでかぬかが答える。
いたずらげに幸は舌をだすと、智里に目をやった。
「智里さん」
「はい」
緊張した面持ちで智里が返事をした。
「智里さん。ここは智里さんの家だ、そして、私達は智里さんの家族だ。幸は智里さんを家族と認めた。それはどんな状況になっても変わらない」
強い幸の言葉に智里は気持ちが高ぶり声が出ず、ただただ頷いた。
「あれ。なよ姉さんと黒は」
なよと黒は途中、幸の手から離れたいくつもの紙袋を、地面に落ちる寸前、抱きとめたのだった。
なよが袋を前に地面に胡座をかく。
袋を覗き込むと何本もの一升瓶が入っていた。
「これは清酒霞桜ではないか。最上級品じゃ」
にやけたなよが袋から酒瓶を並べ出す。黒はというと、袋にあった箱詰めの御饅頭をさっそく取り出し、食べていたのだった。
「黒さん。お行儀が悪いですよ」
遅れて戻って来たあかねが、軽く黒をにらんだ。あかねも幸と同じく、風呂敷袋を背負い、両手にいくつもの紙袋を携えていた。
「え・・・」
初めて黒は自分が御饅頭を食べていることに気づいた。
「思うより早く体が動くこと、武術では大切ですけどね」
「あかねちゃん、ごめんなさい」
黒がしおらしくあかねに言う。くすぐったそうにあかねが笑った。
「背中の風呂敷には御饅頭や色んな特産品、なよ姉さんの酒の肴まで入っています、当分、おやつに不自由しませんよ」
「いやっほう」
黒が喚声をあげた。しかし、あかねが両手に荷物を持ったままなのを見て、慌てて言った。
「あ、持つよ、荷物。えっと、あの、勝手に食べないから」
あかねは笑うと、両手の荷物を黒に手渡した。
「みんな、待ってるよ」
黒が幸せそうに笑みを浮かべた。

あかねがなよに声をかけた。
「お酒は後です、お昼御飯ですよ」
「おおっ、そうじゃったな」
なよは酒瓶を袋に戻すと立ち上がった。
「良い妹たちに恵まれて、わしは果報者じゃ」
「正確には好物の霞桜をまとめ買いして来る良い妹たちにですよね」
あかねがなよの言葉を訂正した。
「あかねの生意気な口ぶりも、いまは可愛くてしかたがないのう」
「それはどうも」
あかねはなよの言葉を流すと、少し先、智里を見つめた。
「あれが智里さんですね。なるほど、面白いことになりそうです」
「幸は面倒ごとが好きじゃからな」
「幸姉さんは男を毛嫌いする分、女性には優しすぎるのですよ。でも、そのおかげであかねも妹にしていただいたのですから、そんなことを言ってはなりませんね」
不思議そうに首をかしげる黒に、あかねはそっと笑みを浮かべた。

 

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異形 月の糸 三話

男は静かに自室で本を読む。その足元で、幸は両手を広げ、仰向けに寝転がっていた。
「お父さんは充電器。幸は充電池。引っ付いていないと幸は充電不足になってしまうのですよ」
「そうだったのかい、初めて知ったよ」
男が気楽そうに笑った。
「旅から帰って来て、なんだか、幸が甘えん坊になった気がする」
「だって」
「どうしたんだい」
「寂しくて泣いてしまって、あかねちゃんに頭をなでてもらって、あぁ、お姉さんなのに格好悪いよぉ」
男は笑うと、幸に言った。
「なら、父さんに甘えるのをやめたらいいんじゃないか」
「ううん、幸は考えました。十二分にお父さんに甘えておくこと、充電するんだよ。お父さんの優しさを充電して貯めておくんだ」
不意に幸がばたばたと足を動かし始めた。
「大変です、足が攣ってしまいました。幸が溺れてしまいますよ」
「それは、大変だ。よし、父さんの手を掴め」
差し出す男の手を幸は両手で掴むと、ほっと息を漏らした。
「お父さんは幸の恩人です。ありがとう」
「どう致しまして。いつでも呼んでくれ、助けに行くよ」
幸はうふふと嬉しそうに笑うと、手を放し、男の足、ふくらはぎを両手で掴んだ。
「随分、筋肉がついて来たよ。前は幸の手首と同じくらいの太さだった」
「白が厳しいからね。リハビリは辛くってこそ効果があるって、歩いたり、階段上がったりさ。結果としてはそれが良かった、白には感謝だな」
幸がとても澄んだ笑みを浮かべた。
「なるほどね。幸はしっかり白のお母さんだ」
幸はやっと体を起こすと、男を見つめた。
「みんな、幸にとって本当の娘だし、こんな幸せな生活ができるのはお父さんのおかげだよ。ありがとう」
「幸の力だよ。父さんはちょっと手助けしただけだよ」
男は笑みを浮かべると、開いたままの本を閉じた。
「時間かな」
なよの声が襖の向こうから響いた。
「幸、はようせい。時間じゃ」
なよは襖をがらっと開け放った。
「はよう準備せい。奴らにも説明せねばならん」
幸は立ち上がると頷いた。
「お父さん。ちょっと用事を済ませてくるよ」
「そっか。父さん、あさぎのお店にいるよ。そうだな、なよ、かぬかは父さんが預かろう」
ふと、なよは考えたが、頷くと男に言った。
「気を使わせて悪いな」
「どう致しまして」
男が笑みを浮かべた。

梅林の修行場になよと幸。その二人の前に緊張した面持ちの智里が直立不動で立っていた。黒に白に三毛、小夜乃とあかねも三人を囲むように立っていた。
なよと幸も揃うと、幸は智里を見つめ、それから、なよに視線を向けた。
「智里」
なよが智里に声をかけた。
「はいっ」
「お前が所属していた赤炎会に坊主が来て、お前に術を掛けたのを覚えているか」
「能力を超えた力を発揮するという」
智里が赤炎会 総帥の横に立つ僧の姿を思い出した。今となってははるか昔の話のようだ。
「その僧は父さんの知り合いでのう、この地を壊滅せんと欲しておる。お前がこの地に来る可能性を読み、術を仕掛けたのじゃ」
智里は混乱していた。顔すらはっきり覚えていない。確かに力を与えてやると術を掛けられたのは覚えている。でも、なにか目の前で唱えていただけで。
「白は智里の左足。三毛は右足を押さえなさい」
幸が二人に指図した。
「あ、あの。それって」
白が戸惑いながら言った。
「あと五分で智里は理性を無くし暴れる。なよ姉さんが解呪法を唱える間、動けないように押さえなさいということだ。黒は右腕、あかねちゃんは左腕を押さえること」
「はい」
あかねはすっと智里の背後から寄るとその左腕に自分の体を押し付け、両手で包むように
包み込んだ。
「え。あ、あの」
黒が戸惑うのを、すいっと目を細め、あかねが黒に言った。
「右は智里さんの利き腕です。黒さん、気を抜かずしっかりとなさい」
「は、はい」
黒も智里の右腕を体で押さえ込んだ。
「智里さん、ごめんなさい。ちょっとだけ、我慢してください」
黒が戸惑いながら言った。

男はテーブルにつくと窓から外を眺める。昼間のはずなのに、奇妙に薄暗い。
かぬかは男の前に座ると、緊張した面持ちで男を見つめた。
「先生。なにが起こるのでしょうか」
男はゆっくりとかぬかに顔を向けると、そっと笑みを浮かべた。
「鬼が攻めて来るのさ」
「え・・・」
驚いてかぬかは目を凝らし、窓の外を睨んだ。じわりと巨大な影が浮かび上がり、道向こう、二階建の高さは充分にある鬼の姿が浮かび上がった。憤怒にこちらを睨みつけている。
「あと四つ」
男が他人事のように呟く。まるでその言葉に呼応したかのように、あと四体の鬼が現れた。後ろ、二階建の家が鬼の姿に隠れた。
「戦闘術をしっかりと身につけた鬼だ」
「先生、大変ですよ。どうしたら」
男がにっといたずらげに笑みを浮かべた。
「かぬか、頑張れ。応援してるぞ」
「せ、先生」
思わず、かぬかが立ち上がった。
「む、無理ですよ。先生」
「落ち着きなさいな、かぬか」
いつの間にか、かぬかの横に幸乃が座っていた。
「為せば、成るです」
「そ、そんなぁ・・・」


「希代の魔術師 無がここに居ると聞いた、案内願いたい」
重低音の鬼の声が響いた。男とかぬかは、ほぉっと下から鬼の顔を見上げていたが、納得したように顔を見合わせた。
「先生。奴ら、先生の顔知らないようです」
「面が割れてないのなら」
男は顔を上げ叫んだ。
「うちにはそういう人はいません。多分、おっしゃっているのはお隣のむ・とうさんだと思います、趣味のマジックをよく子供たちに見せていましたから。ただ、先程、急に引っ越しをなさって、今はいらっしゃいません」
男の全く戸惑いのない声に、かぬかが驚いた。
「我らに臆して逃げ出したか」
二人の頭の上で嗤うように、鬼の声が低く響いた。
「先生、それ、ありですか」
ひそひそとかぬかが男に言った。
「面倒臭いじゃないか。それとも、折角の実践の場だ、かぬか、頑張ってみるかい」
「用事も終わりましたから、戻りましょう」
即効、かぬかは答えた瞬間、
「何言ってやがる、無よ」
甲高い声が響いた。鬼の足元、じわりと僧形の男が現れた、深く編み笠をし、顔が見えない。
「やぁ、愚円。その額はお若い人のお洒落かい」
編み笠を降ろした愚円の額には角が一本、生えていた。
「鬼はいいぞ。力は湧き上る、術の威力も全く違う。寿命も人の二倍だ」
微かに狂気を宿した眼で愚円が嗤った。
「長生きしてもたいしていいことはないぞ。それより、赤炎会の女の子に術をかけたろう」
「あぁ。上手く行けばと思ったが、失敗だったようだな、お前がここで戯れ言を騙っているということは」
「町中で発動すれば大量殺人になっていたぞ」
「いいじゃないか。俺は何も困らないよ」
男は微かに吐息を漏らすと呟いた。
「とりあえず、愚円。君は退場だ」
その瞬間、愚円を硝子球が包み込み、愚円共々飛び去った。
「自力で脱出するころには海の向こうだな」
鬼達が男を注視していた。
「かぬか。これは言い逃れできそうにないな」
かぬかが思い切ったように頷いた。
「頑張ります」

「いいなぁ、お父さんと一緒に戦えて」
幸が店の窓に額を押し付けたまま呟いた。
智里の件が済むと同時に幸は店へと走り、男と鬼のやり取りを見つめていたのだった。
「あの位置関係だと、かぬかさんの補佐ということでしょうか」
いつの間にか、あかねも幸の隣りで二人を見つめていた。
「実質、お父さんがかぬかを動かすことになる、でも、それによって、かぬかは強くなるよ」
「いいですねぇ、かぬかさん」
あかねが呟いた。
「もう、何処に行ったかと思ったら」
黒があたふたとやって来た。白も三毛もだ。
「幸お母さん。どうしたんですか」
白が文句を言いかけた時、鬼と対峙する男とかぬかの姿を見つけた。
「三人も早く来い。お父さんの戦う姿、滅多に見られないぞ」
幸が緊張した面持ちで呟いた。
「始まったか」
なよが小夜乃と智里を両脇に抱え、走ってきた。
「なよ姉さん、これからです」
視線を二人に向けたまま、幸が答えた。
なよはほっとして、二人を降ろすと言った。
「二人ともしっかりと見ておけ。滅多に見れるものではないぞ。術師 無の戦いなど」

「見学者も揃ったことだし、そろそろ頑張るかな」
男は呟くと、かぬかの後ろに立った。
「まずは左」
すっとかぬかの腰に男の右手が触れる。一瞬で足も動かさず、二人の体が左へ移動した。瞬間、もといた場所を鬼の拳が地面を穿った。
「あわわ、なんですか。今の」
「足を動かさない歩法だ。身体操作と寿法の合成だよ。本家の術師も江戸時代の始めくらいまでは使えて当たり前だった」
男がすっとかぬかの腰の後ろに触れた。一瞬で、前方に移動する。大振りの剣が空気を切り裂いた。
かぬかが上を向く、牙をむいた五つの鬼の顔が空を埋め尽くしている。しかし、不思議なほど心が落ち着いて恐怖心が現れない。それは、鬼の顔に恐怖が現れたからだ。
つっと二人が浮かび上がり、鬼の眼の高さに止まった。鬼が手出しできずにいる。
「かぬか、思い浮かべなさい。自分が鬼と同じ大きさになっている、そして向かい合っているのだと」
「はい・・・」
かぬかが心を沈め、巨大化した自分の姿を思い浮かべた。
「実体のかぬかは虚像の掌だ。その掌で前の鬼を投げてみなさい」
「撃つのではなく、崩す」
「そうだ。いま、かぬかの思うように移動できる。やってみなさい」
かぬかが大きく息を吸った。
「行きます」
ぐっとかぬかが目の前にいた鬼を睨みつけた。かぬかと鬼の視線が重なる。視線を繋いだまま、鬼の足元に急降下する、鬼の姿勢が微かに前のめりになった瞬間、かなかは翻り、鬼の肩へと一瞬で飛び上がる、その肩を鬼の踵微かに後ろを目指して全身で押し出した。滑るように鬼が前のめりに落ちた。
かぬかが涙を流しながら、強く息喘いだ。
「ちょうど良い方向と長さだ」
男は頷くと、驚いて退いた四体の鬼に語りかけた。
「確か君は銀髪烈鬼というのじゃなかったかな。なら、君達は鬼王を警護する者達だ。違うかい」
「そうだ」
鬼が重々しく答える。
「多分、さっきの小鬼に上手く言われたんだろう、無を倒すのは貴方方しかいませんとかさ」
鬼が無言で答えた。
「鬼王の警護がこれで甘くなる、小鬼は何か策略があったんじゃないかなぁ」
明らかに鬼達の顔に動揺が走った。
「何事にも優先順位がある。早く王の安否を確認するのが本来の君達の役目かもしれないね」
銀髪烈鬼が他の鬼に目配せをする。倒れた鬼も含めて四体の姿が消えた。
「最後に訊ねたい、お前はどうして己自身が戦おうとしない」
男は少し考え、あっさりと答えた。
「だって、弱い者いじめは格好悪いじゃないか」
瞬間、鬼が牙を剥き出しに男を睨んだ、鉛のような鬼の重い気が男を襲う、男は片手でそれを払うと、笑みを浮かべた。
「いつか、君がこの娘に勝てたら、その時は相手をしてあげよう。でも、この娘は強くなるよ君達が束になっても敵わないくらいにね」
鬼の姿が消えた、二人が地面に降り立つ。
「せ、先生」
「ん」
「は、ハードル上げ過ぎです」
緊張が解けたのか、膝から崩れるようにかぬかがしゃがみこむ、地面に尻餅をつきそうになる瞬間、男がかぬかを抱き上げた。
「白澤さんなら、余裕で勝てる相手だよ」
男が楽しそうに笑った。

「いいなぁ、かぬか。お姫様だっこ、いいなぁ」
幸が額を硝子窓に押し付け、男とかぬかを見つめていたが、はっと気が付くと、硝子窓から離れた。
「黒。お風呂の用意だ」
幸がお風呂の竈へと走った。


男はかぬかを椅子に座らせると、白に言った。
「かぬかの首の後ろ手を当てて暖めて上げなさい、もう片方の手で頭も支えるようにね」
「はい」
白は返事をすると、かぬかの後ろに立つ。
「小夜乃と三毛はかぬかの足をさすってやってくれ。あさぎはハーブティ、少し甘めのを用意してくれるかな」
四人は男の指示に素早く従う。男はほっと息を漏らすと、少し離れた椅子に腰掛けた。
なよも男の前に座った。
「鬼の世界でも派閥争いが活発になっているのかな」
「鬼の王もそれなりの歳じゃ、賑やかにもなろうて」
「なよの元亭主殿も、それだけ歳をとったんだね。あ、痛ったた」
ぎゅっとなよが男の頬をつねっていた。
「つまらぬことを言うでないわい」
なよは手を戻すと、呆れた顔をして、溜息をついた。
「要らぬことを父さんは知っておるのう。ま、今の奴のことなど、わしの知ったことではない。奴が権勢に溺れてしもうたのが、この成り行きのおおもとじゃ。わしとしては、民を殺された恨みは簡単には消えぬ。鬼の王がどうなろうと知らぬわい」
男は右手を伸ばすと、そっとなよの頭をなでた。
「なよに幸いがもたらされますように」
男はそっと笑みを浮かべると、小夜乃に声をかけた。
「小夜乃。かぬかと智里を連れて、なよとお風呂に入りなさい。沸いたようだ」
小夜乃は頷くとかぬかを立たせ、肩で支える、慌てて、智里も反対から支えた。
「なよ母様。お風呂、いただきましょう」
なよは、くっと顔を上げると、振り返った。
「ゆっくり風呂に入るとしよう」
男が見送る、白と三毛が男の前に座った。
「お父さん、どうしたらいいんでしょう」
深刻な顔をして、白が男に訊ねた。
「それは難しい質問だ。だってね」
言いかけて、男は言うのをやめた。
あさぎの注いでくれたハーブティを一口、飲み、白の眼をじっと見つめる。
「今まで通りの日常を送ること、それが大事だよ。そしてね、そのためにはどうすればいいのか。自分の持っている札、これから持つだろう札を考えて道筋を見いだして進むこと。学校や商店街、白を向かえてくれる場所は増えたと思う、白なりの道筋を考えてみなさい」
白は吸い込むように男の眼を大きく見つめ、そしてしっかりと頷いた。
「さぁ、白もお風呂に入りなさい。まだ、ちょっと肩が固まっているぞ」
男が片手で白の肩を払う、ほっと白は笑みを浮かべると、立ち上がった。
「お父さんも一緒に入っていいんですよ」
「はは。それは勘弁してくれ、父さん、恥ずかしがり屋だからね。最後、お風呂を洗いながら入るよ」

白を見送ると待っていたように三毛が男の前に座った。
「千客万来だなぁ」
「あ、あのね、お父さん」
「どうしたんだい、三毛」
「三毛も強くなりたいんです」
三毛がじっと男の眼を見つめた。
「実践経験は少ないけど、三毛は強いよ」
「でも、あんな大きな鬼となんて、どう戦えばいいかわからないです」
男は眼を閉ざすと、微かに俯く。
そのまま、呟いた。
「多分、幸は娘が鬼と戦うのを避けたいんだろうな、鬼と出くわしても大丈夫なように、その場を逃げることができるような方向で教えているようだ」
男は眼を開くと三毛に言った。
「黒はね、妹二人を守りたいから強くなりたいと言った。白は、強くなるのはもう充分だと思っているようだ、三毛は何故、強くなりたいのかな」
「それは・・・、強くなることが楽しいから」
三毛が困ったように答えた。
「人はね、自分が何かを得たら、それを他人に評価して欲しいと思う、基本的な欲求だ。それが、ごくたわいないものならいいんだけど、そうじゃない場合は大変なことになる。新しい力を手にいれたり、武器を手に入れると、使いたくなる。こんなに凄いんだよってね。そして、次はそれを所有する正当性を妄想し始める。三毛、それは良く覚えておきなさい」
「ごめんなさい」
三毛がぎゅっと目を瞑って俯いた。
男は深く溜息をつくと、柔らかな笑みを浮かべた。
「三毛、立ちなさい」
「は、はい」
慌てて、三毛が立ち上がった。
「幸の教えたなみゆい。舞にも似た動きだけれど、幸の使う武術の要諦が詰まっている。前半の途中、自然体から、両手を前に出して、右足を半歩出す一連の動きがあるだろう。それを、そこの広いところでやってみなさい」
言われた通りに三毛が動く。ほんの一分ほどの、とても滑らかで、一切の角を廃した舞だ。
「相当、練習しているんだな。しっかりと整っているよ」
「ありがとう、お父さん」
「どういたしまして。次はね、上半身の動きと下半身の動き、ちょっとだけずらしなさい。上半身をほんの少しだけ、先にする」
三毛は頷くと、もう一度、同じ動作を繰り返そうとしたが、すぐに足を滑らせ、尻餅をついてしまった。
「それが本来の浮脚だ。アイススケートってのは、氷とエッヂの間に解けた水があるんだけどね。つまりは浮いているからこそ、あれだけ速く移動できるんだ。今の三毛は初めてスケート靴を履いた子供だね」
尻餅をついたまま、三毛はぼぉっと男の言葉を聞いていたが、はっと気が付くと、男の顔を見つめた。
「お父さん」
「ま、ほどほどに頑張れ」
「うん。お父さん、ありがとう」
「どういたしまして。三毛も風呂に入って来なさい」
三毛も頷くと白の後を追った。
男がふっと吐息を漏らす。
「当分は頑張って生きるか」
男が呟いて、顔を上げると、あかねが笑みを浮かべて男の前に座っていた。
「三毛さんのことは、あかねが引き受けます。命にかけても、我を見失った三毛さんを引きずり戻します」
「まっ、そうならないことをまずは期待するよ。必ずそうなるわけじゃないからね。そうだ、あかねちゃん、さっきの、ちょっとは勉強になったかい」
「勉強になりました、自分より巨大なものとの戦い方が分かりました。空を移動する術も見ることができましたし、あとはできるように練習するだけです」
「あかねちゃんなら、すぐに出来るようになるだろう」
男は笑うと少し冷めたハーブティを少し口に含む。
「ところで、お父さん」
「ん」
男が顔を上げた。
「あかねのお願いも聴いてください」
「どんなお願いかな」
「お父さんはあかねちゃんと呼んでくれますけど、ちゃんを無しにして、あかねって呼んでください」

男が思い出すように言った。
「最初、うちに来た時、あかねちゃんと呼んで、それ以来だったね。いいよ、それじゃ、あかね」
「はい。あはは、家族になった気がします」
「言葉は難しいなぁ。ただ、あかねのお父さんやお母さんのことをないがしろにしちゃだめだよ」
ふと、あかねは眉を曇らせ俯いた。
「私は父や母にとっても酷いことをしました。私は娘失格なのですよ。たとえ、笑顔を浮かべてくれていても、本心は恐怖を抱いている、私が両親をそんなふうにしてしまったのですから、自業自得です。幸い、弟が生まれ、いま、妹が母のお腹の中です。私がいない方がいいんです」
「多分、両親は苦しんでいるだろう、素直に娘を抱き締めることができない自分自身にね」
「なら、苦しまないように離れてあげるのも親孝行です。鬼紙家にはたまに御祖父様の顔を見に行きますし、現当主の護衛役もすることがあります。御祖父様がいらしてくださる間は鬼紙家にも参りますが」
あかねは一層に俯くと、拳をぎゅっと握った。
「あかね。左手を出しなさい」
あかねが不安げに顔を上げ、左手をそっと差し出した。男は右手で握手をすると、左手で、あかねの手を包み込む。
「一つの拳よりも、手を二つ、繋いだ方が暖かいだろう」
「はいっ」
あかねが目を輝かせた。
「あかねにはたくさんの家族がいる。それをいつも心に留めなさい」
男は振り返ると、カウンターの裏にしゃがみこんで隠れているあさぎに声をかけた。
「あさぎ。出ておいで」
「えっと、いいでしょうか」
あさぎが恐る恐る顔を出した。
「話が深刻になって、ちょっと居ずらくて」
男がくすぐったそうに笑った。
「あさぎもあかねの手をぎゅってね、握ってくれ」
あさぎは柔らかな笑みを浮かべ、差し出されたあかねの手をしっかりと握った。
「あかね。これからいっぱい、お喋りをしよう」
「あさぎ姉さん、ありがとう」
あかねは手を離すと、じっと自分の手を見つめた。
「あかねは発見しました」
「何を発見したの」
あさぎがあかねの隣りに座り、訊ねた。
「あかねは案外単純で、とっても幸せなんだって」
あさぎはあかねに体を寄せると、ぎゅっと抱き締めた。
「ありがとう、あかね」
あさぎが呟いた。
男は笑うと、あさぎに言った。
「あさぎは、何か、悩み事はないかい」
あさぎは顔を上げると、男に笑みを浮かべた。
「ありましたけど、いまはなくなりました」
笑顔であさぎが答えた。

なよとかぬかが風呂から上がったらしく、あさぎとあかねも風呂へ入りに行った。
男はほっと息を漏らすと、少し冷めたハーブティを一口飲む。
「幸乃。血の繋がった家族じゃない、思いの繋がった家族は、たまに手を繋がないとならないのかも知れないね」
ゆらりと幸乃は男の体から出ると、隣りに座った。
「お前様。幸乃とも握手です」
にっと笑って、男が幸乃と右手で握手をした。
「幸乃、ありがとう」
「ありがとうとは」
「父さんの横にこうして居てくれることへの感謝、ということかな」
幸乃の頬が朱に染まった。
「まぁ。お前様は、ほんに女たらしですわ」
男は笑みを浮かべると、手を離し、目を瞑った。
「泣いたり、笑ったり、怒ったり、色んな声が聞こえる、とっても賑やかで楽しいんだよ」
「怒るのは主になよですけど」
幸乃が笑みを浮かべた。
「確かにそうだ、なよはカルシウムが足りないのかなぁ」
男はいたずらげにそう呟くと、目を開け、ハーブティを飲み干した。
「あさぎのハーブティも美味しい、これはあさぎの才能だな」

 

 

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なみゆい


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異形

異形 流堰迷子は天へと落ちていく

異形 雨夜閑話

異形 月の竹 眠るモノ

異形 撃

異形 漣

異形 月の糸

遥の花 藍の天蓋


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