遥の花 五話

ふぅっっ、深呼吸をする。
笑顔、笑顔、口元、そう、頬の上辺りを引き上げるようにして、そうすれば極上の笑みになる。
さぁ、行くぞ。
商店街の入り口、幸はぐっと握り拳を作ると商店街の中へと向かった。

「ええっ、スーパーの方が良いよ、買いやすいもの」
「だめ、幸はね、一人ででも色んな人と会ってお喋りしたり、自分の意志を伝えたり、そういう訓練しなきゃね、いつまでも、お父さんの後に隠れて買い物するわけにもいかないでしょう」
「でも、商店街っていちいち声を掛けなきゃならないし、スーパーなら何も喋らずに買い物ができるし」
「つまりはお喋りしなさいってこと、いいね」

男に言い含められ、幸は初めて一人で買い物にでかけたのだった。
幸はポケットからメモを取り出すと、じっと見つめた。
魚屋さん、八百屋さん、服屋さんに寄って、帰りがけに、たこ焼きを買って帰る、以上だ。大丈夫、なんてことない、よし


男は落ち着かず部屋の中をうろうろとしていた。一人で買い物を行かせたのはいいが、時間が経つほどに気掛かりなっていくのだ。うずくまってしまっていないか、いや、逆に何かしでかしていないか。
幸は内弁慶なところがあり、外へ買い物に行くと少し俯いて男の上着の裾を千切れるかと握り締める、よほど緊張しているのだろう。それを思い出すほどに男は不安になるのだ。
男は溜息を大きく一つつくと電話に向かった。


「ひやぁ・・・、お父さん、ごめんなさい、幸にはまだ無理ですよぉ・・・」
幸は魚屋の前でしゃがみこんでしまった。
人通りの中、いらしゃい、いらしゃいという亭主の大声、店の前で品定めをする女達、げらげらと大きな笑い声。
店女の二つなら負けとくよ、というかん高い声が響き渡った。
「ごめんなさい。これは上級者用です、幸は落第でいいです。人が声を張り上げていて恐いです、入っていけません」
狭い通路をたくさんの買い物客たちが通り過ぎる。店の人達もそんな客たちを引き留めようと大声を張り上げる。

「幸ちゃん、幸ちゃんだろう」
幸が自分を呼ぶ声に顔をあげると、先程の店の女がにかっと笑って幸の前に立っていた。
「うひゃあ、美人さんだねぇ。いま、センセイから電話があったよ、娘は買い物に来たでしょうかってね」
「お父さんが」
女は笑顔を浮かべ頷いた。
「さあ、そんなとこでしゃがんでないで立ちな」
幸がよろよろと立ち上がると、女はぱんっと幸のお尻をたたく。
「しっかりしなよ」
「は、はい」
「何年も病院に入院していてさ、やっとこさ、家に帰れたんだ、これからはその分を取りもどさなきゃね」
「そ、そうですよね」
お父さん、そういう設定は始めに幸に言ってくれよと思いながらも、なんだかほっとしたのだろう、幸は安心して笑みを浮かべた。

女は幸を店の前まで連れて来た。
「何がいるんだい」
「あの、えっと・・・」
「おおっ、何処のお嬢さんだい」
店主が気づき、女に声をかけた。
「税理士のセンセイとこのさ、お嬢さんだよ」
「ほぉー、女優さんみたいだ。センセイにこんな別嬪の娘さんがいたとはなぁ。こりゃ、センセイも心配だ。俺だったら、絶対に一人で買い物になんぞやんねぇ、虫がついたら大変だ、一日中見張ってるぞ」
「いらないこと言ってないで、ほら、お客さん、待っているじやないか」
女は店主を向こうに押しやると、幸に笑いかけた。
「だめな亭主でさ」
幸も笑顔を浮かべ、メモを取り出した。
「あの、お姉さん、鮭の切り身を、ください」
「え、お姉さんか、うん、そりゃお姉さんだ」
「なら、俺はお兄さんだな」
「何言ってんだよ、おっさんが。女同士の話に入って来るんじゃないよ」
女は店主を蹴り飛ばすと、幸に言った。
「悪いねぇ、男ってのはどうしようもないよ。そうだ、メモ、貸してごらんな」
「は、はい」
「シメジにタマネギ、モヤシ、これなら、鮭の包み焼きかい」
「はい、そうです。お父さん、好きだから・・・」
女はふっと涙目になり、前掛けで鼻をかんだ。
「かー、うちのガキどもにも聞かせてやりたいね。これからも親孝行してやりなよ」
女は手早く鮭の切り身を包むと幸に手渡した。
「新鮮だ、美味しいよ」
「あの、おいくら」
「いいさ、持って帰りな」
「でも」
「なんかもう、あれなんだよ。これからもさ、女同士じゃないと相談できないことはあたしに言いな、相談に乗るよ、まかしときな」
「お姉さん、ありがとう。でも、私、少しずつでも社会復帰して、お父さんに安心して欲しい、だから、お父さんにも、ちゃんとお金、払って来たよって言いたいから」
女は幸をがしっと抱き締めた。
「良い娘だよ、なんて出来た子だい。それじゃ、五百円だけもらっておくよ」
女は手を放すと、涙交じりに言った。
付いてやってやりたいけど、忙しい時間でね、と断りを言う女に頭を下げ、幸はその先にある八百屋へ向かった。

野菜って結構多いな、二人暮らしには。
幸は五個入りのタマネギの袋を見ながら考えた。
でも、日持ちするなら、次の日の料理に使えばいいし、それなら。
幸は先程のやり取りで少しは買い物に慣れたのか、落ち着いて考えていた。
「あんたがセンセイんとこの娘さんかい」
「は、はい」
店番をしていたおばあさんが幸に話しかけて来た。
「いま、魚弦の佳奈ちゃんから電話があってね。センセイのお嬢さんが来るから声をかけてやってくれってさ」
「あ、ありがとうございます」
「あんたは生まれてからずっと入院していたのかい」
「は、はい」
「大変だったねぇ、ちょいと、手を出してごらん」
「えっ」
「手相見が趣味なのさ、見せてごらんな」
幸がそっと手を伸ばすと、おばあさんが拡大鏡を片手に幸の手相を見た。しかし、首を振り、どうも見当が付かないといったふうに顔をしかめる。
「ん・・・。ごめんよ、どう読んだもんか分からないねぇ、こんなこたぁ初めてだ。過去が見えてこない」
「私の過去、秘密ですから」
幸は笑うと、そっとおばあさんを抱き締め、その耳元で囁いた。
偽者は好きに占えば良い、でも、あんたみたいな本物はだめだ。うっかりすりゃ、相手の魂を傷物にしてしまう、気をつけなよ、な。
幸は姿勢を戻し、タマネギとしめじとモヤシを取ると、硬直したままのおばあさんに声をかけた。
「これ、くださいな」


少し脅し過ぎてしまったろうかと、幸は反省しつつ、洋服店へ向かった。
通路ぎりぎりまで女物のブラウスなどが吊り下げられている。年齢層の高い品揃えだ。
幸はそっと覗き込むと女がいた、電話をしている言葉から店主だろうとわかる。電話が終わったのを見計らい、声をかけた。
「あ、あの・・・」
「いらっしゃい」
「あの、取り寄せてもらっていた・・・」
「電話あったよ、センセイとこのお嬢さんだね。この前、来てくれた時はセンセイの後ろにへばり付いて顔が見えなかったけど、今日は一人だ」
にかっと笑う、店主の口の悪さを思い出した。でも、裏がない快活な話し方で、却って好感を持つことが出来る。
「一人で行ってきなさいって・・・」
「センセイも大変だ、今頃、心配して、いてもたってもいられないだろうさ」
幸がくすぐったそうに笑うのを見て、店主が満足そうに頷いた。
「お入りな、お茶をしよう。この時間、うちは暇でね」
店の奥にある三畳程の小さな部屋、ちょっとした食器棚と小さな丸いテーブルと古びたラジオがあり、衣類など、商品は置いていない。
店主は幸をテーブルに座らせ、インスタントコーヒーの瓶を出す。手慣れた手つきで珈琲を二つ用意すると、一つを幸の前に置いた。
「砂糖とクリームは適当にね」
「はい」
幸は少しクリームを入れ、一口飲む。
「美味くもなんともないだろう」
「あの、いいえ」
「まずいなぁ、って思いながら、癖だね、あたしも飲んでいるのさ」
店主は幸の前に座ると興味深そうに幸を見つめた。
「名前はなんて言うんだい」
「幸、幸です。幸福の、幸という字です」
「親の愛情の詰まった名前だねぇ」
店主は笑うと、一口、珈琲を啜る。
「あのセンセイ、あれでロマンティストだからさぁ。でも、なんていうんだい、センセイも随分変わった、丸くなったよ。幸ちゃんのおかげさ」
「お父さん、以前は」
「あぁ、そうか。何年も入院していたわけだし、そうだねぇ。うちはセンセイに帳簿お願いしているわけだけどね、正確できっちりした仕事をしてくれているんだけど、愛想がなかった、ほんと。えらそうにしているんじゃない。ただ、本当に愛想の「あ」の字もなかったのが、この前の二人で来てくれたときさ、少年みたいな真っ赤な顔して照れ臭そうに、娘の下着や服を一式揃えていただけませんか、ってもう、あたしゃ、吹き出して笑いそうになるの、こらえるの大変だったよ。ほんと、幸ちゃん、大切にされているんだねぇ」
幸は恥ずかしそうに笑みを浮かべると俯いてしまった。
「やっと帰ってこれたんだ、幸ちゃんもこれから親孝行しなよ」
「はい、私もお父さんが好きだから」
幸がそっと珈琲カップを両手で包み込む。
「いいねぇ、うちの娘や息子も幸ちゃんみたいに素直だったらね、いいんだけどさ。うん・・・」
「幸ちゃんは水仕事もしているのかい、洗濯とかさ」
「お父さんと交替でしています。本当は私の仕事だけど」
「うーん、手が少し荒れているじゃないか、寝る前にハンドクリームとか付けないのかい」
「え・・・」
「あぁ、男親一人じゃしょうがないねぇ」
店主は戸棚を開け、ハンドクリームを一つ取り出した。
「まだ、使っていないからさ、あげるよ」
「あ、でも」
「こんな別嬪さんなのに手荒れなんてもったいないよ。寝る前にね、クリーム、ちょっと取って、まんべんなく手に擦り込んで、そしたら手荒れしないですむよ」
「あ、ありがとうございます」
「いいよ、なんでも相談にきな、金のこと以外なら、話聴いてやるよ」
店主は笑うと珈琲を飲み干した。
「なんか、甘い物なかったかねぇ」
「私、そろそろ。お父さん、心配してそうだし」
「あ、そうだね、それじゃ、あの紙袋に下着や靴下、普段着みたいなもの入ってるからね、袋、二重にしておいたから破れないだろう」
「ありがとうございます」
「いいよ、今回はあたしの見繕いだけど、幸ちゃんも、この生活に慣れたら、自分の好きなもの選ぶと良いよ」
幸は笑みを浮かべると、会釈をし、店を出た。

「ちょ、ちょいと」
声を掛けられ、幸が振り返ると、八百屋のおばあさんが幸を手まねいていた。
「さっきはごめんなさい」
にっと幸が笑う。
「あ、あんた・・・」
幸に駆け寄り、おばあさんが言った。
「あんた、神様かい」
「私に手を合わせていただいても、何の御利益もありませんよ」
幸は笑みを浮かべ離れる、後ろでおばあさんがありがたいありがたいと手を合わせていた。

幸は魚屋の佳奈を見つけると、たたっと駆け寄った。佳奈もパイプ椅子に座り、一息ついたところだった。
「やぁ、どうだった」
佳奈は幸を見つけると笑い掛けた。
「ありがとうございます、電話していただいて。皆さんに優しくしていただきました」
「そりゃ良かった」
幸は座る佳奈の前に立つと、そっと佳奈の手を取って笑顔を浮かべた。
そして顔を寄せ、耳元に囁く。
佳奈さん、悩まなくてもいいよ。人の考えてることが、自分のと同じようにわかるんだろう
びくんと加奈が震えた。
父さんは電話で娘がと言った、あたしの名前言ってなかったろう。幸という名前は、あたしが表に置いている記憶が見えてしまったからだろう。ねぇ、あたしの心、奥底まで見えるかい、見えないだろう、お父さん以外には見せないと決めているからさ、似たもの同士、きっと、あたし達、良い友達になること、できるよ
幸が佳奈から顔を離す、佳奈はぎゅっと幸の手を握った。
「寂しかった」
佳奈が掠れる声で囁いた。
「今はどう」
幸が囁いた。
「心の底から元気が出ている、一人じゃないのは嬉しいもんだね」
「私もずっと一人だった、でも、お父さんと出会えて、今はとっても幸せ、幸せすぎるくらいです。それに、今日は佳奈さんにも出会うことが出来た、とっても嬉しい」
はははっと佳奈は快活に笑うと、いつものように元気を取り戻した。
「いつでも遊びにおいで。わるがき、二人いるけどね」
幸はにっと満遍の笑みを浮かべた。
「それじゃ、お父さん、家で心配しているから帰ります」
「いや、あれ・・・」
佳奈の指さす商店街の入り口辺りを男が行きつ戻りつしていた。
「お父さんだ」
「気づかれていないと思ってるんだろうねぇ」
「お父さん、可愛いなぁ」
「え、あれがかい」
幸はもちろんと頷くと、男へと掛けて行った。


男はここまで来たことを悔いていた。
大丈夫だ、佳奈さんは姐御肌で面白い能力も持っているから幸のこと、気遣ってくれるだろう、こんなところで幸に見つかったら、親としての威厳というか、なんというか。とにかく、家に戻って、平気な顔をしていないと。

幸がいきなり男を後ろから抱き締めた。
「不審者発見、不審者発見、至急、応援請う」
「あ、幸」
「あはは、お父さん、どうしたの、こんなところで、動物園の熊さんみたいに、うろうろしてた」
「いや、ちょっと買い物に」
「本当のこと、言いなさい」
「ん・・・、幸が心配でじっとしていられなかった」
「よく正直に言った、解放してあげよう」
幸は男の前に立つと、にっと笑った、
「メモの通り買ったよ、タコ焼きは買うのやめたけど」
「え、どうして」
「ほら、お父さん、見てごらんよ。たくさんの人が歩いている」
「まだ、そうだな。人どおりが多い」
「こんな中で一時間、生き別れになっていた親子がやっと出会えたんだよ、途中の喫茶店で巡り会えたこと、ケーキで祝福するのもありだよ、そして、心くばりの出来る幸は喫茶店に匂いの強いタコ焼きを持って入るのは悪いかなと思うのですよ、お父様」
「なんだか、しっかりしたなぁ」
「えへへ・・・。照れますぅ」
「もう一人で買い物も大丈夫か」
「それはだめ、幸はお父さんと離れると悪い女の子になってしまう、幸はお父さんと一緒じゃないとね、素敵な女の子でいられないのさ」
「なんかそれ、いろいろ、しでかしたのではと気になるけれど、まぁ、そうだな、立ち話より喫茶店で聞けばいいか」
男は溜息混じりに幸から荷物を受け取る。幸は当たり前のように、男の腕に自分の腕をからめた。
「楽しかったよ、お父さん」