遥の花 あさまだきの靄 五話

遥の花 あさまだきの靄 五話

「やぁ、久しぶりだな」
 現れたのは元の上司中村だ。田村は緊張して、手をぐっと握りしめた。
オープンテラスの喫茶店。テーブル向かいの席に中村が座った。昼下がりの賑やかな通りに面している。人混みに紛れて逃げ出したいと思ったが、緊張で腰を浮かすことも出来なかったのだ。
「お、お久しぶりです」
「みんな、真面目に働いているか」
「は、はい」
部署では突然中村が居なくなったことに、一時、話題に上がったが、すぐに次の上司がやってきて、日常の業務に戻ってしまった。
「なんだよ、つれないな。人攫いの仕事を一緒にした仲じゃないか」
にいぃと中村が笑った。
「なるほど、田村さんはまだあの仕事をしているってわけか。なかなか、酷い奴だな、おっと、これはほめ言葉だよ」
「小百合を泣かしちゃだめ」
いきなり、ミーアは田村の体から飛び出すと、テーブルの上に仁王立ちに立った。
「な、なんだ、こいつは」
「小百合を泣かしちゃだめなんだから」
ミーアが小さな両手を懸命に振って叫んだ。
「可愛いじゃないか、これ、田村さんの使い魔か」
中村の言葉にミーアが胸を張った。
「ボクは小百合を護るナイトなんだ。小百合をいじめる奴は許さないんだから」
「すげぇ。中村さん、くれよ、この子。なんなら、あたしの蝙蝠と交換しようぜ」
「だ、だめです」
慌てて、田村が叫んだ。
つぶらな瞳でミーアが中村を睨んだ。
「小百合。ボクの活躍を見ていてね」
ミーアはテーブルを走ると、中村のお腹辺りだ、ぽこぽこと両手で叩く。
「これって、あたしを攻撃しているってことだよなぁ。なんなんだよ、この可愛い物体は」
ミーアが息を切らし、中村を見上げた、涙目だ。
「なんだよ、睨むなよ。降参、降参。負けたよ」
ぶわっとミーアは笑顔になると、ぱたぱたと小百合の元へ戻ってく。
「小百合、小百合。ボク、頑張ったよ」
にこっと笑うミーアについ田村も笑顔になる。
「助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
ミーアが胸を張った。
「こいつ、可愛すぎるぞ」
中村が溜息をつく。中村の言葉にミーアが振り向いた。
「可愛いなんて、言わないで。ボクはナイト、小百合を護る騎士なんだから」
はっと、ミーアが声を上げた。
「大変だ。あと、二回しか、小百合を守れない」
「どういうことだ」
中村が声を掛けた。
「ボクは小百合を三回助けた後、消えちゃうんだ。マスターがそう決めたんだよ」
中村が目をむいた。
「なんで、そんなひどいことになってんだよ」
「だって、それがボクが存在する理由だもの」
当たり前のことに何故怒るんだろうとミーアが中村を不思議そうに眺めた。
「だから、だからな」
うまく言えずに中村が口ごもった。
「とにかく、あたしがなんとかしてやる、そのマスターとやらに掛け合ってやる」
「いやいや、あーちゃんじゃ無理だよ。殺されちゃうぞ」
あかねが中村の隣の椅子に座っていた。
驚いて中村があかねを睨んだ。
「なんで、あかねがいるんだ」
にぃぃとあかねが笑った。
「久しぶりなのに、あーちゃんは冷たいなぁ」
色々ありすぎて、混乱していた田村がやっと声を出した。
「あの、えっと、あなたは」
「私はあーちゃんの友達」
「えっと、中村課長があーちゃん、ですか」
なるほどと、あかねが理解した。
「そうか、組織では、あーちゃん、本名を名乗っていなかったんだ。魔女って、どうしてだが、本名や生年月日を知られるのが嫌みたいで」
あかねがこつんと中村の頭を軽く小突く。
「そんなことじゃ、友達できないぞ」
中村が歯ぎしりをして、あかねを睨む。
あかねは興味深そうにミーアを見つめ言った。
「ミーア君。私は君のマスターの妹、あかね。よろしくね」
「え。そうなの、初めまして、あかね。そうだ、マスター元気してる」
「元気だよ、今頃、お煎餅食べてんじゃないかな」

ぱたぱたとミーアは田村の元に戻り見上げた。
「小百合、あかねちゃんはマスターの妹で、ボク、思い出した。あかねちゃんは大富豪のお嬢様なんだって、マスター言ってた」
田村は戸惑いながらもあかねに笑みを浮かべた。
「あの、初めまして。えっと、ごめんなさい、私、何をどう言えばいいか混乱していて」
「どういたしまして。ミーアがいて田村さんは愉しいですか」
「それはとっても」
田村が少し腰を浮かしていった。
「本当に可愛くて愉しくって」
あかねは引き込むように笑みを浮かべると頷いた。
ふと、あかねは店員に声を掛けた。
ぴしっとミーアが直立不動になる、人形の振りをしているのだ。
「珈琲ふたつ、お願いします」
店員が戻ったあと、あかねが中村に言った。
「どうやら、私は大富豪のお嬢様らしいので、珈琲はおごりです」
「お前なんかにおごられたら後が恐いわ」
中村の言葉にあかねが嬉しそうに笑った。ほっと、ミーアが息を吐く、と思い出した。
「そうだ、大変なんだ」
ぱたぱたとミーアはあかねの前に来ると見上げた。
「どうしたの」
「ボク、さっき闘っちゃったんだ。だから、あと、二回しか小百合を護れないんだ」
「そうなの、誰と闘ったの」
ミーアが中村を見上げた。
「お、おい」
「そっか、ミーア、可哀想に」
そっと、あかねが目頭を押さえた。
「これって、あーちゃんの所為だ、酷いよね、あーちゃんって」
「知らなかったんだよ、ってか、なんで、あたしが悪者にされるんだ」
「だって、ねぇ」
あかねは笑うと、ミーアを両手で抱えた。
「あーちゃん、ミーア。さらさらだよ、ふんわりしていて、気持ちいいよぉ」
中村がごくっと息を飲んだ。
「あーちゃん。両手を水を掬うように、テーブルにさ、差し出してごらん」
中村は不思議そうに自分を見つめるミーアと、あかねのにたにた笑う顔を交互に見比べながらも、思い切って手を差し出した。ふわっと、あかねが中村の両手の平にミーアを載せた。
暖かい、中村は興奮で自分の心臓がどくどくいうのを感じた。
あかねは少し腰を上げ、上から、横からとミーアを睨んだ。
「よし、ミーア。大丈夫、あと三回、田村さんを護ることが出来るよ」
「え。どうして」
ぼぉっとミーアがあかねを見つめた。
「傷がついていないからだよ」
あかねは椅子に座り直すと、少し頷く。
「ミーアが田村さんを護るというのは、外敵から力で護るということだ。それは本気の三回、それは相手を大きく傷つけるし、そのことがミーアにとっても大きな傷になる。三本の傷でミーアは消えてしまう。でも、ミーアはまだ本気を出していないから、傷はついていない」
「でも、ボク、一所懸命に中村さんと闘ったよ」
あかねは中村に向き直るとにぃぃと唇を歪め笑った。急に振るなよと中村は慌てながらも言い繕う。
「ごめん。私は本気を出していなかった、手を抜いていたんだ。だから、ミーアは本気の闘いが出来なかったんだと思う」
「どうして。なんでなの」
ミーアがぴよんぴょん、中村の手のひらの上を飛び跳ねる。こんな抗議すら可愛いと中村がうっとりと見つめた。でも、ここが正念場と中村がミーアを睨む。
「感動してしまったからだよ、ミーア」
中村の真剣な面差しにミーアの動きが止まる。
「田村さんを必死で護ろうというミーアの気持ちに私は強く打たれたんだ。ミーア、私たちは闘いを通じて友達になった。これからは私も田村さんを護ってやろう」
「中村さんはミーアの友達なの」
ミーアが小さく呟いた。中村がここぞとばかりに力強く頷いた。
「友達だ。これからは私のことをあーちゃんと呼んでくれ」
ミーアが躊躇いがちにあーちゃんと呟く。
「なぁに。ミーア」
中村が答える。
「ありがとう、あーちゃん。初めてのお友達だよ」
ミーアは飛び跳ねると、田村の前へ走ってく。
「小百合。ボク、友達できたよ」
田村は微妙に顔をひきつらせながらも、笑顔を浮かべた。
「良かったね、ミーア」
ミーアが万遍の笑みを浮かべ頷いた。
一本の手がミーアを背中からぐいと掴んだ。
「これは美味そうじゃのう。喉ごしが良さそうじゃ」
「誰」
「わしはなよ。ちと、腹が減った。お前を食わせてくれ」
ミーアは理解できなかったのか、うんと頷いた。
「では、遠慮なく」
中村がなよの顔を思い出した。
「かぐやのなよ竹の姫」
「わしの名前を知るとは、それなりの魔法使いのようじゃの」
「お願いだ、ミーアを食わないでくれ」
「なんじゃ、わしに指図するのか」
なよがぎぃいと嗤う。
中村が腰を浮かす。
「か、かわりに私を食ってくれ。だから、ミーアを放してくれよ」
なよが興味深そうに中村を見つめた。そして、視線を巡らし田村を見る。
中村が叫んだ。
「ミーア。食われたら田村を護れなくなるぞ」
やっとミーアが気づいた。なよの手からするりと抜け出す。なよはあかねが隣りのテーブルから拝借した椅子に何事もなかったように座る。
目の端に店員を見つけた。
「カフェオレホットにピザトーストじゃ」
店員が慌てて受付をした。
あかねはミーアを抱き上げると、噛んで含めるように教える。
「あれが、マスターの姉、なよです。恐い人でしょう」
ミーアが脅え、震えながら答える。
「マスター、教えてくれたよ。絶対になよ姉さんには逆らっちゃだめだって。拗ねるから、面倒くさいって」
なよがミーアをにらみつける。ひやっとあかねの手のひらでうずくまる。
思い切って、中村がミーアの頭を中指でなでる。さらさたとした毛並み。なよへの恐怖を忘れ、ふわっとしてしまう。ミーアが顔を上げる、涙目だ。
可愛い、中村の喉が鳴る。
「大丈夫だ、ミーア」
中村がなだめるようにいう。
なよは腰を椅子から浮かすとぐいっとミーアを掴んで、睨みつけた。
「しっかりせい」
「は、はい」
「お前は田村とやらを護る騎士ではないのか。そんなことでどうする。田村には敵がおる、そんなことでは、田村を護れんぞ」
ふっと、なよは表情を和らげミーアに語りかけた。
「田村に恨みを持つ者は居る。お前は田村という姫をお守りするために生まれた騎士。多くの逆境がお前を苦しめるであろう、苦難に耐え、姫を護れよ」
ミーアが頬を紅潮させ頷いた。あかねは思う、なよ姉さんの口車はたいしたものだ。
「頑張ります」
ミーアはしっかり答えると田村の中に消えた。
あぁと声を漏らし中村がミーアを見送った。
なよは中村に目をやり言った。
「お前の残り香、クラシックローズアソシエーションの魔女じゃな」
中村が必死に考える。そうですと言うべきか、それとも、とぼけるか。
あかねが中村の耳元で囁いた。
「なよ姉さんは相手の心を読みながら、質問する人だよ」
だくだくうなじに汗をかきながら、中村が頷いた。
「はい、そうです」
「そうか。わしはな、目の中に入れても痛くない、末娘がおってな、こともあろうに、その末娘をそやつらが誘拐しようとしたのじゃ。まさかとは思うが、お前が首謀者かえ」
「いいえ、滅相もありません」
中村が悲鳴のような返事をする。中村がその誘拐未遂事件を知ったのは、グランシスターが呪いをかけられ、五人の魔法使いが魔法を無くした後だ。
かぐやのなよ竹の姫を前にしてはさすがのグランシスターでも敵うわけがない。なんて無謀なことを。
何十年もかけて身につけた魔法を一瞬で消されてしまうんだ、それでは、人間と同じになってしまう、こんな恐ろしいことはない。魔女にとって、かぐやのなよ竹の姫は死刑執行人だ。
「それは良かった。わしも妹の友人を殺したくはないからのう。さて、わしは妹の友人であるお前の名を知らぬ。妹の友人をお前などとは失礼じゃな。名前を教えてくれ」
「な、名前ですか」
中村の返事になよがゆっくりと頷いた。中村の手のひらが熱く汗ばむ。
「どうした。名前を言うだけのことじゃ。妹の親友を、お前などと呼びたくない、それだけのことじゃよ」
すぅっとなよが中村の目を睨みながら、優しく呼びかける。
「な、中村」
中村の口だけが、中村の意志に反するように声を発する。
「梓です」
絞り出すように名前を告げた。
なよが嗤った。
「なるほど、それで、あーちゃんか。では、わしも何かの時以外は、あーちゃんと呼ばせてもらおう。わしのことは、なよと呼んでくれ」
中村の頭の中で、なよの何かの時、という一言がぐるぐる回る。何かの時って、どんなときなんだ。
「さて」
なよは立ち上がると伝票を掴んだ。
「わしは帰る、鞄持ちにあかねを連れて来たが、ウィンドウショッピングになってしもうた。あかね、晩ご飯までには帰ってこいよ」
「なよ姉さん、ピザと珈琲がまだです」
「二人で食っておけ。そうじゃ、こいつを」
なよは田村の頭に軽く片手を載せ言った。
「田村よ。お前は自分の人生の道筋を今まで他人に決めてもらってきた。それが、親であろうと学校の先生であろうと、他人は他人じゃ。じゃから、大人になって自分で決めねばならぬときに、どうしたら良いかわからなくなっておる。うつの症状まででかかっておるな。少し、頭をはっきりさせてやろう」
なよは田村の頭を軽くぽんぽんと叩くとレジへ向かった。
「ね、田村さん、大丈夫」
あかねが田村の顔をのぞき込んだ。
「大丈夫です。それじゃ、失礼します」
田村がいきなり立ち上がると立ち去っていった。
「なんだ、別人みたいじゃないか」
驚いて中村が呟いた。
「なよ姉さんに頭のもやもやを落とされたんだと思う。田村さん、組織から逃げ出すんだろうな」
「普通の人間が組織から抜け出すのは難しいぞ。国が傭兵を輸出しているなんてばれたら大変なことになる」
「大丈夫じゃないかな。もしも、田村さんに国が手を出すなら、政府の要人達の頭と胴が分断される」
「かぐやのなよ竹の姫か」
あかねがゆっくりとかぶりを振った。
「なよ姉さんは田村さんへの関心がない。ミーアを作った姉さんはとても恐ろしい人だから。そっちかな」
にぃぃとあかねが嗤う。中村はお前のその顔の方がおっかないと言いたいがすっかりばてていてその一言を口に出す元気がない。
ピザと珈琲が来た。
「ところで、あかね。お前、かぐやのなよ竹の姫」の妹って、そんなのありかよ」
「血は繋がっていないけれど、色々あってね。なよ姉さんは私を妹だと思っているし、私は姉だと思っている。あーちゃんにはわからない色々があるんだよ」
「お前にはぼこられて、姉にはびびって竦み上がって、立場ねえよ」
中村が重く溜息をつく。
「まぁ、元気だしてさ。ピザ食べよう」
男がいきなり現れると、バランスを崩し、つんのめりながら、左手で背もたれを掴み立ち止まった。
「なよは乱暴だなぁ」
「お父さん」
あかねが驚いて声を上げた。
「やぁ、まいったよ。この椅子に座っていいかい」
あかねが言葉を出せないまま、何度も頷く。
「よいしょっと」
男は器用に座ると杖を椅子の背もたれに立てかけた。
「お父さん。珈琲をどうぞ」
あかねが言った。
美味しそうに珈琲を飲む男の姿に中村が腰を引きつつ驚いていた。
何もないところからいきなり現れて、いま、目の前で珈琲を飲んでいる。いったい、なんなんだ。右腕と左足がない男。それさえ除けば、どこにでもいるような特徴のないおっさんだ。
「何があったんですか」
あかねが向かいに座る男に話しかける。えっと、中村が驚く。さっきまで唇を歪めた笑い方をしていたくせに、あかねの奴、素敵な女の子をやっている。なんなんだ、こいつとしか思えない。
「なよが、ちゃんと始末をつけてこいってね、魔女騒ぎのさ。で、これから、魔女の教会へ啓子さんが送ってくれるんだけど、あかねは忙しいかい」
あかねが大きく頭を振った。
「暇です、奇遇です、あかねもお父さんと一緒に魔女の教会へ行きたいなって思っていたところですよ」
なんて調子のいいやつだ、冷めた珈琲を口に含み、中村は一所懸命なあかねを横目で見た。
ふと男は中村に目を向けた。
「君はあかねの友達かな」
「まぁ」
「そうか」
男が笑みを浮かべた。
「あかねをよろしくね。あかねは友達が少ないからなぁ」
あかねが拗ねたように言う。
「そんなことありませんよ」
あかねの言葉に男が頭を下げる。
「ごめん、それは認識不足だった」
あかねが嬉しそうに笑った。玉を転がすような綺麗な笑い方だ、絶対、この笑い方、こいつ、夜中に練習しているぞと中村は確信する。
「君も魔女さんだね。クラシックローズのハーブの残り香があるよ。ということは、なよに虐められたんじゃないかい」
どう返事をすればいいのか、中村が戸惑った。
「なよも良い娘なんだけど、ちょっと乱暴だからなぁ。親の背中を足蹴にするし」
男が困ったように笑う。
どういう認識をしているんだ、こいつはと、なんだか、腹が立つ。
「いいえ、とても優しくしていただきました」
嫌みったらしく中村は答えたが、男はその言葉をそのまま受け取ったのか、嬉しそうに笑った。
「案外、あれで思いやりがあったりするんだよ」
照れたように笑う男に中村が唖然とする。
親ばか、発見だ。
「お、啓子さんが来た」
男が道向こうを見て言った。
しばらくして、軽バンがやってきた。
「そうだ、中村さんも一緒にどうかな」
あかねが笑みを浮かべた。
「あーちゃん、行こう。あーちゃんが居てくれると心強いよ」
中村があかねの勢いに頷いた後、あれっと気づく。なんで、このおっさん、私の名前を知っているんだ。

助手席に座る男に啓子が尋ねた。
「先生。向こうでどうするつもりですか」
男はそうだねぇと呟く。
「まぁ、呪いを解いて、それから、五人の魔法使いに魔法を返すかなぁ」
「先生、あんまり気乗りしてないみたいですね」
「うーん、つまりはね」
男が左手で少し窓を開けた。
「なよが旅行から帰ってきて、小夜乃が誘拐されかけたって知ったとき、随分と狼狽えただろう、その後、怒り出して、クラシックローズアソシエーションを潰してくるってところを、小夜乃に止められた。その必要はないってね」
「なんで、なよ姉さん、そんな相手を助けてこいって言ったんでしょう」
運転しながら啓子が尋ねた。
「なよは政治家だからなぁ」
男は呟くと車窓から外を眺める。暖かい日差しだ。
「そんな難しいこと説明しておいてくれないと、父さん、わかんないよぉ、ごめんね。で、済ますかな」
「なよ姉さん、怒りますよ」
「そのときは啓子さん、助けてくれ」
「いやいや、二人ともやられてしまいますって。小夜乃ちゃんに頼むのが正解ですよ」
「そうするかな」
後ろからあかねが乗り出した。
「私もお父さんの横に正座してごめんなさいって言います」
「あかね。面倒かけてすまない、父さんが元気だったらなぁ」
「おとっつぁん。それは言わない約束だよ」
タイミング良くあかねが答えた。
「何言ってんだ」
中村がいぶかしる。
「慣用句だよ」
あかねが愉しそうに笑った。
ふと、男が遠くに視線を通す。
「啓子さん、一軒、寄っていこう。こっちの方が先だ」

マンションの植え込み手前に車を停め、車を降りる。マンションの入り口、オートロックだ。男が五階の一室に目を向けた。
「ベッドの脇で倒れている。意識はあるけれど動くことができないみたいだ」
あかねが男を見上げた。
「それは、ひょっとして、警察へ行った新米魔女さんですか」
「そうだよ。警察では魔女の呪いを解くことができなかったんだな」
男が自動ドアの前に立つ、すっとドアが開いた。
「一緒に来てくれるかい。私が一人で行くと思いっきり不審者だからさ」
「いやいや、既に私ら不審者ですって」
啓子が気楽に笑った。
まるで居住者のように四人はエレベーターへ、そして、五階で降りると、一軒のドアの前に立った。男はバレーボールほどの硝子球を取り出す。
「呪いが発動して部屋に充満している。ひどいことをするなぁ」
「ほっといた先生もですけど」
「きついなぁ、啓子さんは。ま、その通りだけどね」
まるで、施錠などされていないかのようにドアが開いた。ぶわっと黒く染まった空気が溢れ出す、硝子球がそれを勢いよく吸い込んでいく。
「あ、うわっ」
中村が声を上げた。中村のお腹辺りから黒く細い霧のようなものが流れだし、硝子球の中へ入っていった。
「あ、そうか」
それを見て男が言った。
「中村さんも魔女だったね、ごめん、中村さんの魔女の呪いもついでに吸い込んでしまった」
中村も当然、魔女の呪いを知ってはいたが、ある種の催眠術だと考えていた。あんなものが体の中にあったなんて。
「中村さん、返しても良いけど、分離は難しいからなぁ。よければまとめて」
「あ、いや、あの。いらないです」
「そうかい、悪いね。でもさ、中村さん、偏頭痛持ちだろ。これで、偏頭痛はなくなると思うよ」
男は気楽に言うと部屋の中に入っていった。あかねと啓子もそれに続いた。
中村は一度落ち着こうとドアの前に立つ。
あのかぐやのなよ竹の姫を娘と言うあのおっさんは、何もないところから現れて、そうだ、私の名前も知っていた。どっかから硝子のボールを出して、呪いをほんの数秒で吸い込んでしまった。魔術師か、いや、そうじゃない、魔法使いや魔術師の持つ独特の空気がない、本当にそこらに転がっているおっさんだ。
ちょっと待て。偏頭痛、確かに私の持病だけれど、それがなくなるってどういうことだ。いつも、頭が痛くなるとグランシスターに手をかざしていただいた、そうすると、すうっと痛みが消えてって、これ、魔女の呪いが原因なら、グランシスターのマッチポンプじゃねえか。

男が部屋に入る。窓のある部屋にベッドがあり、そのベッドの手前に洋子が倒れていた。ベッドに手をかける途中で倒れてしまったのだろう。
「啓子さん。この子をベッドに寝かせてくれるかな。あかねはこの部屋に盗聴器とカメラが五カ所あるからそれを潰してくれるかい」
素早く啓子は洋子を抱きかかえ、仰向けにベッドに寝かせつける。あかねは目を閉じ、微かに俯く。瞬間、五人のあかねが壁や本棚を打つ。残像があかねの姿を五人に見せた。
男は冷蔵庫を開けると、器用にしゃがんだ。
「洋子さんは外食が多いのかな、ま、牛乳でいいかな」
バランスよく男は左手で牛乳一リットルパックを取り出し賞味期限を見る。パックの口のところへ顔を寄せ嗅いでみる。
「ま、大丈夫だろう」
「あの、私にも手伝わせてください」
中村が男の前にやってきた。
「ありがとう。それじゃさ、適当にマグカップ、牛乳を半分の水で薄めて、砂糖で味付けかな、そこの電子レンジで温めて人肌、いいかい」
「わかりました」
ふと、男がじっと中村を見つめた。
「両手、握り拳を作って、それぞれ、人差し指を伸ばしてごらん」
戸惑いながら、中村は男の言うように人差し指を伸ばす。
「そして、人差し指を口の端に触れる」
何かの術なのかと中村が不思議に思う。
「ほんのちょっとだけ、両肘を上げてごらん」
男の言うように肘を上げた。
「中村さんは笑顔の可愛い女の子だね」
男は笑みを浮かべると、隣の部屋、洋子の様子を見に行った。
な、なんだよ、慌てて、中村が両手を降ろした。
「あーちゃんは可愛いですにゃあ」
いつの間にか、あかねが、中村の後ろでにたにたと笑っていた。
中村があかねを睨んで呟いた。
「え、なに」
「うっせーっ、黙れって言ったんだ、この野郎」

男がベッドの横、器用に正座する。洋子がベットに仰向けに寝ていた。眼窩が窪み、頬もこけている、顔色もかなり悪い。
「先生。どうですか」
啓子が心配げに尋ねた。
「大丈夫だよ。うちで一週間も過ごせば元に戻るよ」
啓子がほっとしたように笑みを浮かべた。
洋子が掠れた声で言う。
「ごめんなさい、おじさんの言うことをきかなくて」
「それは君が警官であるということを優先した、それだけのことだよ」
中村がマグカップを両手に持ってきた。
「これでいいでしょうか」
男は受け取るとそっと顔を寄せる。
「良い感じだ。中村さん、ありがとう」
啓子が洋子を少し起きあがらせる、男が温かい牛乳を飲ませようとしたが、左手ではどうも向きが悪い。
「あの、私がやります」
「いいのかい。お前には世話をかけてしまうねぇ。父さんがもっと元気だったらなぁ」
あかねがそっと中村の肩を叩く。
「おとっあん、それは言わない約束だよ」
顔を真っ赤にして中村が呟いた。
男は少し笑うと、後ろに下がる。中村はベッドの脇に座らせると少しずつ牛乳を飲ませた。
啓子が肩から背中へと流すようにさする。
「やっと、通ってきました。かなりの脱水状態だったようです」
啓子の言葉に男が頷いた。
「あかね。大きなタオルケットか毛布を探してくれるかい」
あかねはすぐに立ち上がると小さな箪笥から毛布を出す。中村が空になったマグカップを戻すのを確認して、毛布を洋子の両肩に掛けた。
「お父さん。それじゃ、連れて帰るよ」
幸が男の横で言った。
「幸。お前には苦労をかけて申し訳ない」
「もう、おとっあんたら、それは言わない約束だよ」
幸は笑うと、洋子を抱きかかえそのまま姿を消した。
「さてと。それじゃ、啓子さん、魔女の教会まで頼むよ」
「お昼過ぎですね。それ済んだら、なにか食べて帰りましょうか」
「それはいいね」
中村が口に出せないまま、心の中で盛大に突っ込んだ。
いまの誰だよ。
「あの。お父さん、その前に」
あかねが言う。真っ黒になった硝子球を指さしていた。
「置いておくわけにもいかないな」
「お父さん。極性の変換を教えてください」
「うーん、それは困ったなぁ」
男が俯いた。
「あかねは悪い子だからなぁ。教えて悪用されるとつらいからなぁ」
「あかねは良い子ですよ」
あかねが少し口をとがらせて言う。
「あれ、そうだったかい」
「はい」
あかねが万遍の笑顔で頷いた。
「それじゃいいかな」
男は器用に正座をすると、あかねを前に座らせた。
男が問う。
「あかねは良い子でしたか」
「はい。良い子でした」
「あかねは良い子ですか」
「はい、あかねは良い子です」
「あかねはこれからも良い子ですか」
「はい、あかねはこれからも良い子です」
なんの戸惑いもなくあかねが答えた。
「あかねは嘘をついたことがありますか」
「いいえ、あかねは嘘をついたことがありません」
「あかねは嘘をついていますか」
「いいえ、あかねは嘘をついていません」
「あかねはこれから嘘をつきますか」
「いいえ、あかねはこれから嘘をつきません」
「では。あかね、父さんの右側に並んで座ってくれるかい」
あかねがいそいそと、男の右隣に正座する。男が手を前に出す。黒い硝子球が男の手のひらにやってきた。
「左手を父さんの右肩に載せなさい。そして、右手で硝子球を支えなさい」
男が左手、あかねが右手で硝子球を支えた。
「父さんと同じように手を動かしなさい」
「わかりました」
あかねが少し緊張する。
「あかねの左手から父さんの意識が伝わっているはずだ。さて」

男とあかねが親指で硝子球を押し込む、クラインの壷のように球が変形し、一黒かった硝子球が一瞬で白く変色した。そのまま、押し込んでいく、白い硝子球が小さくなるほどにその輝きを増す。
「作りたいものをしっかり思い浮かべなさい」

あかねは返事をする余裕もなく、頷いた。やがて、小さな指輪が床に落ちた。
あかねが大きく息をする。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
男が器用に立ち上がる。あかねは指輪を拾うと中村の前に行き、その右手薬指に指輪をはめた。
「はい。あーちゃんにプレゼント」
「なんだよ、急に」
ふっとあかねが目をつぶり、そのまま倒れる。慌てて中村があかねを支えた。
「中村さん、大丈夫だよ。あかねはいま全神経を使って今のを復習しているんだ。五分をすれば目を覚ますよ」
中村は大きく深呼吸をすると、ゆっくり、あかねを仰向けに寝かせつけた。そして、くっとあかねを睨むと立ち上がり、水屋にあったメモ用のマジックを手に取り戻る。キャップを取り、あかねの額に「良い子」と書く。
男が愉快に笑った。

「なんとかしなさいよ」
グランシスターの喚き声が響く。役員室の壁に背中を押しつけられている。大きなフライパンだ。男の呪いで目の前に現れた古釘。じわじわと近づいてくる恐怖に額と古釘の間に大きなフライパンを差し入れたのだが、古釘一本がグランシスターの額をフライパンごと押し込み、彼女を壁に押しつけているのだった。中村が訳を話し、魔女からの攻撃もなくやってきた。中村自身はこの現状を知らされておらず、あのグランシスターが喚き立てている現場を初めて見て、威厳も糞もないなと内心思う。
男の解いた魔女の呪いの一件から、グランシスターに不信感を抱いていた。
「大変なことになりましたね」
男が声を掛けた。
「その声。私に呪いをかけた奴ね。今すぐ、この呪いを解きなさい」
シスターが金切り声を上げた。男が黙ってシスターの前までに来る、すっと気配を消した。
「何処。何処に行ったの。行くなら、助けてから行きなさいよ」
「いやぁ」
男が困ったように笑った。
「呪いを解くのはそれほど難しいことではないのですけれど、解いた途端、貴方に攻撃されそうで、なら、やっぱり帰ってしまうほうがいいかなぁとか、思いましてね」
急にシスターの声が優しくなる。
「あら、ごめんなさい。決してそうじゃないのよ。ちょっと、私も慌てていたものだから」
シスターが猫なで声で言った。
シスターが両手でフライパンの端を掴み、動かそうとするが全く動きそうにもない。
「ほらね。痛くて仕方がないの」
男は頷くと囁いた。
「あの、反省されていますか」
「あたしがなんの反省をしなきゃならないのよ」
シスターが喚いた。
「やっぱり帰ろうかな」
男が呟いた。
「あの、あのね、ごめんなさい。お嬢さんをね、ほんと、悪いことをしようとしたわ。私、とっても反省しているのよ」
「なるほど。シスターは反省なさって、いまは良い人であると、言うことですね」
「そうそう、そうなのよ。私ほど心の清らかな者はいないはずだわ」
あかねは気配を消すと男の前に立ち、ふわっと浮かび上がる。真正面からフライパンを軽く押さえた。
「それじゃぁ、呪いを解きましょう」
男はシスターに近づくと、古釘を摘まむ、瞬間、男の指先で古釘が細かな砂のように霧散した。合わせて、あかねがフライパンをシスターに押しつける。
「ん、おかしいな。呪いが解けないな、どうしてだろう」
「何よ、何がどうなったのよ」
シスターが大声でまくし立てた。
「いや、簡単に解けるはずなんですが、何処でこじれているのかな。おかしいな」
男が愉しそうな顔をしながらも、深刻そうな口調で呟く。
「早くしてよ。あんただけが頼りなのよ」
「はぁ。と言われましても」
あかねがぎゅうとフライパンを押しつける。
「どうしたのよ。余計、痛くなったわよ」
シスターが叫んだ。
「ごめんなさい、ちょっと失敗してしまいました。あれ、呪文間違えたかなぁ」
あかねが笑いそうになるのを賢明に堪えている。
男が数歩前に出ると、フライパンの下、シスターの首にすっと左手を添えた。かくんとシスターの膝が崩れる。あかねがフライパンを取り上げ、シスターを床に仰向けに寝かせた。
あかねは調度品の立派なデスクの引き出しをかき回し、マジックを取り出した。ふふんと鼻歌を歌いながら、赤くなったシスターの額に「良い人」と書く。
「あかね、さすがにそれはひどいよ」
あかねが自信ありげに、首を振った。
「人はなかなか外見ではわかってもらえないもの。それをわかってもらえますようにと、額に書いて差し上げたんです。感謝していただきたく思いますわ」
良い子と書いた額のまま、あかねがにたにたと笑った。あかねが自分の額の様子に気づいたら怒るだろうなぁと思う。寝るときは用心しよう。
「それじゃ、次は五人の魔法使いに魔法を返してくるかな」
入り口では何人もの魔女たちがおそるおそると二人をのぞき込んでいる。ナンバーツーのSKを男が手招きする。戸惑うように回りの部下の顔を見る、仕方ないと諦めて男の元にやってきた。
「あの。この度はご迷惑をおかけしましたり、何をどう申し上げればと」
男が笑顔を浮かべた。
「なよ。がぐやのなよ竹の姫がそちらから預かった亜矢さんはお返しできません。ただ、代わりに娘の一人をこちらに来させ、魔力強化の教育をさせましょう。それで、そちらの当初の目的は果たせるかと思います」
「あの、どうして、そこまで」
「鬼の力が強くなり過ぎました。それだけですよ」
男は頭を下げると部屋を出る。魔女達が慌てて散らばった。教会の外、男とあかねと啓子が歩く。
「先生は鬼を包囲するネットワークみたいなものを作る気なんですか」
啓子が興味深そうに尋ねた。
「それはないなぁ。私はみんなで力を合わせてとかさ、苦手だからな。でも、誰か、得意な人がそういう仕事をしたらいいかもなぁっては思うよ。ま、思うだけなんだけどさ。啓子さん、頑張ってみるかい、声援するよ」
「応援じゃなくて声援ですか。私は畑だけで手一杯です。あかねはどうなの」
男が笑った。
「あかねは過激だからいいかもね」
「まっ、お父さんったら。あかねは地味な女の子です。隅っこで細々と生きていくのが愉しいので、人前に立って先導なんてできませんわ」
「父さん。あかねのことを随分誤解していたようだ。間違えないようにさ、あかねの額に「良い子、地味な子」って書いてもいいかい」
あかねは、ぱっと自分の額を手で押さえた。
「ふふ。この額は死守します。誰にもいたずらされませんよ」

「おーい。おじさーん」
声に男が振り返ると、中村が教会から、息を切らして走ってきた。
中村が男の前までやってくる。
「私、協会とおじさんの連絡係になりました、今後ともよろしくお願いいたします」
「そうなのかい。でも、いいのかい、中村さんは協会に戻って幹部になりたかったのじゃなかったのかい」
中村はこのおっさん、何処まで知っているんだと疑問に思いながらも笑顔を浮かべる。
「おじさん宅の近くに住んだら親友のあかねとも会いやすいし、こういうのもいいかなって」
にぃぃと中村があかねを見て笑った。
「そうだね」
あかねは一歩前にでると、じわりと構えた。それを見て中村は唇をゆがませ笑う。両手を広げた。ふわりと、大鎌を両手で持つ。
ふっと、中村が視線を微かに上げる。
「良い子ちゃんには負けるわけにいかねぇな」
中村が呟く。あかねの中で何かが繋がった。あかねが慌てて近くの車に寄るとドアミラーに自分の額を映す。
「なんですか、これは」
あかねが叫んだ。あかねは駆け戻って来ると、男の前に仁王立ちに立つ。
「お父さん。これはどういうことですか」
あかねが自分の額を指さしていった。
「さっき、あかねが額を死守しますって言ったとき、笑いそうになってしまった、ごめんね」
「ごめんね、じゃありません」
あかねが男にぐっと手を差し出した。
「えっと」
「えっとじゃありません。なよ姉さんの刃帯儀の絹の紐です」
「あかねは怒ると怖いなぁ」
男は愉しそうに笑うと左手を振る。紐が鋭く飛び、一転して、あかねの前に浮かんだ。あかねは紐を掴むと自分の額を隠すように巻く。中村は男がかぐやのなよ竹の姫の武器 刃帯儀を使うのを見て内心驚いた。
「赤色の帯でなんだか艶やかでいいね。啓子さんもそう思うだろう」
「いい感じですよ」
啓子はあかねの前に立つと、紐の結び目を後ろにやり、余った紐を首の横に立らす。
「髪が揺れたときに、少し赤色が見える、この方がいいよ」
「さすが、啓子姉さんです。大雑把なお父さんとは違いますわ」
男が愉しそうに笑った。中村がふと思う。かぐやのなよ竹の姫の術をこのおっさんも使うことができる、かぐやのなよ竹の姫に会うのは絶対に避けたいけれど、もし、解呪術を身につけることが出来れば、魔女の世界では特別な位置につくことができる。こんなおっさんの一人や二人籠絡するくらい簡単だ。
ふぃっとあかねが中村の表情に気がついた。
「おや、あーちゃん。肉食獣の眼をしてますなぁ」
「な、なんだよ」
ふと、男が木立の向こう、眺めた。
「元気だなぁ」
男が呟く。
「お父さーん」
黒だ。黒が走ってきた。黒は男の前にやってくると、万遍の笑みを浮かべた。
「黒も食べたいです」
「え。何がだい」
えへへっと恥ずかしそうに笑う。
「母さんから、お父さんと啓子姉さんが一緒に帰ってくるって聞いて、啓子姉さんは帰ってくるとき、いつもラーメン食べて帰ってくるから」
啓子が驚いた。
「黒。知っていたのか」
「服にちょっとだけラーメンの匂いが残っているよ」
黒が自信をもって答えた。啓子が恥ずかしそうに笑みを浮かべた。
「あさぎちゃん。健康志向だからさ」
「体に悪いのって、美味しいよね」
黒が納得すると頷いた。
仕方ないと啓子が男に言った。
「ラーメン、いいですか」
「いいよ、楽しみだ」
啓子がにらみ合っているあかねと中村に声を掛ける。
「二人もラーメン、いいかな」
中村が答えた。
「あの。私もいいんですか」
「もちろん」
中村は笑みを浮かべると、あかねに顔を向け、にぃいと嗤う。
あかねはばっと離れると、男の左腕を両腕で抱きしめた。「お父さんを誘惑しようとしても無駄ですわよ」
「なんだなんだ、あかね。父さん、誘惑されてしまうのかい」
「そうです。女の勘です。お父さんは朴念仁ですからわからないでしょうけど」
「中村さん、ごめんね」
男が気楽に笑う。
「いいえ、あかねは子供ですから」
中村が余裕の顔で笑う。
啓子は二人の様子を見て思う。似たもの同士だと。

黒が泣きだしそうな声で言った。
「早くラーメン、食べに行こうよ」