遥の花 月の糸 蛇足 佳奈のこと

遥の花 月の糸 蛇足 佳奈のこと

佳奈はカウンターの椅子に腰をかけると、小さく吐息を漏らした。
「どうしたの、佳奈姉さん」
幸は隣に座ると、心配そうに佳奈の顔を覗き込んだ。

「幸に話してご覧、悩みを共有するだけでも、ちょっとくらいほっとするよ」
幸がやわらかな笑みを浮かべた。
佳奈は大きく溜息をつくと、顔を上げた。
「15の娘に赤ちゃんが出来て、たくさん言いたいこともあるけれど、それは主に不平不満だけれど、良くはないけど、まっ、いい、堪える、我慢する。もう、気持ちいっぱいいっぱいだけど、堪える。そう思っていたのに、今度は兄貴の隆志が、彼女を連れてきたんだよ。生まれて初めての彼女を」
「ふうん、良かったんじゃない、隆志君って、目立たないし、地味だし、ぼぉっとしているし、彼女ができるなんてお祝いしなきゃならないくらいだよ」
佳奈はより大きな溜息をつくと言った。
「一応、あんなんでも一人息子なんで、言葉には気をつけてください」
幸はいたずらけに笑うと、ごめんなさいと付け加えた。
「つまりは、可愛い息子を何処の馬の骨ともわからん女に盗られて、佳奈姉さんはいらいらしているわけだ」
やっと、佳奈は幸に向かい合うと、ぽつりと言った。
「あんなんじゃ、一生独身かと思っていたから、彼女の一人も出来て、ちょっと安心したんだけど、その、彼女がさ」
「なるほど、彼女さんの心を読んだってこと」
幸の言葉に、佳奈が頷いた。
「個人情報を遵守しろってなもんだけどさ。でも、気になるよ、凄い美人さんでさ、なんでこんな子がうちの隆志と付き合うんだ、もっと良いのがいるだろうにって思うよ」

幸がそっと微笑んだ。
「幸はお父さん以外の男は滅べばいいくらいに思っているからさ、隆志君は佳奈姉さんの子供って認識しかないんだ。ただ、佳奈姉さん自身が隆志君をもっと認めてあげる方がいいとは思うよ」
「ありがと、幸ちゃん」
「気が晴れたって顔じゃないなぁ。で、彼女さんは何を考えて隆志君と付き合っているの」
初めて、佳奈は幸の目をじっと見つめ言った。
「壁みたいなものが間にあって何も読めなかった。そして」
佳奈が言いよどんだ。しかし、思い切ったように言葉を続けた。
「ぎろって睨まれた」
幸が新しいおもちゃを手に入れた子供のように、笑顔を浮かべた。
「それは、一度会って、じっくりとお話してみたいなぁ。心を読まれないように障壁を作る技術は、きちっと、そのように訓練しなきゃならないんだ。何処で教わったんだろう」
ふと、幸は慌てたように居間の方角を見つめた。
「ごめん、佳奈姉さん。急用だ、ちょっと行ってくる。なよ姉さんに来てくれるように頼むから」
幸が佳奈の返事を待つ間もなく、奥に駆け込んだ、途中、段差に躓きそうになる、かなり慌てた様子だ。
「えっと、幸ちゃん」
「幸は急用じゃ」
なよが奥からにたにたと笑いながらやってきた。
カウンター越しに佳奈の前に立つ。
本当は男が箒で居間の掃き掃除を始めたのを察して、慌てて、ちりとりを片手に参じたという、幸が嬉々として、ちりとり片手に男の掃除を手伝っている様子を、なよもまさか、正直に言うわけにもいかず、つい、顔が笑ってしまったのだった。
「ま、命に別状のある話ではない。さて、内容は把握しておる、その彼女とやらに、わしも会うてみたいが、どうすれは会える」
「あ、あの。もうすぐ、ここに来ることになっていて」
「なんと、重畳。手回しの良いことじゃ」
ふと、なよが店の向こうを俯瞰するように眺めた。
「二人歩いて来おる、角を曲がった」
なよが目を見開き、嬉しそうにうなった。
「面白いことになるぞ。さてな、黒達は珍しく学校。小夜乃には灰汁が強すぎる。智里には荷が重いが、これも経験か。ならば、今後、ホンケを支えることになるやもしれん、かぬかにも見せてやらねばなるまいな。智里、かぬか、来い」
なよが呟いた。
間を置いて、二人がなよの元に駆けつけた。
「なよ様、参じました」
智里が呟いた。

「智里、かぬか。気配を消せ、魚が餌をつついておるぞ」

喜色万遍、なよはカウンターに陣取っていた。
佳奈以外の客は返し、あさぎも奥へと避難させる。店には、テーブルの椅子に座る佳奈と、佳奈をはさむように座る智里とかぬか。
「隆志、隣りの娘を紹介せい。まさか、俺の彼女などとは言わぬじゃろうな」
隆志がはにかむような戸惑うような、笑顔で視線を隣に移す。
隆志にとって、なよは家庭教師でもある、自分が大学には入れたのも、素直に認めたくはないが、なよのおかげだと思っている。
真面目な顔をして隆志が答えた。
「利藤さん、利藤夕子さん、俺の彼女です」
「なんとな、お前に彼女か」
なよは芝居じみた大袈裟な様子で驚くと、呵呵と笑った。
「ガキじゃ、ガキじゃと思うっておったのに、いつの間にやら、彼女を連れてくるような男になっておったとはな、成長したものじゃなぁ」
なよは隣りの利藤に目をやると言った。
「何処が気に入ったかはしらんが、わしはこいつの叔母のような者じゃ。ちと、こいつは面白みに欠けてはおるが、人の出来としては良いほうじゃ。仲良くしてやってくれ」
利藤夕子と紹介された女は、無表情のまま、なよを微かに見上げた。
「まさか、かぐやのなよ竹の姫がいるとは思いもしなかった」

ついと、なよが視線を智里に向けた。智里は一瞬にして、隆志の背後に立つと首の付け根に手を触れる、かくっと隆志が意識を失い、智里は軽々と引き上げると、隆志を抱えたまま、家の奥へと駆け込んだ。すいっと、かぬかが、佳奈をかばうように立ち上がる。
「困った奴じゃのう、甥っ子が傷つくではないか。自分が道案内に使われただけなどと知れば」
「町全体に広範囲の術がかけてあるのは知っていた。術を使う者には、街が霧に深く覆われ、一寸先も見えない」
利藤は答えると、振り返り、佳奈に言った。
「ご子息に危害を加えるつもりはなかった、ただ、心を傷つけたことは申し訳ないと思う」
表情を変えぬまま、利藤が佳奈に頭を下げた。

智里が店に戻ってきた、ちりとりを片手に幸が智里の後ろを歩く、智里はまったく、いや、気づいたのはなよだけだ。幸は利藤の背中に腕を溶け込ませると、なにやら小さな機械を取り出し、カウンターの上に置く、そのまま、佳奈の手をとると、奥へと戻った。
なよは、興味深そうに3センチほどの小さな機械をつまみ上げると、じっくり覘きこんだ。
「神経の中途で、情報を伝送するようになっておる」
利藤が振り返り、なよが興味深そうに機械を見ているに気づき、驚きに目を見開いた。
「なるほど、お前の見たもの、聴いたことが、そのまま、中継されるということか。少し、言うてくれれば、紅の一つも引いたものを。気が利かぬのう」
なよが、親指と人差し指で、その機械を押しつぶす。
にかっとなよが笑った。
「耶蘇教の天使よ。神に地上へと蹴落とされ、政府の雑用係に転職したか」
「お前に語る必要はない」
天使が呟いた。智里が動く、天使の後頭部に鋭い蹴りをまさしく突き刺す、微かに天使が首を振った、弾かれ、智里が天井に激突する、寸前、かぬかが飛び上がり、智里を抱きしめ着地した。
「智里、かぬかよ。まぁ、一年待て。さすれば対等に戦えるくらいの力をつけてやろう。こやつは、天使の中でも、神が他宗教の者達を邪悪として制するための、剣を携えた武装天使じゃ、剣呑、剣呑」
なよは楽しそうに笑った後、天使の目を静かに眺めた。
「お前はなるほど強そうじゃが、わしの敵ではない。ただ、まさしくこの国の政府がわし等を滅しようと送り込んだのが、お前じゃ。お前の記憶にそうある」
一瞬、天使がうろたえた。
「わしに記憶領域の障壁は意味無いぞ、お前の頭の中なんぞ、硝子張りじゃ。しかしのう、わしはお前より強いし、わしより強い者がこの家にはおる。役不足のお前をなんで送りこんだのじゃろうな」
「役不足かどうか、お前のその眼で判断すればいい」
天使は一歩、退くと呪を唱える。
「天使が呪文を唱えるか」
なよが笑う。そのなよの前に突き立てるように刃の先端が空中から突出した、剣の幅が二メートルはある、突き刺すだけで、なよの体がまっ二つになるような大振りだ。
しかし、その剣は微動だにしない。天使の呪に力が入る。
ほんの一センチ幅の刃帯儀がその剣先を押し返していたのだった。
「わざわざ、呪を唱えてその程度とはのう、神の軍勢もたいしたことないのう。うん、そうか、軍勢か」
なよが天井を見上げた。
「見つけた。対鬼用に構成した政府の呪術集団が押し寄せてくるわい、なるほど、呪術者はこの町には入れん、お前は奴らの道案内役か」
なよは振り返ると奥に声をかけた。
「幸、来い」
「はい、はぁい」
男と掃除が出来て機嫌の良い幸が顔を出した。
「幸、奴らに観光をさせてやれ」
「何処がいい」
「折角じゃ。人が多くて賑やかなところが良いのう」
「それじゃ、ニューヨーク、ブロードウェイに送るよ。大評判の催し物になるかもしれない」
「これはテレビが楽しみじゃのう、そうしてくれ」
幸は頷くと、何事も無かったように家の中へと戻った。

なよは、停止したままの剣の先端を摘むとぐっと力を入れる。そして、剣を押し戻し、剣そのものを消し去ってしまった。
「敵を騙すにはまず味方からというが、本来の説明もされず、鉄砲玉のようにここにやってきて、挙句の果ての醜態。なにやら、哀しいのう、もらい泣きしてしまうわい」
呵呵となよが大笑いをする。
「いや、すまん。せめて涙の一つも流してやろうと思ったが、つい笑ってしもうた」
天使は呆然とし、力が抜けたように、床にしゃがみこんでしまった。
「あ、あの。天使さん、うまくいかないときもありますよ、あまり、落ち込まないで」
あたふたとかぬかが天使に言った。ぎっと天使はかぬかを睨みつける、その頬に涙が一筋流れた。
「おいおい、かぬか。天使様は耶蘇教の神様の御使いぞ、わし等、下々のものがそのような口を利けば失礼に当たるぞ」
嬉しくてたまらないと、なよの言葉尻が、笑いを堪えるように震えた。
「うわぁぁん」
大声で天使が泣き出した。ぼろぼろに涙を流し嗚咽する。

ふっとなよは寂しそうな表情を浮かべたが、すぐにその表情を消すと、カウンターを出て、大泣きしている天使の後ろに立つ。右手で天使の背中に触れ、すぃっと左右に手を払う。ぶわっと天使の羽根が左右に広がった。店の幅いっぱいにありそうな、しかし、それは純白の羽根ではなく、灰色に斑になっていた。
「聞け、かぬか、知里。天使は神が自分の手足の代わりにと創りだした生命じゃ。お前達も思うじゃろう。自分の手足が自我を持ち、泣いたり、笑ったりしだしたら、異様に思うであろうし、なんとか自我を消そうとするであろう。神も同じじゃ、純粋無垢、己に従うだけの存在が自我に目覚めれば、その天使を潰し、漂白して、それを材料に新しい天使を創る。しかし、どうしようもない者は地上に放逐する。落ちた天使はそのまま消えてしまうか、堕天使、悪魔という存在になる、神は同時に成敗する対象を作りだすわけじゃ、マッチポンプというやつじゃな。こやつは戦闘の前線で強い自我を生み出したのじゃろう。神がわずらわしく思うくらいのな。よし、かぬか、わしの矢立てを持ってきてくれ」
かぬかは茫然とした表情でなよの話を聞いていたが、急いでなよの矢立てを取りに走る。

「知里よ。お前はわしの手足ではない。小夜乃同様、大切なわしの娘じゃ。わしはそう思うておる、そのこと、忘れるなよ」
なよの言葉に智里は胸が一杯になり、声を発することも出来ず、ただただ頷いた。
戻ってきたかぬかがなよに矢立を渡す。なよは受け取ると、嗚咽している天使の羽に文字を書く。
「なよ姉さん、これってなんて」
「わしの名前をラテン語で書いただけじゃ。こやつに手を出すということは、わしと一戦交えることを覚悟せよということじゃな」
いたずらげになよが笑った。
「泣くな」
なよが天使の頭を軽く叩く。天使が肩を震わせながらも、ぐっと口を閉ざした。

なよは天使の前に立つと、そのまま正座し天使の目をひたと見つめた。
「お前が、地上に落とされてからの、様々の災厄、悲しみ、絶望、迫害、忘れろとは言わん、ただ、それに引きずられるな、溺れるな。大望があるなら、ここでわしの妹として生きろ。しっかりと望みが叶えられるだけの力をつけてやるわい。わかったか」
天使が唇を噛締め、しっかりと頷いた。
いつの間にか、幸がカウンターにいた。
「夕子お姉ちゃん。なよ姉さんの妹、幸です。よろしく」
にっと幸が笑みを浮かべる。天使が泣きぬれた瞳のまま、そっと笑みを浮かべた。
幸も笑みを返す、しかし、ふと、奥に視線をやった。
「おっと・・・。目を覚ましたみたいだよ」

隆志が、ばたばたと奥から店に駆け込んできた。
「夕子さん」
なよと天使は隣り合ってテーブルの椅子に座っていた。
「なよ先生にいじめられなかった」
「なんという言い草じゃ。お前、わしに感謝の言葉はなしか」
隆志はうっかり口走ってしまったことに慌てながら、心の中ででもでもと呟く。
「気を失ってしもうたお前が居らぬ間、彼女が帰ってしまわぬよう、場を取り持っておったというに、感謝もせんとおるとは、つまらん生徒を持ってしもうたものじゃ」
なよが特大の溜息をつく。
「ご、ごめんなさい」
「まぁ、良いわい。しかし、一度、病院で精密検査を受けておけ、そうそう、倒れてはいかんぞ」
にかっと、いたずらが成功した子供のような笑みをなよが浮かべた。
天使が、いや、夕子がなよに囁く。テーブルになよが指で文字を書く。夕子が頷いた。
「ありがとう、隆志君。素敵なお店を紹介してくれて」
夕子は隆志の名前すら覚えていなかったのだが、如才なく微笑んだ。

「あのさ、幸ちゃん」
台所のテーブルに避難した佳奈は幸に声をかけた。
「夕子さん、隆志と付き合ってくれるかなぁ」
佳奈の言葉に幸は驚いた。
「夕子さんって天使だよ、人間じゃないんだよ」
「それは、わかっているけどさぁ」
あさぎが佳奈の前に珈琲を置く。
「ありがと、あさぎちゃん」
「どういたしまして」
佳奈があさぎの入れた珈琲を少しすする。
「冷静に考えて、隆志と付き合ってくれる女の子なんて、もう現れないと思う」
「それを母親が言っちゃだめだよ」
幸が困ったように笑みを浮かべた。
「夕子さんには大望がある、神に落とされた天使達の生活する場を作りたいと思っているんだ。いまはそのことで頭がいっぱいみたいだよ」
幸の言葉に、向かいに座っていた小夜乃が顔を上げた。
「もしも、なよ母さまさえ良いとおっしゃるのなら」
「それは、夕子さんとこれから暮らしていく中で、なよ姉さんが決めればいいかもしれないね」
幸は小夜乃の思いついたことをすぐに理解し答えた。結界を張り巡らしたかぐやのなよ竹の姫の領地、それを天使に提供しようということだった。
「まっ、佳奈姉さん。夕子さんはここで一緒に暮らすからさ、あとは隆志君の頑張り次第だ」
にっと、幸が笑った。