遥の花 月の竹 眠るモノ 四話


男は、夕刻、茶店の窓際の席に座っていた。
珈琲をテーブルに戻し、行き交う人を眺める。
街中、まだ、日差しは残り、夕食の材料だろうか、買い物帰りらしい女性が多い。
男は会計事務所の勤めからの帰り、待ち合わせにと茶店に寄ったのだった。
幸せすぎて申し訳ない、思わず、男の口から小さく言葉が漏れた。

「よう、久しぶりだな。寺で閉じ込められて以来だ」
男がゆっくりと顔を上げた。
「どちら様でしょうか。お人違いではありませんか」
男が興味無さそうに言う。
愚円は男の前、斜すに座ると、テーブルに右肘を載せ笑った。(短編小説『異形流堰迷子は天へと落ちていく』四話より)
「冷たいなぁ、昔の仲間によ」
男は、溜息をつくと静かに言った。
「あんたとは仲間だった記憶はない。だが、仕事を邪魔された記憶ならある」
男は残った珈琲を飲むと言った。
「私は待ち合わせでね。ここで人を待っているんだ。邪魔しないでくれるかな」
「なんだ、儲け話か。なら、俺にも小遣い稼ぎさせてくれよ」
「いや、娘と待ち合わせだ」
一瞬、愚円の顔が引きつった。
「幸とか言ったな」
「あんたの口から、娘の名が出るのは、なんだか汚されたようでいやだな。まぁ、幸は四女で、これから来るのは次女だ」
愚円はほっと息を漏らしたが、おそるおそると尋ねた。
「同じばけものか」
「私の娘達をばけもの呼ばわりするな。みんな、可愛くて優しい女の子だ。さっきもね、思っていたんだ。・・・こんな私が、良い娘たちに恵まれてさ、申し訳ないくらいだってね」
「あの神殺しの魔術師とも言われた無がこんな冴えないおっさんになってしまうとはな」
男は小さく笑った。
「褒めてくれてありがとう」

男は初めて愚円の姿を直視した。
「仕立ての良いスーツ。こざっぱりとした様子じゃないか。ちょっとしたやり手のビジネスマンだな」
「垢だらけでは女にモテないからな。それに金もある、遊ばないという選択肢を選ぶ理由はないだろう」
「坊主を辞めたのか」
「いや、館長直々の命令だ。人探し、いや、鬼探しだ」
愚円は顔を寄せると、小声で囁いた。
「この辺りでかぐやのなよたけの姫を見たという情報がある。随分と前だがな」
「鬼の女王か。探しているのか」
「賞金が出ている。一生、遊んで暮らせる金額だ。だが、俺はそんな金には関心がない。それだけの金を出そうということ自体に関心がある。考えられないような金が裏で動いているはずだ」
「なるほど、敏腕のビジネスマンだ」
「あんたも一口乗らないか」
「冴えないおっさんだからな、遠慮しておくよ。私はそんなことよりも、今晩の晩御飯の方が関心あるんだ。だしの効いた茄子のつゆびだしが食いたいとかさ」
愚円が哀れむような顔で男を眺めた。
「ここまで落ちてしまうとはな、あの無が」

こんこんと硝子を叩く音がした。なよたけの姫と黒が笑みを浮かべ、手を振っている。男は入り口を指さすと、にっと笑みを返した。
「愚円。手を引け、怪我するだけだ」
いきなりの男の言葉に愚円は男の真意を計りかねた。

「父さん、待たせたな」
「たいして待っていないよ」
男が笑った。
「その男、誰じゃ」
「古い知り合い。とっても悪い奴だから、喋っちゃだめだよ。さぁ、帰ろうか。ん、黒がいないな」
「あそこじゃ」
なよたけの姫が指さす入り口、ショーウインドにケーキが売られており、ぼぉっと黒が幸せそうに見つめていた。
「アップルパイが欲しいらしい。なぁ、父さん、初めての給料は父さんのものを買うつもりじゃったが・・・、アップルパイ買っても良いかのう」
「なよが佳奈さんちでアルバイトしたお金だ、父さんのことよりも自分が買いたいことに使いなさい、ついでに言うと、父さんもアップルパイ、好きだからさ。みんなで食べたら楽しいな」
「ならば、そうしよう」
にかっとなよたけの姫は笑みを浮かべると、黒のところへと歩きだす。呼吸困難のように口をぱくぱくさせていた愚円がやっと意識を取り戻した。
「俺が館長から探索を仰せつかったのは、かぐやのなよたけの姫の顔を知っているのが俺と館長だけだったからだ。なんで、かぐやのなよたけの姫があんたの娘なんだ」
「うーん、他人の空似かな」
男が気楽そうに答えた。
「多分、お前の情報も、うちの娘を見間違えたんだろう、削除しておいてくれ」
男は明細を持ち、立ち上がるとレジへ向かった。

にこぉぉっと黒が満辺の笑みを浮かべる。
店の外、黒はしっかりとアップルパイ、ホールで二つ、箱を抱えていた。
「先生、ありがとう」
「ん、買ったのは、なよだよ」
「なよ姉さん、先生にお礼を言えって。先生の新しい財布がアップルパイになったんだからって」
「そうか、それは、どういたしまして」
男は笑うと、なよたけの姫に言った。
「さすがのなよも黒には甘いなぁ」
「性根が腐らん程度には甘やかしてやるわ、一応、こいつはわしの命の恩人じゃからな。それに、こいつが声をかけなんだら、小夜乃も生き返ることはできんかった」
ふっとなよたけの姫は笑みを消した。
男はなよたけの姫が小夜乃を連れ帰った次の朝、小夜乃を抱きかかえ、助けてくれてありがとうと真っすぐに言ったこと、そして、小夜乃に国の責任者として民を守れなかったのを謝ったことを思い出した。
小夜乃はなよたけに姫にしがみついて泣いていた、いつまでも。


「あ、黒。なよ姉さんにアップルパイを買ってもらった」
あさぎの横で、夕食にと茄子を切っていた幸が声を上げた。
「黒はなぁ、本当に」
幸は手を止めて、溜息をついた。
「ごめんなさい、母さん。黒姉ちゃん、悪気はないんです」
白が慌てて黒をかばった。
白は棚からお皿を出していたが、手を止めると、そっと幸に言った。
「ここに来るまで、本家では、食べるもの、あまりもらえなくて、黒姉ちゃんが、あたしたちに食べさせようと、いつも・・・」
幸は包丁を離すと、ぎゅっと白を抱き締めた。
「良い姉さんだな」
「うん」
白が堪えるように小さく呟いた。
あさぎが棚からティーカップを出す。
「夕食の後はアップルパイ、紅茶の用意、しておくね」
「あさぎ姉さん、しょうがないから、黒にはちょっと多めに取り分けてやろう」
「うん、しょうがない、しょうがない」
あさぎが楽しそうに笑みを浮かべる。
「あ、でも、そうしたら、黒は白や三毛に、自分の分も食べろっていうかもしれない」
ふと、あさぎが呟いた。
困ったように、白は笑みを浮かべると、首を横に振って言った。
「あさぎ姉さん。それは絶対ないと思う」
くすぐったそうにあさぎが笑った。
幸はもう一度、茄子を切り始めたが、思い出したように言った。
「そういえば、三毛はまだ戻らないのかな」
「小夜乃ちゃんと散歩するって、出たきりだね。あかねちゃんも一緒かな」
あさぎが答えた。
「あさぎ姉さん」
「ん」
「体操をね、小夜乃ちゃんに教えてやってほしいんだ。いいかな」
「うん、教えるよ」
「ね、そのうち、この体操はダイエットと美容の体操ですって売り出そうか。儲かるかもしれない」
「本が百万部突破、DVDもつくらなきゃね」
幸の言葉に、あさぎが笑った。

川上を夕日が沈んで行く。
三人がそれを静かに眺めていた。
並んで座る影、静寂を遮るようにあかねが言った。
「綺麗な色ですね」
「太陽は燃え尽きて死んでしまうけど、朝にはまた甦り、世界を照らす。だから、朝の太陽は生まれたばかりの元気な赤ん坊なんだよ」
小夜乃が小さく呟いた。
「それは」
三毛が小夜乃の言葉を促した。
「かぐやのなよたけの姫様の言葉です」
ふと、三毛は小夜乃の手を握ると呟いた。
「ごめんなさい、とっても恐い人だと思っていたんだ」
小夜乃はそっと笑みを浮かべた。
「とっても恐いけど、とってもとっても優しい人なんです」


くしゅん、なよたけの姫がくしゃみをした。
「なよ姉さん、それは噂くしゃみだよ」
両手にアップルパイの箱を抱え、黒が笑った。辺りは少しずつ、夜の気配を現し、三人は家路へと急ぐ。
「ならば、誰かが、わしを褒めてくれてるのだろう」
黒が楽しそうに笑った。
「きっと、良い人だっていっているんだ」
「さてな。わしはそんなには良い奴ではないからな」
なよたけの姫はふっと顔を曇らせたが、気持ちを切り替えるように笑った。
「黒。お前はわしが恐くないのか」
「怒鳴られたら泣いてしまうかもしれないけど、でも、恐くない。啓子さんも、なよ姉さん、恐くなくなったって言ってた。とっても可愛い女の子だって言ってたよ」
「あやつはなめておるのぉ。まぁ、良い、それもあやつの良いところじゃ」
「なにはともあれ」
なよたけの姫が顔をぐっと上げた。
「かしずかれるより、対等に喋るのは随分と楽しいものじゃな」


「無の野郎。何が娘だ」
ホテルの一室。愚円は女がシャワーを浴びている間、ベッドの上で歯噛みをしていた。
このまま、尻尾巻いて逃げ出せるはずがない、お宝が目の前に転がっているのに、手ぶらで帰れるか。
しかし・・・、流石にあの三人を相手に勝ち目はない。
そういや、なんで、かぐやのなよたけの姫にあんな賞金が付いているんだ、それに、いま、奴の国は結界が張ってあり、誰も入れない、もちろん、鬼の奴らもだ。そもそも、人と鬼の連合軍が、なんで、あんなど田舎の国を攻める必要がある。
このからくりの裏を解いて行く方が、儲けに近いかもしれん。どうせ、あいつら三人に勝てるような奴はいないからな。
出し抜かれる心配はないだろう。
不意に、シャワーの音が止まった。


「母さん。なよ姉さんにアップルパイ買ってもらったよ」
家の前で少しは叱ってやろうかと、黒を待ち構えていた幸だったが、黒のなんの戸惑いのない、その声に半分呆れ、笑みを浮かべた。
「良かったな、黒」
ぐりぐりと拳で黒の頭をなでる。
「もぉ、母さん、痛いよ」
「ごめん、ごめん。さぁ、アップルパイは冷蔵庫だ」
「うん」
黒がぱたぱたと家に駆け込んで行く。
「黒にはかなわないな」
男が笑った。
幸も笑うとなよたけの姫に言った。
「なよ姉さん、お疲れさま。折角の給料がアップルパイになってしまったね」
「給料は余禄じゃ。わしは佳奈のところへ遊びに行っているようなものじゃからな」
「でも、佳奈姉さん、喜んでいたよ。売上が上がったって」
なよたけの姫がにっと笑った。
「売り子は面白いのぉ。国を治めるのと似ておる」
「話はあとあと。さあ、家に入ろう」
男は二人を促すと家に入った。

「あ」
小夜乃は小さく呟くと、よろめきながら、なよたけの姫の元へ走り、その前で正座した。
「お帰りなさいませ、姫様」
「ただいま。しかし、ここではその姫様はやめてくれ。妙に照れるからな」
なよたけの姫は小夜乃の前に座ると、右手を差し出した。
「わしの手を両手でぎゅっと握ってみい」
「は、はい」
うぅっと唸りながら小夜乃が両手でなよたけの姫の右手を強く握る。
「よしよし。随分、力が戻ってきたな」
小夜乃は手を離すと、嬉しそうに笑った。
「さて、晩ご飯の用意もできておりそうじゃ。食卓を出すかな」
なよたけの姫が折り畳みのテーブルを廊下から運ぶ、あたふたと小夜乃がそれを手伝った。三毛とあかねがもう一つ、テーブルを出し、並べる。これで九人が座ることができる。
満辺の笑顔のまま、黒が折り畳みの椅子を運んで来た、白も折り畳み椅子を両手に運ぶ。
「黒さん、嬉しそう」
「小夜乃ちゃん、晩ご飯の後はアップルパイだよ」
黒は椅子を降ろし、小夜乃を抱き締めると、うふふっと笑う。
「黒姉ちゃん、涎が出てるよ」
白が見とがめて言った。
「黒姉ちゃんは幸母さんの御陽気なところばかり似ています」
白が大袈裟に溜息をついた。白は意識して幸を母さんと呼ばずに幸母さんと呼ぶようにしていた。
黒は笑うと、小夜乃から離れ、椅子を並べる。
「何を言われても怒らないよぉ。御陽気母さんに似ているって言われても」
黒が鼻歌交じりに答える。
「ジャガイモと茄子と玉葱のお味噌汁です」
三毛が鍋を抱えて台所からやって来た。よいしょっとテーブルに鍋を置く。
「やったー、いっぱい食べるよ」
「黒姉ちゃん、アップルパイを食べるなら、ちょっと、控えめの方がいいよ」
「えぇっ、三毛は厳しいなぁ。入るところが違うから大丈夫だよ」
「別腹ってやつですね。黒姉ちゃんは本当に胃が二つあるかもしれない。一度、母さんに診てもらったほうがいいよ。でも・・・、太るかもしれないけど、アップルパイは楽しみです」
三毛は笑うと黒に頷いた。
「黒さん、ほどほどですよ。黒さん、少し動きが鈍くなっています」
「は、はいっ」
あかねがおひつを抱え、直立不動になった黒を少し睨んだ。
三毛が不思議そうに二人を見る、あかねがちょっと舌を出して、三毛に笑いかけた。

「よいしょっと」
男が野菜炒めいっぱいの大皿を抱えて持って来た、やっとのことで、テーブルに置く。
「いろんなのが入っておるのぉ」
なよたけの姫が驚いて覗き込んだ。
「美味しいですよ」
あさぎがお茶の入ったやかんを片手に笑った。
「いま収穫できる野菜はもちろん、ハーブや食べられる草まで入っています。味付けはちょっと中華風です、自家製ベーコンも入っていて旨みは充分ですよ」
「なるほどのぉ、あさぎの作ってくれるものは旨くていい。早く食べよう」

食卓では必ず黒は真ん中に座る。両方の大皿からおかずを取るためだ。
頂きます、元気よく黒は言うと本当に嬉しくてたまらないと笑顔で晩ご飯を食べる。
あさぎが黒を見て、幸せそうに笑った。
「黒ちゃんは本当に嬉しそうに食べてくれるね、作りがいがあるよ」
「あさぎ姉さん、とっても美味しいよ」
「ありがと」
黒はにひひと幸のおどけた時とそっくりの笑みを浮かべた。幸はふと、立ち上がると、硝子戸を開け、代わりに網戸を閉める、涼しい風がそっと入ってくる。そして振り返る、
楽しいなと小さく呟いた。

深夜、男が部屋の明かりを消そうとした時、襖の向こうからなよたけの姫の声が聞こえた。
「入っても良いか」
「どうぞ」
男が答えると、襖が開き、なよたけの姫が入ってきた。
男は椅子に座ったまま、少し顔を上げ、笑みを浮かべた。
「どうしました、なよ」
なよたけの姫が緊張した面持ちで呟いた。
「わしはここを出て行く」
「夕方の、あの破壊坊主の頭の中、読んだんだね」
男は溜息をつくと、俯いた。
「小夜乃だけは、これからも、ここで暮らさせてもらえないか」
かすかに、なよたけの姫の言葉が震えた。
「小夜乃ちゃんは、なよがいないとだめになってしまうよ。それに」
ふっと、男が顔を上げた。
「大事な娘をほうりだすなんてことは、父親として出来ないな」
男は右手で、なよたけの姫の手を力強く握った。
「家族ってなんだろうと思うことがある。ここには、いわゆる血の繋がりという意味での親子は存在しない。でも、ここでは血の繋がりよりも強い、思いの繋がりで親子が成り立っている。父さんはなよを娘と認めた。だから、どんな奴からもなよを守るよ」
男はじっと、なよを見つめたが、ふと襖に目をやった。
あたふたと、幸が部屋に飛び込んできた。
「なよ姉ちゃん。幸も戦うよ、だから、ここで一緒に暮らそう」
なよたけの姫が小さく溜息をついた。
「似た者親子じゃなぁ」
なよたけの姫のもう片方の手を幸は両手でぎゅっと握ると、嬉しそうに笑った。
「なよ姉ちゃんも、随分と、お人好しだ。だから、似た者親子の似た者姉妹だよ」

「わかった」
なよたけの姫は呆れたように言うと、二人の手を解いた。

皆が寝静まった夜中、なよたけの姫は屋根の上に座り、月を眺めていた。
ゆっくりと雨戸が開く、あさぎがつっかけを履き、外へ出てきた。そして、辺りを見渡し、それから、空を見上げる。
やっと、なよたけの姫に気づいたのだろう、笑みを浮かべると、自分を指さし、そして、なよたけの姫の横を指さした。
なよたけの姫は絹の紐を飛ばし、釣り上げるように、あさぎを持ち上げ、自分の横に座らせた。
「ごめんなさい、なよ姉さんがいないし、雨戸が少し開いていたから気になって」
なよたけの姫は少し笑うとあさぎの頭をなでた。
「ただの月見じゃ、心配するな」
「なよ姉さん、悩みはうまく解決したようですね」
「ん、どうしてわかった」
「なよ姉さん、晩ご飯の時、ふっと暗い顔をしていたのが、今は表情が柔らかいから」
なよたけの姫は困ったように笑みを浮かべた。
「表情に出ておったか。心配かけたのぉ」
くすぐったそうに、あさぎも笑みを浮かべる。
「父さんに相談した、改めて、わしは、なんて言うかな、自分の居場所を見つけた気がする」
「それはあさぎも同じです」
あさぎはなよたけの姫に腕をからめ、かすかに俯いた。
「助けてもらえなかったら、消えてしまうところでした。今は皆がいてくれて、とても楽しい。もしも、消えていたらと思うと胸がぎゅっと苦しくなります」
「お互い良かったな」
なよたけの姫の言葉にあさぎはそっと頷いた。
なよたけの姫は永く思い出すことのなかった、幼少の頃をふと思い出した。
「そんな時代もあったな」
小さく呟く。あさぎはその声に顔を上げた。
なよたけの姫は笑みを浮かべるとあさぎに言った。
「もう寝よう。夏とはいえ、風邪をひいてしまうぞ」