遥の花 あさまだきの靄 小夜乃

遥の花 あさまだきの靄 小夜乃

「好機到来です」
店の前、小夜乃は額にはちまきをするとぎゅっと結んだ。
小夜乃は一人で外を出ることができない、鬼に襲われる格好の餌となる、なよはそれを心配し、できるだけ小夜乃が外に出ないように、どうしても出るときは、自分か黒が同行するようにとしていた。
小夜乃はしっかりした女の子である、いつまでもそんなことでは自分がだめになってしまうと考える。
そんな時に、なよがしばらくの間、鬼紙家へ行くことになったのだ、この機会に一人旅を、日帰り旅をするのですと小夜乃は決心したのだ。
「とにかく列車に乗ります、町の結界の外で買い物をし帰ってくるのです」
「ということは、まだ、はっきりとした目的地を決めていないってことだ」
幸が煎餅をかじり、にかっと小夜乃に笑いかけた。
「幸母様、どうして」
「店の前で小夜乃が気合いを入れている、なよ姉さんはいない、なよ姉さんの日頃の態度と小夜乃の性格を思えば出かけようとしているんだなくらいわかるよ。止めはしない、実朝も肩とまっているんだからさ」
「実朝、よろしくお願いします」
小夜乃が肩にとまる文鳥、実朝に笑いかけた。
「たださ、目的地が決まっていないのなら、亜矢の家に行かないか。用事があるんだ、向こうで落ち合おう」
小夜乃はしばらく考え、少しほっとしたように頷いた。
「お願いします」
幸はノートを取り出すと、亜矢の住所、道順、降りる駅、正確に書き、小夜乃に手渡した。
「およそ電車で三十分、駅を降りて十五分歩けば亜矢の家だ。私は一時間ほど用事を済ませてから飛んでいく」
「ちょうどいいです」
小夜乃が笑った。
「それじゃな、何かあったら、もちろん、実朝もいるけどさ、私を呼べよ なよ姉さんの小言を聞き続けるのはつらいからさ」
幸はいたずらげに笑みを浮かべた。小夜乃はお辞儀をすると駅に向かってしっかりと歩きだした。幸は完全に気配を断ち、小夜乃の数歩後ろを歩き始めた。

「どうするよ」
「さすがにやばいって」
三人の新米魔女が改札口の隅で密談をしていた。上からの指示だ、かぐやのなよ竹の姫の関係者を拉致せよ、厳命だ。
「いつも偉そうにしているMKがびびって青い顔して逃げ出したんだよ、あたし等になんとかできるわけないじゃん」
「でもさぁ」
三人とも顔面蒼白だ。簡単な魔術も満足に使えない、ほとんど素人。それくらいの素人でないと、この町では自由に動けない。
魔女の一人がひきつったように顔をこわばらせると、視線で二人を促した、慌てて、二人はその視線の先を見つめたが、ぎゅっと視線を戻すと、小声で囁きあった。
「鉢巻をした子供、mkの報告書の子だ」
「どうしよう」
「うっかり気づかなかったってことにしようよ」
「でも、ばれたらあたし等が殺されるよ」
「どっかで、上の奴らが監視しているかもしれない」
三人は決心すると、何気なさそうに小夜乃に向かって歩く、ポケットにはナイロン袋に入れたハンカチ、クロロフォルムが滲みこませてある、先頭の魔女が駆けだした、ポケットからハンカチを抜き出す。
小夜乃が立ち止まり、先頭の魔女をじっと見つめる、ハンカチを掴む魔女の手が小夜乃の口元に近づいた瞬間、小夜乃は両手で魔女の手首を掴むとすとんと姿勢を落としつ体の向きを反転させた。ふわりと魔女が投げ飛ばされる。
小夜乃が二人の魔女をぎゅっと睨んだ。
「悪いことはだめです」
小夜乃が強く言った。
「人と生まれたからには、常に善悪を考え、善を為すこと。自身の行為が悪であるならば勇気をもってその行為を中止しなければなりません」
年下の女の子に真っ直ぐに諭され、二人は自分自身の情けなさに座り込んでしまった。
小夜乃は振り返ると投げ飛ばした魔女の手をとり、体を起こす。
「あの、ごめん、ごめんなさい」
手を取られたままの魔女が涙ぐみながら小夜乃に謝る。
亜矢さんと同じ匂いがする、複雑なハーブの香り。この人たちも魔女。そうなら、これは亜矢さんが術を教えてもらえるための人質を穫ろうということだ。
小夜乃は先ほどの食事の後、なよが言っていた言葉を思い出した。亜矢が教わった術を伝えることを拒否すれば、殺されるかもしれないということを。このまま自分が電車に乗って行けば、このお姉さんたちは殺されるのだろうか。もしも、一緒に行って、魔女の人たちに、こういうことはやめてくださいって言えば。

すっと、幸が刀を空から取り出した。
「やぁ。どうしたんだい」
男だ。杖を器用に使い、男が駅からやってきた。
幸が慌てて刀を消した。
「お父様。どうして、ここに」
小夜乃が驚いて言った。
「鉢巻して気合い入れて出かけるのを見たからさ、危ないことがないようにと駅に先回りしたんだけど、駅に着く以前に危ないことが起こってしまったとはね」
男は気楽そうに笑うと、小夜乃と魔女のすぐ横にしゃがんだ。
「お姉さんの手首、離しなさい。鬱血しそうになってるよ」
慌てて、小夜乃が手を離した。
「ごめんなさい」
小夜乃が魔女に頭を下げた。
「あの、こちらこそごめんなさい」
後の二人もやってくると、ごめんなさいと小夜乃に頭を下げた。
「あの、いえ、こちらこそ」
少し戸惑いながら小夜乃が答えた。
男はほっとしたように小夜乃を見て言う。
「小夜乃は今日何処へ出かけるつもりなのかな」
「亜矢さんのお宅へ行く予定だったのですが、お父様、この人たちに命令した人のところへ行って、悪いことを命令するのはだめですって言いに行く方がいいのかなと思っています」
「なるほどね、父さんにはそういう発想はなかった、勉強になるなぁ」
男はしゃがんだまま、小夜乃を見上げた。
「その役、父さんにくれないかな がつんと大きな声で言ってくるよ」
「でも」
「大切な自分の娘が決して安全でないところへ行こうとする、それを見送るのは辛いよ それに父さん頑張って言うよ、だめなものはだめですって」
小夜乃は男の口から大切な自分の娘と言われたことがとても嬉しかった。
「お任せしてもいいですか」
「もちろん だから、亜矢さん宅に行っておいで」
小夜乃は幸せそうに頷くと、頭を下げ行ってきますと言った。
男は小夜乃を見送ると立ち上がった。幸がぎゅっと男を抱きしめていた

「ごめんなさい、お父さん」
幸は男が声をかけなければ、三人の魔女の首を切り落としていただろう。
すぐに幸が姿を消した。小夜乃を追ったのだった
展開についていけず、三人の魔女は男を見つめていた。
男は目の前の魔女をみつめると、にっと笑った。
「洋子さん、近くの駐車場に車を停めてあるだろう 協会まで送ってくれないかな」
魔女は頷いた次の瞬間、男が自分の名前を呼んだことに驚いた。
男はいたずらが成功した子供のように笑顔を浮かべると、杖を頼りに立つ。
「道々、何故、魔女になったのか、幸恵さんや詩織さんにも教えてもらおう」


「これはなかなか」
洋子の運転でやってきたのは、カトリックの教会だった。
およそ三百台の駐車場、その端に車を停めると四人は駐車場奥の小径を歩く。
昼下がりの木漏れ日が小径を降り注ぐ。
「これはお弁当がいるね。ピクニック楽しいだろうな」
気楽に男が言う。
道の向こうから、結婚式下見の男女が歩いてくる、とても楽しそうだ。
すれ違う、男がにっと笑って手を小さく振った。すれ違う二人が笑顔で頷いた。
「教会だから結婚式もやっているんだね」
緊張した顔で洋子が頷いた。
五分も歩いたろうか、白亜の教会が見えてきた。
青空のもと、教会は清らかであり、神聖な場に見えた。

四人は歩き、教会の裏側へ回り込む。裏側は垂直の外壁、普通にあるビルディングである。中央の自動扉を入る、エントランスの向こう、エレベータだ。
「三階です」
詩織が言う。
幸絵が思い切って言った。
「ごめんなさい、あとは私たちでなんとかしますから、ここから帰ってください。上の人たちはとても怖い人たちで、呪いで人を殺すことも平気です」
洋子も言った。
「私たちが言えることではありません、それはわかっています、でも、さっきの女の子の言葉で思いました、私には勇気が足りませんでした」
洋子の言葉に二人も頷いた。
男がそっと笑みを浮かべた。
「なかなかねぇ、私もそれじゃあとはよろしくって言えないんだよ。あの子は必ずお姉さんたちどうでしたかと私に尋ねる。途中で帰ったから知らない、これでも父親だからさ、そうは言えないよ。それに、そんな怖い上司のところへ、君たちは意見を言いにいくわけだ。勝算はあるのかい、上司がなるほどと頷いて君たちを無事解放してくれると思えるかい」
三人が沈んだ面持ちで俯いた。
「年を取ると、若い人のまっすぐが眩しいなぁ。さて、私は娘に約束した。悪いことはだめですって言ってくるってさ」
男は左手でエレベーターのスイッチを押す、ドアが開いた。男がエレベーターに入ると、それを追うように、三人もエレベーターに入る。洋子が唇を引き締め、3Fを押した。

エレベーターが降下していく。
慌てて洋子が何度も3Fのボタンを押す。
「大丈夫だよ」
男が一瞬、子供のような笑顔を浮かべた。
「地下の貴賓室に招待してくれるのさ」
やがてエレベーターが止まり、ドアが開く。
薄暗い地下の、鍾乳洞のような世界が広がっていた。男がエレベーターを降りる、三人もそれに従った。
杖を、男が半分エレベーターに残るように転がした。
洋子が呟く。
「エレベーターのドアが閉まりきらないように」
「いや、ただの嫌がらせさ。ドアが閉まったり、開いたり、楽しいだろう」
エレベーターが繰り返し開閉する音を背に四人が歩く。辺りは湿り気を帯び、かすかな明かりは、古びた街灯が、それも石油ランプのような古風なランプがいくつも辺りをほのかに照らしている。
「天井もかなり高い、街を模したシェルターみたいだ、三階建ての家が十分に建つ高さだね、魔術で掘ったんだろうな」
詩織が悲鳴を上げた。
視線の先に何か人型のものが斜めに転がっている。よく見るとあちらこちらに打ち捨てられた卒塔婆のように立っている。
男が近づいて見てみる、
「処女の棺だ。魔女裁判で使われたものだよ」
男が戸惑いなく棺を開ける、内側には無数の太い針が中に閉じ込められた魔女を串刺しにする。男は中の太い針を一本折り眺めてみる。
「レプリカだね、あんまり良い趣味じゃないな、こういうのって」
「あ、あの」
女の子三人、怯えて今にも座り込んでしまいそうだ。
「魔女が魔女を拷問するための道具を揃えている、ま、もっとも、キリスト教の教会を隠れ蓑にしているくらいだ、これくらいの矛盾はどうってことないんだろうね」
「これは現実なんでしょうか」
「実際に起こっていること、という単純な意味では現実だな、エレベーターの設置は魔法じゃない、専門の業者さんたちが足場を作ってしたんだろうな、業者さんたちの戸惑う顔が浮かぶなぁ」
女の子三人、辺りを見渡す。いくつもの拷問器具を立てたり、転がしたり、雰囲気作りをした人たちの様子、多分、どれ一つも一人では運べないだろう、エレベーターに載せておろして、三人くらいで持ち上げて運んだのだろうか、そんな風に考えると、少しずつ恐怖心が和らいでいく。男はそんな三人を見ると、楽しそうに笑った。
歩く、遠くに灯りのともる家が見えた。
「あれだな。洋子さん、詩織さん、幸絵さん」
「はい」
「おへそのちょっと下、ぐっと力を入れなさい、そうすれば気持ちが収まる。あとは、私がいるから大丈夫だよ」
三人は不思議な気分でいた、なんといっても、自分たちが誘拐しようとした女の子の父親だ、怒りの矛先を向けるでもなく、楽しんでいるようにすら見える、それに、そんな男を今では自分たちはすっかり信頼してしまっているということだ。
男が洋館の大きなドアの前に立つ。二階建てのイギリスの少し田舎辺りにあるようなレンガ造り、暖炉の煙突もレンガで作られてあり立派だ。男が軽くドアを叩く。
「旅の者にございます、道に迷い難渋しております、どうか、戸を開け、暖をいただけないでしょうか」
中から年を取った女性の声がした。
「それはそれは、さぁ、ご遠慮なくどうぞ。鍵はかかっておりませんわよ」
洋子は男が片腕なのを思い出し、ドアのノブに手を伸ばしかけたが、男が首を横に振った。そして、視線で三人に自分の後ろに下がれという。素直に三人が男の後ろに控えた。男がノブを回し、ドアを少し開けたところで、思いっきりノブを押し込みドアを閉めた。
爆音だ、ドアが揺れ、耳を劈く獣の咆哮が辺りの空気を震わせた。
「さてと。もう、いいかな」
男が何事もなかったかのドアを開ける。
ドアの大きさそのままの犬の首が大きく口を開けたまま上を向いていた。
「ケルベロスの首を一つ切るとは、動物愛護団体に叱られますよ」
中央には細かな彫刻がふんだんに飾られたテーブル、その奥に一人の女性が腰かけていた。シスターの衣を身にまとった、それが協会の最高指導者グランシスターだった。
男とシスター笑顔で会釈をする。
「お騒がせてしてごめんなさい、女の一人暮らし、物騒でしょ」
「そうですね、この頃は世の中もぎすぎすして、随分と暮らしにくくなりました」
男は振り返ると、女の子三人に入るよう促した。
おずおずと三人が入ってくる。
「あらあら、この子達。どんな子を連れてくると思っていたら、殿方をお連れするとは、最近の子は困ったものだわ」
「いやいや、この子達を責めないでやってください、実は私の末っ子が彼女たちに連れ去られそうになりましてね、大事な娘を怖い魔女に連れ去られては大変と私が娘に代わりやって来たわけです。片足で疲れました、座らせていただいてもかまいませんか」
「きづかずにごめんなさい、どうぞ、お座りになって」
シスターの言葉に男は正面の椅子に座った。
「もう少しお話をさせていただきます。末っ子からの伝言です。人として生まれたからには善を為せ、もしも、己が行いが悪であるなら、勇気を持って悪と決別し善を為せ。以上です」
シスターは困惑したように目を見開いていたが、いきなり、大笑いをした、腹がよじれる、そんな下品な笑いだった。


男は気にした様子もなく、静かに眺めていた。ようやく、シスターの笑い声が収まる、男は何も言わず、微笑んだままだ。その様子にシスターの気が障った、シスターが男を睨みつける。それでも男は笑みを浮かべたまま喋らない。
ふと、男が今気づいたとでもいうように唐突に言った。
「あぁ、私の順番でしたね、ここは私がうちの娘を馬鹿にするのかと怒って、あなたが上から、社会のそもそも論を展開するという流れでしたか。このやり取りを考えれば。これは失礼」
シスターが容姿からは想像のつかない低い声で囁いた。
「いけ好かない男ね、呪うわよ」
「およそ百八十年前」
男がいきなり呟いた。
いったい何を言いだすのかわからず、シスターが半分口を開け男を見る。
「あなたがこの国に来た時、魔術はキリスト教よりもはるかに古い生活の知恵だった。自然、いえ地球と表現するほうがいいかな、地球と密につながる方法だった。若いあなたはすべての人が幸せであるようにとこの国にやって来たはず。人は年を取るほどに我執にとらわれ保身を図る、人の寿命は頑張っても百年と少し、人はそれくらいで死ぬ方が地球だとか、環境だとか、自然だとかには良いのかもしれませんね」
「お前、何者だ」
シスターがいきり立ち、男を睨みつけた。
男は両腕を組み、かすかに首を傾げる。
「哲学的な問いですね。生まれた瞬間から、人は何かを学び、自分自身を作っていく。私はいったいどんな自分を作って来たか。改めて考えると、若気の至りとでも申しましょうか、恥ずかしいことばかりです」
目を瞑り、少し俯きながら男が感慨深く言う。
洋子たち三人は二人のやり取りに立っていられず、しゃがみ込んでいた。
グランシスター、協会で一番偉い人、独裁者と言ってもいい、誰も彼女の前では恐怖にひれ伏す、なのに、まるでグランシスターを小ばかにしたように返事をする男。
「お前に呪いをかけます」
グランシスターが叫んだ。男が目を開け、にぃいと笑った。
「では、私もあなたに呪いをかけて差し上げましょう」
男は先ほどの棺の針を差し出した。
「この針を地下の迷宮から、およそ八十メートルの岩盤を貫き、地上三階、執務室のあなたのところへお送りします」
針が消える、次の瞬間、グランシスターの額寸前に針が浮かんでいた。
「なに、なによ、これは」
「もしも、あなたが」
男が囁いた。
「ごほ、げほ。あれ、風邪かな。に、あれば、その針はあなたの額を割り、脳を貫通して、飛んでいきます。もしも、それを避けたいのであれば、ごほっ、やっぱり、地下は湿気が多いのかな、であれば、それを避けることができます。ご理解いただけましたか」
「なによ、消しなさい。こんなことをしてただで済むと思うの」
グランシスターが顔をまっかにし叫ぶ。男は、特に気にするようすもなく、テーブルの掛布を取り除いた。テーブルには一面に巨大な魔方陣が描かれていた。
「それに触るな」
グランシスターがありったけの声で叫んだ。

「えっと、これかな」
男が魔方陣の一部を掛布でごしごしと消した。グランシスターの声が消えた、姿だけがある、口角泡を飛ばし、両腕を振り上げている。男はもう一角の文字と内側の円をほんの少し消す。
「これでこちらの情報も向こうへ伝わらなくなった。やぁ、ほっとするね」
「あ、あの。これで良かったのでしょうか」
戸惑う洋子の言葉に男は笑みを浮かべた。
「これから、たくさんの魔物が襲ってくる。頑張って戦おう」
「ええっ」
三人の言葉に男が嬉しそうに笑った。
「と、言いたいけれど、君たちだけ先に地上へ返しておく方がいいかな、それじゃ」
こんこんと扉を叩く音が聞こえた。
三人がおびえたように扉を見つめた。
「旅の美少女です、道に迷い難渋しております。どうぞ、お助けくださいませ」
「どうぞ、お入りください」
男が答えた。ゆっくりと扉が開いていく。唇を震わせ、三人が小さく縮こまる。
「無茶ですよ、師匠は。お父さんを手伝って来いと穴に蹴り飛ばされました」
漣は尻もちをついたのだろう、お尻をはたきながら屋敷の中に入って来た。

「お父様、この方たちは敵ですか、すとんと首を落としておきますか」
「もしも、そういったことをすると、帰ってから、ここへお座りただけますかの一言を皮切りに、末っ子の説教が始まる。人として生まれたからにはと」
男が深刻な顔をして言った。一瞬、漣の体が震えた。なよを前にこんこんと説教を続ける小夜乃の真剣な表情、前に座る泣きそうななよの表情。
「いたずらに生命を奪うのはよくありません、妹に説教されるのは嫌ということとはかかわりなく」
「お父様、この方は」
漣が指さす。グランシスターが大声で呪文を唱えている、声は聞こえないが。
「魔法使いの、ここで一番偉い人が、なぜか父さんのことに腹を立てて、これは召喚魔法だな、たくさんの魔物をこの屋敷の周りな集めているんだ」
ふと、漣は気づいた、その魔女の額、寸前に大きなとげのようなものが浮かんでいる、手を伸ばしかけて、漣はそれは立体映像であることに気が付いた。
「こめかみ、血管が破裂しそうですよ。お父様はいけ好かない奴を怒らせる天才です」
「ちょっと呪っただけであんなに怒るなんてね、ご自身はさんざん人に呪いをかけてきたのにさ」
漣が愉快に笑った。
「師匠に蹴落とされて最低と思っていましたけど、なかなかのご褒美です。楽しくなりそうです、そうだ、これは」
漣が興味深そうにケルベロスの頭を眺めた。
「地獄の番人と言われる頭三つの犬、ケルベロスだよ」
ふと、男が扉の向こうに視線をやった。
「ケルベロスの本体も召喚されてやってきたようだ。ひのふのみの、十一体、そろそろ、グランシスターも限界だろう、外へ出てお歴々面々ご尊顔拝するかな」
男はしゃがみ込んでしまった三人に声をかけた。
「一緒においで。この屋敷は咢だ。このままここにいたら、魔物の胃袋へ入ってしまうよ」

「これは壮観です」
漣が犬の頭を引きずり出し、見上げる。三階建てのビル、それくらいの高さだろうか、様々な形をした魔物が屋敷を囲み男と漣を見下ろしていた。
「四角い岩をいくつも切り出して組み立てた人型したのも、魔物でしょうか」
「一つ一つの岩に霊を憑依させて組み合わせたものだ。それぞれの干渉力を切れば、ばらばらの岩に戻るよ」
「つまり細かく切っちゃえということですか」
「そうだね、もしくは解呪術で繋がりを解くかな」
「解呪術は教わっていません。ですから、切ります」
「蛸に似たのもいるねぇ、旧支配者を模したのかな、ちょっと切りにくいかな。ま、それぞれの特徴を捉えてさ、楽しんでください」
漣がにぃぃと笑みを浮かべ、頷いた。
「奴らは睨むだけでどうして襲ってこないのでしょうか」
「その理由は簡単、彼らの立場になって考える。召喚されてきたけれど、足元に一匹の蟻。召喚者はこれを倒せと命令した。えっと、これって踏みつぶせばいいのかなぁって戸惑う方が当たり前だろう」
「では、びっくりさせてやります」
漣が右足のつま先でとんと地面を叩いた。

「こんなの、どう報告すればいいんだ」
洋子が思わず呟いた。
「報告しなければいいんじゃないかい」
いつの間にか男が洋子の隣に立っていた。
漣が飛びあがり、白い棒で岩のゴーレムを一刀両断する、そのまま、返す勢いで、隣の黒くうごめく何かを払う。
「あ、あの」
洋子は怯え、上目づかいに男を見る。
「わかっていましたか」
男は頷くとにっと笑った。
「駅で待ち伏せをしているときからね」

男はにっと笑みを浮かべた。
「扱いは他の二人と一緒だ 危害は加えないよ」
言い残し、男は隣りへ、そして辺りを見渡す。
「助かった、ありがとう」
「どういたしまして。あと、ケルベロスはどうしますか」
後ろで低くうずくまっている、出遅れたせいで、刃の餌食にはならずにすんだようだが、漣の気迫にすっかり怖じ気ついていた。
「首を返してやるかな」
漣は頷くと自分の身長より遙かに大きいケルベロスの頭の耳を両手で抱え、放り投げる。
「精霊の体を繋ぐのはそれほど難しくはないんだ」
男はとんとんと器用に瓦礫の上を渡るとケルベロスの前に立った。慌てて漣も男に駆け寄る。
男が呟く。
無は呪を唱えず、ただ、強く意念を用いるのみ
男の呟きに呼応したかのように、ちぎれた首が動き出し、元通り首が繋がる。
「どうする、ペットとしてこの子を飼うかい」
「笑さんの竜之介や、それから実朝みたいにとも思いますけれど、うーん」
漣は首を傾げ考えたが、あっさりと答える。
「やっぱいいです。門番がいなくなっても困るでしょうから」
「なら、このままでいいだろう、魔女も寝込んでしまったし、呪文の力も消えた、そのうち、自力で帰るだろうさ」
男と漣は三人のもとへ戻った。
「さ、帰ろうか」
五人が元のエレベーターまで向かう、エレベーターの入り口は開いたまま止まっていた電源そのものが切られてしまったようだ。
男が手前の岩肌をこんこんと叩く。
「これかな」
岩壁の少し突き出した部分を両手で掴みぎゅっと回す、岩壁が扉のように開き、そのすぐ奥に梯子が見えた。
男は一歩前に進み見上げる、梯子が闇の中へ消えていく。
男は振り返ると三人に言った。
「洋子さん、幸恵さん、詩織さん、三人、頑張って梯子を登ってください 私は上から攻撃されないように先に上に登りましょう」
男が漣に向き直り言った。
「三人が落ちそうになったら支えてくれるかな」
漣が頷く。
「お父様には絶対服従でございます」
漣がにぃっといたずらげに笑みを浮かべた。
「いや、そういうのはいいよ」
男は困ったように苦笑いを浮かべると小さなガラス球を取り出した。ふっと球の中に小さな炎が灯る、男は漣にそれを渡すと浮き上がり闇の中へ消えていった。
「どうぞ、梯子を登ってください」
漣の言葉に洋子が梯子に手を伸ばした。闇の中、漣がガラス球を軽く放り投げる。ガラス球はふわりと浮き手元を照らす。
三人が梯子を登り始めた。
最後は詩織だ。漣は詩織の下を、三人が登るのと同じ速度で浮かび上がっていく。

漣は男が何故、自分の名前を呼ばないのかを理解した。先頭の洋子が滑らかに登っていく、左右のぶれがないのだ。他の二人はあきらかに力味過ぎている。
それでも男が三人を同じように扱っているなら、漣は今はそれを指摘するのはやめておこうと思う。
「急いでください。あまり、ゆっくりしていると酸素や筋肉の乳酸の都合で落ちてしまいます」
漣としては、受けとめられないかもしれませんよの一言も加えたいところだが、男を困らせないように言うのをやめておく。

漣は必死になって登る幸恵と詩織を同じ速度で浮かびあがりながら見る。魔女の服装だけれど、全くの素人だ、好んで魔女になったようには思えない。お父さんの関りかたを考えるなら、魔女から抜けだそうとしているのだろう。二人とも息が荒い。それもそうだろう、多分。半分は来た。
瞬間、後を登る詩織の左手が梯子を掴みそこねた。ぐらりと揺れる詩織を漣が支えた。
「ごめんなさい」
「謝る必要はありません。早く登ってください」
「はいっ」
体勢を整え、詩織が梯子を掴んだ。
男は穴の一番上で、四人を待っていた。最初に洋子がやってきた。
「おつかれさま」
男が気楽に声をかけた。洋子が息を整えて言った。
「あの、えっと。ありがとうございます」
場違いなほど、気楽な男の言葉にどう返答すればいいか、戸惑ったのだ。
「えっと、このあとは」
「ここは結婚式場の祭壇裏側と繋がっている。みんなそろったら洋子さんの車で逃げよう、そして、うちへ来てくれ。場所は知っているんだろう」
「はい、わかりました」
洋子が頷いた。
「ところで、洋子さんはこういう仕事がしたくて警官になったのかい。潜入捜査は大変だろう」
一瞬、洋子は息を飲んだが、観念して答えた。
「父も母も警察官でしたから、子供の頃から自分も警察官になるものだと思っていました」
「なら、びっくりしただろうね。魔法だとかさ、わけのわからない奴らばかりで」
男が愉快に笑った。
「こんなの、警察の仕事じゃないですよ」
「確かにそうだな。もう何年になるかな、この国は鬼と戦うため、魔法使いや呪術使いを警察や自衛隊にとりこんだ、術者は喜んで自分達の術を彼等に教えた。強くなった鬼達に自分達だけで戦うのを恐れた、自信がなかったんだろうな。もともと、警察官も自衛官も体力はあるし、精神力も頑強だ。すぐに術も身につけて、今では、術師が彼らの下働きだ。もう、笑うしかないな」
「本当に鬼がいるなんて思いもしませんでした。まさか、警察官になって、呪文の練習をするなんて、考えられないです。もう辞たいです」
「鬼の存在は国家機密だ、ばればれでもさ。だから、辞めさせてはくれないだろうな」
「あの、叔父さんも術師なんですよね」
「ええっ、やだよ。失礼だな」
男がくすぐったそうに笑った。
男が下を見る。三人がやって来た。

男は後から来た三人にも、状況を説明した。
「洋子さんと幸恵さんと詩織さんは、とにかく車に向かって走ること、いいかな」
男の言葉に三人が頷いた。五人が地下から飛び出す、結婚式場だ、先頭を漣が走る。長机を飛び越え、外へのドアを蹴り抜いた。
綺麗に設え、色とりどりの花が咲き誇る中庭だ、振り返る、後ろを走る三人も息せききって駆けてきた、中庭を越え、森の小径を走れば、駐車場だ。
漣が、前を向き、微かに顔を上げる。
五、六、漣が呟く。
箒に跨った魔法使い、六人が漣をにらみつけていた。
にぃぃと漣の口元が笑う。
「投降しなさい」
中央の魔法使いが漣を見下ろし言った。
漣は無言で白い自在を取り出す。
「手加減はしてやろう」
次の瞬間、中央の魔法使い、箒の後ろに立っていた。回し蹴りが見事に魔法使いを壁に放り投げる。
顔面から魔法使いが壁に激突する。
鼻っぱしらが折れた。
漣が空に浮かぶ箒の上でとんとんと箒の柄を爪先でつつく。扇型に五人の魔法使いが漣に向きなおる、背にしていた弓を引き、鏃を漣に向けていた。五本の矢が放たれた。すいっと漣は避けるが、行きすぎた矢が反転し漣に向き加速する。
「ほぉ、キューピットの矢だ。久しぶりに見たなぁ」
「どうしましょう」
洋子が焦って言う。
「しばらく遊びそうだし、君たちだけ、先に車まで送ろう」
男はよれた背広の上を片手で器用に脱ぐとすいっと空に投げる。
「あちらが魔法の箒なら、こちらは魔法の絨毯といいたいところだけれど、これでがまんしてくれ」
背広が反転し、三人を後ろから拾いあげる。
「それじゃ、後でね」
男が笑う。
三人を載せた背広が駐車場へと飛んだ。
漣はというと、気分よく箒の上でゆらゆら踊っている。五本の矢が縦横無尽に漣を貫こうとする。するすると漣が矢を擦り抜ける。
魔法使いは理解できないものを見るように呆けてそれを眺めていた。
「そろそろ行くかな」
男が呟く。そして唸る、調子が遅く早く変化する、大量の呪文を効率よく唱えるための、中間言語だ。5本の矢がすとんと下に落ち、どすんと5人の魔法使いがまっさかさまに地面に落ちた。
「なよの解呪法は効くなぁ」
男は呟くと、漣に声をかけた。
「さぁ、行くよ」

漣は箒から降りると男の前にやってきた。
「さぁ、帰ろうか」
漣が頷く。男は自在を出すと杖がわりに歩く。漣は半歩後ろ、男の後ろを歩いた。後ろからの攻撃に備えてだったが、落ちた魔法使いたちに攻撃の意思はなかった。十数年、厳しい修行を経て、やっとのことで得た魔法が一瞬の後、使うことができなくなったのである、二人の存在など、もう、彼らの頭の中にはなかった。
「お父さん、誰も攻撃してきません」
「触らぬ、なんとかには祟りなし。自分たちが干渉しなければ、無事でいることができると判断したんだろう。正解だと思うよ」

駐車場に至る木漏れ日の小径を歩く。
連は男の後ろを歩きながら思う。中肉中背、少し疲れた風のある男性、たまに無精髭の生えているときもあるが、髭は似合わないからと剃るのを心がけているようだ。ズボンの裾はよれている。師匠が言っていた。服の替えは三着、それを着回している。お洒落には程遠い。靴は底に穴が開いたら新しい靴を買う。黒が言っていた。右でも左でも履ける靴があったらいいね、そうしたら、二倍使えると言っていたと。少なくとも見た目には、とても、なんだかなぁという人だ。でも、師匠にしても、黒にしても、お父さんが大好きだという。百歩譲って、そうだ、恥ずかしそうに笑うときがある、その時はちょっと可愛いかなと思わなくでもない。それを言えば、こんなおっさんに可愛いなんて言わないでくれよと困惑するだろう。
ふと、男が小径傍の赤煉瓦の花壇に腰を降ろした、俯いている。
「どうしました、お父さん」
「ちょっとね」
男は呟くと左手で胸、心臓の辺りを押さえた。慌てて、連は男に駆け寄ると顔を覗き込んだ。男の顔が土気色をしていた。
「はしゃぎすぎたかな、かっこ悪いなぁ」
「師匠を呼びます」
連が叫んだ。
「いや、それよりも。父さんの背中、両手で押さえていてくれないかな」
慌てて、漣が男の背中を押さえる。漣の手のひらが暖かくなる、男の手のひらから、強い気が放たれ、それを漣の手のひらが返す、それによって、冷たく止まりかけた男の心臓が動き出した。
「やぁ、もう大丈夫だ。漣、ありがとう」
漣が唇を噛み締めて、ぎゅっと男を睨みつけた。
「お父さんは本当に本当にです」
言葉が続かず男を睨む。
「心配してくれて、漣、ありがとう」
男が困ったような恥ずかしそうな笑みを浮かべた。

漣は不思議に思う、男と二人、赤いブロックの花壇に腰掛けて座っている。考えてみれば、漣は、こうして男といるのは初めてのことだった。
「漣」
男が言った。
「はい」
漣は返事をすると、男に向き直った。
「街路樹の葉に日差しも和らいで、外をぼぉっと座っているのもいいもんだね。これで、あさぎのお弁当でもあったら最高だな」
「お父さんはのんびりしすぎです」
男は笑うと素直に頷いた。
「もっともだな、その上、はしゃぎすぎて死にそうになるし、かっこ悪いなぁ。でも、漣がしっかりしてくれているから安心だ」
「安心してください。骨は拾って差し上げますから」
「気が早いなぁ。うちに帰ったらおとなしくしているよ」
男が楽しそうに笑う。
漣は不思議に思う。のんびりと日向ぼっこをしているこの人は、魔女協会の大物に呪いをかけたり、空を飛んだり、あの魔法使い達を無力化してしまったり、外見とは違い凄い人なのだ。
自分をじっと見ている漣に男が気づいた。
「どうしたんだ、漣」
「お父さんがイケメンでなくて本当に良かったです」
「イケメンじゃないのは自分でもわかっているけれど、娘からまっすぐに言われるのはきついなぁ」
「でも、お父さんがイケメンだったら、師匠となよ姉さんの間で、お父さん取り合いの戦争になりますよ。世界が滅びるかもしれません」
「なるほど、戦争を未然に防げているのは父さんのお陰だ」
「はい」
男が楽しそうに笑った。
「漣は面白いことを考えるなぁ、そういえば、漣はどうして、幸を師匠と呼び続けるんだい」
「それは」
初めて、漣が口ごもり俯いた。
男はそんな漣を見て、呟いた。
「心配する必要はないよ」
男は前を向き、視線を漣から外した。
「漣がうちに来た理由は鬼と戦う力を得るためだ。で、その力は充分に得たはず」
漣が息をのんだ。
「師匠と呼ぶのは、まだ修行中ですと表すためじゃないかい、ここにいることを自分に納得させるためのさ」
男の言葉に漣が唇を噛む、顔面は蒼白だ。
男は漣に顔を向けると笑顔で言った。
「鍾馗の長がやってきたら、父さん、長の前に立ってさ、おもいっきり仰けに反って、顔を睨んで言ってやろうと思うんだ。漣は私の娘です、私の家族ですってさ。漣。父さん、そう言ってもいいかい」
「あ、ありがとうございます」
漣が身を乗り出して、男に言った。しかし、自分の大声に照れたのか、両手で自分の顔を隠す。
「うわぁ、恥ずかしいです、節操のないことを言ってしまいました」
男は笑みを浮かべると、正面を向いた。
「うちの家族は誰一人血が繋がっていない、面白いものだなぁ」
男は呟くと目をつぶる。瞼をすり抜け、柔らかな日差しが届く。ふと、影になる。
「お父さん、握手です」
漣が男の前に立ち、左手をまっすぐ男に差し出した。男も手を差しだし、手を握った。
「ありがとう。漣、これからもよろしく」
「こちらこそです。血の繋がっていない家族はたまに握手をする必要がある、お父さんが前にそう仰いました」
「そうだったね、父さんもたまには良いこというなぁ」
「たまにはです」
にっと漣が笑みを浮かべた。

もうしばらくしたら歩けるようになるからと、男が花壇の赤いブロックに座り続ける。漣はちょっと嬉しそうに男の横に座りなおした。
漣がふふんと鼻歌を歌う、こんなことは初めてだ、よほどに安心して楽しいのだろう、そして、自分が鼻歌を歌っていることに気づき、顔を赤らめ俯いた。
「漣、男はね」
「はい」
「歳をとると言わなくてもいいことを、言うようになるものなんだ 漣、鼻歌、うまいじゃないか」
「ひどいですよ、お父さんは」
一層に漣は顔を赤らめた
「そうだ、漣。小夜乃から言祝ぎ歌を教わりなさい。この歌はこれからの漣を助けてくれるだろう」
漣は小夜乃が歌をうたうのを聴いたことがある、聴いているだけで、気持ちがふわっと軽くなったのを思い出した
「言祝ぎ歌には大の歌四曲、中の歌が二十四曲、小の歌は七十二曲、合わせて百の歌がある 四季二十四節気七十二候に準えたものだ。修得の困難と地味さで、すべてを歌うことのできるのは小夜乃と父さんだけ 幸も中の歌までは覚えたんだけど、途中で飽きてしまったからさ 折角だから、師匠を越えてくれ 小夜乃と上手く和音を響かせることができれば」
男はふっと言葉を止め、後ろを振り返った
「洋子さん、警察へ向かっているようだ」
「うちに来るはずだったのでは」
「そうなんだけどね こんなわけのわからないおっさんよりも、警察に行くのが当たり前だろう、洋子さん自身、警察官でもあるからね」
漣は洋子の姿を思い出す、なにかしらの訓練を受けた人だとはおもったけれど、そうだったのかと思う。でも、それだからといって納得はいかない。
「恩知らずですよ」
「別に恩を売るつもりもないし、元々、小夜乃を誘拐しようとした人たちだからね。まぁ、いいよ」
「誘拐、そんな話は聞いていません」
「うん、言ったら、多分、漣は手伝ってくれないだろうなと思ったからさ」
男が楽しそうに笑った。
「笑い事ではありません。それを知っていれば」
「ただね、小夜乃はその三人を許してしまった、それじゃぁ、しょうがないよ」
いたずらが成功した子供のように男がにっと笑った
あきれたように漣はため息をついたが、ま、いいですと呟いた
もう一度、男が振り返る。
「おや、信号待ちで幸恵さんと詩織さんが車から飛び出した、うちに向かおうとしているようだ」
漣はふんと顔を逸らす。
「漣は二人の顔がわかるだろう、二人をうちへ連れてきてくれないかな、すぐに警察が追ってくるだろう」
「だめです。師匠からお父さんを守るよう命令を受けました」
「でも、もう助けてもらったよ」
「うちに帰るまでは命令は継続しています」
漣が向こうを向いたまま、男の上着の裾をぎゅっと握った。
「それじゃ、黒に頼むか」
漣は振り返ると大きく頷いた。
「黒はうちで一番人当たりがいいです。黒が適任です」
「漣もわかりやすいなぁ」
男は笑うとゆっくりと立ち上がった。
「三人には魔女の呪いがかかっている。薬を使った深い暗示だ。警察にその暗示を解くことができればいいんだけどね」
漣も男の上着の裾を掴んだまま、立ち上がる
お父さんを確保です」
捕まってしまったのならしょうがない、ぷらぷら、駅まで歩いて、電車乗って帰ろうか」
漣が嬉しそうに頷いた
そうだ、駅前でうどんでも食おう、あさぎには内緒でさ」
漣が満辺の笑みで、男の背中に額を押しつけた

街の中央、多くの車が行き交う、平行する歩道にもたくさんの人だ、多くの店が並び、立ち止まる人も多いため、二人、詩織と幸恵が急ごうとしても、なかなか進めない。
警官だ、二人の警官が幸恵と詩織の前に現れた、慌てて立ち止まり、振り向き方向を変えようとしたとき、二人は警官がもう二人、自分たちのすぐ後ろを追っていたことに気がついた。
「少し、お伺いしたいことがあります、署まで御同行願えますか」
警官の一人が穏やかに言った。
「あ、あの、私たち約束があるんです」
「それほど、お時間はかかりません、終われば、約束のところまでお送りいたしましょう」
警官がにこやかに笑顔を浮かべた。
ふいに女の子が二人の警官の間から顔を出した。
「お姉さんたち、詩織さんと幸恵さんかな」
おどおどと、二人がうなずいた
黒だ、黒は警官の前に出ると、二人に言った。
「お父さんからお二人をうちに連れて来てくださいって連絡をもらったから、迎えにきたんだ、さぁ、行こう」
「ちょっと、君」
警官が黒の肩を叩いた。
黒があっさりと振り返る。
「こんにちは」
黒が愛想良く微笑んだ。
「このお嬢さんたちは警察に来てもらいます。用事が済めば君のところに二人を送っていってあげるよ」
「うーん」
黒は俯き、しばらくして、顔を上げた。
「多分、おじさんは悪い人じゃないと思う。でも、おじさんは上司が悪い命令をしたとき、まっすぐ、その命令を断ることができるの」
黒がまっすぐに警官の目を見つめた。
一瞬、警官の目が泳いだ。
黒は笑みを浮かべると、警官の両手を取り、右手と左手を指を絡ませ握らせた。
「おじさんは三十分間、このまま、自分の手と手を握っていてください」
そして、隣の警官の片腕を取り、先ほどの警官の腕の間を通し、同じく、手を握らせる、あとの二人も同じく両手を握らせた。
「みんな、三十分間そのままです」
四人の警官が笑みを浮かべたまま数珠つなぎになる。
黒は詩織と幸恵の手を握ると歩きだした。
「えっと、あの、今のは」
「ただの暗示です。三十分、経てば意識を取り戻します」
「おおい、黒、ここだよ」
啓子が道路の端に停めた車の前で、手を振った。
黒は走ると、車の後ろ座席へ二人を座らせた。
「啓子さん、迎えにきてくれてありがとう」
啓子が援農用使っている古い軽バンだ。後ろの荷物置きには農作業用の道具が積まれていた。
「ついでだよ。今日は先生ちに泊まる日だからさ」
啓子がエンジンをかけ、車を走らせた。
「黒。二人はどちらさん」
「詩織さんと幸恵さん。詳しくは知らないけれど、しばらく、うちで暮らすことになると思う」
「あの、初めまして」
詩織が思い切って啓子に言った。
「初めまして。私は啓子。あんたたちもなんだか訳ありのようだね」
運転したまま、啓子が言う。
「ま、先生ちに来るなんて、余程のわけでもなきゃ、来ることもないか」
黒が楽しそうに笑った。
「啓子さんもそうだよね」
「黒もな」
啓子がにっと笑って答えた。


後日談

ほっと一息ついて、漣が窓の横、喫茶店のテーブルにつく。朝十一時からお昼二時までのランチタイム、あさぎの手伝いだ、ウエイトレスを勤め、少し暇になったこの時間、やっと椅子に座ったのだった。
あさぎが紅茶とケーキを漣のテーブルに置いた。
「お疲れさま」
「あさぎ姉さん、ありがと」
漣は座り直すと、あさぎに笑みを浮かべた。
あさぎも漣の前に座る、
「漣。なんだか、明るくなった気がするよ。お客さんとも楽しそうに喋るし」
そうかなぁ」
漣が柔らかな表情で答えた
それは小夜乃の件で、男と漣が家に帰ってきた次の日だ、男は漣を連れて鍾馗の国へ赴き、漣を正式に養女として迎える意思を長に伝えたのだった
でも、なんだか、いま、とっても、いい感じなんです」
少し恥ずかしげに漣は自分自身に語りかけるように呟いた
あさぎは漣の顔がとても柔らかくなったと思う、父さんは詳しいことは語らない、
ふと、漣は窓の外に何かの気配を感じた、いや、気のせいかもしれない、そんなとても小さな違和感だ。
「漣、お客さんだ。いや、漣のお客だ」
いつのまにか幸が漣の横で、窓から下を見下ろしていた。漣が向きを変え、幸の横で窓から下を覗きみる。
子犬だ、白い、両掌に載りそうな小さな犬がこちらに向かって座っていた。
くうん、くーうんと鼻を鳴らしている。
あさぎも窓際に寄って、見下ろした。
「なんだか、可愛い」
漣は窓から子犬を見下ろしていたが、腑に落ちないと幸に向き直った
「全く覚えがありません」
漣が幸に言う
「すべての存在には固有の振動数がある、姿形が変わってもな」
幸は、にぃぃと笑うと子犬の額を指差した。
「額に瞼があるだろう、三つ目の犬だ」
「まさか、ケルベロス」
「漣にこがれてやって来たんだろうな」