遥の花 撃 二話

遥の花 撃 二話

あかねが背中の女の子をのぞき込む。すやすや眠っている、小学校二、三年か、ただ、幸の子供の頃は間違いなく、こんな美少女であったに違いないと思う。そう、幸姉さんにそっくりだ。
「どれどれ」
なよは疲れ果てたように呻くと、立ち上がり、男の背中をのぞき込んだ。
「あぁ、あ」
と、なよは思わず声に出す、そして、大きく溜息をつくと、いきなり、女の子の頭をすこんと右手ではたいた。
「狸寝入りするな、幸」
「ててっ、ごめん、なよ姉さぁん」
子供になってしまった幸は照れ笑いのような表情をなよに浮かべた。
「父さん、こやつは間違いなく幸じゃ。邪法を使い、失敗して子供にはなってしまったがな」
男は少し安心した表情を浮かべた。
「そうか。何処かで幸がはぐれて泣いてやしないかなんてね。まずは、ほっとしたよ」

部屋の中央に椅子を置き、幸を座らせる。
男を除いて全員が幸を困惑しつつ、見つめていた。正面の黒がおずおずと言う。
「えっと、母さん」
語尾が上がった疑問形、三毛よりも幼い女の子が目の前にいて、それが母さんだというのだ、根が真面目な黒は、何をどう言えばいいのか、戸惑い、ちょっと涙ぐむ。
「ごめん。母さん、子供になっちゃうって病気に罹ってしまって、ごほげほ」
「んなわけあるか」
なよが思いっきり突っ込む。
「父さんを子宮に入れ、赤ん坊にして延命させようという邪法じゃ。それに失敗して、おのれが若返ってしまったのであろう」
「うん、そう」
幸が微かに俯く。
不意に幸のお腹が蠢きだし、幸乃が外に転がり出た。
幸乃は自分の手や足を見、小さくなっていないのを確認した。
「幸。お前は大恩あるお父様になんということを」
幸乃は言いかけて、その時の様子を思い出したのか、顔を真っ赤にし俯いてしまった。
「まっ、その邪法を組んだのはわしじゃ。じゃから、あまり、幸のことは言えんがのう」
なよはどかっと胡座をかくと俯いた。
「わしの古い記憶を読んだのであろう、ならば、わしが失敗してしもうた記憶も読んでおけ」

声をかける間がなく、男は困り顔でその様子を見ていたが、少し場か静かになったのを見計らい、そっと、声をかけた。
「ま、そのくらいにして、晩ご飯にしようか」
じろっとなよが男を睨む。
「まぁ、なんていうかな。腹が減っては苛つくばかりでね」
男がおそるおそる笑みを浮かべた。
なよが大きく息を吐いて、思い切った眼差しで男を見つめた。
「なぁ、父さん」
「ん」
「父さんの命はあと半年くらいであろう」
「そんなもんだろうね」
皆が驚いたように男を見つめた。
「お、お父さん、本当に」
黒が驚きのあまり声を出せずに囁いた。
微かに男が頷く。
「やだょ。お父さん、死なないで」
黒が呻くように呟いた。
「なぁ、幸も止むに止まれず父さんを延命させようとしたのじゃろう。わしも父さんには生きていて欲しい。わしにとっても、こんなに楽しい日を過ごすことができてのう、やはり、父さんがいてくれんとな」
なよが恥ずかしそうに言う。
男は自分が死んだ後、幸を一人にしたくないと、家族が増えることを喜んでいたが、自分にとっても、それは家族なんだなと実感した。
「幸、おいで」
幸は顔を上げると、男の元に走りより、しがみついた。
「幸、これをあげよう。手を出しなさい」
男の手から、薄い緑の色をした小さな鍵が現れ、幸に手のひらに消えた。
「ここの鍵だ、現と異界を繋ぐものだよ」
幸が顔をあげ、目を見開いた。
「お父さん、死んじゃやだよ」
掠れた声で幸が呻いた。
「一カ月、旅をしたら帰ってくるよ」
男は幸の頭を軽くたたくと、幸せそうに笑みを浮かべた。
「さてと」
男は顔をあげた。
「なよが父さんのいない間は中心になってくれ。ただ、なよのわからないこともあるだろうから、幸乃」
「はい」
慌てて、幸乃が顔をあげた。
「なよをしっかり助けてやってくれ」
「わかりました」
幸乃は落ち着いた声で答えた。
「わしは新参者じゃぞ、それに鬼でもある、いいのか」
「なんの問題もないよ。それから、小夜乃」
「はい」
戸惑うように小夜乃が答えた。
「なよを支えてやってくれ。小夜乃は心が強いからな」
小夜乃が嬉しそうに笑みを浮かべた。
「黒」
「は、はい」
「黒はちょっと真面目過ぎだな。妹たちのことを考えてだろうけど、自分自身がまいってしまうぞ。もう少し、白や三毛に頼るようにしなさい」
黒がほっとしたように頷いた。
「白は医師になりたいんだろう」
「はい」
「しっかり勉強すること、ただ、自分の安全は自分で守れるようにすること。黒と三毛、いつも三人が意識を繋いでるようにね。これから、難しい時代になるからさ」
「三毛がもっと早くに気づくべきだったこと。それは黒よりは動けないけど、黒より頭の回転は早い、白よりは勉強苦手かもしれないけど、白より動けるということ。そう考えれば自分に何ができるか見えてくるだろう」
「お父さん、そういうことはもっと早くに教えてください」
男がくすぐったそうに笑った。
「あさぎは喫茶店、順調のようだ。たくさんの人達と言葉をかわしなさい。あと、近くへの買い物なら行くことができるだろう、一人ではだめだけれど、誰か、二人以上となら、外に出てもいいよ。じっくりと自分を組み立てていきなさい」
「ありがとう、お父さん」
あさぎがそっと笑った。
「あかねはとっても心配だなぁ」
男の言葉に俯いていたあかねが驚いて顔をあげた、自分には声がかからないだろうと思っていたのだ。
男は笑うとあかねに言った。
「鬼の勢力圏が広がりつつある。あかねは独自に潜入調査とかしてるけど、この一週間で二回は死んでいるよ。なよか、幸に、幸はこんなんになってしまったけど、手伝ってもらいなさい。どうやら、幸の能力そのものは変わっていないようだ」
「ありがと、お父さん。助けてくれて」
あかねが驚いて言った。
「どう致しまして」
男は笑うと、幸に言う。
「生きながらえることにするとさ、いろいろ、昔の済ましておかなければならないことがたくさんあってね。父さん、一カ月、一人で旅に出るよ。一カ月後の今日には帰って来るよ」
「ちゃんと、帰って来る」
幸が心配げに問う。
「頑張って帰って来るよ」
「それじゃ、待ってる」
男が幸の頭をなでた。
「なんだか頭、撫でやすくなったなぁ」
男が少し哀しげに笑った。
「そうだ、あさぎ」
「はい」
「一カ月後の今日の晩ご飯。ちょっと、贅沢なのがいいな」
「腕によりをかけて作ります」
「楽しみにしてるよ」
男は嬉しそうに笑うと、幸を前に立たせ、その両肩に手をそえた。
幸が懸命に笑みを浮かべた。
男が安心したように笑みを浮かべ、姿を消した。
しばらくして、なよが呟く。
「行ってしもうたか・・・」
なよは幸の元へ行くと、後ろから幸を抱きしめた。
「愛している人といつまでも一緒にいたい。その思いは真実じゃ。なかなか、どうして、難しいことじゃがな」
「なよ姉さんもそうだったの」
「何百年も昔のこと、忘れてしもうたわ。いまが、楽しすぎるからの」
幸がほんの少し、笑みを浮かべ、呟いた。
「幸もとても楽しいんだ。ありがとう、なよ姉さん」

「幸、うちのテレビ、見れないのかな」
朝、あさぎが店から、とたとたと台所に戻ってきた。幸がお煎餅片手にお茶をしていた。
「テレビか・・・。地デジだっけ、テレビ買い替えか、それとも何か買い足さないと見れなかったと思う」
幸が少し見上げる。幸は子供化したままだった。都合よく甘えられるので、案外、楽しんでいるようだ。
「そっか・・・」
落胆したように、溜息をつくと、幸の隣りにあさぎが座った。
「なにか、面白いのやっているの」
「うーん、さっき、お客さんがね。広報で明日、政見放送を必ず見るようにって連絡があったらしくてね」
「そういえば、役所の車が、スピーカーで何か言ってたよね」
たいして興味なさそうに幸が答えた。
「ラジオでも放送するかもしれない、お父さんの部屋に・・・」
いきなり、幸が涙ぐんだ。
「ごめん、ごめん。お父さんのこと思い出させてしまって」
「あさぎ姉さん、ごめんなさい。大丈夫だよ、あと、十日でお父さん、帰ってくるものね」
幸が大きく深呼吸した。

「おーい、幸ちゃん」
玄関口から、佳奈の声が響いた。
「佳奈さん、どうぞ。こっち、台所だよ」
幸が返事をした。
「幸、いいのか」
いつの間にか、煎餅を食べている、なよが心配げに言った。
「え」
「どう佳奈に説明するつもりじゃ、その姿」
「あ、うわっ。どうしよう」
幸が慌てて、腰を浮かしかけた時、佳奈が刺し身を片手にやって来た。
「お刺し身、いいの入ったからね。持って来たよ」
「佳奈さん。ありがとうございます」
如才なく、笑みを浮かべ、あさぎが佳奈から刺し身を受け取った。
「なぁ、あさぎ。刺し身を肴に、一本、いいかのぉ」
なよが目を輝かせる。
「小夜乃ちゃんが良いって言えばですね。本当になよ姉さんはお酒が好きなんだから」
「この家の唯一の欠点は酒を嗜むのがおらんということじゃよ。小夜乃にはわしから言っておく、やつはほんに心配症じゃ。なぁ、佳奈、少しばかりつきあわんか」
「いいですねぇ。最近は夜、外には出られないし、まだ、朝ですけど。ちょっとだけ」
あさぎが笑って言った。
「縁側に用意します。佳奈姉さん、ゆっくりしていってください」
「あさぎちゃん、悪いね。そうだ、幸ちゃんは何処行ったんだい。声は聞こえたんだけど」
ふと、佳奈は俯いている女の子に目をやった。
「おや、綺麗な子だねぇ、幸ちゃんの子供の頃はきっとこんな綺麗な女の子だったんだろうね。え、まさか、幸ちゃんの子供じゃないよね、似ているけど、計算合わないよね」
幸はゆっくり顔を上げると、困ったように笑みを浮かべた。
「えっと、幸です。本人です」
一瞬、目を見開いたが、佳奈は大きく深呼吸をすると、目を瞑って唱えた。
「ここは先生んち、先生ち。何が起こっても不思議じゃない。そういう場所、幸ちゃんが子供になっても、あ、そう。って言える場所」
佳奈はもう一度、深呼吸をすると、やっと目を開けた。
「びっくりさせてごめんなさい」
幸が申し訳なさそうに言う。佳奈はあははと大声で笑うと、ふぅっと息を出す。
「落ち着いた。うん、落ち着いた。なんだよ、幸ちゃん。心臓、止まるかと思ったよ」
佳奈は幸の頭をぐりぐり撫でると、心配そうに言った。
「元には戻れるのかい」
「十年くらいかければ戻れると思う」
佳奈は少し溜息をつくと、幸の前に立った。
「幸ちゃん、ちょっと立って」
幸が立ち上がると、佳奈がぎゅっと幸を抱きしめた。
「心配かけるねぇ、この子は」
「ごめんなさい」
佳奈は手を離すと、ちょっと笑う。
「息子二人で、つまらんなぁって思っていたけど、娘ができた」
佳奈は笑うと、幸の頭を軽くはたく。
「服屋の母さんにはそれとなく言っておくよ。それじゃ、なよさん」
「おう」
二人が連れ立って縁側へ行く。
「幸、良かったねぇ、流してくれて。ほっとしたよ」
あさぎがそっと笑った。
「いっぱい心配かけちゃったよ」
幸はあさぎにしがみついた。
「あさぎ姉さんもごめんね」
「どういたしまして」


「なよさん、鬼ってなんなんだい」
縁側で日本酒を交わしながら、佳奈が尋ねた。そういえばと、なよは今までの経緯を酒の肴にしゃべっていたなと思い出した。
「人の世界と同じように鬼の住む世界がある。その世界に住むもの、言葉を持つ生き物すべてを鬼と呼んでおる。じゃから、昔話に出てくるような、角を生やした鬼もおるし、わしのように角のない可愛い鬼もいるということじゃ」
「なよさんは、可愛いってより、美人、別嬪さんだよ。いやさ、昨日、鬼が店に来たんだ」
「鬼とどうしてわかる」
「角、五センチくらいかねぇ額に生やしていたんだ」
ふと、なよは俯いて考え込んだ。
「額に角か・・・」
「若い男と女でさ、このご時世、なんてものつけてんだいって、叱ったんだよ。で、男がにたにた笑うもんだからさ、二人の角、摘んで引っ張ってやったのさ」
「本物の角だったわけか」
なよが俯いたまま、呟いた。
「女の方は糊か何かで付いていただけで、簡単に取れたんだけど、男の方は、本当に骨が出っ張ったみたいでさ。あたしのびびった顔見て、大笑いで出て行ったんだ」
「さすがの佳奈もびびったか」
なよは少し笑うと顔を上げた。
「さてのう、どこまで話せば良いかのう」
ぐびっとなよは冷酒をひっかけると、盆に湯飲みを置いた。
「鬼と人間はまったく別の世界の生き物じゃ。ただ、昔話にもあるように、いくらかの接触はあった。ただ、それは例外的なもので大勢にはまったく影響がなかった。ま、お互い、それぞれ別の世界で平和かどうかはともかく生活しておったわけじゃ。ところがこのところ、生物としての人間の力が弱くなった、便利な生活の中で生命力を失いつつある、鬼は好機と考えた。人間の世界を奪えるんじゃないか、領土を広げられるんじゃないかとな。それが、いまの情勢じゃ。もちろん、ことはもっと複雑で鬼がそう思い立った後ろに、あくどい人間がいるとわしは見ておるがな」
「それじゃ、これからは、人間と鬼が共存していくってことですか」
「いや、知性のある種同士は共存できんよ、いずれは弱いほうが、つまりは人間が駆逐される、奴隷になるだろう。それにな、佳奈、角のある鬼は人を喰らう」

店の扉が開く。店に戻ったあさぎの前に老紳士が笑みを浮かべた。
「先生はご在宅かね」
「あの、お父さんは留守です」
老紳士があざけるような笑みを頬に浮かべた。
「ふん、ホム・・・」
「どっからわいてきた、爺さん」
一瞬で、幸はあさぎの前に立ちはだかると、神崎を睨みつけた。
「お前、あのじゃじゃ馬か」
「おうさ、ガキになっても力は変わらねぇ。棺おけ、両足突っ込みたくなければ、さっさと消えな」
「なにでそうなったかは知らんが、目上のものに敬意を払うことが出来ん頭にはその体が似合っとるな」
「目上の自覚あるなら、早く引退して、後進のものに場所譲ってやりな、後が腐ってるぜ」

「神崎さん」
外から戻って来たあかねが溜息交じりに声をかけた。
「相変わらず水と油ですねぇ」
「これは鬼紙老のお嬢様ではありませんか。こんな女のいるところに近づいてはなりません、汚れますぞ」
「あの、ここで暮らしていますから」
「なんと、嘆かわしい。私めに力がございましたら、あのような女、梱包して、ごみ捨て置き場にでも送ってやりますものを」
大袈裟に神崎が泣きまねをする。
「あの、そういうのいいですから。ご用件は」
「おおっ、そうでした。ぜひ、先生にお目通り願いたくまかりこしましたところ、あの女が・・・」
「その続きはいいです。先生は旅に出ていらっしゃいます、連絡も取れませんし、いつ、お戻りになるかもわかりませんが、かなり、長い旅になるとのことでした」
神崎はまともに落胆したように肩を落としたが、すぐに気持ちを切り替えたのか、顔を上げた。
その様子を見て、あかねが言った。
「白澤さんに相談なさるのは難しいですよ、本家当主より、座敷牢に幽閉されています」
神崎が老獪な笑みを浮かべた。
「それは蛇の道、本家の御坊は金勘定は得手でございますが、術は不案内でございますからな。いくらでも抜け穴がございます」
神崎はあかねに深々と頭を下げた。
「それでは、お嬢様。神崎はこれにて失礼いたします」
「無理なさいませぬように」
「なんとお優しい言葉。何処かのガキに聞かせてやりたいものですな。それでは」

神崎が姿を消す、ほっとあかねは吐息を漏らすと。幸に笑みを浮かべた。
「幸姉さん、あいかわらずだなぁ」
幸は、にひひと笑うと、お煎餅一枚取り出して、あかねに差しださした。あかねが顔を寄せ、お煎餅を半分かじる。
「大人の分別が足りないのはしょうがない。幸は子供ですもの」
残った半分を幸は食べると、にっと笑った。

なよは刺し身を一切れ取ると山葵を載せ口に運ぶ、っつ・・・、つんと香る芳香の余韻を楽しむ。
「旨いのぉ、最高じゃ。佳奈、ありがとう」
「面白い人だね、なよさんは」
「ん」
「嬉しい時は子供みたいに嬉しい顔をする」
「そうかのう、わしは大人の女として、影も色気もあるぞ」
「でも、なよさんは、なにか食べている時は子供ですよ。子供がお菓子をほお張っているのと、同じ顔だ」
なよは楽しそうに笑った。
「わしは一国の主として、小さいながら国を統治していた。楽しいことももちろんあったが、常に重責が肩にあった。いまは、一人の存在として家族や友と語らうことができる。それに、悩めば相談することも出来る、ほんにそれがありがたいのだ」
「でも、これから大変な時代が来るかも知れない」
「人が鬼を受け入れるかどうか、それが人のこれからを大きく左右する。特に人の男が大変なことになるであろうな」
なよは、ふと笑みを消すと、両腕を組む。
「どういうことです」
なよは微かに息を漏らす。そして視線を上げた。
「インドのカースト制と同じく、角のある鬼の身分階級は絶対じゃ。純潔の鬼、混じりものの鬼、どれほど混じっているかで変わるのだ」
「まじりもの」
「あぁ、親が両方、角のある鬼であるか、片方だけかによって変わって来る。ただ、角のある鬼の女は数がかなり少ない。鬼は領土と共に人の女を欲しておるのだろう」
「なよさん」
「ん」
「その理屈だと、人は最下層になってしまう。でも、あたしはね、鬼の顔色うかがって生きるのは嫌だし、自分の子供にも虐げられた辛い思いはさせたくないよ。さて、何をどうすればいいのかな」
佳奈が少し俯き考える。
なよは少し安心したように笑みを浮かべた。

「いらっしゃいませ」
三毛があたふたとコップに水をいれ、テーブルに置いた。近所に住む女性、篠石聖子、常連だ。
いま、お店はあさぎと三毛の二人。三毛は学校を休んでいた。
「おや、三毛ちゃん、学校いいのかい」
「出席日数は足りていますから、大丈夫です」
「困った子だねぇ、困った、困った」
くすぐったそうに笑う。
「まっ、三毛ちゃんが居てくれると楽しいんだけどね」
篠石聖子、四十代主婦、週に二回、自宅で小学生に算数と英語を教えている。
三毛は自然に篠石の隣りに座る。
「篠石さんは学校休んだことなかったの」
「そうだねぇ。三日くらい、風邪で休んだことがあったかな。学校、楽しかったからね」
「ふぅん。三毛はね、家にいる方が楽しいよ。あさぎ姉さんやなよ姉さんや小夜乃ちゃんとお喋りするの、とっても楽しいもの。それに、篠石さんのお喋りも楽しいんだ」
「はは、それはありがとう。そうだ、注文まだだった。いつものウインナー珈琲お願い」
「うん。あさぎ姉さんに言ってくる」
三毛は椅子から降りると、厨房へと走って行った。
篠石は、たまたま、立ち寄ったこの喫茶店が不思議なほど気に入っていた。あぁ、疲れたなと思った時、ふっと立ち寄る、防音がしっかりしているのだろう、戸を閉めた途端、外からの音は消え、逃げ込んで来た、そんな気がする。そう、まるでシェルターに逃げ込んで来た、そんな安心感があるのだ。
三毛が笑みを満辺に浮かべて戻って来た。両手にケーキの載ったお皿を一皿ずつ持っている。
「篠石さん、ケーキ食べよう、あさぎ姉さんの試作ケーキ」
一センチ幅に切ったブロックケーキを七枚、斜めに寝かせて、これはメイプルシロップだろうか、浸した上に、細くクリームで文字が書いてある。そして、となりに苺が添えてある。
「本格的だねぇ、なんて書いてあるのかな。おいしいよって書いてある」
「あさぎ姉さんのケーキだもの、とっても美味しいよ」
あさぎがウィンナー珈琲を運んできた。
「いらっしゃいませ、篠石さん」
あさぎを珈琲をケーキの隣りに置くと、三毛のお皿の横にもディーカップを置いた。
「三毛ちゃんは紅茶。アールグレイ」
「ありがとう、あさぎ姉さん」

佳奈が帰った後、あかねは、なよに話しかけていた。
「報告は以上です」
「なんと、誰も止めることは出来なかったか」
なよは悲痛な顔で微かに俯いた。
「この国の男どもはひ弱すぎる。これ程の平和、奇跡であるのにのう」
「なよ姉さん、どうします」
なよは顔を上げると、呟いた。
「この国はこの国の者が育てていかねばならん、と言うて、傍観を決め込めば、先は見えておる。わしは佳奈が嘆くのを見とうない」
「なら、ちょっと賑やかなことしよう」
ふわっと幸が現れ、なよに笑みを浮かべた。
「幸、何をする気じゃ」
「ちょっとした遊びさ。そうだ、黒を連れて行こう、いろんなこと、あの子に経験させなきゃ。あかねちゃんもいいかな」
「はい、ついて行きます」
あかねが即答した。
ふと、なよが考え込む。
「幸とあかねと黒か。万が一、ここの護りはどうする。そうそうは攻めては来ぬだろうが」
幸は髪の毛を一本抜くと、なよの手首に巻き付けた。すっと、髪の毛がなよの手首に溶け込み消えた。
「これで、なよ姉さんもここを護ることができる。そうだ、なよ姉さん、刀帯儀、あれ教えてくれ。術を教えっこしよう」
「術をか」
「うん、お父さん、言ってた。幸の足りないのは術の繊細さかなって。あれ、細かいんだろう」
「幸、お前は天才じゃからな。細かいところを飛ばしても、形になる。じゃが、精密に組み立てれば、わしの想像できない刀帯儀ができるかもしれんな。幸は何をわしに教えるつもりじゃ」
幸はふと考えたが、顔を上げ、なよを瞬きせずに見つめた。
「いまさら、遅いかもだけど、遠見を教えよう」
幸は人差し指を天に向けた。
「人工衛星くらいなら、触れるくらい近くに見ることができる」
「いいな、教えてくれ」
なよがほんの少し、笑みを浮かべた。

小夜野は川のほとりでうずくまっていた。呆然とした表情でいる。自然と涙がこぼれてくる。なよ母さまになんと言おう、声を押し殺し泣く。
ケーキを食べた後、三毛が全速で川面を駆けていた。お父さんならもっと速く水の上を走る、もっと速く、もっと静かに。いったい、どう体を動かしているのだろう、もう少しでわかるような気がするんだ。
泣いている。
三毛は跳ね上がり、川の辺に急停止した。
「小夜野ちゃん、どうしたの」
三毛は小夜野の後ろに立つと、そっと話しかけた。
「なんでも・・・」
なんでもないと言いかけて、小夜野が口を閉ざした。そして、決心したように振り返る。
一瞬、三毛は目を見開いたが、ぐっと息を呑むと、平静を装う。
ぎゅっと目を瞑り、少し俯く小夜野の額には二センチほどの角が一本生えていた。
「小夜野はなよ母さまに嫌われます。ここも出て行かねばなりません」
閉じた両目からつらつらと涙がこぼれる。
三毛は力強く小夜野を抱きしめると頬を寄せた。
「大丈夫、信じて」
小夜野の膝が崩れ、三毛は小夜野を抱きしめたまま、膝をついた。
「幸母さんを呼ぶよ」
小夜野が微かにうなずいた。
三毛が悲鳴を上げる、
「母さぁん」
三毛の叫ぶ声が響いた。
一瞬で幸は三毛の横に現れる、
「どうした、三毛。小夜野ちゃん」
「母さん、小夜野ちゃんを助けて」
三毛が涙を流し叫んだ。
幸は瞬時に事情を把握した。小夜野の前に座ると、角に触れる。確かに額の骨から出ている。
「首から下を再生したとき、人と組成が少し違うと思ったんだけど、こういうことだったのか」
「三毛、ガーゼと消毒薬と紙テープだ」
「はいっ」
三毛が家へと駆ける。
幸がすっと人差し指で角を払う。すとんと角が根元から取れて、幸の手のひらに転がった。
戻ってきた三毛が、小夜野の額を消毒をし、ガーゼを当て、テープで留める。
幸は落ち着いた声で、小夜野に話しかけた。
「小夜野ちゃん、角の生成組織はただのカルシウムだ。爪や髪の毛が伸びれば切るのと同じように、切ればいい。もっとも、骨は硬いからさ、切りにくいけどな」
幸は背を伸ばし、小夜野を抱きしめると、耳元で囁いた。
「なよ姉さんは小夜野の母さんだ。なよ母さんを信じてやってくれ」
幸がそっと笑みを浮かべた。そして、手を離し振り返る。
なよがいたずらげににっと笑った。
「来い、小夜乃」
なよがゆっくりと歩きだす。小夜乃が泳ぐように駆け出した。ばふっと小夜乃がなよにしがみつく。
「なよ母様、ごめんなさい」
「謝る必要が何処にある、小夜乃はわしの大切な娘じゃ」
しっかりとなよは小夜乃を抱きしめた。

夜半、皆が寝静まった頃、幸はそっと起き出すと、男の部屋に入る、そして、明かりをつけないまま、男のいつも座っていた椅子に腰掛けた。月の明かりが窓から流れ込み、部屋の中を白く照らす。
「お父さん、ちゃんと帰ってくるよね、約束したもの、ね」
幸は呟くと、視線を落とす。
幸は毎晩、皆が寝静まった頃、男の部屋で少しの時間を過ごしていた。
ふと気配を感じ、幸は顔を上げると、袖で涙を拭った。
「いいよ、なよ姉さん」
幸が声をかけると、襖が開き、なよが部屋に入ってきた。なよは手に持っていた掛布を幸の背に被せる、
「風邪をひくぞ」
「ありがと、なよ姉さん」
「昼間はすまなかったな」
「どう致しまして」
幸は笑みを浮かべると、なよをもう一つ、椅子に座らせる。
「いい月じゃな」
窓から覗く月は大きく輝いていた。
「なよ姉さんは月に帰りたいと思ったことはないの」
「話してなかったな。わしは反乱を起こして、放逐された身じゃ。時間が経ち過ぎた、縁ある者も、もうおらんじゃろう。昔はともかく、今は眺めるだけで充分じゃな」
「なよ姉さんも変わった人生を送ってきた人だ」
「お互い様じゃ」
なよは呟くと、視線を幸に戻した。
「すまなかったな。小夜乃のこと、あらかじめ伝えてくれて。いきなり角のことを知ったら、わしはうまく言えなかったじゃろう。ほんに助かった」
幸は笑みを浮かべ、そっと俯く。
「幸せを護りたいから。なよ姉さんと小夜野ちゃんがいなくなったら、ここは幸せでなくなってしまうもの」
「ありがたいことじゃよ」
なよはそっと目を瞑り、背中を椅子の背もたれに預けた。
「初めてあった時、幸に恐ろしいほど睨まれたのを思い出す。しかし、まぁ、考えてみれば、今の状況、あかねを後継者にしたてようとしておったのが、今では末の妹になっておる。概ね、望んだようになったのかもしれん」
「思い出したよ。なよ姉さん、首の傷は大丈夫」
「あやうく、首を刎ねられるところじゃったな。鬼紙の刀に」
なよは声を殺して笑うと、首をさすった。
「死にはせんが、泣きそうになるほど痛かったのう。帰ってから大変じゃった。痛くても泣き顔ひとつ見せられん。為政者としてな、無敵を演じ続けるのは大変じゃった」
「一緒に暮らしていく中で、なよ姉さんの顔、随分、優しくなった」
「あぁ、少々腑抜けすぎたかもしれん」
なよは声を殺して笑うと、改めて、幸を見つめた。
「すまなかったな、その姿」
「ううん、幸がお父さんにしたことを考えれば、その代償として受け入れなければならないし、結果として、お父さん、生きることを選んでくれた。だから、嬉しいんだ」
ふと、幸は顔を上げ、襖を眺めた。
「いいよ、黒。入っておいで」
幸が声を掛けると、ゆっくりと黒が襖を開け、部屋に入ってきた。
「幸母さん。明日、大丈夫かなぁ」
少し心細げに黒が呟く。
「心配で、眠れないのか」
「うん」
「大丈夫だ。案外、上手くいくもんだよ」
黒は小さく吐息を漏らすと、幸の頭をそっと撫でる。
「母さん、三毛よりも小さくなって、妹みたいだもの。なんだかなぁ」
黒は椅子に座る幸の手前に正座した。そうすると、視線が重なる。
「母さん、元に戻れないの」
「十年で戻るよ、それまでの辛抱だ」
なよは小さく笑うと、黒に声を掛けた。
「黒。幸がこうなったのはわしのせいでもある。わしも幸を元に戻すことはできんが、お前の気分くらいは変えてやろう」
なよは黒の後ろに立つと、右手のひらを黒の首筋に当てた。
「どうじゃ、温かくなってきたろう」
「とっても暖かい」
「陰から陽への転換じゃ。黒、お前には力がある。明日は思いっきり働け。幸い、幸い、幸い」
なよは手を離すと、軽く黒の肩を払った。
「なよ姉さん、なんだか、楽しい気分になってきた」
「黒。良い夢を見て眠れ」
黒は安心したように笑みを浮かべると、立ち上がった。
「幸母さん、お休み。なよ姉さんもお休みなさい
黒は入ってきたときと別人のように、朗らかに部屋を出て行った。
「黒は単純だなぁ」
溜息混じりに幸が笑った。
「ただの暗示であれだけ元気になれば上等じゃ」
なよは襖に手を掛け振り向いた。
「わしも寝るよ。幸も早く寝ろ」
「うん、もうちょっとしたら寝るよ」
なよはうなずくと部屋を出て行った。幸が壁を見上げる、男と幸が真ん中に写る集合写真だ。
「お父さん、幸を幸せにしてくれてありがとう。これからは幸がお父さんを幸せにしてあげるよ。だって、お父さんが幸せなら、幸はとっても楽しいんだもの」


闇の中、スポットライトが照らす、中肉中背の一人の男。少々、貧相な顔立ちだが、身につけている背広は最高級品だ、彼こそはこの国の現在の首相である。
「国民の皆様、ほぼ、全員がこの番組を視聴してくださっていることでしょう」
首相はポケットからハンカチを取り出すと、額の汗を拭った。微かにもう片方の手が振るえている。極度の緊張状態に彼はあった。三台のテレビカメラの内、中央のカメラが彼を捉えている。彼は泣いているとも笑っているともつかない複雑な表情を浮かべている。暗闇の中で、姿は見えないが主要な報道メディアが居並んでいた。
首相は喉が渇いたのか、掠れた声でゆっくりとマイクに語りかけた。
「国民の皆様には、あまりにも突然のことで、ご理解いただくのに時間がかかるかも知れません。しかし、いま、これがこの国で起こった真実です」
秘書官の一人が、コップに水を入れ、届けた。首相は、ごくっと飲むと、意を決して声を上げた。
「ただいま、日本は鬼に占領され、植民地と化しました。日本国憲法、民主主義は完全停止いたしました」
一瞬にして、明かりがともり、白い光が煌々と辺りを照らしあげた。晩餐会、沢山のテーブルに贅をこらした料理が並べられ、シャンパングラスを手にした鬼達が百は下らないだろう、お互い笑いあい、乾杯の声を合図にグラスのシャンパンを飲み干した。
新聞社だろうか、カメラのフラッシュが眩く鬼達を照らし上げる。
ゆっくりと中央にいた、二メートルあるだろう、堂々とした鬼が一人、首相の元へ近づくと、その肩に手をやり、声を上げて笑った。
その身長差は、確実に人と鬼の力関係を明示していた。
額に二十センチはあるかという角を二本生やし、牙が少し覗く。身なりは人の背広をそのまま大きく仕立て上げたもので、首から下だけを見れば、背の高い紳士であった。
「日本国民の皆様、私が鬼の本国より遣わされました進駐軍最高責任者、高園童子です。皆様、突然のことに驚かれたのではありませんか」
かなりの美男である。高園童子にとっては、その角も牙も、却って、野生を思わせる逞しさと魅力を示すものとなっていた。テレビに向かう女性の多くが、魅惑されただろう。
「鬼は想像上の生物、昔話の中だけのもの。ほとんどの人たちがそのように思われていたことでしょう。しかし、違います、我々鬼は違う世界に住む人間です。国同士が戦い、領土を広げるように我々はこの国を征服いたしました。幸いにも、彼、この国の首相を始め、政治家、官僚、経済人の多くの理解により、争うことなく、統治権を禅譲していただいたこと、感謝いたします」
ぽんぽんと高園童子が首相の肩を叩いた。
ぎくっと首相の顔が一瞬、強張ったが、無理に笑みを浮かべると頷いた。
「我々、与党はもちろん、野党の方々も了承いたしまして・・・」
押し出されるように、与野党の歴々が高園童子と首相の後ろへと立つ。一斉にシャッター音と共にフラッシュが瞬いた。
ばつの悪そうな政治家の、テレビで見慣れた顔が並ぶ。
高園童子は一歩前に踏み出すと、マイクを片手に見渡した。
「我々、鬼族は君主制であるため、日本国の民主制を停止いたしました。しかし、考えてみてください、今までの社会が果たして、民主主義と言えたかどうか。そして、こうは考えたことはありませんか。国民を大切に思う一人の王が社会を統治する方が暮らしが良くなるのではと。約束いたしましょう、国民皆様の生活が大きく変わることはありません、単純に税金の納付先が変わるだけのこと、いや、民主主義では不可能であった、多くの無駄を排することで、より、快適な生活を送ることができるようになります。
そういう意味では、我々は皆様を解放させるためにやってきた救世主とも云うことができるのかもしれません」
高園童子は一気にまくし立てると、万遍の笑みを浮かべた。
シャンパンを飲み干し、高園童子は背を向け後ろに戻ると、グラスをテーブルに置いた。それを合図に、鬼達の会食が和やかに始まった。首相をはじめとした政治家達は直立不動のままだ。
自衛隊の制服組だろう、一人、ファイルを片手に中央へ歩み寄ると、政治家達を無視したまま、中央に陣取った。
「まずは高園童子様、我が国の統治者となられましたこと、自衛隊の総意といたしまして、強く歓迎いたします」
自衛官は高園童子に向き直ると深く一礼した。高園童子が片手を軽く挙げ、鷹揚に頷く。
再び、向き直ると、自衛官はファイルを開き、言葉を発した。
「ここに重大な発表を行います。私達が鯨を食することを食文化とする、それと同様に、鬼の皆様に置かれましては、私達、人を食する文化があり、統治する上で、これは避けて通れない道であります。しかし、高園童子様の御英断により、私達に危害を加えようとする一部の鬼様を厳罰に処することを快く決定していただきました。ただ、諸般鑑みまして、国民の中から、毎月百人を選び出し、人身御供として、鬼様に提供させていただくことに政府は決定いたしました。これは、鬼様の要求ではなく、私達、人の側からの統治していただく感謝の意味でご提案させていただきましたもので、高園童子様は辞退されましたが、再度の、私達たっての希望を受け入れてくださり、ここにいたる所存にございます」
自衛官は再び、カメラに背を向けると、高園童子に深く一礼をした。
話はできているのだろう、高園童子はゆったりと前に歩み出ると、自衛官の隣りに立つ。
「この大きな理解に感謝し、我々はこの国を慈悲深く統治してまいりますことをお約束いたしましょう」
深々とお辞儀をする、それをきっかけに明かりが消える、スポットライトが、戸惑い、惚けたように口を開けた記者達を照らし出す、いや、その中から現れた静々と歩く美少女だ。美しく深い蒼のドレスを身に纏った少女が両手に一杯の花束を抱え、そして、その後ろをまた、一人の美しい女性が歩く。
もう一つのスポットライトが高園童子を照らし出す。
「これはまた、にくい演出ですなぁ」
高園童子の声をマイクが拾う。
蒼の少女は高園童子の前にやってくると、典雅にお辞儀をし、花束を高園童子に差し出した。すべての照明が灯され、真昼の明るさになる。高園童子が腰を落とし、花束を受け取ろうとした瞬間、後ろの女性が少女を抱え上げた。
「お父さんを返せ」
少女は叫ぶと、花束を高園童子に思いっきり打ち下ろした。無数の花びらが舞い上がる。
「お母さんを返せ、お兄ちゃんを返せ。人殺し」
二度、三度、打ち振るう少女の顔がテレビに大きく映し出される。類まれな美少女の涙と叫びが画面いっぱいに映し出された。その後ろで、政治家達が腰を抜かし、おろおろとよろめきながら逃げ出す。
「なんだぁ、このガキは」
牙をむき出しにした高園童子が幸のドレス、その背中を掴み、軽々と持ち上げ、にたぁっと笑った。
「奴らの頼みで始めた面白半分の茶番もしまいだ。ほぉ、なんて、細くて白い、美味そうな首だ、喉元食いちぎって、その血も飲み干してやろう」
高園童子がカメラに向き直った。
「早い話はこうなんだよ。お前ら人間は俺達の食い物なのさ」
どすん、大きな破壊音が響いた。中央のカメラがひしゃげ粉々に粉砕されていた。腕を組み、にっと笑うあかねの姿があった。残った、二つのカメラも、一瞬であかねが打ち砕く。
自在、幸の後ろを歩いていた黒が呟く、その両手に銀の筒が現れた。
幸は掴まれたまま、残った花束を投げ離すと、高園童子の額を手のひらで撫でた。
「鬼さん、男前になったぜ。感謝してくれよ」
幸の右手のひらには高園童子の角が二本、幸は飛び降りると、その角を床に叩きつけ、踏み抜いた。角が粉々になる。
「な、なんだ、こいつは」
高園童子が幸を殴りつける、瞬間、幸はその拳に右手を触れ、回転する、高園童子が逆に投げ飛ばされ、大理石の床に激突した。
「黒、思いっきり動け」
「はい」
大挙して押し寄せる鬼、鬼、鬼。
黒は鬼に向かって飛び出した。
幸は倒れた高園童子の元に走り寄ると、その耳に囁き始めた。
あかねは満足そうに大きく息を吸うと、呟く。
「こういうの、楽しいなぁ。最高だ」
「何者だ、高園童子様に失礼を働くとは」
演説をした自衛官があかねに掴みかかった。
あかねは飛び上がり、自衛官の右頬に右手の甲を添えた。無造作ともいえるくらいの柔らかな動きでその手を下に落とす。自衛官が空中で一転し、背中から思いっきり落ちた。
「つまりは食物連鎖、二番目は嫌だ、それだけのこと」
あかねは囁くと、黒の元へ駆け寄った。
依然とは見違える黒の動きだった。次々と鬼が黒の自在になぎ払われていく。いや、黒には自在で相手を打つ、払うという気持ちはまったくなかった。空中の、ちょうどいい場所に自在を置いている、そうすると、勝手に鬼達が倒れていく、そんな気分で自在を動かしていく。
「黒さん、良い動きです。見事ですよ」
「あかねちゃん、ありがとう」
あかねはにっと笑うと、青龍刀のような長大な刀を横なぎに振るう鬼、二人が腰を落とす、頭の上を刃がかすめ抜ける、あかねは瞬間、その青龍刀を握る拳を角度を変えて押す、刀を振るう鬼の首がすとんと落ちた。弾ける鬼の血、辺りは鬼の地で深紅になったが、二人はすばやく避け、一滴の血も付かずにやり過ごした。
「あかねちゃん、ひどいよ」
「何言っているんですか。刀を振るう以上は己が斬られる覚悟はしなければなりません。さて、遊び足りなくはありますが、引き時ですかね」
あかねが平気な顔をして、出入り口を探した。
新たな一行がやってきた。
「あれは、白澤おばあさん」
黒が驚いて叫んだ。
幸は黒の横に現れると笑みを浮かべた。
「良い動きだった、黒。それじゃ、帰ろうか」
「幸母さん、白澤おばあさんが」
「いいよ。手柄は本家に譲るさ。ま、手柄と言い切れるかは、ばあさんと当主の喋りにかかっているけどな。ま、如才なくことをすませるだろう」
三人の姿がふっと消えた。

椿は思いっきり走っていた。
間違いない、あれは黒様だ。凄い綺麗な女の子の後ろにいた、あの涼しげな眼差し、絶対、憧れの黒様だ。
いてもたってもいられず、椿は覚えている白の家へと走った。
あの角を曲がれば、白さんの家だ。
「止まれ」
怒声が響いた。
椿が硬直する、警官の服装をした鬼が立ちはだかっていた。
「立ち入り禁止だ、戻れ」
「え、鬼・・・」
ぎゅっと椿は唇を結んだ。
「なんだ、美味そうな娘だな」
鬼の口元からたらたらと涎がこぼれた。
「少し腹ごしらえでもするか」
ふわっと、椿の頭の上を風が流れた。
「よっ、ごめんよ」
頭の上で、声が聞こえた気がした。
鋭い蹴りが鬼の顔面に突き刺さったのを見た。
倒れた鬼の上に着地する女、啓子だった。
振り返ると、啓子がにっと笑った。
「あんた、幸ちゃんちの知り合いかい」
「は、はい。白さんの同級生です」
「で、テレビを見てやってきたというわけだ」
こくこくと椿が頷く。
「私もだよ。ん、今更、一人で戻るのも危険だな。あんたの家まで送ってあげるよ」
椿が思いっきり顔を横に振った。
啓子は困ったように笑う。
「妙な奴ばかりが集まってくるんだなぁ。一緒に来るか」
椿は万遍の笑みを浮かべて、
「はいっ」
と答えた。

低級鬼、自我が少ないため、個であると同時に全体でもある。いわば、戦闘にのみ特化した鬼だ。
二人が角を曲がったとき、うっ・・・、椿が息を飲んだ。
死屍累々、見上げるほどの大きさだったはず、数え切れないほどの鬼が打ち据えられ、切り刻まれ、倒れていた。地面が見えないほどの数だ。そして、中央に浮かぶのは、なよ。
幾本もの刃帯儀が、ゆらゆらと蠢いていた。
「なよちゃん、お疲れ様」
「なんじゃ、啓子。来るならもっと早く来い。さすれば、お前にも働かせたものを」
「さすがに、これは勘弁してください」
素直に啓子が頭を下げる。なよは、近づくと、椿を見た。
「お前は}
「は、はいっ。あの、津崎椿です。白さんとは、な、仲良くさせていただきまして」
「わしは白の叔母じゃ、なよという。追い返すわけにも行くまい、来い」
「ありがとうございます」
椿はなよの威厳に怯えたが、決して悪い人ではないと感じた。
家に戻ると、白が驚いて椿を見つめた。
「ごめん、来ちゃった」
ばつが悪そうに椿が言いよどむ。
「あ、あの。ようこそ」
自分の友人が家に来るのは始めてである。白はどきまきしていた。緊張を解くようにあさぎが声をかける、
「ケーキと紅茶、用意したよ」
白はほっとすると、椿に微笑んだ。
啓子が辺りを見回して言った。
「ところで、幸ちゃん達は」
なよは視線を少し上げると、三人のいるだろう方向を見つめる。
「なにやら、中華料理店で持ち帰りを注文しておる。半時間ほどで戻るであろう、暢気な奴らじゃ」
なよはあきれたように言うと、ふと気が付いたように袖を匂う。
「血がつかんようにと思うておったが、匂いがあるな。風呂に入る、三毛、湯船に水を入れてくれ。わしは火を起こそう」
「うん、手伝うよ。小夜野ちゃん、手伝って」
「はい」
三毛と小夜野が風呂の用意をと部屋を出る。なよは元気になった小夜野を見て、そっと笑みを浮かべた。


「幸母さん」
「ん」
幸とあかねと黒、迎賓館近くの中華茶房にて、お持ち帰りの料理が出来上がるのを待っていた。かなりの名店である、幸が一度、こういう店の料理を食べてみようと言い出したのだ。
三人、テーブルについて、料理を待つ。
「ここ、お持ち帰りなんて出来ないお店じゃないかなぁ」
「受付の人、奥で訊いてくるって、一度、厨房に入りましたものね」
あかねが気楽そうに言った。
「結果として用意するって言うんだからいいんじゃないかな」
黒が不安げに回りを見渡す。客は幸達だけだ。
放送のため、開店休業状態だったのだ。
「仕入れたお肉や野菜を無駄にするのももったいないだろうし、ちょうど良い客じゃないのかな。それに、ほら、カンフー服、中華っぽくていいよな」
幸が笑った。
幸とあかねは黒のカンフー服である、黒だけがベージュの普段着を着ていた。
「あかねちゃんまで」
黒が溜息をつく。
「本当に動きやすいんですよ。街に放たれた鬼もまだ多いですからね、いつでも動けるようにしておかなきゃ。でも、見栄えは、黒さんのドレス姿での立ち回り姿、良かったですよ。特にドレスの裾が少しはだけて、それをぎゅっと押さえた、恥じらう顔。テレビカメラを潰すの、早すぎましたね」
あかねが笑った。
「あかねちゃんはおっさんだよ」
黒が顔を赤らめて言った。
ドアの開く音。一人の女性が店に入って来た。三十代初めくらいの美しい女だ。
遠慮なく、女は幸達のテーブル、空いた椅子に座った。
パンツルック、足の長さが強調されていた。
「あれからどうなった」
幸がにっと笑った。
「鬼は一カ所に集め拘束した。近く、鬼の世界へ強制送還する。放たれた鬼共は、本家が中心になって捕捉、これも強制送還だ」
「殺さないのか、本家はやさしいな。で、道はどうする」
「閉ざす技術がない。当分は見張りを立てる」
「人と鬼の世界とを繋げる道が出来上がったことが、鬼の大量移入を可能にした。これは人の創りだしたものだよ」
幸は答えると、コップの水を少し口に含む。
「いろんな考えの奴がいるってことだ」
幸はそう呟くと、口を閉ざした。
「幸。お前、高園童子をどうした」
女が少し詰問口調になる。
「そういえば、幸母さん、倒した鬼の耳元で何か言っていたよね」
「何をしているのかなって、あかねも気になりましたけど」
幸が、子供の姿には不似合いすぎる不気味な笑みを浮かべる。
「悪口を言った」
「悪口くらいで、あんなふうになるか。石のように固まってしまって、植物人間、いや、植物鬼だ」
あかねが深く溜息をついた。幸に狂いそうになる幻覚を見せられたことを思い出したのだ。
黒がおずおずという。
「あのね、幸母さん。今更、聞きずらいんだけど・・・」
「なんだ、黒」
「この人、誰だっけ」
横目で申し訳なさそうに、女を見る。
「全ては固有の振動数を持つ、だからね、白澤のばあさんは、姿が変わっても母さんが幸だと認識した。・・・ってことだよ」
くすぐったそうに、幸が笑った。
「こらっ」
すこんと女が黒の頭を叩いた。
「わかってなかったのか、情けない」
「ごめんなさい」
あかねも実はわかっていなかったのだが、ここでそれをいうのは避けようと大人の判断をする。努めて平静を装った。
「黒。白澤九尾猫の本当の姿は、この姿に尻尾を九本生やした姿だ。能力全開すると、こういう姿になる。母さんもこの姿を見るのは以前、戦ったとき以来だよ」
「幸」
白澤が幸を睨む。
「もう一度、戦うか。まだ、勝負はついていなかったからな」
「お父さんに叱られるからやめておく」
幸があっさりと答えたとき、店員達が料理を入れた持ち帰り袋を抱えてやってきた。
三人、料理の袋を抱えて、立ち上がった。
「幸」
白澤が声をかける。
「支払いは本家がしてやる」
「それは口止め料と考えていいのか」
「そういうことだ」
「ありがとう、実は請求書を見てびびったんだ。黒、あかねちゃん、今回の鬼退治、活躍したのは本家だ。鬼に殺されそうになった幸は、本家に助けていただいた。いいね、そういうことで」
二人が頷く。
「白澤さん、助けてくれてありがとう」
幸はそういうと、二人をうながし店を出る。
白澤がぱんと手を叩く。慌てて、受け付けがとんで来た。
「酒のメニューを持ってこい」
怒気を孕んだ白澤の声に怯え、慌ててメニュを用意し手渡した。
歯軋りの音が聞こえるようだ。しかし、白澤は大きく吐息を漏らすと、二度三度と大きく息をする。
「なめやがって。酒でも飲んで帰るさ。今日は貸切だ」

幸は両手に中華持ち帰りの袋を持ったまま、立ち止まった。
「こっちだ」
幸が呟くと細い路地に入る。両側がビルの壁で、辺りに人目はない。
「黒、あかねちゃん。先に帰っていてくれ。母さん、ちょっとさ、用事を済ませて帰るよ」
一つずつ、黒とあかねに袋を預けると、幸は片手で大きく円を描く、空間が切れ、あさぎの居る店の中が目の前にあった。
「うわ、どうしたの。幸」
幸があさぎに、ちょっといたずらげに笑みを浮かべた。
「あさぎ姉さん、いっぱいの荷物なんだ。歩くの面倒だから、空間が繋いじゃった」

「母さん、早く帰ってこなきゃだめだよ」
振り返りながら、黒が心配そうに言った。
「大丈夫。すぐに帰るよ」
「幸姉さん、手伝うことはありますか」
「たいしたことじゃないよ。ただ、家から出ないように。それは絶対だよ」
幸は二人を円の中に送り、空間を閉ざした。

吐息を漏らす。
幸乃が幸の頭を優しく撫でていた。
「ね、幸乃さん」
「ん」
「お父さん、探しに行くの、だめかな」
幸乃は幸の前でしゃがむとそっと笑いかけた。
「それはお父様が望まないことです」
「でも、でも。お父さん、きっと寂しいよ。お腹も減っているよ、寒くて凍えているよ」
幸乃は幸をぎゅっと抱き締める。
「幸の言う通りかもしれない。でも、辛さに耐え我慢しなさい」
幸が小さく呟く。
「ありがと、幸乃さん」
「どう致しまして」
幸乃はいとおしそうに幸を見つめると、幸の中へと戻って行った。幸が顔を上げ、唇をかむ。

幸は家の前の道路に広がる鬼の切り刻まれた死体が埋め尽くすのを静かに眺めた。
「国もそれどころではないということだろう。国会議事堂の前にでも積んでおいてやるかな」
幸の呟きに呼応するように、埋め尽くされていた鬼の死体が消えて行く。跡形もなく消え去った後、一人の老婆がまっすぐに背を伸ばし、幸を睨んでいた。
片手に薙刀、巫女の姿だ。
幸は柔らかな笑みを浮かべると、歩きだし、老婆の手前、薙刀ぎりぎりの間合いに立つ。
「こんにちは。私はこの家の者ですけど、なにか、御用でしょうか」
「孫を返してもらいに来た」
老婆が汚れたモノを見るような目で幸を睨む。幸は気にするでもなく、家の方角を眺める。
「白の友達が来ているのか。確か椿ちゃんとか言ったな」
幸は老婆に向き直ると興味深そうに笑う。
「津崎椿ちゃんの御祖母様ですか」
老婆が薙刀を右下段に構えた。
「津神流薙刀術、津崎かなめ。猫又に孫をくれてやるわけにはいかん」
幸は興味深そうに笑みを浮かべると、無造作に半歩進んだ。
「対人だけでなく、鬼や魔物とも闘う薙刀術と聞いたことがあります。椿ちゃんはうちの白と随分気が合うようですけど、縁があるのかもしれませんね」
一瞬、津崎かなめは大きく一歩後退した。これ以上、幸に近づくのは危険と体が反応したのだ。
「確かに白は元は猫かも知れません。でも、人の姿に定着し、猫の姿には戻りません。これからも普通の人として生きていきますし、私も母としてあの子を良い子に育てて行きます」
幸は笑みを浮かべると、受け入れようとするように、両手を広げる。
「椿ちゃんとは、一緒に御飯を食べた後、責任を持ってお送りします。ですから、構えを解いていただけませんか」
老婆は逆に構えに力を込めた、幸の気配に体が恐怖を覚えたからだ。今まで闘ってきた相手とはまったく異質の畏怖感。
「邪魔くせぇな」
小さく、幸が呟いた。

「幸お姉ちゃん、待って。待ってください」
あかねと黒が慌てて飛び出してきた。
「だめだよ、母さん。落ち着いて」
黒が幸の右手を両手でしっかり握った。あかねも老婆との間を割って入る。
「なんだよ、黒。あかねちゃんも」
「白さんの初めてのお友達のおばあさんですよ。危害を加えてはいけません」
あかねが両手を広げて幸を制した。
「わかっているよ。ただ、・・・とかしたら、楽でいいかなぁってさ」
「口ではっきり言えないようなこと、だめだよ」
黒がぎゅっと幸の手を握り締めた。
「黒さんとドアの隙間から覗いていて正解でした。幸お姉ちゃん、あかねの御祖父さんを呼んでください」
あかねの言葉に、幸が左手を横に伸ばす。肘から先が消え、何かを掴もうとする造作。手を戻すと白い着物の一端が見え、白袴を身に纏った鬼紙老が現れた。
「なんじゃお前は。あのじゃじゃ馬女の仲間か」
あかねが驚いて鬼紙老を見つめた。
「おじいさま、そのお姿は」
鬼紙老は、あかねの顔を見て、一瞬、顔がほころびかけたが、居住まいを正し言った。
「鬼紙家は鬼を制し、人の世を護ることこそが、その存在意義。わしの時代に国が鬼に乗っ取られたなど、御先祖に申し訳ない。あとは、あかね、頼んだぞ」
「だめです、おじいさま」
あかねは鬼紙老にしがみつくと、その胸に顔を埋めた。
「あかねはおじいさまがいらっしゃらないと嫌です。離れて暮らしていても、あかねは大好きなおじいさまのことを忘れたこと、ありません」
あかねが涙に濡れた顔を上げ、じっと鬼紙老の眼を見つめる。
「あかね、なんと良い孫じゃ。わしは幸せ者じゃ」
ほろほろと感極まり鬼紙老が涙を流した。
「おや。お前は津神流ではないか」
「まさか、この場所に御老がいらっしゃいますとは」
老婆が態度を一変し、深くお辞儀をした。
幸が頃合いを見計らってあかねに声をかけた。
「お二人をお店に連れて行って、あさぎ姉さんにお茶と何か甘いものを出してもらってください」
「ありがとうございます」
一瞬、あかねは振り返ると、いたずらげに舌を少し出す。
一秒にも満たない瞬間、すぐにあかねはかいがいしく鬼紙老に肩を貸し、お店へと歩いていた。ドアに三人の姿が消えると、深く幸が溜息をついた。
「幸母さん、お疲れさま」
黒がくすぐったそうに笑う。
「あかねちゃん、凄いな」
溜息一つつき、幸が道路に座り込む。隣りに、黒が足を投げ出して座った。
「幸母さんには幸母さんの良いところがあるから、落ち込まないでください」
黒がなんだか楽しそうに笑う。
「別に落ち込んじゃいないよ。いや、こういう気分を落ち込むっていうのかな。なぁ、黒」
「ん」
「世の中には長い歴史をこらえてきたいくつもの仕組みというものがある。うまく、その仕組みを利用出来る人間は要領よくこなして行くことが出来る、母さん、そういうの、苦手っていうか、拒絶しているからな、あかねちゃんにそういうこなし方、教わってくれ」
「わかってないなぁ、幸母さんは」
黒が幸の頭をそっと撫でる。
「とっても撫でやすい高さになっちゃったね」
黒が笑った。
「黒はね、幸母さんみたいになりたいと思っている。だから、幸母さんの出来ることは黒も出来るようになりたいなぁって思う」
幸が顔を上げ、黒の眼を見た。
「そしてね、黒は、幸母さんの出来ないことは、黒も出来なくていいかなぁって思っているんだ」
「なんか、認めてくれているようで嬉しいけどさ、そんなこと、言っていると三毛に抜かされてしまうぞ」
「うん」
黒はふと真面目な顔になって幸を見つめた。
「それ、考えた。ただ、黒はね、白や三毛を護りたくて強くなりたいと思う、三毛に負けるのが嫌で強くなりたいんじゃないんだ」
幸がふっと笑みを浮かべた。
「お父さんが三人の内、黒にだけ、術を教えたのは、黒のそういうところを認めたからかもしれないな。野心があり過ぎると、身につけた術でその身を滅ぼしてしまう」
幸は立ち上がると両手でお尻をはたき、砂を払った。
「なぁ、黒」
「はい」
改まって黒は返事をすると、幸の横に立つ。幸が少し見上げた。
「破壊者にも勇者にもなる必要はない。この市井の一隅で、地味に、そして、ちょっと楽しく、みんなで助け合って生活して行ければさ、最高だと思わないか」
黒が笑みを浮かべて、言葉を繋いだ。
「あさぎ姉さんの喫茶店、これはなよ姉さんと小夜乃ちゃんが手伝う。幸母さんとあかねちゃんの畑。白がお医者さんになって隣りで開業して、三毛は看護士さん。黒は母さんの畑を手伝うよ」
「そうさ、お父さんは母さんと一緒に畑仕事してな。啓子さん達もちょくちょく遊びにきて、一緒に御飯食ったり。な、楽しいだろうな」
黒が心の底から幸せそうに笑みを浮かべた。
「殴ったり蹴ったり斬ったりするより、ずっと楽しいだろう」
「うん」
黒は満辺の笑みを浮かべ、幸を両腕で抱き上げた。
らら、らと歌いながら黒が舞う。
「こら、母さんを抱っこして良いのはお父さんだけだぞ」
「だって、幸母さん、小さくなって可愛いんだよ、喋らなければだけどね」
「それは余計だ」
幸が楽しそうに笑う。
「幸母さん」
「ん」
「黒って名前、とっても気に入っているんだ、娘にしてくれてありがとう」
「急にそんなこと言うなよ。なんか照れる」
「照れてください。これも親孝行だよ」
「黒は以外と甘え坊だな」
「長女は、ほんとはとっても甘えるのが好きなんだよ。お姉さんだから我慢してるけどさ」

がきっ、黒い気配が空気を固形化する。黒がステップを踏んだままの状態で固まってしまった。
まだ、明るかったはずの風景が闇になる。なにかとてつもなく重い気配がすべての重量を階級的に重く沈めてしまったようだ。
「幸母さん、これは」
「八割はったり、二割実力。本人は十割実力と考えている勘違い野郎の御登場だ」
幸は黒の腕の中で気楽に笑みを浮かべた。人の可聴域より低い音が響く。音、いや、言葉だ。
黒はその聴覚で、オンナと呼びかけるその音を認識した。
「幸母さん、呼んでる」
「ようだな。さて、選択肢は二つ。戦って勝つか、速効、家に戻って中華を食うか。フカヒレ、二万円、料理した奴、何考えてるんだ、もう拝ませていただきますって値段だな」
「幸母さん」
「ん」
「中華選んでも良いかなぁ」
心細げに黒が囁いた。
「奇遇だな、母さんも中華を選んびたいんだ。黒」
「はい」
「走れ」
幸が呟いた。
瞬間、家の扉が弾けたように開く。
一足飛びに黒が幸を抱きかかえたまま、飛び込んだ。背中で扉が唸りをあげて閉じる。
「お帰り、幸、黒」
なよがまったくの緊張感無しに声を掛ける。
「もうすぐ、あさぎの味見と分析が済むからな」
「え、分析」
黒が鸚鵡返しに尋ねる。
「あさぎが中華の料理を覚えてみろ。喫茶店で本格中華じゃ。それに晩飯も豪勢になるぞ」
ふぁあっと黒の顔がほころんだ。
「生きてるって幸せだ」
黒の笑顔に、なよが愉快に笑った。
「黒は面白いな」
幸が黒の腕の中で笑った。

「あ、黒様」
声に気づいた椿がやってき、玄関にいる三人を見つけた。
ふぃっと黒は表情を沈め、大人びた顔を椿に向けた。
「やぁ、椿ちゃん、来てたんだ」
「はい。あ、あの、テレビで。横顔がちょっとだけだったけど、絶対に黒様だって」
黒が静かに笑みを浮かべると、そっと、自分の唇に人差し指を当てる。
「それはね。秘密だよ」
目を輝かせ、椿がこくこくと頷いた。