遥の花 藍の天蓋 蛇足 神の剣

遥の花 藍の天蓋 蛇足 神の剣

すいっと男は剣先を躱すと、幸の背中に回り込んだ。
「なんていうかな、父さんは悪人だ、誰に殺されても仕方ないかなと思っている。だから、知らない奴に殺されるよりもさ、幸に殺される方がいいかなと思っていたんだけどね、でも、ここが崩壊してしまうことは避けたいと思うんだよ」
駆けてくる足音、三毛が息をきらしながらやって来た、幸はすっと刀を消すと姿を消した。
「お帰りなさい、お父さん」
満辺の笑みで三毛が言った。
「やぁ、三毛。元気にしていたか」
「はい」
三毛が大きく頷いた。
「二週間ぶりだなぁ、帰って来たのは。そうだ、三毛。羊小屋を見せてくれないか」
三毛は照れながらも笑みを浮かべると、男の手を引っ張った。
八畳ほどの小屋だ。壁は板張り、二方向に窓があり、思ったよりも明るい。男は三毛とこの小屋を造っている際中に、ここを出て、鬼と戦うことになったのだった。
二頭の子羊が小屋の外で草を食んでいる。
部屋の片隅に小さな机と椅子がある。
「ここは三毛の秘密基地だな」
三毛は照れたように笑うと、机の上にあった帳面を男に差し出した。
表書きに、観察記録とある。
男がページを繰る。天気、気温、湿度、山羊の体温、食事量、事細かに書き込んであった。
「山羊愛に溢れているなぁ」
男が楽しげに笑った。
「お父さん」
三毛が真剣な顔をして、男を見つめた。
「幸母さんからお父さんを守るよ、必ず」
男はくすぐったそうに笑うと、三毛の頭を軽く叩いた。
「だめな親だ、娘にこんな心配をかけるなんてな」
男は溜息を漏らすと、窓から外を眺めた。畑の向こう、梅林が続く。
「そうだ。夕子さんとはまだ話をしてなかったな。川で釣りをしているようだ。ちょっと行ってくるよ」
歩きだした男のために、三毛が急いで扉を開けた。外では仲良く二匹の山羊が草を食んでいた。
三毛も男の横を歩く、そっと男の腰の上に手を添える。杖を足代わりに器用に歩く男を見て、三毛が涙ぐむけれど、それを隠すようにして言った。
「夕子さん、とてもいい人だよ」
「そりゃ、そうだ。なんて言ったって天使だからね」
「お父さん。夕子さんの羽根を見た」
「まだだよ。でも、なよが言ってたよ、なよが自分の名前を羽根に書いたとか」
「ひどいよ。羽根の色が白くなってきて、余計に文字が目立つようになったんだから」
三毛が嬉しそうに笑った。
「でも、夕子さんはそれを喜んでいるんだろう」
「うん」
三毛が元気に頷いた。
「なよは他人を引き付ける魅力を持っている。だから、夕子さんも羽根の名前が誇らしい、そう思うんだろうな。知里さんなんか、なよに心酔しているものな」
「なよ姉さんは、怒ったら、とっても怖ろしいけど、だからこそ、とっても優しい人なんだなって思う」
男は少し驚いて、三毛を見た。
「三毛もちょっと見ない間に、しっかりしたなぁ」

三毛が恥ずかしそうに笑った。
「お父さんに褒めてもらえるのが、一番嬉しいです」

川辺に行くと、夕子が土手で釣りをしていた。土手から一メートルほど下のたっぷりとした水の流れに糸を垂れている。
「夕子さん、釣果はどうかな」
男の声に驚いて夕子が振り返った。
「あ、あの。ひょっとしてお父さんさんですか」
夕子の声に男が頷いた。
夕子は慌てて竿を置くと、男に駆け寄った。
「初めまして。ここで生活させていただいています。夕子です。本名は」
男は笑みを浮かべて首を振った。
「だめだよ、夕子さん。この世界、どんな相手にも本名を教えてはね」
ふと、男は夕子の耳に視線をやった。
「唐突だけどね、左の耳に付けたピアス、くれないかな」
「こ、こんなものでよければ、どうぞ」
慌てて、夕子はピアスを差し出し、男に手渡した。
「本当にいいのかな、これって神の剣だろう」
初めて、夕子は唇を引き締め、男に言った。
「神には私から三行半です」
男は愉快に笑った。
「面白い人だな、夕子さんは」
不思議そうに三毛がピアスを覗き込んだ。
「お父さん、これが剣なの」
「そうだよ」
ふわりとピアスを放り投げる。虚空から剣の先端、といってもゆうに数メートルの幅はあるだろう、天に向かって浮かび上がった。
「神が悪を征するため、一部の天使に授けたのがこの剣。折角だから、抜いてみよう」
男が微かに左手を振る、それに呼応するかのように、剣がその全体像を出現させた。二十、いや三十メートルはあるだろうか、巨人の持つような剣が浮かび上がった。
驚いて、夕子は男を見つめた。剣全体をあんなにも簡単に取り出してしまうなんて、まるで、それは
「あ、あの。お父さんさんは神様ですか」
真顔で夕子は男に訊ねた。
「いや、普通の人だよ」
男はなんでもないことのように答えた。
風、一瞬で、なよが男の横に立ち、剣を睨んでいた。
「すまぬ、父さん、ぬかった」
なよが呟いた。
「呪を解除して、属性を空虚へと変えてくれるかな」
男がなよにだけ聞こえるように小声で言った。
なよが不思議な音で唸り出す、そして、次第にそれは美しい響きに変わった。意味は解らない、でも、体をゆだねたくなるような、やわらかな音だ。
三毛はこれが解呪法だと気づいた。見上げると、剣の色が白く変わり、なんとなくだが、ふわふわに柔らかくなったように見える。
男が言った。
「自在のね、三分の二くらいの長さでいいかな」
なよが歌いながら微かに頷く。白いそれは収束してゆき、自在、もしくは筒と呼ぶ武器に変わった。
「自分で創らずにすむのは、楽でいいなぁ」
男は笑うと、左手を伸し、掴んだ。
「重さも釣り合いも丁度良いよ」
なよはほっと息を漏らすと、唖然と見上げていた三毛に言った。
「三毛。いいところにおったのう、いまのは、わしの解呪法でもかなり高度のものじゃ。能く学べよ」
三毛はうまく声が出せずに、ひたすらこくこくと頷くのが精一杯だった。
「夕子さん。これをあげよう、剣の代わりだ」
ふっと夕子は自在を受け取ったが、慌てて男に尋ねた。
「あの、私なんかにいいのでしょうか」
「いいよ。使い方は幸か黒、それにここにいる三毛に教えてもらいなさい」
「お父さん。三毛が教えてもいいの」
「いいよ。三毛も随分うまくなった」
なよが男の裾を軽く引いた。
「父さんは許すのか。剣の呪が幸を変調させたのだぞ」
男にしか聞こえないほどの声でなよが囁いた。
男は笑みを浮かべると、夕子の頭に手をやった。
「夕子さんがこれからも幸せでありますように」
男の言葉に夕子がとても柔らかな笑みを浮かべた。そして、ほっとしたようになよが息を漏らす。
「夕子さんは被害者だよ。許すも許さないもないよ」
男がなよに小さく呟いた。

「先生。お帰りなさい」
遠くからかぬかの声が聞こえた。
前掛けをしたかぬかが走って来た。美味しいうどんを提供する喫茶店として、一部で評判となっているのだ。一瞬、かぬかが驚いて立ち止まった。しかし、すぐに男に駆け寄り声をあげた。
「先生、足がありません」
かぬかは自分でも間の抜けたことを叫んでしまったと悔いた。男はそんなかぬかを楽しそうに眺めた。
「かぬかもしっかり修行しないと、こんなふうになってしまうぞ」
男がいたずらげに笑った。
「笑ってる場合じゃないですよ、先生」
「まぁ、確かにそうなんだけどね。でも、生きているだけで幸いかな。さすがに首を落とされたり、胴体を半分にされたら生きてはいられないし」
男はかぬかの反応を楽しむように笑った。
「ありがとう、かぬか」

男の笑顔に、かぬかが気恥ずかしそうに俯きはにかんだ。
ふと、男は家の方角に視線をやった。
「三毛。力を貸してくれ」
「はいっ」
三毛が素早く男に寄り添った瞬間、二人の姿が消えた。
なよが視線を家に向けた。
「これは一大事じゃ」

台所の椅子に座った幸の太ももから血が流れる。両手で包丁の柄を握り締め、幸が自分の太ももを突き立てていた、男が、包丁の背を掴み、押し上げようとするが、幸の両手の力に押され込む。三毛が幸の左腕を掴んで引き戻そうとしていた。
「ごめんなさい、お父さん、ごめんなさい。幸も足を切ります」
幸が泣き叫ぶ。

「力を抜きなさい」
男が幸に叫んだ。幸が激しく首を横に振る。
「黒、白、あかね」
男が三人の名を呼ぶ。 ぶわっとテーブルの上に三人が現れた。強引に男が呼び込んだのだ。
「黒は幸の右手を引っ張りなさい、あかねは幸の後ろから肩を引く。白は包丁が抜けたら治療」
男の指示に素早く対応した。
「お父さん、幸母さんの力が強過ぎます」
三毛が叫んだ。
幸の拳が微動だにしない。
「幸、力を抜きなさい」
「ごめんなさい。幸はとても悪い娘です」
嗚咽しながら、幸が呻く。
飛び込んできたなよが抱きかかえた小夜乃をテーブルの上に放り投げる。
「あわあっ」
小夜乃が慌てながらも幸の前に着地した。
「父さん、小夜乃じゃ」
男がなよの言わんとすることを把握した。
「小夜乃。寿歌、二十四節気七十二候 雨氷 草木萠動」
男の言葉に小夜乃が反応した。
小夜乃はひとつ大きく呼吸をすると、幸の拳に両手を添え、笑みを浮かべた。
「ゆらゆら、凍えた雨粒も日差しを豊かに浴びて参ります。暖かな雨は大地を温め、命に新しい季節が来たことを教えてくれるのです。ゆらゆらゆらり、風は揺れ」
呟くように小夜乃が歌いだした。
三毛が思い出した。寿歌、古の術。音律そのものが力を及ぼす、ほとんど絶えてしまったと言われてた難しい術だ。
微かに幸の包丁を握り締める拳が緩んだ。
「あさぎ。立ちなさい、幸の包丁を取り上げなさい」
あさぎは、幸が自分の膝に包丁を突き立てたのに怯えて、流し台の足元にしゃがみ込んでしまっていた。あさぎは弾けるように立ち上がり、幸の手から包丁を取り上げ、流し台に仕舞い込んだ。あふれる血を抑えこむように白が幸の傷口を両手で塞ぐ、白の両手が幸の膝に溶け込んだ。白が傷口を凝視する。白の指先が繊細に動き出す。
緊張が解けたのだろう、小夜乃の肩の力が抜ける、なよが素早く小夜乃を抱き上げた。
男はそっと笑みを浮かべ、小夜乃に言った。
「ありがとう、小夜乃。助かったよ」
「お父さんに教わった歌をうたっただけです」

小夜乃は少し顔を赤らめたが、にっと笑みを浮かべた。
男は笑を返すと、幸を抱きしめた。そして、ゆっくりと手を離すと、囁いた。
「いま少し、休みなさい」
幸の力が抜け、微かな寝息を立てる。
「黒。幸を寝かせつけてくれるかな」
黒と白が頷くと、二人して幸を抱え台所を出る、なよはほっと息を吐くと、椅子に座った。
「幸はどれくらいで元に戻る」
なよの言葉に男は少し首を傾げたが、考え込むように呟いた。
「二週間。余裕を考えて、三週間というところかな」
男の言葉になよが頷いた。
「幸乃、いいかな」
男の言葉に、ふわりとその背中から、幸乃が浮かび上がった。そして、男の横に立つと、男に囁いた。
「ほんにお前さまは幸に甘過ぎます」
「しょうがない、可愛いな娘だからさ」
男がいたずらげに笑みを浮かべた。
「ありがとう、お前様」
幸乃は仕方なさそうに笑みを浮かべると、幸の元に向かった。
「あさぎも椅子に座りなさい」
「ごめんなさい、お父さん。逃げてしまって」
「あさぎは精一杯頑張ったよ」
?男の言葉になよが笑った。
「幸のあの剣幕じゃ。怪我せなんだだけでもよかったわい」
漣にかぬかに夕子が部屋に戻ってきた。

「おおっ、そうじゃ、待っておれと言うて、そのままじゃったのう」
なよが三人の姿を見て、思い出した。
「それで、なよ姉さん、何があったんですか」
かぬかが尋ねた。 なよは、神の剣の話を除いて、すべてを語った。
「先生。戻って来てくれますよね」
なよの話に、かぬかが心配そうに呟いた。
「帰ってくるよ。かぬかのうどんをくわなきゃね」
男は笑みを浮かべると、器用に椅子から立ち上がった。 ふと、なよが思いついたように言った。
「あかね。父さんのお供について行け。いろいろ、片手片足では不便じゃ」
「はい。行きます」
あかねが即答した。
「いいよ。見た目の印象より、案外、普通に動けるからさ」
あかねが大きくかぶりを振った。
「一人、杖をついて歩いて行くお父さんを、それじゃぁと見送ろうことなどできません。恥をかかせないでください」
なよが楽しそうに笑った。
「父さんの負けじゃ。そうじゃ、漣も一緒に行け」
「え。漣もですか」
少し、不満げに漣が答えた。漣としては、幸の方が気掛かりだったのだ。
「白澤が妙なちょっかいをかけぬよう、二人して父さんを守ってくれ」
あかねが鬼紙老の孫娘、漣は鍾馗の姫。白澤も二人が居れば、思うように男にかかわれないだろうと、なよは考えたのだった。

男の三歩先を漣が歩く、あかねは男の右を歩く。
「なんだか、護衛されているみたいだ」
「お父さんは無理をし過ぎです」
列車を降り、プラットホームを歩く、人の通りは少ない。
「漣。そこのベンチに座りましょう」
あかねの言葉に、ホームのベンチ横に漣が立った、男がベンチの中程に座り、両端に漣とあかねが浅く腰をかける。
「幸姉さんの包丁を握る手を引き戻すために、お父さんはあかねと黒さんと白さんを呼び寄せました。今のお父さんの体力や精神力では無茶です」
あかねの言葉に、男が微かにうなずいた。
「疲れがどっと来てるよ。最初から小夜乃に寿歌をうたってもらえば良かったなぁ」
男が気楽そうに笑った。 漣が興味深そうに言った。
「先程からの寿歌というのは何ですか」
男は漣を見ると、微かに笑みを浮かべた。
「寿歌。もしくは言祝ぎ歌と呼ばれている七十二の歌だよ」
男は前を向くと呟いた。
「音にはね、力がある。例えば、歌。歌はね、聴く人の気持ちを楽しくもすれば、悲しくもする。寿歌は、音という振動の組み合わせで人の心を操る術だ。いや、うまく使えるようになれば、人だけでなく、植物の成長を早めたりさ、命すら自由に操ることができる。ただ、とても難しい術で、小夜乃はよく頑張ったなぁと思うよ」
ふと、男は漣に向き直り言った。
「身体の調子が悪い時には小夜乃に歌ってもらいなさい。もともと、寿歌はそのためのものだ」
漣が頷く。この幸師匠のお父さんは不思議な人だと思う。掴みどころのない狡猾さと、純真さを合わせ持っているようだ。 漣が男の顔を間近でじっと見つめた。
「お父さんはどうして寿歌を知っていたり、とても、強かったりするのですか」
男は少し目を伏せ考えると、再び、漣を見て笑った。
「教わったことを教わったままにしているのはだめ。それを手掛かりに本質を探り出すこと。そうすれば、教わった以上のことが出来るようになる。深く深く考えるんだよ」
男は笑みを浮かべ、軽く漣の頭を叩く。
「漣。幸に数学と物理を教え込まれただろう」
漣は顔をあげると、男をじっと見つめた。
「はい」
「あれは、考え方を学ぶためのものだよ、しっかりね」
漣がそっと笑みを浮かべた。
「幸師匠はお父さんは女たらしだと言いました。いま、本当にそうだなぁと思いました」
「ええっ、ひどいなぁ」
男は嬉しそうに笑みを浮かべ、前を向く。 あかねが呟いた。
「適当に相手をしておきましょうか」
「いや。せっかくだ、ちょっと、お喋りするよ」

線路の上、唸り上げ、砂塵が舞う。音が次第に消え、薄茶色の風が消えた時、一人の男がプラットホームの白線の上に立っていた。薄茶色のマントを身に纏い、
ああ、これは西部劇のガンマンかぶれだと、男は楽しそうに見つめた。
目深に被った帽子を人差し指で微かに持ち上げる。腰の拳銃が鈍く光った。しかし、顔はまだ、十代後半くらいの幼さを残している。
「無に会わせてもらいたい」
男は澱みなく答えた。
「それは無理というものだよ」
ガンマンがぎろっと睨んだ。
「お前達が無の関係者だということはわかっている。死にたくなければ答えることだな」
「私は多分、無を一番よく知る人間だ、彼を裏切ることはさ、出来ないよ」
男が笑みを浮かべ言った。
「隣の女はお前の娘か」
「あぁ、大切な娘たちだよ」
「その娘らの命とどちらが大切だ」
ガンマンが絵にかいたようににやりと笑う。
「あまりにも分かりやす過ぎます」
あかねが呟いた。
「相手するのが哀しいですよ」
漣も相槌を打つ。
「純粋培養、何処かでとち狂った典型だな。銀の銃弾を装填したリボルバー、銀は勿体ないなぁ、高いのに」
いきなり、あかねは立ち上がると、男の前に立ちはだかった。
「お父さんを連れて逃げなさい」
「だめだよ。お姉ちゃんを見捨てて逃げるなんてできない」
漣が叫んだ。
きっとあかねがガンマンを睨みつけた。
「撃ちたいなら私を撃ちなさい」
あかねの眼差しにガンマンが狼狽えた。
自分より、少し年下のまさしく美少女が俺を睨みつけている、口をぎゅっと引き締め、瞬きもせずに、俺を睨む。
ガンマンは圧倒されたように、一歩後退りした。
しょうがないなぁと男は呟くと、杖を頼りによろよろと立ち上がる、そしてあかねの前に立った。
「お前達には、長い人生がある。父さんはね、娘達のためなら、たとえ殺されても、悔いはないよ」
男が杖を頼りによろよろとガンマンに歩み寄る。
漣が駆け寄り男の手を両手で掴んだ。
「やだよ、お父さん」
漣の泣き叫ぶ声に、ガンマンが後退りしながら、しどろもどろに言った。
「や、その。そういう深刻なのじゃなくて。あ、あのさ」
男がふいっと横を向き、柱の影で成り行きを見ていた、顧客先へでも行くのだろうか、ごく普通のサラリーマンの隣りへと歩く。
「どうだい。楽しんでもらえたかな」
サラリーマンが観念したように頭を下げた。
「一人前気取りの愚かな息子だ、覚悟が足りなさ過ぎる。鬼に勝てないはずだ」
「なるほど、君の息子かい」
「一切の欲を退け、法術師として、厳しく育てたつもりだったんだが、たまたま観た映画にのめり込んであのざまだ」
「純粋に育て過ぎて、免役がなかったという奴だな」
男が楽しそうに笑った。
目をやると、漣とあかねが倒れたガンマンをがしがしと踏み付けていた。
「なんというか、子育てというのは難しい。普段は善い娘達なんだけどね」
男は溜息をつくと、言った。
「楽しい余興だった」
男が去ろうとするのを、呼び止める。
「あれに、あんたの術を教えてやってくれないか」
男は怪訝そうに振り返った。
「いいのかい、君」
「鬼と五分で闘えるようにしてやりたいんだ」
「鬼と五分ねぇ。そうだな、これから、三週間、ホンケの精鋭に術を教え直す。そのついでに預かろうか、童子級の鬼くらいなら、充分、闘えるようにようにしてやるよ、あとはあれの頑張り次第だ」
男は一歩戻ると尋ねた。
「いま、この国の上はどうなっているんだ」
微かに俯いたが、ゆっくりと顔を上げると、重い口を開いた。
「鬼派、米派、独立派の三派に別れている。平安の初め辺りまで、この国は鬼に支配されていた、その後、鬼と決別出来たが、またぞろ、江戸時代、次はポルトガルやオランダとの貿易を初めに、江戸から明治のきっかけにもなった黒船来港から太平洋戦争の終結とともに実質、この国は欧米の植民地となったと言ってもいいだろう。鬼は欧米の植民地に甘んじるくらいなら、この国の統治権をよこせという、それに米派が米国を後ろ盾に異議を唱えた。政治の世界も術師の世界もこの三派に別れて、三つ巴の様相だ」
「で、君は独立派だな。ついでに言うと、三つ巴と言っても、独立派の分はかなり悪いとみた」
「そうだ、だからこそ、力が必要だ。この混乱に乗じて、真の独立をもたらしたいのだ」
「そうか」
男が小さく呟いた。
「三週間の教授に値する情報をいただいた。私は世捨て人だから、どれにも組みはしないけれど、せっかくだ、しっかり、教えてやるよ」
男は話は終わったとでもいうように、場を離れ、三人の元に戻ってきた。
「二人とも乱暴だなぁ。彼、ぼろ雑巾になったしまったじゃないか」
男が気楽に笑った。
「お父さんに銃口を向けるなどと、万死に値します。それでも、お父さんのお話は、こちらで聴いておりましたので、殺す手前で終わっています」
あかねがつま先でぐったりしたガンマンをつついた。
「息子が心配で父親が物陰から様子を覗いているなんて、子離れできていない証左ですよ」
漣が呆れたように言葉を繋いだ。
「それは耳が痛い。うちも可愛い娘ばかりだから、なかなか、子離れできないよ、困った、困った」
漣が唇をとがらせた。
「お父さんはいいんです。特別に許します」
「思いで繋がる家族は親離れや子離れすると、家族でなくなってしまうのですよ」
幸せそうにあかねは囁くと、つま先を仰向けに倒れたガンマンの背中に差し込んだ。ぐっと蹴り上げる、宙に浮かんだガンマンを倒れないよう漣が背中を押し上げた。
「意識はあるようだね」
男の言葉にガンマンが目を開けた。
「この娘達は強いだろう。無の弟子だからね」
「無の弟子」
ガンマンが言葉を繰り返した。
「片手片足の父親を守るためにね、修行してくれたのさ」
男は適当なことを澱みなく言うと、ガンマンに笑いかけた。
「鬼に勝ちたいんだろう。これから三週間、この娘達が君に鬼に勝つための術を教え込む。ま、頑張ってくれ」
「鬼に勝てるのか」
ガンマンが目を輝かせた。
「そうだな、茨木童子とかさ、童子級なら勝てるようにしてくれるよ。後は君の頑張り次第だろうな」
「俺、やる。やります」
ガンマンが目を輝かせた。
「そうか、頑張れ」
男が愉快に笑った。