.遥の花 緑陰の鈴音 二話

ランチタイム終わり、賑やかだった客が全て帰ったひととき、からんからんと喫茶店のドアが開いた。いらっしゃいませとあさぎが入ってきた女の子に笑顔を浮かべた。
香坂の家に同居している高村真理子だ。
真理子は笑顔を浮かべながら、左右を探すように見、メモに何かを書くとあさぎに見せる。
はじめまして、真理子です
あさぎが合点がいったと頷いた。
「智里はしばらく帰ってこないかな。どうぞ、座って」
あさぎは真理子をカウンターに座らせると、ハーブティーを出す。真理子が少し口に含み驚いたようにあさぎを見つめた。手話をしかけたが、もう一度、メモを取り出すと、書く。
とっても美味しいです
あさぎは照れたように笑みを浮かべると、ちょっと、頷いて幸を呼びに行った。

「やぁ、真理子、久しぶり」
幸は真理子の隣りに座ると、気楽に笑いかけた。
幸は二、三度、香坂の家へやって来ていたし、真理子とも何度か話をしたこともある、真理子がほっとした表情を浮かべた。
「あさぎ姉さん。真理子に今日のケーキをお願いします。できれば二つ」
嬉しそうに幸がにかにか笑った。
幸は改めて真理子に向き直り言った。
「智里に会いに来たのか」
こくこくと真理子が頷く。
「智里はあかね達と鬼紙家に行ったからなぁ、数日は帰ってこない。香坂さんは家にいるのか」
母さんは給食を作るバイト、円はコンビニバイト、夕方には帰ります
幸は頷くと、ケーキと紅茶を運んできたあさぎに言った。
「あさぎ姉さん。香坂さんも呼んで、外でバーベキューをしようよ。晩ご飯」
あさぎが楽しそうに笑った。
「な。真理子もいいか」
真理子が笑って頷いた。

山裾の無人駅、昼下がりのやわらかな陽光が秋の空気を暖かくする。
智里は背を伸ばした。
本当に山が目の前にある。これが鬼紙家専用の駅なのかと智里は周りを見渡した。古びた駅舎だが、監視カメラがいくつも設置されている。
昔、潜入しようとしたことを思い出す。結果としては、せずに済んで良かっただろう
「智里さん。もうすぐ兵次が来ますよ。呼ばなくても不審者発見あたふた来ます。えっと、五人だから、マイクロバスで来てもらわなきゃ」
あかねは古びた駅舎の柱にむかって五人と声をかけた。木目の中、一ミリ程度のレンズがある、カメラが埋め込まれているのだ。
そして、あかねは小さな鞄から黒いビニールテープを取り出すと木目に張り付けた。
智里が少し離れたところにいる三人を眺める。朱女はやっと昨日だ、小夜乃に自分が実の姉であること、自分が小夜乃を捨てたのだと小夜乃自身に告白した。
あかねが智里を見上げた。
「小夜乃はすごかったですね」
智里が小さく頷いた。
朱女が小夜乃の前に正座し、二人の関係を語った。小夜乃は笑顔で膝をつくと、朱女の手を両手で握って言ったのだ。話をしてくれてありがとうございますと。
そして、ごめんなさいと付け加えた。それでも小夜乃の母はなよ母様だけですと。
あかねが言葉を続けた。
「小夜乃はうちで一番大人ですね。年下ですけど」
智里がゆっくりと頷いた。
「妹を見習わねばと言う、出来の悪い姉で恥ずかしいです」
ちょっと、いたずらげに智里が笑う。あかねは智里が随分、やわらかくなったと少し安心した。

あかねと鬼紙老

山一つが屋敷だ。
廊下から、そのまま、橋を越える
渡り廊下というより屋根のある橋だ。それを越えると、鬼紙老の居る奥座敷がある。
聴く読みが小さくおおっと唸った。橋の紅色の欄干と紅葉の赤、昼下がりの青い空。山の片面を大きな屋敷が点在し、それらを屋根付きの立派な廊下で繋いでいる。金持ちは何考えて生きているんだろうと素直に思う。
回り廊下を歩き、中程であかねが止まった。真新しい障子の前で正座する。
「あかねです。鬼紙老様、お加減はいかがですか」
「帰れ」
くぐもったような鬼紙老の声が障子を通して小さく届く。
「帰ります、それでは」
あかねは平気な顔をして返事をする。しばらくはそのままだ。
「あかね、居るか」
小さく鬼紙老の声が届く。
「あかねは、鬼紙老様のお言いつけにより帰りました。あかねは清々したと下山中です」
「入っても良い」
鬼紙老の言葉に何事もなかったように障子を開け、部屋にはいる。
この離れ屋の中央に布団が敷かれ、鬼紙老が布団の中で横になっていた。
あかねは鬼紙老の枕元に座ると顔を寄せ声をかける。
「随分、顔色が悪いです」
「ふん。なにごとも順番、生まれたときから、人は死に向かって走っている。わしも漸く目的地へと到着じゃ」
「余命半年とお医者様から宣告されたのですね」
鬼紙老が唇をぎゅっと噛んだ。
不意にぽんとあかねが鬼紙老の額を叩く。
「なんじゃ」
「鬼紙老様は特に病気でもなんでもありません。半年と言われて、半年で死ぬことを受け入れたから、こんな寝たきりになるのです。ご自身で生真面目に準備なさっているのです、しっかりなさいませ」
あかねは顔を上げると外の三人を呼ぶ、おずおずと朱女たち三人が部屋に入った。
「なんじゃ、こいつらは」
「一ヶ月の修行を終え、朱女が戻って参りました。もう二人は私や朱女の友達ですわ」
あかねは鬼紙老の布団の上敷きを一気にめくる。
「小百合さんは右、棗さんは左に座って、鬼紙老の体をさすってくれますか。寿法です」
慌てて、二人、鬼紙老の両脇に座ると足の先から順番にさすっていく、血行と体液の循環を促す。
「ごめんなさい」
あかねが笑った。
「こんな、爺さんの体を触らせて。終わったらアルコールで消毒してくださいね」
あかねは見上げると呆然としている朱女に言った。
「言祝ぎの歌、秋、豊穣の歌をうたってくれますか」
慌てて、朱女は正座すると小夜乃に教わった秋の歌をゆっくりと歌い出す。
朱女は以前あかねが鬼紙老に指示していたこと、いまの爺さんという言葉にも驚いていた。あかねさんっていったいどういう人なんだろう。
「いかがですか、鬼紙老様。体が軽くなってきたのではありませんか」
「そうだな」
「あんまり軽くなって、天国に行ってしまわれたら大変ですね」
あかねが気楽に笑った。
「寝てばかりいるから足もこんなに細くなってしまうのです。晩、寝るとき以外は立っているか椅子に座るかどちらかです。当分、あかねはここに居ります、厳しいリハビリを始めます、御覚悟ください」
「居るのか」
ほんの少し鬼紙老の声の調子が上がる。
「帰れとおっしゃれば逆らうことはできませんから、泣きながらとぼとぼ帰るつもりです」
「気の済むまで居れば良いわい」
鬼紙老がふんとあかねから顔を背けた。

智里は御殿医の屋敷に潜り込んでいた。兵次の妹、薫と一緒だ。
あかねからの依頼で、御殿医がなぜ鬼紙老の寿命を縮めようとしたのか、調べてほしいということ。
書斎に入り込む。書斎に来るまでにはいくつもの暗視カメラがあったが、さすがに書斎にはないようだ。マホガニーのデスク、ノートパソコン。書架には医学書が並ぶ。智里がノートパソコンに小さな機械をつなぎ、電源を入れた。OSが立ち上がる前にキーを打つ。
それをそのままに、デスクの引き出し、微かに引く。鍵がかかっている、針を二つ出す、それを鍵穴に差す。いつの間にか薫も隣に正座し、智里の指先を見つめていた。
本来なら薫は回りを警戒しなければならないのだが、智里の手際の良さに魅了されたのだ。
智里は軽く引き出しを開け、中をあらためる。いくつかの書類の束、一つを取り出し、薫に見せる。土地の権利書だ、有名な別荘地、鬼紙家では本家の者以外、里の外に土地を持つことは禁じられている。
智里は書類を戻し立ち上がった。書架に向かう。順に背表紙を眺め、少し首を傾げる。中から一冊を取り出し、ページを繰る。中程が切り抜かれ、錠剤の入った透明の箱がある、智里は顔をしかめると、写真を撮った。
本を元に戻し、ノートパソコンの電源も切る。用事は済んだと薫の背中を軽く押した。

「智里さん、凄いです」
御殿医の屋敷から充分に離れた後、隣を歩く智里に薫が言った。
「いいえ、私は」
智里は言葉を止めた。昔は自分ほど優れた遣り手はいないと考えていた。でも、今は自分を中の下だと思う。
なよ様や幸さんは別格だし、あかねさんもそうだ。それに、黒さんの成長も著しい。
悔しいかというと、そうでもない。不思議と愉快だったりする。楽しいなと思うのだ。
「私も智里さんみたいになりたいです」
きらきらした瞳で薫が言った。
「家宅侵入をしたいのですか」
智里があきれたように小さく笑った。


あかねは用事があると、先に山を下りた。
田村は驚いていた。鬼紙老の回復である。寝たきりの顔色の悪い老人が、血色も良くなって立ち上がろうとするのだ。
奥座敷から出る、田村と聴く読みが左右に立ち、鬼紙老の肘を下から軽く支えた。鬼紙老の足取りも階段はさすがに不安定だが、平らな廊下ならしっかりとした足取りだ。ただ、久しぶりに歩いて疲れたのか、息が辛いようで、途中中程に置かれた床机に座った。鬼紙老が大きく深呼吸をした。
ちょうど、橋のような渡り廊下の中程であり、紅葉が美しい。
あかねと朱女は先に降りており、この三人だけだ。気むずかしいに着物を着せたような老人だ。田村と聴く読み、緊張して立つ、多分、なにか喋ればこの緊張は消えるかもしれないが、なにを喋ればいいかわからない。
「あかねは向こうで楽しく暮らしているのか」
鬼紙老が景色を眺めたまま言った。
「はい、楽しそうです」
田村が慌てて答えた。
「あの」
聴く読みが言い掛けた。
「あかねさんはこちらとどういう関係なのでしょう」
一つ間をおいて鬼紙老が答えた。
「孫。一番の孫じゃ」
なるほどと思う。幸さんやあさぎさんの前では目立たないけれど、あかねさんはとっても可愛らしい女の子だ。それでいて実行力もあるし、度胸も据わっている。そりゃ、偏屈な顔をしていても、うんうんと従ってしまうだろうと思う。


「隊長。なぜ、私たちはこんなガキ相手に正座して頭を下げなきゃならないんでしょうか」
隣で正座する鬼紙私兵の隊長を横目でぎりぎり睨みあかねが言った。
「いえ。あの、それが」
朱女と三人、一段高く座って鷹揚な態度をとる鬼紙家若君の前に並んで正座していた。
「私語は慎みなさい。若様に失礼ですぞ」
横から怒鳴るのは奥女中頭だ。
あかねは叱責に臆することなく、隊長に低く言う。
「教育係にした子供五人はどうした。薫も鬼紙私兵に戻っていたろう。鬼紙老が体悪くして奥座敷に寝込んでいる間にどうなったんだ」
隊長がそれはと口ごもった。
あかねはすっと正面を向くと、力を抜いた。瞬間、なめらかに前へ進み、ぐいっと右の親指を若君の口に突っ込む。人差し指とで掴み、若君の頬を捻りあげた。
頬が千切れるほどだ。
うわぁぁ、若君が悲鳴を上げて泣き出した。
「ガキが偉そうにしてんじゃねぇ」
あかねは怒鳴るとそのまま立ち上がり腕を上げる、若君の足が浮いた
「勘違いするな。たまたま、お前は鬼紙老の孫に生まれただけだ。偉そうにするだけの努力をお前はしたか。皆のために懸命に働いたか。汗を流したか、涙を流したか。何もしていないだろう。それじゃ、ただのバカ殿だろうが」
奥女中が叫んだ。
「失礼ですぞ。手を放しなさい」
振り返り、あかねが女中頭を睨んだ。
「頭を切り替えろ。人と鬼との不干渉条約が崩れた今、鬼紙家は先頭に立って対応しなければならない。鬼との境界線を確立して、条約を立て直す。その大事なときにバカ殿を育ててどうする気だ」
女中頭が咄嗟に反論できず歯ぎしりをする。
あかねが右手をゆるめる、どさっと、若君が床に落ちた。
「泣くな」
あかねが押し殺した声で言う。若君が怯えたように口を噤んだ。
「お前は朝七時に起きている。明日からは五時に起きろ。鬼紙私兵は朝一番、畑仕事をするから、一緒に七時まで働け」
若君が怯えてあとずさりする。
「安心しろ。私は当分鬼紙家にいるからな、寝過ごさないよう起こしに行ってやる」


屋敷の裏側、人の通りの少ない場所であかねは木塀にもたれ、少し俯いた。
朱女と隊長が心配そうにあかねの顔をのぞき込む。
「相談している」
あかねが呟いた。
「奥女中幹部が集まった。若君を違う部屋に寝かせ、若君の寝所には薙刀を携えた女中二人が待機することになった」
隊長が驚いた。あかねさんの強さは承知していたが、こんな能力もあったのか。
朱女が言った。
「それでは、明朝は別の部屋に」
「行くのはやめます」
あかねが呟き、顔を上げた。
「がきんちょ、いえ、若君は奥女中の提案を聞いて大喜びしている。ちょっとでもね、彼にそれでいいのかなって逡巡の一つもあれば、なんとかしてやろうと思うけれど、あれは無理だ」
「しかし、それでは今後の鬼紙家が立ちゆきません」
隊長が慌てて言う、すっかり、あかねの家来のようになっている。
「優秀な船長が欲しかったけれど、なければしょうがない。若君とその支え手は実権から離れて遊びほうけてもらいます。時間はかかるけれど、中堅を育てる、既にその作業にはかかっているから、そっちを押し進めていこうと思う」
「あの」
朱女が言った。
「あかねさんが鬼紙家の跡を継げば」
隊長もそう思った。こんな心強いことはない。
あかねがほんの少しだけ笑った。
「私は人も鬼も随分殺した。そういう奴は船長になるべきじゃない。それに鬼紙老が亡くなれば、私は鬼紙家とは完全に縁を切る。私は幸姉さんと一緒にいるのが一番幸せなんだ」
隊長は以前、兵次が言い掛けて慌てて言い繕ったことを思い出した。
あれは、あかねさんは鬼紙老の孫、若君の姉であるということだったのではと思う。鬼紙老のお嬢様の子ならば、里で生まれ育っていなくても不思議ではない。
しかし、お孫様が配膳係などなさるだろうか。いや、しかし、祖父の身を案じて自ら配膳係をなされているなら、なんと立派なことだ。
隊長の目頭が熱くなる。あかねはそれに気づいたが、面倒なので無視をし、朱女に言った。
「朱女さんには若君の教育係の一人になってもらうつもりだったけれど、この有様です。鬼紙私兵に関わっていただけますか。畑仕事と武術や諜報です。智里さんもしばらくはここに留まってくれるようですし、その補佐です。鬼紙私兵も随分劣化してしまいました、がつんと筋を入れてやってください」
朱女にとっては掃除や料理をするより、こちらの方が得意分野だ。朱女がそっと頷く。
「隊長」
「はっ」
「異存があるなら、いま、言ってください」
渋い顔をして隊長が言う。
「か弱い女性ですぞ、朱女さんは。無茶なことは」
にいぃぃと口端を歪めてあかねが笑った。
「隊長。その言葉を忘れるなよ」

ふいにあかねが隊長の背後遠くを見やり言った。
「智里と薫さんが戻ってきた」
しばらくして、遠くの通用門が開き、二人が普通に歩き戻ってくる。
あかねが隊長に言った。
「薫さんの横を歩いているのが智里。私の姉です。鬼紙私兵を鍛えてくれるように智里にお願いしてあります」
隊長が驚いた。
「女ですぞ、あのような細腕で」
ふっと智里の姿が消えた。
隊長の首の後ろを智里が掴み、下からぐっと押し上げる。隊長の踵が浮いた。
「お、おおっ。な、なんだ」
自分の状況が理解できず隊長が呻いた。すぐに智里が手を放す、気を失われてはあとが面倒くさい。
どすんと隊長が尻餅をつく。智里はその様子を気にもせずにあかねに言った。
「面白い資料がありましたよ」
「それは楽しみです。ところで、あの、そこで気を失っているのが、隊長、鬼紙私兵の隊長です。よろしくお願いします」
智里は困ったように少し笑った。
「彼は上へのごますりがうまくて隊長になったのでしょうか、それとも、人をまとめる、人望が案外あるとかいうことでしょうか」
あかねが申し訳なさそうに言った。
「武術や格闘技が優秀で隊長になりました」
智里は何も言わず目を瞑った。そして、やもして、一言、言う。
「殺してしまわないよう、なんとか加減します」
息急ききって薫が走ってきた。
「あ、あの」
「薫さん、お疲れさまです」
あかねが笑顔で言った。
「お願いしてごめんなさい。変わった経験はできましたか」
「わくわくしました」
嬉しそうに薫が答える。
困ったようにあかねが笑みを浮かべる。あかねは薫が、鬼紙私兵より、もっと穏やかな部署へ移る方がいいと思っている。智里について行かせることで本人もそう思ってくれればいいと考えたのだが、思うようにはなかなかならないものだと改めて思う。
あかねはしゃがむと軽く隊長の頬を叩く。
「起きろ。隊長、風邪をひくぞ」
はっと目を覚まし、体を起こす。
「何があったんだ」
しゃがんだままあかねが言う。
「何もないよ。私は鬼紙老のもとに戻る。智里の指導のもと、修練に励め。鬼紙家に恥をかかすなよ」
あかねは立ち上がり、智里に会釈をするとこの場を去った。
あかねは本館に戻ると、回廊を巡り、奥座敷までの途中、渡り廊下に三人を見つけた。
「棗さん、小百合さん。ごめんなさい、めんどくさい爺さんを押しつけてしまって」
慌てて二人が、そんなことないとぱたぱたと手を振る。あかねが鬼紙老の前までやって来た。
「鬼紙老様。私の友人に迷惑をかけていませんか」
聴く読みが慌てて言った。
「いえ、そんなことないです。勉強になりました」
「ふん」
聞こえよがしに鬼紙老が言った。
「お前より、この二人の方が余程話を聴いてくれよるわい」
あかねが楽しそうに笑った。
「なら、二人にちゃんと感謝してください」
「それくらい、わかっておるわ。年寄り扱いしおって」
難しい顔の中、ほんの少し目元が笑う形になる、これが精一杯の鬼紙老の笑顔だ。ほっと、あかねが微笑む。
小さく息を吐き、あかねが言った。
「死にかけの爺さんが元気に歩き出したでは、幽霊譚にされかねません」
あかねが右手を伸ばし、何かを引くように動かす。ふわりと椅子、車椅子が現れた。田村がなるほどと頷いた。旅に便利だろうと幸が教えてくれた術、異空間を物置にする術だ。うまく、使えるようになれば、大きな箪笥や車でも仕舞うことができるらしい。
あかねは鬼紙老を車椅子に載せると、二人に言った。
「お二人は自由に鬼紙家や里に出入りできます。これから、私は健気にもじいさん載せて、里を見て回りますが、顔見せみたいなものです、お二人も一緒にお願いします」


計り方。これは鬼紙家にある鬼の研究機関だ。計り方は地中にある、これは万が一の地上への影響を減らす為だが、結果、一般に計り方はモグラと呼ばれ、差別を受けているのが実状だった。ただ、設備に関しては最新の設備を設置した最先端の施設だ。もちろん、職務の内容上、多くの成果は秘密にされ、入室できる人間も限られている。
鬼紙老一行が最後にやってきたのが、その計り方だった。
外から見れば、田舎の農家の一軒家、引き戸を開け、中に入れば土間の右には違和感のある地下へのエレベーターがある。
来る者などほとんどいない所為もあって、二人の見張りものんびりしたものだ。
あかねが戸を開き声をかけた。
「こんにちは」
「やぁ、あかねさん。しばらく」
若い男が立ち上がって会釈する。年嵩の男も振り向いて、やぁと言い掛けて凍り付いた。
「鬼紙老様」
声にならない声で呟いた。
いきなり、二人の男が鬼紙老の前に駆け寄り、飛び込むように土下座する。
あかねは顔をしかめ、ぎりっと歯を噛む。あかねは相手に土下座という首の後ろを見せる、生殺与奪の権利を差し出すような姿勢は大嫌いであるし、なによりこういった極端な上下関係を嫌う。
あかねが鬼紙老の耳元で小さくおじいさまと呟いた。
鬼紙老は頷くと鷹揚に二人に声をかけた。
「顔を上げよ」
鬼紙老の声に弾けるように二人が顔を上げる。
「大儀だ。鬼紙家は鬼の研究こそ本流。これからも頼むぞ」
年嵩の男、孝三が声を上げて泣き出した。
「鬼紙老様、そのようなお言葉、もったいのうございます」
子供のように泣きじゃくる。感化されたのか若い男も目頭が一杯になる。差別を受けるのが当たり前のように生きてきた中での最高権力者の労いの言葉に心を震わされたのだった。
「健一さん」
あかねが若い男に声をかけた。
「鬼の家族を捕まえて、いま、地下の研究室にいるようですね。会わせてください」

地下へ降り、研究室の前までやってきた。いくつかの部屋のうち、一つだけに普通の鍵と一緒に大きな閂が施されている。その中にあかねは三人の鬼の気配を感じた。案内の健一がその手前のドアを開けた。
研究者が五人、モニターを確認、機器の調整と忙しくしていた。鬼の資料を採る準備のためだ。
室長、と健一が声をかける、年嵩の男が振り向いたが、同時に硬直した。車椅子に座る鬼紙老の姿を見たのだ。
「お、鬼紙老様」
ようやくに声をだす。
「良い。そのまま、作業を続けよ」
鬼紙老の言葉に室長が言葉をぐっと飲み込んだ。
あかねがモニターの前に行き、画面をのぞき込む。長椅子に力なく座る鬼の親子、両親と娘だろうか。
「室長。鬼をどのようにして捕らえたのですか」
あかねが訊ねた。
「鬼紙家には鬼の国と繋がる通路が洞窟を模してありますが、普段は閉じているその通路が開き、この三人がこちらに向かっていたのです。鬼紙私兵の力を借り、捕らえました」
意気揚々と答える。
「随分な捕り物だったようですね」
鬼の腕に、モニター越しではわかりにくいがロープの痕が強く残っていた。
見上げるような鬼もいるが、長椅子から考えるに、彼らは人と同じくらいの大きさだ。額に角が有る以外は人とあまり変わらない。
「肉片も採るのですか」
あかねの問いに戸惑うことなく頷く。
「モルモットですから、結果としては死んでもらうことになりますな」
この鬼への認識は鬼紙家、里、共に共通の認識だ。
あかねは微かに息を漏らすと、小さく歌う。言祝ぎの歌、百ある内の一つ、呟くように、なめらかに歌う。
田村が瞬間、聴く読みの肩を抱き、しゃがんだ。息を殺して、耳をふさぐ。どれくらい経ったろう、あかねが田村と聴く読みの肩を軽く叩いた。
ゆっくりと目を開ける。にかにか、いたずらが成功した子供のようにあかねが笑っていた。
「終わりました、大丈夫ですよ」
二人、ほっと息を漏らし、立ち上がる。三人以外、床に倒れて気持ちよさそうに眠っていた。鬼紙老も背もたれに背中を預け眠っている。
あかねは監視カメラのスイッチを切り、ドアを開けた。
「鬼と直接喋ってきます」
「あの、一緒にいいですか」
田村が思いきって声をかけた。
「いいですよ。聴く読みさんはどうします」
聴く読みも寝ている人たちを見て、田村について行こうと頷いた。
あかねが真鍮製の閂を摘まむ、くっと捻る、簡単に閂が千切れた。あっさりドアを開けた。
ふっとあかねは今にも泣きだしそうな表情を作ると部屋に飛び込んだ。
手前には娘だ。あかねは娘をぎゅっと抱きしめた。
「ごめんなさい、私の仲間が怖い思いをさせました。本当にごめんなさい」
あかねがこれでもかと清らかな声で娘に謝る。田村が状況を読み、正解の言葉を探る。あかねさんの言葉、うなだれた鬼の家族、手首の青いロープの痕、殺風景な部屋。
「酷いことをしてしまいました。申し訳ありません」
田村はそういうと娘の母親だろう、聴く読みを連れ、その前に座る。そしてゆっくりと女の腕をさする、聴く読みも真似る。さっき、鬼紙老に施した寿法、古いまじないだ。血行が良くなれば、痕や腫れも薄れるだろう。
あかねは、娘への施術を聴く読みに代わってもらい、女の前に座った。
「ここは人間の世界にある鬼紙家です。鬼紙家のことは、お聞きになったことがありますか」
女がゆっくりと首を横に振った。
「鬼の世界と鬼紙家には通路がありますが、鬼の側の出口は隠されているはずです、どうして、ご存じなのでしょう」
女はあかねが本当に心配してくれているのだと信じることにした。
「夫が調べてくれました」
男の鬼が視線を外した。
「そうですか。どうして、鬼の世界を出ようとしたのです」
「それは」
女が小さく吐息を漏らした。
「鬼王が引退しました。そして、第一王子が政治の実権を握りました。第一王子は軍隊を強化しています。ほとんどの男が軍隊に採られ、軍の設備を増やすため、たくさんの税金を取られもう生活ができません。私たちの他にもたくさんの者が逃げ出そうとしています。でも、無理です」
あかねはしっかりと頷いて同意を示す、これによって、女はより話しやすくなる。
「高間宮王子の国が隣接しているのですから、そちらへ逃げれば」
あかねが続けた。
「国境線に近づけば殺されます」
女が唇を噛みしめ言った。
「わかりました」
あかねは頷くと女の手を両手でしっかりと握った。
「人間の世界より、高間宮王子の国に行くのが一番良いと思います。なんとか、お送りするよう考えましょう」
意に反して、女が首を横に振る。
「この子だけお願いできれば。私と夫は鬼の国へ戻ります」
「それは、どういう」
あかねが言葉を終える前に、女の目からぽろぽろと涙が零れた。
「上の娘とはぐれてしまいました」
男が何か言い掛け、口を噤んだ。
あかねは女に顔を寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
「なんて、お辛いことでしょう」
女はまるで、あかねが自分の娘であるかのように抱きしめ、小さく泣く。
聴く読みは女の泣く姿を見て、自分にも母親がいれば、こんなふうに泣いてくれるのだろうかと思う。わからないけど、わからないけれど、理事長は泣いてくれそうな気がする。
あかねは名残惜しそうにゆっくりと手を離し、女に言った。
「こちらの男性と少し話をさせてください。しばらくしたら戻ります」
あかねは男に向くと目を見つめ頷いた。
訳の分からないまま、男の鬼があかねの後をついて部屋を出た。あかねは隣の部屋のドアを開けると眠っている六人から、自分より少し年上の女性、響子の肩を叩く。はっと響子は目を覚ますと辺りを見回した、何があったんだ、みんな寝ている。
「せっかくだから、一緒に来てください」
「あかねさん」
響子が部屋を出ると鬼が居たわけだ、緊張する、何がいったい。
「大丈夫ですよ、響子さん。それより、電磁波遮断室に案内してください」
響子が先頭を歩く。電磁波遮断室、外からの影響を最小限にするため、四方を鉛の板で囲まれた部屋だ。
あかねさんは、響子が思う。一年ほど前から話をするようになった娘だ。鬼紙家が停滞するのは縦型の強い上下関係が原因だ、ここに横の関係を加えたい、そのために、自分のような娘に声をかけてしっかりした繋がりを作りたいと言った。考えたこともなかったことばかりだけど、話を聴いて、思ったんだ、闇の中の一筋の光だって。
重い扉の取っ手を響子は両手で掴み、体重を掛け後ろに引く。あかねは男の鬼を中に入らせ、自分自身も入る。響子にも入るように促した。
響子が部屋に入るとあかねは重い扉の取っ手を右手で引き、その扉を閉めた。
天井はかなり高い。区切りがされており、向こう側にはコンピューターをはじめ、たくさんの測定器械や実験装置がある。
あかねは鬼を椅子に座るよう指示をする。あかねの当然、自分の指示を聞くはずだという態度にのまれ、鬼も素直に座ってしまった。
「響子さん。鬼の髪を少し切ってください。あとで、研究に使います」
慌てて、響子は鋏を取り出し、戸惑うことなく切る。あかねは注射器を取り出し、鬼の血液を採る。次に口を開けさせ、粘膜の採取、一本、歯をぽきっと取る。
「鉛の箱はありますか。差し歯の中にGPSや小さな基盤が入ってます」
急いで、響子は実験設備の中から鈍色の箱を持ってくると差し歯をその中に入れた。
あかねがにぃぃっと鬼に笑いかけた。
「殺されて、肉、切り刻まれるよりかはましでしょう」
鬼の背中に冷たいものが走る、あかねの表情に鬼が怯えた。
あかねは事務机と椅子を設備から引っ張り出し、鬼の向かいに据えた。そして、もう一つ、補助としてあったのだろう、ノートパソコンを取り出し、机の上に置く。あかねは机を境に鬼と向かい合って座った。
まるで、鬼が面接でも受けるかのようだ。響子はそんな不思議な気分だった。
「響子さんも椅子を持ってきて、私の隣にどうぞ」
響子が椅子を取り出し、あかねの隣に座る、あかねがパソコンを起動した。
「凪弥幣禅鬼さん。ゆっくりしてください。二十分くらい座っていてくだされば一式終わります」
鬼が目を見開いた、何故、自分の名前を知っている。あかねがエディターを起動し、文字を打つ。早い、なめらかで、キートップを指が滑っていくようだ。
響子が画面をのぞき込む、これって。
鬼の記憶だ、時系列で細かに打ち込まれていく。
「キーボード、一つでは時間がかかりますね。この後、CTやレントゲンも撮っておきたいのに」
あかねが呟く。
奥のコンピュータールームから唸り音がはじまった。慌てて、響子が駆け寄るといくつもの端末が起動し、キーボードが細かくかたかたと動いている、まるでいくつもの自動ピアノのようだ。
あかねさんが動かしている、凄い、なんて人だ。
今まで鬼紙家しか知らなかった、男につまらない雑用を押しつけられてはコマネズミのように働いた。でも、その男たちも一歩地上に出れば、私たちはもぐらだ、奥女中の使いぱっしりに怒鳴られる。私はこういうもんだと素直すぎるくらい受け入れていた。
一年前。私が奥女中中頭に怒鳴られた、別に何か粗相をしたわけじゃない、不機嫌のはけ口を探していたところに私がいたというだけだ、説教や恫喝が続く中で、ふっとあかねさんがやって来て、中頭にそれは違うのではありませんかと異議申し立てをしたのだ。あかねさんは配膳係、奥女中よりも身分はずっと下だ。そのあかねさんがどんどん理詰めで中頭を追いつめていく。中頭が崩れて大泣きするまでやめなかった。本当にかっこいいって思った。
「響子さん、もうすぐ終わります。CTの準備をお願いします」
あかねの声に弾けるようにして響子が検査機器の準備を始めた。
あかねさんといるとなんだかわくわくするんだ。

あかねは立ち上がると鬼の前に立つ。
そして緩やかに笑顔を浮かべ、両手を鬼に差し出した。
「いただけますか」
「え、なにを」
鬼が戸惑う。
「よくわかってんだろう。あんまり、面倒くさいと手のひら返すぞ」
笑顔のまま、あかねが繰り返した。
「第一王子から第三王子への親書だ。つべこべ言わずに出せ」
鬼があかねの顔を睨み、しかし、あきらめたのか、背中に隠した大きな封書を差し出した。あかねはあっさり受け取ると大きなガラス球を出し、その親書をガラス球に入れた、そして球をなでる、親書が開いた瞬間、白いガスが親書から吹きだし、ガラス球が真っ白に濁ってしまった。
「普通の人間なら即死だ。私でもしばらくは意識を失ってしまうな」
あかねは呟くとガラス球を足下に置き、にこやかに鬼に両手を差し出した。
「さぁ、親書をください。親書を高間宮に渡せば、あいつあほですから、兄者わかってくれたかなんて喜んで第一王子の元へ行って首を切り落とされて終わり。事情を知っているあんたも暗殺され、上の娘も面倒くさいなと殺される。第一王子が非道な奴であるのはわかっているはずですよ」
あかねがにかにか嬉しそうに笑う。
「あんた、上の娘を犠牲にしたろう、第一王子は高間宮を連れ帰れば娘を返してやると約束したけれど、あんた自身がそれを信用していない、どうしようもないから自分をごまかして奴にすがりついているだけだ。さぁ、親書を渡せ。さもないと女房と下の娘にこのこと喋るぞ」
「しかし、俺には、俺には他に方法が無かったんだ。この国にいてはもうどうにもならない」
ぎろっとあかねが鬼を睨んだ。
「出せ」
鬼が恐る恐る親書を差し出した。あかねはガラス球を新たに取り出し、それを入れる。二つのガラス球を後ろに置き、響子に言った。
「お願い。彼の自白は秘密にしておいてください」
「わ、わかりました」
すごいことになってた。響子は自分の心臓がどきどきしているのを感じた。
「さてと」
あかねが椅子に座り直し考える。
「第一王子は高間宮に人の協力者たちがいることに気づいて、あんたを泳がせ、そいつらを見つけようとしている。それはわかっている」
両腕を組み、あかねが天井を見上げた。
「別に隠すほどのことでもないけれど、あたしからそれを知られるというのは気分が悪いな。この部屋は天井も高いし、機密性も高い、か」


聴く読みが泣いていた。しっかりと娘の手を両手で握って。
記憶を読むことができるというのは、それだけ生身の相手に関わることになる。姉妹の賑やかだった日常と、今の姉を気遣いふるえている妹、その思いが直截伝わってくる。
聴く読み自身も、自分が捨て子で親も姉妹もない、一人でいた子供の頃の記憶が揺り起こされる。
鬼の妹はそんな聴く読みを見て、姉もこんなふうに泣いているのだろうか。自分自身が姉を助け出したいと切に願う。
田村は聴く読みを見て少しうらやましいと思う。自分はそこまで他者と一体になって感情を共有することができない。だからこそ、聴く読みと友達になることができたのは幸せなことだと強く思う。
軽くドアを叩く音、響子が戻ってきた。
「あの。皆さん、こちらの部屋に来てください」
響子が、泣いている聴く読みに少し戸惑った。

あかねは四人を迎えると、しっかりと女の手を両手で握った。
「鬼の社会の詳しいお話をおじさまからお聴きいたしました。母様、だめです、鬼の国に戻っては殺されてしまいます」
自然と女があかねを抱きしめる。
「親ですから。あの子には私たちしかおりませんから」
聴く読みが膝を落とし、歯を食いしばった。
「でもです」
泣き濡れた瞳であかねが見上げた。
ふとあかねが気づいたように聴く読みを見つめた。
「お願い。あの人を、あの人を呼んでください」
聴く読みの中で言葉が繋がった。
「幸さん。助けてください」
聴く読みが大声で叫んだ。
「うん、わかった」
幸は軽く聴く読みの肩を叩くと、すたすたとあかねの元に行き、こつんとあかねの頭を拳で打つ。
「あかねはノリノリだな」
嬉しそうに笑顔を浮かべるあかねに幸は溜息をつくと、女を見上げる。エプロン姿の美しい女の子が立っている、エプロンの真ん中にはポケット、お煎餅が入っていた。
「私は幸といいます。あかねの姉です、見た目はこんなですが」
幸が女の目をじっと見つめる、そして、視線を娘へ、そして、男に向ける。その後、幸は聴く読みの元に戻った。
「つまりは、あの子の姉を救い出して、家族四人を高間宮の国へ亡命させろということだな」
「はい。お願いします」
「いい大人がだくだく泣くなよ」
幸が仕方なさそうに笑った。
幸が田村に目を向けた。
「小百合さん。シスターにならないか。多分、良いコンビになる」
田村がそっと頷いた。
「さて」
幸は女の元に戻ると言った。
「あなたの記憶、娘や夫の記憶を読みました。記憶と個々の固有振動数を測ることで、ここにはいない近親者、娘の記憶を読むことができます。彼女は鬼の城、地下にある牢屋に捕らえられうずくまっています」
幸の言葉に女が真っ青になりしゃがんでしまった。
幸が前へ少しかがむ。右手が消えた。消えた右手がぐいっと引き寄せる。
女の子が一人、幸の右手に抱えられ現れた。
「母さん。あなたの娘、生成女です」
「ここは」
女の子が呆然と辺りを見渡した、狭い牢獄に放り込まれたはずだったのに、広い。母さんが
女が幸の連れ出した娘を見つめ、駆け寄るとしっかり抱きしめた。
「ごめんね、一人にしてしまって、ごめんね」
「お母さん」
娘がもう離れまいと必死に女にしがみついた。妹が二人の姿を見つめ拳を強く握りしめ、泣く。
幸は男の鬼の前に行くと話しかけた。
「ま、あんたもいろいろあるようだけれど、何も言わないでおくよ。さて、高間宮はあほだし、直属の部下は主に戦闘を担ってきたわけだから、国造りは得手じゃない。あんたは城の経理畑だったようだな、職場結婚で彼女もそのようだ。高間宮の国造りを手伝う気はあるか」
「あ、あります。あります」
男の鬼は幸の前に膝をつくと必死に頭を下げた。
「わかった」
幸は答えるとふわりと浮き上がり、ぐいっと右手を引く。服の裾が見えたと思った途端、巨大な鬼がどすんと尻餅をついた。誂えのスーツが新しい。鬼は嫌そうに振り返る、幸がにかにか笑っていた。慌てて、高間の宮王子が笑顔を浮かべた。
「やぁ、これは幸さん。久しぶりですな」
「なんか、嫌そうな顔をしていたな」
慌てながらも高間宮が満面の笑顔を浮かべた。
「いやいや誤解ですぞ。久方ぶりにお目にかかりたいものだなぁと思って居ったところです」
呆然と鬼の男がこのやりとりを眺めていた。原種の鬼の中でも、長男、次男、三男は鬼王の後継者、中でも一番の荒くれ者の高間宮王子が腰を低く汗をかきながら笑っている。
「そうか、なら、良かった。実は頼みがある」
「頼みとは」
「ここに鬼の家族がいる。亡命希望だ、お前の国に受け入れてもらいいたい」
「わかりました、右角が担当しておりますからな、早速、奴を来させましょう」
「それは申し訳なかったな、直接、右角に頼めば、お前も、憎たらしい私の顔を見ずに済んだのにな」
「いやいや、ですから、お目にかかりたいと」
「本当にか」
「本当ですよ」
高間宮王子がぶんぶんと頷く。
「やぁ、それは良かった」
幸がにかっと笑った。
鬼の家族と響子はこの事態に考えが追いつかず、瞬きも忘れ見入っていた。
響子はいままでの価値観や常識が、自分の中で、がたがたと崩れていくのを実感していた。
ぶわっと、高間宮王子の影から右角が飛び出し、王子に向かう。
「お呼びでしょうか」
「鬼王の国からの亡命者家族四人だ。頼むぞ」
「はっ、承知いたしました」
右角が高間宮の後ろにいる鬼の女三人を確認した。もう一人はと振り返った瞬間、幸の姿を認めた。
右角は慌てて駆けだすと幸の前に寄り、膝をついた。
「これは幸様、お目にかかれて光栄です」
「様はよしてくれ、がらじゃない。漣から聴いている。熱心に仕事をしているようだ、これからも精進しなよ」
右角が感動のあまり泣くのを抑えるように唸る。
「そうだ、右角。お前の娘、言ってなかったか。角のない女の子の友達が出来たって」
「確かに」
呆然と右角が顔を上げた。
「私にもさ、角のある女の子の友達が出来たんだ。彼女は、父親の顔は怖いけれど、本当はとっても優しいっていってたぞ」
幸はそのまま、少し笑うと、聴く読みの元に戻る、右角は泣きながら四人の家族を連れ、高間宮の国へ戻った。
「聴く読み、これでいいか」
「幸さんは神様です。ありがとうございます」
聴く読みが幸に向けて、拝むように両手を合わせる。
「あたしは神じゃないし、そもそも、シスターがそういうのいいのか」
幸が笑った。
ふっと、幸は浮かび上がると、高間宮王子の前へ浮かんだ。
「世話になった、ありがとう」
「いや、大したことじゃない」
高間宮王子が精一杯の愛想笑いをする。
「それでは、これでおいとませていただこう」
「そうだな。ここは鬼紙家の鬼の研究所だ。うっかりしたら、切り刻まれてホルマリン漬けだ」
「それは願い下げだ」
高間宮が笑った。
ふと、幸は笑顔を消し言った。
「人間は邪悪だ、できるだけつきあわない方がいい。鬼王が蟄居して、まもなく第一王子が新たな王になるだろう。二番目は思いの外へたれだからな。残念なことに第一王子は人だ。劣等感で鬼を憎んでいる、お前にも戦争を仕掛けてくるだろうけれど、関わるなよ。必要なら手助けしてやる」
一瞬、高間宮の表情が消えた、幸の言葉が理解できなかったのだ。
「一番の兄者が人とはいったい」
「お前の母親は角のある鬼だが、第一王子の母親はかぐやのなよ竹の姫、私の姉さんだ。姉さんには角がない。とすれば、角のない子供が産まれても不思議ではないだろう」
「理屈ではそうだが、いや、兄者には角があるぞ」
幸は空から大きな紙を取り出した。引き延ばした写真だ。それを高間宮に手渡した。瞬間、高間宮が硬直した。
「まさか」
「あたしが撮った写真だ、他にもたくさんある。戦えば戦禍で多くの鬼が死ぬだろう。ただ、第一王子は鬼はいくらでも死ねばいいくらいに思っている。戦わずに人から鬼を救い出すにはどうしたらいいか。よく考えることを勧める」
「わかった」
高間の宮が声を絞り出すように言った。そして、姿を消した。
「さて、それじゃ、あかね。帰るよ」
「ええっ、まだいてくださいよ」
「洗い物が残ってる。あたしが当番だからな」
にかっと幸が笑った。
幸は田村の前に行くと右手を差し出す、ふわりと幸の手からミーアが飛び出し、田村の体の中に入った。
「ミーアの修行は終わった。小百合とこれからも旅をつづけることができるよ」
ほっとしたように田村が笑みを浮かべた。
「そうだ。聴く読み」
「は、はい」
「さっき、理事長が来ていた。聴く読みが鬼紙家に行ったって言ったら、これから、自分も鬼紙家に行くって言ってたよ。理事長は、がきんちょだった鬼紙老を生意気な顔をするなってけっ飛ばした人だ、面白いことになるかもだな」
にかにか笑って幸も姿を消した。

理事長となよが鬼紙家専用駅のプラットホームに立っていた。
なよはにかにか笑い、理事長は鞄を椅子代わりに腰掛け、両腕を組み、少し俯く。
「しみじみするわ、先代の鬼紙老から請われて、十歳そこそこの今の鬼紙老の教育係を引き受けたのが、もう六十年以上前。駅もあまり変わっていない。おろおろする先代が今にも出てきそうよ」
「理事長も歳をとらんな。いつまでも元気じゃ」
理事長が空を見上げた、透き通る青い空はそのままに星々の瞬きを映し出すようだ。
「後継者が出来ればね。山に隠って薬草煎じたりして、静かに消えていくわよ。
うちの娘たちを纏めていけるような後継者が欲しいのよ。有力視していたアリスは魔女になってしまったし」
「父さんにぼろかすにさた魔女、グランシスターとかいったな」
「才能のある娘が道を踏み外すととんでもないことをしだす」
「で、二人に目を付けたということか」
理事長が頷いた。
「後継者を一人と考えるより、複数でもいいんじゃないか。そう思ったとき、あの娘、田村さんと私の娘の聞く読みが一緒に後継者になってくれれば」
ふと、なよがまじめな顔になった。
「聞く読みは理事長の娘なのか」
理事長が幸せそうに笑った。
「聞く読みは私のこと、一度だけ、お母さんと呼んだのよ。だから、私は聞く読みのお母さんなの」
なよがあきれたように笑った。
「理事長にもそういう可愛いところがあったんじゃのう」
「女はね。気持ちの何処かに子供の頃のお人形遊びをする可愛い女の子がずっといるものよ。なよちゃんみたいに、当時、植えた杉の苗が縄文杉になったようなお方は、どうだか知らないけれど」
なよが愉快に笑った。

 
白と真理子が並んで台所のキッチンに立つ。庭でのバーベキュー、串焼きもやろうと長めの串にカシワとネギを交互に刺していく。
今朝、真理子が来てから、ほぼ、白は真理子の近くにいる。気になるのだ、真理子と田村が殴り合い、白は真理子の体を治療したのだが、うまく出来たのか気になる。痛くないか、違和感はないかと、白は真理子に尋ねたが、真理子は笑顔で大丈夫だと首を振る。
串打ちを終え、二人、手を洗う。
真理子がメモ帳を出した。
いつか、一緒に旅をして回りましょう
白は驚いて、でも、嬉しそうに頷いた。
私が智里さんみたいに強くなって、白を護ってあげます。
「ありがとう、楽しみにしています」
白がっそっと答え、少し恥ずかしそうに笑った。