遥の花 藍の天蓋 三話

遥の花 藍の天蓋 三話

駅の改札を出た。
「竜之介君、とうとう黒さん宅へ来たよ」
笑は肩に乗った竜之介に声をかけた。
竜之介は頭を少し上げると、辺りを見渡した。
改札から出ると、ごく普通の商店街だ。たくさんの人が行き交う、日曜日のお昼前。
笑は大きく深呼吸をし、よいしょっと、肩に掛けた鞄をたぐし上げた。
「暖かい日曜の朝、見上げれば青空、気持ちいいね」
竜之介が囁くように言った。
「笑、少しは緊張しろ。術者達は無を畏れているが、同時に無を倒せば、国の指導者達に自分を売り込むことができるということも知っている。油断しているとまきぞえを食らうぞ」
「う、うん。わかった、緊張することにする」
笑はぐっと両手を拳に力を込めたが、ふっと力を抜くと龍之介に行った。
「黒さん、朝ご飯は食べないでね、美味しいの用意しているからって、言ってくれたけど、お腹すいたなぁ」
「笑が寝坊した、それだけのことだ」
「起こしてよ、もう」
「気持ちよさそうに寝ていたからな」
「寝顔が可愛くて起こせなかったとか」
「種族が違うからな、美醜はわからん」
「冷たいなぁ、龍之介くんは」
笑は楽しくてたまらないと笑顔を浮かべた、そして、辺りを見渡す。
「迎えに来てくれるって」
笑が呟いた、ふっと笑の視線が固まった。
「凄い綺麗な人だ。モデルさんかな、さらさらの金色の髪、白磁の肌、紺碧の瞳、こんな綺麗な人っているんだなぁ」
やわらかに歩いてくる女の美しさに同性である笑の心臓が少し高鳴る。
「あれは人じゃない、気をつけろ。笑」
龍之介は呟くと、微かに姿勢を起こす。
「大丈夫ですよ、敵ではありません」
龍之介の姿勢を察知し、女が笑みを浮かべた。女は二人の前まで来ると、愛くるしく笑顔を浮かべた。
「初めまして、黒さんから聞いています。笑さんと龍之介君ですね。私は夕子と言います」
笑が安心して笑った。
「初めまして、今日はお招きいただきありがとうございます」
笑みに反して、龍之介は夕子を睨みつけたまま呟いた。
「何者だ、お前」
「だめだよ、龍之介君。失礼だよ」
慌てて言い繕う笑を無視するように龍之介は夕子を睨みつけた。
「なよさまが私を使いに出した理由がわかりました。龍之介君が笑さんの守護者に値するかどうか、面識のない私にどう対応しようとするかで、確認したかったのでしょう」
微かに龍之介が唸り声を上げた。
「今のところ、守護者として及第点に達していますよ。少し遊びますか」
にぃぃっと夕子が微笑んだ。
「強いな、お前」
龍之介が呟いた。
夕子は半歩下がると、視線を龍之介に向けたまま、小さく頷いた。
「強いですよ。いまはなよさまのしもべですが、元は武装天使。たとえ神の名を持つとしても、獣に負けるわけにはいきませんわ」
龍之介は夕子を睨みつけたが、ふうと力を抜くと、器用に笑った。
「俺の負けにしてくれ。俺の大事は勝つことじゃない」
夕子は万遍の笑みを浮かべ、頷いた。
「龍之介くんは尊敬するに値します。私的には、笑さんの守護者合格です」
すいっと、夕子は笑の手を握ると歩き出した。
「行きましょう、お二人が素敵な方達で良かったです」


凄いことだ、笑は夕子に手を引かれながら思う。
天使に導かれているんだ、いえ、ネロやパトラッシュじゃなくて、決して天国に行くわけじゃないけれど。そして、目の前で夕子さんの髪の毛が日差しにきらきら光っている。とっても奇麗だ、なんだか、気持ちがふぁっとしてきそう。このまま、天国に導かれるのもありかもしれない。
「おおい、夕子ちゃーん」
その声に夕子が立ち止まり、振り返った。
「恵子さん」
夕子が笑顔を浮かべた。恵子は走り寄ると、興味深そうに笑と龍之介に目をやった。
「この子たちが、昨日、黒の言ってた、笑さんと龍之介君かい」
「初めまして。笑です」
「私は恵子。えっと、どういうんだろう、一週間に二日は先生宅で暮らしている。そして、黒の母さん、幸ちゃんの二番弟子、そんなとこかな」
「素敵で優しいお姉さんです」
夕子が恵子の言葉を繋いだ。
「あんたも強いのか」
龍之介が呟いた。
「え、あたし。あたしは強くない、強くない。あたしは農業要員、畑仕事を手伝うだけだよ」
恵子は手を振ると、愉快に笑った。
「それじゃ、あたしは佳奈さんとこ、寄っていくから、後でね」
恵子は手を振ると商店街へと走って行った。
「あいつの足の運び方、相当なもんだぞ」
龍之介が呟いた。
「恵子さんは人の領域をとっくに越えています。でも、幸さんになよさんにあかねさん、ずば抜けていますからねぇ」
夕子がほっと溜息をついた。
夕子は佳奈の名前を聞いて、少し緊張していたのだ。佳奈から自分の息子の嫁になってくれと頼まれていたからだった。もっとも、それについては、幸が一言で拒否したのだけれど、それでも、夕子は佳奈に少しばかりの苦手意識を抱いていた。
しばらく歩き、あさぎの喫茶店が見えてきた。
「あそこですよ」
夕子が笑に言った。
「なんだか、いい雰囲気ですね」
笑は単純に喜んだが、龍之介は緊張した。なよや、それよりも強いという幸、なによりあの無がいるわけだ、緊張しないわけがない。
喫茶店に入ると、あさぎが笑顔で三人を迎えた。
「三女のあさぎです。どうぞ、座ってくださいな」
あさぎは笑をカウンターに座らせると、夕子に言った。
「どうだった、初めてのお使い」
夕子がくすぐったそうに笑った。
「ここに来てから、初めての外です。刺激はありますけど、うちが一番かな。はぁ、やれやれ」
あさぎが楽しそうに笑う。夕子も、笑も隣の席に座った。
「ハーブティいれるね」
ふっと、夕子が席を立った。
「黒さん、呼んでこなきゃ」
夕子が奥へと走った。
「あ、あの」
笑があさぎを見上げた。
「えっと、初めまして、笑です。そして、こっちが龍之介です」
笑が龍之介を指さした。
「初めまして」
あさぎが龍之介に笑いかけた。
「笑さんのボディガードさんですね。お疲れさまです」
「いや、俺はたいして役立っていない」
龍之介が呟いた。
「笑さんは楽しそうですよ、なら、龍之介さんは役立っているし、あ、でも、多分、笑さんは龍之介さんがいてくれるだけで、幸せなんじゃないかな」
あさぎの言葉に笑が目を輝かせた。
「そうなんですよ。彼氏と同棲している気分なんです」
男が笑の隣りの座席で笑った。
「単純に笑さんの護衛と考えていたんだけどな。なんだか、映画みたいだね」
「え、お父さん」
「私にもハーブティを頼むよ。さっきから座っているのに、無視されて父さんは哀しい。男親はだめだなぁ」
驚いてあさぎが男を見つめた。
「娘の前で気配を消さないでください」
あさぎは笑うと、男の前にハーブティを置いた。
あわてて、笑は立ち上がると、男に深く頭を下げた。
「あの、助けていただいて、本当にありがとうございます」
「どういたしまして、元気そうで何より」
すっと、男は龍之介を見つめた。龍之介は極度の緊張状態だ、石のように固まってしまっていた。
「素敵な彼女ができた気分はどうだい」
いたずらげに男が笑った。
「ふ、ふ、ふつつかものですが、こ、今後とも。あ、いや」
龍之介が口ごもった。
男は楽しそうに笑うと、ハーブティを飲み干し立ち上がった。
「ゆっくりしていってください。私は部屋に戻るよ」
自在を杖代わりに男は部屋へと戻る、ほぼ、同時に黒がお店に飛び込んで来た
「笑さん、龍之介君、ようこそ」
黒は片手にひとかじりした御煎餅をもったまま、笑顔を浮かべた。
「黒さん、お招きありがとうございます」
黒は友人を家に招くのが初めてだったこともあり、なんだか、照れてしまってうまく言葉が選べない、あさぎが黒に声をかけた。
「一緒にご飯食べるって言ってたよね。黒も座って。美味しいのつくるからね」
黒が目を輝かせてうなずいた。


黒は食べ終えた後、少し用事をすませてくるから出かけていった。
笑と竜之介は広間の縁側にほぉっと座る。目の前に畑と田圃が広がり、その向こうはひたすら梅林だ。
「子供の頃、父さんから、術師の桃源郷の話を聞いたことがある。それって、こういうことなんだねぇ」
「俺が住んでいたのも、こういう、笑とは別の世界だった。もう、古い話だ」
竜之介が笑の隣でつぶやく。ただ、意識は背後を探っていた。
「やっぱり、気になるよね」
竜之介がゆっくりと頷いた。
広間の片隅に布団が敷かれ、女の子が寝ていたのだ。
「黒さん、自分のお母さんだって言ってたよね。十日前におじさんが帰って来るのに合わせて、十日したら起きるからと寝たきりだって」
「つまりは今日、目覚めるわけだ」
竜之介が呟いたとき、畑から小夜乃が走ってきた。
「こんにちは。笑さんと竜之介さんですね」
小夜乃は笑の隣に座ると微笑んだ。
「初めまして。小夜乃と申します」
「あ、なよさんの娘さん」
小夜乃が頷いた。笑は額に絆創膏を貼り、肩に文鳥を乗せた女の子を見ると、なぜだか、緊張がふっと消えた。
「初めまして。えっと、お母さんにはとてもお世話になっております」
「ご迷惑をかけていなければいいのですが」
ちょっといたずらげに、小夜乃が笑みを浮かべた。
「かわいい鳥だね」
「文鳥の実朝です。竜之介君と同じで、私を護ってくれています」
布団の動く音がした。
笑と小夜乃が振り返ると、幸が布団から上半身を起こしていた。
「おはよう、小夜乃」
抑揚のない声で、幸が言った。
「おはようございます。幸母さん」
「うん、よく寝た。そちらの方は」
「黒さんのお友達です」
「そうか」
幸は起きあがり、笑のところまで歩いてくると、正座して頭を下げた。
「黒の母、幸です。黒がお世話になっています」
あわてて、笑も向き直ると、足を揃えた。
「こちらこそ、大変お世話になっています」
幸はじっと笑を見つめ、そして、竜之介を見つめた。
「これも縁というものだろうな」
幸は誰に言うでもなく、呟くと、小夜乃に囁いた。
「お父さん。私のこと、怒っているだろうな」
「怖いですか」
「怖い。いや、それ以上に申し訳ないんだ。十日の間、父さんと出会った瞬間からの今までを思い返していた。私はつくづくだめな奴だよ。恩を仇で返してしまった」
幸はゆっくりと立ち上がると小夜乃に言う。
「とにかく、お父さんに謝ってくるよ」
小夜乃はじっと幸の目を見つめ、そして、笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ、幸母さん」

幸は男の部屋の前に立つと、腰を降ろし正座した。そして、ゆっくりと頭を下げる。
襖を開け、男は困ったように笑みを浮かべた。
「幸は真面目だなぁ」
男は呟くと、幸の前に同じく正座する。
「お早う、幸」
男の言葉に幸はゆっくりと顔を上げた。
「私は悪い娘です。お父さんを傷つけてしまいました、殺そうとしました」
「困ったね。父さんは悪者で、殺されるというか、正義の味方に成敗されてもしょうがない奴で、でも、できれば、何処かの知らない人に成敗されるより、幸に殺される方がいいかなぁって思っていたりするんだけどね」
「お父さんは良い人だ」
幸が叫んだ。
「なら、左手を出しなさい」
幸が恐る恐る左手を差し出した。男がその左手をしっかりと握る。
「幸もぎゅっと力を入れなさい」
男の言葉に幸は手にぎゅっと力を込めた。
「片方が握っているだけじゃだめなんだ。お互いがぎゅっと手を握って初めて繋がったことになる。父さんは幸の手をこれからもね、ぎゅっと握るから、幸も父さんの手をしっかり握っていてくれ」
幸はもう片方の手を添え、宝物のように胸に抱いた。
そして、呟く。
「今も私はお父さんの娘でしょうか」
「幸は父さんの大切な娘だよ、ずっとね」
「幸、父さんの右に座りなさい」
男の言葉に、急いで幸は男の隣りに正座した。男が左手を前に出す、それを見て、幸は右手を前に差し出した。
「いいかい」
「はい」
幸が元気よく答えた。ぱんと二人がそれぞれの手を一つに打ち合わせた。
「仕切り直しだ、よろしくな、幸」
「こちらこそです、お父さん」
幸が満辺の笑みを浮かべた。
男が店の方角を見た。
「幸。あさぎがお客さん一杯で大変だ、手伝ってきなさい」
幸は頷くと、男をぎゅっと抱き締め、そして、あさぎを手伝いに店へと行った。
男は柱にもたれ掛かると、小さく呟いた。
「行ってしまったか、それでいいよ、幸。そうだ、幸乃、いいかな」
慌てて、幸乃は男の体から飛び出すと、向き直って、頭を下げた。
「おまえ様。幸を許していただきありがとうございます」
「許すも許さないもないよ。幸は大切な自分の娘だからさ」
男は膝をつき、頭を深く下げている幸乃に笑いかけた。
「幸乃も生真面目だなぁ、顔を上げてくれ」
戸惑うように幸乃が顔を上げた。
「幸も少し見ないうちに随分大人になったね、見かけが子供だからかな、少し戸惑うよ。それは、父親としては少し寂しいけれど、娘の成長は素直に嬉しい。みんなのお陰だな」
男は小さく溜息をつくと、いたずらげに笑みを浮かべた。
「幸乃。お前に体を用意しようと思う」
男の言葉に、幸乃は驚いて目を見開いた。
「もっと早くに、幸乃の気持ちに気づいて、体を作ってやれば良かった」
幸乃がぼぉっと男の顔を見つめる。
「体を」
いきなり幸乃は強くかぶりを振った。
「だめです。お前様、指を使うおつもりですね」
「そうだよ」
男は残った左手に目をやった。
「幸は小指。幸乃は薬指。いいんじゃないかな」
「だめです、だめです。もうこれ以上、お前様の体を傷つけることなどできません」
幸乃が叫んだ。
「ま、感情を高ぶらせずに聞いてくれ」
男は気楽に笑みを浮かべると言った。
「私は幸にとって、どうしても必要な人間ではなくなった。そして、私の体は確実に衰えた。私は自分が死んだ後、幸を泣かせたくなかった、それが一番の気掛かりだったのだけれど、その心配もなくなった、あとはみんなに任せれば安心だ。なら、梅林の向こうにでも、小さな小屋を作って一人で生きるのもありかなと思うんだ。ただ、私の頭の中にはホンケ初代からの記憶が詰まっている、この記憶を私の代で終わらせてしまうのは辛い。だから、体を作るのと一緒にその記憶を幸乃に継いでもらおうかなと思うわけだよ」

縁側にて、あかねも笑の隣に座った。十羽ほどの鶏があちらこちらで草をついばんでいる。三毛に頼まれて、鶏を運動させるため、十羽を引き連れ歩いた帰りだった。
「なよ姉さんが言ってました。笑さんに糸を染めてもらおうって」

「そ、それは困ります」
慌てて笑が言った。
あかねがくすぐったそうに笑った。
「もう、こりごりって感じですね」
笑も仕方無さそうに笑みを浮かべた。
「命のやり取りが日常の世界はもう勘弁してくださいって気分ですよ」
あかねがふっと思いついた。
「母親が機を織る、娘が染めた糸で。これ、いいかも」
あかねの言葉の意味を笑が理解した。
「そうです、そうです。小夜乃さん、私から染色を学んでみませんか」
唐突な話の展開に小夜乃は驚きはしたが、それはやってみたいと強く思った。ただ、戸惑う。
「あの、私は人ではありません、それでもいいのでしょうか」
「えっ」
「私、角のある鬼です」
そっと、小夜乃は人差し指で自分の額を指さした。
「角が伸びたら、幸母さんに切ってもらっています」
笑がぱたぱたと手を振った。
「それは問題ないです。種族より性別です。男でなければいいです」
笑があっさり過ぎるほど簡単に答えた。
「もう私はすっかり男性恐怖症ですよぉ。初めて出来た彼氏に裏切られて殺されそうになったんですよ。龍之介君が一緒じゃないと、怖くて街も歩けません」
あかねが大袈裟に溜め息をつく、
「うちにも筋金入りの男性恐怖症の姉がいます、大変だ、回りが」
あかねの言葉になよが大笑いした。いつの間にか、なよがあかねの隣りに座っていた。
「確かにそうじゃ、振り回されて大変じゃわい」
「なよ母様」
小夜乃は立ち上がると、なよの前に立った。
「笑に教えてもらえ。ただし、わしは厳しいぞ」
ぎゅっと睨むなよに、小夜乃はしっかりと頷いた。
あかねは席を立つと、小夜乃に座らせ笑みを浮かべた。
「あさぎ姉さんのように、何か一つ、秀でたものがあると、それが自信になります、良かったですね」
「こら、あかね。わしの取って置きの台詞を取るのではないわ」
あかねはいたずらげに笑うと、鶏を引き連れ鳥舎に戻った。

鳥舎では、かぬかが鍬で鶏糞を集めては、浅い木箱に移していた。乾燥熟成させて、肥料にするのだ。
土間であることを除けば、人が普通に住めるほど、清潔にしてある。
「鶏を入れていいですか」
あかねがかぬかに声をかけた。
「どうぞ、入っていいよ」
かぬかが返事をすると、あかねが扉を開ける、鶏が次々と入って行く。
「三毛さんの教育の賜物ですね」
「うん、鶏の教育、躾っていうのかなぁ。それに、ほら、壁にも埃一つないよ」
感心したと、かぬかが頷いた。「三毛はまだ帰ってこないのかな」
「三人で佐倉家を探りに行きましたから、まだ、しばらくは帰ってこないと思います。私はそうだな、一と二の草を覗いてみるかな」
「あ、あのさ」
かぬかが戸惑うようにあかねに言った。
「連れてってくれないかな、一緒に」
あかねはにぃぃっと笑みを浮かべると答えた。
「かぬかさんはホンケからのお預かりの方。うっかり、怪我でもさせようものなら、白澤さんに大目玉ですよぉ」
「意地悪だよ、あかねさんは」
泣きをいれるかぬかに、あかねが微笑んだ。
「では、行きましょうか、かぬかさんは、命にかけてもこのあかねがお護り申し上げます」
「頑張る、足手まといにならないようにする」
かぬかがぎゅっと力を込めて言った。

智里と夕子、二人、畑の端、畦に座って、ぼぉっと空を眺めていた、空は透き通るように青く、真っ白な雲がいくつか流れて行く、空の高みでは風が速いようだ。
「少し早いですけど、お弁当にしますか」
智里が言った。
夕子は嬉しそうに笑うと、風呂敷を解いて、大きめのタッパーと水筒を取り出した。
「皆さんと食べるお昼も楽しいですけど、こんなふうに外でお弁当を食べるのも大好きです」
夕子はタッパーを開けて、智里に差し出した。
「いただきます」
智里はタッパーからおにぎりを一つ出すと、ほお張った。

「あさぎさんのおにぎりは食べやすい堅さで具も美味しいし、大好きなんです」
智里は穏やかに笑みを浮かべた。なんて、幸せなのだと思う、こんな酷い自分がこんなにも幸せで良いのか、許されるのか。
「ど、どうしたのですか、智里さん」
智里が泣き出したのを見て、夕子が慌てて声をかけた。
「私のような悪人が、こんなこんな」
ぼろぼろに泣き崩れる智里に夕子は戸惑った。
思い切って、しっかりと智里を抱きしめた。
「いいんです、いいんですよぉ」
なんだか、夕子まで泣き出しそうになる、そんな二人をなよは呆れ顔で見ていたが、二人の頭を軽く叩いて言った。
「いつまで泣いておる、しっかりせんか」
「は、なよさま」
驚いて、智里は袖口で涙を拭くと顔を上げた。
なよは背中に背負った大きな竹かごを地面に降ろすと、智里にハンカチを差し出した。
「これで涙を拭け」
「い、いけません、ハンカチが汚れます」
智里の言葉になよが言葉を重ねた。
「同じことを二度言わせるな」
申し訳ありませんと、智里は謝ると、なよのハンカチを受け取った。
「夕子よ、なぜ、お前まで泣く」
「え、あ、あの、わかりません」
夕子が仕方なさそうに俯く。
「夕子さん、ごめんなさい。私、時々、こうなってしまって」
「ま、智里よ」
なよが言った。
「泣き出す間隔は随分広くなった、そのうち、なんとかなるわい」
なよはにかっと笑うと二人の隣りに座った。
「家から種芋を持ってきた。二人が耕してくれた畑に昼から植えるからな、今のうちにしっかりあさぎのおにぎりを食って休んでおけ」
なよは隣りでおにぎりを頬張る二人を楽しそうに眺めた。
しばらくして、男が畦道を杖をつきながら歩いてきた。
「せいがでるね」
男が笑った。
男はなよのところまで来ると竹籠をのぞき込んだ。
「じゃがいもだな。これは楽しみだ」
「父さん、何処に行く」
「ん、リハビリ兼ねての散歩だ。なかなか、いい感じで歩けるようになったよ」
「幸はどうした」
なよが眉をひそめた。
「あさぎを手伝っているよ。この時間、店はいっぱいだし、かぬかも出かけたからね」
なよは少し俯いたが、顔を上げると男を睨みつけた。
「父さんは家で皆と暮らす、違えてはならんぞ」
「なよは聡いなぁ、大丈夫、散歩だけだよ」
男が仕方なさそうに笑った。
なよは智里に目を向けると言った。
「智里、父さんの供をせい。ついでに術の一つも教わってこい」

わけがわからないまま、智里は男の後ろを歩く。畑を越え、梅林の中程を歩いていた。この向こうは川が流れている。
考えてみれば、智里は男と二人きりになるのは初めてだった。希代の魔術師、神とも正面きって戦うことの出来る男と聞いていた。ふと、男が立ち止まり、振り返った。
「智里、横を歩いてくれるかな。後ろを歩かれると、なんだか見張られているようで落ち着かないからさ」
「申し訳ありません」
慌てて、智里は男の隣を歩いた。
川にでると、流れにそって上流へと歩く。緩やかな坂道だ。
「私はさ、何処か小さな小屋を建てて、一人で暮らすのもありかなと思っていたんだけど、なよに見透かされてしまった」
「それはどうして」
男がくすぐったそうに笑った。
「格好悪いから秘密にしておくよ」
男は立ち止まると、回りを見渡した。
「そこに座ろう」
水楢の木の根本に男は座ると、幹に背を預けた。智里も少し離れて隣に座った。
「まだ、完全じゃない。疲れると、左右の連動があやしくなるなぁ」
男は呟くと、智里を見た。
「智里。刃帯儀は使えるようになったかい」
ふわっと智里が両手を前に差し出す。細い帯がゆるゆると頭の上で円を描いた。
「これが精一杯です」
智里が仕方なそうに笑みを浮かべた。
「なんだ、動くじゃないか。ああやって動くだけでもたいしたものだよ」
「でも、まだ。これでは役に立ちません。刃とは言えません」
「動きが鈍いのはしょうがない。だって、智里自身が動かないように押さえつけているんだからね」
男は左で頬杖をつくと、楽しそうに笑った。
「それは」
智里は驚いた。いったい、それはどういう意味なんだろう。
「あの帯は智里の腕と同じだ。ならさ、智里はさっきのおにぎり、どうやって食べたんだい」
「それは、タッパーから取り出して、それを」
男は嬉しそうに笑った。
「おにぎりをタッパーから取り出すのに、腕の動きなんかいちいち考えないだろう。刃帯儀も同じだ、動かそうとするんじゃない、考えなくてもそのように動くものなんだよ」
一瞬、智里の口から、あ、という小さな声が漏れた、その瞬間、刃帯儀が加速した、唸りを上げ回転する。
「目で追えません」
智里が叫んだ。
「でも、どんなふうに動いているか、その刃帯儀は智里の一部だ、わかるんじゃないかな」
「わかります」
目では追えないけれど、智里は自分が自分の腕を動かすくらいの確実さでその動きを感じ取っていた。そして、止まれと強く念ずる、刃帯儀は停止し、智里の袖口に戻った。
そして、智里は男に駆け寄ると、男の前にひざまづき頭を下げた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
男は気楽そうに笑みを浮かべると、左手の先を智里の額に当てた。
「一つ、便利な術を授けておこう。でないと、なよにけちだと言われかねないからね」
瞬間、衝撃が走った、智里が尻餅をついた。
「見えます」
智里が呟いた。
「術の手順と完成形の記憶だ。一から修行すれば十年はかかるだろうけど、熱心に練習すれば一ヶ月でなんとかなると思うよ」
ふと、男は横を向くと、視線を遠くに向けた。
「小夜乃と笑さんだ」
ゆっくり立ち上がると、男は智里に声をかけた。
「立ちなさい、小夜乃と笑さんが来る。せっかくだ、合流しよう」
智里は素早く立つと、男の見た方向を見つめる、でも二人の姿は見えない。
「遠見だよ、幸やなよが使うだろう。二、三度見れば仕組みがわかる、そうすれば使えるようになる、術なんてそんなものさ」
男も二人を迎えるように立ち上がった。
「喫茶店の常連さんで、香坂さんっているだろう」
智里は戸惑いながらもうなずいた。
「あさぎにブルーベーリーパイを作ってもらって、それをお土産に、一度、相談に行きなさい。彼女は智里の先輩みたいなもんだから、気持ちのこととかね、相談にのってくれるだろう」
驚いて、智里は息を飲んだ。
そして、声をあげようとしたとき、小夜乃の声が響いた。男と智里を見つけた小夜乃と笑が駆けてきたのだった。

智里は二人と合流し、彼女も染色の話を笑から聴く。男は、一人部屋に戻ると椅子に座る、そして背中を背もたれに預けた。
「ちょっと、はしゃぎすぎたかな」
男は深く息を吸い、そして、ゆっくりと吐く。そして、左手で服の上から心臓を軽く押さえた。
ふと、男は手を離すと襖の向こうに目をやった。
「いいよ。入っておいで」
男の声にゆっくりと襖が開く。
「お父さん、具合はどう」
黒、白、三毛が部屋に入って来た。
「大丈夫。元気だよ」
いきなり、白は男の後ろに立つと、両手を男のお腹に当てた。
「顔が土気色です。内蔵も冷えています」
白の両手がすっと男のお腹の中に消えた。
「内蔵を温めます」
そして、白は少し顔を上げ、二人に言った。
「黒姉はお父さんの首から肩をさすって。三毛は右足を」
二人も男に駆け寄った。
「極楽、極楽。熱い温泉に入っているみたいだ」
「お父さんはお気楽すぎます。内蔵が冷えきっているんですよ、いま、中から温めています」
白が両腕を男の体の中に差し入れる。
やがて、白は手を男の体から抜き出すと、一息、大きく息をついた。
「ありがとう、黒も三毛ももういいよ。血の循環が良くなった。体がほかほかする」
男が笑顔を浮かべるのを見て、三人はほっと息を漏らすと、男の前に並んで座った。男も目の高さが同じになるように、椅子から床に座りなおした。

「三人で笑さんの実家を見てきたんだったね。どうだったかな」
男の言葉に黒が顔を上げた.
「鬼がいました」