遥の花 七話

窓からの月明かり、瞳はそっと幸の寝顔を見つめた。
幸と瞳はこの十日間、一つの部屋に布団を二つ並べ寝ていたのだ。
明日が、ちょうど、十日目、明日の昼には幸に付き添われ自宅へと戻る予定だった。

瞳は上半身を起こし、そっと幸の顔を覗き込む。
月明かりに照らされた幸の、なんて神々しく美しい、それは人の域を遥かに越えた美だった。

「キスはやめてくれよ。あたしは父さん、一途なんだからさ」
幸は目を開けるとにっと笑った。
「ごめんなさい、起こしてしまって」
「いいさ、こんな奇麗な月を見ずに寝るのはもったいない」
窓からの月は冴え冴えと部屋の中を照らし出す、充分な明るさだった。
幸は立ち上がると、瞳に待ってなと言い残し、台所へ。そして、お盆にマグカップを二つ載せ戻ってきた。
「カルアミルク。アルコール入っているから、その内、寝てしまうだろう」
瞳はありがとうございますと言い、一口、カルアミルクを飲む。
「瞳お姉ちゃん、ここでの生活、楽しめたかな」
幸があどけなく瞳に囁く。
瞳がくすぐったそうに笑った。
「どっちが本当なの」
「え、何が」
幸があどけなく笑みを浮かべる。
「伝法な啖呵口調と可愛い女の子的なそれと」
「どっちも本当だよ。でも、お父さんにはとってもとっても可愛い娘でいたいから、必ず可愛くお喋りする。お父さん以外はその時の気分かな、たまに使い分けてもいるけどね」
幸は笑顔を浮かべるとカルアミルクを一口飲む。
「面白ぇだろ、そういうのさ」
にぃぃっと幸が笑う。
「幸ちゃん、それ怖すぎる」
「ごめんなさい、瞳お姉ちゃん」
くすぐったそうに二人が笑う。
ほっと溜息をこぼすと、幸はマグカップをお盆に置いた。
「出会いって面白いもんだなぁって思うよ」
ふっと幸が呟いた。窓からの月がそんな幸の横顔を玲瓏と映しだす。
「敵だった私なのに、本当に幸ちゃんや先生には助けてもらって、ありがとうございます」
「別に親切や善意で助けたわけじゃない。そんな気持ちで人を助けようと思ったら、限がなくてさ、こっちが参ってしまう。だから、たまたま偶然、助けただけだと思うことにしている。だからさ、瞳姉さんも私やお父さんに感謝する必要はないんだ」
「難しいね」
「まぁね、世界を牛耳る力があっても、そういうのは大変だし、柄じゃない。だから、お父さんも私も、基本、引き籠もりくらいがちょうど良い」
窓から月を見る。普段よりもその月は大きく、まるでその鼻面のクレーターまで見せようとするかに思える。
「瞳姉さんはこれからどうするの。自衛隊も退職したんでしょう」
瞳は少し目を伏せ考える、やがて顔を上げた。
「専業主婦をすることにした。隆も母さんに、実の母さんにね、面倒見てもらいっぱなしだったし、随分と負担かけてしまった。贅沢しなければ、隆行さんの稼ぎで食べて行けるから。それでいいなと思う」
「なんだか、一年前からでは想像できないな」
幸がくすぐったそうに笑った。
「結果としては幸ちゃんにあれだけ脅されて良かったんだと思う。脳に設置されていた機械の周りが壊死していたっていうの、間違いなく幸ちゃんに脅された時に壊死したんだと思うよ」
瞳はそういうと少し笑った。
「駄目押しが効いたかな。あの時、お父さんが大変だったし、思いっきりかましとかなきゃ、反撃されると思ったから」
「それで私も正気に戻ったんだと思うよ。正気に戻ったら、私なんでこんなことやってんだろうと思ったけど、逃げ出す勇気がなかった。毎日、びくびくして暮らしていた」
「心臓が破裂したら終わりだものね」
瞳はただ頷いた、一瞬、その恐怖が蘇り、言葉を発することができなかったのだ、なんて異様な世界にいたのだと改めて思う。
「人の生命があまりにも安易に扱われている。他の生命がとても軽いものとして見られている、その観念はいまそこいら中に広まってきている。難儀だねぇと思うよ。いや、そうじゃないな、少なくともこの国の人間は、随分と昔から、他人の生命を軽く見積もってきた」
「幸ちゃんって、いったいなにものなの。まるで人ではない、妖精とか神様のように思えることがある。商店街のおばあさんは神棚に幸ちゃんの写真供えて拝んでいるし、私にまで、ありがたいありがたいって合掌された」
幸は小さく笑うと、困ったように俯いた。
「あれは失敗だったな、少しばかり脅し過ぎた」
「いたずら、したってこと」
「おばあさん、手相占いが趣味のようだけど、あんたはたやすく人を占っちゃいけないよってのを、少しね、低い声で言った」
「あ・・・、それ、おばあさんの気持ち、手に取るように分かる」
「あれは反省している。機会見つけてゆっくり話をしてみるよ」
瞳がくすぐったそうに笑った。
「ただ・・・」
瞳が少し不安げに呟いた。
「ん・・・」
「明日からうまくやって行けるのかって思うと不安になる」
幸は呆れたように瞳を見つめた。
「うまくいくわけないよ」
「そんなはっきりと・・・」
「瞳姉さんの意思はともかく、一年近く、姉さんは家庭を捨ててしまっていたんだよ。亭主はもう離婚してしまおうかと思いながらも、息子のこと、そして姉さんの実の母親のさ、娘は必ず心を入れ替えて帰ってくるからって懇願でもってさ、なんとか、その日を過ごしているわけだ。亭主はともかく、母親は怒ってわめきたてるぜ」
「そ、そんな・・・」
「地べた、頭擦り付けてもさ、謝りなよ。まったくの他人じゃない、追い出されはしないよ」
「はい・・・」
「追い出されなきゃさ、時間をかけて、努めて家族を四人で創っていけばいい。瞳姉さんなら大丈夫だよ」
幸はそっと笑顔を瞳に浮かべると、瞳の手を両手で握った。
「大丈夫だよ」
「やっぱり、幸ちゃんは神様ですよ。私も神棚に写真供えよう」
「それだけ言えれば大丈夫だよ、瞳姉さん」
幸はカルアミルクを飲み干しお盆に戻す。
「姉さんち、隆君の壁に描いたいたずら書きやたまったゴミで大変だ、母親もへたばっている。今なら居場所があるよ、ここで散々、掃除や日常の細々としたことやったろう、役に立つよ」
「箒で床を掃いたり、雑巾で柱を拭いたり、へとへとになったけど、あれは」
「別に予行練習のためにやったんじゃない、結果として役に立つだけのこと。穢れを落として行くには、転換させるには、なにもさ、特別な呪文もなにもいらないんだ。ただただ、一所懸命、掃除すれば勝手に落ちて行く、それだけのことだよ」
「そうだったの」
「潔癖症にはなっちゃいけない、ただ、掃除という形で、芥を払っていけば、それで良い」
「ありがとう、でも、なんだか」
「ん・・・」
「年下の幸ちゃんの方がずっと年上で経験豊富に思えてきた」
「私もお父さんの娘になるまで色々あったからさ」
「それはいま尋ねてもいいこと・・・」
「私的にはかまわないけど、姉さんはそれを問うたこと、悔いると思うよ」
「それは多分、尋ねてはならないことなんだろうね、それじゃ訊かない」
「ありがと。やっぱり、瞳姉さんは分別のある良い人だね。お父さんから瞳姉さんに武術だけは教えなさいって言われて、どうかなと思ったけど教えて間違いなかった」
「え」
「姉さんの性根が真っすぐだってこと」
「武術ってのは体と精神を一つにするための技術。精神が体に寄り添うための手法でもある。瞳姉さんはこれから、自分自身と家族を護らなきゃならない、これは抽象的な意味でもあるし、具象的でもある。そのためにはさ、挫けない強さが必要になる、武術はそれを教えてくれるよ」
「なんだか、どう言えばいいんだろう。一から体の動かし方、歩き方、お箸の持ち方まで覚え直した気がする」
「瞳姉さんに教えた武術は私がお父さんに教えてもらったものに加えて、女性の動きに適した工夫を加えている。役に立つよ。まだ、途中だから週一くらいで教えに行くかな」
「来てくれるの」
「行くよ。っていうか、もう何度かお邪魔しているけどね。そうじゃなきゃ、さすがにあたしでも瞳姉さんちのことわからないよ」
「え・・・」
「いじめが原因で不登校になった高校生、でも、しっかりしなきゃって、健気にも学校に行こうとしている女の子、ふと、重そうに荷物を運んでいるおばさんの鞄を持ってあげたことから心の交流が始まる。泣ける話さ」
「私のお母さんがそのおばさんなの」
「明日は先に私が瞳姉さんちに行くから、その後から来てくれればいい、少しは、敷居を下げておくよ」
ふと瞳が溜息をついた。
「とても私には恩返しできそうにないよ」
「そんなものは破片ほどもいらない。あたしはさ、父さんに初めて会った時、その父さんを殺そうとした。そんなあたしを父さんは娘として受け入れてくれて、不自由なくここで一緒に暮らしてくれている。武術や呪術はもちろん、生活の中での立ち居振る舞い、日常生活、料理の仕方まで教えてくれた、料理失敗しても美味しいって食べてくれる・・・、あたしはもう、父さんに申し訳ないやら、嬉しいやらで一杯だ・・・。だからさ、あたしは父さんにだけはとびきりの良い娘でいたいし、瞳姉さんや、手を重ねた人には幸せになって欲しいと願っている。それだけのことさ」
幸は涙声になり、そのまま俯く。
「お父さん、幸はお父さんが好きです。とっても・・・、とっても、愛しています。とっても、大切です。いつまでも、いつまでも、一緒にいてください。お願いします。お父さん」
そのまま、ごろんと幸は横になってしまった。
「月の夜はだめだ、饒舌になってしまう。あぁ、お父さん・・・」
幸は小さく小さく泣き出した。
「幸ちゃん」
瞳はどう言えばいいのか分からず、布団にくるまってしまった幸に戸惑ってしまった。
幸がいきなり布団から立ち上がる。
「限界だ。ちょっとさ、お父さんの寝顔見て来る」
「え、あ・・・、うん」

男はふと目を覚まし、台所で明かりを消したまま、お茶を飲んでいた。月明かりが台所内を仄かに照らし、さほどの不自由はない。月見の季節ではないが、団子のひとつでも買っておけば良かったと思う。
「お父さん、ここにいたの」
「ん、幸、どうしました」
「だって、部屋にいないし、どうしたのかって」
「ちょっとね、2、3分かな、お茶飲んでいた。なんか、ありましたか」
「え、ううん、なんでもない」
「幸、おいで」
男は少し笑みを浮かべると幸を手まねいた。
男の隣りに座る。男は幸の目許を人差し指で拭った。
「泣いていたな、瞳さん、帰っちゃうの寂しいのか」
「そんなんじゃないよ。寝ぼけただけだよ」
「幸は泣き虫さんだ」
男が小さく笑う。
幸はそっと男の肩にもたれ掛かった。
そして、男の湯飲みを取ると一口飲む。
「ちょっと薄い」
「濃いとね、眠れなくなりそうだからさ」
「お父さんは寂しくない。明日、幸、夕方までいないよ」
「寂しいなぁ。でもね」
「ん」
「幸が計画したこと、それを頑張ろうとするのが、なんかね、嬉しくて、誇らしいからさ。父さん、寂しくても大丈夫さ。そうだ、写真、飾って、うまくいくようにって拝んでおくよ」
「そういうのはいいよ、もぉ。八百屋のおばあさんにもしっかり言わなくちゃ」
男はくすぐったそうに笑うと、幸の頭をなでる。
「さぁ、もう寝なさい、父さんももうすぐ寝るからね」
幸は立ち上がると男の後ろに立ち、男の頭をなでた。
「幸はお父さんに頭をなでられるのが好き、とっても気持ちがいい。お父さん、頭、なでられる感想は」
「初めて頭なでられた。なるほど、いい気分、なんか、気持ちが優しくなって来る」
幸はにっと笑うと、男の肩に体を寄せ、少し回り込んで口付けをする。
「おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」
幸はそっと自分の部屋に戻った。
男は考える、もしも、二十代、せめて、半ばまでに見つけ出せていれば、俺は幸を娘としてではなく、妻として向かえることが出来たのではないか。いや、しかし、俺の二十代は、まさしく鬼と呼ばれた時代、何も考えず、幸ごと切り刻んでいたかもしれない、そう、なにもかも。
思うだけでも恐ろしいことだ、この歳で出会えて良かったのかもしれない。

「幸ちゃん、御機嫌」
「え、そうかな、そんなことないよ」
「顔が笑ってる」
「そうかなぁ、ふふっ」
「心配して損した」
瞳は嬉しそうに布団に潜り込む幸を見て楽しそうに笑った。

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