遥の花 あさまだきの靄 六話
田村の生活は一変した。マンションの賃貸契約を解約、預金を全て降ろし、半分は金貨にする。山登りのような大きなリュックを背負い、街を出た。
実家に帰れば、間違いなく確保されるだろう、行く宛のない旅の始まりだ。できるだけ、行ったことのない場所、知り合いの居ないところへ行く。外国へ行くことも考えたが、パスポートを使えば場所を知られることになってしまう。自分の蒔いた種だ。文句を言っても仕方がない。
そうやって、半年、田村は公園で野宿をし、洗濯をしたくなれば、安い宿に泊まり、旅を続けた。
「小百合、大丈夫」
ミーアが、田村のお腹の上辺りからちょこんと顔を出した。
「ミーア君、心配性だなぁ。体力、かなり付いたよ、筋肉もりもりさ」
田村は笑う。以前とはまったく違いしっかりとした姿になっていた。ふと、バスのベンチを見つけ、田村は背中からリュックを降ろし、ベンチに座った。
「私はさ、殺されても仕方ないことをいっぱいやってしまった。だから、殺されそうになっても、殺さないでって言わない。ただ、ミーア君と一緒にいるのが愉しいから、こうやって逃げているのさ」
「ボク、小百合のためなら、一所懸命に闘うよ」
ミーアが呟く。
あれから一ヶ月が経つ。居場所がばれた。三人の鬼に囲まれた、がたいのある男だと思ったら額から角が生えていた。私からミーアが飛び出した。ミーアが私くらいの大きさになって長い刀を加えていた。ミーアが鬼の隣を素早くすり抜ける、鬼の胴体が横に斬れ倒れていった。私、膝が震えて尻餅をついていた。そして、三人の鬼が倒れた後、私、腰を抜かしたまま、這いずるようにして、ミーアに近づいた。ミーアは倒れて元の大きさになっていた。そして、お腹に大きな傷があったんだ。あんなに泣いたのは初めてだった。全ては私の罪だと気づいた。
「ミーア君。もうすぐ行くと温泉街だ。湯治場って言ってね、安くで何日も泊まることができるんだよ、ご飯は自分で作らなきゃだけど」
「そこは壁があって、天井もあるの」
「あるよ」
「なら、安心だ。小百合は無理しすぎだもの、ゆっくりしなきゃ」
「ありがとう、ミーア君」
ミーアが幸せそうに笑みを浮かべた。湯治場、観光地化するには不便すぎる温泉地にはまだ残っている療養型の温泉、小さな部屋と共同の炊事場がある。ミーアの傷も少しは癒えるだろうか。
二人は湯治場にたどり着くと、部屋の鍵を預かった。三畳一間の寝るだけの部屋だ。田村はリュックを背中から降ろすと、壁に背を預け座った。そして、リュックから飯盒と米を取り出す。
「まだ、明るいし、もう少し後でご飯を炊きに炊事場へ行くよ」
ミーアが田村の体から飛び出すと、見上げて言った。
「小百合、お疲れさま。ゆっくりしていいよ」
「ちょっと、寝ていいかな」
ミーアがもちろんと頷く。田村は毛布を取り出すと、壁を背に預けたまま仮眠をとる。すっかり、座って寝ることになれていたのだ。ミーアは心配げに田村を見上げたが、決意したように背を返し、神経を研ぎ澄ます。田村を護るためだ。
窓から朝日が入ってきた。ミーアがおろおろと部屋の中をうろつき回っている、落ち着かないようだ。夜には目を覚ますはずだった田村が朝になっても目を覚まさない。そっと、肩に乗り、口元に鼻を寄せてみる、息はしているようで、ちょっと安心する。
外から声が聞こえてきた。部屋のドアの向こうが共同炊事場だ。
「その奈良漬け、美味しそうね。半分ちょうだい」
中年女性の声だ。
「いいですよ。でも、田中さん、朝からそんなにたくさん、料理して大丈夫ですか、お腹、壊しますよ」
驚く男の声に田中と呼ばれる女が嬉しそうに笑った。
「あたしはね、羽を伸ばしに来てるの。好きにさせてちょうだい」
二人の声にようやく田村が目を覚ました。
「あれ。明るいなぁ」
「小百合。もう朝だよ」
ミーアがほっとしたように笑顔を浮かべた。
「ごめんごめん。完全に寝てたよ」
ミーアが田村の肩に駆け上った。
「おはよう。小百合」
「おはよう、ミーア君」
田村が大きく伸びをする。ふわりと、ミーアは下に着地した。
「さあ、朝ご飯食べて、それから温泉だ」
田村が飯盒や缶詰を持ち立ち上がる。ミーアがドアの横に立った。
田村はドアの蝶番側に立つ。手を伸ばしてノブを回す。微かにドアが開いた瞬間、体を後ろに戻すと、左足でドアの下をゆっくり蹴り出しドアを開けた。ミーアが頷くのを確認して、田村は部屋の外に出た。
洗い場では中年の男と女がにぎやかに喋っていた。
女が振り向いた、田中だ。
「おや。新しい人だね、おいで、こっちおいで」
不思議と警戒感を感じない、開けっぴろげな性格のようだ。
田中はご飯を炊き終えた土鍋をコンロから持ち上げ、隣りの台に置いた。男も軽く会釈をすると、飯盒に入れたお米を片手で洗う。ミーアはふわりと飛び跳ねると、男の飯盒を背伸びして両手で押さえた。
「やぁ、ありがとう。助かるよ」
田中が怪訝な顔をした。
「イタチがあんたの飯盒の中、のぞき込んでいるだけじゃないの」
男が大袈裟に溜息を付く。
「田中さんもねぇ、年を取るとこんなになってしまうんだなぁ」
男が田村に笑いかけた。
「彼女も若い頃は、花の歌声を楽しみ、風の声に恋人の思いを受け止めていたのだけれど、いまは夢も希望もないおばさんになってしまった」
田中がむすっとした表情で言った。
「やなこと言うわね」
「あなた、こんな男の言うこと真に受けちゃだめよ。こいつ、とってもひどい奴だったのよ。それが、ある日、娘ができた、良い人だって、娘に思ってもらいたいけれど、良い人ってどうすればなれるのかなぁって真顔で訊くんだから」
「それを言われるとつらいなぁ」
男が恥ずかしそうに笑った。
ふふんと田中は笑うと、しっかりと田村を見つめた。
「あなた、仕事は」
「今は無職です」
「そりゃそうね。こんな年寄り向けの場末の保養地にいるんだから。うん、良い目をしてるわ」
田中はメモ用紙を取り出し、書き殴ると田村に渡した。
「困ったら連絡しなさい。護ってあげるわよ」
用事は済んだと田村は大きな木桶に土鍋と山と積んだ唐揚げや野菜炒めの皿を載せ、最後にせしめた奈良漬けのパックを載せて自室へ戻った。
「切り替えの早さは見事だなぁ」
男は呟くと飯盒をガスに掛けた。
「宿代に施設の使用料も入っているから自由に使えばいいよ。隣のコンロを使いなさいな」
「ありがとうございます」
田村が答えた。不思議だと思う、さっきのおばさんもそうだし、目の前のおじさんにも、とても安心感がある。ミーア君も、おじさんの横でぼおっと顔を眺めている。とにかくと。田村も料理を始めた。もっとも、始めたといっても、飯盒でご飯を炊き、その上に少し開けた鯖缶を載せただけだ。
「この子はイタチじゃなくて、あれだろう。そうだ、ミーアキャットだ、テレビで見たことがあるよ」
ミーアが嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「おっ、正解だったみたいだな」
男が飯盒をコンロから降ろし、蒸らしにかかる。
「お嬢さん、この子は何て言うんだい」
「あの、ミーアです」
「なるほど、ミーア、ミーア君だな」
ミーアが頷いた。
「ミーア君は彼女を護っているんだね、これからも、頑張れよ」
男は笑みを浮かべると、漬け物のパックを置いた。
「娘の作った漬け物パックなんだ。お裾分けだよ」
男は飯盒を手にすると自室へ戻った。
調理室は田村とミーアだけになる。
「なんだか、びっくりだよ。ミーア君」
ミーアも頷くと、田村の肩に駆け上った。
「あのね、小百合。あのおじさん、なんだか、マスターの匂いがしたよ」
温泉といっても、豪華な設備もなければ、サウナがあるわけでもない。町の銭湯のお湯が温泉であるという程度のものだ。
田村とミーアだけである。湯船に浸かる田村の肩にミーアが載っていた。
「ミーア君もどう」
「うーん、泳いだことない」
「あ、そうか、そういえばそうだよね」
田村は手を伸ばすと、桶を取り、お湯を入れて洗い場に置いた。
ちょっと、不安げにミーアは風呂桶を見ていたが、田村の肩から降りると桶の縁に掴まり、鼻を寄せる、ミーアはそのまま、重心を前に出し、ぽちゃんと風呂桶に入る、頭だけ出した。そして、じぃっと目を瞑る。まるで、瞑想でもしているようだと、田村は思う。
「小百合。ボク、ふわんってなっちゃうよ」
ガラス戸が開き、田中が入ってきた。田中はミーアの様子を横目で見たが特に気にするふうもなく、体を洗い、湯船に浸かった。
「はぁ、極楽。まぁ、極楽と言うより、天国と言うべきかね」
「ごめんなさい」
田村が言った。
「猿やカピパラも温泉に浸かっているわよ、その子の背中から、お湯を掛けてあげなさい。きっと喜ぶわよ」
田村がもう一つの風呂桶にお湯をいれ、ゆっくりとミーアの背中からお湯を流す。ミーアが目を瞑ったまま笑った。よほど、気持ちがいいらしい。
「あなた、逃げているんでしょう。私なら保護してあげることができるわよ」
田中がしっかりと言う。
「というか、私の補佐をしてほしい、あなた、しっかりとした目をしているわ」
「私は」
田村は一瞬、言いよどんだが、湯船の中、田中に向き直って正座した。
「私は逃げています。でも、私は被害者ではなく加害者です。いつか、私は口封じのため殺されます。私は殺されても仕方のないことを、わかっていて続けました。だから、自分だけが助かりたいとは言えません」
そっと、田村は放心状態のミーアを横目でみる。
「ただ、ミーア君と旅をするのがとても楽しい、この時間をちょっとでも長引かせたい、だから、卑怯でも、逃げて生き続けようとしています。私は、殺さないでの一言をいう権利がないんです」
田中が田村の目を睨みつける。
そして、呆れたように言った。
「青いわね、もっと、勉強しなさい。モーゼの十戒の一つ、汝、殺すなかれ。私はこれでもキリスト教のシスターだから、この言葉をあなたに伝えるわ。キリスト教では人を殺してはならないと伝えている。でも、キリスト教の兵士が人を殺している。私の宗派はね、聖書を言葉通りに受け入れるの。だからね、殺さないといったら殺さないの、例外は認めない。それは同時に悪い人間だから殺されても仕方がないということはないってことよ。殺されないように、殺さないように、しなきゃいけないの。あなたは既にそれを実践しているの、わかる。もっともっと、考えなさい」
田中がばしっと水面を叩く。びくっと、ミーアが目を覚ました。
「ありがとうございます」
田村が返事をするのと同時にミーアが田村の肩に駆け戻った。
「小百合、ごめんなさい。ほんとに寝ちゃってた」
「おはよう、ミーア君」
そっと、田村が笑みを浮かべた。そして、田中に向かって頭を下げた。
「もっと考えます」
田中が少し笑う。
「あなたはこれから何処へ向かうの」
「決めていませんが、ざっくり西へと考えています」
「なら、通り道よ。私の教会に立ち寄りなさい、嫌なら、すぐに立てばいいし、気に入れば、ずっといてもいいわ。あなたにはそういう場所が必要よ」
田中はそういい残すと、唐揚げ食べなきゃと呟き、立ち上がった。
崖の風が気持ちいい。
この温泉地まで、田村はずっと山を歩き続けてやってきた。
遠く海が見える、青い海だ。崖には柵がしてあり、一円が遠望できる。山の連なりの向こうに、青い海があった。
「ミーア君、ずっと山道を歩いていつになったら着くんだって思ったけど、この景色はご褒美だね」
「うん」
ミーアは田村の肩に乗り答えた。
「二日前、海辺を歩いていた、ずっと、小百合は歩いている」
田村がそっと頷いた。
「歩いていると、いろんなことを考えるよ。さっきは、田中さんに、汝、殺すべからず、って教わった。自分を殺すのもだめなんだろうね」
急にミーアが田村の上で怒ったように足踏みをする。
「どうしたの」
「ボク、思い出した。小百合、石を投げられた。もうちょっとで死んでいたかもしれないよ」
一週間前のことだ、夜、公園のベンチで寝ていたとき、数人の塾帰りの子供たちがいくつも田村に石を投げたのだ。
「あれはびっくりしたねぇ、脇腹に当たって目が覚めて、頭じゃなくて良かった」
田村が思いだして少し笑った。
「もう、小百合ったら、笑い事じゃないよ。いくつもいくつも投げられたんだよ。小百合、あざだらけだったよ」
「そうだね。骨が折れてなくて助かった。健康保険証も使えないからなぁ」
「小百合は暢気すぎるよ」
「なんていうかな」
田村がゆっくりと話す。
「私は石礫で追いやられても仕方のない人間だ。みんな、私が悪いんだ、そう思っていたんだよ。でも、今はね、汝、殺すなかれ、これは殺されてもいいような人間は存在しないっていうことかもしれないって思うんだ。なら、石礫を投げられるべき人間はありやなしや、ってさ、考えたりする。二、三日したら、西に向かって歩こうと思うんだ、歩きながら考えてみるよ」
「次は西に行くの」
「今はいい気候だけど、冬はできるだけ暖かいところが良いな、九州とか沖縄とかね」
田村がくすぐったそうに笑った。
「私はね、ミーア君が一緒に居てくれてとっても嬉しい。一人じゃ、歩けなかった。ありがとう、ミーア君」
ミーアは田村を見上げると、とても幸せそうに微笑んだ。
ふと空気が変わった。妙に寒い。
「小百合。ボクのお仕事だ」
ミーアが呟いた。
少し離れた、その向こう、濃いサングラスに黒いスーツの男が二人現れた。その後ろに黒い陰、あれは。
どう考えても三メートルはある甲冑武士。
田村はぎゅっとミーアを抱きしめ、
顔を上げた。
「随分と探しましたよ」
口元に笑みを浮かべサングラスの男の一人が言う。
「前回は送り出した鬼が三匹ともやられました。大きな刀か何かで切り裂いた跡がありました。まずは、どうやったのか、詳しくお聴かせいただいた後にこの鬼に袈裟懸けにでも斬ってもらおうということです、選択肢はあなたにありませんよ」
くぐもった声が頭上から鈍く響いた。
「俺にこんな小娘を斬れというのか」
その声には微かな戸惑いがあった。その戸惑いの声にうまくいくかもと、田村はぎゅっとミーアを抱きしめ駆け出すと、鬼の正面で膝をついた。
「お侍様、どうぞ、お見逃しくださいませ」
田村が涙声で叫んだ。
「いきなり男たちに追い回され、殺されそうになりました。いったい何がなんだかわからないのです。私はこの社会の一隅でほぞぼそと暮らしておりました。それだけですのに、何故、私はいきなり殺されなければならないのでしょうか。どうぞ、お侍様、御慈悲を、お助けくださいませ」
どうだと、俯いたまま鬼の気配を探る。鬼が戸惑うのを感じた。
サングラスの男が喚いた。
「こら。鬼の野郎、組織に逆らえばどうなるか、わかってんだろうな」
田中だ、飛び込んでくると見事な跳躍でサングラスの男の首に蹴りを入れた。男がすっ飛んだ。
田中が甲冑の鬼に向かって怒鳴った。
「大きな刀差して、鎧をつけて、あんた、武士なの、もののふって奴。それが、あんたの腰ほどの背丈しかない女をその刀で斬るっていうの。あんた、男なの、人や鬼という前に、あんた、それでも男なの、どうなの、答えなさいよ」
がつんと鬼の真正面から指さした。
「その図体はこけおどしってわけ」
「何者だ」
「あたしは田中っていうのよ。覚えて起きなさい。あたしはね、情けない男が大嫌いなのよ。この娘とは朝あったばかりだけれど、気だての良い娘よ。それを斬るっていうの、殺すっていうの、情けないわね」
鬼が言い返せずに歯ぎしりをする。田村は驚いた、ほとんど、見ず知らずの自分のためにこんなにも。
もう一人のサングラスの男はというと、うつ伏せに倒れ、片手片足の男がその上にあぐらをかいていた。
「鬼のことは少しは知っているよ。君は原種の鬼、つまりは鬼王の息子だ。その、誇り高い原種の鬼が使いぱっしりって情けなくはないかい」
男がにかにかと笑って言う。
「私の記憶では君は茨木夜叉と呼ばれていたはずだ、夜叉の異名を持つものは少ない。その名は武芸者の称号のはず。君の師匠は義の誉れ高い元王位継承者高間の宮王子だ。いまの君の姿を見れば、王子はどう言うだろうね。君の姿に嘆いて割腹するかもしれないぞ。それが君の本望かい」
鬼が両膝をついた。
「去れ。俺の前から去れ」
すいっと男は器用に立つ、田中は田村を引っ張り、三人とミーア、そそくさと鬼の後方へと歩く。
「あんた。娘を呼びなさいよ、高間宮ならあんたの娘がうまくするわよ」
田中が男に囁いた。
「いまのはあんまりかっこ良くないから、知られたくないなぁ」
「なに、勝手なこと言ってんのよ」
間に挟まれ、田村は混乱していた。この二人、何なんだ。
「あ。来ましたよ」
ぶわっと幸は男の前に現れると、しっかりと男を抱きしめた。
「お父さん。怪我ない、大丈夫だった」
「父さんはいつでも大丈夫さ。ところで、高間の宮王子、ここへ呼んでくれるかな」
「おやすいご用です」
幸がふわっと浮き上がった。
ミーアがぼぉっと口を開けたまま幸を見る。幸がぐいっと空中、何かを掴んで引きずり出した。高間の宮王子の服の裾だ、王子が多々良を振んで立つ。そして嫌そうな顔をして振り返る。幸の姿を捉え、慌てて笑顔を浮かべた。
「これはこれは、幸さん、久しぶりですな」
幸が王子の耳元で囁いた。王子が驚いて振り返る、茨木夜叉を見つけた。
大股で、高ノ宮はうなだれた茨木夜叉の元へ歩く。そして、目の前に立った。
「久しいな。茨木夜叉」
その声に驚き顔を上げた。
「王子」
掠れ声だ。茨木夜叉は呆然と見上げていたが、慌て得居住まいを正すと、兜を外した。
「このような姿をさらしてしまい、王子の名誉に傷を付けてしまいました」
「いや俺は謝らねばならん。国を割るとき、お前は俺についてこなかった。単純に俺は腹を立てた。お前の妻と娘が監禁されていること、気づいてやれなかったのだ。苦しませてしまったな、俺が悪かった、謝る」
茨木夜叉が目を見開き、わなわなと震える。ぐっと頭を下げ叫んだ。
「義を以て王子についていかなかった私の不徳にございます」
王子が笑った。
「妻と子を捨て俺についてくるような奴はいらぬわ」
「金角、銀角」
王子が声を上げた。一陣の風に乗り、二人の鬼が現れた。
「俺の国へ来い。国造りはまだ半ば。お前の手を貸してくれ。代わりにお前の妻と娘は俺が救い出してやろう」
「なんだか、うまく話がまとまりそうじゃない」
聞き耳をたてていた田中が囁いた。いつの間にか、四人が向き合って車座になり、しゃがみ話し込んでいた。
「助けに行くってのはいいんだけど、彼にできるのかな」
男が呟いた。幸がうーんと腕を組む。
「半々かな。第一王子にやられるかもしれない」
「第一王子って強いのかい」
「第一、第二、第三、ドングリの背比べだけれど、兵隊もいっぱいいるし、考えてみれば俺が助けてやるって実力のともあわない無責任な発言だ」
男が少し考える。
「遠見で幸が二人をここに連れてきたらどうだい」
田中が頷いた。
「いいんじゃない、それ。ちゃっちゃと済むわよ」
「でも、お父さん以外の男って、めんどさいからなぁ」
「なんとでもなるわよ。男なんて単純なんだから。あんたの父親も含めてさ」
幸が田中に抗議する。
「お父さんは別です。思慮深くて素敵な人ですよ」
「あんなこと言っているわよ、あんたの娘。相当、いかれているわね」
はなじらむように田中が男に言った。男が照れて笑う。
「なんだか、娘に誉めてもらえるのは父親冥利につきますね」
呆れたと田中が降参降参と白旗を揚げる。
「それじゃあ」
幸が言った。
「私はそそくさと仕事を終えて、お父さんとデートがしたいので、田中案を採用させていただきます」
三人を帰し、高間の宮王子が一人、崖から遠く海を眺める。勢いと調子良さで妻と娘を連れてきてやると言ったものの、これは難題だ。鬼王から見れば自分は逆賊だ。城の地下に牢獄がある、二人が監禁されているのはその牢獄に間違いないだろう。しかし、そもそもだ、城まで辿り着くことができるのか。いま、冷静になって、己の調子良さを高間の宮王子は悔いていた。少し入っていたワインが俺を饒舌にさせたのだと思う。
幸と男が寝ている鬼の女を二人で担いできた。もう一人、少し若い鬼の女を田村と田中が二人で抱えてやってくる、ともに二メートルを超える背の高さだ。二人を高間の宮王子の目の前にに寝かせる。
「後一分で二人は目を覚ます」
幸が見上げて高間の宮王子に言った。
「この二人は茨木夜叉の」
高間の宮王子は二人に見覚えがあった。
「あんたの一番の大事は国をしっかりと作り上げることだ。徒に危険に飛び込むな」
幸が声を上げる。
「思った以上に、民の住みよい国になっている。高間の宮王子、いや、高間の宮王。見直したぞ」
幸がにかっと笑った。
高の宮王子が今までに味わったことのない不思議な感覚におそわれた。見直したぞという幸の言葉にありがたいと感謝したのだ。高間の宮王子はまるで幸の部下になったような気分で膝をつき頭を下げていた。
ほんと、男って単純、田中が心の中で呟いた。
四人とミーアが田中の部屋へと戻った。田中の部屋だけが他の二人の部屋より幾分広かったためだ。
田中は折りたたみの小さなテーブルを真ん中におくとおにぎりと唐揚げの大皿をテーブルいっぱいに置いた。
「お茶もあるからね。好きに食べとくれ」
「いただきます」
幸はおにぎりをとるとほおばった。
「田中さん、美味しいですよ」
「あんたも食べているときだけは素直で可愛いわね」
田村はいま自分がいったいどういう状況にいるのか、冷静になって考えてみようと思う。
幸さんは仕方ないと言って、二人の鬼を空中、何もないところから引っ張り出した。それを田中さんと運んだ、大きいけれど顔はまだ幼い女の子だった。それからだ、折角だから来なさいよってことで、ミーア君と四人でここにいる。落差というか、なんか、足下がふわっとした感じで、なんで、私、ここにいるんだろう。
「久しぶり、田村さん。随分、しっかりしたね。顔つきも別人だ」
幸が優しく言った。男の前では幸は随分と優しく振る舞う。
「あの、本当にありがとうございます」
言葉が思いつかず、田村はただ礼を言った。
「マスター、あのね」
ミーアが田村の肩に載った。
「ボク、戦ったよ」
幸がすっとミーアを見つめ、俯いた。
「あと、二回か」
小さく幸が呟く。
男が田村に言った。
「君がミーアをしっかり抱いて、鬼に命乞いをしたのは、この子を戦わせないためだったんだね」
男の言葉に、ええっとミーアが振り向いた。
「ボク、あの鬼にも勝つよ、自信あるよ」
「わかってないわね。この小動物は」
田中が一つ唐揚げを食べて言った。
「あんた、三回、戦ったら消えちゃうんでしょう。そしたら、あんた、この子と会えなくなるのよ。四回目はこの子、殺されるわよ」
しばらくの間、ぼぉっと口を開けたままミーアが固まっていた。初めてことの重大さに気づいたのだ。
「た、大変だよ。うわーん、小百合、どうしよう」
ミーアが部屋中を駆け回った。
田村は腹を決め、幸に向き直って、両手をついた。
「幸さん。単刀直入に申し上げます。ミーアは三回戦えば消えるという約束をなしにしてください」
頭を下げ、そして、両手をついたまま、顔を上げ、幸を見つめた。戸惑いのない、しっかりとした眼差しだ。幸は、自信のなさそうだった田村が随分変わったと思う、旅の中でたくさん考えたのだろうと思う。ミーアをこのままにしたら、田村はどうするだろうと考える。ミーアを戦わせないために逃げ続けるだろう。逃げ続けることに疲れればどうするか。鬼の側につくか、それはないだろう、ならば、自死するか。
「足を崩しなさい。私はそうしてくれる方が喋りやすい」
幸の言葉に田村が足を崩した。
「人の寿命は五十年、百年と年数で表す。ミーアの寿命は一回、二回と回数で表す。三回という制限を無くすと云うことは寿命を延ばすということです。それは不可能じゃない。でも、贄が必要なんです」
幸が田村に左手を差し出した。
「人の指にはそれぞれ意味がある。左手の小指は指切りの指、約束の指です。私はこの指を噛み千切ることで、ある女性の寿命を延ばしました」
田村が幸の左小指が付け根からないのをじっと見つめる。そして、うつむき自分の左小指をじっと見つめる。そして、顔を上げた。
「私の左小指を噛み千切り、その指を幸さんに渡したら、ミーアの寿命を延ばしてくれますでしょうか」
幸が微かに頷いた。
「承知しました」
田村は正座をすると大きく深呼吸した。
「だ、だめだよ、小百合。痛いよ、そんなのだめだよ」
驚いてミーアが叫んだ。
田村が左の小指を伸ばし、思いっきり噛む。
恐ろしさが、痛みに加えて、考えたこともなかった一線を越えてしまう不安に震え涙がでる。
ミーアが頭を抱えるようにうずくまる。
幸がミーアに言った。
「ミーア、顔を上げなさい。田村さんの願いを全身で受け止めなさい」
田村の口の端から血が溢れ出る。田村がぐっと俯く。顎に力を入れた。そして、口を開ける、ぽろっと田村の左小指が畳の上に落ちた。素早く、幸は左小指を摘まみ、もう片方の手でミーアを掴む。指を摘まんだ幸の手がミーアの体にとけ込んだ。
男が田村の左手首を掴む、吹き出した血が止まった。田中が走り寄り、田村の左手の上で、両手、指編みをするように指を繊細に動かす。傷を皮膚が覆っていき、傷を完全に閉ざした。男は田村の手を離すとほっと息を吐いた。田中もぺたんと座り込んで言った。
「あたしの後継者に傷がついちゃったじゃない」
幸の膝に載っていたミーアが飛び跳ね、田村の膝にしがみついた。
「田中さん。生え抜きの部下が何人もいるんだろう。反発されるぞ」
幸が笑った。
「この子は先頭を歩くことのできる子よ。こんな子、滅多にいないわ」
田村が何度も深く息をし、少し落ち着いたのか、ミーアを抱きしめ、幸に言った。
「幸さん。ありがとうございます」
「どういたしまして」
幸が答えた。
「小百合、ごめんね、ごめんね」
ミーアが田村の顔をじっと見つめた。
「ミーア君が謝る必要はないよ。だって、私は、いま、ほっとしているんだもの」
男はバケツと雑巾を炊事場から取ってくると、畳に落ちた血を拭う。
「綺麗にして置かないと追加料金だ。ま、払うのは田中さんだけどね」
幸はくすぐったそうに笑うと、炊事場へ向かった。慌てて田村は立ち上がりかけたが、急に男に向き直ると、膝をつき頭を下げた。
「助けていただきありがとうございます」
そして、田中にも向き直り頭を下げた。
「ま。無事に済んで良かったわ。おっさんから、温泉地に療養に行きませんかって連絡をもらったときは、どうせ、何か企んでいるんだろうくらいは思ったけど、面白かったわよ」
「田中さん、盛大に黒服、蹴っ飛ばしましたね」
「首おれる手前くらいには加減したわよ。私は人を殺さないから」
鼻息荒く田中が答えた。
「田村さん。ま、足を崩してください」
男がゆっくり話し出した。
「幸がミーアの寿命を三回とした。これを知ったなよが怒ってね、確か、田村さんも一度あったことがあるだろう、ちょっと、言葉遣いの古風な娘」
田村がなよの存在感を思い出し、頷いた。
「三回護るということは四回目は護らないということだ。言い換えれば、四回目にそれは幸、お前が田村を殺すと言うことだ。ってね、かんかんに怒った。胸元掴んで怒鳴ったんだ。私がまあまあって間に入ろうとしたら、邪魔じゃってさ、片腕で振り飛ばされた、びっくりしたなぁ」
「大変だったんだよ」
いつの間にか、幸が男の横に座っていた。
「あんなにまっすぐ怒濤のように叱られたの初めてだよ。ただね」
幸が溜息をついた。
「幸の何処かで叱ってくれる姉さんがいてくれて嬉しいって気持ちもあったんだ。多分、なよ姉さんが泣いているのが見えたからだと思う」
「あの、かぐやのなよ竹の姫が怒って無事生きているだけでも幸いだね」
田中が頷く。
「黒はわんわん泣くし、白と三毛はうずくまってしまうし、智里と夕子は右往左往、あさぎ姉さんとかぬかは店に逃げ込む、修羅場だよ」
幸は大きく溜息をつくと、足を崩して座る。
田中が目を見開いた。
「よく無事に済んだもんだ」
幸は頷くと小さく呟いた。
「小夜乃だ」
男が頷く。
幸が続けた。
「まるで、救世主が降臨した、そんな気分だったよ。ばっと、なよ姉さんと幸の間に入って、ぎゅっと小夜乃がなよ姉さんを睨んだんだ。そして、なよ母様、お待ちくださいって言ったんだ」
田中が興味深そうに頷いた。
「それからどうなったんだい」
「ばっと両手を広げて言ってくれたんだ。なるほど、最初は幸母様のなさったことをなよ母様はお叱りでした。でも、途中から、過去のなよ母様ご自身へのお怒りだったのではありませんか。ならば、幸母様にきつくおっしゃるのは違うのではないでしょうか」
男が言葉を繋いだ。
「なよは唖然として、座り込んでしまってね、その通りと頷いたんだ」
男はその様子を思い出したのか、ほっと安堵の溜息をついた。
「それでさ」
男は田村に笑いかけた。
「あたふた、田村さん捜して、そうしたら、国が君を暗殺させるために鬼を使役しようとするのを気づいて、昨晩、この温泉宿にやってきたわけだ。田中さんを誘ったのは、君のこれからの助けになるって思ってね」
田中がどんと胸を叩いた。
「任せておきなさい。私の得意分野よ」
「田中さんが田村さんを随分と気に入ってしまったのは予想外だったけどね。なんか、あれだな、君が田中さんに洗脳されて、あなたは神を信じますか、なんて語りだしたら、君のご両親に申し訳が立たない」
そっと、男が目頭に指をやる。
「なに、泣き真似しているのよ。私にとって神はどうでもいいの。ようは聖書が大事なのよ」
「同じことじゃないんですか」
「違う、違う。まったく違うわ。今度、あんたの喫茶店にレクチャーに行ってあげるわよ」
幸が笑った。
「あさぎ姉さんのケーキを用意してまっています。田村さんもおいで。ミーアも一緒においで」
やっと、ミーアは顔を向けた。
「マスターんち、行ってもいいの」
幸が頷いた。ミーアがやったぁと飛び跳ねる。
「なよ姉さんも喜ぶぞ」
はっと気づき、ミーアが田村の膝にしがみついた。
「食べられちゃうよぉ」
「大丈夫だよ。ちゃんと、ミーアを食べないように、なよ姉さんに言っておく」
「あの、できれば」
ミーアがおずおずと上目遣いに言った。
「小夜乃さまの方がいいかも」
幸がにかっと笑った。
「つまりは、マスターである幸よりも、小夜乃が信頼できるってことだ」
幸の笑っていない眼差しにミーアが怯える、いきなり、幸が男にしがみついた。
「ミーアがひどいよ、お父さん。幸が役立たずって言うんだよ」
「あ、あの」
ミーアが硬直する。
男が幸に囁く。
「しょうがないよ。幸も父さんもなよには敵わないんだから」
「お父さん、幸は哀しいですよ」
幸が男の胸に顔を押しつける、ちらっとミーアを見る。
「あ、あの、どうしよ」
ミーアがおどおどと言う、田村はそっとミーアに顔を寄せ囁いた。
「自分が悪いことをしたと思えば謝る、していないと思えば謝らない。ミーア君はどっちかな」
ミーアは幸に走り寄った。
「マスター、ごめんなさい」
幸が顔を上げ、不思議そうにミーアを眺めた。
「あの。どちら様でしょうか」
「ミーアだよ。ボク、ミーアです」
「えっと。三田さん」
「違うよ、ミーアです。マスター、ごめんなさい。感謝も忘れて、ないがしろにしたこと、ごめんなさい」
幸は男から両手を放し、座り直して言った。
「ま、いいよ。ミーアの選択は適切だ。ただ、ミーアは思ったことをすぐに口に出す、その辺、黒に似ているな」
幸がにぃっと笑った。
不意にいいことを思いついたと田中が笑顔で手を叩いた。
「そうだ、幸ちゃん。一ヶ月くらいじっくりとね、小百合ちゃんに色々教えてあげればいいと思うのよ」
いきなり、ちゃん付けかと呆れたが、おくびも出さずに幸が答えた。
「色々って言っても、幸はたいして教えることなんてありませんよ。畑作業のやり方くらいかな」
「さっきの、鬼娘を何もないところから出したやつ、あれ、教えてあげたら」
にこにこと、田中が笑顔を浮かべる、笑顔の恫喝だなと思う。
「あれは、技術とともに体質が重要なので幸にしかできません」
ふっと、幸が田村を見つめた。田村が居住まいをただした。
「田村さん。あなたは今後も狙われるだろうと思う。こんなミーアだが」
人差し指でミーアの頭を軽くはじく。
「かなり強い。ただ、それじゃ、どんな奴と戦っても勝てるかというとそうじゃないし、戦うほどにミーアの体が疲弊していく。できるだけ、うまく逃げるというのが一番だ。およそ、一ヶ月、田村さんに逃げ足と気配の読みを教えてもいいと思っている。田村さん自身はどう思う」
田村は両手を膝の前につくと、頭を下げた。
「私はミーアと暮らすこの日々がとても楽しい、ですから、それを作ってくださった幸さんに感謝しています。見ず知らずの私にこれほどのことをしていただいて、また、それ以上に授けていただくのは釣り合いがとれません。ただ」
田村が顔を上げた。
「いま、ミーアは私の全てとなっております。もしも、ミーアの負担を軽くすることができるのだとするなら、伏して教えていただけますようお願いいたします」
田村が頭を下げた。
田中が息を飲んだ。幸がそっと男を見つめる、男が小さく頷いた。
「田村さん、これからうちへ来てください」
「ありがとうございます」
田村の返事に田中がにかにか笑った。
「これで一安心ね」
「なんだか、田中さんが一番喜んでいらっしゃるようですけど」
「だってね。幸ちゃんの術を身につけた子があたしの教会にくるんだもの。一気に戦力向上よ」
「内心を隠そうとしない田中さんの度量には頭が下がりますよ」
笑顔のまま、幸は嫌みを言ったが、ふっと背を向け外の道路の方へ視線を向けた、もちろん、壁で外が見えない。
「もうすぐ、車の音が聞こえてきますよ」
「早いわね」
田中が嫌そうに呟いた。
やがて何台もの黒塗りの高級車が連なるように来、温泉宿の前の道を占拠した。
こんこんとドアを叩く音。
「今日は留守ですよ。誰も居ません」
田中がドアに向かって言い放つ。かまわずドアがカチャリと細めに開き、瞬間、誰もいないドアが勢いよく開いた。じわりと、一人の若いシスターが顔を出す。
「理事長、勝手にお出かけになられては困ります。実務が滞ります」
幸は笑うと気楽に手招いた。
「聴く読みさんもおいで」
シスターの顔が緊張した。
「何処かでお会いしましたっけ」
いつの間にか、幸はシスターの背後から囁いた。
「初対面。でも、私も聴く読みさん同様、初対面の人と会うときは、記憶を読んでから挨拶することにしている」
恐怖にシスターが固まった。
不意に良いことを思いついたと田中が両手を叩いた。
「幸ちゃん、お願い。小百合ちゃんと一緒にこの子にも教えてやってくれる」
「じゃまくさいから嫌です」
あっさりと幸が答えた。
「もう、そんなこと言わないでよ、ね。ねっ」
不満そうに睨む幸に、田中は立ち上がるとすたすたと近寄る。シスターに言った。
「聴く読み、あなたはこの幸ちゃんにいろんな術をめいいっぱい教わること。いいわね」
シスターの返答を待とうともせず、田中はすり抜け、幸の手を両手でぎゅっと握った。
「幸ちゃん、ありがとう。可愛い子ね、感謝しているわよ。聴く読みをよろしくね」
田中が部屋を出ると、何人ものシスターが整列していた。ばたっとドアが閉まり、シスター一人を残して帰って行く。
「らしいなぁ」
幸は呟くとシスターの手を引き、男の横に戻った。
「どうするつもりだい、幸」
男が気楽に笑った。
「聴く読みさんは面白い能力を持っている、経歴も興味深い、ま、いいんじゃないかなって。田中さんの希望に添うという一点でむかつくけれ
ど」
幸は聴く読みを見る、かなり緊張しているようだ。
「聴く読みさん、私は一ヶ月、うちに住み込んでもらって、色々、教えようと思っているんだけど、かまわないかな」
田中理事長の命令である以上、聴く読みに選択の余地はなかった。
「よろしくお願いします」
汗をかきながら言う。
幸は頷くと、さてと、唐揚げとおにぎりの山を見た。
「聴く読みさん、食べてくれないか」
「私はあの、緊張しています。喉に通りません」
「それじゃ、田村さんはどう」
「私もなにか食べようという気分じゃなくて。ごめんなさい」
幸がどうしようと男を見つめた。
「それじゃ、黒を呼んでくれるかい」
「お父さん、それ賛成です」
幸が立ち上がり、ぐっと下に手を伸ばす、その手が消えた。
「幸。ジャージ、引っ張ると怒られるぞ。ちゃんと抱えるようにね」
幸の両腕が消え、体が少し浮き上がる、黒が幸に背中から両脇を抱えられ、浮かび上がった。
「幸母さんってば、もう。黒の人権を尊重してください。お煎餅を食べようとしてたのに」
男が愉快に笑った。
「ごめん。父さんが幸に黒を呼びだしてくれって頼んだんだ」
黒は着地すると男に笑いかけた。
「そうなの。お父さん、何食べる」
「早速、食べる話か」
幸が呆れた。
「黒。足下の唐揚げとおにぎりを食べて欲しいんだけど、いいかな」
黒はそそくさと男と幸の間に座ると、いただきますと元気に言う。はじめて、黒は田村とシスターがいるのに気がついた。
「田村さん、ミーア、久しぶり」
「黒さん。お久しぶりです」
田村が居住まいを正した。
「黒。元気してた」
ミーアが元気に声を掛けた。
「黒はいつも元気だよ。ミーアも元気にしてた」
ミーアは田村の肩で飛び跳ねた。
「元気、元気。とっても元気だよ」
「田村さんも見違えたよ。筋肉、ついてる」
田村が少し恥ずかしそうに笑った。
シスターの聴く読みが緊張した。いきなり現れた黒って女の子。間違いなく年下なのに、かっこいい。そういう趣味はないけれど、ちょっとぼぉっとしてしまう。
「こんにちは。シスターさん」
「はっ。はひいっ」
ひゃあ、恥ずかしい。聴く読みの声がうわずった。
男が黒に説明した。
「安達さん。でも、聴く読みさんって皆から呼ばれているんだよ。黒も行ったことがあるだろう、マリーアイリス倉敷教会、そこのシスターだ」
黒がにかっと笑った。
「田中さん、とても良い人だよ。チョコのバウンドケーキ、いっぱい食べさせてくれたよ」
「なんだ、黒はケーキくれたら良い人なのかい」
黒が恥ずかしそうに笑った。
そして、ジャージ上着を開く。左脇にナイフ用のホルダー、それの箸箱に箸と匙が入っている。自然な動作で箸を取り出すと、唐揚げを食べる。ふんふんと鼻歌が自然に口からこぼれる。
「生姜が利いていてとっても美味しい」
不意に聴く読みのお腹が鳴った。理事長の足取りを追って、朝早くから車を走らせていたのだった。何も食べてなかったのを思い出す。
黒は大きめの唐揚げを聴く読みに差し出した。
「はい、あーんして」
「え、や、あの」
聴く読みがまっかな顔をして戸惑った。男が言った。
「聴く読みさん。元気な人はしっかり三食たべた方がいいよ。田中さん失踪で大変だったんだろう」
男が田中の様子を思い出して笑った。
思い切って頬張る。唐揚げの美味しさもそうだけれど、心臓がどくどく鳴っているのが自分でもわかる。そういえばと思い出す、宝塚歌劇に夢中になる友人を意味わからないと思っていたけど、なんか、今ならわかる。
ふと、男が幸に言った。
「折角の湯治場だ。帰る前にみんなで温泉に入ってから帰ればいいよ」
「幸はお父さんと一緒に男湯に入る」
「いやいや、勘弁してくれ」
男が笑った。
聴く読みが無意識の内におにぎりを取り頬張った。
みんなで温泉、これって私も入っているのか。お風呂の中で黒さんと、だ、だめだ、シスターとして、いや、一人の人間としてそれはだめだ。いつもの冷静さを取り戻せ
男がそっと呟いた。
「聴く読みさんって面白い人だね」
幸も笑うと、そっと頷いた。