遥の花 月の糸 三話

遥の花 月の糸 三話

男は静かに自室で本を読む。その足元で、幸は両手を広げ、仰向けに寝転がっていた。
「お父さんは充電器。幸は充電池。引っ付いていないと幸は充電不足になってしまうのですよ」
「そうだったのかい、初めて知ったよ」
男が気楽そうに笑った。
「旅から帰って来て、なんだか、幸が甘えん坊になった気がする」
「だって」
「どうしたんだい」
「寂しくて泣いてしまって、あかねちゃんに頭をなでてもらって、あぁ、お姉さんなのに格好悪いよぉ」
男は笑うと、幸に言った。
「なら、父さんに甘えるのをやめたらいいんじゃないか」
「ううん、幸は考えました。十二分にお父さんに甘えておくこと、充電するんだよ。お父さんの優しさを充電して貯めておくんだ」
不意に幸がばたばたと足を動かし始めた。
「大変です、足が攣ってしまいました。幸が溺れてしまいますよ」
「それは、大変だ。よし、父さんの手を掴め」
差し出す男の手を幸は両手で掴むと、ほっと息を漏らした。
「お父さんは幸の恩人です。ありがとう」
「どう致しまして。いつでも呼んでくれ、助けに行くよ」
幸はうふふと嬉しそうに笑うと、手を放し、男の足、ふくらはぎを両手で掴んだ。
「随分、筋肉がついて来たよ。前は幸の手首と同じくらいの太さだった」
「白が厳しいからね。リハビリは辛くってこそ効果があるって、歩いたり、階段上がったりさ。結果としてはそれが良かった、白には感謝だな」
幸がとても澄んだ笑みを浮かべた。
「なるほどね。幸はしっかり白のお母さんだ」
幸はやっと体を起こすと、男を見つめた。
「みんな、幸にとって本当の娘だし、こんな幸せな生活ができるのはお父さんのおかげだよ。ありがとう」
「幸の力だよ。父さんはちょっと手助けしただけだよ」
男は笑みを浮かべると、開いたままの本を閉じた。
「時間かな」
なよの声が襖の向こうから響いた。
「幸、はようせい。時間じゃ」
なよは襖をがらっと開け放った。
「はよう準備せい。奴らにも説明せねばならん」
幸は立ち上がると頷いた。
「お父さん。ちょっと用事を済ませてくるよ」
「そっか。父さん、あさぎのお店にいるよ。そうだな、なよ、かぬかは父さんが預かろう」
ふと、なよは考えたが、頷くと男に言った。
「気を使わせて悪いな」
「どう致しまして」
男が笑みを浮かべた。

梅林の修行場になよと幸。その二人の前に緊張した面持ちの智里が直立不動で立っていた。黒に白に三毛、小夜乃とあかねも三人を囲むように立っていた。
なよと幸も揃うと、幸は智里を見つめ、それから、なよに視線を向けた。
「智里」
なよが智里に声をかけた。
「はいっ」
「お前が所属していた赤炎会に坊主が来て、お前に術を掛けたのを覚えているか」
「能力を超えた力を発揮するという」
智里が赤炎会 総帥の横に立つ僧の姿を思い出した。今となってははるか昔の話のようだ。
「その僧は父さんの知り合いでのう、この地を壊滅せんと欲しておる。お前がこの地に来る可能性を読み、術を仕掛けたのじゃ」
智里は混乱していた。顔すらはっきり覚えていない。確かに力を与えてやると術を掛けられたのは覚えている。でも、なにか目の前で唱えていただけで。
「白は智里の左足。三毛は右足を押さえなさい」
幸が二人に指図した。
「あ、あの。それって」
白が戸惑いながら言った。
「あと五分で智里は理性を無くし暴れる。なよ姉さんが解呪法を唱える間、動けないように押さえなさいということだ。黒は右腕、あかねちゃんは左腕を押さえること」
「はい」
あかねはすっと智里の背後から寄るとその左腕に自分の体を押し付け、両手で包むように
包み込んだ。
「え。あ、あの」
黒が戸惑うのを、すいっと目を細め、あかねが黒に言った。
「右は智里さんの利き腕です。黒さん、気を抜かずしっかりとなさい」
「は、はい」
黒も智里の右腕を体で押さえ込んだ。
「智里さん、ごめんなさい。ちょっとだけ、我慢してください」
黒が戸惑いながら言った。

男はテーブルにつくと窓から外を眺める。昼間のはずなのに、奇妙に薄暗い。
かぬかは男の前に座ると、緊張した面持ちで男を見つめた。
「先生。なにが起こるのでしょうか」
男はゆっくりとかぬかに顔を向けると、そっと笑みを浮かべた。
「鬼が攻めて来るのさ」
「え・・・」
驚いてかぬかは目を凝らし、窓の外を睨んだ。じわりと巨大な影が浮かび上がり、道向こう、二階建の高さは充分にある鬼の姿が浮かび上がった。憤怒にこちらを睨みつけている。
「あと四つ」
男が他人事のように呟く。まるでその言葉に呼応したかのように、あと四体の鬼が現れた。後ろ、二階建の家が鬼の姿に隠れた。
「戦闘術をしっかりと身につけた鬼だ」
「先生、大変ですよ。どうしたら」
男がにっといたずらげに笑みを浮かべた。
「かぬか、頑張れ。応援してるぞ」
「せ、先生」
思わず、かぬかが立ち上がった。
「む、無理ですよ。先生」
「落ち着きなさいな、かぬか」
いつの間にか、かぬかの横に幸乃が座っていた。
「為せば、成るです」
「そ、そんなぁ・・・」


「希代の魔術師 無がここに居ると聞いた、案内願いたい」
重低音の鬼の声が響いた。男とかぬかは、ほぉっと下から鬼の顔を見上げていたが、納得したように顔を見合わせた。
「先生。奴ら、先生の顔知らないようです」
「面が割れてないのなら」
男は顔を上げ叫んだ。
「うちにはそういう人はいません。多分、おっしゃっているのはお隣のむ・とうさんだと思います、趣味のマジックをよく子供たちに見せていましたから。ただ、先程、急に引っ越しをなさって、今はいらっしゃいません」
男の全く戸惑いのない声に、かぬかが驚いた。
「我らに臆して逃げ出したか」
二人の頭の上で嗤うように、鬼の声が低く響いた。
「先生、それ、ありですか」
ひそひそとかぬかが男に言った。
「面倒臭いじゃないか。それとも、折角の実践の場だ、かぬか、頑張ってみるかい」
「用事も終わりましたから、戻りましょう」
即効、かぬかは答えた瞬間、
「何言ってやがる、無よ」
甲高い声が響いた。鬼の足元、じわりと僧形の男が現れた、深く編み笠をし、顔が見えない。
「やぁ、愚円。その額はお若い人のお洒落かい」
編み笠を降ろした愚円の額には角が一本、生えていた。
「鬼はいいぞ。力は湧き上る、術の威力も全く違う。寿命も人の二倍だ」
微かに狂気を宿した眼で愚円が嗤った。
「長生きしてもたいしていいことはないぞ。それより、赤炎会の女の子に術をかけたろう」
「あぁ。上手く行けばと思ったが、失敗だったようだな、お前がここで戯れ言を騙っているということは」
「町中で発動すれば大量殺人になっていたぞ」
「いいじゃないか。俺は何も困らないよ」
男は微かに吐息を漏らすと呟いた。
「とりあえず、愚円。君は退場だ」
その瞬間、愚円を硝子球が包み込み、愚円共々飛び去った。
「自力で脱出するころには海の向こうだな」
鬼達が男を注視していた。
「かぬか。これは言い逃れできそうにないな」
かぬかが思い切ったように頷いた。
「頑張ります」

「いいなぁ、お父さんと一緒に戦えて」
幸が店の窓に額を押し付けたまま呟いた。
智里の件が済むと同時に幸は店へと走り、男と鬼のやり取りを見つめていたのだった。
「あの位置関係だと、かぬかさんの補佐ということでしょうか」
いつの間にか、あかねも幸の隣りで二人を見つめていた。
「実質、お父さんがかぬかを動かすことになる、でも、それによって、かぬかは強くなるよ」
「いいですねぇ、かぬかさん」
あかねが呟いた。
「もう、何処に行ったかと思ったら」
黒があたふたとやって来た。白も三毛もだ。
「幸お母さん。どうしたんですか」
白が文句を言いかけた時、鬼と対峙する男とかぬかの姿を見つけた。
「三人も早く来い。お父さんの戦う姿、滅多に見られないぞ」
幸が緊張した面持ちで呟いた。
「始まったか」
なよが小夜乃と智里を両脇に抱え、走ってきた。
「なよ姉さん、これからです」
視線を二人に向けたまま、幸が答えた。
なよはほっとして、二人を降ろすと言った。
「二人ともしっかりと見ておけ。滅多に見れるものではないぞ。術師 無の戦いなど」

「見学者も揃ったことだし、そろそろ頑張るかな」
男は呟くと、かぬかの後ろに立った。
「まずは左」
すっとかぬかの腰に男の右手が触れる。一瞬で足も動かさず、二人の体が左へ移動した。瞬間、もといた場所を鬼の拳が地面を穿った。
「あわわ、なんですか。今の」
「足を動かさない歩法だ。身体操作と寿法の合成だよ。本家の術師も江戸時代の始めくらいまでは使えて当たり前だった」
男がすっとかぬかの腰の後ろに触れた。一瞬で、前方に移動する。大振りの剣が空気を切り裂いた。
かぬかが上を向く、牙をむいた五つの鬼の顔が空を埋め尽くしている。しかし、不思議なほど心が落ち着いて恐怖心が現れない。それは、鬼の顔に恐怖が現れたからだ。
つっと二人が浮かび上がり、鬼の眼の高さに止まった。鬼が手出しできずにいる。
「かぬか、思い浮かべなさい。自分が鬼と同じ大きさになっている、そして向かい合っているのだと」
「はい・・・」
かぬかが心を沈め、巨大化した自分の姿を思い浮かべた。
「実体のかぬかは虚像の掌だ。その掌で前の鬼を投げてみなさい」
「撃つのではなく、崩す」
「そうだ。いま、かぬかの思うように移動できる。やってみなさい」
かぬかが大きく息を吸った。
「行きます」
ぐっとかぬかが目の前にいた鬼を睨みつけた。かぬかと鬼の視線が重なる。視線を繋いだまま、鬼の足元に急降下する、鬼の姿勢が微かに前のめりになった瞬間、かなかは翻り、鬼の肩へと一瞬で飛び上がる、その肩を鬼の踵微かに後ろを目指して全身で押し出した。滑るように鬼が前のめりに落ちた。
かぬかが涙を流しながら、強く息喘いだ。
「ちょうど良い方向と長さだ」
男は頷くと、驚いて退いた四体の鬼に語りかけた。
「確か君は銀髪烈鬼というのじゃなかったかな。なら、君達は鬼王を警護する者達だ。違うかい」
「そうだ」
鬼が重々しく答える。
「多分、さっきの小鬼に上手く言われたんだろう、無を倒すのは貴方方しかいませんとかさ」
鬼が無言で答えた。
「鬼王の警護がこれで甘くなる、小鬼は何か策略があったんじゃないかなぁ」
明らかに鬼達の顔に動揺が走った。
「何事にも優先順位がある。早く王の安否を確認するのが本来の君達の役目かもしれないね」
銀髪烈鬼が他の鬼に目配せをする。倒れた鬼も含めて四体の姿が消えた。
「最後に訊ねたい、お前はどうして己自身が戦おうとしない」
男は少し考え、あっさりと答えた。
「だって、弱い者いじめは格好悪いじゃないか」
瞬間、鬼が牙を剥き出しに男を睨んだ、鉛のような鬼の重い気が男を襲う、男は片手でそれを払うと、笑みを浮かべた。
「いつか、君がこの娘に勝てたら、その時は相手をしてあげよう。でも、この娘は強くなるよ君達が束になっても敵わないくらいにね」
鬼の姿が消えた、二人が地面に降り立つ。
「せ、先生」
「ん」
「は、ハードル上げ過ぎです」
緊張が解けたのか、膝から崩れるようにかぬかがしゃがみこむ、地面に尻餅をつきそうになる瞬間、男がかぬかを抱き上げた。
「白澤さんなら、余裕で勝てる相手だよ」
男が楽しそうに笑った。

「いいなぁ、かぬか。お姫様だっこ、いいなぁ」
幸が額を硝子窓に押し付け、男とかぬかを見つめていたが、はっと気が付くと、硝子窓から離れた。
「黒。お風呂の用意だ」
幸がお風呂の竈へと走った。


男はかぬかを椅子に座らせると、白に言った。
「かぬかの首の後ろ手を当てて暖めて上げなさい、もう片方の手で頭も支えるようにね」
「はい」
白は返事をすると、かぬかの後ろに立つ。
「小夜乃と三毛はかぬかの足をさすってやってくれ。あさぎはハーブティ、少し甘めのを用意してくれるかな」
四人は男の指示に素早く従う。男はほっと息を漏らすと、少し離れた椅子に腰掛けた。
なよも男の前に座った。
「鬼の世界でも派閥争いが活発になっているのかな」
「鬼の王もそれなりの歳じゃ、賑やかにもなろうて」
「なよの元亭主殿も、それだけ歳をとったんだね。あ、痛ったた」
ぎゅっとなよが男の頬をつねっていた。
「つまらぬことを言うでないわい」
なよは手を戻すと、呆れた顔をして、溜息をついた。
「要らぬことを父さんは知っておるのう。ま、今の奴のことなど、わしの知ったことではない。奴が権勢に溺れてしもうたのが、この成り行きのおおもとじゃ。わしとしては、民を殺された恨みは簡単には消えぬ。鬼の王がどうなろうと知らぬわい」
男は右手を伸ばすと、そっとなよの頭をなでた。
「なよに幸いがもたらされますように」
男はそっと笑みを浮かべると、小夜乃に声をかけた。
「小夜乃。かぬかと智里を連れて、なよとお風呂に入りなさい。沸いたようだ」
小夜乃は頷くとかぬかを立たせ、肩で支える、慌てて、智里も反対から支えた。
「なよ母様。お風呂、いただきましょう」
なよは、くっと顔を上げると、振り返った。
「ゆっくり風呂に入るとしよう」
男が見送る、白と三毛が男の前に座った。
「お父さん、どうしたらいいんでしょう」
深刻な顔をして、白が男に訊ねた。
「それは難しい質問だ。だってね」
言いかけて、男は言うのをやめた。
あさぎの注いでくれたハーブティを一口、飲み、白の眼をじっと見つめる。
「今まで通りの日常を送ること、それが大事だよ。そしてね、そのためにはどうすればいいのか。自分の持っている札、これから持つだろう札を考えて道筋を見いだして進むこと。学校や商店街、白を向かえてくれる場所は増えたと思う、白なりの道筋を考えてみなさい」
白は吸い込むように男の眼を大きく見つめ、そしてしっかりと頷いた。
「さぁ、白もお風呂に入りなさい。まだ、ちょっと肩が固まっているぞ」
男が片手で白の肩を払う、ほっと白は笑みを浮かべると、立ち上がった。
「お父さんも一緒に入っていいんですよ」
「はは。それは勘弁してくれ、父さん、恥ずかしがり屋だからね。最後、お風呂を洗いながら入るよ」

白を見送ると待っていたように三毛が男の前に座った。
「千客万来だなぁ」
「あ、あのね、お父さん」
「どうしたんだい、三毛」
「三毛も強くなりたいんです」
三毛がじっと男の眼を見つめた。
「実践経験は少ないけど、三毛は強いよ」
「でも、あんな大きな鬼となんて、どう戦えばいいかわからないです」
男は眼を閉ざすと、微かに俯く。
そのまま、呟いた。
「多分、幸は娘が鬼と戦うのを避けたいんだろうな、鬼と出くわしても大丈夫なように、その場を逃げることができるような方向で教えているようだ」
男は眼を開くと三毛に言った。
「黒はね、妹二人を守りたいから強くなりたいと言った。白は、強くなるのはもう充分だと思っているようだ、三毛は何故、強くなりたいのかな」
「それは・・・、強くなることが楽しいから」
三毛が困ったように答えた。
「人はね、自分が何かを得たら、それを他人に評価して欲しいと思う、基本的な欲求だ。それが、ごくたわいないものならいいんだけど、そうじゃない場合は大変なことになる。新しい力を手にいれたり、武器を手に入れると、使いたくなる。こんなに凄いんだよってね。そして、次はそれを所有する正当性を妄想し始める。三毛、それは良く覚えておきなさい」
「ごめんなさい」
三毛がぎゅっと目を瞑って俯いた。
男は深く溜息をつくと、柔らかな笑みを浮かべた。
「三毛、立ちなさい」
「は、はい」
慌てて、三毛が立ち上がった。
「幸の教えたなみゆい。舞にも似た動きだけれど、幸の使う武術の要諦が詰まっている。前半の途中、自然体から、両手を前に出して、右足を半歩出す一連の動きがあるだろう。それを、そこの広いところでやってみなさい」
言われた通りに三毛が動く。ほんの一分ほどの、とても滑らかで、一切の角を廃した舞だ。
「相当、練習しているんだな。しっかりと整っているよ」
「ありがとう、お父さん」
「どういたしまして。次はね、上半身の動きと下半身の動き、ちょっとだけずらしなさい。上半身をほんの少しだけ、先にする」
三毛は頷くと、もう一度、同じ動作を繰り返そうとしたが、すぐに足を滑らせ、尻餅をついてしまった。
「それが本来の浮脚だ。アイススケートってのは、氷とエッヂの間に解けた水があるんだけどね。つまりは浮いているからこそ、あれだけ速く移動できるんだ。今の三毛は初めてスケート靴を履いた子供だね」
尻餅をついたまま、三毛はぼぉっと男の言葉を聞いていたが、はっと気が付くと、男の顔を見つめた。
「お父さん」
「ま、ほどほどに頑張れ」
「うん。お父さん、ありがとう」
「どういたしまして。三毛も風呂に入って来なさい」
三毛も頷くと白の後を追った。
男がふっと吐息を漏らす。
「当分は頑張って生きるか」
男が呟いて、顔を上げると、あかねが笑みを浮かべて男の前に座っていた。
「三毛さんのことは、あかねが引き受けます。命にかけても、我を見失った三毛さんを引きずり戻します」
「まっ、そうならないことをまずは期待するよ。必ずそうなるわけじゃないからね。そうだ、あかねちゃん、さっきの、ちょっとは勉強になったかい」
「勉強になりました、自分より巨大なものとの戦い方が分かりました。空を移動する術も見ることができましたし、あとはできるように練習するだけです」
「あかねちゃんなら、すぐに出来るようになるだろう」
男は笑うと少し冷めたハーブティを少し口に含む。
「ところで、お父さん」
「ん」
男が顔を上げた。
「あかねのお願いも聴いてください」
「どんなお願いかな」
「お父さんはあかねちゃんと呼んでくれますけど、ちゃんを無しにして、あかねって呼んでください」

男が思い出すように言った。
「最初、うちに来た時、あかねちゃんと呼んで、それ以来だったね。いいよ、それじゃ、あかね」
「はい。あはは、家族になった気がします」
「言葉は難しいなぁ。ただ、あかねのお父さんやお母さんのことをないがしろにしちゃだめだよ」
ふと、あかねは眉を曇らせ俯いた。
「私は父や母にとっても酷いことをしました。私は娘失格なのですよ。たとえ、笑顔を浮かべてくれていても、本心は恐怖を抱いている、私が両親をそんなふうにしてしまったのですから、自業自得です。幸い、弟が生まれ、いま、妹が母のお腹の中です。私がいない方がいいんです」
「多分、両親は苦しんでいるだろう、素直に娘を抱き締めることができない自分自身にね」
「なら、苦しまないように離れてあげるのも親孝行です。鬼紙家にはたまに御祖父様の顔を見に行きますし、現当主の護衛役もすることがあります。御祖父様がいらしてくださる間は鬼紙家にも参りますが」
あかねは一層に俯くと、拳をぎゅっと握った。
「あかね。左手を出しなさい」
あかねが不安げに顔を上げ、左手をそっと差し出した。男は右手で握手をすると、左手で、あかねの手を包み込む。
「一つの拳よりも、手を二つ、繋いだ方が暖かいだろう」
「はいっ」
あかねが目を輝かせた。
「あかねにはたくさんの家族がいる。それをいつも心に留めなさい」
男は振り返ると、カウンターの裏にしゃがみこんで隠れているあさぎに声をかけた。
「あさぎ。出ておいで」
「えっと、いいでしょうか」
あさぎが恐る恐る顔を出した。
「話が深刻になって、ちょっと居ずらくて」
男がくすぐったそうに笑った。
「あさぎもあかねの手をぎゅってね、握ってくれ」
あさぎは柔らかな笑みを浮かべ、差し出されたあかねの手をしっかりと握った。
「あかね。これからいっぱい、お喋りをしよう」
「あさぎ姉さん、ありがとう」
あかねは手を離すと、じっと自分の手を見つめた。
「あかねは発見しました」
「何を発見したの」
あさぎがあかねの隣りに座り、訊ねた。
「あかねは案外単純で、とっても幸せなんだって」
あさぎはあかねに体を寄せると、ぎゅっと抱き締めた。
「ありがとう、あかね」
あさぎが呟いた。
男は笑うと、あさぎに言った。
「あさぎは、何か、悩み事はないかい」
あさぎは顔を上げると、男に笑みを浮かべた。
「ありましたけど、いまはなくなりました」
笑顔であさぎが答えた。

なよとかぬかが風呂から上がったらしく、あさぎとあかねも風呂へ入りに行った。
男はほっと息を漏らすと、少し冷めたハーブティを一口飲む。
「幸乃。血の繋がった家族じゃない、思いの繋がった家族は、たまに手を繋がないとならないのかも知れないね」
ゆらりと幸乃は男の体から出ると、隣りに座った。
「お前様。幸乃とも握手です」
にっと笑って、男が幸乃と右手で握手をした。
「幸乃、ありがとう」
「ありがとうとは」
「父さんの横にこうして居てくれることへの感謝、ということかな」
幸乃の頬が朱に染まった。
「まぁ。お前様は、ほんに女たらしですわ」
男は笑みを浮かべると、手を離し、目を瞑った。
「泣いたり、笑ったり、怒ったり、色んな声が聞こえる、とっても賑やかで楽しいんだよ」
「怒るのは主になよですけど」
幸乃が笑みを浮かべた。
「確かにそうだ、なよはカルシウムが足りないのかなぁ」
男はいたずらげにそう呟くと、目を開け、ハーブティを飲み干した。
「あさぎのハーブティも美味しい、これはあさぎの才能だな」