遥の花 あさまだきの靄 七話

遥の花 あさまだきの靄 七話

何処からまずかったのかを考えてみようと思う。
商店街、田村は先を歩く黒を眺めた。
後ろ姿だけでも、黒さん、ふわふわと浮き足だって、嬉しくてたまらないのがわかる。
あれは二日前だ。湯治場から幸さん宅へ向かうのに、歩いていきたいと私は言ったのだ。考えたいことがいくつもあった。幸さんは快諾してくれた。そして、おじさんが黒さんに言ったのだ、田村さんの用心棒をして欲しいと。それについては、私も鬼に襲われたばかりだったし、ミーア君に無理をさせたくないと言う気持ちもあったから、有り難いと思った。そうだ、その後が問題だったんだ。おじさんが自分の財布を黒さんに手渡したんだ。歩けば一泊くらいはすることになるだろう、お金を渡しておくから田村さんに迷惑をかけるなよって。
却って迷惑かかっています。
二泊目ですが、多分、半分も来ていません。商店街と道の駅をハシゴしています。
黒さん、朝から、お好み焼き、たこ焼き、牛丼特盛りを食べました。今三時、お昼は大盛りラーメンライス、、その直後に斜め向かいの昼から開いている串カツ屋さんに飛び込んで、その後も、お腹が空いたとパンを買って食べていました。
何度かは、先を急ぎましょうと言いたいと思った、だけど。
黒さんは美人でかっこいい女の子、ハンサムって言うのかな。そんな黒さんが美味しそうなお店を見つけると、小さな子供のようにはしゃいで手を引っ張ります、とっても可愛いです、これって反則ですよ。
一度だけ強く言うと、黒さん、涙目になって、お願い、ね、ねっ、泣き出す寸前になって、なんだか自分が悪いこと言ったような気分になって、ごめんなさいって私が言ってしまった。

ふと、田村は黒が立ち止まりじっと一軒の店を見つめていることに気がついた。ラーメン店だ、黒はぱたぱたと田村に寄ると、目一杯の笑顔を浮かべた、喜んで賛成してくれる、そう信じ切った目だ。
「きっと、大食いのテレビ撮影だよ。小百合、見に行こう」
ガラス戸の入り口には一人の男、テレビ局のスタッフの様子だ。
「ごめんね。収録中で入れないんだ」
「お兄さん。これって、大食い選手権なの」
黒が硝子を透かして中を見た。カウンターに四人が座っている。目の前には一抱えもあるようなすりこぎの鉢に山のように具材が載っている。
「黒も大食いできるよ。一番になるよ」
「おや、そうかい」
ADだろう、男が目を見開いた。
「それじゃ、今度ね」
「ええ、今が良いよ。うひゃあ、びっくりって感じだよ」
最近は大食いのテレビ番組が増えた。一時は体に悪いものを放送するなという批判もあり、大食い番組は縮小されていたのだが、昨今の流行である、実力もないのに自分もやりたい、できるという人たちが押し寄せ、このADも正直、こういった要望にはもう勘弁してくれと言うのが正直な気分だ。
黒がADの目の奥を見つめた。
「十秒間、眠ること」
呟き、黒がにっと笑った。何事もなかったように、黒は田村の手を引き、店の中に入った。
店の中は緊張感でいっぱいだ。カメラや音響はもちろん、たくさんのスタッフが割り当てられた仕事を声を出さずに進める。カウンターには四人、両腕で抱えるような鉢を前に箸を動かしている。黒はすとんとカウンター端の席に座った。
「大将。黒にも超特大ラーメンください」
カウンター前に立つ店主に大声で黒が叫んだ。緊張感のある空気などお構いなしの大声だ。全ての注目が黒に集まった。にかにか、黒が嬉しそうに笑っている。
「お嬢ちゃん、いま、大食い選手権収録中なんだよ、ごめんね」
司会者が慌てながらも笑顔で黒の横にやってきた。
「黒も参加する。ぶっちぎりで優勝だよ」
「いやあのね」
困ったなと司会者が苦笑いをした。ここで、怒鳴って帰れというのは簡単だ。でも、それでは、自分のイメージが悪くなってしまう。
「選手達は地方大会から勝ち上がってきてね、今回で優勝が決まる大事な試合なんだよ」
黒が司会者を涙目で見つめた。
「おじさん。だめなの」
凄い目力だ。司会者が息を飲んだ。
「いや、だから、あのね」
「やだやだ。良いって言ってくれるまで動かない」
黒がカウンターにしがみつき、両足をばたつかせる。
目の端でディレクターを見る、なんと、両手で大きく丸を描いている。なんだ、どういうことだ。床にカンペが差し出された。
「食材あり、参加可」
司会者が思いだした。このディレクターは面白ければ良いという奴だった。
「お嬢ちゃん、食べきる覚悟はあるかい」
「もちろん、がふがふ食べるよ」
司会者が叫んだ。
「大将。超特大スペシャル、お願いします」
あたふたと大将が厨房に入った。厨房の中はてんやわんやだ。
司会者は一つ大きく深呼吸した。気持ちを立て直す。
「君の名前は」
司会者がテレビ用に声を張った。
「黒、漢字一文字、黒です。高校生」
勢いよく黒が答えた。
「そうだ、おじさん、見て見て」
黒がジャージの上着のジッパーを引き下ろした。そして、上着をぱっと広げる。
司会者が黒の体操着を着た胸を凝視した。
「もう、えっち。そっちじゃないよ」
黒がホルダーから箸を引き出した。
「三十センチのお箸、材質はオノオレカンバ、斧が折れてしまうようなとっても堅い木。お父さんが作ってくれたんだよ」
驚いて司会者が言った。
「いつも、持ち歩いているのかい」
「もちろん」
黒がにかっと笑った。
「必需品だよ。このお箸ならどんなにスープを吸った麺でも引き上げることができるんだ」
黒は箸を逆手に持ち直すとにやりと凄みのある笑いを浮かべた。
「店の食材全部出せや。何もかも、食い尽くしてやるぜ」
こいつ、原石だ、たくさんの大食いを見てきた司会者の勘が黒の大食いを見抜いた。
「今のは母さんの真似」
黒が気楽に言った。司会者の足が震えた。突飛なねたをやらかしたタレントはそれを笑いにして誤魔化そうとする。だから、自分からあははと笑ってしまう。こいつ、平然としてやがる。
「黒ちゃんのお母さんも大食いなのかい。ってことは遺伝なのかな」
「うーん、黒は養女だから血は繋がってないよ」
黒の返答に、この娘、絶対に話題になる、確信した。
「へい。お待ち」
二人がかりで超特大スペシャルラーメンが運び込まれた。どんと、黒の前に据えられた。
山だ。一抱えある鉢にはなみなみとラーメン、その上にもやしとネギと煮玉子の山。その上に肉の大きな固まりがどんと載っている。
「おじさん、上のお肉って何」
「わかるかな。チャーシューだよ」
「そうか。チャーシューの切る前だ。やったー。これも食べていいの」
「いいよ。っていうか、これも食べるんだよ」
黒が箸を逆手に持ったまま、チャーシューの上に掲げた。
「もう、食べていい」
うふふと黒の顔がにやつく。司会者がストップウォッチを睨んだ。
「用意、スタート」
瞬間、ぐさりとチャーシューブロックに箸を突き立てる、そして、ブロックを口にまで持ち上げると、顎がはずれるかというほど口を開け、ぐわりと大きく噛み千切った。がふがふと租借する。そして、ごっくんと飲み込んだ。
こいつ、一口で三分の一を食っちまいやがった。
レポートをするのも忘れ、司会者は固まっていた。店主はというと、黒の食べっぷりに感動していた。
この子はものほんの大食いだ。店主は大食いを始めて随分経つが、大食いは偽物ばかりだと考えていたのだ。腹の中では、大食い連中を前にして、飲み込むんじゃねぇ、しっかり俺のラーメンを噛んで味わえ、お前のゴミ袋に放り込むなと怒鳴っていた。初めて店主はしっかりラーメンを味わう大食いに遭遇したのだ。
都合、三口で巨大チャーシューブロックを黒が食べ終わる。
はっと司会者が意識を取り戻した。
「黒ちゃん、すごい。チャーシュー完食だぁ」
大声で叫んだ。うおぉとギャラリーが声を上げた。たくさんのギャラリーもあまりのことに、反応ができずにいたのだ。
「大将。チャーシューとっても美味しかったよ」
黒の言葉にちょっと大将が涙ぐんだ。
「おう。そうかい、そりゃ良かったな」
大将もそれを言うのが精一杯だ。
黒はにかっと笑うと、顔をもやしの山に近づける、十センチくらいだ。
司会者と観客がぐっと息を飲み込む。黒はいきなりぐっと箸を鉢の真ん中に突き刺し、もやしと麺をすくい上げた。瞬間、大きく口を開けて、飲み込んだ。口いっぱいに飲み込み、勢いよくがふがふ租借する。
司会者はこれと似た情景を何処かで見た、そんな気がした。何処だったろう、そうだ、局の総務だ。大きなシュレッダーがたくさんの書類を粉砕していた。初めて見たときはびっくりしたなぁ。
どすんと尻を蹴飛ばされた。ディレクターだ。司会者はすっかりレポートをするのを忘れていた。
「すごい、すごすぎるよ、黒ちゃん」
司会者が声を張り上げた。どんどん、黒がもやしと麺を太い箸ですくい上げ口に運んでいく。
カメラマンがぐっと鉢にカメラを寄せた。ほんの数センチだ。ふっと黒は横目でそれを見ると箸を止めた。カメラに向かってあーんと大きく口をあげた。慌てて、カメラが引く。
「カメラだったの、新しいチャーシュー追加かなって思った」
気楽に言うと、黒は麺をぐいっと掬いあげた。
どっと笑いと歓声が上がった。
こいつ、タイミングがわかってやがる。改めて司会者は黒をまじまじと見つめた。ここぞという笑いの間がわかって、それでいて、一所懸命食べている、食べたいから食べている。スター、発掘だ。

「黒ちゃん、頑張れ」
観客の中から小さな男の子が叫んだ。黒は麺を頬張ったまま、声の方向に振り返った。租借しごくんと飲み込んだ。
「ありがと、頑張る」
黒がにっと笑う。観客の三分の二は女性だ、黄色い悲鳴が上がった。
食べ進め、具材と麺は完食。
「すごすぎるよ、黒ちゃん。後はスープだけだ。大丈夫かい、飲み干せるかい」
司会者が興奮して黒に言う。
黒がにかっと幸せそうに笑った。言葉はいらなかった、この笑顔だけで、ラーメンを完食すると誰もが思う。黒は立ち上がると、両手の親指を鉢の縁にかけた。そして、ぐっと顔にまで持ち上げる。
ディレクターが叫んだ。
「カメラ。ぼぉっとするな。カウンターに乗れ、真上から撮るんだ」
金切り声だ、彼自身も自分が裏方であることを忘れ、興奮していた。
跳ね上がるように、カメラマンがカウンタに飛び乗った、そして、黒の真上にカメラのレンズを向けた、鉢の内側、ごくっ、ごくっと、スープが沈んでいく、カメラまで引き寄せられていく。スープがなくなった。黒は上機嫌で鉢をどんと置くと、店主に言った。
「ごちそうさまです。太麺としっかり効いた塩、とても美味しかった」
だくだく、店主が泣いていた。
「ありがとうございやす、食べてくださってありがとうございやす」
店主は黒のたべっぷりに感動していた。
「今度来るときは普通の大盛りで。だって、唐揚げも食べたいから」
なんども、店主が大きく頷いた。
ふっと、黒が微かに沈み込む、すいっと向きを変え、田村に走り寄ると、横に田村を抱え、店を飛び出した。あまりにも突然、そして、なめらかな黒の動きに誰もが反応できなかった。
ディレクターが叫んだ。
「ダイソンブラックを追え、捕まえろ。親の承諾がないと放送できないぞ」
ダイソンブラック、一瞬、考える。そうか、吸引力の変わらない掃除機だ、誰もがなるほどと納得した。

黒と田村は商店街端に設置されたベンチに座った。
「ごめんね、小百合。小百合も何か頼めば良かったね」
田村はもう見るだけで十分ですと思う。
「あの、遠くに逃げた方が」
「大丈夫、気配を消しているから、小百合以外に黒がいるの気づかれないよ」
これって、私が声を出して独り言を言っているように見えるのだろうか、田村は少し気になったが、それについては、横に置いておく、黒さんのこと、まともに考えたらくたくたになってしまう。ただ、逃げ足と気配を消す、これだけでもできるようになれば、ミーア君と暮らしていけるかもしれないと思った。
「口の中がしょっぱい、甘いもの食べたいなぁ」
黒が呟いた。まだ、食べる気かと素直に田村が思う。
「小百合。あさぎ姉さんのケーキ、とっても甘くて美味しいんだよ。特にチョコレートケーキ、これ、黒のお勧めなんだ」
「そうですか、それは楽しみです」
こめかみに汗をかきつつ、田村が頷いた。
「それじゃぁ、早く帰りましょうか」
「うーん。ただ、折角だし、ここでお饅頭を食べて」
ふと、黒が気づいた。
「小百合。あれから何日経ったっけ」
気づいていなかったのかと田村が呆れた。
「三日目です」
急に黒がぐずぐずと泣き出した。
「黒さん。どうしたんです」
「母さんに叱られちゃう」
俯き、鼻を啜りながら泣いている、なんだ、この急変は。そういえばと幸の言ってたことを思い出した。黒は妹がいるときはしっかりしているけれど、いないとふわふわ子供に戻ってしまうって、あぁ、こういうことかと納得した。
「黒さん、大丈夫ですよ。誰も怒ってないですよ」
「いやいや、黒は一週間断食だぁって、幸、言ってたよ」
驚いて田村が顔を上げた。男が黒の横で笑っていた。
「おじさん、どうして」
「なんていうかなぁ。大事な娘が泣いていたら、親としては駆けつけてしまう、父親は娘を甘やかすの担当だからさ」
黒がそっと顔を上げた。
「餓死しちゃうよ」
泣きながら黒が男に言った。
「うーん。それじゃ、黒。一日だけ断食しなさい。父さんが六日しよう。合わせて一週間だ」
「お父さんが死んじゃう」
余計に黒が泣き出した。
「困ったねぇ」
男が気楽に笑った。
「それじゃあさ、帰ったらね、みんなに謝りなさい。連絡せずに外泊して心配かけたってさ。それでいいよ。今日の晩ご飯までに帰ってこれるかい」
鼻を啜りながら黒が頷いた。
「なら、大丈夫だよ。そうだ、黒、財布を出しなさい」
黒が胸のポケットから、男の財布を出し、両手で差し出した。男は中身を確認すると、黒に財布を返した。
「えっ」
黒が驚いて顔を上げた。
「黒は上等な食事より粉ものが好きだからな、あんまり使っていないね」
男は黒に少し顔を寄せ囁いた。
「幸には堅焼きのお煎餅、なよには酒の肴。みんなにはお饅頭とかね、いろんなのをたくさんが良いかな。お金、全部使ってお土産にしなさい。そして、晩ご飯までに帰ること、いいかい」
「お父さん。ありがとう」
「どういたしまして」
ほっとしたように、黒が涙目のまま少し微笑んだ。
ふと、騒がしいことに男が気づいた。何人もの人たちが行き交う人に尋ねている。
男は立ち上がると、二十代半ばだろうか、思った情報が得られなかったのだろう、肩を落としている青年に声をかけた。
「おや、健二君じゃないか。久しぶりだね」
青年が顔を上げる、見覚えのない男、でも、自分の名前を知り、親しげに声をかけてくる、誰だったろう。思いだそうとする内に、男の笑顔を見ることで、なんだか、世話になった身内の人のように思えてきた。
青年は近寄ると大きく頭を下げた。
「お久しぶりです」
「しっかりしたなぁ、久しぶりだ。慌てたようだけど何かあったのかい」
「そうなんです。おじさん、ダイソンブラック、見ませんでしたか。あ、いえ、黒って女の子なんですが」
「その女の子を捜しているのかい」
「そうなんですよ」
青年が興奮していった。
「テレビの収録で、大食い選手権の撮りをしていたのですが、いきなり入ってきた女の子がすごい勢いで、こんな大きなラーメンを食ってしまったんですよ」
青年が大きく両手を広げた。
「なるほど、で、食ったあと、その子がいなくなったわけだ」
男がふんふんと神妙に頷いた。
「未成年、勝手に放送したら番組が潰れてしまいます。なんとしても、その娘を見つけて、親に許可を貰わなきゃならないんです」
「その女の子って、上下黒のジャージじゃないかい」
青年が目を見開いた。
「ご存じですか」
「かなりの速さで走っていったよ」
男が黒のいる方向と反対を指さした。青年は頭を下げると、ありがとうございますと叫んで指さす方向を駆けだした。
「親としては娘を掃除機に例えられるのは嫌だけれど、どんなだったかは、単純に見てみたいな」
男は振り返り、黒に言った。
「黒。父さん、黒の食べているところ、テレビで見たいのだけど、かまわないかい」
黒がちょっと恥ずかしそうに、でも笑顔で頷いた。
「それじゃ、あとでうちの娘がお世話になりましてって言いに行くことするよ。さあ、田村さんと早く行きなさい」
黒がふわりと田村を背に負った。
「あ、あの」
田村が慌てた。
「父さんはなよの好きな霞桜、その酒蔵が近くにある。そこによってから帰るよ」
黒は頷くと、ちょっと恥ずかしそうに、でも元気に笑った。
「ありがとう、お父さん」

男は黒を見送ると、一人、ベンチに座る。心臓が重い、ここまで来るのに無理をしすぎたか。ゆっくりと深く呼吸をする。調息法だ
そして、少し俯き、左手のひらを左胸に当てる。若い頃からの自分の悪事を考えれば、優しい娘たちに囲まれて穏やかに暮らすなど、許されることではないだろう、それを思うと幸せすぎる、一言、有り難いことだなと男は呟いた。
「あの。おじさん、大丈夫ですか。救急車を呼びましょうか」
男が顔を上げると、高校生くらいだろうか、女の子が学校の帰りだろう、自転車を停めて、男の前にいた。
男が少し笑った。
「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だよ。大事な用事を済ませて、休んでいるのさ。それより」
男が興味深そうに女の子の顔を見た。
「面白い子だね、少しは気配を消しているつもりだったんだけどな」
「おじさんは幽霊ですか」
「いやいや、殺さないでくれよ、まだ、なんとか生きているよ」
男は立ち上がりかけたが、片足でうまく立てず座ってしまった。
「いつもなら百メートル九秒で走るんだけどな。もう少し、休んでから帰るよ、気遣ってくれてありがとう」
男はその言葉を最後にするつもりだったが、女の子は自転車を歩行者の邪魔にならないように置き、男の隣りに座った。
「大丈夫だよ。浮浪者でもないし、帰るところあるからさ」
女の子がスマホを鞄から出した。
「電話番号を教えてください、おうちに連絡します」
「弱ったなぁ。へたばりきったところを女の子に保護されたなんて、娘に大笑いされてしまうよ」
男は笑みを浮かべながら考える。
「申し訳ないんだけれど、私の後ろに立ってね、背中、両手の平で軽く押してくれないかな、左の心臓辺り」
女の子はスマホを置くと立ち上がり、そっと男の心臓後ろ側辺りに両手の平を当てた。
暖かい、寒い日にストーブに手を寄せているように手のひらが熱くなっていく。
「気を送り出してもそのまま霧散してしまう、こうして手を当ててくれると、気が反射して増幅していくんだよ」
男は左手を離すとほっと一息ついた。
「ありがとう、もういいよ。助かった」
女の子が男の隣に座り直した。土気色から、少し肌色が明るくなっていた。
「気功ですか、いまのは」
「気功よりも古い寿法、寿の法だよ。君には恩ができた。お礼に一つ教えよう」
男が視線を少しあげた。
「君は人に見えないモノを見、聞こえないオトを聴く。この国はそういう人たちを集めて特殊兵士や傭兵として輸出している。言葉巧みに君の能力を褒める奴には近づくなよ、ぼろぼろにされてしまうからね」
一瞬、女の子の顔が青ざめた。
「見つかってしまったか」
男が呟いた。
男の視線に女の子が顔を上げた。きれいな女の人だ、事務姿だけれど、指先一つにまで気品がある。高貴な人。嬉しそうに笑っている。
「やあ、なよ。偶然だね」
なよは男の前まで来ると座っている男を見下ろした。
「幸が遠見で探し倒して、やっと、父さんを見つけた。で、幸が飛び出すのを制してわしが来た、なにやら面白そうじゃったからな」
なよが女の子の隣に座る。
「可愛い女の子との逢瀬とは、娘としては複雑な気分じゃのう」
にかにか、なよが笑った。
「あ、あの、これは誤解です」
女の子が慌てて言い繕った。男が平気な様子で言った。
「気にすることはないよ。この子はなよ、私の次女だ。人の記憶を読みながら喋るんだよ」
ふんとなよは言うと、女の子に向き直った。
「こんなんでも、わしの大切な父親じゃ、ありがとう」
「あの、いえ、どういたしまして」
まっすぐになよの顔を見る、女の子の心臓が高鳴った、とっても綺麗で、なんだか神聖な感じがする。
「そうだ、なよ、この子に御利益はないのかい」
「御利益と」
なよが男の言葉にいぶかしむ。男は女の子に顔を向け言った。
「君の家は神社だろう、それも古神道だ」
「えっと。はい、そうですけれど」
男がなよに笑いかけた。
「神様の一柱として、先祖代々、拝んで貰っているようだよ。かぐやのなよ竹の姫」
なよの表情にめんどくさいと浮かぶ。なよは、ぽんぽんと軽く女の子の頭を叩いた。
「幸い幸い、五穀豊穣、家内安全、ついでに合格祈願じゃ」
ぼぉっと女の子が硬直した。
「父さんはそのラーメン屋さんでちょっと喋らなきゃならない、それが済んだら、霞桜樽酒を買いに行こう」
心底嬉しそうになよが笑った。まるで子供のように。
「それはいい。よし、行こう」
なよは立ち上がると女の子に言った。
「ではな、娘。大学受験頑張れよ。受かればわしのおかげ、受からねば努力不足、願などそんなものじゃ」
いきなり、女の子がなよの腰にしがみついた。
「待ってください。間違いなくあなたは神様です。ここで神様を逃したら、父や母、おじいさんやおばあさん、先祖に申し訳が立ちません」
「わしなど、いわしの頭と同じようなものじゃ。気にとめるな」
「酒蔵から仕入れた特別な客用の霞桜古酒もあります。お願いです、うちに来てください」
「古酒とな」
なよの動きが止まった。
男はそっと立ち上がると言った。
「ラーメン屋さんに言ってくるよ、その後、神社に行って、酒蔵に行く、それでいいかな、なよ」
「父さん。早く用事を済ませるんじゃぞ」
なよが嬉しそうににかっと笑った。
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