遥の花 雨夜閑話 三話

「私、おじさんに罪を被せようとしました、大声で痴漢って叫ぼうとしました」
全員が硬直した、男や幸までも。

全員がテーブルにつき、晩御飯を食べようとした瞬間だった。倉澤は突っ立ったまま、ぼろぼろに涙を流していた。
「えっと・・・」
啓子が呟いた。
「ここは先生が倉澤さんを泣かしたということで収めればいいのではないかと」
「そう・・・、だね。お父さん、倉澤さんに謝ろう」
幸も呟く。
「ごめんね、倉澤さん。だから、もう泣かないでくれるかな・・・」
男はどうしたものかと戸惑っていた。取り合えずというのは嫌いだが謝ってこの場が収まるのならそれでいい。
「ごめんなさい、私、おじさんや皆さんにこんなに優しくして貰って、なんだか、とても自分が悪く思えて、ううん、とっても悪い人間だから・・・」
幸は立ち上がると倉澤をぎゅっと抱き締め、そっと彼女を座らせた。
「そのことは許すよ。倉澤さん、男二人に脅されてのことだよ、男はとっても恐い野生動物だからね、仕方ないよ」
男以外のここに居る全員が、あんたは違うでしょという突っ込みをぐっと抑える。
「お父さんも怒ってないし、幸も怒ってないよ」
男は既にナポリタンを食べだしていた。それを見て、啓子も食べ出す、おおよその予想がつく、父親以外の男が如何に邪悪な存在か、幸の演説が始まる、話が終えるころにはすっかりナポリタンも温野菜も冷めてしまうだろう、
「啓子さん、トマト、美味しいですよ」
「今までのトマトって、偽物だったんじゃないかって思うよね」
恵の言葉に啓子が頷いた。
「それ、言えてる。あたしもここのトマトなら食べられるもの」
礼子が嬉しそうに言った。
幸は出先を挫かれて、ううっと唸っていたが、肩を落とし言った。
「倉澤さんも早く食べよ、暖かいうちに」
幸が男の横に戻る、男は幸の頭を撫でた。
「ちょっと成長したね」
「お父さんが一番最初に食べ出したよ」
幸が拗ねたように男を見つめた。
「お腹減ってたからね」
男が少し笑う。
「お腹減っている人達にまだ食べるなと言っている自分を想像してごらん、孤独な独裁者になってしまう、独りぼっちになってしまうぞ」
男はくすぐったそうに笑うと、手を戻し、サラダを食べる。
「幸の育てたトマトは美味しい」
幸は溜息をつくと、ナポリタンを食べ出した。
「今日は啓子さんにも叱られたし、お父さんにも叱れたよ」
「つまりは今日だけで幸は随分と成長したわけだ。おめでとう」
「おめでとう、幸さん」
啓子が笑った。
「幸さん、おめでとうございます」
恵まで楽しそうに幸に声をかけた。
「あ、なんだか、嬉しい気分。あぁ、幸は単純すぎるよぉ」
幸が俯いて頭を抱えた。
「おめでとうございまーす」
礼子と理恵子が声を合わせて言った。
「あ、あの、えっと、おめでとうございます」
分からないなりに、倉澤まで幸に声をかけた。
「自分で一人喋るより、いっぱい、声をかけて貰う方が楽しいだろう」
幸はそっと顔をあげると呟いた。
「うん、ありがと・・・」
皆が声を出して楽しそうに笑う。
二時間近く、お喋りをしながらの晩御飯は、幸にとってとても楽しいものだった、それは倉澤も同じで、こんなふうに自分の今までと変わってしまうのが信じられないくらいだった。
男は食べ終えると、食器を洗おうと立ちかけたが、ふと思いつき、幸に声をかけた。
「幸、倉澤さんに数学を教えてあげてくれるかな、それに恵さんにも頼んでくれないか、彼女に英語を教えてくれるように」
幸は恵が高校の英語教師になるつもりだったのを思い出した、もっとも、非合法組織のスカウトにふらふら付いて行ってしまい、今に至るわけだが。
「それいいな、うん、頼んでみるよ」
男は頷くと、流しへと向かった。
恵はととっと幸の横に来ると、興味深そうに幸の顔を覗き込んだ。
「幸さん、何をすれば良いですか」
「倉澤さんに英語、教えてくれないかな、何カ所か勘違いしているところ、直したら一気に理解が進むと思うんだ」
「幸さんの仰せなら、例え火の中、水の中」
「つまり冬は暖い炬燵の中、夏は冷たいプールの中ってことだ」
啓子が笑った。
「穿ってるなぁ、啓子お姉ちゃんは」
「えっ・・・、お姉ちゃんって」
啓子が驚いて恵を見つめた。
恵は気にする風もなく、倉澤の隣りに座る。
「早紀お姉ちゃんって呼んでいい」
恵が屈託なく笑みを浮かべる。
「は、はい」
「私のことは恵って呼び捨てにしてください。これから早紀お姉ちゃんに英語を教えてあげます」
「恵ちゃんって、ひょっとして帰国子女なの」
恵は横に首を振ると、じっと倉澤を見つめた。
「ネイティブは自信ありません、でも、受験英語にはかなり自信有ります」

啓子が小声で囁いた。
「幸さん」
「ん・・・」
「恵・・・、ちゃん。のりのりだ・・・」
「凄いよね」
「おっきいお姉ちゃん達、なにか」
「いいえ、何も・・・」
幸と啓子の声が重なった。

男は部屋に戻ると、机に置いた茶封筒を掴んだ、珍しく郵便受けに入っていたものだ。ごみ箱にと思ったが、気を取り直して開封する。
白紙の便箋が一枚。
「今頃、本家がどの面下げて、ってな話だが、白澤のおばさんには義理がある」
男は吐息を漏らすと、椅子に座ったまま目を瞑った。
男は子供の頃の、みずち家に囚われていた記憶を蘇らせる、殺されずに抜け出せたのは、白澤妙子の機転と勇気によるものが大きい。
幸と本家に乗り込んだ時、無理にでも連れ帰れば良かったのだろうか。一緒に帰りましょう、恩返しをさせてくださいと言った言葉に偽りはない。
「お父さん、いい」
襖の向こうから幸が男に声をかけた。
「どうぞ」
幸は男の部屋に入るとにっと笑った。
「恵さん、凄いよ。教えるのが巧くて的確だ」
「そっか、人ってのは本当に面白いな」
「お父さん、一歩、引くといろんなものが見えて来るし、現れて来るね」
「幸 おいで、そしてね、父さんに背中向けなさい」
「こうかな」
幸は椅子に腰掛けた男の前に立つと、男に背中を向けた。
男が、左手を摩るように幸の首の後ろから、肩、背中へと触れていく。
「滞ってたのが、綺麗に流れている」
男が手を戻すと同時に幸が振り返る。
「お父さん、ありがとう」
「父さんはちょっと方向を指さしただけ、実行したのは幸だよ。でもさ、ありがとうって言われると、嬉しいな。幸、ありがとうって言ってくれて、ありがとう」
幸は男をぎゅっと抱き締める、ふと、手紙を見つけた。
「お父さん、これは」
「招待状だ。観月の宴。もっとも、ホテルの中なんだから、月を愛でるのは目的じゃない」
幸は男にしな垂れかかったまま、右手で便箋を男から受け取った。
「白澤さんからの御指名かぁ、幸は苦手だ、あのおばさん、喧嘩になっちゃう」
「向こうもそう思っているんじゃないか」
男が笑った。
「それに、お父さんを子供扱いするんだもの」
「まっ、年寄りは得てしてさ、そんなものだよ」
「あれ、お父さん、これ、今日だよ。もうすぐ、始まる」
「律義に最初から座っている必要はないさ」
「お父さんは行くつもり、それなら、幸がボディガードについて行くよ」
「それは安心。幸がいてくれれば百人力だ。でも、だめ。ここにいなさい」
「行く、行く、行くよ。幸にはお父さんを護る義務が有るもの」
「そんな義務はないよ」
男は笑みを浮かべると幸を立たせた。
「啓子さんも恵さんも言ってたけど、ここはシェルターみたいなものだ。そして、ここがその機能を果たすには、鍵である父さんか、畑を作って地に深く縁が出来始めた幸のどちらかがいないといけない、昼間ならともかく、夜、長く二人がここを空けるのは良くないんだ」
「うん、・・・わかった」
幸が素直に頷く。幸の心に皆を護ろうという意識が芽生えたこと、男は少し寂しくもあったが、それ以上に嬉しく思う。
「娘の成長を見守ること、これは父さんにとってとても嬉しいこと。随分と成長したね」
「だって、お父さんを信頼していますから。でも、ピンチだって思ったら、お父さん、必ず、幸を呼ぶこと、一瞬で駆けつけます、抜き身の刀、担いで、いいですね」
「思いっきり叫ぶことにするよ」
男が笑う、幸は安心したように笑みを浮かべると、自分の髪を一本、抜く。
「幸の体はすべてお父さんからいただいたもの、髪の毛、一本、お返しします」
幸が男の右肩、ほんの数センチ、残った腕の後に髪の毛を巻く。
そして、目を瞑り、微かに言葉を呟く。
やがて、うっすらと男の右腕が現れ、実体化した。
「幸の育てたお父さんの右腕です。どうぞ、使ってください」
男は久しぶりに見る右手、その指先を少し動かして見る。まったく違和感がない。
「父さんは、この右手で、お箸を持ったり、ボールペンを持ったりすると思う。いや、ひょっとしたら、敵を殴っているかもしれない。でも、最初の仕事は」
そっと、男は幸の頬を右手で触れた。
「この右手に、幸の優しさ、やわらかさを覚えさせることだな。ありがとう」
男は少し恥ずかしげに笑みを浮かべると、部屋を出た。
幸はしばらくの間、ぼぉっと余韻に浸っていたが、はっと気が付くと慌てて叫んだ。
「幸乃さん、幸乃さん」
「はぁい」
幸乃が幸の前に現れた。
「お願いです、お父さんの後を追ってください」
「お父様を信頼していますって、聞いた記憶があるけど」
「でもでも。お父さん、ピンチになっても幸を呼ばないよ」
幸乃はいたずらげに笑みを浮かべた。
「幸を危険な目に合わすことはできないってお考えになるでしょうねぇ」
「だから、幸乃さん」
幸が涙目になって幸乃に嘆願した。
「泣きなさんな。呼んだら、すぐに来るのですよ」
「はい、行きます」
幸乃は仕方無さそうに笑みを浮かべると、そっと幸の頭を撫でる。
「お父様以外のことでしたら、随分しっかりしましたのに。しょうのない子」
幸乃はそっと笑うと姿を消した。

「幸さーん」
啓子の呼ぶ声が聞こえた。
「ここです、お父さんの部屋、どうぞ」
幸が声をかける、ゆっくりと襖が開き、啓子がのぞき込んだ。
「幸さんに数学を。・・・泣いていたの」
幸の眼がまだ涙に濡れていた。
「お父さんが出掛けてしまって、なんだか寂しい」
微かな笑みを浮かべ呟く。
そして、先程の便箋を啓子に見せた。
「白紙ですけど・・・」
幸はゆっくりと立ち上がり、啓子の目頭を指先で触れる。
「あ・・・、書いてある。観月の宴。日付は今日だ」
「様々な呪術の組織が集まって、鬼への対策を協議するらしいよ。多分、警察や自衛隊からも参加がある、大きな集まりだね」
幸は啓子から便箋を受け取ると、封をし、机の上に置く。
「これで鬼が減れば暮らしやすくなりますね」
「人類と鬼達は表裏一体。ともに存在し続けるのが正常なのさ、でも、今は人の力が弱くなり過ぎて、吊り合わなくなってしまっている。それが問題の根本だ。ただ、お父さんは協力しないだろうなぁ」
「先生はどうして」
「希代の術師 無は鬼も嫌いだけど、呪術師も同じように嫌いだからね。さて、二人に数学を教えてくるかな」
部屋を出かけた幸に啓子が声をかけた。
「幸さん、言葉がおとなしくなった」
幸が振り返ってにっと笑った。
「日々学習、ありがと、啓子お姉ちゃん」

男はとある名の通ったホテルの前にいた。入り口の自動ドアで、正装したドアボーイが案内してくれるといったホテルだ、普段着では入りにくいホテルだが、意を決して中に入る。
「千尋ちゃん、こっちよ、こっち」
仕立ての良い着物を着たおばあさんが笑顔で男を手招いていた。
男の通り名を知っているのは幸と佳奈。それに、本家の年寄り連中だけだ。
「名前を呼ぶのは勘弁してください」
男が困り切ったように笑った。
「ごめんなさいね、だって、懐かしかったのだもの」
「しょうがないですね」
男は白澤に近寄ると会釈をした。
「白澤さんもお元気そうで何より」
「いいえ、あちらこちら、がたが来ていますわ。早くお迎えがこないかしら。おや、今日はあのこまっしゃくれたわるがきは付いて来てはいないようね」
「ええ、留守番をさせて」
「よお、ばあさん。無駄に元気そうだな」
幸乃が男のお腹から頭だけ出して、白澤に笑いかけた。
一瞬、白澤が笑みを浮かべたまま、硬直した。
「どうだ、びっくりして、その辺、お迎えが来てないかな」
幸乃は蠢くようにして、男のお腹から這い出ると、男と白澤の間に立つ。
「電話一本で、あたしが、お向かえ呼んでやるから、いつでも連絡くれよな」
男は驚いて、幸乃に声をかけた。
「どうしたの」
幸乃は振り返ると男に笑みを浮かべた。
「私はおまえ様の妻です。妻が夫の横にいて何の不思議がありましょう」
幸乃は男の右腕に自分の左腕をからめると、そっと男を見上げた。
「怒っていますか」
「相当、甘い父親のようで、逆にほっとしていますよ。あれ、腕が」
男は幸乃の左腕の柔らかな感触を感じた。
幸乃が初めて恥ずかしげに笑みを浮かべた。
「右腕だけですが・・・。妹のおかげです」
茫然としていた白澤は意識を取り戻すと呆れたように笑った。
「相変わらずね、貴方は」
「お褒めいただきありがとうございます」
幸乃は平然と答えると、辺りを見回した。
「ホテル全体が澱んでいますわね。上から澱が滴って来るようね」
「会場は八階、鳳凰の間ですわ。さあ、どうぞ」
男はふとエレベータを見たが、視線をそらすと、職員用階段を見つけ、そちらへ向かう。
幸乃が振り返り、白澤に言った。
「おばあさん、無理せずエレベータをお使いくださいね」
「エレベーターに食われるような、人生の終わり方はまっぴら」
嫌みたらたら白澤が答えた。

鳳凰の間の前では、記帳のための席が設えられ、対応のため、女性が二人、座っていた。
男はふと立ち止まり、幸乃に話しかけた。
「父さんの中に隠れていなさい、鬼も術師もたいした違いはない、部屋の中は障気で満ちているようだ」
幸乃はうなずくと、男の体に溶け込んだ。
「本当にお前の娘は人間ばなれしているねぇ」
白澤がほとほと感心したように言った。
「ちょっとした個性というものですよ」
男は笑うと、そのまま、何事もなかったように部屋へと入って行った。
「記帳もせずに扉を開けるお前もなかなかのものです」
ふと、白澤は男の若い頃、まるで刃のような気配を漂わせ人を否定していた頃と今の和やかになった男を思い比べ、これも娘のおかげかと納得した。

少なくとも鬼ではない、しかし人間と言い切るのは躊躇われる、立食パーティーの様を言葉にすると、そんな表現になる。
老若男女、様々な年齢の少しばかり、人間ばなれした異形のものたち、呪術の多くは神だとか、悪魔、魔物の力を借りて発動させる、言わば、人の体は力の流れる通路のようなものだ、しかし流れるのは力だけでなく、呪術者の多くはその力借るモノたちに体も考え方も従属し始めてしまう。ふと足元に気配を感じる、見下ろすと、芋虫のように体を波打たせながら、若い女が通り過ぎて行った。
「旧支配者の流れか・・・」
男は呟くと辺りを見渡した。いくつもの円形のテーブルが並び、そこかしこで談笑が交わされている。この談笑の影で、鬼対策の会議が開かれているのだろう。
美しい女が、笑顔を浮かべ、接待だろう、ワインを注いだグラスを男に差し出した。
「赤ワイン、それとも白ワインがよろしいでしょうか」
男は少し寂しそうに笑みを浮かべると、手でそっと制した。
「アルコールは苦手なのです。体が受け付けないので」
男はついっと女の持つグラスの載ったプレートを片手で支え、顔を寄せ囁いた。
「派遣会社からいらっしゃったのですね。君の名は田中さん、私の娘と同じくらいの年格好だ、ここは恐くないですか」
引きつったような声で女が呟いた。
「ごめんなさい・・・」
女が笑みを浮かべたまま、涙を流した。
「正直にどうぞ」
「恐くて仕方がありません」
男はプレートを受け取り、テーブルに置いた。
「エレベーターはいけません、喰われてしまいます。階段を思いっきり走りなさい、そして、このホテルから逃げ出しなさい。もしも、引き留められたときは・・・」
「引き留められたときは」
男が呟いた。
「我、無の眷属なり、我に触れるな。そう、叫びなさい」
男はふわっと女の後に廻ると背中に触れた。軽く押す。
「走れ」
男の言葉に女が駆けだした。

「こんなところに普通の人を入れるなんてな、餌にでもして楽しむ気か」
男は呟くと、もう興味をなくしたように辺りを見回す。
見つけた、あかねちゃんだ。
あかねがテーブルについていた、随分と顔色が悪い、疲れ切っているようで顔を上げているだけで精一杯のようだ。
男が駆け寄る、瞬間、二人の間を黒い影が遮った、ふわっと男は高跳びのように、身を翻し反転すると同時に影を蹴り上げる、影に当てる寸前、男は脚を止めた。
「女の子、猫か・・・」
三人の女の子が身を守るように腕で顔を守り、うずくまっていた。
男は背を向けると、あかねに向き直った。いつの間にか、白澤があかねの横に座っていた。
「困った子、攻撃の早さと速さは相変わらずね」
白澤が溜息を漏らす。
男はあかねの横に座り、その手首を見つめる。あかねの手首には呪府が幾重にも巻かれていた。
「迷惑をかけないようにと、そうしたのだろうけれど、だめだよ。でも、頑張ったね」
男はそっとあかねの頭をなでる。そして、あかね越しに白澤を見つめた。
「助けてくださったのですか」
「ええ、お前が蹴り飛ばそうとした、私の曾孫三匹がね」
呆れたように、白澤が笑った。
とたたたっと三人の女の子が駆け寄ってきた、普通の女の子、しかし、瞳だけが、まさしく猫の眼だった。
「せっかく、交渉しようとしたのに」
「そうだよ、予定外だよ」
「おっさん、器用すぎるぞ」
口々に言う、猫女。
「がきが何か、いいえ、お嬢様がたが何やら交渉とか、おっしゃってますが」
「ちょっと、お前にお願いしたいことがあってね」
「こら、おっさん」
「無視するなよ」
「あぁ、何様のつもりだ」
白澤がぎろっと猫女を睨み付けた。一瞬に三人とも小さく縮こまってしまう。
「お前の娘ほどではありませんが、どうも、今時の娘は口が悪すぎます」
「テレビの影響もあるのでしょうかね」
男がとぼけたように言う。
「ところで」
白澤は笑みを浮かべ男に言った。
「お前の娘が大層大事にしているこの子を囚われの身から解放しました。そのかわりにと言ってはなんですが、私の曾孫にそれぞれ一つずつ、お前の術を教えてやってくれませんか」
「本家の術が正当、私のは随分、我流が加わってしまってお教えするほどの価値はありませんよ。なにより、白澤さんなら、当主の義兄も嫌だとは言わないでしょう」
「もちろん、言わないでしょうけどねぇ・・・」
白澤は思案げに顔を曇らせたが、意を決したように男を見つめた。
「本家は独自に鬼と闘う体制を整える予定です、連合には入りません。そのためには確実に鬼を仕留める術が必要です」
男が仕方なさそうに笑みを浮かべた。
「白澤さんの本意が、本家を守ること、一点に集中していること、余程、初代は魅力的な男だったのでしょうね」
「例え、人の身ではない私でもね、丁度、お前と娘の関係のようなものですよ」
「上では、会議中、それぞれの派が警察と自衛隊の特殊部隊に、術と技を提供する方向で決まりつつあるようです、本家なら、指導的立場になれますよ」
「本家の術を流出させるわけにはいきません」
男は視線を戻し、俯き考える。やがて、顔を上げると、白澤に言った。
「一つだけ条件を呑んでください、そうすれば、教えましょう」
ほっとしたように白澤が笑った。
「条件とは」
「こいつら、三人とも避妊手術してありますか。猫も少しなら可愛いけれど、数か増えて、あちらこちらで、糞をされても困りますし、盛りがついて屋根で鳴かれたら眠れません」
「なにいってんだ、このやろう」
「人権蹂躙だ」
「顔洗って出直せや」
男が愉快そうに笑った。
「避妊手術はしておりませんが、猫又は猫とは体の仕組みも違いますから増えることはありませんわ」
白澤が愉快に言った。

男はあかねを背負い、猫娘三人を引き連れ、階段を駆け下りていく。飛ぶように降りていく。
「なんで、人間があたし等より速いんだよ」
「スピード違反だぞ」
「女を大事にしない男は最低だ」
男は無視して駆け下りていく、一階ロビーに到着すると、速度を緩めないまま、閉まりかけた自動ドア、すり抜けホテルから飛び出した。
ふと、男はホテルから少し離れたところに先ほどの女がうずくまっているのを見つけた。
ふわっと、男の横に幸乃が現れた。
「あの子、ホムンクルスですわ」
幸乃が男に言った。
「人造人間・・・、でも、まったくの人間だ」
「ええ、なんの力も無い普通の人間仕様です」
男は幸乃と一緒に、女に駆け寄ると声をかけた。
「大丈夫ですか」
女は男を見つけると、ほっとしたように笑みを浮かべた。
「先ほどは助けていただきありがとうございます」
「どうしたのです」
困惑したように女が言った。
「私は何処へ行けばいいのでしょうか、何も思い出せない」
幸乃がじっと女を見つめる。
「景品として作られた、食用、愛玩用ですわ。簡単な記憶を設定しただけの」
男が小さく呟いた。
「術師も鬼もたいした違いはないな」
「おまえさま、右手で彼女の額を抑えなさいまし、そして、名前を。でないと、彼女は消えてしまいますわ」
男はそっと女に囁いた。
「生きていたいですか」
女が戸惑いながらもうなずいた。
男は女の額にそっと右手を触れると、小さく囁いた。
「私が君に名前を付けます」
男が言葉にならない音を呟いた。一瞬、女が吹っ飛びかけたが、猫娘三人、慌てて、後から女を支えた。
男がそのまま座り込んでしまった。
「幸乃、どうしようか。幸はびっくりするたろうな」
「あかねちゃんはともかく、四人も女性が増えてしまいましたわね」
幸乃が気楽そうに言った。

「まっ・・・、この方はお父さんが名前をつけたわけですから、姉妹として歓迎します、事情は幸乃さんに教えていただきました。でも、この猫娘三人は白澤九尾猫を思い出してしまって、幸はいじめてしまうかもしれませんよぉ」
あかねを寝かせつけた後、幸は男に泣きついた。
猫娘三人、直立不動で緊張していた、幸に一睨みされ、震え上がってしまったのだ。
「本当にいるんだ・・・」
啓子が興味深そうに猫娘を見つめた。恵や礼子、理恵子に倉澤は、襖の向こうから顔だけ出して、興味深そうに覗き込んでいた。
「質問いいかな」
「な、なんだよ」
手前の猫娘が答えた。
「二股になった尻尾はないの」
「人型に化身して、尻尾だけ残すような愚かなことはしない」
「でも、瞳はまるっきり猫だよ」
「眼は難しいんだ、でも、普通の人間からは、猫の目には見えてないはずだ」
緊張したまま、答える。
啓子はうなずくと、襖の向こうを手招きする、待ってましたと恵達がやって来た。
「猫の目に見える人」
啓子が声をかけると、恵と倉澤が手を上げた。
「早紀ちゃん、見えるの」
礼子が驚いたように言った。
「うちで飼っていた、たま三号と同じ目ですよぉ」
倉澤が答える。幸乃は礼子と理恵子の後ろに立つと言った。
「人差し指を瞼の上に置いて、目を細くして、ちょっと睨むように見てごらんなさい」
言われたように、目許に力を入れ、じっと見つめる。
「わっ、凄い。見えた」
二人、同時に声を上げた。
幸乃は少し笑うと、男に助け舟を出した。
「幸、この子達にお礼を言いなさい、あかねちゃんを助け出してくれたのですよ」
幸はううっと唸りつつも、顔を上げ、ひきったような笑みを浮かべた。
「ありがとう、とっても感謝しています」
「ご、ごめんなさい」
「どうして謝るの」
「雰囲気が怒った時の白澤のばあさんにそっくりで・・・」
うっ・・・、幸が息を飲んだ、一番、言われたくないこと。
ふと、男が思いついた。
「幸が三人に教えてやってくれないかな、術を」
幸は大きく深呼吸をすると、気持ちを入れ替えるように頭を振った。
「お父さんの命により、幸はこの子達に術を一つずつ教えます。ただ、厳しい修行になりますので、ひょっとして幸がいじめているように見えることもあるかもしれません。でも、それは誤解でありますこと、ここにあらかじめ宣言します。さて、貴方達、名前を教えなさい」
「ま、まだ、ないんだ」
幸の言葉に恐れつつ、一人が答えた。
「なら、左から、白、黒、三毛。名前決定。幸は貴方達の名付け親です。決して、逆らうことを許しません」
一気に言うと、幸はぱんと両手を叩いた。猫娘が瞬間、三匹の猫に戻ってしまった。左から、白、黒、三毛猫。おおっと礼子や理恵子が感嘆の声を上げた。
「お風呂、直行」
幸が声を上げた。
「黒、もーらい」
啓子が黒を抱き上げ風呂場へ向かう。
「お姉ちゃんずるい」
礼子が白を抱きかかえた。
恵は三毛の横にしゃがむと、尻尾を手で持ち上げた。
「根元は一本で、後ろ、半分位から二本に分かれているんだ。面白いなぁ」
倉澤もしゃがむと、尻尾の断面を見る。
「分かれているところ、内側は平らですよ。本当に縦半分に割れた感じですねぇ」
「時間が経つと、その平が丸くなっていくかもしれない、それで、いつから猫又になったかが分かるかもしれないよ」
恵が立ち上がる。
「お姉ちゃん、どうぞ。恵はあんまり、猫、得意じゃないから」
三人、猫を風呂場へと連れていった。
「シャンプーとトリートメントで、毛が無くなるくらい、がしごし洗ってくださーい」
幸が三人に声をかけた。
幸乃は男に少し手を振り、笑みを浮かべると、幸の体に戻って行った。
「賑やかになりますねぇ」
恵が笑った。
幸は、ほっとして、畳に座り込むと、少し笑った。
「面白いよね。そうだ、お父さん」
「ん」
「倉澤さん、今晩は泊まることになったよ」
「合宿気分で楽しそうだな」
幸はにっと笑うと、所在なげにしている女の手を握った。
「普段の名前をつけて上げてください」
男は女の眼をじっと見つめる、そして、笑みを浮かべた。
「あさぎ。で、いかがですか。これから成長して行く植物の色。これからたくさんのことを覚えて行く君にちょうどいいかな」
「あ・・・、ありがとうございます」
「あさぎ姉さん、どうぞ、よろしく」
幸は笑みを浮かべると、しっかりとあさぎの手を握った。

皆が寝静まった後、男は起き出して、台所で水を飲む。テーブルにつき、ガラスコップにいれた水を眺める。
男はあかねのことを考えていた、詳しい状況は聞かない、でも、相当に苦しめられたことはわかる。酷な話だ。
男はふっと顔を上げると闇に声をかけた。
「シャンプーの香りが体中から発散してますよ」
男が笑みを浮かべると、闇の中から黒が現れた。
「どうぞ、座ってください」
男の言葉に、黒は警戒しながらも、テーブルの反対側に座った。
「眠れませんか」
「いや、人間のように夜に寝るという習慣がないだけだ、それに、啓子さんに押し潰されそうになって逃げてきた」
男が声をひそめて笑う。
「そこそこの鬼くらいだったら、啓子さんは素手で倒してしまいますよ。とばっちり受けないよう気をつけてください」
「あんたがあたしらに直接教えてくれないのは、術が惜しいからか」
黒は男を睨むようにして言う。
「白澤のばあさんの命令はあたしらには絶対だ。どんな強敵相手でも戦わなきゃならない。どうしても強くなりたいんだ」
男は困ったように笑みを浮かべた。
「私と幸では、遥かに幸が強く、また、教えるのもうまい。それに、幸は真直ぐですから、貴方方が真剣に学びたいと思えば、それに誠実に答えるでしょう。私は本家とのわだかまりがあります。誠実に教える自信に欠けるのですよ」
「娘の方が強いというのか」
「なんていうのでしょうね。大事な娘が男に泣かされては大変、しっかり強く育てなきゃと、ん・・・、強く育てすぎたかな」
男は小さく笑うと、黒に笑みを浮かべた。
「多分、白澤さんもあなた方のこと、思うばかりに、ある意味、敵対する私に自分の血族を委ねたのです。本家を名目だけでなく、実質的に再興させるためにという理由もありましょうけど、ともかく、私の術を身につければ、あなた方が殺されることはなかろうとね」
男は視線を少し上げる。
「幸、この子達は幸の娘でもあるわけだ。名付け親だからね」
黒の両肩に幸の手がそっと触れた。びくんと黒が震え、硬直する。
「親としては娘三人の行く末が心配だ」
幸は黒に顔を寄せると声をひそめ囁いた。
「いつまでここにいられる」
「八日間だ」
「短いなぁ、もっと楽しみたいのにな」
幸はふっと笑うと、黒の横に座った。
「黒が姉で、白と三毛は姉に従って、白澤のばあさんの言うことを聞いている、そんなとこだな。黒、八日間、寝ずに修行できるかな」
「で・・・、できる。もちろんだ」
「なら、今から修行、大丈夫、半日くらいは休まさせて上げるよ」
幸は男に向き直った。男が笑みを浮かべた。
「幸の仕事は、父さん、頑張るよ。啓子さんや恵さんもいるからさ、なんとかなるよ、それにあさぎもね。だから、しっかり教えなさい」
「ありがとう、お父さん」
幸はほっとしたように笑みを浮かべると、黒に向き直った。
「あなた達がどんなに大変な思いをして、危険の中、あかねちゃんを助けてくれたかということ、わかっている。本当にね、感謝しているよ」
幸は両手でしっかりと黒の手を握った。
「だから、覚悟してください。しっかり、教えます」

空は下弦の月、梅林の中、幸の前に三人の猫娘が立つ。
「あなた達の体は人の体よりも自在に動きます、でも、それでも遅い。ですから、全ての無駄を排した最速の形を教えます。最初は素手。そのあと、武器術を教えます。それが終われば、呪術を教えます。最後は武術と呪術の同時発動を教えます。いいですか」
「はい」
緊張した面もちで三人が答えた。
幸は微かに左足を半歩引いた。
合わせて三人の足が動く。
「勝手に足が動いた」
黒が呻いた。
「三人の体は幸が操作します。まずは逆らわずに受け入れなさい。そして、経験しなさい、最速という無限の瞬間を」
幸が動き出す。しかし、それは。
幸の両手がゆっくりと前へと繰り出されていく、一分、五分、十分、十五分、その動きは遅くこれだけの時間をかけても一センチと前に出ない。
道筋。最速最短の道筋を確実に身につけるため、その道筋を時間をかけて辿る。すべての勢いを否定し、すべての力みを消し、微かなバランスの変化だけで移動していく。
幸の左手が上がり、右手が下がっていく。同じように三人の体が動いていく。ゆっくりと右足が上がっていく。
体全体が、バランスを保ちつつ、常に変化する。
三人が苦しそうに喘ぎだした。黒はたったこれだけの動きですら、苦しむ自分を情けなく思う。しかし、同時に、まったく無駄のない軌道、ぶれのない正確さをはじめて経験した、それはまさしく歓喜だった。

男と恵はあかねの枕もとに座っていた。
幸とあかね、恵の三人が一緒に寝ていたのだが、いま、幸は猫娘の指導に梅林へと向かい、恵が硬い表情をしてあかねを見つめていた。
「先生、あかねちゃんは・・・」
「体の傷は癒える、でも、心の傷がね。それが難儀だな」
そっと男はあかねの額に触れる。
「そうだな・・・」
男が小さく呟いた。
男は恵を見つめた。
「恵さん、壁にもたれてでいいから、あかねちゃんをしっかり抱きしめてやってくれませんか」
「私でよければ」
男はあかねの体を起こすと、恵にその体を預けた。そして、男は一歩、離れるとけっかふざに座り、意識を統一し始めた。
「私があかねちゃんの心の中に入り込み、彼女を浄化します。彼女はすべての人を拒絶してしまっている、うまく入り込まなきゃならない、少し、時間がかかると思う」
「はい、しっかり抱きしめています」
男は微かに笑みを浮かべると、小さくうなづいた。
「お願いします」

啓子が布団から体を起こした。隣りには礼子と理恵子、倉澤とあさぎが安心しきったように寝ていた。
猫娘、三人とも戻ってこない、今頃、幸さんに稽古をつけてもらっているのだろう、そして先生は、あかねちゃんをあのままに寝ていられる人ではない。
啓子はぐっとお腹に力を入れた。しっかりしろと、自分に言う。
啓子は起き上がると家の玄関、上がり口に座り、陣を整えた。
この家を支えている二人が身動きできない以上、自分がこの家を、シェルターを守らなければ。

明け方近く、男は軽く啓子の肩を叩いた。
「啓子さん、ありがとう。お疲れさまだったね」
「先生」
啓子は振り返ると心配げに男を見る。
「悪い方向へは向かわないと思うよ、あとは諦めずに日数をかけて待つだけだね」
「先生はいい人ですね」
「本当はいい人じゃないんだけどね」
男は困ったように笑みを浮かべた。
「あかねちゃんは恵さんが抱いててくれる。啓子さんも一寝入りしなさいな」
「幸さんは・・・」
男は梅林の方角を眺めた。
「あれは、一つどころか、全部、教えようとしているな。私が幸に武術も呪術も教えたけど、再構成して、幸はすっかり自分のものに仕上げている。だから、幸が全部教えてしまおうというなら、それもいい。私がとやかく言うことじゃない。敵になればなったで、頑張って戦うさ」
「黒は真面目でいい子ですよ」
「真面目すぎるのさ。啓子さんも真面目すぎるな、少し、頭の中、柔らかくしなさいな」
男は啓子の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「それじゃ、私はしばらく寝るよ。啓子さんも布団に戻ってゆっくり寝なさい」
男は自分の部屋に戻っていった。
啓子は一つ、溜息をつき、男がくしゃくしゃにした髪を両手で押さえる。
「お父さんか・・・、いいなぁ」

朝、男はテーブル二つを繋げて、並べた。人数を数えてみる、あかねちゃんを入れて十一人だ。テーブルを二つ繋げばなんとかなるだろう。
椅子は事務所で使っていたのもある。
「先生、おはようございます」
「おはよう」
啓子が少し眠たげに起き出してきた。
「何か手伝うことありませんか」
「それじゃ、納戸から椅子をあるだけ出してくれるかな」
「わかりました」
勝手知ったる他人の家、啓子が納戸へ向かう。あさぎと倉澤が起きてくる。
既に倉澤は制服に着替えていた。
「倉澤さんは家に寄ってから学校へ行くのかな」
「そうします。教科書も必要だし」
「これから朝ごはんを作るから食べてから行きなさい。あさぎ、恵さんとあかねちゃんの様子見て来てくれるかな」
「は、はい。見て来ます」
「ありがと」
男がそっと笑った。

「お父さん、お父さん」
幸が猫娘三人を引き連れ、あたふた、駆け戻って来た。
「ごめんなさい、朝ごはんを作るよ」
「無理するな。徹夜したんだろう」
男は幸の頭を軽くぽんぽんと叩くと少し笑った。
そして、猫娘三人を見る。体はかなり疲弊しているが、精神状態は良好のようだ。
啓子と倉澤が椅子を並べはじめた。
「黒、白、三毛だったかな。椅子に座りなさい、一つおきにね。朝ごはんを食べよう」
「あたし達が同席してもいいのか」
「みんなで一緒に食べる方が楽しいだろう。ご飯は多めに炊いている、しっかり食っておかないと体がもたないぞ」

「おはようございます」
礼子と理恵子が起き出してきた。
「礼子、朝ごはんを作るよ」
啓子が声をかけた。
「はぁい。理恵子ちゃん、一緒に作ろう」
「うん」
三人が台所へと入って行く。
「お父さん、賑やかだね」
幸が改めて納得した。
「人が多いのも楽しいね」
「そうだな、こういうのもいいもんだな」
幸の表情が少し陰る。
「お父さん、あかねちゃんは・・・」
「あさぎと恵さんが肩を貸して連れて来てくれる、昨晩、あかねちゃんの心に入って来たよ」
「どうだった」
「日数をかければ、元のあかねちゃんに戻るよ。あきらめずに待ちなさい」
「お父さんがそう言ってくれるなら幸は安心だ」
幸は三毛の向かい、下座に座ると、台所に向かって声をかけた。
「啓子さぁん、幸はお腹ぺこぺこで一歩も動けませんよぉ」

全員、テーブルに着く。黒の隣りに啓子が座り、幸はあかねの隣りに座った。
ご飯にお味噌汁、漬物に卵焼き。
啓子が立ち上がった。
「ご飯、おかず、お味噌汁、お代わりはいっぱいあります。しっかり食べてください。それでは、いただきます」
口々にいただきますと言い、朝ごはんをいただく。
あかねは一切の表情が沈み、かろうじて目を開けているだけだったが、幸がお箸でご飯を少しずつ食べさせると、嚥下する。ほっとしたように幸は笑みを浮かべた。
啓子は興味深そうに黒を見た。
「黒は好き嫌いとかあるの」
「食べれるものはなんでも食べるさ。啓子さんだって食ってしまうぜ」
礼子が身を乗り出した。
「だめだよ、黒ちゃん。お姉ちゃんなんか食べたら、お腹こわすよ」
「なるほど、お腹、こわして苦しむのはいやだな。それに」
黒がご飯にお味噌汁を掛ける。
「これの方が百倍、美味い」
「かっこいいなぁ」
理恵子が言った。黒は照れたのか、顔を背ける、そして、味噌汁ご飯を一気に飲み干した。
「お姉ちゃん、お代わり、いいかなぁ」
自信無げに白が黒の顔を伺う。
黒が振り返り、礼子越しに白を睨みつけた。
しゅんとして、白が俯いてしまった。
「お代わりあるって言ってただろう」
黒が白に強く言う。
「ごめんなさい」
白が余計に俯いてしまった。
啓子が仕方無さそうにため息をつく。
「幸さん、どうしたものかなぁ」
啓子が幸に話しかけた。
「黒はさ、妹たちをしっかり守らなきゃって、思いが強くてね、それはいいんだけど。結果としてこういう態度になる」
「あ、あの。笑えばいいんじゃないでしょうか」
倉澤が思い切って声を上げた。
幸がうなずいた。
「それいいよね、うん」
幸はゆらっと立ち上がると、黒に笑い掛けた。
「黒、大声でさ、あははって笑ってごらん。楽しいよ」
「楽しくもないのに笑えるか」
「そうだよね。黒はそう言うだろうなぁ。啓子さん、右お願い。幸は左」
幸が叫ぶ、啓子は立ち上がると、素早く黒の右手を取り、幸は黒の左腕を抱えた。
二人で黒を羽交い締めにする。
「倉澤さん、黒の喉、ごろごろってこそばせて」
幸の声に、倉澤は立ち上がると、あたふた、倉澤は走り寄り黒の喉を飼い猫にしていた要領で、指先、なでるようにこそばせる。
「そ、そんな、ことで、わ、笑う、か」
息を上げ、黒が叫ぶ。
「大丈夫だよ、力を抜いて素直になろうね。ほうら、喉が鳴ってきたよぉ」
倉澤が黒をあやすように言う。
男は隣りに座っていたあさぎの肩をとんとんと叩く。
「はいっ」
驚いたようにあさぎが振り返った。
「あさぎ、あははって声を出して笑ってごらん。黒は恥ずかしがり屋だ、皆が声を出して笑ったら、安心して笑うと思うよ。あさぎにとっても声を出して笑うのはいいことだと思う」
男の言葉にあさぎは思い切って笑い出す。それを見て、礼子や理恵子も笑い出した。幸や啓子も黒を抑えながら笑う。いつの間にやら、猫娘 白も三毛も笑い出した。
黒はのけぞりながら目をつぶっていたが、いきなりふっ切れたように笑い出した。
「あはははっ」
幸と啓子が腕の力を抜くと、黒は床に倒れ、そのまま、笑い続ける。苦しそうに息をしながら笑い続ける。
やがて声が収まり、倒れたまま、黒が呟いた。
「なんだか、自分の中の支えていたものが消えてしまった」
「それはさ」
幸は黒の横に正座し、膝に黒の頭を載せた。
「それは黒を支えていたものじゃない、コンクリートや鉛みたいに、黒を重く固めていたものだ。これから、もっと良い動きができるようになるよ」
「お姉ちゃん、ごめんなさい」
白と三毛が不安げに黒に寄り添っていた。
黒は笑みを浮かべると二人の頭を優しくなでる。
「ありがとう、白と三毛がいてくれて、姉ちゃん、とても幸せだ。これからもよろしくな」

「うわっ、時間だ」
急に倉澤が叫んだ。
「ごめんなさい、学校行きます」
「いってらっしゃい」
幸が笑みを浮かべた。
「あの、また、帰って来て良いですか」
「いいよ、楽しみにしている。でも、泊まりはだめ、御両親、心配させてしまうからさ」
「はい、わかりました」
倉澤が元気に答えた。
八日目の朝、黒は男の前で頭を下げていた。
「先生、練習場所まで、私と付き合ってください」
男の部屋、書類の整理をしていた男は振り返り笑みを浮かべた。
「立ち方、歩き方からもわかるよ。幸にかなり仕込まれたようだな」
男は椅子から立ち上がると押し入れの中を引っ掻き回していたが、さらしで巻いた棒を一本取り出した。
「それじゃ、行くかな」
二人して、部屋を出、練習場所にしていた梅林へと向かう。
「黒はここに来て良かったか」
「はい、本当に良かったです。夢のような八日間でした」
「黒も白も三毛もね、幸の娘だからいつでもここに帰っておいで。というかさ、ここで暮らすつもりはないかい」
黒が驚いて顔を上げた。
男は笑った。
「いろいろあるのかもしれないけど、それも選択肢の一つに入れておいてくれ。幸も私もさ、大事な娘を戦場に送るような気がしてね、なんだか、辛いんだ」
唇をかみしめ、黒は俯いた。
三日前のことを、黒は思い出していた。
練習の後、必ず三十分の居眠りをする、脳に練習内容を強く焼き付けるためだ。木陰、幸が仰向けに寝転び、その両手をしっかりと白と三毛が握っている、黒は幸の頭辺りに寝転ぶ、いつのまにか、そう決まっていた。
「あの、母さん」
黒が幸に声をかける。
「ん、どうしたの」
幸は少し黒に顔を向け返事をする、幸は三人に母さんと呼ばせていたのだった。
「どうしてこんなに教えてくれるの、一つだけって約束だったのに」
「心配だから。黒達は鬼と戦うためにこうして学んでいる。親としては、あんまりね、行かしたくないんだ、鬼退治なんかにさ。でも、行かせなきゃならないのなら、万全の準備をさせて送り出してやりたい」
「たくさん教えてもらってとっても嬉しい、なんだか、本家で教わっていたのが遊びに思えてくる」
「それが、本家の今の実力だ。それを承知で白澤のばあさんは独自路線を選択した。厳しい話だな」
幸は二人を起こさないようにゆっくりと上半身を起こした。
背を向けたまま、黒に問う。
「ここで暮らすのは無理か。一緒に畑で野菜を作ったり、山羊や鶏を飼って。たまに、野菜の直売をやってみたり、もうすぐ始める喫茶店でお茶を運んでみたり、そんな、なんでもない日常を送りたくないか」
黒は幸の背中に額を押し付けて呟いた。
「白澤のおばあさんには生命を救ってもらった恩があるんだ、だから、戦わなきゃならないんだ」
幸は黒に背中を向けたまま呟いた。
「お父さんに猫又のこときいたよ。猫又には二種類ある。白澤のように長い年月を生きて生命の理というものに気づいた猫が猫又になる、もう一つが、そういった猫又に血を分けてもらった猫が猫又になる、黒達は後者だろうと話してくれた」
「気づいた時、私はゴミ袋の中にいた、いろんな変な匂いのするゴミと一緒に。青いゴミ袋の向こう、いくつもの家が並んでいて、女達が立ち話をしていた。体を動かして逃げ出したいと思ったけど、とっても体が重くて、意識もうっすらとして来て、あれ、確かに母さんの横で寝ていたはずなのに、どうしてなんだ、上を向けば、固く固く袋が結ばれていて・・・、声を上げることも動くこともできない、とっても、寂しかった、とっても恐かった。声が出ていないの、わかっていた、でも、何度も、何度も声を上げたよ、母さんって、母さんって。そんなとき・・・。白澤のおばあさんに会ったんだ。だから・・・」
「白澤のばあさんより、先に会えていたら良かったのにな。でも、今はね、幸が黒や白や三毛の母さんだよ。それは忘れないでほしい」

黒は足を止めた。
「ん、どうしたかな」
男は振り返ると黒の顔をのぞき込んだ。
「本家では汚いもの、忌むべきものとして扱われてきました。もちろん、白澤のおばあさんの手前、表立っては・・・」
男はくすぐったそうに笑った。
「最初、会った時、ごめんな、黒。悪く言って」
「いいえ。あぁやって言い合えたのは、なんていうんだろう、楽しかったんです」
「そっか、安心した。なぁ、黒、これも出会いだ、出会う縁があったわけだ。この縁、大切にしてほしい」
男はそっと黒の頭をなでた。

練習場所、間合いを充分に開け、男と黒は向かい合った。幸は白や三毛と一緒に、少し離れた場所で見守る。
「お父さん、よろしくお願いします」
幸が緊張した面持ちで男に頭を下げた
「卒業試験みたいなものだな。幸にかっこの悪いところ見せられないからさ、頑張るよ」
黒の求めに応じ、男は今までの黒達の練習の成果を見極めるため、立ち会うのだった。
男はさらしに巻いた棒を片手に黒に声を掛ける。
「まずは黒、自由に攻撃してきなさい。私を殺すつもりでね」
黒がぴくんと震えた。しかし、微かに背を落とすと、ふっと力を抜いた、その瞬間、間合いを一瞬に詰め、両手を上段から打ち下ろした、その両手には幸の使う長刀が握られていた。男は斜め半歩前に進み、剣先ぎりぎりを避けた。
黒が男から一歩離れ、中段から男の胴をなぎ払う。
男はその風圧に圧されるように退き、剣先が過ぎた瞬間、すいっと黒の背中に移動する。
「良い感じだ。大抵の鬼なら体が四つになっている」
一瞬、黒が沈んだ、次の瞬間、弾けるように剣が男の胸に突き出された。
男は柔らかくそれを擦り抜けると、黒の頭を軽くぽんぽんと叩いた。
「次は私も攻撃しよう」
「はいっ」
息を切らし、黒が答えた。男は無造作に、黒から離れると、さらしを解く。
四尺三寸、筒が現れた。断面が楕円形の筒だ。
男が筒を片手に振り返る。
「杖術はね、もともと、相手を傷つけずに制することを大事としている、だけど、これはね、攻撃のための杖だ。攻防の中で、使い方を良く見ておきなさい」
男は黒の間合いに入ると袈裟懸けに杖を打ちおろした、黒の剣とぶつかった瞬間、剣もろとも黒が吹き飛ばされた。黒は空中で姿勢を立て直し、唖然と男を見つめた。
「わかるか、黒。これが手の内だ、微かに緩めると掴むとで、相手の力を、そのままに跳ね返してしまう」
「はいっ」
黒が興奮したように声を上げた。
「お願いします」
男がうなずく。
今度は黒が肩の高さに水平に剣を構える。一歩踏み出し、男の脇を斬る、男は剣の進行方向に杖を合わせた。剣が杖の上を走る、瞬間、男が沈み込み、黒を杖で突き刺す。黒に突き刺さる寸前、男は杖を微かに引く。
「刺して捻れば肉がえぐれる、上手が斬れば、剣と同じようにも切れる。なかなか、便利だろう」
既に男は黒に背中にいた。
「合格だ、黒」
黒が男に向き直った。
「充分、複数の鬼とも戦えるよ。でも、今後の精進を忘れないようにね」
「先生、ありがとうございます」
「どう致しまして。呪術は黒の眼を見ればわかるよ、きっちり出来ている。もともと才能があるのかな」
「先生、本当にありがとう。母さん、ずっと大好きだ。白、三毛」
いきなり黒が叫んだ、白と三毛がしがみつくように幸の手を抑えた。
「どうしたの」
幸が声を上げた。
「ありがとうございました」
黒が刃先を自分の首に当てた。
「やめてくれ、黒」
幸が悲鳴を上げた。男の姿が揺らめいた、男は黒の背中に現れ、剣を弾き飛ばした。そして、左手で黒を支え、右手小指側を黒の口に差し入れた。
「舌を噛むなよ」
男は黒の耳元で低く囁いた。
「白澤のばあさんが俺の首を土産に持って帰れと言ったんだろう。代わりに自分の首を刎ねて、妹たちに持って帰らすつもりだった、ってとこだな。あの人も困った人だ」
黒の膝が崩れた。男が右手を離すと黒は倒れるように地面に手を着いた。白と三毛が黒に走りより、しっかりとしがみつく。
幸はどうしたら良いのかわからずに、涙を流したまま立ち尽くしていた。
「幸、抱き締めてあげなさい。それが一番だよ」
幸はよろよろと歩き寄ると、三人を抱き締めた。そして、幸が一番に大声で泣き出した、まるで、小さな子供のように。
「あの人も黒の真っすぐさが読み切れなかったようだな。お互い、ひねくれてしまっていると、真っすぐなのは眩しすぎる」
男は呟くと、杖をさらしで巻いた。そして、泣き声がようやく落ち着いたころ、幸と三人に声をかけた。
「黒と白と三毛は、これからもここで生活すること」
驚いて、幸が男に振り返った。
「黒は叔父さんと一緒にこれから、本家に出向いて、叔父さんのところで暮らしたいと言いなさい。そうしたら、本家が何と言っても、叔父さんは黒を連れ帰って三人、ここで暮らせるようにするからさ」
黒が惚けたように男を見つめた。しかし、生き返ったように笑みを浮かべると、強く頷いた。
男は思う、本家には武術を使える呪術師が百人以上いる。そんな大人たちがいるくせに、子供三人に頼るなんて、恥ずかしいと思う奴はいないのか。

見上げる、白鷺城を参考に造成しただけあり、その姿は白く美しい、堀はなく、その前に大きく横たわる湖が、侵入者を制するための水堀の代わりになっていた。もっとも、これは異界にあり、侵入しようにもこの湖の手前に来ることすら難しい。
「黒は水の上、歩けるか」
「御風呂場でなら歩けるのですが」
「どうした、黒」
「えっ」
黒が戸惑ったように男を見上げた。
「黒、かなり緊張しているな」
男は笑みを浮かべた。
この城が本家であり、その当主が男の義理の兄であった。
「湖の上、できるだけふわっと乗ってごらん」
黒は恐る恐る水の上に足を載せる。ゆっくりと両足が乗った。しかし、小波のせいで、かなり不安定だ。男も湖の上に軽く乗ると黒の手をぎゅっと握った。黒の足元が定かになる。
「他対一や、空中に浮かぶ奴らと戦う時には大事な歩法だ。ちょうどいい練習だな」
男は黒の手を握ったまま歩きだした。
「浮いた足の方に重心を載せる感じだよ」
「まだ難しいです」
「だろうな、でも八日間でこれだけ出来ればたいしたものだよ」
男は少し黒に顔を寄せると小さく笑った。
「あの、聞いていいですか」
「ん」
「先生と本家ってどういう関係があるのですか」
「そういえば、そういうのって話してなかったな。白澤さんは教えてくれなかったのか」
歩きながら、黒が頷いた。
「黒は本家の当主に会ったことがあるか」
「いいえ、でも遠くからは見たことがあります」
「当主は私の義理の兄だ。私は小さい頃、本家につれ去られて来て、そのまま、養子になったんだ」
「ごめんなさい」
黒が唇を噛んだ。
「今となってはどうでもいい話さ。本家には十年ちょっといたかな、先代の妻に、私にとっては義理の母親に殺されそうになってね、逃げ出した。先代と白澤さんはその逃亡を助けてくれたのさ」
エンジンの音が響き出した。
城から水上バイクが三台、飛び出してきたのだ。
「波がきついな、黒、背中に乗りなさい」
男は手を貸すと、黒を背中におぶった。
拡声器だ、声が響く。
「そこの侵入者、直ちに停止しなさい」
太い男の声が響く。
男は素直に立ち止まると、水上バイクが到着するまで待つ。やがて、三台の水上バイクが取り囲んだ。
対魔物用の装備をした男たちだ。
「白澤さんと当主に会いたいんだけどね、折角だし、それ、乗せてくれるかな」
「白沢老から、あんたを見つければ無条件に抹殺せよとの命を受けている」
二台の水上バイクが回り込み、一列になると一斉に機関放射、無数の銃弾が降り注いだ。
黒を背負ったまま、男はその光景を城側の岸で眺めていた。
「ここを叔父さんが出た頃はさ、ほとんどの奴が船を使わずに湖の上を歩くことが出来たんだけどね。劣化したなぁ。白澤さんもそうは思いませんか」
男が振り返る、白澤が苦り切った笑みを浮かべていた。
「便利になると体の使い方も術も落ちてしまうのよ。でも、彼らも兵として、武術呪術師として、この時代では上級の部類」
男も仕方無さそうに笑うと黒を下に降ろした。
「お前がここに居るということは、この子は失敗したようね。この子の両目に在った陰もすっかり消えて幸せそうな顔をしている。お前の娘の仕業ね」
「お願いです、母さんと一緒に暮らさせてください」
「母さん・・・」
男は笑った。
「娘が三人に自分を母さんと呼ばせているんです」
白澤がため息をついた。
「兵としては到底役に立たないわね。どうぞ、好きになさい」
白澤は黒に語りかけると、やおら、男を睨んだ。
「大切なひ孫と別れなければならない以上、私もこのまま、引き下がるわけにいかないわね。何かお出しなさい。見合うものを」
「困りましたね、今日は手土産もなく、手ぶらでやって来ましたよ」
白澤が悪戯げに笑った。
「お前の硝子球を寄越しなさい、あれは防御にも攻撃にも秀でたもの。あれが有れば、鬼とも対等に戦えるわ」
「使い方をしっかり理解すれば、対等どころか瞬時に倒すことが出来ますよ」
男は硝子球を取り出すと、白澤に手渡した。驚いて、白澤が男を見つめる。
「本当にくれるとはね」
「この子達には、なんというかな、私も情が移ってしまいましてね。そうだ、娘が名付けました、この子が黒。後の二人が白と三毛です」
「見たままということね、センスのない娘だこと」
「白澤さん、言葉にしていただけませんか、そうしていただければ、一週間、通いで硝子球の使い方を教えましょう」
すっと白澤の体に硝子球が溶け込んだ。
「これからのこともあるわね。わかりました、黒、白、三毛を千尋、お前に預けます。これから、お前とお前の娘の手元で暮らすことを認めます」
黒が自然と笑みを浮かべた。
男は黒の頭をなで、白澤に言った。
「たまには遊びに来てください、ひ孫の顔も見れますよ」
「そうね、お前の娘と戦争も出来るわね」
「その辺はお手柔らかに」
男は笑みを浮かべ、湖を振り返る。幻を相手に死闘が空しく繰り広げられていた。
「そろそろ気づかないかな」
「ほっておけばいいわ。そのうち、ばてて動けなくなるでしょう」
白澤は吐息を漏らすと、空を見上げた、青く抜けるような空だ。
「早くあのお方のところへ行きたいけれど、今の様子ではねぇ」
白澤は男を少し睨む。
「鬼と対等に闘える力を取り戻さなければ。千尋、精鋭十人を選んでおきます、硝子球の他にも教えなさい、そうだ、お前の得意にしていた筒があったでしょう」
男は緩やかに手を動かす、その手にさらしに巻いた杖が現れた。
白澤はそれも受け取ると、子供のようににっと笑った。
「他にはもうないかしら」
「これ以上は勘弁してください、身ぐるみはがされてしまいますよ」
男は笑うと、黒の手を握った。
「兄に会うつもりでしたが、また、明日にでもお目通りを願うことにしましょう、そろそろ、退散します」
「日が明けると同時に待っていますよ」
男は仕方なそうに笑みを浮かべると、軽く頭を下げる。そして、白澤に背を向けた。
「そうだ、まさか、あの中に明日の精鋭はいないでしょうね」
湖上の喧噪を眺め言う。
「彼らは不合格よ」
白澤の言葉に男は笑うと黒の手を握り、城を後にした。
ふと白澤が黒に声をかけた。
「黒」
驚いて、黒が振り返る。
「良い名前ね」
初めて、白澤は和やかに笑った。

異界を離れた後、二人は列車に乗り、最寄りの駅に着く。男と黒は帰り道を歩いていた。
「先生、ごめんなさい」
「ん、どうしたんだ」
「大事なもの、取られてしまいました」
「大事か・・・。でも、叔父さんはね、黒がいて、白や三毛がいて、幸がお母さんぶってえらそうにしているの面白いし、みんながさ、楽しく暮らしている。それの方がずっと、嬉しくて大事だからさ」
男はふと、商店街を少し離れた洋菓子店をのぞき込んだ。
「黒はケーキ、食べたことあるか」
「えっ、いいえまだ」
「それじゃ、食おう」
男と黒は洋菓子店に入ると、テーブルと椅子が設えてある、それに座った。
「あ、あの、いいんでしょうか」
「叔父さんは珈琲が飲みたいのです。幸は厳しいからさ」
男がいたずらげに笑った。
店員がメニュを持ってやって来た。
「私は珈琲で。黒、どのケーキにする」
「わかりません、なにがなんだか」
黒がメニュを睨んで困惑した。
「それじゃ、この子には苺のショートケーキをお願いします」
店員がメニュを抱え戻る、黒はほっと溜息をついた。
「緊張しているな」
「だって、奇麗で上品な音楽も流れているし、なんだか場違いなような」
「啓子さんは、黒は美人だって言ってたよ」
男が気楽に笑う。
「叔父さんは、美醜がわからないけれど、素敵な女性になるんじゃないかな」
男が他意なく気楽に言う。
「あ、あのっ」
「ん、どうしました」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
珈琲とケーキが運ばれてきた。黒の前に苺のショートケーキ、男の前には珈琲がある。
「一口目はそのままで、その後にクリームを入れよう」
男は呟くと、珈琲カップをつまみ上げる、
「黒、食べなさいな、美味しいよ」
「は、はいっ」
黒はしばらく、白と赤のコントラストを楽しんでいたが、ケーキの先をフォークで取ると、思い切って口に運んだ。
「美味しい、先生、美味しいです」
黒が飛び上がらんばかりに声を上げた。
「良かったな」
男が笑みを浮かべると、えへへっと黒が笑った。しかし、黒はもうケーキには手を付けず、フォークを置いた。
「どうした、黒」
黒が嬉しそうに笑った。
「白と三毛に持って帰ってあげます、三人で食べたらもっと嬉しい」
男は優しく笑みを浮かべると黒に言った。
「黒、そのケーキは食べなさい。同じケーキ、お土産に買って帰るからね、帰ったら、晩御飯の後、みんなで食べよう」
黒が笑顔で男を見つめた。
そして、くすぐったそうに笑うと、フォークを手にした。
お皿に残ったクリームまでしっかりと食べたことは・・・