遥の花 一話

深夜の街を一人の男を背負った、裸の女が歩く。
雨が降りしきる人通りの絶えた街。
よろよろと倒れそうになりながらも歩き続ける。柔らかな部屋の中でしか歩いたことのなかった女の足は既に血だらけとなり、それでも、歯を食いしばり耐え続ける。
濡れた髪が女の顔を隠す、しかし、微かに覗くその口元には荒れる息と共に笑みがあった。

息が出来ない、心臓がどくどくする。
あぁ、私は生きているんだ。
私に生命を分けてくれた人、この恩、いま返します、これが私の約束。

「この部屋か・・・」
男はマンションのとある部屋の前で立ち止まった。
表札はない、本来、このマンションは入り口で居住者の部屋番号を押し、中からドアの鍵を解除してもらわねば入ることができない。居住者だろう、暗証番号を押して入るのをそのまま続いて入ったのだ。
人の世の無関心はありがたい。
背広の下、腰に隠した小刀を服の上から押える。
なんとかなるか。
三世代、父、祖父と、長い年月をかけ、一つの仕事を成し遂げようとしてきた。
それが男の代で成し終える、男の表情にはそんな緊張感があった。

ブザーはない。軽くドアを叩いてみる。
ひとりでに、ドアが開きだした。
「どうぞ、入ってくださーい」
女の声、いや、子供の声にも思える。
廊下、贅をこらした金細工、壁、天井、床下まで、臙脂色のカーペットが敷き詰められ、時代的なシャンデリアの光りになにやらアラビア風の金文字が鈍く輝いている。
意味があるのか、それとも装飾的なものなのか。廊下の先は薄く朱を差した薄絹で隠され、その向こうは見えない。
声はその薄絹の向こうからした。
「靴はどうしたらいいのかな」
「そのままで大丈夫ですよ、どうぞ」
典型的庶民の男には、カーペットの上を土足で歩くことをためらわれたが、さぼど、靴底が汚れていないのを確認し、奥の部屋へ向かう。
薄絹の前へ立ち、もう一度、立ち止まった。
「いいですか」
「どうぞ、お入りください」
薄絹をたくしあげ、部屋の中に入る。二十畳は充分ある。臙脂が部屋全体を包み込み、天井にはきらびやかなシャンデリア、贅をこらしたマホガニーの調度品の中央にダブルベッドが設えられ、上半身をベッドから起こした女性が笑みを浮かべていた。
胸を掛け布で隠しているが肩の線、肌が白く見えている。
十代か、大人になりきっていない顔。

「ようこそ。桜倶楽部へ」
くすぐったそうに、笑顔を浮かべ言う。
男は戸惑ったように、ど、どうもと口の中で答えた。
「どうぞ、靴を脱いでベッドに入ってくださいな。お服は斉女(ときめ)が脱がしてあげますね」
「あ、いっ、いや、その・・・」
男はベッドの隣りにある木製の椅子を見つけると、その椅子を引き寄せた。
「おじさんね、ちょっと、そういうの、得意じゃなくてね、椅子でもいいかな」
「おじさま、なんだか、可愛い」
男は恥ずかしそうに笑うと、椅子に腰を降ろした。

「おじさまは桜倶楽部のシステムはご存じ」
「癒しの空間、そう聞いて来ただけ」
女はにっと笑顔を浮かべると、男に顔を寄せた。
「おじさまはお疲れ」
「え、あ、うん」
「そんな、おじさまを癒すのが斉女(ときめ)のお役目」
「それって」
「援助交際や愛人なんかとは違うんだよ、お金は目的じゃない」
「それはお金儲けではなく、本当に男性を癒すことが目的っていうこと」
女はその姿勢のまま頷いた。
「たくさんの疲れた人達がいる、そんな人達が少しでも心癒されればそれでいい、足つぼマッサージとかあるでしょう、私的にはそんな感じの発展形かな」
女は姿勢を戻すと、男を静かに見つめた。
男は少し戸惑いながらも椅子を少しベッドに寄せ女を見つめた。
「君をどうこうしようというのは、おじさんの道徳観がどうしても許さない。それに多分、おじさんは君と話が出来れば、君みたいな素敵な娘と少し会話とでもいうのかな、そんなやり取りが出来ればとても楽しい、だから、しばらくの間、話し相手になってくれるかな」
「おじさま、良い人だね」
女は少し小首をかしげ、笑みを浮かべた。
「おじさんに、ここを紹介してくれたお爺さんは、とってもお金持ちで、とっても権力を持っていて、その二つを足しても補えない孤独な人だった。十日前に来た、お爺さんのこと、覚えてないかな」
「良く覚えている、心に一杯傷を持っていた人」
男は頷くと所在無げに両手を組み、そしてまた、手を離した。
「二日前に亡くなった。不思議な亡くなり方だった、君は・・・」
女は笑顔を浮かべたまま、涙を流していた。
「どうしてかなぁ」
女が囁く。
「おじさまみたいにとても紳士な人で思いやりのある人だった、最初は恐かったけど、本当はとっても優しい人だった」
女は膝に顔を埋め泣き出した。透き通る白い背中、細いうなじ、肩が震える。男は意を決したように、手を伸ばし、少しぎこちない手つきで、女の頭をなでる。
「本当に泣いたのは君だけだろう、きっと、喜んでいるよ」
男は手を戻し、話し続けた。
「ただ、変な亡くなり方をしたんだ、おっちゃんも、直接見たわけではないけど、お手伝いさんや家族が何人も居る中でそれが起こったんだ、お爺さんが氷が溶けるようにして消えたんだ、人がまるで溶けるように」
涙の跡を残したまま、きょとんと男を見た。
「溶けるように」
「そう、話によると、氷が溶けるようにして消えてしまって、骨一つ、残らなかったらしい。おじさんは何があったのか、はっきりさせたくて、この一カ月分のお爺さんの足取りを追っている。それで、いつだったか、こういうところがあるらしい、君も行ってみるかって、桜倶楽部のことだけれど、聞かされていたのを思い出したんだ、そして、調べると、どうやら、十日前に実際にお爺さんが行ったらしいということがわかってね、今日、ここへ来たんだ」
「ここでは名前を聞かない、聞けばその人が気掛かりになって、私の心が保てません、だから、本当のことを言うと、たくさんの人達のこと、あまり覚えていない。でも、あのお爺さんはおじさまと同じように椅子に座っていろんな話を聞かせてくれました。私はそのお話を聞いているだけで、時々、ちょっと相槌を打つだけだったんだけど、それでも、とても嬉しそうに笑ってくれていた」
女は膝に顔をうずめた。
「家の人達は大変、なんせ、消えてしまったわけだから、亡くなったことを証明できない。遺産相続にもめている、何というのかな、本当に嘆いてくれる人が一人でもいてくれたこと、友人として嬉しい」
男はそう言うと女の頭をなでる、それが男の精一杯の表現だった。
「お願い、手を握っていてくれませんか」
女が右手を差し出す、男は少し戸惑いながらも、その手を握った。柔らかい手だった。
「ごめんなさい、そうじゃないと、私、何処かに流れてしまいそうなの」
女は口をつぐみ、少し顔を上げ天井を見上げる。男は本当にそのままベッドが舟になって女が黒い海をあてどなく流れ出して行くような気がした、両手でしっかりと女の手を握る。
「自分を見失ってはいけません」
男は女の耳元へ顔を寄せ、囁いた。
「この両手はどんな闇に君が流されて行ったとしても放すことはありません、君が現世(うつしよ)に戻るための道筋となるでしょう」
女はほっと息をつくと、男に向き直った。
「闇の中、おじさまの声、聞こえた。ありがとう」
男は少し笑顔を浮かべると手を放しかけたが、くっと女が男の左手を握り返した。
「約束です」
女はにっと笑みを浮かべた。
「おじさまは普通の人じゃない気がする」
「普通の人ですよ、零細個人自営業者 税理士です、他人のお金を計算をしています」
「本当にそれだけ」
「あとは休みの日に人探しをやっていたり」
「探偵さん」
男は顔を横に振り、少し困ったように笑った。
手を重ねたまま、男は背もたれに背中を預けると、一つ、小さく吐息をついた。
「たいして面白くもない話ですが、聴いてくれますか」
「喜んで」

「おっちゃんのおじいさんは呪い師でした、占いや行方不明の人を見つけることで生計をたてていた。特に行方不明の人を見つけることに関しては一番の得意、明治初めの頃の、価値観が急激に変わった時代、社会も大きく変化して行く。そんな時代には人がいなくなってしまうというのは特に珍しいものではなかった」
「おじさまは、映画や小説に出てくる陰陽師という人達なの」
女は不思議な笑みを浮かべた。
「やっていることは似たようなもの、全くの別系統だけどね」
「おじいさんは唯一、一人の行方不明者を除いて全ての人達を見つけだした。もちろん、それは生きて見つかった場合もあればそうでなかったこともある、ただ、とにかく三日と開けず捜し当てた。問題はその見つからなかった一人」
「唯一の汚点ということ」
「汚点というか、心残りだったんだろうね、家族にその人を返せなかったことが。それで、長男だった、おっちゃんの父親に残した遺言が、お前がその一人を見つけだしてくれということ。ただ、父親も見つけられなくてね、話がおっちゃんに回ってきたわけ。ただ、仕事もあるからね、休みの日に探しに回っているだけだけど」
「あの」
「ん」
「明治時代からなら充分に百年以上経っていると思うけど」
「普通に考えれば既に生きているわけはないってこと」
女は男の言葉に頷いた
「普通ならね。ただ、親子三代かけて探そうというのは彼女がまだ生きているから」
「彼女、女の人」
「そう、例えば、君とか。陰陽師、辺りから少し君の気配が変わってきていた」
「私、そんな齢じゃないですよ」
女がくすぐったそうに笑う。
「祖父、父と、時代を経るごとに、この身にある呪の力は弱まってしまったけど、今のおっちゃんなら、まだ、君を救い出すことができる、どうする」

「要らぬこと」
低く軋みのような声が女の口から漏れる。
「噂には聞いたことがある。呪文を唱えぬ呪い師がいること」
掛け布に隠れた女の下半身が足の形から膨らみだし、一抱えもありそうな丸太のように膨れ上がる。
男は右手で掛布を捲り上げた。
まるで肉食動物の舌のようだ、男は声に出せず、口の中で呟いた。
ベッドはまるで分厚い肉感のある赤黒い舌に変じ、女の上半身がその中から生えていた。
「なるほど、女性を餌として、そして、自身の発声器官として利用しているわけですか」
「脂ぎった男は堅いが旨い、噛めば噛むほど味が出る、年寄りはしゃぶって精気だけ吸い取り帰してやるがな」

床に壁、天井までが蠢き出した。
「なるほど、既に口の中か」
「我らの存在を知る者は、いずれ阻害要因となる、骨も残さず食ろうてやろう」
女の手が放れ、これは蛇の舌、舌先がちょろちょろ動くように女の体そのものが上へ下へと動き出す。
「しかし、まぁ、現実に、こういう事態に自分自身が在るというのは驚き」
女は宙に浮いたまま男の前に顔を寄せた。
「お前の落ち着いた顔には反吐が出る」
「いけません、女の子がそんな言葉遣いをしては」
男は笑みを浮かべると、とんと女の額に人差し指で触れた。
女の顔が元の表情に戻り、自我を取り戻した。
「おじさま、ごめんなさい」
「早く逃げて、入り口へ・・・」
男は瞬間、身を伏せると、腰から短刀を抜き、女の足先をかき切った。
落ちてくる女を抱きとめる。抱きとめたまま、ドアへ向かって駆け抜ける。蠕動する壁を天井をかき切り、ドアを蹴破った。
振り返る、半開きになったドアの向こうで赤黒い肉の塊が所狭しと動いていた。
ドアが閉まっていく。女の足に絡み付いていた肉の塊も消えてしまった。
「ここを去ったということか」
男は女を抱え直すと、仰向けにし、胸に耳を当てた。
心臓の音はしない。
「ごめんなさい、私はすでに人ではありません」
女は少し疲れたように笑みを浮かべた。
「ほら、指先も」
女の指先の色が薄れていく。
まるで消えて行くようだ。
「君はこのまま消えて行くのか」
「はい。罪を償うこともなしに」
「君に罪はない」
「いいえ、あのおじいさんを始め、たくさんの人達の顔が浮かびます、たくさんの人生を狂わせてしまいました」
「君がそれを言うなら、俺の命、半分やろう。生きて、しっかり考えなさい」
いきなり、男は自分の左手小指を小刀で切り落とした。
男の顔に一瞬、苦痛が走る。しかし、すぐに笑みを浮かべると小指を女の臍の上に載せ、流れる血をその上に垂らした。
「小指は約束の指、君に生命を与えましょう。そして、おっちゃんの血と肉と元気(がんき)を受け入れなさい。生きることを選びなさい」
男の小指が女のへその上で溶け、血と共に女の体に溶け込んでいく。
女は痛みにくっと唇を噛んだ。
「熱いですか、痛いですか」
「いいえ・・・」
「これから君の体の内部で、全ての細胞が人の体の細胞に入れ替わっていきます。それは体を燃やす痛みと熱さを上回るでしょう。歯を食いしばって我慢しなさい。苦痛を乗り越え、こちら側へ帰ってきなさい。おじさんは君を待っていますよ」

情けないことに俺は意識を失い、三日間寝込んだらしい。それは元気(がんき)を減らしたせいかも知れない。
男は左手を、小指のない左手を見た。これでもかと包帯を巻き付けてある、あの娘が泣きながら震える指先で巻いてくれていた。
指を切る、こんなに痛いものだったと初めて知った。
男は布団から立ち上がり、テーブルにつく。少しふらつくがすぐ元に戻るだろう。
「しかし、記憶までとは」
男の記憶の一部が血と共に女に入り、家への道筋を女に教えた。女は男を背負って、よろよろと家まで帰り着いたのだった。
「夜とはいえ・・・。そうだな、これは、逆に助けて貰ったのかも知れない」

「おとうさん、まだ寝ている方がいいよ」
女が男のシャツを着、テーブルの横に立っていた。心配そうに男の顔をのぞき込む。
一緒に暮らすなら、年齢的にも父娘でいいでしょうと、男が提案したのだった。
「もう大丈夫ですよ、少し動くくらいの方がいい。それに」
「え」
男は笑みを浮かべた。
「服を買いに行こう、その服装はさすがにね、ちょっと、あれだ」
女も笑みを浮かべた。
「ありがと、おとうさん」