遥の花 緑陰の鈴音 四話

.屋根の上

「なんとか、乗り越えたね」
男が気楽に笑った。
津崎道場すぐ目の前の住宅街、角の二階屋の屋根の上、闇が薄れ朝まだきのまだ朝日が昇るには時間がある。
「これからどうするかなぁ」
男が呟いた。
「家に帰って夕方まで寝ていたい気分だけれど、そうもいかない。こういう時、友達がいる人は、その友達に頼るのだろうね」
幸乃が、手がすり抜けることお構いなしに、男の額を叩く。
「ほんにお前様は気楽というか。右足の膝から下、喰われたのですよ。止血できたから良いようなものの、死んだらどうするのですか」
幸乃の言葉に死んだら何も出来ないよねと言おうとしたが、話が拗れるのが必須なので喋らずにおく。
「心配かけて申し訳ない。ありがとう、幸乃」
幸乃は大げさに溜息をつくと、自分の膝を叩く。
「ま、人様のお宅の屋根の上で痴話喧嘩をしてもみっともないだけですわ」
幸乃が周りを見渡す。遠く、山の稜線が白みを帯びてきた。ただ、見下ろせば瘴気が道路に溢れている。魔物の死骸だ。朝日が昇るまではこのままだろう。
「幸乃を起こしたのは逃がさなきゃと思ったからなんだけれど、幸乃に助けて貰った。ありがとう」
「お前様の中にとけ込んで消えていくつもりでしたのに、叩き起こされて、挙げ句の果てに数え切れないほどの魔物が襲ってくる。パニック寸前でした。それで、お前様はこれからどうするつもりですか」
幸乃が男に向き直った。
「お前様が望むのなら、私が幸に厳しく言いますよ」
男が左手で頬杖をつく。
「父さんの存在が幸を苦しめるのなら、それは無しで良いかな」
「ほんに幸にお前様は甘すぎます」
「しょうがないよ、だって、可愛い自分の娘だからね」
「呆れて何も言えませんわ」
男がくすぐったそうに笑った。
男が視線を遠くに向けた。
「もうすぐ、あかねと三毛が戻ってくる、こっちに向かっているよ」
「直接、帰った方が早いでしょうに」
「父さんが待っているって思ってくれているのさ。一緒に家に帰るって思ってくれている。あかね流に言うなら信義だ。あかねは何処でこんな古くさい言葉を覚えたんだろうな」
男が溜息をついた。
「みっともない格好だ、われながら」

「二人、来ましたよ」
幸乃の声に男が顔を上げる。道路を端っていた二人が魔物の残骸を見つけて、慌てて屋根の上に駆け上がる、そのまま、屋根づたいにやって来る。
「多分、三毛は悲鳴を上げているな」
男が幸乃に笑いかけた。
「何があったんですか」
開口一番、あかねが叫んだ。
「二人に見せたかったなぁ、珍しく父さんのかっこいいところ。もっとも、後半は息切れして幸乃に助けて貰ったんだ」
三毛が男の足下に目を向けた。
「お父さん。足がありませんよ」
慌てて三毛が男の足下に膝をつく。
「幸姉ちゃんはどうしたんですか」
あかねは言うと男の前にひざまずいた。
「幸姉ちゃんなら、お父さんの足が食いちぎられる寸前でも救い出せたはずですよ」
男が困った顔をする。でも、あかねは人の記憶を読むことが出来る、黙っていてもしょうがないかと考えた。
「幸を怒らせてしまってね」
あかねが目を向いた。
「詳しく話してください」
「竹下さんがね、刀を拾って、自分の首に突きつけようとした。自殺だな、それを刃先を掴んで止めたんだけれど、父さんの手が少し切れてね、血が竹下さんの手についた」
「それでどうしたんですか」
「幸を呼んで竹下さんの怪我を治療して貰って」
「だから。それで、どうしたんです」
「それだけだよ。幸は先に帰ったから」
「つまりはお父さん」
あかねがぎゅっと男の左手を掴んだ。
「お父さんの血が他の女性に付いたのが許せないってことですか」
「幸も真面目というか、ちょっと、潔癖性のところがあるからね」
男が笑った。
あかねはいきなり両手で男の頭を掴むと、男に口づけをする。舌を入れ、音のこの舌を求めて動かす、熱い息を漏らした。
三毛がびっくりしてあかねを引っ張った。
「だ、だめだよ。あかね」
満足したのか、あかねが手を離した。
「お父さん。あかねはこういうことの続きを、お父さんと服を脱いで一時間くらいしたいと思っています。ただ、女の子の服を脱がしてみたいっておっしゃるなら服を着たままお相手しますけれど」
「父娘で勘弁してくれよ。心臓が止まるかと思ったよ」
男が大きく息を吸って、心臓を左手で押さえた。
「ちょっと血が付いたくらいで怒るというなら、あかねがお父さんを陵辱しますわ。そして、幸姉ちゃんはあかねを殺せばいいんです」
あかねが男を睨みつけた。
三毛が心配そうに言った。
「三毛も母さんに言います。お父さんのこと」
男が三毛に左手を出す。三毛が両手で男の手を握った。
「そう思ってくれている、それだけで嬉しいよ。でも、いいよ。三毛が言うと、幸は自分がどうすればいいのか混乱するだけだからね」
男が子供のようににっと笑った。
「鶏、七十羽まで育ててくれ。あとの三十羽は父さんも手伝いたいからさ」
男が手を離す、あかねが空中から車椅子を出した。
「おじいさまのお古ですが使ってください」
「鬼紙老はいいのかい」
「厳しいリハビリで歩けるようになりましたわ」
男はあかねに笑いかけると、左手を支えにふわりと車椅子に座る。幸乃がその後ろに立った。
「しばらくは教会の田中さんを頼ってみるよ。それじゃあね」
幸乃と男の姿がふっと消えた。
あかねがぼろぼろに涙を流していた。日頃涙を流すなと言っているあかねを三毛が思い浮かべる。三毛も哀しくなって、あかねにしがみついて泣いた。