「うわぁぁっ、お父さん、お父さん、お父さん」
女の悲鳴に男が駆けつけた。男の税理士事務所兼自宅の一室での出来事だった。
女はぶるぶると震え、部屋の片隅にうずくまっていた。
「大丈夫、もう大丈夫」
男は女を抱き締めた。
「お父さん、お父さん、お父さん、どこ」
「ここにいる、ここにいるよ」
女の荒い息が少しずつ収まり、震えが止まる。泣き濡れた眼差しで男を見上げた。
「ごめんなさい、また、私、おかしくなってしまって・・・」
「大丈夫、安心しなさい」
あれから、一カ月が経った。記憶の一部が流れ込んだせいもあるだろう、日常生活に当たり前のように対応する、いや、仕事まで手伝うことができるのだから、それは驚くほどだ。しかし、これで三度目だろうか、急に叫びだし、うずくまる。
百年以上の心の傷が、一カ月やそこらで癒えるはずはない、いや、完全に無くなることはないかもしれない、日曜日の朝に限ってこうなるのは、平日の人の出入りの慌ただしさに必死に自分を抑え込んで耐えているのかもしれない。
男は床に座ると女に笑い掛けた。
「ここは君の家です。ほら、ここからでいい、窓の外を眺めてごらん。秋、今日は少し暖かな小春日和。窓を開ければ、梢を通り抜けた穏やかな風が流れ込んでくる。これは、今までも、今も、これから先も、君のもの。ゆっくりと受け入れていきなさい、これを自分自身の宝物と認めていきなさい」
「お父さん、私なんかが、そんなに幸せになってもいいのかな」
「君は幸せになっていいんだ、そして、君が幸せになることが父さんの一番嬉しいことなんだからね」
男は女を仰向けにだきかかえ立ち上がった。女がぎゅっと男の首にしがみつく。
「お父さんと一緒にいると嬉しい」
「それは光栄なこと」
男はそのまま、窓により、外を見る、青い空、秋の遠い空だ。
「窓を開けてごらん」
女が、そっと手を伸ばし、窓を開ける。途端、やわらかな風が流れ込んできた。
「今日は暖かそうだね」
女がすうぅっと息を吸い込んだ。そして、ゆっくりと吐く。
「少し甘い」
「これは老梅の香りだな。時ずらしの結界の所為で少し花の時期が狂ってしまうんだ」
男は少し笑うと、抱きかかえたまま、台所へ。女をテーブルにつかせると、冷蔵庫から牛乳を取り出した。
「マグカップ、二つ、戸棚から出してくれます」
「う、うん」
女が立ち上がり戸棚を開けている間に、小さな片手鍋を男は取り出した。
「これに牛乳、マグカップ二杯分とちょっとを入れて、火に掛けてくれる」
「わかった」
女がいそいそと小鍋に牛乳を入れ火に掛ける間に、男は紅茶の缶と砂糖とシナモンを取り出した。
テーブルに二人つき、チャイを飲む。日曜の朝一番、ほっと一息。
女は両手でマグカップを持ち、少し啜る。
「お父さん、こんな私のこと、嫌いにならない」
「ん、そんなことない、好きですよ」
「私もお父さんのこと大好き」
女はにっと笑顔を浮かべると、少し恥ずかしげに俯いた。
男はこういう状況になるとは想像していなかったが、生命を分けたあの瞬間、自分はこの子を守り続ける責任が生じたのかもしれないと考えた。これは親という者の気持ちに近いのかもしれない。長く一人で生きて来たこともあり、戸惑うこともあるが、確かに楽しい。しかしと男は考えた。
自分が何かで死んだ時、この子は一人で生きて行かねばならない。金銭的に困らせるようなことはしない、ただ、ああいった魔物は大勢いる、いつかは自分自身で対処して行く必要があるだろう。
「今日は出掛けましょう」
「うん、何処へ」
「今までのこと、お墓へ報告に。それで、ひとつ、けじめをつけましょう。それから、君に武術と呪術を教えていきましょう」
「武術と呪術」
女は表情を引き締めた、男の思いが伝わったのだろう。
「今度は私がお父さんを守りたい」
男は少し笑うと、女の頭をなでる。
「良い子に育ちました」
山の中程にある集落、その外れにある墓地、最初に出かけた墓は、女の両親や先祖の眠る墓だった、女は桶に入れた水を柄杓に取り、墓石に流しかける。そして小さなタワシで洗い始めた。
山の斜面に作られたこの墓地は、今の時間、ちょうど日差しが差して暖かい。見下ろせば遠くに町が見える。
明治の頃なら、本当にここは山奥の村だったのだろう。ここで君はどんな風景を見ていたんだ、そう心の中で問うてみる。それはなんて、罪な問いかけだろうか。
「足りるかな、水を汲んで来ましょうか」
「ううん、大丈夫」
女は振り返り、笑顔を浮かべた。
「それに一人になるのが怖い」
「そうだね」
掃除を済ませると、女は黙ったまま手を合わせる。
どれほどの思いが込められているのだろう、身じろぎひとつせず、両手を合わせている。
男も女の後ろで手を合わせた。
「お父さん」
女が振り向く。
「どうしました」
「教えて欲しいことがある」
「どんなこと」
「本当のこというと、私、何も思い出せない、誰も思い出せない。なんて、私、酷い奴なんだろう」
「君は」
「両親のことも兄妹のことも友達のことも何も思い出せないよ・・・」
女の手が震えていた。ぎゅっと唇をかみしめ涙の流れるのを抑え込もうと俯く。
男は女を抱き締めた。
「君が悪いわけじゃない、辛くて、哀しいことだけれど、それは決して君が悪いことではない。自分を責めないで」
男は女を座らせると、その横に座る、墓を背にし、青い空の下、遠く町並みが見える。
「思い出せないのは君の中で君自身が思い出させないようにしているからだろう」
「どうして」
「心が壊れてしまわないため」
男は女の手をしっかり握った。
「その時のこと、両親のこと、思い出せば君は正気を保てない」
「どうしてそう言い切れるの」
「それは父さんがその情景を見て、経験して苦しんだから」
「え・・・」
「あのとき、君の中に父さんの記憶が少し流れ込んだろう」
「うん」
「あれは予想外のことだったけど、血の継承で記憶をね、引き継ぐことができる。祖父が自分の代では君を見つけることができないと観念した時、父にね、君に関する記憶すべてを継承させた、そして、父さんはさ、父からその記憶を継承した、それはまさしく、自分自身が体験するようなものだった」
「お願い、教えて欲しい」
「今は無理、教えられない、君が一人の人間として自立できるようになるまで待って欲しい」
「お父さん、泣いているの」
男は唇をかみしめ、その眼から涙が流れだしていた。
「まさか、この齢になって泣いてしまうとはね、情けないな」
「ごめんなさい。私、自分のことばかり」
女は呟くと、努めて笑顔を浮かべた。
「私にはこうしてさ、大事なお父さんがいてくれるから、もうそれ以上は何もいらないよ」
男はそっと女を抱き締めた。
君は真実を知った時、本当に正気を保つことができるだろうか、もう一度、笑顔でこの地にやって来ることができるだろうか。
それから、二人は男の父親と祖父の眠る墓へと向かう。男はようやく女を見つけたこと、そして、彼女を娘にしたことを伝えるつもりだった。
二つの墓を回り、その帰り、街のオープンテラスのレストランで早目の昼食をとる。たくさんの行き交う人達、賑やかなひとときだ。
「お父さん、あのね」
「どうしました」
「私の名前だけど」
あ、と男は気づいた。男はいつも、女を「君」と呼んでいた。何やら、気恥ずかしく、どうしても、「君」と呼んでしまっているのだった。
「お父さん、私に名前を付けてほしい」
「名前を」
「私はまだ情けないくらい不安定だ。お父さんといる今も、こうしている今も、ひょっとして夢なんじゃないか、私はまだあそこにいて・・・、そう思うと胸の奥がきゅっと痛くなる、そして、息が出来なくなる」
「そうか・・・、気づいてやれずにごめんね」
「違う、違うよ。お父さんは悪くない、私が私が・・・。ごめんなさい」
「今日一日、ごめんなさいは禁止。いい」
「うん」
男は笑顔を浮かべると、一口、珈琲を飲む。
名前を付けるのは難しい、特に呪術の世界に片足突っ込んでいる人間にとって、名前を付ける、名前を告げるは危険と隣り合わせだ。しかし、名前を付けること、それは存在する証しともなり得るものだ。彼女には今、彼女自身が安寧でいるためにも名前を必要としているのかもしれない。
「わかりました。二つの名前をあげましょう」
「二つの」
「そう、一つは本当の名前、もう一つは普段の名前。こっちにおいで」
女は立ち上がると男の前に立った。男は椅子に座ったまま、女を見上げる。
「両手をこちらに」
男も両手を出すと、女の手首をしっかりと握った。
「少しかがんで、額を出して」
男は女の額に自分の額を重ねた。
「私達の技は呪を唱えません。ただ、強く意念を用いるのみ」
男が息を吐く、瞬間、女の体が吹き飛ばされるように浮かんだ。男が手を握っていなければ女は確実に飛ばされていただろう。
「いま、君の心の奥底に本当の名前を刻印した、わかるかな」
「うん、わかる、不思議な名前、名前そのものがなにか力を持っているような気がする」
「もちろん、持っていますよ。ただ、この名前は口にしてはいけません、これは絶対の約束、いいかな」
「約束する」
男は手を放し、ほっとしたように女に笑い掛けた。
「さてと。何か希望はあるかな、普段の名前」
「お父さんの付けてくれる名前が私の希望の名前だよ」
「ええっと、それは責任重大だ。うーん」
男は女を見上げ、呟くように言った。
「一番の願いは君が幸せであること、今様のかっこいい名前もいいのかしれないけれど、名前に、幸せであれと、この願いを託したい」
「お父さん」
「幸福の幸の字をいただいて幸子、ゆきこ。でいいかな。さちこって呼ぶとなんだか演歌の人みたいだし」
女が男に抱き着く。男の両手が戸惑ったように空を掴んだ。
「ありがとう、お父さん」
女は男の耳に口を寄せ囁いた。
「名前を付けてもらったこと、これでね、今日は、私が生まれた日になったんだと思う」
「そういう考え方も楽しいね」
「うん」
女は体をずらすと、自然なそぶりで男に口づけをした。
そして、口づけをしたまま、男をしっかりと抱き締めた。男はいきなりのことに戸惑いを隠せずにいたが、観念したように、目を閉じた。
「お父さんの唇、少し苦かった、珈琲、ブラック。私の唇はどんな味がした」
「甘い・・・」
「それはショートケーキだ、苺の」
女がくすぐったそうに笑った。
少々というか、いや、多々、回りの視線が突き刺さる。
女は男の横に椅子を据え、隣りに座った。
「私、お父さんと同じ時代に生きている、そして、同じ方向を見ている、それがとても嬉しい」
「そうだね、そう思うと普段の風景も違うように見えて来る」
「ね、お昼から用事あるの」
「特にはないよ」
「それじゃ、夕方まで、散歩しよう。同じものを見て回ろう」
「そういうのも面白いかもしれないね。財布渡すから、レジで会計してくれる、ちょっとね、レジへ行く勇気ない」
「なんだか、私、お父さんに頼まれたら元気百倍、なんでもできそうな気がする」
女は男の財布を受け取ってレジへ向かった。
ここがオープン・テラスで良かった、男は一人呟くと立ち上がった。世間体を気にするほどではないが、といってあまり人前で、いや、人前でなくても父娘では。
「お父さん、おいしそうなサンドイッチがあったからテイクアウト、お腹が減ったら一緒に公園で食べよう」
ふっと女は真顔になり男の目を見つめた。
「私はお父さんにとって必要な存在になれるかな」
男はそっと囁いた。
「自分を認めてくれる人の存在はとても大切。それは生きる理由と同義だ。幸が父さんをそう認めてくれているのはとても嬉しいし、父さんが生きている理由でもある。ありがとう」
女は男の胸に顔を埋め、静かに、静かに泣きだした。
「もっと肩の力を抜いていいよ。そして泣きなさい」
男は不思議に感じた。会って一カ月、それなのに、まるでこの子が生まれた時からずっと一緒に暮らして来たように思えてくる。
そして、そんな気持ちを正直に受け入れてしまおうと自然に思うことができる。
小指は約束の証。一生に一度だけの約束。
男はもう一度囁いた。
「ありがとう」