遥の花 あさまだきの靄 一話

遥の花 あさまだきの靄 一話

幸はあさぎの隣でにひひと笑い呟いた.
「これは痛いや。痛い痛い」
二人は喫茶店のカウンタの後ろ、モーニングとランチの間、常連客が窓際で珈琲を飲む一人.忙しくなる少し前の時間、あさぎと幸が並んでカウンターにいたのだった。
「どうしたの」
「駅の改札を通って、こっちに向かってくる人たちがいるんだ。うちのお客様だよ」
幸がそうあさぎに答えたとき、夕子が奥からやってきた。
「そろそろ、ランチのお客様、増えてくるかなって、手伝いにきました」
「ありがとう、夕子」
あさぎが振り返り、笑いかけた.
「ね、夕子」
幸が夕子の前にかけより声をかけた.
「天使と魔女って、仲はいいの」
夕子がにこやかに答えた.
「魔に心を売った、唾棄するべき存在です.見つけたら、殲滅ですよ」
口元に笑みを浮かべたまま、ぎろっと、夕子の眼が空を睨んだ.
「幸さん。楽しい宴の始まりですか」
「訊いてみただけ。それより、お父さん、夕子を呼んでいる.かぬかと手伝いに行ってくれるかな」

幸は夕子を奥にやると、あさぎに言った。
「ちょっと、めんどくさい人たちが来る。幸が相手します」
「ありがとう、ごめんね」
「どういたしまして」
幸も笑みを浮かべると、お盆にお冷を二つ、それにメニュを載せ、歩く、ドアを開け、明るく声をかけた。
「いらっしゃいませ。どうぞ」
少し戸惑った表情を浮かべ、二人の女が入ってきた。
幸は流れるように二人を座席に座らせると、お冷を置き、メニュを年かさの女に手渡した。
あさぎは二人を見た瞬間、厨房へと戻る、距離を置いた方がいいと判断した。
四十代の女と娘だろうか十代後半の女の子、その組み合わせは特に不思議ではない。ただ、問題は二人が同じ黒のワンピースに、頭には赤色の大きなリボン、肩には黒い子猫、箒まで持っていた。
そうだ、アニメ映画で見たことがある。
「あさぎ。ウィンナー珈琲じゃ。わしが作るより、あさぎの方が美味い。不思議じゃのう、同じ材料なのに」
なよが厨房にやってきた。
「なんじゃ、どうした、あさぎ」
「あ、あの。ええっと」
どう答えたものかと、あさぎが戸惑う.ひょぃとなよが店の中を覗いた.
「これは痛いのう。片田舎の小さな街に漫画の扮装とは。痛い痛い」
なよが、遠慮なく声を張った.
すたすたと、なよはテーブルに近寄ると、空いた椅子にどかっと座った.
「あさぎ。ウィンナー珈琲はこっちに運んでくれ」
なよは年かさの女の顔を見るとにかっと笑った.
「久しいのう。魔女KS。十年ぶりか」
「かくやのなよたけの姫。なぜ、あんたがここにいる」
女の声に微かに怯えの色が滲む.
「おるもなにも、わしはここで暮らしておる.

「ならば、鐘馗の姫を強くしたのは、あんたか」
なよがにたりと笑った。
「なんのことかわからんな。しかし、あやつもうちに来た当初は大人しかったが、先日などどうじゃ、肩をおもみしますと言うたはいいが、手が滑ったと首を絞めよりおる。恐ろしいやつじゃ」
にかっとなよが声に出して笑った。
「この娘にも教えてやってくれないか」
女は立ち上がると、なよに頭を下げた。娘は硬直したように唇を引き締めている。
「ハーブティとチーズケーキです」
その場の空気を変えるように幸が声をかけた。
幸が二人の前にハーブティとケーキを並べる。三毛がウィンナー珈琲をこぼさないよう運んで来た。
「幸よ、お前はどう思う」
「そうですね。やめておいた方がいいんじゃないかな。えっと、あなたの家族構成を教えてください」
すいっと、幸が娘に尋ねた。
「は、はいっ。両親と妹が一人です」
「家族は仲がいいの」
「ふ、普通には」
幸の視線がなよに向いた。なよが頷く。
「姫は強くなり、攻めてくる鬼たちを一人で倒すことができるようになった。そして、父である王は娘の強さに恐れるようになった。疑心暗鬼、姫はそれを知ると、国から離れた。それを思うとき、正解はなんなのであろうと思う。ま、お前も必要以上の力を得ようとするな。身を滅ぼすぞ」

一瞬、娘が怯む、その瞬間、女が娘を睨んだ。
ほんの一瞬だったが、なよを幸も三毛も、あぁそういうことかと思う。
幸は一つ吐息を漏らすと、なよに言った。
「なよ姉さん。どうかな、教える可能性は九十九パーセントありませんという前提で、一週間お預かりして様子をみるの」
なよは重々しく頷くと、女に言った。
「教えてやる可能性は一パーセント。それでもよいか」
女が目を見開き頷いた。
なよが頷く。
「話は終わりじゃ。ハーブティが冷めてしまうぞ。早く飲め」

なかば追い出すように女を帰らせると、なよは娘に向き合って座った。
「どうじゃ、あさぎのハーブティとチーズケーキは美味かったであろう」
ふと、娘は緊張を忘れてぼぉっとする。それほど、あさぎのチーズケーキは美味しかった。
「お前。名前は」
「田中亜美、です」
呆れたようになよは溜息をつくと、残った珈琲を飲みほした。
「あ、あの」
なよの表情に、何がなよの機嫌を損ねたのかと慌てる。
「なよ姉さん。お客さん、増えてきたよ」
幸が声をかける。そして、幸は田中の亜美の後ろに立ち、赤色のリボンをほどいた。そして、指先を亜美の首に溶け込ませる、小さな金属の塊を取り出し握りつぶした。
「リボンと箒は預からせていただきます。あと、その黒猫の名前は」
何があったか、わからず、亜美は戸惑ったが、黒猫を抱き上げ言った。
「えっと、黒子です」
なよが耐えられず吹き出した
「幸よ。名づけのセンスはお前と同じじゃの」
「素直で良いです」
幸も笑うと、ふわっと硝子球を出す、そして、黒猫の首筋にあてた。硝子球の中が白く濁る。そして、その硝子球を消した。
なよが立ち上がった。
「さて、邪魔にならぬよう中に入ろう。幸も来い、なんといっても、お前が漣の師匠なのじゃからな」
驚いて亜美が幸を見つめた。
「この世界、目立たないのが一番だ。それに言っておく。相手を把握できないうちは、本名を名乗るな。ろくなことにならねぇぞ」
幸が笑みを浮かべたまま、囁いた。


縁側に二人座る、亜美と幸だ。
昼間、日差しがやわらかい。見渡せば、畑、その向こうは梅林だ。
鶏が目の前を通り過ぎた、草を啄んでいる。

不思議だと思うけれど、でも、不思議じゃないようにも思う。
あったかい縁側、右隣には幸という美少女、左隣には、竹取物語のかぐや姫。とりあえず、私は固まってしまっています。
「亜美自身は、そんな力、欲しいとは思ってないだろう」
幸は亜美に向き直り、笑った。
「あ、あの。いえ、そんなことは」
しどろもどろに亜美が答えた。
「つまらんのう。小物ばかりじゃ。昔の魔女はわしとやりあえる奴もおったに」
「なよ姉さん、昔っていつ頃のこと」
ふっとなよは思い出すように顔を上げる。
「江戸の初め、もう四百年ほど経つか。キリスト教、耶蘇教とゆうたか、それと一緒に魔女がこの国に入って来た。面白い奴もおったわ」
なよは少し顔を上げ、空を見る。
「今の魔女組織は組織を守ることに汲々としておるが、当時は自由な奴らが多かった」
「鬼の影響かな。鬼の勢力拡大に危機感を抱いたのか」
幸がなよに言う。
「いや。それはきっかけにしかすぎんな、魔女も人間世界に慣れ親しみ、能力が劣化した、一部がそれに危機感を抱いたんじゃろう」
なよが正面を見る。
「来たぞ」
なよが呟いた。
夕子がにこやかに笑みを浮かべ歩いてくる。
ふわっと、彼女の手に自在が現れた。
「もう、幸さんったら、だめですよ。魔女はだめなんですから」
夕子が間合いを縮めた。
「だめだよ、夕子さん」
幸が亜美を覆いかぶさるようにかばう。
「どうしてですか。こいつは魔女です」
幸は亜美を抱きしめたまま、夕子に顔を向けた。
「亜美さんは魔女にさらわれて、魔女にされそうになったのを助け出したの」
なよは笑うと、夕子に語り掛けた。
「よう見てみい。まだ、魔女の匂いが然程せぬであろう。そうじゃ、夕子、お前、清めてやれ」

「あ、あの。私、そういう趣味はなくて」
慌てて、亜美が言った。
「おでこです、痛くないから。さあ、目を瞑りなさい」
夕子は亜美に笑顔を浮かべると、亜美の肩を抱く。
亜美は夕子の笑顔に頬が紅潮する、なんて綺麗な人なんだ。視界が白一色になった。天使の羽だ、亜美は自分自身がいつの間にか大きくて白い天使の羽に包まれていることに気づいた。
なんだか、体が軽くなっていく、不思議に気持ちが楽になっていく。
「では、あさぎ姉さん手伝ってきます」
ぼぉっとしたままの亜美を後に、夕子がお店へと歩いていった。
「どうじゃ、亜美。気分が軽くなったであろう」
いたずらげになよが笑った。亜美はお腹の中に溜まっていた澱のようなものがすっと消えて、体が軽くなった気がした。なんだか、気分もいい。
ふと幸が振り返った。
「お父さん、駅まで帰ってきた。迎えに行ってくる」
幸が立ち上がって駆けだした。
戸惑っている顔をした亜美を、おもしろそうになよが笑った。
「あやつはお父さん大好きファザコンじゃ。ほおっておけ」
なよはいつものことと気にせずにいる。
「さて」
なよが呟いた。
「お前の母親は魔女のようじゃな。さっきの奴はダークローズアソシエーション、この国でいくつかある魔女の協会の中でもっとも古い魔女の集まりに属しておる」
亜美は一週間前、魔女の宅急便のキキと同じ扮装をした母親を見て、何かの冗談かと思ったことを思い出した。
そしていきなり言ったのだ。お前は魔女になるのです、高校も退学ですと。もう狂ったのかと思った、目は笑ってないのに、口元がにぃって笑っているんだ、怖かった。
「お前は自分が魔女の家系にあると知ったのはいつじゃ」
「一週間前です。っていうか、いまも理解できません」
「まぁ、そうじゃろうな。その顔では」
なよは愉快なものをみるようににたっと笑った。
「奴らはどこかでここの女が鬼の軍隊と一人ででも戦うことができることを知った。これはいい、この力を取り込みたいとお前を送り出した。お前はまったくの素人じゃが、才能だけはやたらにあるからな」
「才能っていわれても」
気弱に亜矢が答えた。
「お前が小さな頃から魔女として修行していれば、相当な能力を持った魔女になったであろうに、なぜ、今頃になって魔女にしようとしたのか。妹はとっくの昔に魔女であるのにのう」
「妹、えっ、亜紀を知っているんですか」
なよはあきれたように亜矢の膝を指さした。膝の上には猫の形をした、木製のマリオネットが転がっていた。
「う、うわっ。黒子、黒子が人形になってる」
「正確には人形に戻っているじゃ」
なよは亜矢の言葉を訂正すると、すいっと亜矢の目を見つめた。
「幸がそれから魂を抜き取った、だから元の人形に戻った。お前の妹は幸のポケットの中で眠っておるわい」
そして、にぃっと笑うと言葉を続けた。
「魔女として妹御はたびたびにおいて、お前を見張っておったのじゃろうな。面白い家族じゃ」
亜矢は何か確かだったはずのものが、ぐらぐらと崩れていくように思った、なんだか、気を失ってしまいそうだ。
「なよ姉様、いじめはだめですよ」
漣が戻って来、茫然としている亜矢を見つけて言った。
「戻ってきたか、漣。ちょうどいい、漣にも関わりがある話じゃ、ついでにわしの話を拝聴せい」
「嫌というとうるさいので喜んで拝聴させていただきます」
漣が座りなおし、なよの前に正座した。
「一言多い奴じゃのう。まぁよい」
なよはにやっと笑う。
「こ奴は田中亜矢、魔女見習い。漣、お前の活躍を知った魔女たちが、強くしてくれと放り込んできたのが亜矢じゃ。お前、先輩としてどう思う」
亜矢は漣の居抜くようなまなざしに、あぁ、自分はなぜここにいるのだろうと思う。本当だったら、まだ、午前の授業中だったのに。
「人にしては破格の才能を有していますけれど、それを使う技術はないようですね。悪いことは言いません、普通に生きていかれることをお勧めします」
「まぁ、そう思うわな」
なよが小さく吐息を漏らした。
「ところが、こやつの母親と妹が既に魔女であるからのう、何も覚えずに帰ってきましたとはいかんのじゃ」
「簡単ではありませんか」
漣が戸惑うことなく答えた。
「魔女とやらを皆殺しにしてきてあげましょう」
すいっと漣が自在を空から引き出した。
「亜矢さんでしたか、ご家族の顔を教えてください。ご家族は半殺しで済ませるよう努力いたします」
漣が綾の目を見据えたまま言う。
「え、あ。いえ、あの」
亜矢が口ごもった。
「なんじゃ、びびっとるのか。茶を飲む時間で漣は仕事を済ませてくれるぞ」
にぃぃとなよが笑った。

「おや。かわいいお客様ですね」
幸乃が亜矢の顔を覗き込んでいた。
「幸乃。今日は父さんの体の中に潜り込んではおらんのか」
いつの間にかいた幸乃になよが驚いた。
「お父様に追い出されてしまいました。仕方ないので、今日一日は開放してさしあげるつもりです」
幸乃が笑みを浮かべる。なんて綺麗な人だ、亜矢が今の自分の立場も忘れて幸乃に見とれていた。
「そいつは亜矢、魔女見習いじゃ。魔女が送り込んで来おった。修行させてやってくれとな」
なよの言葉にすっと幸乃が亜矢を見つめた。
「亜矢さん」
「は、はいっ」
亜矢の声がうわずった。
「なよは意地悪ですが、本当は心のよい者です。なよに頼りなさい。もともと、あなたはなよと縁もあるのですから」
「そ、そうします」
見とれながら亜矢が脊髄反射のように答えた。
幸乃はそっと頷くと部屋を出て行った。
なよが瞬きせず亜矢を見つめていた。
「縁とな」
ふと、なよは表情をかえ、亜矢の左手首を掴んだ。
「古くはなっておるが、護り髪がある。これは・・・。亜矢、お前は爪原妙子とはどういう関係じゃ」
「え、あの。おばぁちゃんです。えっと、お父さんのお母さんで」
漣が興味深そうになよの顔をのぞき込んだ。
「その人とはお知り合いですか」
「ん。わしの弟子じゃ。智里は娘と思うておるし、ここ百年ほどで、唯一人の人間の弟子じゃ。十年ほど前に亡くなったがな」

「どんな方だったんですか」
漣がなよに尋ねた。
「和名を妙子。山窩の女。山を駆ける狩猟民族じゃ、なかでも、あやつはまじないをなし、人の国から、角のある鬼の国を横切ってわしのもとにやってきおった」
「人の身で鬼の国を突き進むというのは驚きですね」
「その亜矢と同じくらいの年格好じゃ。わしも面白いと思ったからな、一年間下女としてこき使って、その後、二年間、じっくり教えてやった。亜矢よ、妙子は幸せに暮らしたのか」
「祖母は私が中学生の頃、亡くなりました。やさしい人だったけれど、あまり思い出せないんです」
亜矢が唇をかみ、俯いた。
なよは興味深そうに亜矢の顔を見つめた。ふっと、右手を伸ばすと、亜矢の頭に手をやり、数度、髪を払う。
「妙子よ、もう、よい。亜矢の記憶を返してやれ、すべてはわしに任せろ」
いきなり、亜矢は這いつくばると、なよの足元に額を擦り付けた。
「かぐやのなよたけの姫様。これは、私の孫、亜矢にございます。息子が魔女にたぶらかされ、なよたけの姫様の術を孫を通して取り込もうといたしました。若ければ、魔女など叩き斬ってやるのですが、私も歳をとり、それができませぬ」
「顔を上げよ、妙子」
まるで別人のようにしっかりとした表情で、亜矢がなよを見つめていた。
「久しいのう、妙子。お前の孫、亜矢については、すべてをわしに任せよ。安心して、この世との繋がりを解き、次の命を生きよ。いずれまた、どこかで出会おうぞ」
「妙子は幸せ者でございます」
亜矢が感極まったような号泣する。ゆっくりと泣き声が消えていき、気の抜けた表情の亜矢が顔を上げていた。
「たくさん、思い出しました。祖母について修行したこと、祖母の山窩のまじないも。とても、やさしい祖母だったことも。祖母の願いであるなら、母や妹と戦うことも厭いません」
「極端な奴じゃのう、妙子とそっくりじゃ。ま、気楽にいけ、親子同士で戦うなど言うでないわ」
飽きれたように、なよは言うと、軽く亜矢の頭を叩く。
「幸い、幸い。亜矢が幸せでありますように」

「なよ姉さぁん。お昼ご飯だよ」
黒が台所からやってきた。
「おう、忘れておったわい」
亜矢が黒の声に振り返った。
「え、えっ、黒さま」
驚いて、亜矢が叫んだ。
「えっと、田中さん」
黒が戸惑うように呟いた。

?

?

るんるるん、にかにか、笑いがどうしてもこぼれてしまう。
食卓、亜矢は黒の隣の椅子に腰掛けた。お昼ご飯だ、自然に顔が笑いだし、両膝がリズムを刻む。
憧れの黒様の隣に座っているのだ。
長机を並べての昼ご飯。
「暢気な奴じゃのう、記憶が甦った途端、さばさばとしおって」
向かいに座るなよが亜矢の様子に呆れて言った。
「えへへっ、そんなことありませんです。母と戦うなんて、身を切られるように辛いです」
「それが、にかにかと笑って言う台詞か」
呆れたようになよが呟いた。
「それはしょうがありませんわ」
白が口を挟んだ。
「だって、亜矢は桜花淑女隊の一人ですから」
「なんじゃ、それは」
「黒姉を男から護り、同時に抜け駆けを許さない鉄の結束を持つ集団です」
「なんと、黒は宝塚のスターじゃのう」
黒が辛そうに答えた。
「あんまり、そういうの好きじゃないから」
喜々として、亜矢が言う。
「黒様に近づこうという輩は制裁あるのみですよ」
「なんじゃ、殴ったりするのか」
「いいえ、お嬢様学校ですよ。口の制裁です。何十人もで取り囲んで、悪口を言い続けます。どんな奴でも、一時間もすれば、しゃがみ込んで泣き出します」
呆れたようになよが大きく溜息をついた。
「幸も鬼をそれで引きこもりにし、まだ、そいつは外へは出てきておらん。陰湿じゃなぁ」
すっと、幸が亜矢の肩を後ろから抱き、頬を寄せて囁いた。
「亜矢。黒に様をつけて呼ぶのをやめてくれよ」
亜矢の背中がぞくっと震えた。ねっとりと纏つくような言葉が自分の首を絞めるように思えたのだ。
「あ、あの」
息切れしてうまく声が出せない。
「黒は普通の女の子だ。そうあたしが育てた。ちょっと、スポーツが得意で頭もいい、でもごく普通の女の子なんだよ。わかるか」
「は、はひっ」
歯が震えてうまく言えない。
「だからさ、様付けで呼ばれたりすると、本人は辛いわけだ。自分自身は普通の女の子なのに、様付けしようとする廻りとの評価の差に苦しむんだ。だからさ、亜矢、黒って呼んでやってくれよ」
だめだ、息ができない、過呼吸ってやつだ。
「だめだよ、母さん」
黒が亜矢の様子を見て、慌てて幸に言った。
ふっと、亜矢の体が軽くなった。気づけば、なよの隣に幸がにぃと笑って座っていた。
「ごめんね、母さん的には冗談の延長なんだけど」
「い、いいえ。大丈夫です。あの、えっと、く、黒、心配してくれてありがとう」
そっと、亜矢が幸の顔を上目遣いに見る。
「どういたしまして、亜矢」
ほっとしたように、黒が答えた。
え、これってどういうこと。亜矢って黒様が呼んでくれた。これって、黒様に名前を覚えていただいたってこと、様を付けないって、これって友達ってこと、え、あの、黒様と友達、えっ、親友ってことなの。
「やったぁ」
いきなり、亜矢が立ち上がり大声を上げた。
「にぎやかな奴じゃのう、改めて記憶を封印した方が良いかもしれんな。記憶が封印されて気弱な亜矢の方が扱いが楽そうじゃ」
「ごめんなさい」
慌てて、亜矢が椅子に座りなおした。
「考えてみれば、亜矢よ。お前、母親に高校を退学にされたのではなかったか。いや、残念なことじゃのう」
いたずらげになよが笑った。
亜矢が目を見開いた。
「うわあぁつ、そうだった。天国から地獄へ直下降だ。許すまじ、母さんめ。この恨み晴らさでか」
悲鳴のような大声を上げる。
「面白いのう、亜矢は。おもちゃのようじゃな。ま、復学はわしに任せておけ。黒と共に登校すればよいわ」
なよの言葉にぶわっと亜矢の頭の中で妄想が膨らむ。
黒と一緒に手を繋いで学校に行く、黒ってばもう、早く起きないからだよ、学校、遅れるよぉ
「うおぉぉっ。これは凄い」
思わず、亜矢の呻き声が漏れた。
慌てて、廻りを見回し俯く。
亜矢は興奮が醒めて、少し考える。
漣さんは多分、必要とあれば人を殺すことに戸惑いはないだろう、師匠という幸さんもそうだ。ここで、自分は共同生活をうまく送っていけるのか、へんなこと言ったら、すとんって首を落とされてしまうかも知れない、そう思うとさすがに亜矢も泣き出しそうになった。
後ろから誰かが肩を叩いた。
「どうしましたか」
振り返ると自分と同じくらいの背格好だろうか、エプロンをした女の子が優しく微笑んでいた。
「亜矢、初めまして。あかねといいます。なんだか、お悩みの様子ですけど、不安なことがあれば、遠慮なく言葉にする方がいいですよ、言葉にしなければ伝わりません」
「あ、あの」
亜矢が、怯えたように口を噤む。あかねは少しうつむき考える、そして顔を上げた。
「今までとは違う環境で亜矢は過ごすことになりますが」
あかねはなよと幸を指さし、亜矢に笑みを浮かべた。
「この二人以外は常識人ですし、この二人以外は人との距離感も理解していますから」
「なんじゃ、あかねよ。わしほどの常識人はおらんぞ」
「御自身で常識人などというのが、そうではない証拠ですよ」
あかねが嬉しそうに笑った。
なよの横で幸も笑う。
「なんじゃ、幸。お前も謗られておるのじゃぞ」
「日常生活に問題がなければ、常識はそれほどいらないかなぁと幸は思う」
「お前の言う常識とあかねの言う常識はちと違うわい」
なよは憮然としたが、落ち着いて亜矢に言った。
「お前はわしの弟子の孫でもある、ならば、ちょっとくらいは優しくしてやるわい。怯えるでないわ」
あかねが亜矢の両肩に手を載せる。
「なよ姉さんもこう言っているから大丈夫ですよ。それにほら」
あかねが顔を上げ、お味噌汁を味見している小夜乃に目をやった。
「亜矢」
「はい」
「お味噌汁の子がなよ姉さんの娘、小夜乃です。小夜乃と仲良くしていれば、なよ姉さん対策は万全です。幸姉さんについては黒と仲良くしていれば、幸姉さんや漣対策は問題ありません」
「あ、ありがとうございます」
感激して亜矢が礼を言う。
なよが割って入った。
「あかね対策はどうするぞ。なかなか、難しい奴じゃぞ」
「私ですか」
あかねが少し首を傾げた。
「私は武術とかよくわかりませんし、不器用ですから手品も出来ません」
そうきたかとなよは思ったが、亜矢のことを考えるといまはこのままでいいかと考え直した。ふっと、幸があかねに声をかけた。
「爺さんだ、こっちに向かっている。あと十分ってとこかな。あかね、何かあったの」
「もめ事には関わりたくはないのですけど」
思案げにあかねは少し俯いたが顔を上げると、にっと笑った。
「あかねは佳奈さんちに逃げます。お爺さまがいらっしゃいましたら、何処かに逃げたとお伝えください」
幸が頷く、あかねは台所に戻ると、いくつかおにぎり握り小皿に移した漬け物をお皿ごと、風呂敷に包みそそくさと出ていった。
幸が立ち上がる。
今週の食事当番は小夜乃とかぬかと男だ、男が味噌汁の大鍋の取っ手を持った瞬間、幸が飛ぶように男の元に寄ると、もう片方の取っ手を掴んだ。
「ありがとう、幸」
「どういたしまして」

食卓横のテーブルに味噌汁の大鍋を置く。男が向こう側一番端に座るのを見送り、幸が元の椅子に座った。
亜矢がおおっと息をのんで幸の振る舞いを見ていた。
まるっきり、純真無垢な、花畑で花冠を作っていそうな、そんな笑顔の素敵な美少女だった、先ほどのねとつくような脅しを仕掛けた相手とは思えない。
「凄いであろう、亜矢」
亜矢の思いを察してなよがにんまりと笑った。
「ま、とにかく、あかねと父さんは普通の人間じゃ。虐めるでないぞ」
亜矢は声を出せず、ただ、こくこくと頷いた。
小夜乃が長机の食卓に山盛りの漬け物の大皿を三枚並べる。かぬかが、器用に大きなおひつを二つ抱えテーブルにどんと置いた。
「お昼ご飯、出来たよ」
黒が立ち上がり、亜矢を促した。
「一緒にご飯、食べよ」
極上の黒の笑みに、亜矢は見とれたが、黒に遅れてはと急いで立ち上がった。

「亜矢は妙子から教わった呪術を覚えておるようじゃ。わしがそれに磨きをかけよう。幸は体術を教えてやれ」
「わかった」
なよの言葉に幸は頷くと、一口、味噌汁を啜った。しっかりと出汁が利いていて美味しい。
「なよ姉さん。小夜乃の味付け、随分、美味しくなった。これで、いつでも嫁に行けるな」
「どの時代のおっさんの台詞じゃ」
なよも小夜乃が誉められると嬉しいらしく、にかっと笑みを浮かべた。
「かぬかは炭水化物系が上達しているし、あさぎ姉さんの指導の賜かな」
あさぎが慌てて首を振った。
「かぬかが頑張っているからだよ」
あさぎがかぬかに笑いかけた。
「あ、ありがとう」
少し頬を赤く染めてかぬかが礼を言う。もしもできるならとかぬかは思う。
お店の隣で、定食屋ができればいいなと。術の修行もしなければならないけれど、やっぱり料理を作っている時が一番楽しい。

ふと、亜矢が気づいた。
「あの。幸乃さんが」
亜矢は幸乃の姿が見えないことに気がついた。
「なんじゃ。幸乃は父さんの、部屋におる」
なよは、父さんの中にと言いかけたが、部屋と言い換えた。
「一緒にご飯は」
「亜矢よ。お前、幸乃をどう見た」
「あの、えっと。とても綺麗な人で、透き通るような涼しげな感じで、優しくて、えっと、とても素敵な人でした」
なよがわざとらしく溜息をつき、亜矢を睨んだ。
「透き通るようなではなく、実際、透けて後ろの壁が見えておったであろうが」
そういえばと、亜矢がそのときの様子を思い出した。
「呪いをかけられたのじゃ」
なよが重々しく答えた。
「え、呪い」
なよは頷くと、じっと亜矢の目を見つめた。
「一人は半分透けて、もう一人はというと、子供に戻ってしもうた。幸乃と幸は一卵性の双子じゃ」
なよが真面目な顔をして適当なことを言う。
「ええっ」
亜矢が目を見開いて幸を見つめた。
「なよ姉さん、それはもう言わないで」
幸が調子を合わせて言った。
「いつか、きっと元に戻ることができる、そう信じているから」
心細げな幸の言葉になよは重く溜息をつくと、ゆっくりと頷いた。
「亜矢よ。この話は終わりじゃ、お前も忘れろ。それから、幸乃の前では、透明、幽霊、そういった言葉は禁句じゃ。幸乃を傷つけてしまうからな」
なよの悪ふざけだが、亜矢は感じいって、素直に口を噤んだ。
ひょっとして、私はこの呪いから幸乃さんを救い出すためにここにやってきたのではないだろうか、真の運命の扉を開けるために。
亜矢はこういう発想をする女の子だった。

「邪魔をするぞ」
店の方から鬼紙老の声が響いた。
「見てきます」
三毛が立ち上がった。

三毛が鬼紙老を連れてくる、幸は立ち上がり、にぃっと笑いかけた。
「爺さんはここに座れ。深刻な話はなよ姉さんが担当だ」
幸は台所でおにぎりを作り、お椀にお味噌汁を注ぐとお盆に載せた。
幸が店にでると、平次が入り口で直立不動の姿で立っている。
「こら、平次」
「師匠」
怯えを隠しきれず、平次の声が微かにうわずった
「可愛い女の子が健気に頑張っているアットホームが売りの店だぞ。むさいおっさんが表から見えるところに立つな」
幸は怒鳴ると、平次を手で招く。
「申し訳ありません」
平次は駆け寄るとカウンターに背を屈め座った。
平次は東京支社長とここで修行をした、そのせいで幸には到底かなわないことを理解していた。
「昼飯まだだろう。聞きたいこともある、遠慮せずに食え」
幸が平次の前におにぎりと味噌汁を差し出した。
「いえ、あ、あの」
「同じ言葉を繰り返させる気か」
幸が睨む、慌てて、平次がおにぎりを頬張った。
幸は平次の斜め前に座る。かなりの男嫌いである、息がかかるのもいやなわけだ。
「修行は続けているか」
慌てて、平次は食べかけていたおにぎりを飲み込んだ。