遥の花 緑陰の鈴音 一話

遥の花 緑陰の鈴音 一話

畑の畦道に胡座をかいた。土の上に直に座るのはここに来てからだ。自販機の前でしゃがんでいたことはあったけれど。
聴く読みはお昼前の柔らかな日差しのもと、畑仕事を終えて、一息ついていた。幸さん宅の裏庭は広大な森林と手前は畑。仙術にある桃源郷だ、ここから見れば、少し見下ろす形で大きな屋敷が見える。その屋敷の向こうはまた森だ。向こうには川も流れている。教会の地下にある倉庫の奥にある扉を開けると、また、こんな風に違う世界がある。だから、驚きはしなかったけれど、いや、これは大いに驚くところだなと思い直す。
倉敷教会のシスター 聴く読みは大きく深呼吸をした。
研修に来て二十日目。確実に能力が上がっているのを実感する。ただ、幸さんのこの術は身につけるということと、誰かに教えることができるということと全く別のことだ。教え方がわからない。
「理事長、拗ねるだろうなぁ」
思わず、声が漏れた。
私には親がいない、孤児だ。施設で育った、園長がつけてくれた棗(なつめ)という名前はある。でも、理事長が付けた渾名、聴く読みがお気に入りだ。
小さな頃から、他人の思っていることが、まるで喋っているように聞こえた。高校を卒業して、いくらかしてだ、もう子供でないからと施設を出された、その頃だ、駅でスカウトされたんだ。政府が超能力者を集めて組織化していたのだ。いわゆる、スパイって奴。行くところのなかった私は訓練を受けて、そして最初の潜入先が倉敷教会だった。
「私、シスターになりたいんです」
鞄一つを両手にやってきた私に理事長が言った。
「いいわよ。そうね、私の秘書もしてちょうだい。聴く読みさん」
そういうと。理事長が本当に楽しそうににかって笑ったんだ。
その後、知った。
理事長を始め全員が読心能力者だって。
まぁ、私は間抜けだ。
その後、私を連れて理事長が組織に乗り込み、一暴れしてから、正式に私は倉敷協会のシスターになった。
いまは、理事長はもちろん、教会のみんなともうまくやっている、っていうか、とっても楽しい。理事長に一度だけお母さんと言ってしまったことがある、今思い出しても恥ずかしい赤面ものだ。でも。そうよ、聴く読みは私の娘よって言ってくれたときは本当に嬉しかったんだ。だから、理事長の期待には応えたい。

「おおい。聴く読みさーん」
向こうの畑から田村と朱女がやってきた。畑仕事は交代制だ。この三人は一緒に畑仕事をするように組まれている。二人が聴く読みの両側に座った。
田村が聴く読みの顔をのぞき込んだ。
「大丈夫ですか。昨日辺りから、時々、難しい顔していますよ」
「うーん」
聴く読みが唸る。
朱女が少し笑った。
「私には読心能力はありませんけど、聴く読みさんは考えていることが顔に出ますから、わかりやすいです」
聴く読みが唸って、両手で顔を隠した。
「それはわかってるんだ。だから、教会の外では仏頂面するんだけど」
両手を離すと、聴く読みが大きく深呼吸をした。
「兎も角。なんだか、ここにくるまでの緊張感というか、よほど厳しい修行をするんだ、耐えられるかって、びびってたんだ。だから、朝夕の農作業一時間ずつと、実際の修行が二時間、あとは自由。三食の美味しいご飯食べ放題。ちょっと気が抜けてしまって」
田村が頷いた。
「私も滝に打たれたりするのかなって思ってましたけど。ただ、黒さん達は最初の一週間、不眠で休まずに修行したらしいですね。幸さんが言うには、教え方が巧くなったから、その必要はないなって」
「寝ずに修行は辛いなぁ」
聴く読みが呟いた。
「いいときに来させていただいたのかなぁと思います」
朱女が一人呟く。田村が朱女をのぞき込んだ。
「私はここを出たら、また、歩いて旅をするつもりです。朱女さんのいる鬼紙家は一般人でも行っていいんでしょうか」
朱女は少し俯き考え込む、そして、ゆっくり顔を上げた。
「私は鬼紙家に戻れば、外に出ることはできないかもしれません。だから、小百合さんや聴く読みさんに来てもらえると嬉しい。でも、私は自分の希望を言えるような立場にないので、小百合さんの質問に答えることができません」
「私も、小百合さんや朱女さんと、ここから出たらさようならは嫌だ」
聴く読みが鼻をぐずりながら呟いた。
朱女が吐息を漏らした。
「私には友達と言える人がいないので小百合さんや聴く読みさんと会うことができてとても嬉しいです」
遠目に幸が縁側へ出てきたのが、三人に見えた。
「おおい、聴く読みさーん。理事長が来たよ」
幸の声に聴く読みは頷くと、ぐずぐず鼻をぐずらせながら、幸の元へと走った。少し遅れて二人も走る。
「喫茶店だ。一緒に昼ご飯を食べようって」
「ありがとうございます」
聴く読みが縁側からあがり、表の喫茶店へ走った。後の二人も幸の前にやってきた。
「朝の農作業、終えました」
田村が言う。
「ありがとう、助かるよ。ところで、聴く読みさん、泣いていたけど、なんかあったか」
「あの」
朱女が戸惑いながら、ここを出た後も三人で会えればと話していたのを幸に言った。幸はしばらく俯き、やもして顔を上げ言った。
「鬼紙家はこの国の法律の範疇にないごく小さな王国だ。そしてさ、鬼紙家は千年以上鬼を研究していた研究所でもある、外に出せない情報もたくさんあって、ほぼ、鎖国の状態なんだよ。だから、朱女も鬼紙家に戻れば、自由は無くなってしまうんだ」
幸が重くため息をついた。田村がぎゅっと拳を握りしめた。
「ただ、それはさ」
幸が言葉を継いだ。
「こうした仕組みは中年男や爺が作り出した仕組みだ。そんな仕組みに女が丸め込まれるなんてのはもう止めた方がいい」
にかっと幸が笑った。
「四の五のいう奴はぶっ飛ばしてやる。朱女、安心しな」
「いえ、あの、そこまでは」
慌てて、朱女が口を挟んだ。
「私は随分と鬼紙家にご迷惑をかけてしまいましたし、生きているだけでも幸いと思っていますから」
「それはそれ、これはこれ。ま、任せておいてくれ」
「いえいえ、幸姉さんに任せては大変です」
あかねがあたふたとやってきた。
「鬼紙家担当はあかねです。幸姉さんやなよ姉さんに任すと、私が忙しくなってしまいます。田村さん、鬼紙家には田村さんが立ち寄ることができるよう、私が差配しますから」

聴く読みは無愛想な表情で理事長の横に立つと、頭を下げた。
「理事長、三週間ぶりです。お元気そうで何よりです」
「私はいつも元気よ。さ、前に座って」
喫茶店、窓辺の席、聴く読みは四人掛けの席の、理事長の斜め前の席に座った。聴く読みは理事長の正面には座らないようにしている、視界を広く取るためだ。誰もいないがこれは身についた習慣だ、理事長の敵は多い。
「皆さん、お元気でしょうか」
「聴く読みが居ないって寂しそうにしているわよ、みんな」
理事長が気楽に笑った。
「理事長はすぐ、そういうことを言います」
聴く読みが溜息をついた。理事長は気にする様子もなくメニューを取り出し、ぐっと睨む。
「どれも捨てがたいわね、あさぎちゃんの料理凄いもの。聴く読み、情報は」
「情報というと」
「決まってんじゃない。あさぎちゃん、今日の出来はこれが一番だとか言ってなかったの」
「あぁ、それなら。クリームシチューがうまく出来たって」
「今日のお勧めね。それにするわ。聴く読み、あなたはどれにする」
「私はこちらで研修中の身ですので」
「相変わらず、聴く読みは真面目ねぇ。ここに座った以上はお客よ。ね、オーナー」
理事長が座ったまま振り返る、隣のテーブル、聴く読みの真正面に男が珈琲を飲んでいた。
「いいですよ。師匠の幸もそう思うだろう」
男の隣で幸が笑みを浮かべていた。
「もちろんですよ。お父さん」
幸は男の隣にいると言葉遣いが丁寧になる。すいっと幸は立ち上がり、二人の横に立つ。
「お勧めランチ、二つでよろしいですか」
理事長は大きく頷くと幸にメニューを渡した。
「師匠、申し訳ありません」
聴く読みが言った。
「いいよ。っていうかさ、修行中の身だから、皆と同じものを食べなきゃならないってそういう考え方が嫌いなんだ。息苦しくってさ」
既に男の姿は消え、幸は注文を伝えに厨房へと向かった。
「それで、聴く読み。どう、楽しくしてるの。なよちゃんにいじめられてない」
「あの。思っていたより、よくして貰っています」
聴く読みはそう答えたが、少し唇を噛み、俯く。
「理事長の期待に応えることが出来ません」
ふふんと嬉しそうに田中が笑みを浮かべた。
「あの、それは」
聴く読みが俯いたまま呟いた。
「私は幸さんの術をいくつか教えていただき、少しは使えるようになりました。ただ、それを皆さんに教えることが出来ません」
「どういうこと。幸ちゃんがだめだって言ったの」
余計に聴く読みが俯く。田中は笑いそうになりながらも、きつく言う。
「それとも、自分のものだけにしたいわけ」
「いいえ、決してそんな」
慌てて聴く読みが顔を上げる。田中が笑っていた。
「さっき、幸ちゃんから聴いたわよ。聴く読みが気にしているようだから、先に答えておくってね」
わけがわからず聴く読みが田中の顔をぼぉっと眺めた。
「百年かけても、身につけることが出来るかどうかの術を一ヶ月で身につけるには、どだい、まっとうなやりかたじゃない。本人も使うことはできても、それを解説することも説明することもできないだろうってね」
聴く読みは緊張がすとんと解けたように、肩を落とした。大きく息を吐く。
「理事長は意地悪です」
「歳をとると意地の悪くなるものなのよ」
平然と田中は答えると、にっと笑った。
「小百合ちゃんと朱女さんだったっけ、いい友達になったようじゃない。ここは面白い娘が多いわね、楽しいわ」
かぬかが料理を運んできた。
「どうぞ。今日のお勧めランチです」
手慣れた様子で配膳する。
「かぬかちゃんも面白い娘ね。ホンケの白澤、どうしているの」
「いやぁ、随分戻ってないので。多分、新当主の教育に頑張っていると思います」
「一時は白澤の二代目になる予定だったのにね」
「いやいや、多分、私よりも白澤さんの方が長生きしますよ」
かぬかは笑うと、厨房へ戻った。
「あの、かぬかさんって」
聴く読みが驚いた。
「普通の女の子に見えるけれど、ホンケ白澤猫の血を受けた才能の塊よ。当人は料理が楽しいようだけれど」
田中がスープを飲む。びっくりして顔を上げた。
「聴く読み。いただきなさい、凄く美味しいわ」
聴く読みも驚いた、毎日、美味しいご飯をいただいているつもりだったが、それは確かにそうなんだけれど、これは質が違った。同じ材料、同じ手順で作っても味が違うとなよさんが言っていた。
「聴く読み。いつも、こんな美味しいものいただいているの」
聴く読みが慌てて首を横に振った。
「あさぎさんだからこそです。中では交代で作っていますから」
田中が深く頷いた。
「聴く読み。あなた、ここの娘達と仲良くなりなさい。そうしたら、出張で、あさぎちゃん、うちで料理を作ってくれたりするかもよ」
困ったように聴く読みがはにかんだ。
「私は人と仲良くなるのに時間がかかりますし、あんまり、そういうの得意じゃなくて」
田中が鼻息荒く言った。
「人と仲良くなるのはとっても簡単なのよ。ちょっと、お節介になりさえすればいいだけなの」
「あんまり喋ったりというか、何を喋ればいいかもわかりませんし」
「共感よ。なんだかわかんないけど、あたしもそう思うわぁでいいのよ」
三毛が学校から戻ってきた。三毛は喫茶店のドアから家に戻る。お客さんに愛想するためだ。幸に躾られている。
三毛が田中を見つけた。
「田中さん、いらっしゃいませ」
営業スマイルで三毛が言った。良いところへ来たと、田中が三毛を手招いた。
「三毛ちゃん、こっち、こっち」
三毛は慌てて田中の横に立つと、にっこり笑った。
「座ってちょうだい。上を向いてお喋りは辛いわ」
すとんと三毛が田中の横に座った。
「あのね。三毛ちゃん」
「はい」
「聴く読みに山羊の飼い方、教えてやってくれない。三毛ちゃん、山羊を飼っているんでしょ、うちの教会でも山羊を飼おうかって話がでているのよ」
三毛が営業スマイルから、ぶわっと満辺の笑みに変わった。
「教えます、教えます。大歓迎です」
「わぁ、それは良かったわ。聴く読み、しっかり教わってちょうだいね」
そんな話、初めて聞いたと思いながらも、聴く読みはこくこくと頷いた。
「お願いします」
やっとそう一言、聴く読みが言う。
「三毛ちゃんは、山羊と鶏を飼っているのね。とっても優しい子だわ」
田中が持ち上げる。
「いえ、あの、それほどでもないです」
気恥ずかしげに三毛は笑うとぺこりと頭を下げ、家の中へと走った。褒められるのは照れくさくて苦手なのだ。
「あの、理事長、山羊を飼うって本当ですか」
「ま、いいじゃないの。子供集めてバザーとか、受けがよくて面白いかもよ」
なるほどと聴く読みが納得した。理事長、いま、思いついたってわけだ
「とにかく、聴く読みは、もうちょっとお節介になること。友達を増やそうとすること。いいわね」
「はぁ」
溜息混じりに聴く読みが頷いた。
ドアが開いた。
一人の女が入ってきた。田中はその女を見つめるとにっといたずらげに笑った。
「あずさちゃん。こっちよ、こっち」
クラシックローズアソシエーション、魔女の中村梓だ。
誰だと振り返る、笑顔で手を振っている。どうも、見覚えがないのだが、自分の名前を知り、親しげに手を振る。誰だったろう。見た目風、どこかの偉い人のようだ。偉い人なら愛想しておこう。
中村は田中の元へ小走りに行くと頭を下げた。
「いいのよ、他人行儀にしなくて。さ、私の前に座って」
田中は中村を聴く読みの横に座らせると、かぬかにお勧めランチを追加した。
「随分、久しぶりね。あの子、元気にしてる」
「あの子といいますと」
中村が焦る、早く名前を思い出さなくては。
「グランシスターよ。これって、訳せば偉大なってことよね。あの子もなに考えてんだか。恥ずかしくないのかしら」
一気に中村が緊張した。
グランシスターをあの子なんて呼ぶとは。
「あの、えっと。いまは引退されて、悠々自適の生活をされていると」
中村が俯きながら早口で答えた。
「ここのオーナーにぼろぼろにやられたんでしょう。人畜無害の顔をしてるから油断したのねぇ」
溜息混じりに田中が呟いた。
「いまは誰が中心になっているの」
「えっと、あの、SKです」
「そう。ね、あずさちゃん、顔を上げて」
おどおどしながら、中村が顔を上げる。田中がじっと中村の目を見つめて、にっこりと笑った。
「だいたい、わかったわ。ありがと」
思い切って中村が言った。
「あの、ごめんなさい。名前があの」
田中はかまわずぐっと右手を差し出した。慌てて、中村も右手を差しだし、握手をする。田中が笑顔で言った。
「教会の魔女 クラシックローズの中村梓さんね。初めまして、敵の倉敷教会の田中です。これからもよろしく」
「えっ」
驚く中村に笑顔を浮かべると、田中はかぬかに三人分の支払いをすませ、店を出ていった。
かぬかが中村の前にお勧めランチを置いた。
「スープ、美味しいですよ。飲んで、元気を出してください」
かぬかがそそくさと厨房に戻る。
なよが珈琲カップを片手に中村の前に座った。愉快そうににかにか笑っている。
「面白いのう。中村よ、お前も中堅の魔女じゃが、相手が悪すぎたのう。なにせ、グランシスターの元師匠じゃ。自分の弟子が魔女になってしもうて、腹ただしいやら、歯がゆいやらでおるのじゃろう」
聴く読みが何事もなかったように食器を持ち厨房へとそそくさと行く。
いきなり、中村は深めのスープ皿を左手に持ちあげると、右手のスプーンでスープをがふがふかき込んだ。そして、テーブルにスープ皿を置く。
涙目で言った。
「すっげー、美味しい」

なにか、変です。
小夜乃は縁側に腰をおろすと、考え込んだ。
朱女姉様はいったいどうなされたのでしょう。
なんだか、私は避けられているような気がします。といって、ふと気づくと姉様は私を見つめになっておられたりします。
ご遠慮、そうです。なにか私に遠慮されているような、そんな気がします。
どうしてでしょうか。
なにか理由があるのでしょうか。なよ母様ならご存じかもしれません、でも、相談すれば、朱女姉様を困らせてしまうかもしれません。
どうしたものでしょう。
白が勉強を終え、マグカップに珈琲を入れてやってきた。小夜乃が縁側に座っているのを見つけ、横に座った。
「どうしたの、小夜乃。考え込んでるね」
「あ、白姉様」
白が微笑んだ。
「幸母さんやなよ姉さんに相談しづらいことは、私か三毛に相談すると良いよ。解決する腕力や大声はないけれど、ないからこそ、一緒に考えることができるよ」
白姉様はとっても勉強家です。いつも難しい御本を読んでいらっしゃいます。白姉様でしたら
小夜乃は思い切って白に朱女とのことを相談した。白はしばらく俯いて考え込んでいたが、そっと顔を上げ、小夜乃を見つめた。
「小夜乃。私はね、初めて朱女さんを見たとき、何処かであった気がしたんだ。でも、よく考えてみてそうじゃないって気がついた。朱女さんと小夜乃は顔立ちがとっても似ている、きっと、小夜乃は大人になったら朱女さんみたいな綺麗な人になるよ」
白が微笑んだ。
小夜乃は思ってもいない白の言葉に驚いた。
「これはね、私のまったくの想像なんだけれど。朱女さんには歳の離れた妹が娘がいたんじゃないかなぁ」
白が俯き、珈琲を啜った。
小夜乃が身を乗り出し、白に顔を寄せた。
「妹を思いだしているということでしょうか」
「まったくの私の想像だけどね。ついでに想像の上に想像をもう一つ重ねるなら、もしその妹が普通に居れば、朱女さんは小夜乃に妹がいるんだよと言うと思う。言えないのは何らかの形で別れてね、会えないからなのかもしれない」
白姉様はなんて聡明な方なのでしょう。頬を染めて小夜乃が白を見上げた。
「どうしたの、小夜乃」
「憧れます、どうすれば白姉様のような落ち着きのある聡明な人になれるのでしょうか」
「それは買いかぶりだよ」
そっと白が微笑んだ。白は珈琲を飲み終えた。
「なよ姉さんは千年以上生きているからたくさんの経験をしている、同じだけの経験はできないけれど、たくさんの本を読めば、ほんのちょっとだけ、経験ができるんだよ。お父さんの部屋にたくさんの本があるから、今度、小夜乃に本を選んであげる」
ふっと白が顔を上げた。
「いま、朱女さんがお風呂を掃除しているから、ちょっと、手伝いに行こうか」
「はい」
小夜乃が大きく頷いた。

高村真理子、田村が組織に勧誘した高校生だ。アフガニスタンの戦闘から智里に救い出され、いま、香坂の家に同居している。
田村はいま、香坂の家の前に立っていた。高村が満辺の笑顔で、田村に向かい合っている。
「あの」
田村が言い掛けた。高村は笑顔を浮かべたまま、田村の顔を指さした。そして、右手を拳にし、頬を殴る素振りをする。
田村は頷くと、まっすぐ立ち、歯を食いしばった。
瞬間、田村の視野から高村の姿が消えた。
首がちぎれる。
田村が吹っ飛び、アスファルト道路にうつ伏せに倒れていた。
あまりの速さと重い拳に田村はどのように殴られたのかわからなかった。ただ、一ヶ月近くの修行の成果だろうか、よろよろと立ち上がると、もう一度、高村の前に立った。
高村の右の拳が砕け、真っ赤に染まっていた。見えないけれど、私の頬や顎もひどいことになっているだろうと田村は思った、もう痛みの感覚がわからない。
高村は笑顔を浮かべたまま、今度は左手で自分の顔を指さし、殴る素振りをする。
田村はその素振りに、この娘の人生を台無しにしてしまったのだと強く思った。殴り合う関係を私が作ってしまったのだ。高村が何度も自分の頬を殴れと身振りを続ける。
田村は覚悟を決めた。微かにうなずき、両足を踏ん張った。右の拳を強く握る。息を深く吸う、拳を放つ。弾けた、高村の足が浮いた。あぁもうだめだ、田村も仰向けに倒れていった。
ふわりと幸が空中から現れた。背中に白を背負っている
「親から貰った体を傷つけるなんて、今時の若い娘は何考えてんだか」
「幸母さん、それっておばさん的認識ですよ」
「子供三人育てた肝っ玉母さんだ」
幸がにかっと笑った。
「白は真理子だ」
白は幸の背中から飛び出すと、ふわりと倒れた高村の隣にひざまずいた。
幸は田村に駆け寄り、横に座ると両手を田村の背骨、両側に差し入れた。幸の手が田村の体に溶け込む。
「小百合。意識はあるか」
田村が目を瞑ったまま、ほんの少し笑った。
「初めて幸さんから名前を呼ばれました。なんだか、お母さんみたいです」
「大事な体をこんなにして、ろくな娘じゃないな、私の娘は。ダンプカーに正面衝突したみたいだ」
ゆっくりと両手をそのまま、首へ、頭へと動かしていく。田村の体の歪みが直り、砕けた頬も元に戻っていく。
そっと手を引き抜く、田村が傷のない姿で仰向けになっていた。
振り返る。
「白。真理子はどうだ」
「済みました。大丈夫です」
ほっと幸は息を漏らすと、田村の背中に手を寄せ、上半身を起こした。
「幸さん」
「ん、どうした。どこか痛いか」
「どうして、高村さんは私に自分を殴らせたのか、それがわかりません」
「ほいほいと小百合の甘言に乗った自分の見識の無さと己の欲にけじめを付けたかったんだろう。戦争の中で学んだんだ、自分の罪をな」
「だましたのは私です。高村さんは被害者です」
「ま、その辺は自分で考えてくれ。その方が小百合のためだ。ただ、これは言っておく。智里が真理子を救い出してからしばらくは、真理子は普通に喋っていた。でも、いまは全く喋らない、手話でやりとりしている。なぜだかわかるか」
田村がゆっくりと顔を横に振った。
「殺される心配のない安穏とした生活を送り始めて、危険だった頃の生活の記憶が遠のきだした。彼女は喋らないという態度をとり続けることで、そのときの記憶を守っているのさ」
幸が立ち上がり、促されて田村も立ち上がった。白の横で笑顔を浮かべた高村が立っていた。
「あの」
田村が言い掛けて、口を噤んだ。どう言えばいいのか、何を言えばいいのか、わからなくなってしまったのだった。
高村がゆるやかに手を動かす。
白がそれを見て言った。
「高村さんはありがとうって言ってます」
田村は力が抜けたようにうずくまると、声を殺して泣いた。