遥の花 漣 二話

遥の花 漣 二話

梅林の中央、幸は漣を見上げると、にっと笑った。
「本当に漣の親父が望んでいるのかどうかは知らない。しかし、約定の言葉は交わした。これは、絶対だ。漣、修行を途中で挫折することは許さない、いいな」
緊張した面持ちで連が頷いた。
「漣、横に立て」
幸は漣を見上げた。
梅林の緑が日差しを青に染める。
心地よい風が流れていた。
「舞を教える。動きの要、全てを内包した舞だ」
ゆっくりと漣の体が動きだした。
「か、勝手に体が動きます」
「漣の神経に干渉している。時間があればじっくりと見取り稽古をしたいところだけれど、時間がないからな。体の動くままに動いてみろ」
「はい」
しっかりと漣が返事をする。幸は少し嬉しげに笑みを浮かべた。
美しく滑らかな動き、しかし、見るものが見れば、内に含まれた凄まじい攻撃と防御の動きを見いだすことができるだろう。
緩やかに差し出される掌、儚げで頼りなく、今にも押し返されてしまいそうなその掌打も、様々の防御を擦り抜け、相手に達した瞬間、鋼となる。見上げるような鬼をも藻屑と潰してしまう。
「漣、覚えておけ。この舞は波結いという。常に様々に変化し続ける波、その波を結ぶことで、巨大な力を産みだす」
幸は笑みを浮かべると、必死になっている漣の横顔を見た。
良い調子だ。

「花魁道中の儀 着」
家の方角から、白の声が響いた。
「帰ってきたな」
幸が呟くと同時に、三毛が駆けて来た。
「幸母さん、タコ焼きの屋台、引っ張って来たよ」
「そうか。それじゃ、今晩はタコ焼き三昧だな。ユッキーも元気にしてたかな」
「十一人の鬼がいたけど、事務所に結界が施されていて大丈夫だったよ。あ・・・」
「ん、どうした」
「ごめんなさい、鬼のこと忘れてました」
「三毛もタコ焼きの屋台が余程嬉しかったんだな」
幸が柔らかく笑みを浮かべた。そして、遠くを見る。
「鬼の気配はすっかり無くなって、二人であさぎ姉さんの作ったお弁当を食べているよ」
幸は笑うと、同じ背の三毛の頭を撫でた。
「お疲れさま」

?

三毛がほっとしたように笑みを浮かべた。

「あさぎ姉さぁん」
黒が台所へ飛び込んで来た。あさぎは洗い物の手を止めると振り向いた。
「あさぎ姉さん、タコ焼きの元を作ってください」
「いいよ。美味しいの用意してあげる」
黒は幸せそうに笑みを浮かべると、あさぎの横に駆け寄り、洗った皿を布巾で拭いていく。
「タコ焼きの機械があったんだね」
「うん。今晩は美味しいのを焼くよ」
「それは楽しみだ」
あさぎは笑うと、いずらげに言った。
「黒はおすまししているより、笑った方が可愛いよ。椿ちゃんの前でもそうすればいいのに」
「うーん」
黒が困ったように笑みを浮かべた。
「期待を裏切るのって、とっても恐いんだ、鬼よりも恐いよ」
「なら、期待を裏切るのじゃなくて、期待を越えれば。そうだね・・・。料理と人とは違うよね」
あさぎが微かに溜息をつく。
「あさぎ姉さんの料理はとっても美味しいよ」
「ありがとう」
あさぎがそっと笑みを浮かべた。
「ね、黒。私ね、必死だったんだ」
「あさぎ姉さん、それは最初の時」
あさぎが少し顔を横に振る。
「ここで生活を始めてからだよ」
「どうして」
「私は造りモノで、たまたま、お父さんに拾ってもらって、黒達のついでに家族にしてもらっただけの生きた人形」
黒はそっと両手であさぎの手を握ると、顔を横に振る。
「だって思っていた。だから、自分がここに居ても良い理由が欲しくて、料理を頑張ったんだ、必要とされたい。ここにいなきゃならない人になりたいって」
「あさぎ姉さん、哀しいこと言わないで」
黒が寂しげにあさぎを見つめた。
「でも、今はね」
あさぎが笑みを浮かべた。
「楽しいから料理を作るし、居ても良いとか悪いとかじゃなくて、家族だから一緒にいるんだって、素直にそう思えるんだ。ね、黒、椿ちゃんも、学校もね、きっと、楽しくなるよ。きっとね」
「うん」
黒は幸せそうに頷いた。
「学校もあまり休まないようにするよ」
あさぎもそっと笑った。
箒を片手にとたとたと小夜乃がやってきた。
「黒さん。あの、なよ母様は」
「小夜乃。なよ姉さん、しばらく帰れないと思う」
黒は洗い物を流しにおくと、小夜乃をそっと抱き締めた。
「幸母さんの友達が一人になっちゃって、その子のお父さんが戻ってくるまで一緒にいてやるって」
少し小夜乃は俯いたが、笑みを浮かべ顔を上げた。
「優しすぎる人ですから、なよ母様は」
黒が手を離すと、小夜乃はテーブルの椅子に座った。
言葉とは裏腹に、小夜乃の瞳に涙が滲んでいた。
「黒さん」
「ん」
黒が小夜乃の隣りに座った。
「小夜乃は外に出ると男の鬼に襲われてしまいます。もし、小夜乃がいま、なよ母さんの所へ行けば、きっと、鬼が集まってきます、だから、なよ母さんやお友達の迷惑になってしまいます」
黒は多分そうなるだろうと思ったが、どう、それに対して答えれば良いかわからず小夜乃をなぐさめることすらできなかった。
「黒さん。黒さんみたいに小夜乃も強くなれ、ばなよ母さんと一緒に外へ行くことができるのでしょうか」
「それは」
黒が口ごもった。今のままでは、小夜乃は外に出ることができない。自由に買い物に行くことすらできないのだ。強くなることで、鬼を退けることができるだろうか。鬼に恐れられるくらい強くなれば、きっと。でも、それをなよ姉さんは願うだろうか。
「ごめん、小夜乃。黒にはどう答えたらいいかわからないよ」
「八十点。適当なことをほざくより、わからない時はわからないというほうが良い」
幸の声だ、黒が振り向く。幸が流しの前で水筒にお茶を入れていた。
「漣がそろそろ倒れるかも知れない。あさぎ姉さん、バナナあるかな」
「あるよ」
「それじゃ、あさぎ姉さん、バナナジュースを作ってください。小夜乃」
幸が小夜乃に向き直った。
「悩んだ時は、兎に角、前へ進め。間違えたなと気づけば、正直にごめんと叫んで、あたふた逃げ出せば良い」
驚いて、小夜乃は幸を見つめた。
「武術というのはいろんな種類があるんだ、どの武術を身につけているかで、自分が一体何者かを示すことができる、名刺みたいなもんだ。だから、小夜乃、なよ姉さんが帰ってきたら、なよ姉さんに武術も呪術も教えてくれるように頼め。小夜乃はなよ姉さんの娘なんだからな」
小夜乃は立ち上がると、幸に頭を下げた。
「ありがとうございます、幸姉さん」
幸は頷くと、水筒を持って漣の元へと消える。黒は安心してほっと溜息をついた。
「黒さん、心配かけてごめんなさい」
「どう致しまして」
黒がほっとしたように笑った。

「ひゃぁぁつ」
危うく、三毛は漣の蹴りから逃れ、距離を置いた。
確実に避けたと思った蹴りがそのまま向きを変え、三毛を襲ったのだ。最速の蹴りの方向がその速度のままで自由に変化する。
「休憩するかな」
幸が現れるのと同時に漣の動きがゆっくりと止まり、そのまま崩れる。幸は素早く後ろに回ると、背中から抱えるように支え、ゆっくりと漣を座らせた。そして、お茶を少し飲ませる。
そのまま、幸は漣の後ろに座ると、左手を漣の心臓の上、右手をお腹の下へ置く。その手が漣の体に溶け込んだ。
「三毛は漣の両足、白は左手」
幸の言葉に二人はすぐさま反応し、漣の体に触れ、柔らかく摩る。
「黒はタコ焼きの仕込み中か。白、左手が終わったら右手に移りなさい」
「わかりました」
素早く、白が答えた。
「神経は八割、母さんが制していたけど、動いている筋肉も関節も漣のものだからな、随分、過負荷になっている。筋繊維をしっかり読んで解しなさい」
二人がわき目も振らず集中する。
「漣、意識はあるな」
「はい」
朦朧となりながらも漣が答えた。
「一度は体に通した動きだ。いずれ一人でも動けるようになるし、そうさせるさ」
小夜乃がコップに入ったバナナジュースを手にやってきた。
「幸姉さん」
「ん、ありがとう」
幸は両手を漣の体から出すと、ジュースを受け取り、少しずつ、漣にバナナジュースを飲ませる。白が漣の右腕に移った。
「幸母さん」
「あぁ、漣の心臓の動きを整えていたんだ。微細振動を起こすと血液を流せなくなるからな」
「幸母さんは凄いです」
幸は白に笑いかけ言った。
「ありがとう、娘に褒めてもらえるのは単純に嬉しい」
幸は素直に笑うと、そうだと三毛を見た。
「面白い蹴りだっただろう」
三毛が目を見開いた。
「漣ちゃんの蹴りが避ける方向についてきた」
「仕組みはわかるか」
三毛が仕方なさそうに首を横に振った。
「漣ちゃんの足が関節に関係なく曲がったように見えたけど、なんともないし」
三毛が漣の脚を摩りながら言う。
「ベクトルの合成だ。あとは自分で考えなさい、その方が身になるからな」
三毛はしっかり幸を見つめると頷いた。
不意に幸は振り向き、家を見つめた。
「白、あとは任せた」
「はい」
幸は素早く立ち上がると、小夜乃の手を握った。
「行くぞ、小夜乃」
二人の姿が消えた。
「どうしたんだろう、あんな慌てた幸母さん、初めて見た」
白が呟いた。

男の部屋の柱に背を預けたまま、うずくまるなよがいた。
「なよ母様」
小夜乃が叫んだ。
「小夜乃、布団を敷きなさい」
幸の声に弾けるように小夜乃が押し入れから布団を取り出した。
幸は静かになよを布団の上に仰向けに寝かせつけ、枕元に正座すると、右手をなよの胸に溶け込ませた。
指先を探るように蠢かせる。小夜乃が反対側に正座し、唇を震わせ、瞬きもせずになよの胸元を見つめていた。
「硝子球」
幸が呟くと、その左手に透明な球が現れる。人の顔の大きさほどのそれに、右手が何かをつまみ上げるように、黒い不定形の布のようでもあり、黒い油のようにも見えるそれを硝子球に吸い込ませる、見るうちに、硝子球は漆黒の球となり、なよがほっと吐息を漏らした。
「なよ姉さん、大陸系の呪文だ。銃弾に込められていたんだと思う」
「なよ母様、お加減はどうですか」
心配げに小夜乃が囁いた。
「いやはや、面目ない」
照れ隠しになよが微笑んだ。
幸は溜息を漏らすと、小夜乃に言った。
「あさぎ姉さんに氷嚢と氷を頼んでくれ。まだ、熱がある」
「はいっ」
小夜乃は立ち上がると台所へと駆け出した。
「ユッキーのとっつあんには何もするなよ。ま、呪文は予想外じゃったが」
なよが笑った。
「ユッキー、良い娘だったでしょ」
幸が少し足を崩して笑った。
「今回はなよ姉さんが悪い」
「それは認める」
「お酒も飲み過ぎです」
「あぁ、美味かったのう」
「反省してないね」
「酒を飲まぬ奴にはわかるまいて」
「なよ姉さん」
「ん」
「辛いのは少しだけど分かる、鎮魂の儀に付き合ったんだからさ。でも、辛くても自分を傷つけちゃだめだよ」
幸は呟くと、なよの頬を伝う涙を人差し指で拭った。
小夜乃が氷を入れた氷嚢を、黒が洗面器に水を張って届けにきた。あさぎも心配をして、なよの顔を覗きにきる。
「あさぎも黒もすまんな、心配かけた」
なよは横になったまま、声をかけた。
あさぎがほっとしたように、笑みを浮かべる。
「タコ焼きは明日にした方がいいかなぁ」
黒の言葉になよが笑った。
「わしは晩御飯まで寝る、黒、起こしに来い。お前の焼くタコ焼きを食わねばな」
黒がほっとしたように笑った。
「わかりやすいやつじゃのう」
なよは少し笑うと体を起こし幸の硝子球に手を伸ばした。小夜野がなよの背中を支える。なよは幸から漆黒の硝子球を受け取ると、両手で掴み、親指に力を込める。
「極性を換えてやろう」
硝子球がゴムのように大きく凹み、捲れ上がるように弾けて、白い硝子球に変わった。
「陸にては鵺と化し、空にては龍と変ぜよ。水にては、そうじゃな、鯱へと変化し、小夜乃を守れ」
なよが息を吹きかける、硝子球が、小鳥、眼も嘴もすべてが真っ白な小鳥に変化した。石英にて作り上げられた小鳥の彫刻のようだ。
「幸、頼む」
なよが幸に小鳥を手渡した。幸は頷くと柔らかく両手で小鳥を持つ。
「黒、母さんが浮かばないように、肩を上から押さえ付けてくれ」
慌てて、黒は幸の後ろに立つと両手で幸の肩を押さえた。
幸が一つの呪文を唱えるわけでもなく、じっと小鳥を見つめる。次第に、小鳥が色付き、薄山吹色の文鳥に変化した。文鳥は頭を傾げ、小夜乃を見つけると、ぱたぱたと飛び立ち、小夜乃の頭に停まった。
「小夜乃。こやつに名前を付けてやれ」
なよはそう言うと、悪戯げに笑みを浮かべた。

白は手を止めると、漣に声をかけた。
「漣ちゃん、何処か痛くありませんか」
「ありがとうございます。却って体が軽くなったみたいです」
白は頷くと、三毛に声をかけた。
「三毛、もういいよ」
「うん」
三毛も手を離すと、やわらかく笑みを浮かべた。
「そうだ、漣さんに」
三毛が白に言った。白は頷くと、漣に言った。
「漣ちゃんのお父さんや一族の人達はホンケに全員匿われています。えっと、ホンケというのは、この国の呪術の組織の一つで、たくさんの呪術者達から畏敬の念を込めて、ホンケと呼ばれています」
「母さんは別だけどね」
三毛が白の言葉に付け加えた。
漣は安心したように小さく笑みを浮かべた。
「ホンケで体制を整えた後、鬼と一戦する予定のようです。ホンケはその後方支援に回るだけでなく、かなり積極的に協力をするようです」
「ありがとうございます」
安心したように漣が笑みを浮かべる。白もつられて笑う。
「あの、白さん、教えていただいていいでしょうか」
「えっと、どんなこと」
「幸さんは小さいのに白さん達のお母さんなんですか」
「それは」
白が口を開きかけた瞬間、あかねが白の目の前に現れた。
「白さん、そこまでです」
あかねはそう言うと、漣に向き直った。
「漣さん、問うてはなりません」
あかねが静かに言った。
「もしも、漣さんが一カ月後もここに暮らし、家族となるのならば、全てを知ることに問題はありません。でも、戦列に戻るならば、必要以上のことは知ってはなりません」
「あかねちゃん」
白が咎めた。あかねがかまわずに言葉を続けた。
「幸姉さんの動きを体に通したなら、どんな強い鬼でも赤子の手をひねる気分で打ち倒すことができることがわかるでしょう。この国の支配者達も、鬼も、そんな術を持つここのことを知りたいと考えています。つまりはここのことを知ることは、漣さん自身を危険にさらす可能性を増やすということです」
漣がそっと頷いた。
「白さん。黒さんが呼んでいましたよ、漣さんも一緒にどうぞ」
白はあかねにどう対応すれば良いか考えあぐねていたが、あかねの言葉に漣と家へと向かった。
「三毛さんもどうぞ。タコ焼き、チーズを入れたり、明太子を入れたり、黒さん、楽しんでいますよ」
ふいと三毛は興味深そうにあかねを見つめた。
「どうして、あかねちゃんは自分を嫌われるように仕向けようとするの」
「そういうの好きだから。でも、幸姉さんだけには柔順でありたいと思っているのですけどね」
あかねが嬉しそうに笑う。
「白さんは学校生活に一番馴染んでいるから、自我がまっとうに固まりだして、ちょっといじめたりするのが楽しいんです」
「あかねちゃんはとっても良い人だよ、意地悪じゃないよ。鬼からも助けてくれたよ」
三毛の言葉に、あかねは答えず、仰向けに寝転がった。
「晩ごはんまで、あかねはここで寝転がっています。三毛さんは戻ってタコ焼きを試食してきなさいな、美味しそうでしたよ」
三毛はあかねの横に座ると、あかねの右手を両手で包み込むように握った。
「あかねは一人が好きなんです」
「三毛も一人が好き。でも、二人はもっと好きだよ」
いたずらげに三毛が笑った。
「あかねちゃんに三毛の優しさを分けてあげる」
あかねがふっと笑った。
「そういうところ、幸姉さんにそっくりです」
あかねは緊張を解くと、ゆっくりと息を整える。
「まっ、手を握られているのはそれほど不快ではありません。それに、ちょっと気持ちが柔らかくなります」
あかねが目をつぶったまま、かすかに吐息を漏らした。
「黒さんは白さんと三毛さんを護りたいから強くなろうとしています。白さんは強くなるよりも活法を重視しています。三毛さんは、どうして強くなろうとしているのですか」
「急にそんなのわからないよ。ただ、とっても練習が楽しいし、出来なかったことが出来るようになるととても嬉しいんだ」
あかねはゆっくりと目を開け、三毛に視線を向けた。
「三毛さんはいつか狂います。その時は、あかねが命を懸けてでも、三毛さんを正気に戻してあげましょう」
「三毛は大丈夫だよ、狂ったりしないよ」
「三毛さんは幸姉さんに似過ぎているのですよ。多分、あかねがここ存在する理由は三毛さんを制するためでしょう。でも、願わくば、狂わないでほしくはあります。あかねもここで暮らすのが楽しいから」
あかねがそっと笑みを浮かべた。
「あかねのこと、嫌いになりましたか」
「ううん、好きだよ」
「良かった」
聞こえない声であかねが呟いた。

台所で蛸を切っているあさぎの横に、幸はやって来ると、あさぎににっと笑いかけた。
「あさぎ姉さん、御煎餅、食べても良い」
「黒ちゃん、もうすぐタコ焼きを焼いてくれるよ」
「大丈夫、両方食べるよ」
幸は戸棚から、洗濯ばさみで綴じた御煎餅の袋を、背伸びして引っ張り出すと、テーブルにつく、足を揺らしながら、煎餅をかじった。
「はい、お茶」
あさぎが湯飲みにお茶を入れた。
「ありがと。あさぎ姉さん」
にひひと幸がくすぐったそうに笑った。
幸は見事に漣の指導者としての立場と、幼い子供の、二つを使い分け、楽しんでいた。

「こんにちわ」
玄関口で声がした。
「あの声は恵さんだ。久しぶりだなぁ」
恵は台所へ来ると、あさぎに声をかけた。
「あさぎさん。幸さんが大変なことになったって、恵子から聞いたんだけど」
あさぎは困ったように笑みを浮かべると、目の端で幸を見る。
「うわっ、凄い綺麗な女の子」
「こんにちわ。お姉さん」
幸が笑顔を浮かべ恵に挨拶をした。
「こんにちわ」
恵も笑顔で挨拶を返すと、あさぎに言った。
「まるで幸さんを幼くしたような女の子だけど、まさか、お父さんと幸さんの子供じゃないですよね。さすがに計算が合わない」
「当たらずとも遠からずというか・・・」
あさぎが口を濁す。
「まさか、幸さん」
「恵さん、お久しぶり」
幸が所在無げに笑みを浮かべた。
「幸さん見たら、びっくりするぞって、啓子が言ってたけど、ほんとにびっくりですよ」
恵は幸の横に立つと、まじまじと幸の顔を見つめた。
「それで、いつ戻れるんですか」
「十年も経てば自然に成長するかなって思っている」

恵が興味深そうに幸の眼をじっと見つめた。
「な、なんだよ」
恵は得心したとでも言うようににやりと笑みを浮かべると、幸の隣の椅子に座った。
「幸さんはお父さんに正直であれとたたき込まれています。ですから、嘘を言うと、ほんの少しだけ、眼が泳ぐのですよ」
幸は溜息をつくと、少し笑った。
「術の失敗でこうなったんだ。途中で暴走してね。だから、暴走中の変化を分析出来れば元に戻ることができる、ただ、解析にまだしばらくはかかるし、万が一、戻れなかった時のことを考えて黙っている。あさぎ姉さんも内緒にしてね」
ああぎが嬉しそうに頷いた。
「さて、恵。次は幸の番。何を思い詰めている」
恵は大袈裟に溜息をつくと、少し俯く。
「十代前半の肌の張りと艶、もったいないけど、大人に戻してくださいってお願いしようと思って来たのですけど、幸さんの姿を見て、決意がぐらついています」
「それはごめんなさい」
幸が笑った。
あさぎが二人に気分の安らぐカモミールのハーブティを差し出した。
恵はぺこりとあさぎに頭を下げると、両手でカップを包み込む。
「幸さん」
「ん」
「私には兄がいるのですが、既に結婚をして、家を出ています。実家からは随分遠いのですよ。昨日、母さんが入院しまして、そんなにひどくはないのですが、一カ月は病院を出られない。父さんは料理も掃除も家事全般、母さんに任していた人ですから、何もで来ません。それで、私が実家に戻ることになりまして」
「その姿では、お前、誰だになるよね」
「姿は変わったけど、貴方の娘、恵ですよぉ。ほら、子供の頃のアルバム見ればわかるでしょう」
恵は俯くと、小さく息を吐く。
「わかるわけないか」
恵の言葉に、少し寂しそうに笑みを浮かべると、幸は両手にティーカップ抱くように添え、一口飲む。柔らかい味がする。
「恵さん」
幸が声をかけた。
「まっとうなこれからを考えるなら、幸は恵さんを大人にして送りだす、それは簡単だし、これこそ本来だろうね。でもさ」
幸は恵を見つめると、にっと笑った。
「幸は大人に戻りたいけれど、鍵がかかってしまったようなもので、そうは簡単には戻れない。でも、恵さんを大人にするのはいつでも引き受けるよ。お母さんの入院は大人に戻る良い機会かもしれないけれど、もう少し、ぐずってみるのもありかもしれないな」
「えっ」
ふっと幸は振り返ると襖の向こうに声をかけた。
「あかねちゃん、三毛、おいで」
その声にあかねと三毛がやって来た、ばつが悪そうに。
「盗み聞きしてごめんなさい」
三毛が素直に謝った。
「いいよ。聞かれない方が良い話の後だ」
少し意地悪く幸は笑みを浮かべると、あかねを見つめた。
「あかねちゃん、おいで」
少し脅えながらも、あかねが幸の前に立つ。
幸はあかねを抱き締めると囁いた。
「あかねちゃんは幸の妹だ。今までも、今も、これからも」
ほっとしたようにあかねの表情から緊張が消えた。
幸は笑うと、恵に言った。
「実家にはいつ帰る」
「明日です」
「なら、今晩はここで寝て、明日、あかねちゃんと三毛も一緒に実家へ行ってくれ。あかねちゃん、三毛、良いかな」
「はい、大丈夫です」
あかねが元気に答えた。三毛も頷くとにっこりと笑みを浮かべた。
「術とのりと勢いで、恵さんの居場所を作ってこい」
幸が楽しそうに笑った。

「こんにちは。津崎です」
玄関口からおとないの声。
「あ、椿ちゃんだ」
三毛が玄関口へ振り向いた。
たたっと三毛が玄関口へ走っていく。
「黒ちゃん、大丈夫かなぁ」
あさぎが笑みを浮かべた。
「津崎さんって」
恵が尋ねた。
「黒ちゃんのファンの子だよ、ね、幸」
「なんでも、津崎ちゃん曰く、黒のファンクラブまで出来ているらしいよ」
「黒ちゃん、そういうの苦手で、津崎さんが来ると緊張してしまうんだけどね」
あさぎが笑みを浮かべた。
「その緊張した姿が大人びて理知的で格好いいらしい」
幸も笑うと、御煎餅を一口かじる。
「どんなだろう、見て来ます」
「あまりからかわないでやってね」
あさぎが念押しをする。
「大丈夫ですよ」
恵が笑った。そして、幸を後ろから抱き締めた。
「幸さん、ありがとう」
「どういたしまして」

恵が裏に回ると、津崎がうっとりとした表情で黒の前に立っていた。黒はというと笑みを顔に張り付けたまま硬直している。
「うわぁ、ゆりゆりだ」
恵は呟くと黒に近づき、背中をぱんと叩いた。
「黒さん、焦げますよ」
「あ、恵さん」
慌てて、黒がタコ焼きをくるっと回転させる。恵は笑みを浮かべると、津崎に視線を寄せた。
「初めまして、恵です」
「こ、こんにちは。津崎椿です」
津崎は年下にも見える恵の外見とは裏腹に、落ち着いた様子に緊張し、少し吃ってしまった。
「津崎、どこかで・・・」
恵が呟いた。
「ひょっとして、津崎要のお孫さんかしら」
「はい、お祖母さんです」
少し落ち着いたのか、黒が恵に話しかけた。
「恵さん、知っているの」
「昔、やっていた仕事の関係でね。顔の雰囲気も似ていたし」
「あ、あの。おばあちゃんとお知り合いなんですか」
「まさか。こっちはただの下っ端。津崎要は津崎流薙刀術総帥。雲の上の人、身分が違い過ぎるわ」
恵が気楽そうに笑う。
黒は焼けたタコ焼きのお皿を津崎に手渡し、言った。
「向こうに白もいるから、一緒に食べなさいな」
「はい。黒様」
津崎は三人分のタコ焼きを受け取ると白のところへ走っていく。
黒が大きく溜息をついた。
「ありがとう、恵さん」
「どう致しまして。それより、恵にもタコ焼きを作ってくださいな」
「美味しいの、作るよ」
安心したように黒が笑った。

辺りが薄暗くなる頃、黒はそっとなよの寝る部屋の襖を開けた。
小夜乃が枕元に正座していた。
「小夜乃ちゃん、なよ姉さん、どうかなぁ」
小夜乃は振り返ると笑みを浮かべた。
「よく眠っておいでです」
黒は小夜乃の隣に来ると、なよを覗き込んだ。
「小夜乃ちゃん」
「え」
「ゆっくりお休みのようでしたから起こしませんでしたって、明日の朝に言ったら、なよ姉さん、怒るだろうね。小夜乃ちゃん、なよ姉さんを起こそうか」
そっと、小夜乃はなよの頬に触れると、耳元で囁きかけた。
「なよ母様、タコ焼きですよ。食べましょう。それとも、明日になさいますか」
なよは目を覚ますと、ゆっくりと体を起こす、慌てて小夜乃が背中に手を添えた。
「食うに決まっておる。黒、巧くなったか、タコ焼きは丸くなっておろうな」
「うん、うまくひっくり返せるようになったよ」
「よし、それは楽しみじゃ」
思いの外、なよは元気に起き上がると、着崩れた寝間を直し、にっと笑った。
「わしは食通じゃからな厳しいぞ。おや、小夜乃、小鳥はどうした」
小夜乃がそっと笑みを浮かべた。
「実朝は何もかもが珍しいらしく、あちらこちらと飛び回っております」
「ん、実朝。実朝と名付けたのか」
小夜乃は頷くと小さく呟いた。
「おいで。実朝」
小鳥が襖の隙間から飛び込んで来た。そして、当たり前のように小夜乃の肩に停まる。
「実朝。こちらは小夜乃のお母様です。ちょっと恐いけれど、とてもお優しい方ですよ」
「恐いは余計じゃ」
なよは笑うと、呆れたように実朝を見る。
「歴史を繙くならば、頼光辺りでも名付けておけばよいものを。ま、小夜乃は争いを好まぬからな、実朝辺りが気も合うて良いかもしれんな」
「なよ姉さん」
黒が声をかけた。
「それはなよ姉さんの知っている人」
「あぁ、知っておる、随分、泣かしてやったものじゃ。若くして殺されてしもうたが、生まれて来る時代を間違えたような奴じゃったのう」
ふと、その頃を思い出したのか、なよは静かに目を閉じたが、一呼吸の間もなく、目を開けた。
「感傷より、食い気じゃ。黒、用意をせい」
「はいっ」
黒は飛び上がると、駆けて行く。
「小夜乃」
「はい」
「実朝を大事にせいよ」
小夜乃は幸せそうな笑みを浮かべると、しっかりと頷いた。