遥の花 雨夜閑話 二話

雨夜閑話 二話

「眠れないのか」

幸は隣りの布団に眠る啓子に声をかけた。男は自室にて、一人眠り、幸は啓子と礼子と理恵子の四人で寝ていた。

そして、啓子の母親と恵は、別の部屋に寝ていたのだった。

礼子と理恵子のニ人は、喉が乾いたのか、ニ人して台所へと部屋を出、この部屋には幸と啓子のニ人だけだった。

「啓子さん、鬼の鱗粉が見えるようになったのか」

布団の中から幸が問いかけた。

啓子は薄暗がりの中、幸を見つめてうなずいた。

「都会に住むことができなくなりました。あちこちに青い燐光のような靄が、ふわふわ浮んでいるのが見えるんです」

「鬼の穢れ、つまりはそこに鬼がいるか、もしくは少し前までいた。人に着くこともある、なんらかの理由で鬼に接触した、その影響だ」

「礼子は両手に、理恵子ちゃんは体全体、特にお腹が青い光る粉を振りかけられたように光っていました。あれは・・・」

「啓子さんの思う通りのことさ、ただ、先までの賑やかな宴会で。まさか、啓子さんのお母さんがあんなにはしゃぐとは思わなかったけどな」

幸は少し笑うと言葉を続けた。

「賑やかな宴会で、随分、鱗粉が消えただろう」

「はい」

「ここの空気を吸い、ここの水を飲み、ここで出来た野菜を食べれば穢れが浄化して行く」

「不思議ですよ、ここにいれば何があっても安心だって自然に思えてきます」

幸はくすぐったそうに笑った。

「ここは避難場所なのかもしれないな。ん、理恵子ちゃんが幸のこと、喋っている」

「なんて言っているんですか」

幸が小さく笑った。

「秘密だな、これは」



台所のテーブルにつき、礼子と理恵子は薄暗がりの中、水を飲み、話をしていた。

「ショックだったよね、理恵子の彼氏。あんなふうになってしまって」

「それが・・・」

「どうしたの、理恵子」

「今は不思議なほど、悲しくないんだ、確かにびっくりはしたけど・・・。ね、幸さんって既婚って言ってたよね。ご主人ってどんな人」

礼子はしばらく考えて答えた。

「姉さんは、幸さんはとても奇麗で魅力的な人だけれど、あまり好きにならない方が良いって言ってた。あらゆる男がつまらなく見えてくるからって」

理恵子はひとつ吐息を漏らした。

「今、そんな気分。だって、とってもかっこよくって、それでいて、晩御飯の時には、とっても可愛くって。甲斐甲斐しく叔父さんの右手代わりにお世話しているのを見ると胸が熱くなって」

「恥ずかしそうに、幸さんのお父さん、自分で出来るからって困ってたね」

礼子がくすぐったそうに笑った。

「理恵子も幸さんにお世話されたいの」

少し理恵子が俯き呟いた。

「そんなんじゃないよ、ただ・・・、こういう娘がいるんだなぁって記憶の何処かに残していて欲しいっていうか、あの、えっと、なんだろう、なんて言ったらいいのかな」

理恵子が急に苦しそうにあえぎ出した。

「ど、どうしたの」

駆け寄ろうとする礼子を、飛び出してきた啓子が素早く押し止どめた。

「お姉ちゃん、放して」

抗議する妹を押さえ付けながら、青く光り出した理恵子の体を啓子は睨むように見つめていた。

幸は何事も無かったように冷蔵庫から堅く絞った冷やしタオルを理恵子の額に重ね、首の後ろを優しく撫でる。

「言祝ぎ申す。青き闇に蝕まれし、御身、御心、我が言葉の響きにて浄化せしめん」

幸が囁くように寿歌を呟くと、ゆっくりと青い光が消え、理恵子は力が抜けたように椅子の背もたれにもたれ掛かってしまった。

「脊髄にまで入り込んでいた鱗粉がかなり浄化出来たよ」

幸は笑みを浮かべると、軽くぽんぽんと理恵子の頭を叩いた。

「おい、気持ち、軽くなったか」

「は、はいっ」

理恵子が飛び上がるようにして答えた。

幸は小さく笑うと理恵子の両肩に手を置いた。

「もっと強くなれ、明日から、農作業で幸が鍛えてやるよ」

それから、幸は3人を部屋に戻し、男の部屋の前に立った。

「お父さん、いいかな」

「どうぞ」

襖の向から男が答えた。そっと、幸が襖を開けると男が布団の上で上半身を起こしていた。月明かりが微かに部屋の中を照らす。

幸は男の横に正座する。

「理恵子ちゃんは大丈夫だよ」

「うまく浄化出来たようだね」

男は笑みを浮かべると、立ち上がり、窓を細く開けた。涼しい風が微かに流れ込んで来る。

「上弦の月、真っ白な明かりだ」

「お父さん」

「ん・・・」

「啓子さんが鬼の鱗粉を見ることが出来るようになってしまったって」

「それは、父さんも気づかなかった。どうしたものかな」

男が幸の前に座る。

「昔の人にとって、鬼の気配を感じることは何も不思議なことじゃなかった。もちろん、視覚として見ることの出来る人は少なかったけど、嫌な匂いとして感じたり、なんとなく嫌だってね、感じることが出来た。今はその能力を無くしてしまって鬼の犠牲になる人が増えている、それに合わせて鬼の力が大きくなってきたんだけどな」

「どうなんだろ、教えた方がいいのかな」

男はしばらくの間、考え、答えた。

「教えていいよ。鬼が啓子さんのことを知れば、必ず殺しに来るだろう、自分の身を守るすべは持っているほうがいい」

「うん、それじゃ、啓子さんが望めば教えるようにするよ」

男はうなずくと、そっと幸の頭を撫でる。

「いろんな縁が出来て、幸も大変だな」

「でも楽しいよ。ただ、お父さん」

「ん・・・」

「幸はお父さんと二人っきりでもいいんだ」

そっと幸は男を抱きしめ呟く。

「異界にふたりっきりで生活するのもありかなと思う。ね、お父さん、今夜はこのまま一緒に寝ようよ」

男はそっと笑みを浮かべた。

「それはとても嬉しいな、ただ、父さんはさ、この頃、ひとつ、欲が出来たんだ」

「欲って」

幸がそっと男の顔を見つめる。

「幸はとっても良い娘だ、真面目で気立てが良くて、父さんのことも大切に思ってくれる。幸がとっても良い娘だってことをさ、幸を知る人にもわかって欲しいって欲だ。理恵子さん、幸に憧れているだろう、まだ、少し心が不安定だ、だから、横に居てあげなさい」

幸は両腕を男の首に回すと、顔を近づけ、軽く男の耳を噛む。

「お父さんはずるいなぁ、でも、本当に幸のことを思ってそう言ってくれるから、やだって言えないよ」

「幸」

「ん・・・」

「ありがとうな、父さんのこと、思ってくれて」

「幸の方こそ、ありがとうございます」

男は幸の背中に左手をやると、小さく吐息を漏らす。

「幸が居てくれること、それはとっても父さんを幸せにしてくれる。幸の歩く音、お皿を置いたその音、どんな小さな音でさえ、あぁ、幸がここに居るんだと気づかせてくれる、父さんはとても幸せになる。ありがとう」

幸が静かに静かに泣く。

「もう少しだけ、お父さん、このままで居させてください」



幸がぼぉっとした表情で歩く、男の部屋から出、暗い廊下、元の部屋へ戻る途中、啓子が暗がりの中、台所でテーブルに着き、水を飲んでいた。

「幸さん、いいですか」

啓子の声に、ぼぉっとした表情のまま、幸が振り向いた。

「あぁ」

幸は頷くと、啓子の隣りに座った。

「啓子さん、ごめん、ちょっと待っててくれ」

幸はテーブルの上に上半身を投げ出すと、うふふっと笑い出す。

「どうしたんですか、怖いですよ」

「お父さん、優しくってさ、あぁ、もぉ、とっても可愛いんだ」

幸は上半身を起こすと、啓子の飲みかけのコップに入った水を飲む。

「少し、落ち着いた。で、啓子さん、どうしたんだ」

「お願いしたいことがあります」

啓子が幸に向き直った。

「なんだ、改まってどうしたんだ。幸のお父さんはあげないぞ」

「いらないです」

「即答されてしまった」

幸は楽しそうに笑うと、啓子をじっと見つめた。

「幸さん」

「ん」

「私、鬼と闘えるようになりたいんです」

幸は目をそらすと、背もたれにもたれ、天井を眺めた。

「啓子さんは鬼の鱗粉を見ることができるようになった。だったら、それを避けて生きて行けば大丈夫だ、鬼に出くわす可能性は他の奴より随分少ない」

「でも、あの青い燐光を見かける機会が随分増えています」

「礼子ちゃんを守りたいのか」

幸はふと視線を啓子に向け、呟いた。

「は、はい」

「お姉ちゃんは妹離れが出来ていないな、まっ、幸も人のこと言えないけどな」

「母が離婚したのが私が中学生、礼子は小学生になったばかりでした。母は朝から晩まで仕事、だから、私が礼子をしっかり育てなきゃって、そんなふうに生きてきました」

「礼子ちゃんは啓子さんに感謝しつつも、ちょっと煩わしく思っている、礼子ちゃんも、もう高校生だからな、彼女、しっかりしているぜ」

「ちょっと・・・、距離を置かれてしまっています」

仕方無さそうに啓子が笑った。

幸も困ったように笑みを浮かべ、啓子に向き直った。

「お父さんからは、啓子さんに武術を教えてもいいって承諾は貰っている、ただし」

「はい」

「幸の武術はお父さんからいただいたもの、お父さんや幸の意に沿わない使い方を啓子さんがした場合は、啓子さんを殺しに行く。まっ、端的に言えば、己が楽しむためや快楽追求のために武術を使うなってことだ、約束出来るか」

「はい、約束します」

啓子は幸をしっかりと見つめ答えた。

「今から教える、いいか」

「はい、お願いします」

「外に出よう」

幸は啓子を促すと、畑の道を歩き、梅林へと入った。月明かりに、辺りが微かに見える。立ち止まり、幸が啓子に話しかけた。

「この武術の名はなみゆい。それは動きの基本、波の動きと結ぶという所作から来ている。そして、首から下、膝から上、胴体の変化が腕や脚の動きを促す、それだけは頭にたたき込んでおいてくれ」

緊張した面持ちで啓子が頷いた。

「教えるのは基礎と方向性、後は自分で再発見して理解を進めること」

幸は啓子の前に立つと、右腕を啓子に向けた。なんの戸惑いもなく、啓子の右腕が幸に向かう。

「勝手に手が動きます」

「いま、幸が啓子さんの体を操作している。人の理想的な動き、人に対しだけでなく、様々な形態の魔物に対応したなみゆいという動き方を自分自身の体を通して経験し、しっかり記憶しなさい」

幸はにぃぃっと笑った。

「悲鳴上げるなよ」

二人の姿が消えた。いや、正確には目で追える速度を越えてしまった。風鳴りが響き、梅の枝が縦横無尽に揺れる。



朝、男が目を覚まし、台所へ入ると、幸がお味噌汁を作っていた。

「お父さん、おはようございます」

「おはよう、お味噌汁か、良い匂いだな」

「玉葱とワカメのお味噌汁。お味噌汁の基本です」

幸はにっと笑うと、小皿にお味噌汁を少し入れ男に手渡した。

「いつもと違うな」

「うん、啓子さんのお母さんに教えてもらった。最初に野菜を蒸す。これが大事なんだって、形がくずれなくて見た目もいいなぁ」

男は人の気配が減っていることに気づいた。

「ん、佳奈姉さんと母さんは店の準備があるからって帰ったし、啓子さんのお母さんはお仕事、早出なんだって」

「高校生二人はまだ寝ているのか」

「明け方までお喋りしていたみたい」

「いろいろあったろうからな」

男は冷蔵庫からお茶をとりだし、一口飲むと幸に言った。

「なにか手伝おう」

「ね、お父さん、恵さんを迎えに行って」

「恵さんを・・・」

男は呟き、振り返ると、向こう、梅林の方向を眺めた。

「迷子か」

「恵さん、気楽に歩いているけど、折角だから、みんなで朝ごはんを食べようと思って」

「啓子さんは」

幸がいたずらっぽく笑った。

「夕方までは死んだように眠っていると思う」

「早速、練習したのか。啓子さんはひたむきなところがある、良くも悪くもね。人はそれぞれ、個性があって面白いな。それじゃ、迎えに行ってくるよ」

「お父さん、浮気しちゃだめだよ」

幸が男に声をかける。

「幸は父さんが浮気をしたら泣くかな」

「もう、わんわん泣くよ」

「幸を泣かせるわけにはいかないから浮気はしないよ、って、父さんなんか誰も相手しないよ」

男は笑うと、恵を迎えに梅林へと向かった。



男は梅林の中ほどに恵を見つけ声をかけた。

「おーい、恵さん」

振り返り、恵は男に気づくとあたふた男の元に駆け寄って来た。

「先生、助かりました。これから、どうやって暮らそうか途方に暮れましたよ」

「そのわりにはあまり深刻そうじゃないですね」

男は少し笑った。

「不思議です、ここにいると落ち着くって言うか、ちょっと幸せな気分になります」

「害意、敵意というのがないからね、ここは。さぁ、戻りましょう」

男は恵を促すと帰路へとついた。道すがら、恵に尋ねる。

「恵さんは今も啓子さんと一緒に住んでいるんだね」

「啓子先輩に居候です。でも、そろそろ、社会復帰しなきゃって考えています、求人情報なんか読んでますけど、ただ、うーん」

「就職難ってやつかな」

「高望みしなければいろいろありますよ。ただ、先輩と同じで、変なとこにまた入り込みはしないか、それが怖いです」

「二人ともそういう運命なのかな」

「わっ、ひどいなぁ」

恵が気楽そうに笑う、

「実家には帰らないのかな」

「無理ですよ、いまは香港で働いていることになってます」

「御両親、心配しているんじゃないかな」

「電話は毎日のようにしてますから。ただ、姿が変わってしまったから」

「体を造る時、退行した精神状態に近づける方が良いからって、十代後半の体にしたんだったな」

「私を見たら、母なんかびっくりしますよ、娘が子供に戻ってしまった。また、育てるのに金がかかるってね」

「幸に言えば、もう少し齢を取らせることが出来るんじゃないかな。帰ったら、話してみようか」

「だめです」

恵が思いっきり顔を横に振った。

「二十代前半、といってもギリギリですけど、そんな女が十代後半の肌を手にいれたんです。吸い付くような肌、はじける水、なんとしても維持しなければっ」

「女性は大変ですね」

男が気楽そうに笑った。

木立の中から、幸乃が現れ、軽く手を振った。

「幸乃さん、どうしたのかな」

「おまえさま、ちょっと」

幸乃が男に耳打ちをした。

「恵さん、急用が出来ました。幸乃さんに送ってもらってください、一足先に帰ります」

男の姿が消えた。

「先生、どうされたんですか」

「世界平和維持活動ってことですわ」

幸乃が面白そうに笑みを浮かべた。

「幸、泣いているのか」

テーブルにつき、打ちひしがれていた幸が驚いて顔を上げた。

「お、お父さん、お帰りなさい」

男は何も言わず、ハンカチでそっと幸の目許を拭った。

男が笑みを浮かべ、囁く。

「幸乃さんがね、幸が泣いているって教えてくれた」

男は幸の隣に座ると、柔らかな笑みを浮かべる。

「父さんに幸が泣いた理由を教えてくれないか、気づかずに幸を傷つけていたなら、父さん、あらためなきゃならない」

「お父さんは悪くない、幸の心が汚いから・・・」

唇を噛み締め、幸が俯く。

「幸はとっても心が綺麗な女の子だよ」

男の言葉に幸が頭を振った。

「恵さんにお父さんをとられるんじゃないかって、なんだか、そう思うと、勝手に涙が出て来て」

「どうして、恵さんが」

「だって、恵さん、お父さんのこと、好きだもの」

「なるほど、送り出してみたものの、不安が大きくなってしまったということか」

男はそっと左手で幸の頬に触れると、じっと幸の眼を見つめた。

「父さんは幸が大好きです、幸だけが好きなのです。どうか、信じてください」

幸が涙を流したまま、笑みを浮かべた。

「幸と幸乃さんだよ」

男は笑みを浮かべると、そっと手を離した。

「そうだな、幸乃さんを忘れると、後で叱られてしまうな」

ふと、男が振り返った。

「二人、畑のところまで戻って来たな。朝御飯、高校生を起こしてこよう。いや、父さんが行くのはまずいか。幸、起こしてきてくれるか」

「うん、起こしてくる」

幸は安心したように笑った。



五人で朝食をとった後、男は部屋に戻り、友人の会計事務所から預かった資料を整理する。昼過ぎには終えて、書類を運ばねばならない。

幸は三人を連れて、畑作業をしていた。

男は部屋で書類を片付けながら、ふと自分も普通に朝御飯を食べるようになったんだと気づいた、以前までの珈琲が朝御飯だった頃に比べて、体調も良い。これも、幸のおかげかと思う。男は部屋を出ると、台所へ向かう。珈琲をいれよう、少しくらいならいいか。

ふっと男は啓子の寝ている部屋の前で屈んだ。

襖を蹴破り、男の頭の上を啓子の蹴り足が空を斬っていた。

「元気だねぇ」

男が呟くと同時に、眼を瞑ったままの啓子が襖を破り男を襲う。瞬間、男は啓子の隣に入り込むと、左手で啓子の顎に触れた。すとんと男が下に落ちる、同時に啓子の体が跳ね上がり頭から落ちる。

男は左腕で啓子の頭を抱え、床に啓子が激突するのを制した。

「お父さん」

駆けつけた幸が、どうしたらいいのか分からず、突っ立ったまま、呆然とした表情で呟いた。

「どうして・・・」

「たいしたことじゃないよ。啓子さんの中には、父さんへのさ、恐怖心が残っている。それが発動したんだろう、意識を取り戻せばいつもの啓子さんに戻るさ」

寝息をたてた啓子を幸が両手で抱きかかえる、そして、元の布団に寝かせつけた。

「ごめんなさい、幸がしっかり見ていれば」

「ん・・・、いや、人の心の奥底はなかなか難しいものだ、それだけのことだよ。襖紙、同じのが残っていたろう、他の人に見つかる前に張り替えておくかな」

男は襖紙を取り出してくる、慌てて、幸は糊や道具を揃えて持ってきた。

幸が器用に敗れた襖紙をはがして行く、男が糊を刷毛で塗る。

「幸、懐かしいな」

幸はにっと笑うとうなずいた。

「襖に硝子窓、棚まで随分壊してしまいました」

「こっちの端、持ってくれ」

「うん、これくらいで良いかな」

「ちょうど良いよ」

「父さんの記憶には壊されたことより、こうして一緒に直している時の方が印象深いんだ、親子してるなぁってね」

男は襖紙を張りながら、少し笑う。

「ありがとう、幸、一緒に居てくれて」

「こちらこそ、お父さん」

新しく貼り終える、男は満足そうに襖紙を眺めた。

「こんな単純なことなのに嬉しいなんて不思議だな」

「ね、お父さん、今度は何を潰そう」

男はコツンと指先で幸の額を叩く。

「当分は勘弁してください」

男がくすぐったそうに笑った。



幸はそのまま、部屋に入ると、啓子を寝かせつけ、その手を両手で握った。

男は畑に出、幸がしばらく部屋に戻って居ることを三人に伝え、その後、友人の会計事務所へと向かう。



「先生、かっこいいなぁ」

恵が呟いた。

「恵さんは中年が好きなの」

驚いたように礼子が尋ねた。

「いい人だとは思うけど、かっこいいって云うのはなぁ」

利恵子も口を揃えて言った。

「別に中年が好きってわけじゃないよ。ただ・・・、幸さんには大恩があるから先生に手を出さないけど、あ、でも、幸さんみたいに、先生が双子だったら、絶対、一人欲しいなぁ」

礼子と利恵子は呆れたように笑った。



幸は啓子の手を両手でしっかり握りながら、思い出せる過去を脳裏に甦らせていた。牢獄の日々、餌でしかない存在。それが今では友人の手をしっかりと握っている。あかねちゃんを始め、佳奈姉さんや瞳さん、色んな顔が浮かんでくる。なんて幸せなのだろう、そしてとても大切な人がいる、とても大切に思ってくれる人がいる、とても幸せだ。そして思う。この手の人も幸せであれ、幸せは分けるものではない、伝わって広がって行くものだ。



「幸さん」

啓子が呟いた。

「ん、起きたか」

「ずっと、手を握ってくれていたんですか」

「いや、さっきまで畑に居た」

啓子が苦笑した。

「そういう時は、心配でずっと手を握っていたって言ってくれなきゃ」

「あいにく、正直者なんだ、悪いな」

幸はにっと笑うと啓子の背中を支え、上半身を起こした。

「体の具合はどうだ」

「大丈夫です、なんだか、体も軽いしいくらでも動けそうですよ」

幸は笑みを浮かべ言った。

「たとえ一晩でも理想的な体の動かし方を啓子さんは経験した、そして、どう練習して行けばいいかも教えたはず。あとは精進してくれ。具体的に教えることはもうない」

啓子がそっと頷く。

「ありがとうございます、あとは自分で見つけて行きます」

幸はほっと吐息を漏らすと、啓子に囁いた。

「試しだ、この状態から幸のこめかみを蹴ってみろ」

「はい」

啓子が呟いた。

両手を布団の上に添える。途端、啓子の体が微かに浮き、独楽のように啓子の右脚が幸のこめかみをなぎ払った。激しい勢いで幸の頭が首から千切れ壁にぶつかる、首から、血が吹き出した。

「う、うわぁっ」

幸の血で真っ赤になった啓子が大声で。

一瞬の後、幸は何事もなかったように座っており、血の吹き出した様子もなかった。

「幻術だよ。ただ、普通の人間ならああなる。幸はね、啓子さん自身が、自分を、そして守りたいと思う人を守るために教えた。それを良く覚えておけよ」

幸は笑みを浮かべると部屋を出た。

そろそろ、晩ごはんのこと、考えよう。



夕刻、満員電車というほどでもない、男は友人の会計事務所からの帰り、電車の吊り革、左手で持ち、立っていた。競って椅子に座ることもない、立つことができるなら、立つべきだと考えているだけだ。

ただ、男は、高校生だろうか、一人の女の子が自分に近づこうとするのに気が付いていた。

そして、大学生だろうか、二人の男。

男は小さく吐息を漏らす。

一瞬、女の子が男の背中に、自分の背中を当てた。

女の子の喉が大声を出そうと緊張する、男は素早く女の子の喉に手を触れると、耳元に囁いた。

「君の声は出ない」

ゆっくりと電車が速度を落とし停車する、ドアが開いた。

男は何事もなかったように列車を出た。

「お父さぁん」

「あれ、幸」

男はホームで待っている幸を見つけた。男は幸に近づくと、ほっとしたように笑みを浮かべた。

男の後ろで、ドアが閉まり、列車が発車していく。

「お迎えに来たよ」

「ありがとう、でも、幸、ちゃんと入場券買って入ったか」

男が笑う。幸はひらひらと切符を揺らすと笑った。

「改札の手前で待っているつもりだったんだけど」

幸は自然と右手を男の左手に絡める。

「幸を育てるためにしっかりと働いて来ましたか」

「もう、へとへとになるくらい働いた」

「今晩は大鍋一杯のナポリタンと、温野菜のサラダです。しっかり食べて、明日も労働に勤しんでくださいませ」

にひひといたずらげに幸が笑った。

「お父さん、帰りはナポリタン用に振りかけるチーズを買って帰ってください、幸は一つ用事を済ましてから帰るよ」

男が振り返る、呆然と突っ立ったままの女の子が一人、ホームに佇んでいた。

「そうだな、父さん、女性は苦手だから頼むかな。ごめんね」

「あぁ、しょうがない、お父さんの頼みなら断れないよ。感謝していますか、お父さん」

「とっても感謝しています。幸、ありがとう」

幸は少し照れ笑いをすると、腕をほどく。

「そうだ、いつもの茶店で待ってくれていると、幸は途中からでもお父さんと一緒に帰ることができますので喜びます、でも、珈琲はあまり体に良くないのでお勧めしません」

「わかった、オレンジジュースを飲みながら、まだかなって待っているよ」

男は手を振ると、ホーム下へと階段を降りて行った。

お父さん、可愛いなぁ、幸は小さく呟くと、気持ちを切り替えるように頭を振り、背後へと振り返った。

女の子が一人、途方に暮れ、小さくうずくまっていた。

幸は女の子の前に立つと、少し屈み、指先で女の子の顎をくっと上げた。

「基本、あたしは女性には優しいんだ、男嫌いの反動かな。立ちな、そこのベンチに座ろう」

幸は女の子を促すと、並んで、反対車線のベンチに座った。

幸は片手でほおづえをつくと、女の子の顔をのぞき込む。動揺したように、女の子はぎゅっと目を瞑った。

「倉澤早紀。高校三年生、塾についていけず、親に黙って塾を辞めてしまうが、それを言い出せず、街中を彷徨う。塾が終わる時間まで。そんなことを続ける間に、男二人に弱みを握られ、美人局の片棒をかつがされた」

早紀は驚いて幸を見つめた。

「あんたの頭の中、言葉にしただけだ、たいしたことじゃない。あんたにとって運が良いのか、悪いのか。その第一号があたしの父さんなわけだ。殺されずにすんでよかったな。声も大事だろうけれど、死ぬよりかましだ」

幸はにぃぃっと引き込むように笑うと、ゆっくり顔を上げた。

「ほら、もうすぐ列車が来るぜ。男二人、一つ先の駅から引き返して来たようだ」

びくんと早紀の体が震える。浮足だった早紀の手を、幸は指を絡めてしっかりと握る。

「やさは知られてんだ、逃げても意味はない。さて、あたしは父さんに甘えることができて機嫌がすこぶる良い。これも何かの縁だ、助けてやるよ」



列車到着のアナウンス、程なくして各駅の列車が到着し、ドアが開く。たくさんの人たちが降りて来る中、先程の男二人が飛び出すと、目の前に早紀を見つけ睨みつけた。

「逃げずに待っていたとは殊勝だな」

体育会系を体で表現した厳つい男達だった。

「足がすくんで動けなかったんじゃねぇか。うん、なんだ、隣りの女は」

始めの男よりも頭一つ大柄な男、腰を曲げて幸をのぞき込んだ。

「うひょぉ、凄い美人だ」

幸はふっと顔を上げると、笑顔を浮かべた。

「なに改まって言ってんだよ、孝。幼なじみ相手にさ」

「えっ・・・」

幸が引き込むように笑みを浮かべた。

「いつも三人一緒だったの、忘れたの」

幸はもう一人の男を見上げると、柔らかく笑った。

「健史も相変わらず、上に横に成長しているなぁ」

幸が愉快に笑った。

「しばらく見ないうちにお前も美人になったもんだなぁ」

健史がなんの戸惑いもなく、言葉を返した。

「あたしが美人なのは昔からさ」

「そりゃそうだ」

孝がからかうように笑った。

「で、今日はどうしたんだ」

孝がふと真顔になって幸に尋ねた。

「あたし、結婚して上海に行く。旦那の転勤でね」

「お、おい。そんなの初耳だぞ」

健史が面食らったように大声を出した。

「一キロ先にいるんじゃなし、大声出さなくても聞こえるよ」

幸はふと寂しそうに笑みを浮かべ呟いた。

「かえってさ、言いづらいもんなんだよ。だからさ、お詫びに、教えて上げるよ」

「おい、俺達はお前が幸せになるんなら」

「ね、健史。あんた、孝を愛しているよね」

「お、お前。何言ってんだ」

「そして、孝は健史を愛している」

「え・・・」

健史は驚いたように孝を見つめた。

「お互い、相手を愛しているけど、うっかり告白なんかしたら、気色悪るがられるんじゃないか。そう思って言い出せなかったんでしょう。ごめん、それを言うと、あたしだけ、仲間外れになりそうで、わかってたけど、ずっと黙ってたんだ、本当にごめん」

「健史・・・」

孝は思わず呟いた。

「お前、本当に俺のこと」

「孝こそ、そうなのか」

健史が孝の目を見つめて呟いた。

幸が声を潜め囁く。

「人を愛するということに壁なんかないよ。ね、二人とも正直になろう。決して男同士が愛し合うことは悪いことじゃない。ただ、少数派だから、迫害されること、理解してもらえないこと、たくさんあるかもしれない、でも、真実の愛は何よりも強い、ね、健史、孝、そうでしょう」

「そうだ、俺達なら」

健史が孝の目をじっと見つめ囁く。

「俺、健史を大切にする」

「お、俺だって、孝を大事にするさ」

「さあ、遠慮はいらない、二人、しっかり抱き合いなよ」

幸が駄目押しにと二人に語りかける。二人がしっかりと抱きしめ合う。ここが駅のホームであることも忘れ男同士、強く、強く、抱きしめ合う、そして、自然と唇を重ねた。

幸は早紀を促すと、何事もなかったようにベンチを後にした。抱き合う男二人を残して。

「いや、実際、あんながたいの男同士は気味悪いだろう。暗示をかけたのはあたしだけどさ」

改札を出、幸は早紀に笑いかけた。

「もう、あんたのことなんか、頭にないぜ。今、二人で住む新居の壁紙をどんな模様にするか、そんなことで夢中になっているよ」

早紀はこの数分のことが充分理解できずにいた。ただ、あの二人の男から解放してもらったことだけは、感情が理解していた。

早紀はありがとうございますと言おうとして、自分の声が出ないことを思い出した。呻くような音が喉から漏れる。

「それがあったな」

幸は答えると、微かに笑みを浮かべた。

「十一時まで、家には帰れないんだろう。うちに来な、お父さんに呪を解いてくれるよう頼んでやるよ」



「お嬢さん、少しお時間、よろしいでしょうか」

早紀の手を握った幸の目の前に男がやって来た。二十台後半、いや、三十台始めか。皺のない背広を着、笑顔を浮かべている、メガネをかけ、それでいてかなりの美形だ。

「どなたさま」

幸は愛くるしい表情で答える。

「ぜひ、あなたをスカウトさせていただきたいと思いまして」

「うひゃ、早紀どうしよう。モデル、あたしにできるかなぁ」

幸はうれしそうに早紀に微笑んだ。

幸は男に振り返るとおずおずと話しかけた。

「あ、あの。私、お父さんに相談しないとお受けするのは」

「いいえ、あなたのような逸材はまたとありません、男二人の心を自在に操り、記憶まで手を加えてしまう、第一種精神作用者。心を読む感応者はいくらかおりますが、相手の心まで操れる者はまたとおりません」

「おっしゃっていること、わかんないですぅ。おじさまがホームの柱の陰でスカウター付けて能力測定していたことも全然知らないですし、駅や百貨店、人どおりの多いところでおじさまのような人達が超能力者をスカウトしてることも知りませんよぉ」

「それだけ御存じであれば充分です」

男が片手を上げる。通りすがりの会社員、学生、子供連れの主婦、二十人ほどが三人を囲むように円を描き、背中を向けた。

微妙な角度で重なり、中を外から覗けないようにしている。

「君のお父さん、という人にもぜひ会ってみたいものだ」

「だめですよ。お父さん、とっても恐い人ですよ。でも、あたしにはとっても優しいんです、えへへ」

幸が幸せそうに笑う。

「それじゃ、帰ります。お父さんと待ち合わせているんです。早く帰らないと、お父さん、心配しちゃいます」

「帰れると思っていらしゃるのですか」

呆れたように言う男の言葉に、そっと幸は男を見上げ微笑んだ。

「たっぱがあれば自分が優位であると思い込む、お父さん以外の男ってのはガキだなぁ」

幸の表情と言葉の差異に男は一瞬戸惑った。

「田中輝樹君、自分は訓練されているから、読心能力者にも心を読まれないとでも思っているのかい」

一瞬、男の表情に恐怖が現れた。

「俺の心が見えるのか」

幸はふふっと小さく笑うと、それには答えず、男のネクタイをぎゅっと力任せに締め上げた。男は咳き込んだまま、慌てて一歩引き下がり、ネクタイを緩める。

「まっとうな仕事を選んだ方がいいぜ。確かに給料一月手取り八十万円、スカウトに成功した場合は相手の能力につきボーナスが付く。読心能力者で百十万円。心を操れるほどの奴なら、三百万円か。笑いが止まらねぇな」

「お、俺は」

「あんたの会社はスカウトと言えば聞こえがいいが、やっていることは人身売買だ。超能力者をスパイや傭兵に仕立ててのさ」

男が叫んだ。

「捕獲せよ」

その言葉に、壁のように囲んでいた人達が一斉に振り返る。

「ほぉ、久しぶりに見たな。心のない、心臓を提供してしまった人形達か」

「一体何者だ。何処まで知っているんだ」

男は怖じけたように後ずさりをする。

「輝樹君の知っていること、その百倍は知っているよ、裏の裏までな」

幸は倉澤の手を握ったまま、一歩、進み出る。

「無駄だろうが、一応忠告しておいてやる。さっさとこの仕事辞めねぇと、あんたも人形になってしまうぜ」

言い終えた瞬間、幸と倉澤の姿が消えた。

「第一種精神作用者、テレポートまで。なんてこった・・・」

尻餅をついたまま、呟いた



喫茶店のドアを開ける、からんころんと音が鳴り、幸は入り口で男を探した、すぐに見つけると、倉澤の手を握ったまま、男の前の椅子に座った。

そして、隣りに倉澤を座らせる。

「幸、何を飲む、倉澤さんもどうぞ」

男はすっとメニュを倉澤に差しだした。

メニュを受け取った後、自分の名前を知っていることに驚いて倉澤が男を見つめた。

「お父さん、倉澤さん、とっても可愛そうなんだよ。誰か、幸の知らない人に声を出せなくされたんだから」

男は困ったように笑みを浮かべた。

「父さんはどうしたら良いのかな」

「きっと、お父さんなら、倉澤さんの声を取り戻せると思うんだ、どうかな、お父さん」

「うーん、倉澤さんに父さん、謝ったほうが良いのかな」

にっと笑みを浮かべ、幸が口を閉ざす。

「幸にはかなわないな」

男は笑みを浮かべると、すっと左手を倉澤の喉元にやり、埃を払うように指先を揺らめかせた。

「呪は解いたよ。倉澤さん、あー、って言ってごらん」

倉澤が声を出そうとする、息を吐き出す音が「あ」という音に変わった。

「もう、普通に喋れるよ」

「あ、ありがとうございます」

倉澤が男に言った。

「お父さんは頼りになるなぁ」

「どうぞ、頼りにしてください。頑張ります」

男は少し笑うと倉澤を見つめた。

「ごめんね、恐い目に会わせてしまった」

「いいえ、わ、私こそ・・・」

ウエイトレスがお冷やを持ってやってきた。

「ホット珈琲を願いします。倉澤さんは」

「え、あ、あの、えっと、同じで」
ウエイトレスが注文を復唱し戻った後、男は幸を軽くにらむ。
「ここの珈琲美味しいんだけどね。父さん、オレンジジュースを飲みましたけど」
「お父さんの、その素直にオレンジジュースを飲むのが、とっても可愛いなぁ。幸の、半分あげるよ」
「ありがと」
男は仕方なさそうに笑った。
ふと思い出したように幸が言った。
「さっき、スカウトされた」
「え、女優とかモデルとかのスカウトか。そ、そういうのは、きっと悪い奴だから、絶対に」
「ううん、超能力とか言ってた」
「まっ、それならって・・・、あぁ、そういえば反対車線のホームにいたな。幸、いじめたな」
「ちょっとね」
幸はちょっと舌を出して笑う、男がひとつ吐息を漏らす。
そして、男は窓から、外を行く人達を眺めた。
「科学が変な方向へと進んでいる、魔術と融合しようとしているようだな。そして、ほとんどの魔術は巨大な力を借りて発動する。借りれば返さなきゃならない、それに見合うもの。未来だ」
「いつか、この文明も廃墟になるのかな」
「多くの歴史がそれを教えている。未来を他者に差しだしてしまえば、自分の未来はなくなる、結果は廃墟だ」

ふと見ると、倉沢が泣いていた。

「どうしたの」

幸が倉沢の顔を覗き込んだ。
「変です、なんだか、急に悲しくなって」
男は小さく呟いた。
「幸、この娘は」
幸はそっと倉沢の頭をなでる。
「お父さんの感情に感化したんだ。お父さんと同じ質を持っているよ。こういうのも縁なのかな」
男は背もたれに凭れると呟いた。
「普通に暮らせるなら、普通に暮らすのが一番良い」
「大切なのは、自分の頭で考えて生きるってこと、お父さんの普通はそういう意味だけど、ほとんどの人の普通は流されて生きることだよ、それじゃ生きていないのとたいして変わらない」
「幸、頭を出しなさい」
素直に、幸が頭を差しだした、男が幸の頭をなでる。
「よくできました」
男はくすぐったそうに笑みを浮かべた。
珈琲が運ばれてくる。
「倉澤さん、砂糖はいくつ」
気軽に幸が倉澤に尋ねた。
「あの、二つで。・・・ご、ごめんなさい」
幸が面白そうに笑った。
「謝る理由はないよ、幸の前に砂糖があるんだからさ」
「お父さん、クリーム入れるよ」
「入れていいよ。なんだかね、インスタントに慣れてから、ブラックってこだわりがなくなってしまった」
「お父さん、それは良いことだよ。ブラックは胃腸に負担がかかるもの、なんたって、お父さんの肩には人類の未来がかかっているのです。大事にしてください」
「父さんの肩にか」
「そうだよ。お父さん、いなくなったら幸は狂って、人類大量虐殺してしまうかもしれないからさ」
「うーん、頑張って長生きします」

男は困ったように笑った。

「幸さん、お帰りなさぁい」
礼子がぱたぱたと玄関にて三人を迎えた。
「ただいま」
「そうだ、幸さん。お姉ちゃん、怒ってますよぉ」
礼子が悪戯げに笑みを浮かべた。男はすっと玄関を上がり、部屋へと向かう。
「刺激、強すぎたかなぁ、謝ってこよう。早紀ちゃん、上がって。みんなで晩ご飯食べよう」
「は、はい」
二人が玄関で靴を脱ぎ、中に上がった時、ふと、礼子が呟いた。
「あれ、おじさんは・・・」
幸が小さく呟いた
「お父さんの行動を把握できるのは幸だけだなぁ」
幸はにっと笑った。

「啓子さん、怒ってるのかなぁ」
あかりを点けず、向こうを向いたままの啓子にそっと幸が声をかけた。
一呼吸おいて、啓子が答えた。
「全然、怒っていませんから。ですから、ほっといてください」
「それ、怒ってるよ」
幸が啓子の服の裾をくっと引っ張る。
「ごめんなさい、言い訳はしない、本当に驚かしてごめんなさい」
啓子が振り返る。
「驚いた、幸さんがごめんなさいって言うの初めて聞いた」
幸はぎゅっと啓子の手を握り締め、啓子の耳元で囁く。
「ごめんなさい、啓子さん。許してください」
ふっと啓子の肩の力が抜けた。
「意地張ってた、ごめん、幸さん」
幸はほっと吐息を漏らすと、気持ちを入れ替えるように笑みを浮かべた。
「ナポリタン、食べよう、美味しいよ」

テーブル二つ繋いで、それぞれのテーブルにナポリタンの大皿を置く。幸が嬉しそうに人数分の皿を並べていく。
反対側から、恵がお箸を並べて行く。
「やっぱ、日本人はナポリタンもお箸だよね」
幸が笑った。
「たいていのものはお箸で事足りますよ」
ふっと中程まで来て、恵が幸をじっと見つめた。
「恵さん、どうしたの」
「幸さん、私を避けていますね」
「え、そんなことないよ」
「微妙に声が緊張していますよ」
幸が困ったように笑みを浮かべた。
「ごめん、嘘をつくのは得意じゃないんだ」
微かに吐息を漏らす。
恵はじっと幸を見つめたまま言った。
「私は幸さんに救っていただきました。体を引き剥がされていく恐怖、全くの闇、なにものにも触れずこともできず、音もなく、時間すらも意味のない全くの孤独から幸さんは私を救いだしてくださいました。大恩ある幸さんの好まないこと、私はしません」
「ありがと、なんていうのかな。ほっとした」
幸が本当にほっとして笑った。恵も安心したように笑う。
「でも、もしも、先生が幸さんみたいに二人になったら、一人ください」
「それはだめ、どっちも幸のだ」
幸がくすぐったそうに笑った。