遥の花 緑陰の鈴音 蛇足 三毛、怒る


朝。
俯いて視線を足下一点にやる、縁側に腰をかけたままの三毛。
昨晩のことだ、幸と黒が三毛の育てていた鶏をさばいて夕飯のおかずの一品にしてしまったのだ。
夕飯前、すぐに三毛は気づき、ぐっと息を飲んだが、声を上げずそのまま他の部屋へと移った。
鶏は家畜であり、卵も食べるし、肉にして食べる、最初、鶏を飼うときの約束だ。
でも、はい、仕方ありませんねと簡単に受け入れるのは嫌だ。

男は縁側、三毛の隣に座ると、んんと小さく唸る。
「困ったねぇ」
男が小さく呟いた。
三毛が俯いたまま言った。
「何か困ったことがありましたか。三毛にはわかりません」
「いやぁ、これは困ったなぁ」
男が前を眺めたまま呟いた。
「お父さん。どうして、アケミを食べなかったんですか。きっと、美味しかったですよ」
三毛が俯いたまま呟く。
「なんで、食べなかったのかなぁ」
男が前を向いたまま呟く。
「なよに食べればいいって言われたんだけどね、やめておくよって言ったら、では、遠慮なしにって、ぱくってなよが食べちゃった。こんなにうまい肉は初めて食った、三毛に感謝じゃって言ってたよ」
男が背を丸め、左手で頬杖をつく。
「三毛は食べなかっただろう」
三毛が小さくうなずいた。
「三毛がひとりぼっちでいたら、父さん、哀しくなって、なんだか、わんわん、泣いてしまいそうになってしまうからさ。父さん、自分が三毛の側にいたら、三毛はひとりぼっちじゃないかもって、なんかね、そんなふうに思ったんだ」
「同情ですか」
三毛が視線を落とす。
「そうだよ、同情だよ。父さんは三毛ほど熱心に鶏の世話をしていたわけじゃない、だから、三毛の気持ちが分かるというとそれは嘘になる。同情、つまり、感情をしばらくの間、同じにするのが精一杯なんだ。他者である以上共感し続けるというのは嘘だよ」
三毛が息を飲み込んだ。
「ただ、三毛は父さんの大切な娘だから、この同情をしっかりと捕まえて、忘れないように頑張るよ。約束する」
三毛が息を詰まらせ声を上げた。うわぁ、まるで小さな子供のように声をあげ泣く、男にしがみついた。
声を張り上げて泣く、小さな子供に戻ったように声を震わせ泣いた。
三毛が落ち着くのをじっと男が待つ。
やがて、三毛が泣きやみ、そっと、男を見上げ、ほんの少し微笑んだ。
「お父さん、ありがとう」
「どういたしまして」
男も笑うと三毛に言った。
三毛は男の横に座り直すと、俯いて大きく溜息をついた。
「あぁ、大変ですよ、もう」
男が少し笑う。
「これから大変だな。皆、知ってしまったからな。三毛の鶏が美味しいことをね」
「笑いごとじゃありません」
「三毛が丹精込めて育てた鶏だ。なよはこんなに旨いのなら今晩も焼き鳥じゃって言ってたそうだよ」
男の言葉に三毛が頭を抱えた。
男はじっと三毛を見つめていたが、少し笑みを浮かべると言った。
「いま、三毛の育てている鶏は七羽。三毛はそれぞれ個体識別も出来るし、名前も付けている。多分、三毛は二十羽になっても見分けられるだろうな」
どういうことだろうと三毛が顔を上げた。
「でもね、三毛。五十羽でも出来るかい。百羽ではどうかな」
三毛が男の目を見つめた。
「いいの」
「いいよ」
「で、でも。騒がしくなるよ、世話も大変だよ」
「なにも一人でしなさいとは言わないさ。みんなに手伝ってもらえばいいよ」
三毛が涙ぐんだ。
「ありがとう。お父さん」
「どういたしまして」
男がふと思いついたように言った。
「雄鳥が一羽いるから、卵のいくつかは有精卵だ。卵から雛を孵化させてさ、ひよこを成鳥にまで育てれば面白いだろうな」
「はい」
三毛が大きくうなずいた。
「あ。でも、それじゃ、情が移ってまた三毛が悲しんでしまうかもしれないから、それはやめておくか」
「お父さんは意地悪ですよ」
三毛が唇をとがらせた。
男は楽しそうに笑うと、三毛に言った。
「孵化のさせ方とかわからないから、図書館へ行って調べよう。三毛はこれから学校だったっけ」
「今日はお休みになりました」
慌てて三毛は立ち上がると縁側の上に飛び上がった。
「三毛も行きます。白姉に服を選んで貰ってきます」
急いで、三毛が白のところへ行った。ここでは、なよと白しかお洒落に関心がない。何か、着ていればいいくらいに思っている。三毛は男と出かけるため、お洒落をしようと思ったわけだ。
「さてと。幸、黒」
男が振り向くと、幸と黒が並んで正座していた。
「ありがとう、お父さん」
二人がほっとした表情を浮かべ言った。
「どういたしまして。幸、それじゃ、三毛と出かけてくるよ」
幸がうなずく。
「黒」
男が言った。
「カシワ、美味しかっただろう」
「うん」
黒が笑顔を浮かべた。慌てて、幸が黒の膝を叩く。
男は楽しそうに笑うと、器用に立ち上がり、玄関へと向かった。
幸が正座したまま、黒に囁く。
「旨かった、こんなに旨いなんてびっくりしたな」
「スーパーや商店街で買ってくるのとぜんぜん、違ったよ」
「ここの空気を吸って、水を飲んで、薬の無い餌を食ってんだ。美味しいに決まっているけれどあれほどとはなぁ」
「幸母さん。あさぎ姉さん、見た」
「隣に座っていたから見ていない」
「黒はね、見たよ。お肉を食べた瞬間、両目、がって見開いた」
「見たかったなぁ、それ。あさぎ姉さんの料理、旨いからな。だから、あさぎ姉さんの料理と三毛の鶏。凄い料理になるぞ」
黒がほわっとした表情のまま、うふふと笑う。
「お話はそれくらいでよろしいでしょうか」
小夜乃が二人の前に正座していた。
「幸母様と黒姉様に、昨晩の料理のことでお伺いしたいことがあります」
じっと、小夜乃が幸の視線を捕らえる。
「えっと、はい」
逃げ場なく幸が返事をした。
「そもそも、三毛姉様のご承諾があったのでしょうか」
「おう、幸。今晩はどいつを食べる」
なよが出刃包丁を片手に笑いが止まらない体でやってきた。
「あれほど、旨いのはわしも初めてじゃ。少しばかり、塩を振る。これが最高に旨い」
「なよ母様」
きっと視線を向け、小夜乃が言った。
「なよ母様もどうぞこちらにお座りくださいませ」



.電車では三毛は男の右側に座る。男には右腕がない、万が一の襲撃に備えるのだ。二人は図書館へと向かうため、電車に乗っていた。
緊張感があるはずなのだけれど、気がつけば、ふんふふんと三毛が鼻歌を歌っていた。
「三毛はご機嫌だ」
「お父さんとの二人のお出かけは初めてです」
にかっと三毛が笑みを浮かべた。
「そういえばそうだな。三毛は良いのかい。この年代は父親が臭いとか嫌いとか思うって何かに書いてあったよ」
ふと、三毛は背を伸ばしくんくんと男の肩辺りを嗅ぐ。
「お父さんはいい匂いですよ」
「どんな匂いだい」
「えっとですね」
三毛が顔を上げた。
「梅雨の季節、深い山の中。古い無人のお寺か神社の、五百年くらい経った柱の匂いがします」
「なんだか、誉めてもらえているのかどうかわからないよ。三毛は大工さん志望だから、一般的じゃないなぁ」
三毛がうふふと楽しそうに笑った。
「お父さん、任してください」
「何をだい」
「悪い奴がお父さんに襲いかかったら三毛がやっつけます」
「それは嬉しいな。でも、父さんが悪者で正義の味方が父さんをやっつけに来たらどうする」
「それじゃ、三毛も悪者になります」
「それは辛いなぁ。三毛が悪者にならないように、父さん、頑張って良い人をやるよ」
「よろしくお願いします、お父さん」
電車が止まりドアが開く。行き交う人たち、ふと、三毛が一人の女を見つめた。
二十代だろうか、紙袋を持っている、紙袋に手を入れた。来る
ふわりと三毛が飛び上がり、男に突進する女の顔面に回し蹴りを入れた。
三毛の脚が空を切った。
女が微かに身を伏せたのだ、そのまま突進し、紙袋を男の喉へ。男は紙袋から飛び出したナイフの先を摘まんで嬉しそうに笑った。
「お疲れさま、可愛い暗殺者さん」
男がナイフに中指を載せた途端、音もなくナイフの刃先が折れた、瞬間、男は立ち上がると女を左肩に乗せ、三毛の手を左手で掴み、閉まりかけた電車の扉を駆け抜けた。
「うひゃひゃ」
三毛が悲鳴を上げた。二人を連れたまま、男は線路の上を飛び、遠く路地裏に着地した。
男がうずくまる、息が荒い、男は三毛の手を離すと、心臓に手を当てた。慌てて、三毛も両手を男の背中に当てた。
暖かい、三毛は男の背中が暖かくなるのを感じた。
「ありがとう、三毛。もう、大丈夫だよ」
男の言葉にそっと手を離し、顔をのぞき込む。
「三毛。父さん、かっこよかったかな」
「良かったですけど、無茶はだめです。今はかっこわるいですよ」
男が嬉しそうに笑った。
「三毛に叱られた」
男はほっと息をつき、道ばたに座り込み、女を降ろした。
女がうずくまったまま呟く。
「人形になるのは嫌だ、木の操り人形になるくらいなら死ぬ方がいい。そうだ、高いところから飛び降りよう」
女がふらふらと立ち上がろうとする。
「なるほど。君は心臓の代わりに宝具を入れているくちか。暗殺に失敗すれば人形にされてしまうということだね。それでたくさんの人を殺したのか。そりゃ、大変だ」
男が気楽に言った。
「今頃、君の心臓は心臓の弱った年寄りの心臓になっているか、それとも滋養によいと偉いお方達の夕飯の一品になっているだろう」
絶望した顔で女が振り向いた。
「あたしは騙されたんだ」
男が少し笑みを浮かべる。
「騙す方が悪いのは間違いないけれど、騙される方も悪いんだよ。自分の間違いを認めた上でないと、君の言葉は随分と説得力に欠けるな」
男は器用に立ち上がると三毛に言った。
「一軒、寄り道をして良いかい。歩いてそれほどかからないところだからさ」
何か刺激的なことがありそうだと三毛がうなずいた。
「何処に行くんですか」
男が嬉しそうに笑った。
「教会の魔女」


白を貴重にした美しい教会だ。二百台駐車出来る駐車場、その横の小径を行くと教会が見える。小径に沿って、いくつもの花壇が並び、小さな子供達がシスターの指示に従って花の苗を植えていた。
「とても素敵な場所ですよ。ここが魔女が運営する教会なんですか」
不思議そうに三毛が言う。
「例えば何処が素敵だい」
「何処って」
三毛が当然のように言った。
「幼稚園児でしょうか、たくさんの子達が賑やかに花を植えています」
男がくすぐったそうに笑った。
「体験学習と言えば時給はいらないし、子供達もあと十数年もすれば、結婚する子達もいるだろう。こんな素敵な教会で結婚式を挙げたい、そう思う子も多いだろう。実際、ここで式を挙げる人の半数は子供の頃、ここで体験学習をした人たちだ。つまりはただの営業活動だよ」
「ええっ。なんなんですか、そんなのつまらないですよ」
「三毛。怜悧に見ること。そうすれば本当が見えてくるし、本物を見つけることが出来るよ」

表の豪奢な入り口を避け、裏から入る。まるでのっぺりとしたビルのようだ。
ドアを開けてすぐ左が受付だ。少し、薄暗い
あまりの落差に三毛が溜息をつく。
表と裏が全く違います。

受付と言っても、大したことはない、小降りの窓を開けて用件を言うだけだ。
男が受付の窓を軽くこんこんと叩く。
「SKさん、いるかな」
男の声に半分居眠っていたシスターが目を覚ます。男の顔を見た途端、飛び上がった。
「はいっ、居ります。よ、呼んできます」
「いや、いいよ」
男が少し見上げる。
「執務室にいるようだね。わざわざ、降りてきて貰うのも申し訳ない。上に行くよ」

エレベーターを降りると、目の前が執務室の大きな扉だ。扉を開け、SKが満面の笑みを浮かべ迎えていた。
「これは先生。ようこそ、お越しくださいました」
「少し、お願いしたいことがありまして伺った次第です」
男は静かに言うと少し会釈をする。SKに緊張が走ったが、表情には出さず、三人を執務室に招き入れた。
男は暗殺者の女性を前に立たせ言った。
「訳ありなのですが、この娘をこちらのシスターにしていただけませんか」
暗殺者が驚いた。
「あたしにシスターをやれって言うのか」
「そうだよ」
男が笑顔を浮かべた。
「君は私の暗殺に失敗し、私に拉致された。君の命も狙われるだろう、ここなら君は大丈夫だ。そして、私が君の宝具を取り出して木の操り人形にならないようにしてやろう。代わりに心臓も作ってやる。どうだい」
「そうしてもらえると嬉しい。でも、私には返せるものがない」
「君の胸にある宝具をこの教会に進呈してくれればいい」
暗殺者がうなずいた。
「SKさん、そういうことなんだけれどいいかな」

人の心臓を抜き去り、宝具を入れる術者は多い。代わりに術を詰め込んだ宝具を入れると、入れられた人間は特別な才能を得る。しかし、いずれは宝具に生体エネルギーを吸い取られ、木の操り人形のようになって死ぬか、術師に使役される人形になる。強い宝具は一部の人間たちの間で高値で取り引きされる。

「先生のおっしゃることにだめだなんて申せませんわ」
SKも宝具が手にはいるならと笑顔でうなずいた。
男が暗殺者の胸に左手を向ける。ふと、男がその手を降ろした。
「あかねを呼んでも良いかい」
男が三毛に言う。
「はい、私はいいですけど」
どういうことかなと三毛が頭を傾げた。
「珍しい術を使うときは自分にも見せてくれってうるさいんだよ。あかねは術マニアだからなぁ」
男は笑うと執務室のテーブルに向かって声を掛けた。
「あかね。変わった術を使うんだけど、見にくるかい」
あかねは以前に忍び込んでテーブルの脚に盗聴器を付けていたのだった。
男が三毛に言った。
「あかねが家を飛び出したよ。幹線道路を走る車の屋根に飛び乗った。ああ、追い越し車線の車の屋根に移った。映画みたいだな」
男は気楽に言うと、扉に目を向ける。 階下で鈍い音が響いた。
「通用口のドアを蹴り破った。階段駆け上ってくる」      
あかねは部屋に飛び込むと膝をついて大きく息をした。
「お、お父さん」
一言言って、大きく息を吸い込む。
「これから何をしますか」
「この女性から宝具を取り出して、その後、心臓を作って埋め込む、ここまで」
男の言葉にあかねがにぃぃと暗殺者に笑いかけた。暗殺者が脅えて一歩、退いた。
「良かったですわねぇ。もしも、お父さんの喉にナイフが触れていたら、貴方、私たちに切り刻まれていましたよ」
あかねは暗殺者の記憶を読みとり囁いた。
男は気を取り直して、暗殺者の前に立つ、左手を差し出した。暗殺者の左胸から黒いものが浮かび出る。
卵だ、漆黒の黒い卵だ。
「これは」
あかねが呟いた。
「あなた。随分、人を殺したね。百人は越えている」
「あたしが望んで殺したわけじゃない。あたしは心臓を奪われた被害者だ」
あかねが声を出して笑った。
「それは愉快な考え方です。ただ、強くはなれない、それでは」
男はガラス球に漆黒の卵を入れた。そのまま、机に置く。
SKがそそくさと金庫にそれをしまい込んだ。
男が暗殺者の髪を二本を抜く。
「動脈と静脈で二本」
ガラス球を取り出すとガラス球に入れる。男がガラス球をぎゅっと掴む。ガラス球が棒状に延びた。振るとどんどん帯状に延びていく。
あかねが目を輝かせてそれを見る。
男が左手を器用に回し、透明の帯を一つに纏めていく。透明な心臓だ、模型のような透明の心臓ができあがった。男が息を吹きかける、動いた、心臓が鼓動しだした。
つっと男が心臓を暗殺者に向けて、人差し指で弾く。心臓が暗殺者の左胸に入っていった。
「右手で左胸を押さえてごらん。心臓が鼓動しているのがわかるかい」
暗殺者の女が胸に手を当てる。
女がにやりと笑った。
「あんた。余程の脳天気なバカ野郎だな。自分を殺そうとした奴を親切にするなんてな」
ぶわっとあかねと三毛が男の前に出た。口撃だ。相手を言葉でどんどん追いつめていく。本来なら、一刀両断だが、男の手前、血は流したくない。
声を発しかけた瞬間、二人は息を飲んだ。
幸が片手で女の頬を捻りあげていた。
女のつま先が微かに浮く。
痛みと恐怖で女がうめき声を上げた。
「心にもないことを言うなよ。ここは、おじさま、助けてくださってありがとうございますだろう」
ぐいっと幸が手に力を入れる。女の悲鳴が響いた。
「な、言いなよ。そう言ってくれれば手を放すよ。それとも、言わないのは、頬をちぎって欲しいのか。なら、このまま、皮膚と筋肉、引きちぎる」
「ごめんなさい」
女が叫んだ。
「聴きたいのはそんな言葉じゃない」
女の動き始めた心臓が強く高鳴った。
「助けてくれてありがとうございます」
女が叫んだ。
幸が手を放す。どさっと床に女が落ちた。
男があきれたように言う。
「幸のおてんばにも困ったものだなぁ」
あれをおてんばの一言で片づけるかとあかねは言いたいが口にしないでおこうと思う。三毛がすっと男の背中に隠れた。
「だって。お父さんの親切を無にするんだもの」
幸が男の前まで来て言った。
「脳天気であることには違いないな。だって、優しい娘たちが居てくれるからね。幸、それとは別に言わなければならないこと、あるんじゃないかい」
瞬間、幸の表情が緊張する。男の後ろに呼びかけた。
「あの、あのね、母さんはね」
ぎゅっと三毛が男の背中に頭を押しつけた。
「幸。言葉の順番が違うよ」
「ごめんなさい、三毛」
「なんのことですか」
三毛が男の背中に隠れたまま言う。
「三毛の鶏を勝手に食べたこと、ごめんなさい。反省しています」
三毛が男の背中に頭を押しつけたまま、静かに言った。
「三毛はもう怒っていません。でも、なんだか、素直になれません。晩ご飯までには帰ります。そのときには笑顔を浮かべるようにします」
三毛の頑なな言葉に動揺しながらも幸が答えた。
「わ、わかった。それじゃ、待っているよ」
男がそっとうなずいた。
「あかね、帰ろう」
幸があかねに声を掛けた。
「ええっ、まだいます。お父さんの術を見たいですよ」
「父さんと三毛のデートのじゃまをするなよ」
幸はあかねを後ろから抱きしめると、一歩引く、同時に二人の姿が消えた。
「あの、幸母さんは」
「家の前に戻ったよ。あかねは瞬間移動という術を経験したことになるけれど、不満げだな。あの術を分析するのに、まだあかねの知識では足りないからね」
ほっと、三毛が溜息をついた。
「幸母さんは好きです、好きなんですけど」
男がそっと笑う。
「今回のことで、三毛はちょっと大人になったんだよ」
男の言葉に、三毛が恥ずかしそうに少し笑った。
男はSKに振り返り言った。
「お騒がせしました、帰ります。この娘をよろしくお願いしますよ」
「わかりました。敬虔なシスターに育てて差し上げます」
SKが二人を笑顔で見送った。しかし、二人が部屋を出て、エレベーターで階下に向かうそのときになって、SKが椅子の背に背中を預け、大きく息を吐く、疲れ果てたという顔だ。
十二分に男と幸の恐ろしさは知っている。やっと、緊張がほぐれたのだ。
力つきて仰向けに倒れている女に声を掛けた。
「あなた、お名前は」
頬が痛くてうまく喋れないのか、でも、やっと声に出す
「金澤恭子。です」
ですを付け加える。
SKが卓上の呼び鈴を鳴らす。シスターが二人、階下からやってきた。
SKは背もたれから起きあがり二人に言った。
「先生から、こちら、金澤恭子さんをシスターにしてくださいと依頼されました。金澤さんの教育をお願いしますよ。間違いのないようにね」


「ありましたよ。お父さん」
三毛がぱたぱたと走り、男の隣に座って本を広げた。
図書館のテーブルに並んで座り、三毛の広げた本を読む。
鶏の育て方を書いた本だ。
なるほどねと男がうなずいた。
「勉強になるなぁ」
三毛は笑顔いっぱいにうなずくと鞄からノートと鉛筆を出した。
「写しておきます」
「ここ、コピーサービスがあったよ」
「だめですよ」
三毛が嬉しそうに睨む。
「実際に手を使って書くことで理解できるんです。コピー機はだめです」
「なるほど、そりゃそうだ。三毛に教えて貰った。ありがとう」
恥ずかしそうに三毛が笑う。そして、ノートに本の内容を書き写し始めた。
男はこんな自分自身が幸せすぎて申し訳なく思う。

「希代の魔術師 無がこのような腑抜けた顔をするとはのう」
二十センチほどだろうか、小さな老人の頭だけがふわふわとテーブルの上に浮かんでいた。ぎろっと三毛は睨むと、老人の頭をボールのように掴み、投げ捨てた。
「お父さんを腑抜けなどと許せません」
男が軽く笑った。
「大切な自分の娘と席を隣同士にしているんだから、父さん、すっかり腑抜けているよ」
ふっと三毛が頬を赤らめた。
「幸母さんが言うとおりです。お父さんは女ったらしですよ」
「ひどいめにおうたわい」
すとんと、老人の頭が上から落ちて来、テーブルの上をふわふわ浮かぶ。
「これは随分とお久しぶりです」
男が小さな老人の頭に向かって言った。
「無よ。がーでぃあんがおるとは思わなんだ」
「いいえ。私の末っ子です。優しい、いい子ですよ」
「それに同意するかどうかは別として、お前は随分と結界から出てこん、やっと会えた。悪いが、おやじ殿に貰うたガラス球が尽きてしもうた。一つ、所望したい」
「どうぞ」
なんの戸惑いもなく男はガラス球を出すと、老人の前に差し出した。
「これはありがたい」
首の下からぎゅっと両手が飛び出した。右は女の白い腕、左は剛毛の生えた男の腕だ。
「お父さん、これは」
「ん、神様だよ。もっとも、鰯の頭も信心といって、そこら中に神様はいるけどね、多分」
老人の頭はガラス球を受け取ると、不思議なほど上品に微笑んだ。
「対価は何が良い」
男が少し俯き考える。
「困りました。私は相も変わらずの貧乏暮らしですが、不自由はしておりません」
男の言葉に、ならばと、老人が三毛を見つめた。三毛は何か老人の目から光が放たれ、それが自分の中を通り抜け、四方八方に飛んでいったような気がした。
老人の頭がふわりと前後する。うなずいたのだ
「では、話を伝えてやろう。津崎流なぎなた術、今宵、襲われる。要は頑固じゃからな」
老人がにやりと笑った。
「そうですか。これは十分な対価をいただきました」
男の言葉が終わると同時に、老人の頭がふっと消えた。
「椿ちゃんが大変です」
三毛が立ち上がった。
「お父さん、御本をコピーしてきます」
「いいのかい」
「臨機応変ですよ」


津崎流薙刀術 道場近くのラーメン店。
四人掛けテーブルに座る男の前には三毛とあかねが座っていた。
「お呼びありがとうございます、要さんならあかねにお任せください」
あかねが嬉しそうに笑った。
「腹ごしらえのラーメンも最高です」
「あかねは戦うのが好きだからなぁ」
男が溜息をつく。
「加減してくれよ」
「ま、お父さんったら。あかねは心優しい女の子ですよ」
あかねが柳眉を上げる。ふと、三毛に向き直った。
「最初に言わなきゃだったけど、三毛、ごめんね。三毛の鶏、食べたの」
三毛がそっと頭を振った。
「いいよ。あけみもきっと空のお星様になったよ。みんなのお腹の中で消化されたりしてないよ」
「きついなぁ。三毛も」
あかねがほっと吐息を漏らした。
「なんだか、三毛、ちょっと落ち着いた」
「みなさんのおかげでちょっと大人になった気分です」
「私より先に大人にならないでよ」
あかねがそっと笑った。
そういえばと、男があかねに言った。
「あかねはどれくらい強くなれば満足するんだい」
あかねが男の言葉に天井を見上げた。
「元気なときのお父さんくらいかなぁ」
あかねが男の顔を見つめた。
「そのくらいは頑張ります。そうだ、お父さん、ずるいですよ。黒は半日、お父さんの力を借りて、あれで随分、黒は強くなりました。あかねにも三日くらい貸してください」
「ごめん、ごめん。二人は無理だ、父さんも、もうちょっと生きていたいからな」
あかねが少し俯く。
「黒はたこ焼き、白は医者、三毛は大工」
ふっと、あかねが三毛の腕に自分の腕を絡めた。
「あかねは三人に、怖いかぐやのなよ竹の姫から助けていただきました。三人に危険が生じたら、ま、幸姉さんやお父さんがなんとかするでしょうけれど、あかねとしても精一杯のことをしなければなりません。それが信義というものです」
「だから強くなりたいのかい」
「そうですわ。決して、悪の大魔王になりたいとは思っていません。自称可愛い女の子ですから」
にかにか、あかねが笑った。
三毛がぎゅっと腕に力を入れた。
「あかねはとっても優しい人だよ」
「正直なところ、三毛にそう言われるとほんのちょっと残っていた良心というモノがちくっとしますけれど」
ラーメンとチャーハンが来た。三毛とあかねの前にはラーメン大盛りとチャーハン、男の前にはラーメン小だ。
三毛が心配そうに言った。
「お父さん。体の具合が悪いの」
男が割り箸を取る。
「父さんはこれで十分だよ。それに、自分の娘二人が美味しそうにラーメン食べていたらね、それだけでさ、胸がいっぱいになって、ついでにお腹もいっぱいって気分になるんだよ」
あかねもテーブルからお箸を取る。
三毛がすっとチャーハンの皿を両手で男に差し出した。
「お父さん。少し食べてください」
三毛が不安げな表情を浮かべる。
「いいよ。若いんだからしっかり食べなきゃ」
男の言葉に三毛は頼りなげに笑みを浮かべたまま顔を振る。
男は餃子用の小皿を取ると、少しチャーハンを皿に盛った。
「娘にそんな顔をさせてはだめだな」
男が少し頷いた。
いきなり、あかねは割り箸を横にくわえ、ばりっと二つに割ると、箸をラーメンにぐいっと突き刺し、ばさっと麺を掴むと男の鉢に放り込んだ。
「はんっ。きっと、いま入れた麺の方が美味しいですよ。あかねのラーメンですから」
そういうと、あかねが片手にどんぶりを持ち、がふがふ麺をかき込んだ。
「あかねはホームドラマが苦手だからなぁ」
男が楽しそうに笑った。


「世の中ってのは厳しいもんだねぇ」
男が言葉とは裏腹に気楽な顔をして言った。
津崎道場、夜中、三人、雨戸に閉ざされた屋敷を背に、縁側の沓脱石に座っていた。痩せた三日月の月明かりだけが仄かに三人と面前の瀟洒な日本庭園を照らし出している。
あかねが指を折る。
「要さん、娘、孫の椿ちゃん。七人の内弟子。十人中、九人までがお父さんの術でぐっすりお休みです。で、私達は薄ら寒い外で寝ずの番です」
「人生の悲哀を感じるねぇ。世間の不条理に泣かされるよ」
男が三毛に向き直る。
「強く生きていくんだよ、三毛。どんな辛いことがあっても笑顔でね」
三毛が困った顔をして頷く。
「貧しさに負けた」
男が呟く。あかねが答えた。
「いいえ、世間に負けた」
男が小さく笑った。「昭和枯れすすき」だ。
「夏になったらね、お店の前で夏祭りしたいねぇ。花火して、西瓜食べて、お客さんや近所の人たちも一緒にね。あ、でも、それじゃあ、仕事になってしまって、みんなが楽しめないかなぁ」
「三毛もやってみたいです。楽しみましょう」
あかねがぎゅっと男の上着の裾を掴んだ。
「お父さんも一緒ですよ」
「そうだね、一緒だね」

微かに雨戸の動き出す音。三人が口を閉ざした。そして、男が三人の気配を消す、もう、目の前に立っても気づかれないだろう。
女が一人、雨戸を少し開け、外へ出る。裸足だ、音がしないように女は歩くと、庭園の向こう側、木塀の木戸へと向かう。三毛とあかねがふわりとその女の後ろを歩く。
津崎家の家屋と道場は木塀に囲まれている。ただ、夜間は暗殺寺の呪符により、木塀といえど破るのは不可能、乗り越えることも出来ないようになっている。ただ、日本庭園の奥、小さな木戸だけは内側から開けることが出来るようになっていた。
木戸の前、内弟子の女だ。外へ囁く
「お頭、参りました」
木塀の向こう側にはおよそ二十人、黒に統一された服を纏う男たちがいた。
「よし。開けろ」
木塀の向こうからの男の声に、女が錠に触れた瞬間、三毛が女の肩と首の後ろに手を当てた。女の体が固まった。意識はあるのだが、声も出せない、体も全く動かない。
「お頭、実は申し上げたいことがあります」
あかねだ、あかねが女の声色そのままに囁いた。
「なんだ、いいから開けろ」
あかねが思い詰めたように言った。
「おかしら。要様の部下になっていただけませんか」
一瞬、塀の外の気配が消えた。
「それはどういうことだ」
あかねが女の声色で言う。
「お頭より要様の方が人格も剣技も遙かに上です。ならば、お頭が要様の下に入るのは当然かと思うのでございます。そうすれば、少しはお頭もましになるのではと考えた次第にございます」
塀の外は沈黙だ。あまりの予想外の言葉に思考が追いつかないのだ。
女があかねの言葉に混乱していた。急に体が動かなくなった、一言も喋れない、そしたら、鬼紙家の令嬢、あかね様が自分の声でお頭を怒らせている。
「言いたいことはそれだけか」
塀の外から、一段、低くなったお頭の声だ。
「いろいろ、他にもございますが、今はこれだけにしておきます」
にいぃっとあかねが口を歪め笑った。
「そうか」
そうお頭が呟いた瞬間、刀抜く鞘走り音、がつんと塀が揺れた。木塀がお頭の打突を弾き返した。
「間抜けでございます、お頭。この塀は特注品、お頭程度の技では貫くことなど無理にございますよ」
あかねが女の声色のままバカにしたように笑う。お頭が叫び、何度も塀を打ち据える。部下たちもお頭の形相に脅え、距離を置いた。
隠密行動も何もあったものではない。お頭が大声で喚きながら塀を打つ。
「お頭、間抜けすぎますぅ」
けらけらとあかねが笑った。
うぉぉっ、剣を脇に構え、体当たり。ぐっと、鍔もとまで剣が塀を貫いた。にっと笑うと、あかねは両手親指と人差し指で刀を摘まむ。お頭が抜こうとするが、あかねが剣を摘まんでいるので抜けない。塀に片足をかけ、引っ張る、瞬間、くっと剣を折る。弾けるようにお頭が仰向けにひっくり返った。
しばらくの間、呆然と黒服たちはその様子を見ていたが、はっと意識を取り戻すと、気絶したお頭を抱え闇へと消えた。

「さて」
あかねが呟いた。
「竹下さんにはびっくりですが」
三毛が、そういえば、この人、一番弟子の竹下さんだと思い出した。三毛が手を放す、どさっと竹下が地面に崩れた。
「彼女への害を最小限にするため、もう一段、奴らをいじめてきます。お父さん、奴らのねぐらは何処ですか」
男が手をかざして塀の向こうを探る。
「おぉ、いいところ、住んでいるね。タワマン、新しくできたタワーマンションだよ。マイクロバスに分乗して帰る途中だ」
「マンション、マイクロバス。忍者がなに寝ぼけたとこ住んでいるんですか。修行が足りませんよ。奴らは羽虫に堕落しました。きっと、ワインかシャンパンでもいただきながら地べたを這い回る私たち貧乏人をあざ笑っているに違いありませんわ」
ここであかねもお嬢様だろうと言うと話が長くなる、男と三毛がそう思う。
「とにかく、エレベーターと水道を破壊してやります」
「いやいや、タワマンでそれはきついだろう」
「いいえ、感謝して欲しいくらいですわ。階段を駆け上がる、マンション側面を水を背負って上る、修行ができる環境を作ってさしあげるのです。お頭も感謝してくださいますわ。きっと」
にぃぃと唇を歪めてあかねが笑う。
いきなり、あかねが三毛を背負った。
「行ってきます」
「あ、あの」
三毛が慌てた。
「塀の結界を乗り越えます。しっかり掴まってください」
「三毛を悪い子にしないでくれよ」
男が笑った。
「三毛はあかねにとって可愛い姪です、安心して下さい。よぉ、親父、今月ピンチなんだ、カンパしてくれよって言えるよう、ちゃんと指導してさしあげますわ」
あははとあかねは笑うと三歩、塀から離れ、ぐいっと塀へ突進した。塀を駆け上る。
塀がどんどん上へ延びていく。あかねの足下で塀がどんどん上に延びていく、それをあかねが垂直に駆け上がる。凄いと三毛があかねの背中で思う。あかねが速度を上げた、塀に追いつく、三毛が手を伸ばし塀の先端を掴んだ。
地上で男が楽しそうに見ていた、二人、塀の上で前転し外へ飛び出した。
「元気だなぁ。木戸を開けて出ればいいだけなのに。元気が余ってるんだろうね」
男が俯き、竹下に笑いかけた。
「屋敷に戻って、雨戸を締めて寝ればいいよ。足の裏、洗うのを忘れないようにね。それじゃ」
竹下は俯いたままだ。
男はしゃがむとじっと竹下を見つめた。そして、ちょっと笑う。
「真面目な人は大変だなぁ」
脅えたように竹下が顔を上げた。
「竹下さん。妹のように可愛がっている椿ちゃんも殺されずに済んだ。私の娘二人が君の里へ行った。二度と君に干渉するなと脅しをかけにいく。今夜のことは私も娘も他言はしない。なら、知らぬ振りして、布団に潜り込んで、朝、いつものように起きればいいんじゃないかい」
「でも」
竹下が呟いた。
「私が私のやったことを知っています」

男は少し吐息を漏らすと地面にそのままあぐらをかいた。
「真面目な人は真面目に深みへとはまっていくね。君は椿ちゃんを妹のように可愛がっているし、椿ちゃんも君を姉のように思っている。君は要さんからも認められ、奥伝も教わったはずだ。要さんは椿ちゃんを津崎流の跡取りにしたいと思っているけれど、中継ぎとしての君に期待している。お互いがそう認識している。なのに、君はそれを潰そうとした。入門したときの、お頭の命令通りにさ。真面目な人は困るよ」
男が少し笑う。
「お頭の命令に従うのが掟です。どうにもなりません」
「なるほど。それじゃ、これからどうするんだい」
竹下は無言のまま、あかねが折った刀を両手で握った、両手から血が吹き出す。そのまま、刀を首へ突き立てる。
男がすっと前に倒れた。
闇の中、竹下は意識があるのを感じた。死んでも、少しの間は脳が活動しているのだと聴いたことがある。
男の声が聞こえる。
「死んで悔いはないかい。椿ちゃんが死んだ君を見て、どんな表情をするだろう、大切な姉だ、大きな傷を心に残すのじゃないかい」
椿ちゃんの泣き顔を思い浮かべる、私は椿ちゃんをこんなにも苦しめるのか。
「君はまだまだ若い。これから、楽しいことがたくさんあったのじゃないかな。出入りの青年が君のことを好きなんじゃないかって、内弟子が喋っているのを聴いたことがあったろう。もし、本当なら、明日辺り、彼が思いきってさ、君を映画か遊園地に誘っていたかもしれないぞ」
下忍の私が楽しんでもいいのだろうか。私はお頭の命令通りに動く操り人形だ。
「君は椿ちゃんに薙刀を教えている間、楽しかっただろう。噂話を耳にしてちょっとね、どきっとしたんじゃないかい。それなら、君は操り人形じゃない、一人の人間だ」
私は人間なのか。
「そうだよ。だから、死を受け入れずに、そっと目を開けてごらん」
目を開ける。
男の左手が、喉の寸前で刀を押さえ込んでいた。その手から血が流れる。
「刀身を摘まもうかなと思ったんだけどね、気が変わって掴むことにした。自分のために血を流す人間の姿を見る方が君にもいいんじゃないかってね、思ったんだ」
竹下が驚いて手を放した。男も刀身から手を放すと自分の手のひらを見る。
「子育ては大変だなぁ。満身創痍だよ」
言葉とは裏腹に男が気楽に笑う。
竹下の後ろに視線をやる。
「幸。この子の手を治療してやってくれないかな」
幸は竹下の前に正座を彼女の手を両手で柔らかく重ねる。竹村は両手の痛みがすっかり消えたことに気づいた。
「幸。父さんの手もお願いできないかなぁ」
くっと幸が男を睨んだ。
「嫌です。お父さんは娘に心配をかけすぎです」
「それを言われると言い返せないよ。まいったなぁ」
男が困ったように笑った。すっと幸の姿が消えた。
ふと、男が足下に転がる折れた刀を見る。根本は竹下、先端の血は男の血だ。
「女心は難しい」
男は小さく呟くと、器用に立ち上がった。男は刀を拾うとふわりと出したガラス球に差し込む、少し頭を傾げたが、いいことを思いついたと頷いた。
ガラス球を回す、痩せた三日月の明かりでも月明かりを細切れに乱反射する、次第に形を変え、白地にほんの少し朱を差した紐に変わる。
「左腕を私に向けてくれるかな」
慌てて、竹下が男に向けて手を伸ばす。
紐が竹下に向かって飛ぶ、その伸ばした腕の二の腕に巻き付いた。
「どうも、私は君を災厄に導いてしまったようだ」
男は少し頭を下げ、そして言った。
「それは刃帯儀という武器だ、君をその武器は護るだろう。明日にでも私の次女なよに会いに行ってくれ。椿ちゃんに頼めばいいよ」
男はそういうと背を向けた。
歩き、塀に左手を触れる。
あぁ、これは簡単だと一人呟いた。
「おやすみ」
男はそう言い残すと、ふわりと塀にとけ込み、姿を消した。
竹下は正座をすると、両手を合わせ、頭を下げた。

男は塀の外に抜け出すと、電信柱の街灯の下に、一人の男を見つけた。
「やぁ、神崎さん。ひさしぶりだね」
神崎は慇懃に会釈すると、男の前にたった。
「先生。お久しぶりですな」
「君は私がどうしてここにいると知ったんだい」
神崎がじわりと口元を歪め笑った。
「両面宿儺の道祖神が吹聴して回っております。俺が無に情報をやった。俺が無を助けたと言うております」
男が愉快に笑った。
「これは参った。仇で返されてしまったか」
男が少し首をひねる。
「私は神崎さんに恨みを買われるようなことは、まぁ無くはないか」
「いや、先生に恨みなど滅相もございません。私神崎めは先生を御救いしようと駆けつけたのでございます」
「対価はなんだい」
「できれば先生の左腕など」
神崎が笑う。
男が闇を睨む。
「随分とまぁ、私に恨みを持つモノ達が集まったものだ。神崎さん、私がここを無事に逃げ切るため、君に左腕を提供したとして、君は私を介護してくれるのかい。アーンと言ってご飯を食べさせてくれるのかい、下の世話も頼めるのかな」
「それはご遠慮させてください」
「私もだよ。いい歳したおっさん同士なにが哀しくて、あーんってなもんだよ」
男の左手に白く輝く自在が現れた。
「先生。久方ぶりの剣技を拝見できるとは嬉しい限りでございます。神崎、お供し先生の骨を拾いますぞ」
「元気な頃ならたいした相手ではなかったけれど、いまは切り抜ける自信があまりないな。本当に骨を拾われて実験に使われてしまいそうだ」
ふと男が振り返った。そして神崎に言う。
「あの闇の中に鬼はいないのかい。君の跡取り息子を喰った鬼は」
一瞬、神埼の意識が飛んだ。彼がとある藩の城主だった頃、突然に現れた鬼に生まれたばかりの息子を喰われてしまったのだ。
はっと気づくと男は既に闇の中へと駆け込んでいた。出鼻をくじかれたと神埼が舌打ちをした。