遥の花 四話

闇の中、男は頭を抱え悩んでいた。
一体なんてことを、俺はしたのか。
それは旅行の夜だった、自分の前に幸を座らせ、その幸の浴衣を脱がしてしまった、滑らかな肌、その時の甘い感触が指に残る、もちろん、父親としてそれは許 される行為ではない、ましてや、幸がいてくれないと生きていけないなどと、幸の心を縛ってしまうようなことを言ってしまった。そうだ、もしも、幸に異変が 起こらなければ、間違いなく、幸を最後まで・・・。
心が不安定だった、それは確かだ、しかし、それは醜い言い訳だ。
幸はどれほど傷ついただろう、幻滅したろう。

「おーい、お父さん、一緒に晩御飯作ろぉ」
襖が開き、幸が男の部屋を覗き込んだ。
「お父さん、部屋が暗いよ、どうしたの」
男は慌てて表情を隠し、普段通りに返事をする。
「ん、いや、そうだね、少し考えごと。晩御飯、作ろうか」
「うん」
幸はにっと笑うと、男の手を両手で引っ張った。

二人して流しの前に立つ。
「お父さんは白色のエプロンです、真ん中にキリンさんがいます。幸のは赤と白のストライプ。赤一色は随分と色が濃かったので、ストライプ、真ん中にはウサ ギさんです」
「買ってきたの」
「えへへ、晩御飯の用意と一緒に買ってきた」
幸はにっと笑い、ジャガイモやタマネギを取り出した。
「今晩は美味しい美味しいミネストローネです。お父さんはジャガイモの皮剥きをしてください。」
「美味しいを強調しましたね、それは先日のトマト風味ジャガイモの煮っころがしからの反省でしょうか」
「その通りです」
幸は笑うと袋から人参やベーコンも取り出した。
「幸はひとつ賢くなったよ」
「と、いうと」
「ひたすらレシピに忠実であること。素人が工夫をしてはいけない。これとっても大事」
男は器用にジャガイモを包丁で剥きながら笑った。
「工夫はもっとうまくなってからか・・・。でも、ジャガイモの煮っ転がし、幸が作ってくれたから美味しかったな」
「そう言ってくれるお父さん、大好き。なんかね、そう言われるとさ、今度はもっと頑張らなきゃ、って思うんだ。そう思えることって嬉しいよ、とっても」
幸がタマネギを切りながら答える、タマネギを八等分したものをボールに入れ、あぁそうだと、トマトとハーブも取り出した。
「お父さん」
「ん」
「ハーブって不思議だね、こんなのただの葉っぱだよ、ローリエとか特にそうだよ。でも、入れるとお肉の臭みがなくなったり、これって凄いよ」
「そうだね。ん・・・、暖かくなったら、庭にハーブを植えてみるのもいいかな」
「それいいなぁ、藤のバスケット片手にね、ハーブを摘んでお茶にしたり。そうだ、緩やかな白のワンピースに幅広の白い帽子もいるな」
「なんか、映画で見たような情景だけど、着替えるほどご大層な庭ではございません」
「楽しむための雰囲気作りさ、二昔前の御令嬢。お父さんが執事でね、お嬢様、お茶のご用意ができましたって言う。そうすると、幸はふっと指先を止めて振り 返る、ありがとう、セバスチャン」
「セバスチャンですか」
「そうだよ、そして、お嬢様、お手をと言ってお父さんが手を差し出して、幸は言うの、今日は素敵なティーパーティなりそうだわって」
「お嬢様、お手を」
男の言葉に一瞬、幸は戸惑ったが、
「えっ、あ・・・人参かぁ」
幸に人参を男から受け取り、四つ切りにしたジャガイモをボールに入れた。
「お父さん」
「ん」
「畑も作ろう、野菜、高くなってた」
「色々と野菜を植えてみるかな」
「種を買ってきてさ、植えよう。そういえば、大根の種って袋に入っているやつ、いっぱい入っているよ、全部、植えたら、そこいらじゅう大根だらけだ」
「全部は育たないよ」
「そっか・・・。大根も生存競争、大変だ」
「まぁね。さてと、焼いて煮込むのは幸がやりますか」
「うん、幸がやるよ」
幸が空の鍋を火にかけ、油を敷く。
「火の通りにくいジャガイモから炒めていきます。ね、お父さん、やっぱり晩ご飯は二人で作るのが良いね」
「そっか、最初は交代で作っていたもんな」
「そうだよ、あれはだめだ。一人で作るのは寂しいし、一人でご飯が出来るのを待っているのはもっと寂しい。お父さんとお喋りしながら作るのが一番だよ」
「二人で作っている割には時間かかるけどね」
「それは仕方ない、父娘の大切なコミュニケーションの時間が入っているからさ」
不意に幸は男の背中に頭をごしごし擦りつけた。
「どうしたの」
「コミュニケーション。お父さんに幸の匂いを付けてる、お父さんは幸のなわばりだから、誰も手を出すなってこと」
「ちょっと。お父さん、包丁持っているんだから危ない」
幸は笑うと、後ろから男を抱き締めた。
「いっぱい付いたよ」
男は包丁を離し、鍋のジャガイモを菜箸でひっくり返す。幸い、焦げずにすんだ。
「誰も寄って来ないよ、お父さんを好きだって言ってくれる女性は幸だけだから」
男は、切ったタマネギ、人参、ベーコンを入れ軽く炒める。
「それが不思議だ、こんなに素敵なのに」
「お父さんは自分の何処が素敵なのか全然分からないな」
「なら、幸が一日たっぷりかけて教えてあげるよ」
「幸が素敵だと言ってくれるなら、それで充分、それ以上は必要ないよ。さてと、この辺で水を入れれば良いのかな」
「はい、水とハーブを入れてください。後はじっくり煮込んでいくのですよ。よろしいですね」
「わかりました」
男が少し笑って答えた。


堀炬燵の横に鍋と炊いたばかりの御飯が入ったおひつを置く。幸は、炬燵の上にお皿やお箸を並べた、ふと、幸は大きな窓から外を眺めた。すっかり闇に閉ざさ れており、虚空に細い月が浮かんでいた。
「どうしました」
男が後ろから声をかけた。
「夜の空を見上げても、泣かなくてすむようになったなぁって」
硝子窓に写る幸の表情はとても穏やかに虚空を眺めている、男は少し笑みを浮かべると、寒そうに炬燵にもぐりこんだ。
「お父さんも夜の空を睨みつけなくてすむようになったよ」
幸は、男の横に座ると足を延ばす。
「堀炬燵は足が延ばせていいね」
「だけど、隣に座らなくていいよ、三方、残ってるんだから」
「微妙にお父さんの顔が見えにくいのが難題だ」
幸は一度立ち上がると、左に男が見えるよう炬燵に入り直した。
「これならお父さんの顔も見れるし、お父さんと同じ方向を見ることができるよ」
「窓の外、真っ暗な天蓋に細長い月」
男は答えると、おひつから、御飯をお茶碗によそい出した。
「だめだよ。幸がやる、ほとんど、お父さんが料理を作ったんだから、あとは幸がやるよぉ」
男は少し笑うと、幸にしゃもじを渡した。

「美味しいね」
「そうだね、幸の美味しそうに食べる顔を見てるとなんかな、楽しい」
「そう言ってくれると、幸はとても嬉しい」
幸はくすぐったそうに笑う、ふと、思い出したように葉書を取り出した
「そうだ、これ」
「葉書・・・」
幸が取り出した葉書を、男が受け取る。
「あかねちゃんか。そういえば、次の日、住所を訊いていたね、表書きはお父さんかお母さんが書いてくれたんだな」
「ありがとうって」
幸がくすぐったそうに笑った。
「幸には初めての手紙かな」
「うん、でも、お父さん、いいのかな」
「いいのかって」
「あかねちゃんに迷惑かからないかな。私と縁が出来て、なにか危険なことに巻き込まれたりしないかな」
「難しいところだな、ただね、あかねちゃんが外神の依代に選ばれたのは、先天的にああいったのを受け入れる感受性が高かったからだよ。今後、新手に巻き込 まれることもあり得るから、いくらかね、縁は繋いでおく方が良いかもしれない」
「それじゃ、返事を書こう。あ、この住所、電車で一時間くらいかな。会ったりもできるね」
「初めての友達だ」
「なんだか、『初めてのお使い』みたいで緊張するな」
「私さ、また、会おうねって書くよ」
「それがいいだろうね」
男が葉書を返すと、幸は大事そうにポケットの中にし舞い込んだ。

「お父さん、幸は満腹です。お行儀悪いけど少しだけ横になっても良いですか」
「どうぞ」
幸はにっと笑うと駆け出して、掛布をとって返し、男の膝を枕に寝転がってしまった。
「な、なるほど、そういうことか・・・」
「特等席だ」
「幸はいろんなこと、考えるなぁ」
幸はくすぐったそうに笑うと、右手で男の顎に触れた。
「お髭、きちんと剃っているね、お父さんに髭は似合わない。だって、キスする時、幸の唇が痛くなってしまうもの」
「前後二つの文が繋がらない」
「いいのさ、だってキスするの邪魔だからお髭はやめてって言いにくいもの。お父さん、あのね」
幸はにっと笑うと、ふっと右手、人差し指で男の唇に触れた。
「ん」
「幸はお父さんのこと、ずっと考えている、思っている、幸はお父さんの専門家だからね。お父さんのことなんでもわかるよ。お父さん、幸のことで悩んでいる でしょう」
「幸」
男はかすれた声で呟いた。
「あれは幸がお願いしたことだし、幸は百年以上、汚く生きてきたんだ、心も体も、すっかり汚れてしまっているよ、どんなに洗ったって落ちやしない。だか ら、今更いいんだ」
「それは絶対に良くない、お父さんは幸がどんなふうに生きてきたか、全てを知る由はないけれど、幸はね、お父さんが幸のこと、とっても大切に思っているこ とわかるだろう」
「うん・・・」
「それは、幸がお父さんにとって、とっても綺麗な女の子で、とっても綺麗な体で、とっても綺麗な心を持っていて、そしてなにより、お父さんのこと、大切に 思ってくれているからだよ。幸、もっと自分自身を認めてあげなさいな」
「なんだか、幸は幸せすぎるよ」
幸は目を瞑り、唇をかんだ。

声がした。

・・・我が主より文有りき、御届け候・・・

地響きのような低い声だ。

「ああ、どうしてこういう時に限ってなんだろう。お父さん」
「いつかさ、二人っきりで旅をしよう。そうしたら、嫌なのが寄ってきても逃げだせる」
「愛の逃避行だね」
「安っぽいドラマの見過ぎだよ、それは」

・・・我が主より文有りき、御届け候・・・

先程よりも低く声が響く、炬燵の上で食器がかたかたと揺れた。
「音で結界を破ろうとしている、この重い力は鬼だな。父さん、行ってくるよ」
男は起き上がると、幸を炬燵に座らせた。
「幸はここから離れないこと、いいかな」
「でも」
「大丈夫、お父さん、強いからね。それに、外は寒い、幸が風邪をひいたら大変だ」
男はそっと幸の唇に人差し指で触れると、少し笑った。
「本当に、父さんは幸が大切だよ」
「お父さん」
男は幸を残して玄関口へ向かった。

戸を開け、門の前まで出る。男は門の前で見上げた。まるで怪獣映画だ。日本画から抜け出したような鬼が仁王立ちに立っていた。
男の背丈は鬼の膝ほどにしかないだろう。
「無茶なことを」
男が呟く。どれほどの犠牲を供物に鬼などを呼び出したのか。
「主殿か」
「私がこの家の主です」
「文を言付かって来た」
「それは読みたくありません」
「何ゆえ」
予想をしていなかった男の返答に鬼は目を剥き唸った。
「私はこの地で静かな日常を営む者、日々の暮らしの中で笑ったり泣いたりしながら、今の生活を楽しみ生きています。その文を読み、拘わりを持てば私の大切 とする生活が適わなくなるでしょう。ですから、読みたくありません。そのこと、貴方の使役者にお伝えいただき、このまま、お帰りください」
鬼は男を瞬きせず睨んでいたが、不意にじわりと笑みを浮かべた。
「もう一つ、この旨、受けいられぬ時は、殺してしまえと仰せつかった」
鬼は一気に右手を振り落とし、男をその巨大な爪でまっふたつに切り裂いた。声をあげる暇もなく、男は両断され地面に倒れて行った。
「なんとひ弱な主殿よのう」

「うおぉぉぉっ」
一瞬の雄叫びとともに光が走る、鬼の片腕が地面に落ち、虚空には長刀を手に髪を振り乱した幸が浮かんでいた。
「お前、何をした」
幸が目を真ん丸に見開き、歯を震わせ鬼に声をあげた。
鬼は絶句した。いきなりの状況に判断がつかずにいた。
「お前、あたしのお父さんを殺したな、殺したんだな、あははっ、ようし、お前を一寸刻みに切り刻んでやろう」
幸の眼からは涙が溢れ、狂ったように笑う口元からは涎が垂れ流れていた。
「お父さん、こいつを潰したらあたしも行くよ」

「幸、待ちなさい」
男が叫んだ、男は何事もなかったように門の前に立っていた。
「今のはただの幻術だ」
「あ、あ・・・。見ちゃやだぁっ」
幸は両手で顔を隠すと、地面へと落ちて行く、男は駆け出すと、すんでのところで幸を受け止めた。
既に鬼は逃げだし、その腕だけが丸太のように横たわっていた。
「お願い、幸の汚い顔、見ないで」
男は幸を抱きかかえたまま、家に戻ると、そのまま器用にタンスからやわらかなタオルを取り出し、幸を炬燵に座らせた。
「さぁ、顔から手を離しなさいな」
「やだやだ、お父さんにあんな顔を見られてしまったよ」
「気を静めなさい、肩の力を抜きなさいな。お父さんは幸のこと、とっても大切なんだからさ」
幸が目を瞑ったまま、そっと両手を顔から離した。
「ほら、涙に鼻水、涎。これは大変だ」
男は笑うと、タオルでそっと幸の涙を拭った。
「鼻、ちーんとしな」
んーっと幸がタオルに鼻を付ける、男はタオルを二つに折ると、幸の涎を拭いた。
「ほら、美人に戻ったよ。さっ、お風呂沸かそう、温まってきなさいな」

幸をお風呂に入れた後、男は窓から外をじっと睨んでいた。月は消え、茫漠たる闇が、硝子窓の外に広がっていた。
どんな、闇の中でも、たとえ、自分の身を犠牲にしても、守りたくて仕方のないものがある。
「お、お父さん・・・」
幸の声に、男は笑みを浮かべ振り返った。
「暖まりましたか」
「うん。ね、お父さん、本当にごめんなさい」
「え・・・、あぁ、そうか。お父さんこそ、幸に心配かけてしまったな、ごめんね。そしてさ、助けてくれてありがとう」
男はそっと笑みを浮かべた。
「お父さんね、疲れた。片づけは明日にして、もう寝よう」
「ね、お父さん」
「どうしました」
「幸、お父さんのお部屋で寝たい」
「なんだか、幸、子供に戻ってしまったな。今日はしょうがない、布団、運んであげるよ」
男は笑うと、優しく、幸の頭をなでた。

男は暗がりの中、幸の寝息を確かめると、そっと布団から起きだし、部屋を出た。静かに襖を閉める。
手早く、普段着に着替え、腰の後、小刀を差した。
奴らは俺を敵対するものと見なしただろう、ならば、潰しておかなければ禍となる。
「お父さんってのは大変だな」
男が呟く、
「大丈夫さ、幸がついているよ」
振り返ると、幸も寝間着から普段着に着替え、「必勝」と書いた鉢巻きを締めていた。
「ああぁっと・・・、ええっと、うーん。参ったな」
男はどう言いつくろったものかと考え倦ねたが、ふと、瞬きもせず、自分を見つめる幸の眼を見て何も言えなくなってしまった。
「お父さん、幸はとっても幸せだ。幸せすぎるくらいだよ。幸はさ、自分自身でこの幸せを守ることでさ、この幸せに値するようになるんだ」
男は幸の決意に驚いた。もう、立派な大人だ。
「怪我するなよ、気合い入れていけ」
「大丈夫、幸、かなり気合い入っているからさ、とっても強いよ」
「必勝・・・、なんだか、受験生みたいだ」
男はくすぐったそうに笑うと、幸の頭をなでた。
「行くぜ、幸」
「あぁ、お父さん」