遥の花 月の竹 眠るモノ 一話

「あさぎ姉さん、お腹減ったよ」
黒がばたばたとあさぎのいる台所にやってきた。
「もうすぐ晩御飯だよ」
「お腹が減って待てないよぉ」
「しょうがないなぁ」
あさぎが何げなく黒のお腹をとんと右手で押す。
「このお腹の柔らかさは脂肪ではありませんでしょうか。太り過ぎはだめだぞ」
「だ、大丈夫だよ。しっかり練習するよ。おもいっきり動くよ」
あさぎは笑うと、戸棚を開けてみた、御煎餅があったはずだけれど。
「あれ、ないなぁ、お煎餅」
「ごめんなさい、昨日食べちゃった」
黒が申し訳なさそうに言う、呆れたようにあさぎは笑みを浮かべたが、ふと、思い出して、床のバスケットを覗き込んだ。
「黒、幸が買い物のついでにこんなの、買って来てくれたよ」
あさぎが箱を取り出す。
「わっ、ホットケーキの素だ」
「ホットケーキを食べたい人」
「はい、はーいっ」
黒が元気よく手を上げる。
「それじゃ、一枚だけ焼こうか」
「うん」
黒は思いっきりの笑顔で頷くと戸棚からお皿、冷蔵庫からメイプルシロップを取り出した。あさぎはノートを取り出すと、ホットケーキのページを繰り、粉と水の量を確認する、そして電子秤を取り出した。
あさぎは自分の作った料理をすべて控え、量や加熱の時間なども細かく記していた。
正確に粉の量を計る。
横で、黒がその様子を覗き込んだ。
「あさぎ姉さんはきっちりしているね」
「ん、だって、いつも美味しいのを食べて欲しいもの」
あさぎが黒に笑みを浮かべる。
「美味しいのを作りたい。折角、父さんや幸に御飯作るの任せてもらったんだから」
「でも、大変だね」
「そんなことないよ、料理を考えるのはとっても楽しいし、洗い物はみんなでやってくれるんだから」
あさぎは片側焼けたホットケーキをフライパンの中で引っ繰り返した。
「もうすぐだよ」
あさぎの言葉に、慌てて、黒はお皿を差しだした。
「はい、出来上がり」
あさぎはホットケーキをすくい上げると、黒のお皿に置いた。
「ありがとう、あさぎ姉さん」
黒はテーブルにつくと、たっぷりとメープルシロップをホットケーキに掛け、食べ出した。
「美味しいよ、あさぎ姉さん」
「どういたしまして」
あさぎは笑みを浮かべると、夕食の準備を始めた。
鼻歌を歌いながらホットケーキを食べ終えると、黒があさぎの横でお皿を洗う。
「それじゃ晩御飯まで練習して来るよ」
「頑張ってね」
「はーい」
黒が元気よく返事し、駆け出して行った。

「そっか、お煎餅食べたの、黒だったのか。今度から、袋に名前を書いておかなきゃ」
幸が笑みを浮かべ、テーブルについていた。
「幸、黒を叱らないでね」
「うん、食べ盛りだ、しょうがないよ。でも、黒は力み過ぎで無駄な力を出すから、余計にお腹が減るのかもしれない。そろそろ、力を抜いて動くことを教えようかな」
ふと、幸はあさぎを見つめた。
「あさぎ姉さん、頭痛や立ちくらみ、どうかな」
「大丈夫、幸の教えてくれた体操を練習するようになってから、とっても元気、嘘みたいに頭痛も消えちゃった」
「安心した。それじゃ、幸にもホットケーキを焼いてください。晩御飯まで待てないよ」
「幸もなんだか子供だ」
「母さん、ホットケーキを焼いてください」
「ホットケーキを焼くから、母さんは勘弁してください」
あさぎが幸せそうに笑った。
あさぎが幸のためにホットケーキを焼く、ふと、幸は白と三毛、二人の気配を感じた。
「はぁい、出来たよ」
あさぎがお皿にホットケーキを載せ、お箸を添える。幸はスープ以外は箸を使っていた。
「あさぎ姉さんのホットケーキは特に美味しいよ」
照れ臭そうにあさぎが笑った。

「美味しそうな匂いがしますねぇ」
ふっと、白が硝子戸を少し開け、中を覗き込んだ。
「母さん、ずるいよぉ」
三毛も同じく顔を突き出す。
「ん、うわっ、な、何を言うかな。これは白と三毛のためにあさぎ姉さんに焼いてもらったんだよ」
「ほんと、ですかぁ」
白が笑いながら言った。
「もちろん。えっと、あさぎ姉さん、さっき言ったように、二人に取り分けるためのナイフをください」
「随分と説明的な台詞だ」
「何を言うかなぁ、白、素直さは大切だよ。二人ともおいで」
二人はぱたぱたと台所にやってくると、ホットケーキを切る幸の手元を見つめた。
「母さん、ピザみたいに、六等分してください」
白はそう言い、幸の切った後からメイプルシロップをホットケーキにかける。
そして、そのうちの一つを摘まんで、
「母さん、あーん、して」
はぐっと一切れを幸が食べた。
「食べ物の恨みは怖いですから、特に母さんは」
白がにっと笑った。
「それじゃ、三毛はあさぎ姉さんにあげるよ」
慌てて、三毛は皿ごとあさぎに差し出した。
「それじゃ、ひとつ、いただきます」
あさぎがひとつ、摘まみ食べる。そして、笑みを浮かべた。
三毛もほっと笑みを浮かべると、お皿を白に差し出した。
「白姉ちゃん、どうぞ」
白もひとつ、取ると、三毛に言った。
「三毛もあーん、ってして」
三毛が素直に口を開ける、白が三毛に食べさせる。
「白姉ちゃん、美味しい」
三毛もひとつ取ると、白に差し出した。白もそれをくわえ食べる。
「こうして食べると美味しくて楽しい」
白が笑みを浮かべた。
幸はそんな二人の姿を慈しむように眺めている。そして、そっと笑った。
ふと、幸は宙を見つめた。
「ん・・・、お父さん、電車に乗った。あさぎ姉さん、幸、駅までお父さんを迎えに行ってくるよ」
「帰って来る頃には晩御飯できてるよ」
「ありがとう、晩御飯、楽しみだ」
「あ、あのね。母さん」
思い詰めたように、三毛が幸に声をかけた。
「ね、一緒に行くの、だめ」
幸はその言葉に、三毛をじっと見つめた。いま、幸と男が二人でいられるのは、この男を迎えに行く時間くらいのものであり、その間は二人っきりにいてもらおうと暗黙の了解を得ていた。
幸はにっと笑うと右手を差しだした。
「今日だけだぞ」
「うん」
幸は立ち上がり、白に言った。
「白はあさぎ姉さんのお手伝い、それと、黒には御風呂の準備をするように伝えて」
「はい、わかりました」
白が立ち上がる。
「黒姉さんに声をかけて来ます」
白を見送ると、幸は三毛の手を取った。
「あさぎ姉さん、あとはお願いします」
「うん、ゆっくりしてきていいよ」

幸は三毛の手を握り、駅前、改札口で男を待っていた。
「この時間、男が多いな。こいつら全員、抹殺できたら気分いいだろうなぁ、すっきりするぜ」
「母さん、だめだよ、他人に聞かれちゃうよ」
慌てる三毛を幸が愉快に見下ろした。
「末っ子の気遣い。姉さん、二人は個性が強くて大変だからな」
「でも、いまはとっても優しいよ」
「本当の姉妹になったってことだよ、それは、とっても素敵なことだ」
幸の言葉に三毛が頷いた。
男が改札から出て来た。
「お父さん、ここだよ、お父さん」
声が一瞬にして可愛く高くなり、幸が手を振って跳びはねた。男は笑みを浮かべると幸のところにやって来た。
「ありがとう。三毛も迎えに来てくれたんだ、ありがとう」
男が三毛に笑みを浮かべた。
「あ、あの、先生、朝はありがとうございます、まだ、ちゃんとお礼を言ってなかったから」
男は三毛の頭をなで、笑った。
「叔父さんはちょっとさ、三毛の背中を押しただけだよ」
そして男は幸を見て、小さく呟いた。
「いつもありがとうな、幸。父さん、とても幸せだ」
幸は思わずぎゅっと男の腕に自分の腕を絡めると、横に並んで肩を寄せた。
もう片方の手で、男は三毛の手を握ると歩きだす。
「そうだ、ケーキ屋さんに寄るよ。黒にケーキを頼まれたからさ」
「お父さんも甘いなぁ」
「しょうがないよ。買って来てくれるに間違いないって、確信の眼差しで見つめられたら、太るからだめって言いづらい」
男は少し声を出して笑った。
「最初の時の黒が、今では想像つかないな」
「いまはね、本当に楽しそうだよ」
「黒お姉ちゃんはとっても優しくて大切にしてくれます」
ふぃと男は三毛から手を放すと、三毛の腰の後ろに手を添え、すくい上げるようにして、右肩に載せた。
「わっ、空気が違います」
三毛が楽しそうに呟いた。
「風が吹いていたんだ」
三毛の視界が広がり、夜へと移り変わる寸前の空が三毛の前に広がっていた。
「お父さんも」
「ん」
「家族してるね」
「そうだね、幸せだと思うよ。幸のおかげだな」
「雲、飛行機雲です」
二人が三毛の指さす方向を眺める。紫色の空を一条の筋が駆けて行く。
「空に一筆書きをしたようだな」
男がそっと呟いた。
幸が三毛に話しかけた。
「三毛、幸せか」
「とっても、幸せです」
男の肩に揺られながら三毛が答える。
「母さんもとっても幸せだ」
照れ臭そうに幸が笑った。
「こんなふうに静かに楽しく暮らし続けたいな」
幸が思いを込め呟いた。
「そうだな。本当にそうだ」
男がそっと頷いた。

「瞳さんが襲われている、護髪が反応した」
不意に幸が声をあげた。
「お父さん、行って来るよ」
「場所は何処だ」
「瞳さん宅の前」
「なら、父さんが行こう。幸は家に戻りなさい」
「でも」
「幸、父さんの今日の記憶を読みなさい」
「いいの」
男が頷いた。
幸が男をじっと見つめる。そして、頷いた。
「お父さん、お願いします」
すっと幸の姿が消えた。
「母さんが消えた・・・」
「先に帰ったのさ。三毛、叔父さんの頭にしっかりと掴まっていなさい」
「は、はいっ」
男と三毛の姿も消えた。

「うひゃひゃゃゃぁっ」
三毛が大声で叫ぶ。
「左脇腹、打撃」
「はいっ」
男の声に三毛は着地すると、すっと黒い服を着た男の脇腹に右手を添えた。一瞬、三毛の全身が写真のピンぼけのようにぶれる。黒服がすとっと真下に落ちた。
瞳を拉致しようとした黒服は三人。一人は瞳自身が倒したが、後二人に瞳は苦戦していたのだった。
「顎、回し蹴り」
すっと息を飲むと、三毛はふわりと浮かび上がり、瞬間高速回転、左脚で相手の顎を蹴る。棒立ちになり、そのまま、もう一人の黒服が崩れ落ちてしまった。
ほぉっと三毛が息を吐いた。
「初めてでこれだけ動ければ充分。お疲れさま」
三毛はしゃがみ込むと、そのまま、足を投げ出してアスファルトの上に座り込んでしまった。
「先生、ひどいですよ」
「ん、どうした」
「まさか、ここに現れた途端、相手に向かって、先生に投げ飛ばされるとは思いませんでした」
「ごめん、ごめん」
男が楽しそうに謝った。
「ただ・・・」
「ん」
「母さんなら、もっと強く投げ飛ばして、三毛は向こうの壁にぶつかっていたかもしれません。それを思うと先生で良かったと思います」
男がくすぐったそうに笑った。
「否定・・・、できないな」

男は、道路の端に座り込んだままの瞳に向き直った。
「瞳さん、お疲れさま。少し、打ち身があるようだね、とんだ災難だったな」
「先生、ありがとうございます。でも、何がなんだか・・・」
「神崎さん、データーを盗まれたらしい。政権が変わって、この世界も新旧の勢力が随分と賑やかなことをしている。彼の対抗組織が個人情報を入手して、個別攻撃をし始めた、神崎さんも現役を守るのに手一杯らしいよ」
「そんな・・・」
瞳は俯き、唇を噛んだ。
「さて、三毛。どうだ、落ち着いたか」
「はい、大丈夫です」
「悪いけど、瞳さん宅で待っていてくれ」
「先生は」
「二度とこういうことが出来ないように、ぎゅぅっとしてくるよ」
「先生、怒ってますね」
「うーん、ちょっとね」
男が普通に歩きだす、ふわりと闇に姿を消した。
三毛は立ち上がると、お尻の土を手でぱたぱたと払い、瞳の前に立った。
「初めまして、瞳さん。母さんから瞳さんのこと、伺っています」
「えっと、母さんって」
「私は先生の娘、幸の娘で三毛と申します」
一瞬、瞳が息を飲み込んだ。
「え、幸さんの」
「あ、母さんの名誉のために言いますが、貰われて来ました、えっと、養女です」
三毛は困ったように笑みを浮かべたが、少し離れたところに転がっている、瞳のだろう、スーパーの袋を拾い上げると、うれしそうに笑った。
「奇跡ですよ、瞳さん。たまご十個パック、一つも割れていません」

幸は家の道向かい、電信柱の天辺に腰掛けていた。
「戦争時の不発弾が見つかったということで、地域封鎖。警察や消防署も動いている。相手の後ろ盾は大きい方が楽しいねぇ」
幸は呟くと、足元を見下ろした。
およそ五十人の黒い姿をした奴らが門扉に向かって構えていた。門扉の内側には白、数歩出て、黒が杖を構え、相手を睨みつけている。しかし、息が荒い。
倒れた男たちが十人はいるだろう、黒の体力も消耗が激しく、お互い、膠着状態だ。
「黒姉さん」
白が叫んだ。
「大丈夫だ、白。母さんや先生が帰って来るまで家を守り抜くんだ」
微かに黒の杖の先が震えている、緊張と体力の低下だ。男達は手に手にナイフや刀を持っていた。銃を使わないのは隠密行動のためか。
いきなり男達の後ろから悲鳴が上がった。次々と雪崩のように男達が倒れて行く。ふぃと、幸が黒と睨み合っていた男の隣りに立つ。
「黒、白、お疲れさま」
幸はにいぃっと笑うと、横に立つ男の脇腹に手を差し込んだ。男が恐怖に満ちた眼差しで、自分の脇腹を眺める。
「殺さない方が良い、自分の魂に傷がついてしまう。だから、殺すな。殺すと、母さんみたいになってしまうぞ。ただな、倒れた奴が起き上がって来たら面倒だろう。だから、半殺しにはしておけ」
幸が手を捻った、瞬間、男が叫び声をあげてのたうちまわった。幸は、男のあばら辺りの皮膚と骨の折れたのを無造作に投げ捨てると、倒れていた男の上着で手を拭く。
「白」
「はいっ」
「あさぎ姉さんが大変だ、介抱してきなさい」
「わ、わかりました」
あたふたと白が家に飛び込んだ。
「黒」
「は、はい」
「びびったか」
にぃっと幸が笑う。
「母さんにびびった」
呟くように黒が答えた。
「この野郎、正直すぎるぞ」
幸は黒の頭を撫でようとしたが、両手がまだ血で赤く染まっているのに気づいた。
「手を洗って来るよ、黒も家に戻って休みなさい」
「か、母さん、この人達は」
「人達ってか、ま、そこが黒の良いところかもしれないな。連絡係が一人いた、そいつには手を出していないからさ。回収に来るだろう、一時間も経たないうちに何事もなかったようになっているさ」
幸は気にすることもなく、庭へ回り込み、洗い場へと手を洗いに行く。
「母さんみたいに強くなりたい。しっかりと妹達を守りたい」
幸の後ろ姿を見送りながら、黒が小さく呟いた。

幸は外で手を洗うと台所へ向かう。白が倒れたあさぎを抱き抱えていた。
「あさぎ姉さん、あさぎ姉さん」
耳元で白が囁いていた。幸は白の向かいに座ると、あさぎの手を両手でしっかり握った。そして、あさぎの耳元で語り出した。
「あさぎ姉さん。妹の幸です、あさぎ姉さんは幸の真ん中のお姉さんです。一番上のお姉さんは幸乃さん、ちょっと怖いお姉さんで幸は逆らうことが出来ません、あさぎ姉さんは次女、とっても優しいお姉さんです。声をかけていたのは白、幸の娘です。幸には三人の娘がいます。長女は黒、真ん中が白、末っ子が三毛です。お父さんがいます、お父さんはとっても優しい人です、思い出しましたか、あさぎ姉さん」
ゆっくりとあさぎが目を開いた。
「ごめんなさい、幸さん。なんだか、急に自分が誰だかわからなくなって、頼りなくて、不安になってしまって、生きているのかどうかもわからなくなってしまって・・・」
「それは、時間が解決してくれるよ。ね、あさぎ姉さん」
そっとあさぎが微笑んだ。
「ありがとう、幸。ごめんね」
あさぎは白に顔を向けると笑みを浮かべた。
「ありがとう、白。白の声が聴こえて、切れかけていた何かが繋がった気がしたよ。白、ありがとう」
「どういたしまして」
囁くように陰りのある笑顔で白が答えた。

「うわっ、どうしたの。あさぎ姉さん」
黒が驚いて声を上げた。
幸が微かに笑みを浮かべた。
「黒の食べ過ぎを心配して倒れたのかも」
「え、あっ。だ、大丈夫だよ。あさぎ姉さん、黒、太ってないよ。歯も磨いてるよ」
あさぎがくすぐったそうに微笑んだ。
「それなら、安心だね」
玄関の戸が開く音。
「ただいま」
男の声が玄関口でした。
「黒姉ちゃん、お土産だよぉ」
三毛がぱたぱたと部屋に戻って来た。
「黒姉ちゃん、先生がケーキ買ってくれたよ」
三毛が黒に両腕に一杯に抱えたケーキの箱を差し出した。
「いやっほぉー」
黒が喜色満辺に喚声をあげた。
「黒の単純さは救いでもあり、毒でもあるな」
幸が笑った。
黒のケーキ踊りを眺めながら、白がくすぐったそうに笑う。
「黒姉さんはとっても真面目です。嘘やごまかしができないから、却って、感情に針が大きく振れてしまう。でも、それが、ちょっと、うらやましい」
「そういうのは一人で充分、勘弁してくれ」
幸も楽しそうに笑った。

「ケーキ踊りもなんだか定着したなぁ」
男が黒と三毛、ケーキ踊りをする二人を眺めた。
「お父さん、お疲れさま」
幸が可愛らしく男に声をかけた。
「ん、ただいま」
「どうなった」
「無事済んだかな」
男がそっと笑みを浮かべた。
「あさぎ、どうかな」
「ごめんなさい、お父さん。なんだか、急に。でも、皆が戻って来てくれて、今は元気。さっきまでが嘘のようです」
「そっか、良かったね。ん・・・、白」
ふいと男は白を見つめた。
「はい・・・」
「極度の緊張が残っているな」
男は白に寄ると、その後ろ首筋に手のひらを何か払うように動かした。
「どうだ」
「体が暖かくなりました、どうしたんだろう」
「筋肉がぎゅっとしてしまって、流れが滞っていたのさ、指先や足先の冷たいのも、すぐに暖かくなるだろう。黒は・・・、あれは大丈夫か。あれだけはしゃいでいるなら」
ふと、あさぎが呟いた。
「なんだか、とっても嬉しい」
「ほんと、そうだよ」
幸がしっかりと頷いた。

ここ最近の習慣、男が自室で一人で眠り、あさぎと幸、黒達五人が広間で寝る。あさぎと幸は両端で、その間を、三人がそれぞれ、好きなところで寝ていた。
「ね、母さん」
白が少し不安げに言った。
「母さんの横で、寝て良い」
「いいよ、白。おいで」
灯りを消し、眠りにつく。
白がぎゅっと幸の腕を抱き締め、小さく幸に囁いた。
「母さん、白は怖くて動けませんでした、あんなに教えていただいたのに。白は役立たずです、ごめんなさい、ごめんなさい、母さん」
幸は少し身を起こすと、もう片方の腕で白をしっかりと抱き締めた。
「心配することはないんだ、白は大切な母さんの娘だよ」

夜中、男は襖の向こうの気配に目を覚ました。
「いいよ、幸。入りなさい」
男が体を起こすと同時に襖が開く。幸が泣き出しそうな顔をして立っていた。
「おいで、幸」
幸は男の部屋に入ると、後ろ手に襖を閉める。
そして男の横にひざまづくと、何も言わず男にしがみついた。
「白がごめんなさい、っていうの」
男はそっと幸の頭を撫でた。
「なるほどね。白も不甲斐ない自分自身に戸惑っていたんだな。それだけ、三人とも、しっかりと成長しているというわけだ」
「お父さん、どうしたらいいんだろう。どうしたら白に自信を持たせることができるのかな」
「そうだね」
男は笑みを浮かべると、軽く幸の肩をたたく。そっと幸が顔を上げた。
「今まで幸はね、三人の指導者として、これを覚えなさい、身につけなさいと教えて来た、つまり、一歩先から三人を引っ張って来たわけだ。ただ、彼女たちも成長して、個性というかな、人格がはっきりしていくようになってね、画一的なやり方が合わなくなったのかもしれないな。幸、白にはね、一度、同じ位置で寄り添ってみたらどうかな」
「寄り添う」
幸が男の言葉を重ねた。
「白がね、自信を持てるようにさ」
幸はそっと笑みを浮かべると、小さく頷いた。
「さあ、幸。白の横に戻ってあげなさい。幸がいないのに気づいたら、白があわてるぞ」
幸はそっと男に口づけすると、笑顔を浮かべた。
「お父さん、起してごめんなさい」
「どう致しまして。幸の泣いたの、久しぶりに見たよ」
「もぉ・・・、お父さんったら」

「嫌です、白は何処にも行きません」
朝、白の大きな声に男が部屋を覗き込むと、白が部屋の柱にしがみついていた。黒と三毛はおろおろとしているし、幸は困り果てた顔をして座り込んでいる。
あさぎは、白の大きな声に頭痛だろう、うずくまっていた。
男はあさぎが普通に生活できるようになるまで、まだ、数カ月かかるだろうなと冷静に判断をする。
男は白の横に座ると、にっと笑みを浮かべた。
「白は幸の娘で、大切な家族だ。だから、何処にも行っちゃだめだぞ」
「え・・・」
白が驚いたように男を見つめた。
「幸が一緒に旅に出ようって言ったのかな」
「は、はい」
「で、捨てられると思ったか」
白はその言葉が口に出せず、ただ、頷いた。
「白も黒も三毛もさ、随分成長した。それは、叔父さんも見ていて思うよ、しっかりしたなぁってね。ただ、それぞれね、個性がはっきりしてきて、今までと同じ教え方ではだめだと幸は思ったんだろう。だから、幸は白と何日かさ、二人っきりで過ごすことで、何かを見いだしたいって思ってね、旅をしようって言ったと思うよ。もっとも、旅っていっても、二、三日のことだろうけどね」
ゆっくりと、白が柱から手を離した。
「しばらく幸をお願いするよ。幸はさびしがり屋だからな、泣き出したら叔父さんの代わりになぐさめてやってくれ」
男は白の頭を軽く撫でると、ふと思いついて言った。
「白、髪の毛、一本、くれるかな」
「はい・・・」
白は髪の毛、一本を抜くと、男に手渡した。男はその髪を鴨居に結び付ける、溶け込むように髪の毛が消えた。
「白がどんなに迷子になっても、時と距離を越えて、白にこの家への道筋を教えてくれるよ」
初めて、白は安心したように笑みを浮かべた。
「幸、準備をしなさい」
「はい」
幸があわてて返事をした。
「白、せっかくだ、美味しいもの、たくさん、食べてきなさい」
急に黒が叫んだ。
「美味しいもの。ずるいよ、黒も美味しいもの食べたい」
男が笑った。
「あさぎの作ってくれるご飯、黒は美味しくないのか」
「もちろん、美味しいよ」
「なら、黒も毎日、美味しいものを食べているじゃないか」
「え。あ、そうか・・・」
一瞬、黒は納得しかけたが、あわてて声をあげた。
「その美味しいじゃないよ」
「うーん、黒もしっかりしたなぁ、ごまかしが効かなくなってきた」
男は嬉しそうに笑うと、黒に言った。
「今から叔父さんが一から十まで数えます。黒は叔父さんが十まで数える間に、ちょっと贅沢で普段は食べないような晩御飯を言いなさい。一、二、三、四」
黒があたふた、考えを巡らせる、
「えっと、あの」
「早くしないと、普通の晩御飯になってしまうぞ、五、六」
「ぴ、ピザ、ピザが食べたい、空揚げやソーセージや、いっぱい載っているピザ」
男は頷くと、あさぎを見る、ほっとしたように、あさぎは顔を上げていた。男と黒の会話が空気を和ませ、あさぎの頭痛を取り除いたのだろう。
「あさぎ、ピザ、いいかな」
「はい、頑張って作ります」
あさぎがほっとしたように笑った。男がついとカレンダーを見る。カレンダーには印があった。
「啓子さんとあかねちゃんが来るのか。なら、黒」
「はい」
「ピザに載せるもの買いに、啓子さんと一緒に買い物に行ってきなさい。それと、ピザの生地をこねるの大変だから、あさぎの手伝いをすること、いいかな」
黒が満辺の笑みを浮かべて頷いた。
「さてと、三毛にはまだ聞いていなかったな、何が食べたい」
「三毛は特には何も。ピザも大好きだし」
「三毛は控えめだな。でも、妹があまり控目だと、黒姉ちゃんは妹に気遣って、ピザいらないです、大根のお漬物だけでいいですっていうかもしれないぞ」
にっと男が黒に笑いかけた。
黒が必死の顔をして、頭を横に振る。
「ないない、そんなことない」
緊張した声で黒が答えた。
慌てて、三毛が言った。
「手巻き寿司が食べたいです」
男は頷くと、黒に笑いかけた。
「今晩はピザ、明日の晩は手巻き寿司、良かったな。黒」
「もう、先生は意地悪だ」
黒がほっと安心して、足を投げ出して座った。
男が愉快に笑みを浮かべた。
「お父さん、それじゃ出掛けます」
幸の声に男が振り返ると、幸は黒のカンフー服、白はそれだけは嫌だと拒絶したのだろう。茶系統のチェックのワンピース。
「幸は相変わらずだな」
男が呆れて言った。
「白にも勧めたんだけどね、絶対嫌だって」
「母さんの趣向は理解できません。そんな格好でうろうろしたら、警官に職務質問されてしまいますよ」
「大丈夫だ、白。その警官は話の途中で意識を失い、倒れてしまうだろう」
にぃっと幸が笑みを浮かべる。
「白、幸を頼んだよ」
男は仕方なく笑った。

幸と白は列車、二人掛けの座席を隣り合って座っていた。白が窓際で流れる風景を眺めている。
幸は通路をじっと見つめていた、
「来たっ」
車両のドアが開き、カーゴを押して売り子がやって来る。
「白、弁当を買おう、それにお菓子とお茶も」
「母さん、朝ごはんを食べてから一時間と経っていませんよ」
呆れたように、白が言った。
「何言うかな。法律で売り子さんが来たら弁当を買わなきゃならないって決まったの知らないかなぁ」
「なるほど知りませんでした、日本以外の、何処の国で決まった法律ですか」
「幸王国、憲法八条三項にちゃんと書いてある」
幸は嬉しそうに笑うと、売り子を呼び止めた。
「お弁当とお茶、二つずつお願いします、それと、そのお煎餅も」
幸は両手で受け取ると、弁当一つを白の膝に置き、二人の前の座席の背中にあるテーブルを倒して、それぞれにお茶を置いた。
「なんだか、一気に旅気分、いいなぁ」
「あの、母さん」
「ん」
「まだ教えてもらっていません、目的地とか」
幸はお弁当の紙包みを広げながら、思い出した。
「そういえば、旅に行こうってそれだけだったよね」
「先生は何か伝えようとする時、順を追って分かりやすく説明してくれます。母さんは大事な話を省略してしまいます」
「柱にしがみついている白、どうしようかって悩んだよ」
「恥ずかしいこと思い出させないでください、本当にあさぎ姉さんにも迷惑を掛けてしまいました」
「ごめんな、白。反省してる」
幸はふと手を止めると目をつぶった。
幸はふと手を止めると、俯き目をつぶった。白がふっと幸の手に自分の手を重ねる。
「ごめんなさい、白は黒姉さんみたいに陽気でもないし、三毛みたいに素直にもなれないんです。でも、母さんが大好き、とっても」
不意に幸は片腕を白の肩にまわすとぐっと引き寄せた。
「ありがとう、白」

啓子は家続きの元事務所、事務机などは取り去られ、広々とした中で、うーんと唸りながら、立て掛けた、原木を縦に切ったままの分厚い板を見つめていた。
喫茶店のテーブルにする予定の板である。おおよその、乾燥は済んでいた。
啓子の隣りではあかねがしゃがんだまま、ぼぉっとそれを眺めていた。
「思っていたより幅がありますね」
あかねが顔を上げ、啓子に言った。
啓子は頷くと、メジャーで横幅を測る。
「並んだ四人が、向かい合って、うん、八人ってとこだ」
「おじいさまも、もう少し小さいものを送ってくだされば」
板は鬼紙老が、孫が世話になっているからと送って寄越したたものだった。
「他の調度品を工夫すれば、大丈夫だよ。案外、名物になるよ、これだけの物を使っている店ってそうはないからね」
そう言って部屋を見渡す。
「あとは、壁をどうするか、和風にしてしまうのもありだし、無国籍風もいいかな」
「あさぎさんの希望が一番でしょうね」
あかねは笑みを浮かべると、ゆっくり立ち上がった。
「あさぎさんが料理を作って、あの娘達がウエイトレス。なんだか、私達も、忙しい時のアルバイト要員として数に入っているらしいですよ」
あかねが楽しそうに笑った。
「先生がウエイターって当初の計画よりかはずっといいよ」
「お客さん、怖がってしまうでしょうか」
「うーん、ってより」
啓子はふと言葉を止めて考えた。
「多分ね、先生の存在に誰も気づかないと思う、そして、いきなり耳元で、囁くような、いらっしゃいませって声が響いて、お客さん、飛び上がって驚くという」
「それって、啓子さん、話をおもしろくしようとしていませんか」
「ちょっとね」
いたずらげに啓子が笑った。

「啓子さん、あかねちゃん」
ぱたぱたと三毛が走り寄って来た。
「よう、三毛助、どうした」
啓子が嬉しそうに笑った。
「その呼び方はやめてください、もぉ」
「あはは、ごめん」
「啓子さんはすぐからかうんだから」
啓子は嬉しくてたまらないと、三毛を抱き上げた。
「三毛は可愛いな。そうだ、三毛、ウエイトレスはエプロンドレスで、猫耳と尻尾を出してって、それいいよ、受けるぞ」
暴れるように三毛は啓子から脱出すると、ため息をひとつついて、座り込んだ。
「それはもう既に母さんに散々、試させられました。啓子さんは母さんと一緒ですよ」
「で、結果は」
「耳も尻尾もリアルすぎるという結論で、不採用」
あかねも笑みを浮かべると、そっと三毛の頭を撫でた。
「お疲れさま、三毛ちゃん」
「はい」
三毛が疲れたように頷いた。
「メイドにしてしまうと、男性客ばっかりになってしまうよね、考えてみれば」
ふと気づいたように啓子が言う。
「母さんも同じこと、言っていました、ゲロゲロだぁって」

「おおい、早く来てよ。お腹減ったよ」
黒があたふたやって来た。
あっと三毛が二人を呼びに来た用事を思い出した。
「啓子さん、あかねちゃん。ごめんなさい、おやつです、あさぎお姉さん作ったケーキ。お店のと同じですよ。とっても美味しいです」


「ここは」
白が小さく呟いた。
山の頂上近く、いくつもの墓石が並んでいた。青く抜ける空の下、来る人もないのだろう、背の高い墓石もつる草や雑木に埋もれかけている。
「限界集落と呼ばれている、もっとも、最後の住人が山を下りて1ヶ月ってとこだ、だから、正確には元集落だな」
幸は墓に背を向け、見下ろす。いくつもの山が重なり、その向こうには、青色、ほんの少しだけ海が見える。
そして振り返ると、一つの墓石の前に立ち、ぐいっと絡まった蔓草を引きちぎる。
「草生えたままにしておくと、お父さんに叱られてしまう」
「母さん、それじゃ、ここは」
「母さんが生まれたところ、全ての始まりの場所だった」
白が慌てて、幸を真似、草を抜いていく。
現れた墓石は風化が進み、角が欠け、彫られた文字も読みにくい。
「読んだってしょうがないよ、母さんは捨てられたんだからさ」
文字を覗き込む白に、幸がそっと笑みを浮かべた。
振り向く白に、青空を背景にした幸が笑みを浮かべる、白には幸が人を越えた、神や天女に見えた。
「まぁしかし、それでお父さんとこうして暮らすことが出来て、それに良い娘も出来た。そういう意味では幸いだったのかもしれないな」
「母さん、綺麗・・・」
ふともらした白の言葉に、にっと幸が笑った。
「娘に褒めてもらえるのは嬉しいものだ」
幸は、麓で買ったペットボトルの栓を取ると、水は墓石に掛けた。
「また、一年したら来るさ。さて、白、準備は良いか」
幸はペットボトルの栓をすると、墓石の横に置いた。
白は大きく深呼吸をすると、幸にうなずいた。
「何人いるか、わかるか」
「四人」
「離れている奴を合わせれば六人だな。ここへは単純に墓参りだけのつもりで来たんだけど、なかなか、楽しいことになった」
幸は空中から杖を取り出し、白に手渡した。
「襲われる理由はわからないけど、折角だ、練習相手になってもらおう」
「はい」
「相手の間合いは半歩前進で崩せ、以上」
幸がふわっと後ろに下がる、白は右半身上段に杖を構えた。雑木や墓石にその姿は見えないが、前に三人、後ろに一人。
ふぃっと白が横目で、背後を眺めた。
黒装束、まるで映画から抜け出したような忍者が飛び込んで来る、片手に忍者刀、直刃の凶刃が背中から白の胸を貫く、白は反転し、杖で刃を流しつつ、相手の首に杖の先を差し出した、瞬間、身を沈め、敵の顎に杖の先を絡めつつ、その上半身を後頭部から地面に叩きつける。
白の眼の端で影が移動した。
影に杖を突き出す、三人の内、一人の太ももを貫いた。
「ごめんなさい」
白が思わず呟いた。残った二人の刃が頭上にきらめく。瞬間、白は二人の忍者に身を寄せた。なみゆいの特徴は接近戦にある、白は相手の胸に突き放った肘をそのまますりあげる、前のめりに一人が倒れた、すっと白が姿勢を落とすと同時に、独楽のように回転し、蹴り足が相手の膝を粉砕した。
「お疲れさま」
幸がぎゅっと白の手首を握った、白の腕が微かに震えていた。
「母さん、白はなんだかとても怖いです」
幸がしっかりと白を抱き締めた。
「大丈夫だよ、白」
幸はゆっくりと体を離すと、笑みを浮かべた。
「今晩は温泉でゆっくりしよう、行きたいところがあるんだ」
「あ、あの、この人たちは」
幸は無造作に杖を相手の太ももから引き抜く、そして杖を消した。
「うーん。ただのさ、歴史や廃墟のマニアってのかな。白や母さんがそんなだったら、こっちが地面に倒れている側だ。それはわかるな」
「はい・・・」
「なら、このままほっといてもいいんじゃないか」
「たしかにそうなんだろうけど、でも」
戸惑う白に、幸は困ったように笑った。
「黒も似たようなこと、母さんに言ったよ。白と黒は甘いなぁ、あんまり甘いこと言っていると寝首をかかれるぞ」
幸は呻いている忍者の太ももに触れた、見る間に流れていた血が止まる。
「そっちは首がずれたか、むちうちだな」
幸が足先でその忍者の背中をとんと軽く蹴る。
「あとの二人はほっといても眼を覚ますだろう。さて、指導役の二人もとうに逃げ出した。いくぞ、白」
「はい」
「なんだか白が急に元気になったな」


黒は一抱えもあるピザの生地を力いっぱい、こねていた。
「黒、大きいよ。三つくらいに分けた方がやりやすいよ」
あさぎが心配そうに言ったが、黒はにっと笑う。
「武術の練習にもなるから、大丈夫だよ。ね、あさぎ姉さん、おっきなピザ、できるかな」
「五十センチのピザが五枚は焼ける予定」
黒が心の底からの笑顔を浮かべた。
「本当に黒は食べることが好きだね」
「なんか、食べるものがあるっていうだけで安心してしまうんだ。ここで暮らすようになってから、とても幸せで、安心でいられる。自分が居てもいいところがあるっていうのがとっても素敵なんだ」
あさぎはふと手を止め呟いた。
「本当にそうだね」
「あさぎ姉さん、泣いてるの」
心配そうに、黒があさぎの顔を覗き込む、あさぎは手の甲で涙を拭うと笑みを浮かべた。
「助けてもらわなかったら、道でそのまま消えていたんだなって思うと、なんだかね」
「良かったね」
黒がにっと笑った。
「とっても良かった」
あさぎも笑った。

「黒姉ちゃん、あさぎ姉さん」
三毛が台所にやって来た。
「啓子さんが石釜に火をいれたよ。これから釜を温めて、一時間くらいでピザが焼けるようにするって」
「それじゃ、海老や帆立も下ごしらえしなきゃね」
あさぎが鍋を取り出す。三毛が買い物袋を覗き込んだ。
「黒姉ちゃん、いっぱい買ったね」
「おう、三毛もいっぱい食べろよ」
「うん」
嬉しそうに三毛が笑みを浮かべた。
「啓子さんもあかねちゃんもいっぱい食べるって」
「みんなが、お腹いっぱい食べるって楽しいなぁ」
黒が心から嬉しそうに笑った。

釜の火を見つめながら啓子が言った。
「面白いなぁってつくづく思うよ」
あかねは啓子の隣りでしゃがんでいる、少し、日が陰りだし、二人の顔を釜の火が赤く照らしていた。
「何がですか」
「人生」
啓子はそう言い切ると、少し恥ずかしげに笑った。
「啓子さん、人生を語るにはまだまだ早いですよ」
あかねも楽しそうに笑った。
「でもさ、大学出て、就職したはいいけど、その就職先が悪の組織だよ、それも、下っ端の戦闘員だぜ、覆面に全身タイツ。それが、襲う相手の先生に投げ飛ばされて、今じゃ、農業の手伝いして回って、こうやってさ、先生宅でピザを焼こうとしているんだから、面白いっていうか、不思議だ」
「縁があったのでしょうね」
「運命論者じゃないけど、そうだね。偶然が単純に重なっただけって思うより、縁が在ったと思う方が嬉しいな」
そっとあかねが笑みを浮かべた。
「どうしたの、あかねちゃん」
「啓子さんって可愛いなって思いました」
啓子は気恥ずかしそうに笑うと、釜に薪をほうり込んだ。
「参った、中学生に負けた気分だ。あかねちゃんがまだ中学生っての、なんか反則だよ」
あかねが声を出して笑ったが、ふと、振り返った。
「先生、駅に着きました、幸さんの代わりに迎えに行ってきます」
「なら、黒か三毛と一緒に行った方がいいよ」
「ええ、頼んでみます」

男が紙袋を片手に、駅近くの商店街前を通り過ぎた時、あかねと黒があたふたと走り寄ってきた。
「おじさん、ごめんなさい。迎えに来るの、遅くなってしまいました」
あかねが息をはずませ言った。
「あかねちゃんに黒も、わるかったね。迎えに来てくれたのか」
「先生、ちゃんと手伝ったよ。帰ったら、ピザ、いっぱい食べよう」
「そっか、それは楽しみだな。なら、今日はケーキ屋さんに寄らなくてもいいかな」
「え・・・」
一瞬、黒が硬直した。
「そうだ、ケーキ。ケーキ忘れてた。ピザの後はみんなでケーキ」
「おじさん、余計なことを言ってしまいましたね」
あかねが笑った。
「ほんとだな。でも、黒の幸せいっぱいにケーキをほお張っている姿を見るのも楽しいからさ」
三人は駅前の洋菓子店へ。店内には椅子とテーブルがあり、男は持ち帰り用にケーキを注文した後、テーブルについた、向かい側にあかね、その隣りに黒が座った。
「珈琲だけ飲ませてくれ」
男は笑みを浮かべると、珈琲を注文し、二人にはジュースを注文した。
「先生、それなに。おやつ」
黒の言葉に男は笑みを浮かべると、袋から箱を出した。
「食べないでくれよ。カメラ、デジカメだ」
「おじさんがデジカメを」
「まあね。今日、取引先の会社へ書類を届けてね、ふと、その会社の社長の机に家族の写真が写真立てに入っているのを見てさ。たまらなく、家族写真が取りたくなった。で、あたふたと電気屋さんでデジカメと小さな三脚を買って来たわけだよ」
「おじさんの写っている写真って貴重ですよ。その筋に売れば、ちょっとした家の一軒くらい建ちますよ、土地付きで」
男がくすぐったそうに笑った。
「悪いことをし過ぎたと、反省の日々だよ。まっ、幸と白が帰って来たら早速、写そう。あかねちゃんも入ってくれるかい」
「もちろんです」
あかねが笑みを浮かべた。
「先生、母さんと白は元気にしているかな」
「まだ、大丈夫じゃないかな」
男がそっと笑みを浮かべた。

「すごいホテルですよ」
白はぼぉっとロビーを見渡した。高級老舗ホテルのカウンターでチェックイン。幸はサインをすると白に笑いかけた。
「な、だろう。前にお父さんと泊まった時は中の上だ。部屋に露天風呂まであったんだ、もっとも、今回は予算の都合で一番安い部屋だけどな」
白は幸に駆け寄ると、幸の服の裾をつつと引っ張った。
「ん」
「母さん、お金、ほんとに大丈夫」
「大丈夫、お父さんがいっぱい出してくれたんだ」
「相変わらず、先生は母さんに甘いですね」
「だって、可愛い愛娘ですもの、ふふ」
慌てて仲居が一人、カウンターへと小走りにやって来た。
幸と目があった瞬間、立ち止まり、仲居が呟いた。
「幸ちゃん」
幸がにっと笑うと大きく手を振った。
「お母さん、久し振りです」
幸の声に走り寄ると、仲居がぎゅっと幸の手を握った。(異形六話御参照ください)
「わぁ、本当に幸ちゃんだ。なんか、ちょっと大人っぽくなったよ」
「だって、三年ですよ、幸も少しは成長しますよ」
幸がくすぐったそうに笑う。
「気にしていたんだよ。だって、住所もわからないし、急に用事ができたって帰ってしまうしさ」
「あはは、ごめんなさい」
「瞳さんも元気にしているかい」
「しっかり主婦してますよ」
「お母さんこそ、手紙出した、お嬢さんに」
「もちろん。返事ももらったよ、出して良かったよ」
「気にしてたんだ、なんだか、安心した」
ほっとしたように幸は笑みを浮かべると、戸惑っている白を見つめた。
「母さんのお母さんだ、挨拶して」
「えっ、あ、あの。白と言います。えっと、娘です」
仲居が目を見張って驚いた。
「幸ちゃんにこんな大きな子が」
「いえ、あの、養女ですから。決して、母さんから産まれたわけじゃ」
「白は母さんの娘だ、誰から産まれようと関係ないよ」
幸は笑うと、仲居に言った。
「娘と旅行中なんです」
「いいねぇ、そうかい。あ、あたしとしたことが、カウンター前で立ち話なんて。部屋まで案内しなきゃね」
「母さん、ゆかた、着ないの」
「あぁ、男の眼が煩わしいからさ」
仲居が部屋を後にし、白はゆかたを前に、思案していた。
「白だけ、着るの、変かなぁ」
幸は立ち上がると、白にゆかたを羽織らせ、正面に立つ。
「いい感じだ、可愛いよ」
はにかんだように、白が笑みを浮かべた。
「服脱いで、ゆかたを着な。風呂に行こう、それから、晩御飯だ」
「うん」
白が素直に返事する。
幸は白の、普段は見せない一面を見た気がした。
「なぁ、白」
「はい」
「母さんが白や黒、三毛にさ、武術や呪術を教え続けたのは、自分自身の身を守ることが出来るようにというためだ。そして教えられることはほぼ教えたはずだ、後は教わったことを磨いて、再発見をすればいい」
白がそっとうなずく。
「白、活法を学んでみるか。怪我や病気を治す技だ」
すっと白の顔に表情が消え、じっと幸の眼を見つめた。
「お願いします、お母さん」

本来、夕食は階下での宴会場となるのだが、特別に同じ部屋での食事となった。幸がそうしたいと、仲居に頼んだからだ。
「お母さん、幸も料理、運ぶよ」
「だめだめ、幸ちゃんはお客さんなんだから」
仲居は笑みを浮かべると、てきぱきと食事の準備をして行く。
白は幸の仲居への優しい眼差しに、少し言葉を変えるだけで、こんなにも他人と良い関係になれるのだと学んだ、自分自身の今までの言葉を思い出し、反省しなきゃと思うが、母さんだって反省しなきゃなと思う。他人によって言葉遣いを変えるよりも、誰に対しても優しくありたい、少なくともあきらかな敵以外は。ふと、敵という言葉が浮かんだ時、黒姉の戦う姿を思い出した、黒姉さんに三毛、今頃、ピザをほおばっているだろうか。
「白、御飯食べよう」
幸の声に白が顔を上げた。
「いただきます」
白はお膳につくと、幸と向かい合う。
「なんだか、変な感じ」
白が笑った。
「お膳を前に向かい合って食べるって、ちょっと、緊張するな」
幸は笑うと先付けを食べる。
「うん、美味しい。お母さん、これ、美味しいですよ」
振り返り、幸が仲居に笑いかけた。
「嬉しいね。ありがとう」
白はふと、今ならと思った。
「ね、母さん」
「うん」
幸が白に笑みを浮かべた。
「あ、あの。今まで、生意気なこと、いっぱい言ってごめんなさい。白はいい子になります」
「え」
幸は唖然と白を見つめたが、箸を落とすと、飛び上がり、白を抱き締めた。
「母さん、息が苦しいですよ」
「ごめん、ごめん」
幸は体を離すと、少し照れくさげに笑った。
「母さんも綺麗な言葉を使ってください」
「対象女性限定なら」
「一歩前進ですね」
白がくすぐったそうに笑った。
幸は不意に仲居に振り返ると声をかけた。
「お母さん、マッサージしてあげます」
急な展開に、戸惑う仲居をあっさり幸は俯せに寝かせつけてしまった。
「座布団をこう抱えるようにしてね」
幸は座布団を二つに折り、中井の胸元と畳の間に差し込む、そして、白を手まねいた。
「は、はい」
白があたふと幸に近づくと、幸は白を仲居の横に座らせた。
幸は右手で白の右手を甲から掴むと、白の人差し指を仲居の首の後ろに添わせた。
そして、ゆっくりと背骨に沿って指先を移動させる。
「背骨が歪んでいるのがわかるかな、違和感みたいなものが見えたかな。手を重ねることで、母さんの見ているものが見えて来たと思う」
白が少し興奮してうなずいた。
「活法の基本だよ」
幸は白の右手を自分の右手で、同じように白の左手を自分の左手で掴むと、仲居の腰の左右に沿えた。
「しっかり見なさい」
幸は囁くと、ほんの一センチほど両手を左へ動かす。白はブロックがぴたっとはまり込んだように思えた。
「お母さん、どう」
「どうしたんだろう、急に体が軽くなった気がする」
「お母さんは立ち仕事が多いし、荷物も運ばなきゃで、体が傷んでいる。白にマッサージを教えがてら、治してあげますよ」
幸が幸せそうに笑った。
「お嬢さんの代わりに親孝行します」

(旅館に勤める女性全員、女将も含む、全員の整体を二人は済ますことになる。書くのが面倒臭いので、気が向いた時に書く 2011.03.02)

「母さん、白はだめです、くたくたです」
白は座布団を枕に俯せに臥せってしまった。
「気安く引き受けていたら、凄い特訓になった。全員だもんね」
幸は気楽に笑うと、女将手ずから握ったおむすびを一口食べる。
白は顔だけを幸に向け、言った。
「どうして、母さんは元気なんですか。同じだけ動いていたはずなのに」
「二つ理由がある」
幸はお茶を飲むと、白に言った。
「一つは無駄な動きをしない、必要充分なだけの動きで済ます。これは、この旅の間に、お父さんが黒に教えてくれると思う。もう一つが月の光を体に蓄える内観法。これは白に教えるつもり」
幸は両手の手のひらを互いに向け合う、幸の手が白くひかりだし、手と手の間に、白い光球が現れた。幸はふわっとそれを浮かび上がらせると、軽く白にほうり上げる。
光球はそのまま、ふわりと浮かび、白の元へ、そして、白の体に入ってしまった。
ゆっくりと白が起き上がる。
「えっ、疲れがなくなった。ううん、いつもより調子が良いくらいです」
「白、今のうちにしっかり食べておきなさい、今晩は忙しくなるから」
「忙しいって」
「昼間の関係者がこちらに向かっているのさ」
幸は皿に残っていたお造りを食べる。
「白、このマグロの赤み、美味しいよ。こっちの魚はなんていうんだろ」
「母さん、昼間の人達のこと、知っているんですか」
「ん、すぐに調べた。山を降りる途中の集落、人がいなくなったのを幸いに、国が借り上げて、黒服の育成施設にしているようだ、政権が妙になったからかな、やたらと増えているようだよ、まっ、そんなのの一つだ。そして、来るのはその提携している、この近場の奴ら」
「それなら、母さん。わけを話せば」
「え」
意外なことを聞いたとばかりに白を見つめた。
「白。わけを話した上で、お父さんの話をすれば、奴ら逃げ帰るだろう。ただ、それには大きな問題があるんだ」
「問題って。先生に迷惑がかかるとか」
「いや」
幸がにぃと笑った。
「単純に暴れたいじゃないか」
ふぅうっと、白が脱力し大きく溜息をついた。
そして、仰向けになり、幸に言った。
「母さんの場合は単なるいじめです。母さん、強すぎるもの」
「なるほど、いじめか・・・。子供の教育に悪いな。白が不良になったら大変だ」
冗談とも本気ともいえないような口調で幸は答えたが、良いことを思いついたと笑みを浮かべた。
「やつら、随分、ホテルに近づいて来た。並が二十人、並の上が三人、特上が一人。並と並の上は母さん、手加減して潰すから、白、活法の練習をしなさい。その間、母さん、特上を楽しむよ」
幸はふわりと立ち上がると、窓を開け放ち、階下を見下ろした、五階、視界の端に海が少し見える、
「来た来た。あれで隠密行動とっているつもりか」
幸の嬉しそうな声に、白はあきらめて、ゆかたから、朝の服に着替えなおした。
汚れなきゃ良いけど。
幸の隣りから同じように見下ろす。
「気配を消し切れていません。母さん、本当に殺したりしないでください。そういうの、辛いから・・・」
「良い子に育ったなぁ。育て方、正解だったかな」
「母さんの言動を見て、色々、考えたんです」
「娘の言うことが一つ一つ嬉しい。成長したなぁ」
ふぃっと幸は白を右腕に抱えると、窓を飛び出た。
「行くぞ」
「うひやぁぁ。白はまだ飛べませーん」
白の悲鳴が闇へ消えて行った。

「あ、白が」
不意に黒は目を開けたが、食べ過ぎて動けず仰向けに寝転がったままになっていた。
黒と啓子、部屋で大の字になって寝転がっている、ピザの早食い競争を二人でやった結果だ。
「どうした、黒」
男はしょうがないなと少し笑う。
「先生、白の悲鳴が聞こえたような気がしたんだ」
「なるほど。でも、そんなんじゃ、白も、それに三毛になにかあっても、助けに行けないぞ。啓子さんも黒も、本当に負けず嫌いだな」
男は視線を戻すとあかねを見つめた。
あかねの口が動いた、おはやいおかえりを。
男は立ち上がると、おろおろしているあさぎに言った。
「二人は自業自得。あさぎ、ほっとけばいいよ」
男は笑いをこらえるように言った。
「先生」
啓子が仰向けのまま、男を見上げた。
「黒に勝ちました。なかなかのもんでしょ」
「お疲れさま、でも、あんまり無理しないようにね。年頃の女の子なんだから」
「ほーい」
男は静かに部屋を出た。
三毛は団扇を見つけて来ると黒の隣りに座り、扇いでやる。
「黒姉ちゃん、大丈夫」
「あんまり大丈夫じゃない」
黒が嬉しそうに笑った。
「反省してないね、体、壊すよ」
あかねも溜息をついて言った。
「啓子さんって、本当に子供っぽいなぁ。普通、年下の黒ちゃんに勝ちを譲るでしょうに。むきになるんだから」
啓子はまんべんの笑みを浮かべ、黒の手を握った。
「なぁ、黒。勝負は正々堂々としなきゃな」
「そうだよ、手加減なんかいらないよ。今度は黒が勝つよ。あしたは手巻き寿司だ」
「うっ、今は食べ物のこと、考えたくない」
啓子は苦しそうに言うと、大きく深呼吸をした。
「あさぎさん、お水ください」
「確かに筋肉が肥大して、心臓の動きを押さえようとしているんだけど」
白は幸が次々と、まるでドミノ倒しのように倒して行った、その最後の一人を、ひざまずき、顔を寄せて見ていた。仰向けになり、息が荒く、それでいて、心臓の鼓動が鈍い。母さんはと、顔を上げると、幸の後ろ姿、特上と称した、年配の男に、間合いを開け、あれは、にぃぃっと笑みを浮かべているに違いない。
白が呟くように言った。
「早くしないと、この人、死んじゃいますよぉ。母さん」
「白、この人を俯せにしなさい」
男は倒れている黒服を見下ろし、白に声をかけた。
「は、はい」
慌てて、白は黒服の肩と腰に手を差し込み、そっと俯せにする。
「心臓の下、裏側の、ほら、ちょっと下に痣が出来ているだろう」
「はい」
「これを緩めればいいよ」
白が慌てて、痣に両手を合わせ摩る。黒服の息が穏やかになった。
「あ、先生、どうしてここに」
「ん・・・、黒がね、白の悲鳴が聞こえたっていうもんだからさ」
男は吐息を一つ漏らすと、幸を眺めた。
「幸がいじめられていたら、どんな相手であろうと、叔父さんは立ち向かって行くけれど、逆の場合はどうしたらいいんだろうって思うよ」
「あの、母さんは」
男はそっと笑みを浮かべると、少し寂しげに白に言った。
「幸には叔父さんの血が流れている、叔父さん、とっても、悪い奴だからさ、今の幸を見ていると、若かった頃の乱暴だった自分を思い出すよ。幸をああいう性格にしてしまったのは叔父さんの責任なんだよ」
「叔父さん・・・」
白は男の哀しい眼差しに口ごもってしまった。
「叔父さんは、あと数年しか生きていられない、その時は、白、幸を頼むよ」
男は立ち上がると、ゆっくり二人に向かって歩きだした。
幸の前に立つ黒服の総領は、幸の後ろに、一瞬、笑みを浮かべる男の姿を見た。
総領が驚いて言った。
「お前は無の縁者か」
「ん・・・。あぁ、娘だ」
「そうか・・・」
総領は諦めたとでもいうように、両手を上にあげた。
「随分、昔の話だ。無と二度だけ、仕事をしたことがある。あいつには儂が束になって掛かって行っても、歯が立たない。全面降伏だ。ただ、すぐには殺さないでくれ、やり残した仕事があるんだ」
「殺すつもりはないよ」
感情を抑えて言う。
「後ろの娘に叱られてしまうからさ」
幸は背を向け、後ろの状況を確認した。
「全員、娘が助けたようだ」
幸はもう一度、総領に向き直り、言った。
「あんたに依頼した奴らにも伝えてくれ。あんたらに加担するつもりもなければ、鬼に味方するつもりもないってな。ましてや、国がどうなろうと一切、関わるつもりはないってな、ようはそういうことだろう」
「そうだ」
「なら、話は終わった。帰ってくれ、親子水入らずの旅の途中なんだ」
「委細、承知した」
総領の姿が消えた。
幸が振り返ると、倒れていた連中の姿も消えていた。
幸が背を向け、白を見る。白は立ち上がり、瞬きもせず、幸を見つめていた。
「お疲れさま、白。一つ、難しいのがあったけはずだけど、なんとかなったようだな」
幸がそっと笑みを浮かべる。
「先生が来てくださいました、背中の筋肉を緩めればいいって教えてくださいました」
「え、お父さん、何処」
白が泣きそうになりながら叫んだ。
「先生は、幸が乱暴になってしまうのは、自分の責任だ。幸に申し訳ないっておっしゃいました」
幸は惚けたように、口を開け、膝から崩れた。
「お父さん・・・」
そして微かに呟く。
「ごめんなさい」
白は幸にかけよると、大声で泣いた。

「あの、先生、いいかな」
襖の向こうで、黒が男に声をかけた。
「どうぞ」
男が声をかけると、襖が開き、黒が男の部屋に入ってきた。
男は書いていた書類をまとめ、ファイルに綴じる。そして、棚に戻すと、椅子を回し、振り返った。
「お腹、大丈夫か。そうだ、体重を測っておけばよかったな」
男は笑みを浮かべたが、黒は真剣な眼差しで男を見つめていた。
「なんだ、しょうがないなぁ。特別だぞ」
男は引き出しから即席麺を出す。
「あさぎに叱られないよう、隠れて食おう」
黒が目を輝かせた。
「いやっほう。先生、お湯を用意してくるよ」
黒は嬉しそうに声をあげたが、はっと気づいたように男に言った。
「そうじゃないよ、先生」
「え、違うのか」
男は黒に椅子を勧めると向かいあって座る。
「あの、先生・・・」
「言ってごらん、どうぞ」
黒はごくっと息を飲み込んだ。
「先生の武術を教えてください」
「うーん、黒はもう充分に強いぞ。この家を襲ってきた奴ら、十人くらい、黒が倒したんだろう。倒れているのを見たけど、かなり強そうな奴らだったよ」
「でも、母さんは五十人くらい、息も切らずに倒した、まるでドミノ倒しの波が来たみたいに敵が、次々と倒れて行ったんだ」
黒が男を見つめた。
「十人くらいで息を切らしていたらだめなんだ」
男は溜息を漏らすと、黒に言った。
「幸に聞いたか、どうやって五十人を倒したのかって」
「母さんは手を振って歩いていただけだって言った」
男は笑みを浮かべた。
「幸らしい言い方だな。感覚的にはそうなんだけどね」
男はしばらく黒を見つめていたが、やがて口を開いた。
「幸が旅に出る前、叔父さんにね、黒に教えてやって欲しいと言ったんだ、ある動きをさ。でもね、教えるには黒に約束をしてもらわなきゃならない」
「約束・・・」
「誰にも教えないということ、もちろん、白澤さんや白に三毛にもだ。約束を破ったら叔父さんは黒を殺すし、そうなれば、幸は苦しんで自分自身を殺すだろう。三毛も白も、みんなばらばらになってしまう。それでも、叔父さんは黒を殺すし、動きを知った者も殺しに行くよ」
黒は表情をなくし、男の眼をじっと見つめた。
「すぐに返事をしなくても良いよ、じっくり考えなさい」
男は笑みを浮かべた。
黒はしばらくの間、俯いていたが、すっと顔をあげ、笑みを浮かべた。
「黒は誰にも言わないって先生に約束します。だから、教えてください」
男は黒の笑みに、並ならぬ決意を見た。改めて、男は黒や白に三毛が、ここに来るまで、どんな生き方をして来たのか、どれほど、今を大切にしているかを思う。
男は深く溜息をついた。
「黒は叔父さんが無くしてしまったものを、しっかりと持っているのかもしれないな」
男は呟くと、左手を黒の額に添えた。一瞬、黒がうっと声を漏らす。しばらくして男は黒の額から手を戻して言った。
「最初から覚えようとしたら、十年は掛かる。だから、叔父さんが修行して来た分の記憶を黒に転写した。そして、記憶に障壁を作って、外からは見えないようにした」
「わかるかい、黒」
「わかります」
「なら、明日から練習しよう。記憶と体の動きを擦り合わせていかなきゃならない。今晩はもう寝なさい。発熱してしまうかもしれないからさ」
黒は頷くと、初めて、黒は自分から男の手を握った。
「ここで暮らすことができて、本当に幸せです。先生、ありがとう」
一瞬、男は驚いたが、すぐに笑みを浮かべ頷いた。
「こちらこそ、ありがとう。毎日がとっても楽しいよ」
黒はぎゅっと男の手を握り締め、そして、手を離す。
「お休み、黒」
「先生、お休みなさい」
「即席ラーメンはちゃんと、机の引き出しに残しておくよ」
黒がにっと嬉しそうに笑った。

「待ってよ、白」
幸が白の袖を引っ張る。
朝まだき、人影のないこの時間。この角を曲がれば家が見える。幸は、必死になって白を止めていた。
「母さん、一週間ですよ、家を出て。早く家に帰って、白はくつろぎたいです」
「でも、でもさ」
幸はまだ、ホテルでの男に見られた自分の後ろ姿を気にしていた。
「気持ちの整理がな。だって、お父さんに見られてさ、きっと、悪い娘になってしまった、って思っているよ」
「なら、ごめんなさいと言えばいいと思います」
「うわぁ、白、冷たいよ」
白が長い吐息を漏らす。
「本当に母さんは、先生のことになると、とっても子供なんだから」
「まっ、とにかく家に入りなさい。こんなところで騒いでいないでさ」
男はよいしょっと幸を両手で抱きかかえた。
「うひゃぁ、お父さん」
「幸は面白い娘だ」
男が笑った。
「白、お疲れさま。うん、ちょっと表情が大人っぽくなったな。活法が性にあったようだね」
「はい、ありがとうございます」
「黒や三毛も心配していたよ」
白がそっと嬉しそうに笑みを浮かべた。
三人は家に戻ると、男は幸を降ろした。
「うひゃぁ、家だ」
幸が寝転がってばたばたと泳ぎ出す、そして、仰向けになると大の字になって寝転がってしまった。
「母さんはなぁ・・・」
白が溜息をついた。
「白姉ちゃん」
三毛があたふたやってくると、白に抱きついた。
「お帰り、白姉ちゃん」
「ただいま、元気にしてた」
「うん」
三毛が笑顔でうなずいた。
「黒姉ちゃんは梅林で修行。啓子さんとあさぎ姉さんとあかねちゃんは、畑で収穫しているよ」
男はデジカメと三脚を持ってくると、幸に声をかけた。
「幸、起きなさい。写真を撮ろう」
「え、写真」
「あぁ、家族写真だ、もうすぐ、佳奈さんと洋品店のおばさんも来るよ」
幸は跳ね上がって起きあがると、満辺の笑みを浮かべた。
「びっくりした。いいの、お父さん」
「いいよ」
男がうなずいた。
「なんか、嬉しいなぁ」
少し、幸が涙ぐんだ。
「ありがとう、お父さん」
「こちらこそ、ありがとう」
男は静かに笑みを浮かべた。
そして、思う。少しでもこの幸せが長く続きますようにと。