遥の花 あさまだきの靄 二話

遥の花 あさまだきの靄 二話

るんるるん、にかにか、笑いがどうしてもこぼれてしまう。

食卓、亜矢は黒の隣の椅子に腰掛けた。お昼ご飯だ、自然に顔が笑いだし、両膝がリズムを刻む。
憧れの黒様の隣に座っているのだ。
長机を並べての昼ご飯。
「暢気な奴じゃのう、記憶が甦った途端、さばさばとしおって」
向かいに座るなよが亜矢の様子に呆れて言った。
「えへへっ、そんなことありませんです。母と戦うなんて、身を切られるように辛いです」
「それが、にかにかと笑って言う台詞か」
呆れたようになよが呟いた。
「それはしょうがありませんわ」
白が口を挟んだ。
「だって、亜矢は桜花淑女隊の一人ですから」
「なんじゃ、それは」
「黒姉を男から護り、同時に抜け駆けを許さない鉄の結束を持つ集団です」
「なんと、黒は宝塚のスターじゃのう」
黒が辛そうに答えた。
「あんまり、そういうの好きじゃないから」
喜々として、亜矢が言う。
「黒様に近づこうという輩は制裁あるのみですよ」
「なんじゃ、殴ったりするのか」
「いいえ、お嬢様学校ですよ。口の制裁です。何十人もで取り囲んで、悪口を言い続けます。どんな奴でも、一時間もすれば、しゃがみ込んで泣き出します」
呆れたようになよが大きく溜息をついた。
「幸も鬼をそれで引きこもりにし、まだ、そいつは外へは出てきておらん。陰湿じゃなぁ」
すっと、幸が亜矢の肩を後ろから抱き、頬を寄せて囁いた。
「亜矢。黒に様をつけて呼ぶのをやめてくれよ」
亜矢の背中がぞくっと震えた。ねっとりと纏つくような言葉が自分の首を絞めるように思えたのだ。
「あ、あの」
息切れしてうまく声が出せない。
「黒は普通の女の子だ。そうあたしが育てた。ちょっと、スポーツが得意で頭もいい、でもごく普通の女の子なんだよ。わかるか」
「は、はひっ」
歯が震えてうまく言えない。
「だからさ、様付けで呼ばれたりすると、本人は辛いわけだ。自分自身は普通の女の子なのに、様付けしようとする廻りとの評価の差に苦しむんだ。だからさ、亜矢、黒って呼んでやってくれよ」
だめだ、息ができない、過呼吸ってやつだ。
「だめだよ、母さん」
黒が亜矢の様子を見て、慌てて幸に言った。
ふっと、亜矢の体が軽くなった。気づけば、なよの隣に幸がにぃと笑って座っていた。
「ごめんね、母さん的には冗談の延長なんだけど」
「い、いいえ。大丈夫です。あの、えっと、く、黒、心配してくれてありがとう」
そっと、亜矢が幸の顔を上目遣いに見る。
「どういたしまして、亜矢」
ほっとしたように、黒が答えた。
え、これってどういうこと。亜矢って黒様が呼んでくれた。これって、黒様に名前を覚えていただいたってこと、様を付けないって、これって友達ってこと、え、あの、黒様と友達、えっ、親友ってことなの。
「やったぁ」
いきなり、亜矢が立ち上がり大声を上げた。
「にぎやかな奴じゃのう、改めて記憶を封印した方が良いかもしれんな。記憶が封印されて気弱な亜矢の方が扱いが楽そうじゃ」
「ごめんなさい」
慌てて、亜矢が椅子に座りなおした。
「考えてみれば、亜矢よ。お前、母親に高校を退学にされたのではなかったか。いや、残念なことじゃのう」
いたずらげになよが笑った。
亜矢が目を見開いた。
「うわあぁつ、そうだった。天国から地獄へ直下降だ。許すまじ、母さんめ。この恨み晴らさでか」
悲鳴のような大声を上げる。
「面白いのう、亜矢は。おもちゃのようじゃな。ま、復学はわしに任せておけ。黒と共に登校すればよいわ」
なよの言葉にぶわっと亜矢の頭の中で妄想が膨らむ。
黒と一緒に手を繋いで学校に行く、黒ってばもう、早く起きないからだよ、学校、遅れるよぉ
「うおぉぉっ。これは凄い」
思わず、亜矢の呻き声が漏れた。
慌てて、廻りを見回し俯く。
亜矢は興奮が醒めて、少し考える。
漣さんは多分、必要とあれば人を殺すことに戸惑いはないだろう、師匠という幸さんもそうだ。ここで、自分は共同生活をうまく送っていけるのか、へんなこと言ったら、すとんって首を落とされてしまうかも知れない、そう思うとさすがに亜矢も泣き出しそうになった。
後ろから誰かが肩を叩いた。
「どうしましたか」
振り返ると自分と同じくらいの背格好だろうか、エプロンをした女の子が優しく微笑んでいた。
「亜矢、初めまして。あかねといいます。なんだか、お悩みの様子ですけど、不安なことがあれば、遠慮なく言葉にする方がいいですよ、言葉にしなければ伝わりません」
「あ、あの」
亜矢が、怯えたように口を噤む。あかねは少しうつむき考える、そして顔を上げた。
「今までとは違う環境で亜矢は過ごすことになりますが」
あかねはなよと幸を指さし、亜矢に笑みを浮かべた。
「この二人以外は常識人ですし、この二人以外は人との距離感も理解していますから」
「なんじゃ、あかねよ。わしほどの常識人はおらんぞ」
「御自身で常識人などというのが、そうではない証拠ですよ」
あかねが嬉しそうに笑った。
なよの横で幸も笑う。
「なんじゃ、幸。お前も謗られておるのじゃぞ」
「日常生活に問題がなければ、常識はそれほどいらないかなぁと幸は思う」
「お前の言う常識とあかねの言う常識はちと違うわい」
なよは憮然としたが、落ち着いて亜矢に言った。
「お前はわしの弟子の孫でもある、ならば、ちょっとくらいは優しくしてやるわい。怯えるでないわ」
あかねが亜矢の両肩に手を載せる。
「なよ姉さんもこう言っているから大丈夫ですよ。それにほら」
あかねが顔を上げ、お味噌汁を味見している小夜乃に目をやった。
「亜矢」
「はい」
「お味噌汁の子がなよ姉さんの娘、小夜乃です。小夜乃と仲良くしていれば、なよ姉さん対策は万全です。幸姉さんについては黒と仲良くしていれば、幸姉さんや漣対策は問題ありません」
「あ、ありがとうございます」
感激して亜矢が礼を言う。
なよが割って入った。
「あかね対策はどうするぞ。なかなか、難しい奴じゃぞ」
「私ですか」
あかねが少し首を傾げた。
「私は武術とかよくわかりませんし、不器用ですから手品も出来ません」
そうきたかとなよは思ったが、亜矢のことを考えるといまはこのままでいいかと考え直した。ふっと、幸があかねに声をかけた。
「爺さんだ、こっちに向かっている。あと十分ってとこかな。あかね、何かあったの」
「もめ事には関わりたくはないのですけど」
思案げにあかねは少し俯いたが顔を上げると、にっと笑った。
「あかねは佳奈さんちに逃げます。お爺さまがいらっしゃいましたら、何処かに逃げたとお伝えください」
幸が頷く、あかねは台所に戻ると、いくつかおにぎり握り小皿に移した漬け物をお皿ごと、風呂敷に包みそそくさと出ていった。
幸が立ち上がる。
今週の食事当番は小夜乃とかぬかと男だ、男が味噌汁の大鍋の取っ手を持った瞬間、幸が飛ぶように男の元に寄ると、もう片方の取っ手を掴んだ。
「ありがとう、幸」
「どういたしまして」

食卓横のテーブルに味噌汁の大鍋を置く。男が向こう側一番端に座るのを見送り、幸が元の椅子に座った。
亜矢がおおっと息をのんで幸の振る舞いを見ていた。
まるっきり、純真無垢な、花畑で花冠を作っていそうな、そんな笑顔の素敵な美少女だった、先ほどのねとつくような脅しを仕掛けた相手とは思えない。
「凄いであろう、亜矢」
亜矢の思いを察してなよがにんまりと笑った。
「ま、とにかく、あかねと父さんは普通の人間じゃ。虐めるでないぞ」
亜矢は声を出せず、ただ、こくこくと頷いた。
小夜乃が長机の食卓に山盛りの漬け物の大皿を三枚並べる。かぬかが、器用に大きなおひつを二つ抱えテーブルにどんと置いた。
「お昼ご飯、出来たよ」
黒が立ち上がり、亜矢を促した。
「一緒にご飯、食べよ」
極上の黒の笑みに、亜矢は見とれたが、黒に遅れてはと急いで立ち上がった。

「亜矢は妙子から教わった呪術を覚えておるようじゃ。わしがそれに磨きをかけよう。幸は体術を教えてやれ」
「わかった」
なよの言葉に幸は頷くと、一口、味噌汁を啜った。しっかりと出汁が利いていて美味しい。
「なよ姉さん。小夜乃の味付け、随分、美味しくなった。これで、いつでも嫁に行けるな」
「どの時代のおっさんの台詞じゃ」
なよも小夜乃が誉められると嬉しいらしく、にかっと笑みを浮かべた。
「かぬかは炭水化物系が上達しているし、あさぎ姉さんの指導の賜かな」
あさぎが慌てて首を振った。
「かぬかが頑張っているからだよ」
あさぎがかぬかに笑いかけた。
「あ、ありがとう」
少し頬を赤く染めてかぬかが礼を言う。もしもできるならとかぬかは思う。
お店の隣で、定食屋ができればいいなと。術の修行もしなければならないけれど、やっぱり料理を作っている時が一番楽しい。

ふと、亜矢が気づいた。
「あの。幸乃さんが」
亜矢は幸乃の姿が見えないことに気がついた。
「なんじゃ。幸乃は父さんの、部屋におる」
なよは、父さんの中にと言いかけたが、部屋と言い換えた。
「一緒にご飯は」
「亜矢よ。お前、幸乃をどう見た」
「あの、えっと。とても綺麗な人で、透き通るような涼しげな感じで、優しくて、えっと、とても素敵な人でした」
なよがわざとらしく溜息をつき、亜矢を睨んだ。
「透き通るようなではなく、実際、透けて後ろの壁が見えておったであろうが」
そういえばと、亜矢がそのときの様子を思い出した。
「呪いをかけられたのじゃ」
なよが重々しく答えた。
「え、呪い」
なよは頷くと、じっと亜矢の目を見つめた。
「一人は半分透けて、もう一人はというと、子供に戻ってしもうた。幸乃と幸は一卵性の双子じゃ」
なよが真面目な顔をして適当なことを言う。
「ええっ」
亜矢が目を見開いて幸を見つめた。
「なよ姉さん、それはもう言わないで」
幸が調子を合わせて言った。
「いつか、きっと元に戻ることができる、そう信じているから」
心細げな幸の言葉になよは重く溜息をつくと、ゆっくりと頷いた。
「亜矢よ。この話は終わりじゃ、お前も忘れろ。それから、幸乃の前では、透明、幽霊、そういった言葉は禁句じゃ。幸乃を傷つけてしまうからな」
なよの悪ふざけだが、亜矢は感じいって、素直に口を噤んだ。
ひょっとして、私はこの呪いから幸乃さんを救い出すためにここにやってきたのではないだろうか、真の運命の扉を開けるために。
亜矢はこういう発想をする女の子だった。

「邪魔をするぞ」
店の方から鬼紙老の声が響いた。
「見てきます」
三毛が立ち上がった。

三毛が鬼紙老を連れてくる、幸は立ち上がり、にぃっと笑いかけた。
「爺さんはここに座れ。深刻な話はなよ姉さんが担当だ」
幸は台所でおにぎりを作り、お椀にお味噌汁を注ぐとお盆に載せた。
幸が店にでると、平次が入り口で直立不動の姿で立っている。
「こら、平次」
「師匠」
怯えを隠しきれず、平次の声が微かにうわずった
「可愛い女の子が健気に頑張っているアットホームが売りの店だぞ。むさいおっさんが表から見えるところに立つな」
幸は怒鳴ると、平次を手で招く。
「申し訳ありません」
平次は駆け寄るとカウンターに背を屈め座った。
平次は東京支社長とここで修行をした、そのせいで幸には到底かなわないことを理解していた。
「昼飯まだだろう。聞きたいこともある、遠慮せずに食え」
幸が平次の前におにぎりと味噌汁を差し出した。
「いえ、あ、あの」
「同じ言葉を繰り返させる気か」
幸が睨む、慌てて、平次がおにぎりを頬張った。
幸は平次の斜め前に座る。かなりの男嫌いである、息がかかるのもいやなわけだ。
「修行は続けているか」
慌てて、平次は食べかけていたおにぎりを飲み込んだ。

「続けさせていただいています」
修行時、散々、平次は幸に脅されていた。
「鬼紙老は何しに来た」
「そ。それは」
平次が言いよどんだ。
「なんだ。師匠に話せないのか」
「申し訳ありません。私は鬼紙です」
緊張し、目を瞑る。 幸がにぃいと笑った。
「まぁ、いいさ。なよ姉さんが鬼紙老から話を聴いている。あかねの母親が鬼紙家から逃げ出した。仕方ないさ、免疫がないからな」
驚いて平次が幸を見つめた。
「分かりやすい奴だな、お前は」
幸は笑うと、言葉を続けた。
「鬼紙家は男が跡を継ぐ決まりだ。だから、男の子には早い段階から家の暗部を教える、逆に女の子は他家に嫁ぎ鬼紙から離れるから、暗部を教えず蝶よ花よと育てる。鬼紙家次期当主に居座るにはかなりの覚悟が必要だが、ま、逃げ出すのも無理はない。いまは亭主も子供も捨て、マンション住まい、本人も二度と鬼紙家に戻るつもりはないだろう」
「しかし、それでは鬼紙家が途絶えてしまいます、あかね様ならば鬼紙家を継ぐ器量がございます」
ふっと、あかねが平次の後ろに立った。そして、嫌そうな表情を浮かべ、手を横に振る。
「あかねは私の可愛い妹だ、鬼紙家を継がせるわけにはいかないな」
平次の後ろであかねがうんうんと大きく頷いた。
「しかし、それでは鬼紙家が」
「鬼紙家は男が継ぐ。あかねの弟、長男がいたろう、そいつを跡取りになるようしっかり育てればいいだろう」
そうだそうだと口を動かし、あかねが頷く。
「確かにそれはそうなのですが」
「鬼紙老はあかねを溺愛しているからな。あかねは可愛いし、頭もよい、その上、人を引きつける魅力もある」
あかねが平次の後ろで頭を抱えた。
「話は付けたぞ」
いつの間にか、なよが平次の前に立っていた。
「鬼紙家は長男が継ぐ、ただし、長男はまだ小さな子供じゃ、数人の補佐を取り付ける、あかねは、必要とあらば、不定期に助言をすればよい。大筋はそんなところじゃ」
あかねが嫌そうな顔をし、ぱたぱたと手を横に振る。
「まぁ、大事なお爺様のためなら、あかねは喜んで尽力をつくすであろう」
にかにか、笑いながらなよが言う。あかねの動きが面白くて仕方がないのだ。
「数人の補佐ってどうするの」
幸が尋ねた。
「わしが鬼紙家に乗り込み、これはというのを選ぶ」
なよが自信満々に答えた。
「それじゃあ、その間、亜矢は」
「ふむ。連れていこうと思う。亜矢はもう家にはもどれんであろう、ならば、鬼紙にもいくらか知見を得ておくのもよいであろう」
「なよ姉さん。用心棒代わりに三毛を連れていってくれないかな」
「なんじゃ、幸も気になるのか」
「多分、三毛は人にもっと関わる方がいい こんなんでも母親ですから、人並みに我が子の心配くらいはしますわ」
茶化すように幸は答えたが、本心でもあった。
「わかった、そうしよう」
なよは頷くと、平次を見据えた。
「平次よ、わしと二人の会わせて三人。夕方には鬼紙家に行き、二、三日逗留する。旨い酒と肴を忘れるな」
「承知しました」
平次はなよが屋敷にやってくるという不安はあったが、それ以上になよの手腕を期待した。

「さて」
なよがにかっと笑った。
「あかねの珍妙な創作ダンスも楽しめた。部屋に戻り、旅の支度でもするかのう」
驚いて、平次が振り返る。店を飛び出すあかねの後ろ姿だけが見えた。


特急列車に乗り換える。 自由席、亜矢は走り込むと、座席を確保した、なよが窓側に座り、その向かいを三毛、その隣りに亜矢が座った。 にたにたとなよが笑う、片手には日本酒一升瓶をしっかり掴んでいた。
「列車の旅はよいのう」 
「なよ姉さん、気をつけないと」
三毛が心配そうに言った。

「街の結界から離れるとなよ姉さんを暗殺しようという輩が現れるかもしれません。鬼紙家の車だったら安全だったのですが」
なよが、三毛の言葉にふふんと笑う。
「三毛よ。鬼紙家という権威記号に惑わされるな」
すっと、なよが座席を横に移動する、座席の中からぶわっとナイフの先端が現れた。なよが驚くふうもなくナイフの先を摘んだ。三毛と亜矢が驚いて、後ろの席へ走る、三十代くらいの男が、ナイフの柄から手を離そうともがいていた、何故か手が離れないらしい
「三毛、亜矢、戻ってこい」
なよの言葉に二人は一瞬戸惑ったが、なよの言うとおりに席に戻った
「わしの指先をよく見ておけ」
ナイフの先を摘むなよの手が微妙に動く。
「力の方向、角度、うまくすれば、相手の手の筋肉をこれだけで操作することができる。背もたれの上から奴とわしの手の動きを見比べておけ。勉強じゃ」
なよがにかっと笑った。

なよは件の男を解放した後、窓辺に戻り、手酌で湯呑みに酒をつぐ。酒飲みの性である、水面が丸くなるほど酒をつぎ、口から迎えにいく。
「窓からの風景を眺め、命の水をいただく、幸せじゃのう。鬼紙の車がリムジンといえど、この解放感と心地の良い喧噪はあるまいて」
三毛は暢気すぎると言いたかったがそれを言うのをやめた。多分、なよ姉さんは充分にわかっている
亜矢はなよの姿に祖母を思いだしていた。修行は無茶すぎると度々思ったけれど、それ以外は笑顔の絶えない祖母だった よく似ている、祖母はなよに憧れていたのだろうなと強く思う。
「おばあちゃん」
ふと、亜矢から言葉が漏れた
「わしをおばあちゃんと呼ぶとは、なかなか豪気のある奴じゃ」
なよがいたずらが成功した子供のように笑った。
「も、申し訳ありません。あの、祖母のことを思い出して」
「よいわい、わかっておる。妙子も思ったことを、口に出してよいかどうか、考える前に言うてしまう奴じゃった。それでも、周りから好かれておったのは気持ちのよい奴じゃったからであろう」
なよが穏やかな表情で目を瞑る。
「わしの中では妙子は、亜矢、お前と同じ年頃じゃ。亜矢、お前にとっては、祖母であるのだろうがな。わしの国はその頃、鎖国をしていたから、妙子がどのようにして暮らしたのかは知らぬ。ただ、まっすぐに生きたことに違いはないようで、少しは安心した」
なよは目を開けると、嬉しそうに笑みを浮かべた。
「亜矢よ。祖母の道を辿るなら、その道をしっかり進め。そして、行くのなら、祖母の先を行け」
亜矢がこくこくと頷く、魔女のことはもうすっかり忘れていた
「そして、三毛よ お前には幸から言付かっておる」
「幸母さんが」
「三毛よ、この旅では亜矢とわしをお前が守る。そこまでは聴いておるな」
三毛がじっとなよを見つめ頷いた。
「殺すな。命を奪わずにわし等二人を守れ。それが幸がお前に与えた命題じゃ。しっかりとこなせよ」
「殺さずに」
「相手を止めるには、殺してしまえばたやすい。殺さずに止める方が難しい、より高みを目指せ」
なよがもっともらしく言う。実際は命を奪う業の深さを理解して欲しいというのが、幸の言葉だったが、いまの三毛にそのままを伝えるのは避けた方がよいと考えた。
三毛は唇を噛みしめ頷いた。
不意になよが顔を通路に向けた。一人の男が立ち止まり、会釈をし笑みを浮かべた。
「これは姫様、お久しぶりにございます」
「なんじゃ、神崎ではないか、ならば、か弱いわしを刺し殺そうとしたのはお前の手のものじゃな」
「いえいえ、あれは少しばかりの御挨拶でございます、先生の結界から離れ、前鬼、後鬼も従えていない。これは、てっきり賞金というボーナスをくださるものと思いまして、いやはや、勘違いをしてしまいまして申し訳ありません」
すっと、三毛の体の軸がほんの少し前進する。
「妹の娘がおる、前鬼後鬼よりも頼りになるぞ」
「妹とは」
ふっとなよは目を開き、そうかと呟いた。
「お前は知らないのだな、わしは単純に匿われていたのではない、わしは優しいお父様と可愛い妹、幸と暮らしておる。家族で楽しい日々を過ごしておるぞ」
にぃぃと唇を歪め、神崎に笑いかけた。
神崎の顔が赤くなり、見る間に青くなる。
「神崎よ。幸に殺されぬようにな、それとも二百年生きて、生き飽きたのならば、幸に胴を真二つに切ってもらえ。わしから伝えておくぞ」
「め、滅相もございません」
あまりに慌てたのか、表情を作る余裕もなく、口早に神崎が言った。
「私は姫様を尊敬しておりますゆえ。おおっ、私は先ほどの狼藉者を捕らえなければ。それでは、失礼おば」
慌てたように神崎が去る。
「なにが狼藉じゃ」
なよは呟くと湯呑みに残った酒を飲み干した。
「なよ姉さん」
三毛が言った。
「なんじゃ」
「神崎が二百年生きているって」
「あいつは江戸時代終わり頃のとある大名のなれの果てじゃ。えらく、鬼を憎んでおる、鬼が死に絶えるまで、あいつは生き続けるつもりかもしれんな。ま、そんなことより」
なよは少し視線を上にすると、亜矢の後ろ辺りに声をかけた。
「あかね、来い」
驚いて、亜矢が座席越しに振り返った。
あかねは立っていた乗客に会釈をし座席を譲ると、すとんとなよの隣りに座った。
「あかねさん、どうして」
亜矢が呟いた。
「旅のお供もいいかなぁと思いまして」
「何を言うておる、あれほど行くのを嫌がっておったくせに」
なよがあきれて言った。
「まぁ、そうなんですけど。お父様に脅されてしまいました」
「脅すとは」
「なよに任せておけば大丈夫だと思うけれど、逆にやりすぎて、違う、それも大きな問題が起きなければいいよね。お父様ったら笑顔でそんなことを仰いますから、微力ながら、ちょっと見張っておこうと」
「ほんに、父さんは狸のところがあるからのう」
なよは笑うと言葉を続けた
「ならば、期待通り、少し遊んでみるかの、面白そうじゃ」
「いいえ、必要なことだけをしてくださいませ、なよ姉様の手を煩わすのは心くるしゅうございます」
亜矢はなよとあかねのやりとりを見ていて思う。記憶が蘇るほどに、妙子の美化されたかぐやのなよ竹の姫への記憶が蘇る。美しくて凄い方だと熱を帯びた口調で言う祖母の姿を思い出す。
いま、自分は目の前でその凄い人を見ている、そして、先ほど優しく声を掛けてくれた、さほど、年も変わらない女の子、あかねが忌憚なく愉快に喋っている。なんだか、いいなぁと思う。
「いいなぁ」
ふっと、亜矢が呟いた。うっかり声に出てしまったのだ。
にっと、あかねが笑みを浮かべて亜矢に言った。
「亜矢は一週間、うちで修行するそうですけど、その後はどうするの」
このことについては三毛も気になっていたのか、亜矢に目をやった。
「ごめんなさい、わからないです」
「それじゃあ」
と、三毛が続けた。
「これから、どうしたいと思う」
亜矢は口を噤んでしまった。
母と妹は魔女だ。それも狂信的と言ってもいいかもしれない。自分は祖母の記憶を思い出したまま、家に帰ることはできるだろうか。そして、教わる術をはいどうぞと母さん達に渡せるだろうか、祖母がなんとしても守ろうとした術を。
一人暮らしになるのかな、生活していけるのだろうか。
すっと三毛は亜矢の手を握り言った。
「お姉ちゃんって、呼んでもいい」
上目遣いに見る三毛の瞳。学園の妹と称される黒様の妹、三毛さんがお姉ちゃん、お姉ちゃんって、ふぅっと亜矢が意識を失った。
何事かと慌てた三毛になよが笑いかけた。
「まさか、三毛がのう。案外、三毛と亜矢は気が合うかもしれんな」
「あ、あの、これって」
「記憶が蘇って脳に負荷がかかっているところへ、嬉しすぎて気を失ったんですよ」
おかしくてたまらないと、あかねが言った。
「三毛は頑ななところが多いです。案外、亜矢がそういうところ、解してくれるかもですね」

亜矢を少し斜め、三毛の膝に頭を置き、眠らせる。要領よく、あかねは済ませると座席に座りなおした。
「亜矢って、面白い人ですね」
あかねが感心したように言った。

「そうじゃな、産まれてすぐに病院から祖母妙子に誘拐され、六歳、小学生になる歳まで育てられた もちろん、英才教育を受けるためじゃ、あやつもむちゃをしよったものじゃて」
三毛は思う、他人の心の中を平気で読む二人の会話だ。でも、三毛も亜矢のことはなんだか気になる、黙って聴いていようと思う。
「ま、息子が魔女と結婚したということが、そもそもゆるせんかったのじゃろう」
「つまりは、嫁姑戦争でもあるわけですね」
「そちらの割合の方が大きいかもしれんて」
なよは妙子の性格を思い出したのか、にやりと笑った。
「ただ、なよ姉さん。多分、亜矢さんは教わったもの、思い出したものを魔女に伝えることをしないと思います」
「家の中では随分と冷たくあしらわれておったようじゃ。その上、祖母の思いを思い出してしまっては、はい、どうぞと差し出すことはできんじゃろう。さてなぁ」
「でも、伝えなかったら、それはそれでいいんじゃないですか、しょうがないなぁ、期待したのにって愚痴を聞かされるだけで、親子なんだから」
「教えない場合は薬を使う、脳を潰して取り出すわけじゃな」
ふっとなよが俯く。
「あ、あのね。うちで暮らすのが一番だよ、絶対」
慌てて、三毛が言った。
「しかし、魔女からこやつを預かると約束した期間は一週間、それを過ぎれば約束じゃからな、不安は大いにあるが返さねばならん」
「なら、三毛が言うよ。亜矢に帰っちゃだめ、ここでみんなと暮らそうって言う、つれてきた魔女のおばさんにも亜矢が残りたいって自分の口で言ってくれるようにお願いする、そしたら、三毛はなにがあっても亜矢を守るよ」
「なよ姉さんはひどいなぁ」
あかねが呟いた。
「なにがひどいものか。少し背中を押しただけじゃ」
なよは平気なふうに返事をすると、三毛をぎゅっと睨んだ。
「亜矢が自分の口で残りたいと言えば何の問題もない。だが、できるのか」
「できる、できます」
三毛がまっすぐに答えた。
なよは笑うと言った。
「ならば、がんばれ」

アナウンスだ、次の駅にもうすぐ到着する。ふと、なよは視線を先に送り笑った。
「神崎め、わしがこの列車に乗っているのを随分と吹聴したらしい。駅のホームが賞金稼ぎや人でないものでいっぱいじゃ。なにやら、楽しいのう」
三毛が慌てて言った。
「亜矢を起こせばあかねと三人、花魁道中の儀で一気に鬼紙家へ移動できるよ」
「ほんに三毛はまじめじゃのう、そういう人生はつまらんぞ。人生、山あり谷あり、暗殺者ありじゃ」
楽しそうになよが笑った。


何がどうしたっていうんだ、お袋の目、完全にイってる、幸輔は母親と高級車の後部座席、黒壇の木刀を抱えて、天井を見上げていた。
中学三年、授業中にいきなりお袋が教室に乱入して拉致された。
お母様、どうされたんですかと叫ぶ担任の声も聞こえていないようだった。
親子じゃなきゃ犯罪だ、いや、親子でも犯罪だよ。
「谷崎、もっとスピードを出しなさい。信号など守らなくともよろしい」
お袋が叫ぶ、確か先月どこかの警察で一日署長をやってたよな、おふくろ。
代々名門の政治家一族、俺、いま、急カーブで違う未来へ向かっているんじゃないか、参ったなぁ。
「幸輔。姫様の危機です。駅に到着したらホームへ走りなさい。なんとしても、姫様をお守りするのですよ」
完全にイった目で、お袋が叫んだ。
「あ、あの、姫様って、お袋の妄想の」
「妄想ではないと何度言えばわかるのです。千年以上の年月を生き続ける絶世の美女、姫様の存在を疑うとは、我が息子ながら情けない」
急ブレーキのけたたましい音と共に車が停止した。
「奥様、改札の手前です」
広い改札口に頭を突っ込むように車が止まっていた。
「無茶だよ、お袋」
二人は車から飛び出すと改札機の上を走りホームへの階段を駆け上った。後ろから駅員の怒号か聞こえる。

ありかよ、これって。
幸輔が呟いた。
多分、電車に乗り込むつもりだった本来の乗客たちだろう、駅のベンチの下に頭から潜り込んで震えている、思い切った乗客は線路を走って逃げている。
何から逃げている。
人じゃないもの達から。
三メートルを越える狼の顔をした二足歩行の奴ら。軍服を纏った鬼達、ホームがいっぱいだ。それから、あれは、なんて言えばいいんだ。

「な、なんですか。これは」
遅れてやってきた駅員が呆然と呟いた。
列車がやってきた。お袋、器用に駅員の両肩に飛び乗って、列車を睨む。
「幸輔。先頭から三番目の車両です。狼男の首、へし折ってやりなさい」
言うよりも早くお袋、駅員から飛び降りて、奴らに飛び込んでいった。
「逃げた方がいいよ、あいつら、本物だから」
お袋の後を走る。ほぼ、産まれると同時に修行させられたと言ってもいい、天城流剣術高儀派、木刀を背に垂直な崖を駆け上る修行があった、人を相手にする剣術じゃないってことだ。
駆け上り斬る、三メートルを超える狼男の首を袈裟掛けに斬る、確かに手応えがある、なのに狼男の目が笑った。
「子供の遊び場じゃねえぞ」
声帯が人と違うのだろう、くぐもった声で言う。ふわりと女の子が目の前に浮かんだ、そして、木刀の先を無造作に押し下げる。
鎖骨が折れ、狼男の首が傾いた。
「手伝ってくれてありがと」
女の子が笑みを浮かべ着地する、同時に反転して狼男の膝を蹴り潰す。

可愛い、見とれてしまう、幸輔は我を忘れ、あかねの姿に見とれていた。
同学年、それとも、いっこくらい上かも。
わっぱ、色気付く暇はないぞ
幸輔の頭の中に女の声が響いた。
立っている奴らが減り、向こうが見渡せる。
列車の前にすっくと立ったなよが愉快に笑っていた。お袋の言っていた姫様、凄い美人だ。
「あかね、戻ってこい」
なよの言葉にあかねは頷くと、あかねは幸輔の手を取り言った。
「さあ、おいで」
「あ、あの。ボク、いや、あの、俺は」
幸輔が顔を真っ赤にし何か言おうとしたが、照れて何も言えないでいる。
「ん、私に惚れたの、参ったなぁ。私、年下は対象外なんだ」
にっとあかねが笑った。
「えっと、あの」
あかねの笑顔に幸輔が余計に緊張する。ふぃっと、あかねは幸輔の前に立つと、ふわりと少し浮き上がる。
「ごめんね」
あかねが幸輔に口づけをした。
あかねがちょっと舌を入れる。
「あわわっ」
幸輔の力が抜けて、後ろに尻餅をついてしまった。
「君のファーストキス、もーらい」
あかねは笑うと、幸輔を片手に抱え、投げ飛ばした。
飛んできた幸輔を三毛が受け止めた。
三毛は溜息をつくと幸輔をホームに降ろす。
こういうのがトラウマになるのかなぁ、三毛が呟いた。

「姫様の御存命、これほどかすりは嬉しいことはございません。」
幸輔の母、かすりはなよの足下に額をすり付けるように土下座する。

なよは背負っていた亜矢を降ろすと、困ったように頭をかいた。
かすりが土下座するその前に、なよは膝をつき、正座した。
「かすりよ、久しいな。顔を上げよ」
おそるおそると女、かすりが顔を上げた。
「元気そうでなによりじゃ。しかし、お前はどしてわしを憎まんのじゃ」
「姫様を憎むなど考えたこともございません」
「わしは無能であった、民を角のある鬼どもにむざむざ殺されてしもうた。中にはかすりの係累もおったであろうに、申し訳なく思う」
「我ら草は誰一人として姫様に恨みを持つものなどおりませぬ」
なよは両手を差し出すと、かすりをぎゅっと抱きしめた。
「姫様だめです」
かすりが喘いだ。
「私のようなものに触れては姫様がケガレます」
「かすりが小さな子供の頃、わしの膝に乗り遊んだものじゃ、あの頃とお前は何もかわらん」
かすりはもう息も絶え絶えだ。
なよが顔を上げた。
「花魁道中の儀」
なよの言葉に三毛がまず反応した。
「しゃん」
大きく、三毛が叫ぶ。
あかねもしゃんと叫ぶ。
「頼むぞ、かすり」
かすりはぎゅっと両手を握りしめると叫んだ。
「しゃん」

駅員は女たちの周りに白い靄がたちこめ、靄が消えたときには女たちが消えてしまったのを見る、なにかが終わったと駅員は気づいた。反転し、階段を駆け下りる。いつまでもここにいたらどんな目に合うかしれない。
早く逃げなければ。

なんて言うか、とにかく、いろいろ、きつい、幸輔は俯き溜息をついた。
鬼紙家専用無人駅のプラットホームだ。かすりは気を失い寝かされていた。
「神崎め、今度、会うたら、首を引きちぎってやるわ」
なよが憎たらしそうに言った。
「姫様、そのような乱暴なお言葉、いけませんわ」
あかねが気楽そうに笑った。
「わしを姫様と呼ぶでないわ。しもたのう、草にわしが生きていることを知られてしもうたわい」
三毛が尋ねた。
「草ってなんなの」
「忍者、わしの密偵みたいなものじゃ。諜報活動を行う。この国の要所要所に置き、情報収集をさせておった。わしは死んだということにしておったのじゃが、生きているのを知られてしもうたわけじゃ」
「なよ姉さん、お姫様に戻るの」
「わしは、なよ。お前の酒飲みの姉じゃ」
三毛がほっとしたように笑みを浮かべた。

「なよ姉さんは怖いけど、とっても、優しいから」
「わしは優しくなどないわい、怖い怖いお姉さんじゃ」
なよが気恥ずかしそうに笑った。
三毛にはなよの膝で意識を失ったままの女性がまるで安心しきった子供のように思えた。
「そうじゃ、わっぱ」
なよが少年に声をかけた。この状況である、幸輔は飛び上がってなよのもとへ走ってきた。
「名前はなんという」
「幸輔です。あの」
「どうした」
「いったい、何がどうしたのか。現実なのか夢なのか」
なよは深く息を漏らすと、一度俯き、見上げた。
「とにかく、幸輔。座れ、わしは見上げて喋るのは嫌いじゃ」
なよが軽く睨むと、幸輔は慌てて、地面に座り込んだ。
「まず、幸輔よ。お前に兄弟はいるのか」
「弟と妹がいます」
「なるほど。それでその二人もかすりに剣術を教わっているのか」
「いえ。俺だけです。あの、それって」
なよは微かに吐息を漏らした。
「どうやら、かすりはお前を自分の跡取りにするつもりのようじゃな」
「あの、母さんはいったい。俺は、なにがなんだか、今の状況がわかりません。さっきの狼男だって」
「説明くらいはいくらでもしてやるが、聞けば後戻りはできんぞ。今までの生活を続けたいのであれば知らぬほうがよい。かすりにはわしから注意しておいてやろう」
「今までの」
幸輔がなよの言葉を繰り返した。
多分、そうだろう。深入りすれば、このわけのわからない世界から抜け出すことは出来なくなると思う、後悔するだろう、今のまま行けば、親父と同じ与党政治家としての安定した生活が待っている、総理大臣は無理でも、大臣職には就くことが出来るんじゃないか。
幸輔が戸惑いながら答えた。
「ごめんなさい」
幸輔の返事になよは笑顔を浮かべた。
「謝ることなどない。それでいい」
「いま、お前のところの運転手が車をとばしてこちらに向かっておる。なるほど、あやつも元はこちら側か」
なよは幸輔に向き直り言った。
「かすりと話をしよう。幸輔、お前はホームの向こう、声の聞こえぬところまで行け」
慌てて幸輔がホームの先へと走った。
「やぁ、本当に逃げましたね」
特に感慨深く思うこともなく、あかねが言った。
「意志のない奴はそれでいいと思う」
三毛が呟いた。あかねがにっと笑った。
「おや、三毛、怒っている」
「怒ってない、ううん、この気分、怒っているのかなぁ」
三毛がかすりを見て呟いた。
「多分、ちょっとだけ怒ってる」
ふふんとなよは三毛の顔を見て笑う。しかし、すぐにかすりの顔を見下ろすと、軽く額を叩いた。
「かすり。起きろ」
かすりがゆっくりと目を開ける。にかっと笑ったなよの顔を見上げて、慌てて起きあがると、なよに正座し頭を下げた。
「姫様、お久しぶりでございます」
「顔を上げよ。お前の顔を見たい」
なよの声にかすりがおどおどと顔を上げた。
「なるほど、きかんぼうだった頃の面影があるわい」
なよはかすりの正面に正座し直すと、かすりに深く頭を下げた。
「姫様、何を」
「わしは国の主じゃった。鬼どもに国を滅ぼされほとんどの者を殺されてしもうた。いわば、難破した船の船長だけが生き残ったようなものじゃ。かすりはわしの生き残った国の民、わしの娘じゃ。日頃、為政者として好きなことを言っていたくせに、民を守ることが出来なんだ。頭を下げるだけではたりんであろうが」
「もったいのうございます、姫様、どうぞ、顔を御上げくださいませ」
かすりは感極まりながら、なよに何度も頭を下げる。なよは顔を上げると、改めて言う。
「わしは国を再興するつもりはない、わしの仕事は国民を弔うことじゃ。わしは一人でも多くの御霊に安らいでくれと祈りたい」
なよはかすりの手を両手でぎゅっと握りしめた。
「わかってくれるな、娘よ」
「はい。姫様のお気持ち、わかります」
「わしは娘たちにも密偵をさせた、非道い母親じゃ。すまなんだのう」
「姫様のお役に立てるのなら本望にございます」
「ありがたい。しかし、国を再興する意志がわしに無い以上、密偵の職を解く。お前はわしの可愛い娘じゃ」
なよがかすりをぎゅっと抱きしめる。かすりがそのまま気を失う。なよは体を離すと、かすりを横に寝かせた。そして、幸輔を手招いた。
幸輔が息せききって走ってきた。
「幸輔よ、話は終わった。もうすぐ、車が来る。今日のことは忘れて、勉学に励めよ」
なよがそっと微笑んだ。
車の音だ。凄い速度でやってくる。無人駅のホーム、急ブレーキ、軋む音がやんだ瞬間、なよの上を両手、ナイフ構える運転手が浮かんだ。突き出すナイフ、その運転手の手首に三毛の左手が触れた瞬間、運転手の体が背中からホームに叩きつけられる、刹那、運転手は体勢を入れ替え俯せに着地した。掛けだそうとした瞬間、あかねが言った。
「おやめなさい」
りんとした声に運転手と三毛の動きが止まった。
「ここは鬼紙家の領地。許可を得ない争いは許しません」
幸輔が運転手に言った。
「佐藤。母さんも大丈夫だ、気を失っているだけだから」
運転手は構えを解くと、かすりの前で跪き、かすりを抱きかかえた。何事もなかったように車に戻る。幸輔も後を追い乗り込んだ。車はそのまま、街へと戻っていった。
三毛が大きく息を吐いた。
「緊張した。止めてくれてありがとう、あかね」
三毛が呟く。
「どういたしまして。あと、印籠があれば面白かったのですけど」
あかねは気楽に笑うと、なよに声を掛けた。
「そろそろ兵次を呼びましょうか。館まで送ってもらいましょう」
「あの運転手。兵次では勝てんな」
興味深そうになよが言った。
「三毛も自信ありません」
「三毛は技量はあるが、勝つことへの執着が薄いからのう」
「私なら勝ちますけどね」
「あかねは悪人じゃからな」
なよは笑うと、思い出したと振り返り、亜矢を見つめた。
「いびきをかいて寝ておるわい」
なよは立ち上がると、亜矢に声を掛けた。
「起きろ。置いていくぞ」