遥の花 月の糸 四話

遥の花 月の糸 四話

「あのね。お父さん、いいかなぁ」
夜、襖の向こうで黒の小さな声がした。
男は椅子に座ったまま、視線を襖の向こう、黒、白、三毛の姿を捉えていた。
「どうぞ、お入り」
男が声をかけると、三人が俯き入って来た。
「どうしたんだ、暗いなぁ」
突っ立ったままの、三人に笑いかけた。
「布団の上に、お座り。いいから」
男が促すと、おとなしく、三人、布団の上に正座をする。
「何か悩み事かな」
我慢しきれなくなったのか、俯いたまま、黒がぼろぼろと涙をこぼす。
男は椅子から離れると、三人の前に座った。
「なんだか、大問題のようだな。よし、父さんが解決してやるぞ。だからね、何があったのか話しなさい」
それでも、黒はしばらくの間、声に出せず俯いていた。
「黒は、役立たずです」
消え入るような声で、黒が言う。
男は静かに黒を眺め、その頬に右手を添えた。
「父さんも幸もね。黒が役に立つかどうかなんてね、考えていない。ただ、自分達の娘が幸せに楽しく生きていきますようにってね、願っている。まずは、それを忘れないでくれ」
男はそっと手を戻すと、笑いかけた。
「昨日、たくさんの鬼と戦ったらしいね、最後には高間宮の原種の鬼まで出て来たそうじゃないか、大変だったな」
「お父さん、あのね」
黒が顔を上げ、思い切ったように男を見つめた。
「黒は一体も鬼を殺せませんでした。漣ちゃんはいっぱい鬼を殺すことができたのに、黒は殺すのが恐くて、気絶させるのが精一杯で役に立たなかったんです」
「戦いの中で、技術的には、殺すよりも、無傷で気絶させるのが方が難しいんだけどな」
男は立ち上がると、椅子に座り直した。
「それで黒はどうしたいんだ」
黒は顔を上げ、男の目を見つめた。
「鬼を殺せるようになりたい。ためらわずに殺せるように」
男は天井を眺め、しばらく考えたが、黒を見つめると、静かに言った。
「それはだめ。だって、自分の可愛い娘が、鬼であろうとさ、命を奪うのをね、求めることなんかできないよ」
困ったなぁと、男は呟くと、ほお杖をつき、うーんと唸る。
ふと、男は黒をじっと見つめると、優しくささやいた。
「ひょっとして、鬼は悪い奴って、黒は考えていないかい、白や三毛は、鬼をどう思っている」
三人とも驚いて、目を見開いた。男が何を言おうとするのか、全く想像できなかったのだ。
男が呟くように語りだす。
「歴史の話をしょう。今から、一千年と少し、昔のことだ、人と鬼との百年戦争があった。すべての史書からその存在は抹殺されている、それほどの忌むべき戦争だった。なよは、月からやってきた戦争の調停者だ。なよを中心とした人と鬼の有志により、戦争は終わったのだけれど、お互いの恨みや怒りはそう簡単には消えない。そこで、人と鬼の不可侵の条約が結ばれたんだ。人と鬼は一切関わらず、その存在を互いのお伽話の中に封じ込めたわけだ」
男は三毛に笑みを浮かべた。
「三毛は桃太郎のお伽話を知っているだろう」
「は、はい」
戸惑いながら、三毛が答えた。
「鬼の世界でのお伽話にも、桃太郎というお伽話がある。悪い人間を退治するってね。つまりは悪い人間がいると同様、悪い鬼がいて、そういうのがこちら側に干渉し、人の前に現れる。つまり、黒も白も三毛も、ある特定の鬼しか見ていないから、鬼全体が悪と思ってしまうわけだ」
「でも、鬼は、角のある鬼は」
白が反論しようとして、はっと気が付いた。
「小夜乃は角のある鬼だけど、白の大切な家族だろう」
白は小夜乃の笑顔を思い出した。白姉様と笑顔を浮かべる、とても大切な妹だ。
「小夜乃は、なよが無茶を言ったり、怒ったりすると、身を呈してなよを勇めようとする。それは母親のなよがとっても大切で、なよがみんなに嫌われてしまわないように願っているからだろうね」

ごく少ない機会だが、小夜乃を連れ、町に出ることがある、三毛は思う。少し、不安げにぎゅっと手を繋ぐ小夜乃、その手が不安を伝えている。でも、にっと笑みを浮かべるのだ、そして言う、三毛姉様、ありがとうって。
男は言葉を続けた。
「一千年以上の時を経て、人と鬼を分け隔てる仕組みが機能しなくなったし、それに乗じて、暗躍する人も鬼も増えた。出会わない方が幸せなこともあるのだけれどね」
男は柔らかな笑みを浮かべると、順に三人を見つめた。
「戦うって言ってもさ、戦い方は無数にあって、直接的に相手に危害を加える戦い方は、その一つにしか過ぎないってことを忘れないでくれよ」
男は黒の頭に右掌を載せ言う。
「黒が幸せでありますように」
同じように白と三毛にも祝の言葉を言う。
「お父さん、ありがとう」
黒がほっとしたように言った。男は笑うと言葉を続けた。
「鬼も婚姻により子を成す。金角には息子が一人、銀角は一男一女、右角は娘が一人、左角は息子が一人。子供をもつ親でもあるということだ」
三人は納得した、一面からしか、世界を見ていなかったことに。
「さて。お悩み相談は終了でいいかい。父さん、眠いよ」
男を残し、黒と白と三毛は、しっかりとお辞儀をし部屋を出る。
声が出せないほど、価値観の変化に興奮していたからだった。
男はふっと力を抜くと、壁に背中を預けた。
「散々、人も鬼も殺してきて、こんなことを言うなんて、茶番もいいところだな。幸乃、父さん、なんだか、三人に申し訳ないよ」
始めからいたように幸乃は男の隣りに、壁に背を預け現れる、そして、男の頭に手を載せる。
「幸い、幸い」
幸乃がそっと笑みを浮かべた。
「幸と幸乃は、常におまえ様を肯定しております。お忘れなさいませぬよう」
?


「十分休憩」
そう智里は、冷たく平次に言い残すと、なよの元へと戻る。梅林での早朝の習練に平次はぐったりしていた。
「お疲れさん、赤光の殺し屋と言われた智里さんだ、さすがに良い動きをするなぁ」
気楽そうに啓子は平次に笑いかけた。
「あんた、誰だ」
平次は啓子の気配に全く気づかなかったのだった。いつから隣りにいたんだ。
「二十分くらいは二人の格闘を見ていたよ、ここで。しかし、平次さん、手加減してもらえてよかった、よかった」
気楽そうな啓子の言葉に、悪態の一つも返したかったが、平次は黙り込む。ここの奴らは、己と強さの質が違い過ぎる。
「あんたら、なんで、そんなに強いんだ」
「いやいや、あたしはそんな強くない」
ぱたぱたと啓子は手を振った。
「あたしは並です。あぁ、あたし、啓子。名前、名乗ってなかったよね」
「俺は・・・、あぁ、知っているんだったな」
啓子は面白そうに笑った。
「鬼紙平次。あかねちゃんの策にまんまと引っ掛かった、優しくて生真面目な兄さんだ」
「策なんて言うな。あかねお嬢様は御当主の守り人に俺をお選びになった、そして、俺はあかねお嬢様のご期待に答えるよう努力する、それだけのことだ」
女で苦労する口だなと、啓子は思ったがおくびにも出さず、笑みを浮かべた。
「あかねちゃんの目は確かだと思うし、しっかり励んでください、では」
鍬を携え、啓子は平次を後にした。
ぱたぱたと白と小夜乃が駆け寄ってきた。白は丸めた銀色のマットを抱えている。
「平次さん、おはようございます」
白が声をかける、平次は軽くうなずくと言った。
「おはよう。白と小夜乃だったかな」
「はいっ」
元気に二人は返事をすると、平次の足元にマットを広げた。
「次の練習のために、平次さんの体を整えます。仰向けに寝てください」
白はそそくさと、平次を仰向けに寝かせつける、そして、マッサージを始めた。
「小夜乃ちゃんは平次さんの首回りをお願い」
「わかりました」
平次にはいま何が起こっているのか、理解できなかった。白の手が肩に触れたと思った途端、仰向けに転がっていた。ここの女達は一体、何者なんだ。まるで、俺は木偶の坊だ。
ほぼ、年齢と同じだけの年数を修行に費やしてきたはずだ、命を賭した戦いを繰り返した、なのに、なんだ、この無力感は。
「なに、ガキが深刻な顔をしておる、見事に似合わんぞ」
なよがにぃいと笑い、平次の顔をのぞき込んでいた。
一瞬、頭で考えるより早く体が動こうとする、体が動かない。
「だめですよ、平次さん。施術中です」
気楽に白が笑った。
「お前はまな板の鯉と同じじゃ、じっとしとれ」

どうとでもなれと、平次はぎゅっと眼を瞑った。
「緊張はだめですよ、力を抜いてください」
白が声をかける。なよが笑った。
「緊張するななどと、白は難題を言いおるな。間抜け面を拝みたいが、畑に啓子が来ておる。ちと、邪魔しに行くかな」

啓子はというと、鍬で畑の畝たてをしていた。崩れた畝を修正する作業だ。
「熱心じゃな、啓子」
「やぁ、なよちゃん」
「なにが、なよちゃんじゃ。調子の狂う奴じゃな。人の姿でわし程、長生きしている奴はそうそうおらんぞ」
なよは落ち着いた笑みを浮かべ、ふわりと空中から鍬を取り出すと、啓子の反対側を作業しだした。
ほぉと、啓子が声を上げた。
「いつも、思うんだけど、どうやっているの、空中から簡単に物を取り出すの。父さんや幸ちゃんも簡単に棚から取り出すようにするけれど」
「たいしたことはないわい。昔の術師なら大抵の者が使うておった。旅するに便利じゃからな。もっとも、ここで使えるのは他にはあかねくらいか。黒も使えんようじゃしな。いや、黒は妹達が危機に陥った時は使いおるのう」

ふと、なよがいたずらげに笑みを浮かべた。
「それより、お前、平次に会ったであろう。鬼紙にはひどい目にあったお前じゃ。意趣返しに、稽古と称して苛めてはどうじゃ」
なよの言葉に啓子が笑った。
「なよちゃんは悪いこと言うなぁ。大学出て、入った会社が実は鬼紙家の財産管理会社、洗脳されて、有象無象の戦闘員、全身タイツに仮面被って。子供向けのテレビドラマかってなもんだけど、まっ、幸ちゃんに出会えたので、ちゃら、ううん、おつりが返ってくるよ」
啓子は手を止めると、ふっと家の方を眺めた。
「結婚は出来なくなったけどね」
「なんじゃ。農家に出入りして、引く手あまたであろうに」
「うちの嫁に来てくれ。言われるけどね、幸ちゃんを思うと、どんな男も頼りなくてガキに見えてしまう。どんな、いい男を前にしても、尊敬出来ないっていうのかなぁ」
「それは重症じゃな。どんな医者でも治せんわい」
なよが呆れて笑い出す、啓子も少し恥ずかしそうに笑った。

「戸惑うな。術で蹴り足は折れないようにしているはずだ。気合入れて、蹴り出せ」
智里が小声だが鋭く声を発した。
智里が右手を前に差し出し、平次がそれを蹴り上げる。あまりにも単純、簡単なことのはずだ、なのに。
まるで鋼鉄の塊を蹴ったような感触だ、足に術をかけていなければ確実にこの足が折れていただろう。
たかが手の平、それも女の小さな手だ。それがどうして鋼鉄の塊を蹴るような衝撃が返ってくるんだ。
最初は自由に組み手をしていたのが、単純な単式練習になる。これでは習い始めのガキではないか。
その様子を見ていた白が思いついたように黒と三毛を呼んだ。
「黒姉ちゃん、三毛」
三毛がエプロンをしたまま駆けてくる、かぬかにうどんの打ち方を教わっていたのだ、黒も御煎餅をくわえながら、
「また、黒姉ちゃん、つまみ食いして」
白が睨むのを恥ずかしそうに黒が笑った。
「黒姉ちゃん、三毛。平次さんを動かします」
白が声をかけると、二人も平次の後ろに回った。
「智里さん。自由組み手をお願いします、平次さんを三人で動かしますから」
白の声に、智里は瞬時に状況を理解し、正面から平次の顔面を右拳、打ち込んだ。同時に黒が平次の左手を掴み、その手を智里の腕に添える、白が平次の右腰を蹴り、左半身に開かせる、三毛が平次の腰を両手で前方に押し出した。黒が平次の左手の平を智里の肘、肩へと流し、智里の顎の下へ、三毛が平次の右太ももを両手で掴み、右足を智里の背中側に引っ張る、白は飛び上がると、平次の両肩を上から落とし、姿勢を落とす。上反りになった智里の横、三毛は浮かび上がると、平次の右手を逆手に持ち、智里の胸の間、急所に肘を落とす。
当たる瞬間、智里は腰の力を抜き姿勢を落とそうとしたが、平次の右足に当たり、落とせない。三毛は瞬間、手を引き戻す。三人がばっと平次から離れた。
「平次さん。経験です、一度、速い動きを経験すれば、上達が早まります」
白が言うと、黒がすっと平次の背後に立ち、右肩を押す、三毛が姿勢が崩れないように、平次の腰を支える。
なんて、練習だ。智里はひたすら防戦に回りながら三人の連携に驚いていた。
茫然と小夜乃はその様子を見つめていたが、はっと気づくと智里の後ろに回った。
「智里さん。がんばれ」

三毛の帰りが遅いとかぬかもやって来た。小夜乃が懸命に智里を応援しているのを見て、とにかく判官びいきのかぬかも、小夜乃の横に立って叫んだ。
「しっかり、智里さん」
智里は驚いていた、自分が声援されている。
こんなことは初めてだ。常に影の存在で戦う姿を見られることもなく、修行時代、いままでの師匠達からも罵声しか浴びたことがなかった。欠点を挙げつられ、否定されることしかなかったのに。

「面白いことをやっておるな」
小夜乃の声を聞きつけ、やってきたなよと啓子は二人の様子を興味深そうに眺める。
「智里が見るからに劣勢じゃのう」
「そりゃ、そうですよ」
多分、平次がいなければ、そく3人は智里を制していただろうなと啓子は思うが、それをいうと平次がかわいそうだなとも思う。言わぬが情けというやつか。
不意になよが啓子の腰、後ろに手をやった。
「啓子。お前も参加してこい」
ぐわっと啓子の体が浮いた。なよが右手だけで、啓子を智里に向けて投げ飛ばしたのだ。

高さ三メートルは充分、足から着地した瞬間、前転、空中で受け身を取り、勢いを抑えると、啓子は智里の後ろに潜込んだ。低い姿勢から、智里の両肩の中央に右の掌を添える。
すいっと啓子が右掌を右の肩に流す、スイッチを押されたように、智里の右手が伸びる、平次は流しきれず、両手で智里の?? ?掌打を搦め捕ろうとする、まるで蛇だ。
智里の腕がまるで蛇のように平次の防御を擦り抜ける、すぃっと啓子が智里の左肩を右に押す。
弾かれた、平次の腕の中で、何かが爆発した、素早く黒が平次を後ろに引き、間合いを開ける。
「今のって」
知里が呟いた。
「虚実の掌打。虚から実に変化することで、全方位に衝撃を与える」
啓子は簡単に解説すると、言葉を続けた。
「次は蹴りでやってみよう」
開いた間合いに、智里の左の蹴りが走った。

「若い人は元気だ」
男がなよの横で呆れたように言う。
「二人とも強くなるぞ」
なよが男に言った。
「まぁ、平次君には一週間しかないからさ。でも、そろそろかな」
男の言葉になよが頷いた。
「双方やめい。そこまでじゃ」
なよの言葉に二人と四人、瞬時に固まった。
「黒白三毛、平次の筋肉を解せ。特に白、血流を調整じゃ」
なよは言うと、知里に歩み寄った。
「知里、勉強になったか」
「は、はい」
「よし」
なよは小夜乃に向き直った。
「知里の筋肉を解せ。それから、かぬか。お前は風呂をわかして来い」
「わかりました」
かぬかが家へ向かって走る。小夜乃が知里を座らせるのを確認した後、なよはにっと啓子に笑いかけた。
「啓子。いつの間にやら、随分、強くなったではないか」

「え・・・」
微かに啓子の顔が引きつる。
「何をびびっておる、単純に褒めただけじゃ」
呆れたようになよが笑った。
「えへへ。頑張りました」
「虚実は刃帯儀の基本じゃ。ついでに教えてやろう」
「いいの。これからは、なよ師匠と呼ばせていただきます」
啓子が目を輝かせた。
「いらぬわ。今まで通りで・・・、いや、ふむ。普通になよ姉さんと呼べ。そうじゃ、啓子は知里に虚実を教えろ。いずれは知里にも刃帯儀を教えてやるつもりじゃが、基礎の基礎から教えるのは面倒じゃ。わかったな」

ふっとなよが家の方を見る。
「風呂が沸きだしたようじゃ。啓子、知里をおぶって風呂にほうり込んで来い。小夜乃も行け」
「わかりました、なよ姉さん」
啓子は元気に返事をすると、軽々と知里を背負った。
「啓子さんは嘘つきですよ」
小さく、知里は呟くと恨めしげに睨む。
「えぇっ、そんなことないよ」
「啓子さん、自分は農業要員で格闘技なんて全然、っておっしゃっていました」
啓子が楽しそうに笑った。
「ごめん、確かにそう言った。だってさ、面倒臭いもの」
啓子は正直に言うと、ごめん、ごめんと言葉を重ねた。

三人を見送り、なよは平次の顔を覗き込んだ。
「少しは息が整ってきたようじゃな。父さんも絶妙なところで止めおるのう」
既に、男は姿を消していた。
「あの啓子という女」
平次が呟いた。
「俺にも自分は並だと言っていた」
愉快になよが笑った。
「それは本当じゃ、ここでは並の腕前じゃ」


幸はあさぎの隣りに立つと、見上げてにっと笑った。
喫茶店、モーニングの客が帰り、ほっと一息つく時間。
「あさぎ姉さん、お疲れさま」
「幸こそ、手伝ってくれてありがとう」
幸は少し恥ずかしげに微笑むとカウンター、目の前の客に笑いかけた。
「まだ、お客さんが一人残ってんだけどね。しっかり終わった感で喋られるのはなぁ」
佳奈がちょっと拗ねたように言う。
「しょうがないよ。佳奈さんは身内だもの。幸のお姉さんだからさ、手伝ってくれてもいいくらいだよ」
「接客は魚屋で勘弁してよ、たまには私も客でいたいんだから」
幸は笑うと、佳奈の隣りに腰掛けた。
「どうしたの、佳奈姉さん、落ち込んでる」
佳奈は俯き溜息を漏らすと、呟くように言った。
「私、おばあちゃんになるかもしれない」
「えっと、それは」
幸がそっと笑みを浮かべた。
「健君が十八歳、恵美ちゃんが十六歳だったよね。どっち」
俯いた佳奈が呟いた。
「恵美が妊娠していた」
「ということは」
幸が言葉をつないだ。
「相手の男から、慰謝料ふんだくった上で、殴りつけてボコボコにして、簀巻きにしてどぶ川にほうり込めばいいんだよね」
幸は椅子から降りると、にっと笑った。
「女の敵は許さない」
慌てて、佳奈が手を振った。
「いや、あの、そこまでは」
「馬鹿者」
なよが裏口から店に飛び込んでくると、幸の頭をはたいた。
「ものには加減というものがあるわ。それに、佳奈、幸の極端な男嫌いは知っておろうに。こやつに相談すればどうなるか考えろ」
「だって、なよ姉さん」
拗ねるように言う幸をなよがぎゅっと抱き締めた。
「その男に母親が居れば、お前を憎み続けるじゃろう、それが恨みの連鎖になる。たとえ、居らずとも、お前の行為による禍根はあちらにもこちらにも穿たれることを忘れるな」
なよは力を緩め、幸に言った。
「カウンターを見てみい」
あさぎがカウンターの向こうで震えながらしゃがみこんでいた。
「あさぎ姉さん」
幸が呟いた。
「姉をびびらせるのではないわい」
なよは振り返ると、あさぎに声をかけた。
「いつまで、狼狽えておる、顔を出せ、あさぎ」
「は、はいっ」
あさぎは立ち上がると、はにかみながら幸に言った。
「頼りない姉でごめんね」
幸が大きくかぶりを振り、小さくごめんなさいと呟いた。
なよは大きく息を吐き出すと、カウンターに腰掛けた。
「片手間に、鬼と鍾馗の条約を締結させたと思えば、この有り様、釣り合いが悪いのう。ま、それも、幸、お前の個性じゃ」
なよは笑みを浮かべると言った。
「あとはわしに任せろ。父さんに泣きついてこい」
なよが幸の背中を押す、唇を噛んで幸は、自分が泣き出すまでに男にしがみつきたいと走った。
なよは小さく吐息を漏らし言った。
「さて。恵美はどうしたいと考えておる、いや、佳奈、何故、恵美が妊娠していると気づいた。恵美が言うたのか、それとも頭の中、覗いたのか」

幸は川で釣りをしている男の背中にしがみついた。男はすっと顔を上げる、それと同時に二人を水の結界が包み込んだ。
「どうしたんだ。泣いてさ」
「幸は悪い娘です」
「ん、幸は善い娘じゃなかったのかい」
「だって・・・」
男は少し笑うと、竿を横に置き、幸に振り返った。
「なるほど、あさぎを恐がらせてしまったか」
男は人差し指で幸の涙を拭った。