遥の花 あさまだきの靄 小夜乃、説教する

遥の花 あさまだきの靄 小夜乃、説教する

「田、中」
小夜乃は表札を人差し指で撫ぞりながら、小く呟いた。そして、にっと笑みを浮べると、よしと呟く。幸に書いてもらった地図のノートをしっかりと抱きしめた。
小夜乃は門柱を背に辺りを見回す。幸の姿は見えない、もちろん、幸は壁の、小夜乃から少し離れたところで、背をもたせかけているのだが、小夜乃は気づかない、幸の隠形は目の前にしても、気づかないだろう。
ふと、小夜乃は道を何度も行き来する女の子を見つけた。
深刻な顔をしている。
そして、小夜乃の隣り、塀に背を預けた、溜息をつく。小夜乃は驚いて女の子を見上げたが、思いきって、声をかけてみることにした。
「あの、お姉さん、どうされましたか」
響子は全く小夜乃に気づいていなかった。驚いて小夜乃を見る。
「え、あ、あの。いや、なんでもない」
目をおよがせながら、響子が答えた。人がいることに全く気づかなかったなんてと響子は自分自身が冷静でないことを思い知らされた。こんなことではいけない。
「君もこの家に用事があるの」
「いいえ。でも、母様とここで待ちあわせの約束なんです」
可愛い、素直に笑顔を向ける小夜乃に響子の胸が高なった。そんな趣味はないからと慌てて気持ちを落ちつかせる。
「お姉様は何かお悩みの様子ですけど、こちらのお家と何かあるのですか」
真っ直ぐに自分を見る小夜乃にどぎまぎして息を飲む。
私に向って、この子、お姉様と言った。お姉様って、うわぁ、響子は体が浮いてしまいそうになったが、気持ちを落ちつかせて答た。
「用事は確かにある」
小夜乃はその言葉になにか深刻に思いつめたものを感じた。
「母様がこちらに用があるらしく、でも、まだ、母様は来ておりません。よろしければ、お先にどうぞ」
「いや、私は後でいい。そうでないと、君の母様は、その用とやらを済ますことができなくなるだろう」
小夜乃はノートを足元に立てかけ、すいっと、両手で響子の右手を握った。そして、しっかりと響子を見据えた。
「それはどういう意味でしょうか。お姉様のお言葉、物腰、尋常ではありません」
響子は息を飲んだ。鉢巻姿の可愛い女の子、真っ直ぐに自分を見つめている。手が暖かくて柔らかい。
「おおぉい」
幸が今やってきたとでもいうように、道の向うから歩いてきた。
はっと小夜乃が振りかえる、幸はにっと笑うと唇に人差し指を当て、そして、上を指差した。その方向には、電信柱に烏、すっと烏の姿が消える、幸が烏の首の辺りを片手で掴んでいた。もう片方の手を烏の顔に寄せ、その頬を中指で弾く。そして、烏を放り投げた。空中で烏は意識を取り戻し、飛んでいった。
「小夜乃。待たせたかな」
「小夜乃もつい先程来たばかりです」
なんて綺麗な女の子だ、響子は思わず息を飲んだ。欠点というものがまるでない。同い年か、一つ下かもしれない、なんて、綺麗なんだ。
「幸母様、お話をお聴きください」
小夜乃は響子の手を両手をしっかりと握ったまま言った。
「なんだ、小夜乃。必死だな」
幸は気楽に笑みを浮べる。
「初めまして。この子の母で幸といいます。本当は姉の娘なのですが、私のことも母と呼んでくれています」
「初めまして。響子、橘響子といいます」
響子は緊張した面持ちで答えた。同学年、ひょっとしたら、一つ下かもしれない女の子に緊張したのだ。その上、初めて会う得体の知れない人間に本名を名乗るなんて。
「響子さん、顔に悲壮感が出てるよ。可愛い顔が台無しだ」
幸は気楽に言うと、響子の全身を俯瞰する。
「小夜乃。響子さんの左手、学生鞄を預からせてもらいなさい」
響子は、その言葉、口調に理解した、とても、逆らえない。いや、そうじゃない。気づいた、この窮状から抜けだすには、この人、幸という人に話を聞いてもらえれば。
小夜乃が手を差しだすと、響子は一度鞄を下し
取っ手を小夜乃に向けた。小夜乃は両手で鞄の取っ手を掴み引きあげる、少し小首を傾げた。
簡単に引きあげた小夜乃に響子は驚いた。鞄大の幅一センチの鉄板が二枚入っている。幸は鞄から手前の一枚を抜きだした。まるで軽いダンボール紙を摘みだすように。
「呪文が違うな、抜けている」
鉄板には細かに漢文が掘りこまれている。幸が鉄板に指を走らせる。響子が驚いた、すらすらと人差し指で鉄板を削っている。こんなもんだと幸は呟くと、鉄板を鞄に戻した。
「響子さん。鞄をもってみなさい」
驚きを隠せないまま、鞄を持ちあげる。なんだこれは、軽い、鞄に何も入っていないみたいだ。
「術をただそのまま受け継いだやつと、術の理を理解しているやつの違いだ。さて、太股や脇腹の棒手裏剣からするに、忍術系のようだね。魔女と戦う気なのか」
響子はぎゅっと唇を噛みしめた、そして呻くように呟いた。
「仇討ちです、亜矢は私の一番の友人でした」
「亜矢というのは」
そしらぬ顔で幸が尋ねた。
「この家の長女で、私の一番の親友です」
「仇討ちって、殺されたのか」
「わかりません、でも」
「詳しく話してみてくれ」
幸がかすかに口角をあげ、笑みを浮べる。それだけで、響子はこの人なら信頼できると信じることができた、小夜乃は思う、あとで、幸母さん、美人は得だろうって笑うんだろうなと。
「亜矢のお母さんが、窓から、3階の教室の窓から箒に乗って入ってきました。そして、亜矢を連れ去ったんです」
響子の眼から、ぼろぼろと涙が溢れた。
響子は溢れだすように、亜矢が魔女の母親を恐れていたこと、いつかは殺されるかもしれないと語っていたこと、幸に話す、そして、何度も、家の前に来ながら、怖くて帰ってしまった自分自身を責めた。
そっと、幸は響子を抱きしめると、耳元で囁いた。
「もう、苦しまなくていいよ」
幸のその一言に、響子は背中に背負っていた重荷がすっと消えていくのを感じた。

「呼びリンを鳴らしますか」
小夜乃がスイッチに手をかけた。
「もう少し待ってからにしよう。大きなの召喚するために頑張ってさ、ドアの向うで呪文を唱えている」
幸は言うと、門扉の手前に真っ直ぐ立つ。腕を組み、にぃぃと嗤う。
「来るぞ」
呟いた瞬間、いっぱいに開いた竜の顎が、幸の目の前に現出した。竜が口を閉せば幸を丸ごと飮み込むだろう。
「よう、黒龍よ。びびったか、口が固まっているぞ」
すたすたと、幸は黒龍の横に回り込んだ。
竜の首だけだ、首から後ろがない。幸は黒龍の首の後ろに手を添えると、すっと横へ動かす。黒龍の全体が現われた、後尾は屋根の向う、遙かにある。
「術者に呼びだされたは仕方がないが、半端すぎて、首までしか呼んでもらえなかったか、お疲れさんだな」
響子は小夜乃の隣りで足がすくんでいた。
百メートル、いや、もっとだ。あんな大きな竜を手で引っ張りだした。その竜が幸さんを恐れている。恐れて動けずにいる。
幸は黒龍の前に立つと、やわらかな笑みを浮べ、両手を差しだした。両手の間の空気か震え、それが低い音となる。低音が物語りを語るように揺れる。黒龍が両目を閉ざし、納得したとでもいうように、微かに頭
を上下させ、色水を薄めるめるようにして消えた。
「幸母様、あの音は」
「竜の言葉だ。直接、竜の言葉で、帰ってもいいと伝えただけだよ。そのものの言葉を語ることができれば、効率の悪い呪文の詠唱など必要はないってことだ」
小夜乃は改めて、幸を自分の理解の範疇外の人だと思う。隠れて、こそこそと戸棚からお煎餅を取り出してにやけている幸を思いだす、いま、目の前にいる人と同じ人なんだと考える、単純に面白いなぁと思う。
「さて。お待ちかねだ。小夜乃、響子さん、ついておいで」
門扉を開け、すっと敷地内に入る。数メートル先に大きな玄関のある、ちょっとしたお屋敷だ。
「魔女の庭ってやつだな」
「それは」
小夜乃が尋ねた。
「見慣れない花や草が生えている、魔女の魔法は呪文だけじゃない、薬を使う。その原料だ。屋敷も一階から上は普通の生活だけれど、地下一階と地下二階は魔法の研究室と倉庫だ。妹は地下一階だな」
幸は玄関を軽く叩くと、にぃぃと笑った。
いきなりドアが開けはなたれた。女が大きな斧を幸の頭に振り下した。寸前、斧が幸の頭の上で止る。幸が右の親指と人差し指で刃を摘んでいた。
「お出迎えありがとうございます。こういう趣向大好きですよ」
「何者だ」
幸が嬉しそうに微笑んだ。
「そうですよね。折角、電信柱の上から、見張っていたのに、首掴まれて、元の肉体にまで、弾きとばされて、大笑いですよね。亜紀さんのお母様」
幸が摘んだ斧の先を下へ投げ落す。斧の柄が女の手から離れ、地面にめり込んだ。
うひゃ、やる気全開だ、後ろで響子が幸の振舞を見ていて、息を飮む。
「御不信のことと思いますが、こちらに伺ったのは簡単なこと。えっと、何処へやったかな」
幸が右手をゆらゆらと動かす、ふわりと猫のマリオネットが現われた。
「これ、お母様にお返しします、亜紀さんです」
ぽんと母親の手に置いた。そして、すっと玄関口を見渡し、とんと爪先で地面を蹴る。玄関の叩きが電動で後方に下がり、地下への階段が現われた。
「亜紀さんの肉体はこちらですね。お邪魔します」
「待って、亜紀の、亜紀の魂は」
幸が不思議そうに母親を見つめた。
「なんだか、お嬢さんのこと心配されているようですけれど」
「亜紀は私の大切な娘です」
母親は幸を恐れてか、言葉が変わる。
「マリオネットに憑依させるということは、五感が著しく低下しますよね。そんな状態で外に出せば、どんな災厄に襲われるかしれない、それを考えるなら、亜紀さんが大事じゃないのかなぁって思ったんですけど」
「そうじゃなくて、これは魔女としての重要な儀式で」
幸はわざとらしいくらいにっこりと笑った。
「お母様のしていることは、子供を嫌う親がしていることと同じですよ。ま、でも、ご心配になる必要はございません。実は亜紀さんの魂は私のポケットの中です」
一瞬、小夜乃が母親をじっと見据えた。
幸は小夜乃と響子についてくるよう目配せをすると、階段を降りた。下は小さなホールくらいはある。片面は魔導書だろう、一面の本棚に本がぎっしり並べられている。その本棚の手前にベッドがあり、薄暗い灯りが仰向けに寝る亜紀の顔をうつしていた。
幸が亜紀の魂の入ったガラス球を小夜乃に手渡した。小夜乃は頷くとガラ球を手に亜紀の横に立つ。そっと、上着をたくしあげ、お臍にガラス球を載せる、球の中の白い靄がすっと亜紀の中に入っていった。
ほっと小夜乃が息を吐く。
幸は亜紀に顔を寄せると、声をかけた。
「おおい。亜紀さん、おはよう」
亜紀が目を開く。幸の顔を見た瞬間、ベッドから跳びおりて、蹲まってしまった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
亜紀が幸を怯え、呻くように謝りつづける。
小夜乃が呟いた。
「母様のポケットの中で何があったのでしょう」
「うーん。どうしてだろうね」
にぃぃと幸が唇を歪めて笑った。
響子は二人の後ろでことの顛末を、混乱しながらも理解しようとしていた。
幸さんはさっきの電信柱の烏を手を伸ばしただけで掴んだ。これは物品寄せだ。そして、烏に憑依していた魔女の魂を呪文も唱えずに弾きとばした。そもそも、竜の言葉であの竜を追いかえしてしまった。なにもかもが規格外だ。橘は忍術が主で呪術は補助でしかないから、詳しくはしらない、でもそうだ、代々伝わる魔除けの呪文を書きなおして、それも指先で鋼鉄の板をえぐって。
呪文は大きな力と繋るためのもの、その呪文を唱えないということは、自らが既に大きな力を持っているということだ、そんな人間がいるのか。そうだ、今は悩んでいる場合じゃない、今のうちに亜矢を救いださなきゃ。
「用事も済んだし帰ろうか」
幸が小夜乃に話しかけた。
「母様、少しお時間をください」
小夜乃は言うと、亜矢の母親の前に正座した。
そして、語りかける。
「親子とは一体、何なんでしょう」
思いがけない、小夜乃の言葉に魔女の母親は、答えを準備できずにいた。
「子供は親の一部でしょうか、それとも、独立した存在でしょうか」
いきなりの小夜乃の言葉に、何を言えばいいのか、見つけられずにいる。響子はとにかくと幸に囁いた。
「一体、何が」
「問答による説教。正義感が強すぎてね、ちょっと困っている」
幸が苦笑する。
「追いつめてすぎて、相手が泣きだしてしまう。適当なところで抱えて帰るつもり」
「あの、私は亜矢を探してきます」
「先に言えばよかったかな、亜矢はここにいないよ」
あっさりと響子に答えた。
「おっと、亜矢の母親の顔色が変ってきた。響子さん、ついてきなさい」
すっと後ろから小夜乃を抱え、階段を上り、庭を通りすぎ、門扉を開けて外に出る、あまりにもの滑らかさに、響子は焦りながら幸の後を追いかけ外に出た。
「幸母さま、まだ、半分も話していません」
小夜乃の抗議に幸が楽しそうに笑った。
「ごめん、ごめん。でも、これ以上追いつめたら、あの母親、自殺してしまうかもしれないぞ、さすがに亜矢に恨まれる」
「それは」
小夜乃が力を抜く、幸がそれを感じて、地面に下した。
「小夜乃はまだまだです」
「世の中にはいろんな奴がいる、時間をかけて学んでいけばいいさ、方向はだいたい合ってんだから」
幸があっさり答える、そして、響子に声をかけた。
「あたしの姉さんが二、三日の旅に出た、亜矢は鞄持ちでついていたんだ」
「それは」
「歩きながら喋ろう」
幸は小夜乃と手を繋ぐと駅に向って歩きはじめた。
「あの。幸さんはなぜ亜矢を」
「今朝、うちに魔女が亜矢を連れてきたんだ。修行をつけてくれってね。うちは別にそういうことしてないからって断わったんだけれど、亜矢の様子を見て一週間預ることにしたんだ」
「様子ですか」
心配げに、響子が呟いた。
「心配する必要は何もないよ」
にかにかと笑いながら昼御飯を食べていた亜矢の様子を思いだす。
「ただ、これだけは言っておく」
響子が不安に目を見開いた。
「響子の知っている亜矢はもういない。亜矢は変わってしまった」

微かに唇を噛む。
「まさか、あんな」
「幸さん、それは」
「響子、三日後にうちに来なさい、自分の目で確かめるのがいいだろう」
幸は響子の目をじっと見つめ呟いた。
駅前にやって来た。
「響子さんは電車か」
気楽に幸が尋ねる、さきほどまでの深刻さのかけらもなく尋ねる幸に混乱しながらも、駅名を言った。
「手前の駅だ。そうだ、響子さん、これから用事はあるのか」
「いえ、とくには」
「なら、うちにおいで。帰りは送ってあげるよ」
「は、はぁ」
幸は財布から千円札を一枚とりだすと、小夜乃に手渡した。
「これで、三人分の切符を買ってくれ」
「はい。行ってきます」
小夜乃が券売機に走りよる。
「小夜乃ちゃんって、可愛いですね」
「だろう。若いってのは一所懸命なんだ」
「あの、幸さんって、私より年下なんじゃ」
「上だよ。十幾つで、空飛ぶ魔女を小指捻るように手玉に取れるかよ」
気楽に笑った。小夜乃が駆け戻ってきた。
「はい、おつりです」
「おつりは、小夜乃。自分の財布にしまっておきなさい」
「いいんですか」
「いいさ、幸もその方がさ、保護者しているなぁって気分になる」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」


駅を出て、いつもの町に戻る。
ほっと小夜乃が溜息をついた。緊張していたのだろう、気が抜けたのか、小夜乃の足が少し縺れる、幸はよいしょっと小夜乃を背負った。
「ごめんなさい、幸母様」
「いいよ。今日は大冒険だった。帰ったらあさぎ姉さんに美味しいの作ってもらおう」
小夜乃が安心したように、体を幸の背中に預けた。響子は電車の中で、人の多いなか、ぎゅっと幸の手を握る小夜乃を見ていた。自分も子供の頃、そうだったなと思う。
ものごころつく前からの修行で社会と隔離されていた、だから、人の多いところはとても怖かった。詳しくは知らないけれど、小夜乃ちゃんも今日は頑張ったんだなと思う。
「おおい、幸ちゃん」
商店街入口、佳奈が声をかけた。
「佳奈姉さん、ただいま」
幸が立ちどまり、微笑んだ。佳奈は幸の前に立つと幸の後ろを覗きこんだ。
「小夜乃ちゃん、お出掛けだったのかい。よくなよちゃん、許したねぇ」
「なよ姉さんは旅行へ行ってます、だから、いまは幸が小夜乃の母さんですよ」
幸が朗らかに笑った。
普通に馴染んでいるんだ、響子は二人の会話を聴いて思う。あんな凄い幸さんが、ここでは、普通の人として、普通に喋っている。
「この子は」
佳奈が響子に興味を抱いた。
「は、初めまして」
「あたしは佳奈。この商店街の魚屋」
「私は、えっと、橘響子といいます」
「響子さんか。響子さんは彼氏いるのかい」
「え」
いきなりの言葉に響子が戸惑った。
「佳奈姉さん、夕子さん、あきらめたんだ」
いたずらげに幸が言った。
「あきらめたわけじゃないんだけどさぁ」
うーんと佳奈が腕を組み考えこむ。
「うちの息子は普通だから、普通の娘がいいかなぁって気もするんだ」
「それは残念」
幸がにっと笑った。
「え、響子さんも普通の人じゃないのかい」
にひひと幸が笑った。
「そうだよね、幸ちゃんと並んで歩いてんだから」
「ひどいなぁ、佳奈姉さんは」
幸が楽しそうに笑う。
「そうだ、幸ちゃん。さっき、あさぎさんから電話があったんだ、夕方、新作ケーキ試食会、あとで行くからね」
「うっしゃっ」
幸が鼻息荒くうなずいた。
「最高だ。佳奈姉さん、早く来てね。佳奈姉さんが来るまで、ケーキ、誰にも食べられないよう、命をかけて守るよ」
「うん。走っていくよ」

佳奈と別れ、少し足早に歩く。響子も横を小走りに歩く。えっ、響子が幸の足元に気がついた。着地した足がそのまま、すっと前に滑っている、だから歩いているのに速いんだ。
「あのケーキって」
「あぁ、うちは喫茶店なんだけどさ。店長やっているあさぎ姉さんの新作ケーキは秀逸なんだ」
幸が少し真面目な顔をして言う。
角を曲った。
しばらく歩いてあるのが、元会計事務所、あさぎの喫茶店だ。
白が店の隣りにある通用口から出てきた。
「あ。幸母さん、お帰り」
「ただいま、白」
一瞬、響子が固まった。
「白様、どうして」
響子が呟いた。
白はふっと響子を見つけると、軽く会釈し、幸の後に回った。そして、小夜乃を掲げるように、よいしょっと持ちあげ、道路に立たせた。
「小夜乃、お帰り」
「白姉様、ただいまです」
少し寝惚けたまま、小夜乃が答えた。
「幸母様。ありがとうございます」
「どういたしまして」
「さ、大人の難しいお話はわかりません。さぁ、入りましょ」
白が何もなかったかのように、すっと小夜乃を喫茶店へと連れて入る。
すぐに黒が出てきた。
「白がお客様だって」
ふっと、黒の視野に響子が入った。

「黒様、そのお姿、素敵です」
ぼぉっと熱を帯びた瞳で響子が呟いた。
「うわぁ、橘さん」
思わず、黒が呟いた、できれば、すぐに家に入ってドアを閉めたい。
すっと、幸は響子の首に片手を大きく絡めると、響子の耳元に口を寄せた。
「響子さんは桜花淑女隊なのかい」
「桜花淑女隊 隊長です」
「そうか。なら、話が早い」
じわりと幸の口調が変わっていく。
響子は何か不穏なものを感じ、息を飮む。
「今のいま、桜花淑女隊は解散だ」
その言葉に反発の声を響子は上げかけたが、その声は出せなかった。恐怖が背中からはいあがって来る。その恐怖がぐっと心臓を締めつけるのだ。
「黒は普通の女の子だ、それは間違いない、あたしがそう育てたんだからな。もちろん、頭も切れるし、運動もできる、でも、普通の女の子なんだよ。黒も自分が普通の女の子と思っている、だから、様付けされると辛いんだよ」
「で、でも」
「あたしは自分の娘が苦しむのが嫌なんだ。だから、響子さん、あたしの娘を黒って呼びすてにしてやってくれよ、なぁ」
なんだか、肺が押しつぶされそうだ。このままだと、私、死んでしまう。
「なぁ、黒から、親しげに響子って、呼んでもらいたくないかい。高校生活なんて短いもんだ。様付けして、ずっと、黒と距離を保ちつづけるのがいいのかい、それとも、黒とさ、親しくお喋りしたくないかい」
響子の脳裏に、黒と学校からの帰り道、笑いながら一緒に買い食いをしている自分の姿が浮かぶ。そうか、一言、一言言えば。
「響子さん、黒もきっと、響子と友達になりたいって、そう思っているぜ」
じわりと、幸が響子の背中を押した。
「あ、あの。あの、黒、こんにちは」
思いきって、響子が叫んだ。
「響子、いらっしゃい」
黒が柔らかに笑みを浮かべる、そして、手を差し出した。
黒様が、ううん、黒が私の名前を呼んでくれた そして、私だけに笑顔を浮かべてくれている こんな、こんな素敵なことってあるんだ。
思わず響子は黒に駆け寄り、両手で黒の手を握りしめた。
「うひゃぁ、黒、黒、好きです、愛してるよぉ、結婚して」
「えっと、あの」
戸惑う黒に幸は笑っていたが、後ろから響子の首に腕を回すと、ぐいっと後ろへ引き寄せた。
「当家では、不純異性交遊は禁止でございますが、同じく不純同性交遊も禁止とさせていただいております」

「死ぬかと思った」
響子が溜息をつく。家の台所、真ん中に置いたテーブルにある椅子に深く座った。
「あの、黒さま、いえ、あの、黒は」
幸がガスでお湯を沸かす、紅茶の用意をしていた。
「あさぎ姉さんが新作ケーキを作ってんだ、黒はその手伝いと味見要員だな。ま、ゆっくりしてくれ」
「は、はぁ」
響子は深く息を吸い、そして、ゆっくりと吐く 少し、気持ちが落ち着いた。
「気楽にしてくれ。無邪気で純粋な女の子がお茶の用意をしているんだ、緊張するような要素なんて、何一つ、ねぇじゃねえか」
火加減を見ながら幸が笑った。
響子としては百も反論する言葉があったが、言い返すことなど、とても出来ないと思う、命がいくつあっても足りない。
「幸母さん、白には無理です」
あたふたと白が幸の後ろへ駆けてきた。
「なんだ、どうした」
「二人とも土間に正座して、頭を下げるばかり」
「誘拐しようとしたのは事実だ。でも、小夜乃も許しているし、お父さんはお客さんとして迎えなさいと言った。ということは、白、大ピンチだな」
気楽に幸が笑った。
幸の視野に智里が入る、畑仕事から戻ってきた様子だ。
「おーい、智里」
幸が手を振り、声をかける、気づいた智里は縁側から台所へやってきた。
「幸さん、どうしました」
「お客様に紅茶をお願い」
智里は少し笑みを浮かべると頷いた。
「今日は千客万来ですね」
智里は響子の制服を見て言った。
「黒の御学友ですか」
「朝の亜矢と同じだ。もっとも、魔女じゃなくて、見習い忍者だけどね」
幸は答えると白と一緒に二人の魔女のもとへと行った。
「はじめまして、私は智里。あなたは」
「橘、橘響子です」
「響子さん、黒がお世話になっています」
響子が慌てて顔を横に振った。
「こちらこそです」
響子はほっとしていた、智里さんって普通の人だ、やっぱ、普通がいいよ、幸さん、機嫌損ねたら殺されそうだし あ、でも、どうしたんだろう、智里、何か覚えのある名前だ。
智里は戸棚からお菓子を出すと響子の前に置いた。
「どうぞ、紅茶はスコーンとセットが美味しいですよ」
「ありがとうございます」
智里は手際よく紅茶を入れると、響子の前に置いた。
「お相伴していい」
「はいっ」
少し緊張した面もちで響子が返事をする、智里は少し笑うと自分のティーカップを響子の向かいに置き、椅子に腰掛けた。
「黒は学生生活を楽しんでいますか」
「いえ、あの、私、黒に負担を掛けていたみたいで反省しています」
響子は幸の言葉を思い出し、俯いて答えた。
「亜矢さんと同じですね」
食事時の突飛な亜矢の発言を思い出して、智里は愉快そうに笑った。
「私、亜矢に合わせる顔がありません きっと、亜矢に軽蔑されます」
響子が口ごもった。
「大丈夫だと思いますよ」
智里の言葉に響子が顔を上げた。
「あの、亜矢は」
智里はどう答えたものかと考えたが、一番似合った言葉を見つけだした。
「亜矢さんは黒になついています」
「えっ」
「うーん、二、三日したら戻ってくるでしょうし、響子さんの目で確かめてください」
智里は静かに笑うと紅茶を啜る。
「あの、質問していいですか」
響子が言う、智里がカップを置き頷いた。
「智里さんも幸さんみたいなんでしょうか。あの、術とか」
智里は少し俯いて考えたが、ゆっくりと顔を上げた。
「ここに来るまでは、それなりに自分は使える、そう思っていたのですけど、うん、ここでは、ちょっとわかり始めただけの初心者です、幸さんの足下にも及びません。響子さんは忍者なんですね、そういうことにお詳しいの」
「忍者の家系に生まれました、見習いじゃありませんけど」
少し口をとがらせていう、幸の見習い忍者という言葉に反感があるらしい。
「そうか。響子さんはまだ人を殺したことがないのね」
笑顔のまま、智里が囁く。その瞬間、響子の記憶が繋がった。
殺人鬼、赤報会の智里、凄腕の抜け忍だ、だめだ、怖くて動けない なんで、こんな目の前に。
「あぁ、知っていたのね」
智里は少し笑みを浮かべると響子を落ち着かせるように静かに言った。
「ここにお世話になってから、私は人を殺していないし殺すことはないです。それに響子さんは黒の友達ですから、危害を加えることはできない、私にとって黒は妹みたいなものですから」
響子は椅子から浮かしかけた腰を降ろし座りなおした。
「ごめんなさい、親切にしていただいてながら」
申し訳なさそうに響子が言った。
「自分の行いの結果です」
仕方なさそうに少し笑みを浮かべる智里に響子は胸が苦しくなる。
「響子さん」
「はい」
「響子さん、どんなことがあっても人を殺してはなりません。上からの命令であり、相手が敵であったにせよです」
「でも、それは」
「殺した筈の彼らがいつも私を責めるのですよ。なぜ、お前はまだ生きているのだと」
目を覚ました小夜乃がやってきた。
「どうしたのですか、智里お姉様」
「小夜乃、おはよう。私はいつも通りですよ」
「いいえ、泣いていらっしゃいます」
小夜乃が両手で智里の右手を包んだ。
「なんでも、小夜乃にお任せですよ」
「そうですか、でも、これは私の問題ですから小夜乃に預けるわけにはまいりません、でも、応援してくれれば嬉しいかも」
小夜乃が喜んで、智里にふれーふれー智里と言う、響子はそれを見て、可愛いなぁと思う、弟二人あげるから、妹に頂戴と言いたい気分だ。
「響子お姉様は、お泊まり大丈夫でしょうか」
ふいに小夜乃が響子に声を掛けた。
「え、私」
満遍の笑みで小夜乃が頷いた。
「あ、いやその、急なことだし」
響子としては、憧れの黒がいるのである、もう一度、黒に会いたいとは思うが、やはり、幸が怖い。
「大丈夫だ、小夜乃」
そうそうに二人の説得を終え、幸が小夜乃の隣りにやってきた。
「響子さんは今日、お泊りしたいと思っているに違いない、でもさ、大人だから、一度は遠慮するんだ。二度、お願いするのが、小夜乃、大人への礼儀だぞ」
にぃと悪戯げに、幸が響子に笑いかけた。
逃げ道を絶たれた、響子が観念した。
「あの、響子お姉様」
小夜乃が思いきって言う。
「ありがとう、小夜乃ちゃん。二回、言ってくれて。お世話になります」

今日は喫茶店の休業日、窓には青色のカーテン、日差しが薄青く、店内はひんやりしている、まるで海の中にいるようだ。ケーキ試作のため、厨房からチョコレートの香りが漂っている、その香りだけが現実へと自分を引き戻してくれる。
響子はほっと息を吐いた。家へ連絡するのに、携帯の電波が届くのは喫茶店だけであったのだ。
響子はスマホを鞄に仕舞うと、椅子の背凭れに背中を預け、あぁと小く声を吐く。
幸さんの出鱈目な強さを目の当たりにして、びびってやってきたら、幸さんが黒様のお母さんでって、幸さんの方が年下じゃないか。伝説になっている智里さんに出くわし、あぁ、小夜乃ちゃん、可愛かったなぁ。なんだか、わけのわかんない日になってしまった。
爺ちゃんに、いや、お爺様に外泊するなんて言ったら、絶対、反対するって思ったのに、幸さんがそういうときは、「無の娘が泊れと言った」と言えって、そういったら、あっさりわかったって。これって、幸さんが無の娘ってことだよね、「無」ってなんなんだ。
「あら。こんにちは」
夕子が響子を見つけ、微笑んだ。
「えと、あの、お邪魔しています」
夕子は笑顔で頷くと、一つおいて、隣りの椅子に座った。
「光が青くて外の音も聴こえない、落ち着くでしょう」
「は、はい」
金髪碧眼、白磁のような白い肌。羽があったら、本物の天使だ。天使が隣りの隣りの椅子に座って、分厚い木のテーブルに頬を寄せている。
「大勢でおしゃべりするのも楽しいけれど、こうして、じっとしているのも好きなの」
錯覚だろうか、肌が光を発しているようにすら見える。
「響子さんですね。さきほど、小夜乃がお客様ですよって、嬉しそうにお話してくれました」
響子はどういう表情をしていいのか途方にくれたが、小夜乃の笑顔を思いおこせば、なんだか、自分自身も嬉しい気分になる。
「小夜乃はいい子です」
「私もそう思います」
響子が答えた。
「幸さんにも受けいれてもらえて良かったですね」
「それは、うーん」
夕子がいたずらげに笑った。
「私はここに来るまでたくさんの裏の仕事をしました。忍者の下働きもしたことがあります。私は幸さんや皆さんに受けいれてもらえて、今が一番楽しいんです。幸さんは自分自身を悪人だって言ってますけど、私には優しくていい人なんですよ」
「あの、幸さんって何者なんですか。とても信じられないような」
夕子は片頬をテーブルに載せたまま笑った。
「知りません。ただ、どう考えても普通に生きてきた人じゃないでしょう。だからね、尋ねないことにしているんです」
そっと、夕子が目を閉じる。
響子はその表情に絵画のような非現実感と美を感じた。
本当に天使が休息しているみたいだ。
街中のちょっとお洒落な喫茶店のはずなのに、まったく違う世界に迷いこんだみたいだ。
ふと夕子が目を開け体を起した。
「人の気配がしますね」
夕子は立ちあがると、ドアの前まで行き、少しカーテンを開けて外を覗く。ドアを先頭に百人程の行列ができていた。
「これは」
夕子が呟いた。
佳奈が通用口から飛びこんできた。
「大変、大変」
佳奈が二人を見つけ、やってきた。
「新作ケーキ試食会、ばれてる」
「並んでいる人達、試食会目当てですか」
驚いて夕子が佳奈に尋ねた。佳奈が頷いた。
「絶対、ケーキ、足りませんよね」
夕子が心配げに言う。
「まずは容疑者確保だ」
いきなり幸が現れ、滑かにドアを開け、先頭の一人を抱きかかえ、ドアを閉めた。あまりにも、滑かな動きで拉致された本人すら気づかなかった。
「さて、木村さん。詳しいお話を伺いましょうか」
にかっと、幸が笑った。
「ごめん、幸ちゃん」
申しわけなさそうに、常連の木村が頭を下げる。
「お店の前から、甘いチョコレートの匂いがしてね、これは、秘密の試食会だってぴんと来てね、うろうろしてたら、どんどん、人が集まってしまって」
木村はきっとこれは試食会よと、先頭の数人に喋り、それがびっくりするほど、広がっていって自分でもどうしようと怯えていたことは、意識して喋らなかったが、幸は木村の心を読みながら彼女の話を聴いているので、その事実も把握はした、でも不問にしておくかと思う。
「とにかく、みんなを呼んでくる」
幸が中へと駆けていった。
ちょうど、全員が揃ったとき、かぬかが厨房から出てきた。
「ケーキ、できたよ」
両手、思いっきり広げた大きなトレイにいっぱいのチョコレートケーキが並んでいる。艶やかに光っている。おおぉと唸る声。
「かぬか。大変だ」
「なんだ、幸」
「試食会、ばれて、店の前、百人以上並んでいるんだ」
かぬかが慌てて、トレイをテーブルに置き、窓に近寄る。
「どうする、とても、足りない」
その声を聴いて、後から出てきた黒が涙目になる。
「ケーキ、食べられないの」
黒が今にも泣きそうだ。
可愛い、心の中で響子が叫んだ。怜悧な表情の黒様も素敵だけれど、涙目の黒様、うるうるして、可愛い、可愛い、そうだ、写真、写真を撮らなきゃ。
思わず、響子は鞄に手を突っ込んだが、手が止る。写真、撮ったら、幸さんに殺されるかもしれない。あぁ、せめて、目に焼きつけよう。
「どうしよう、材料もないし」
あさぎがおろおろと呟いた。
「大丈夫だ、あさぎ姉さん」
幸が自信に満ちて言った。
幸はあさぎに駆けよった。
「材料は幸が用意します。そして、みんなで作ろう」
ほっとしたのか、幸の力強い笑顔にあさぎが頷いた。幸はカレンダーを一枚剥し裏を表にマジックで書く。
「木村さん、おいで」
幸は木村を呼びよせると、カレンダーに案内を書きだした。
「本日は長蛇の列にご参加いただきありがとうございます。当店では、本日、休日を利用しまして、秘密のケーキ試食会開催をしております。お並びいただいた方々にも試食していただければと、お一人様一個ずつのプレゼントをさせていただきたく存じます。なお、お時間がまだかかります。お待ちいただけない場合も、来週月曜日から、ハーブティセット税込み九百円で御用意させていただきます。なお、二度お並びになるのは御遠慮ください、また、スマホ等で人を呼び列を延すのは御遠慮ください。見つけたら、ぶん殴る」
長いかなと幸は少し唸ったが、まっいいかと呟く。
「木村さん、はい、どうぞ」
「えっと、私がこれを並んでいる人に」
怖け、木村が幸を見上げた。
「うん、説明してください」
幸はにっと笑うと、木村の首に両腕を絡め、耳元で囁いた。
「終ったら、木村さん、みんなで一緒にケーキを食べよう。旦那とお嬢さん分の土産も用意するよ」
木村が大きなトレイに載ったケーキを目の端で見る。
「わかった、頑張るよ」
「ありがとう。木村さん」

幸は木村を追い出すと椅子の上にすっくと立った。
「ピンチは商機。常連倍増計画開始。幸は材料を仕入れて十分で帰ってきます。それまでに、みんなでケーキを作るための準備をしてください」
幸は見渡すと智里に声をかけた。
「智里がリーダー。佳奈姉さん、智里を助けてください」
「よし。わかった」
佳奈が愉快に答えた。
「あ、あの。そういうのは、あまり得意じゃなくて」
慌てて、智里が言う。
「大丈夫だ、幸の目に間違いはない。小夜乃も智里を助けてくれるな」
「はい」
元気に小夜乃が答えた。
ぶわさっと、幸が大風呂敷を取り出した。緑色の唐草模様である、幸はそれをマントのように首に巻く。
「では。行て参じまする」
すっと幸の姿が消えた。
ふと白が言った。
「多分、幸母さんは服のセンスがないと思う」
「ちょっと、唐草模様はねぇ」
恵子が呟く。
「先生がいるときと、いないときでは、かなり違うよね」
佳奈が頷いた。
「それ、言えてます」
恵子が思いだす。
「仰向けに寝転がって煎餅噛ってて、粉が目に入ったって、ばたばたしていましたよ」
「なんというか、完璧な人間はいないってことだね」
佳奈の言葉にみなが頷いた。
「あ、あの。準備をお願いします」
動揺しながらも、智里が声をあげた。

?

?

予想していたものと違った。わぁどうしようと、あさぎはカウンターにしゃがみこんでしまった。
みんなが新作ケーキを静かに食べていたのだ。誰も何も言わず食べている、黒なんて、泣きながら食べている、美味しくなかったのかと、あさぎは震えてしゃがみこんでいた。
幸は一口食べて食べるのをやめた。
つまりは美味しすぎるのだ。男となよが居ないいま、自分まで、このケーキの美味しさにぼぉっとしてしまうと、結界が緩んでしまいかねない。響子はちゃっかり、黒の前に座っていた。黒がしくしく泣きながらケーキを食べている。美味しいよぉって呟いている。黒様、可愛いとケーキを食べるのも忘れていた。
幸は黒の横に立つと声をかけた。
「黒。母さんの分も食べな」
「だ、だめだよ」
幸が笑った。
「母親は子供が美味しそうに食べていると、それだけで満足なんだ。いいから食え」
「いいの」
幸が大きく頷いた。
「ありがとう。幸母さん」
黒は幸からケーキ皿を受けとると、ケーキをフォーグで四等分する、その一つを食べたあと、もう一つにフォークを差し、響子に向ける。
「はい。響子、あーんして」
「え。えっ、あの、黒」
「はい、あーん」
黒が響子に微笑みかける。思いって、響子がぱくっとケーキを頬張った。黒は立ちあがると、白と小夜乃にもケーキを食べさせにいった。
黒様、いえ、黒があーんって言って私にケーキを、響子はぼぉっと黒のアップを何度も思いだす。一瞬、びくっと響子の動いた。
まさか、これって、間接キス、これって、キス。
これはもう嫁にしてもらうしかない、思いかけたが、幸の顔を思いだして、踏み止まった。
幸は佳奈の横に行くと真面目な表情で佳奈に言った。
「佳奈姉さん。あさぎ姉さんのケーキを商店街で売るっての、どう思う」
「そりゃ。願ったり叶ったりだけど、どうして」
「注目はほどほどかなと思って」
佳奈は幸がテレビや雑誌の取材を全て断わっているのを思いだした。考えてみれば、ここにいる全員、一般の世界で普通には暮せてはいけない、ここはシェルターのようなものだ。
佳奈は頷くと立ちあがる、幸とカウンターの後、あさぎの隣りにしゃがんだ。
「幸、どうしよう」
涙ぐみながらあさぎが言う。
「とっても美味しいよ。みんな、びっくりしているだけだよ。黒なんか、美味しすぎて、泣いてたもの」
あさぎがほっとしたように微笑んだ。

驚いた。
響子は広間で男を除く全員が一緒に雑魚寝をしているということ、ましてや、寝る向きもばらばらだし、場所も決っていないということに驚いた。もちろん、響子は黒の隣りだ。ただ、緊張して眠れない、横を向くと黒の寝顔が見える、顎の辺りまで掛布団をたくしあげて、とっても、可愛い。
薄暗がりのなか、ぼぉっと眺めていたせいか、喉が乾く。響子はそっと立ちあがると、水を飮みに台所へ向った。微かに明り。男と幸がテーブルにつき、喋っている。
「響子さん、おいで」
幸が背を向けたまま言う。少し怯えながらも、二人に近寄る。
「どうぞ」
幸が椅子を引くと、響子は恐縮しながら座った。

幸はお茶を注ぐと、響子の前に湯呑みを置く、
「少し飲んだらいいですよ」
「ありがと、うございます」
そうだと思いだした。幸さんはお父さんの前では、言葉使いが丁寧なのだ。そっと、お茶を口に含む、美味しい。
「美味しいです」
幸がそっと笑みを浮べる。
男が興味深そうに言った。
「響子さんは黒と結婚するのかい」
「あ、あの。ごめんなさい、変なこと、言ってしまいました」
響子が俯く。男はうーんと唸る。
「いつかは黒も結婚するのかなぁ」
「幸は男の人は苦手だから、女同士の結婚はありだと思う」
「女同士か。それじゃ、響子さんと黒の結婚もありかい」
幸が少し考える。
「響子さんがお嫁さんに来てくれるならありかな。姑さんに黒が苛めたれたらいやだもの」
「そうだなぁ。もしも、黒が苛められたら、父さん、抗議に行くかもしれない。うちの黒はお箸より重いものは持たせたことがありません、もっと大事にしてくださいって」
幸が楽しそうに笑った。
「お父さんは子離れできていません」
「それはお互いさまだな」
男がそっと笑みを浮べた。
「橘と言えば、響子さんのお爺さんは幻妖齋という名前だったじゃないかい」
男が響子に言った。
「は、はい。変な名前ですけど。あの、おじさんはご存知なんですか」
「二十歳頃かな、一緒に仕事をしたことがあったよ。もう、随分、昔の話だね」
「おじさんが無さんなんですか」
幸がすっと男に頭を差しだす。男はこつんと叩くと、溜息をついた。
「ごめんなさい、お父さん」
幸がにっと笑った。
「ま、いいよ」
男は響子に向きなおると仕方なそうに笑った。
「若いころの渾名だよ。目立たない、いるかいないかわからないって意味さ」
「あの、おじさんはみなさんからとても信頼されていて」
「ありがとう」
男が笑った。目立たないの言葉の意味をわざわざ解説する必要はない。
「橘家といえば、忍者の世界では大家だ。男の子が生れれば跡継ぎ、女の子の場合は政略結婚だ。響子さんは許婚がいるのじゃないかい」
「うわぁ」
響子が頭を抱えた。
「そうなんですよ、最悪です。政治家の長男ですよ。嫌ですよ」
「響子さんは会ったことがあるのかい」
響子が顔を顔を上げた。
「何度も会わされました、同い年のつまんない奴です。黒様の方がずっと素敵です」
幸が響子の手を握った。
「男の創りだした仕組みに女が従う必要はないよ。幸ががつんってかましてやるよ」
「ほどほどにね」
男が気楽に笑った。