遥の花 雨夜閑話 一話

男は落ちつかずにいた。
幸が一週間かけて造った風呂場、いや、浴場だ。大人、五、六人はゆっくり入ることができる。男は足を伸ばし、ゆっくりと湯船につかってはいたのだが、それでも、落ちつけずにいた。それは幸との約束、一緒に風呂に入って背中の流し合いをするという約束に、わかったと答えつつも戸惑いをかくせずにいたからだった。幸との約束は必ず守る、しかし・・・。
「お父さん、入っていい」
後ろ、曇り硝子の向うから、はしゃぐ幸の声が響いた。
「どうぞ」
戸惑いながらも、男は背中越しに返事をする。
硝子戸を開けた幸は白く透き通るような肌を惜し気もなくさらす、その姿はまさに人の領域を越えた神々しさすらある。
幸はいきなり駆け出すと飛び上がり、男の前に飛び込んだ。男の視界を水しぶきが遮り、それが、収まった時、幸が面と向かい、男の太ももに馬乗りになって笑顔を浮かべていた。
「お父さんと一緒だ」
「幸、降りなさい」
幸が目を瞑り小さく喘いだ。
「あん、お父さんのが・・・」
Γうわっ、幸、早く降りなさい」
幸はあやしげに笑みを浮かべ、男を見つめ囁いた,
「だめだよ」
幸は少し腰を浮かせると、男にしっかりと抱き着いた。幸が男に胸を押しつける,
吸い付くような肌。そして、男の耳元で囁いた。
「お父さんの、入れちゃおうか」
「幸、だめだ、それは」
ふと、幸は男の耳元で哀しげに囁いた。
「お父さん、幸を妻にしてくれるって言ったよ。言ってくれたよ」
男は幸と暮らす上で、一切、幸には嘘をつかないと決めていた。
「そうだったね、ごめん、父さん、確かにそう言った」
俺はいいのか、幸を汚してしまう、幸は後悔しないか。男である俺は父親という立場で、幸と生活をしている。幸は今後、苦しまないだろうか、恐れないだろうか。安寧に暮らすことができるだろうか。
「うっ」
幸が男の耳を噛んだ。
「お父さんはあまあまですなぁ。とっても、チョコレートです」
幸は笑みを浮かべ男から降りると、左に座り男の腕を両手で抱いた。
「ごめん、幸」
「お父さんは男だけど幸を本当にね、大切に思ってくれている、それがわかってるから、幸は大丈夫だよ」
幸は男の腕を両手で抱えたまま、目を瞑り、そっと呟いた。
「いつもありがとう、お父さん」

男は居間に設えた掘リ炬燵に足を入れ、勿論、春の暖かさに炬燵布団は外していたが、ばて切ったように仰向けに寝転がってしまった。
何事もなく洗い場で背中を流し合い、先に男が風呂からあがる。すっかりのぼせてしまっていたのだ。
妙なことにはならず、いや、一緒に風呂に入ることそのものが、妙ではあるのだが、風呂を終え、男はほっとしていた。
俺は幸の父親だ。
男は幸と始めて会った時のことから、暮し始めて、まだ、幸が不安定な頃のことを思いだす。
俺は幸を絶対に守ると決めた。そして、それこそが俺の生きる理由になったんだ、守るべき幸を俺が汚してどうする。

「お父さん」
幸が襖を開け、男を覗き込んでいた。男は体を起こすと、ちょっと照れたふうに笑った。
「ごめん、父さん、とってもかっこ悪かったな」
幸はかぶりを振ると、そっと男の前に正座した。
「ごめんなさい、幸、はしゃぎ過ぎて、とってもえっちになってた。服を着たら、なんだか落ちついて、そうしたら、お父さんにとっても迷惑をかけたのに気づいて。」
男は少し笑みを浮べ、幸の頭を撫でる。
「迷惑なんて思ってないよ、父さん、幸が大好きだからさ。ただ、父さんは、今、とっても臆病なんだ。この生活が、今の関係が壊れたらと思うとね、とっても、臆病になってしまう。かっこ悪いな」
「幸もお父さんが大好きだよ、この生活を絶対に守るよ」
「ありがとう。父さん、幸を束縛していないか、無理させていないか」
「お父さんは幸に生きていくためのもの、いっぱいくれたよ。だから、幸は一人でも生きて行けるかもしれないけど、幸は自分がいたいから、お父さんと一緒にいるんだよ」
「そっか、ありがとう、幸」
男は左手で幸をそっと抱き寄せると、自分に語りかけるように呟いた。
「父さん、心の中では嬉しくって、声を上げて泣いているよ。大人だからさ、大声で泣いたりしないけどね」
男は手を戻すと幸に、少し恥ずかしそうに笑みを浮かべた。
「お父さんは少年みたいだ、幸の心をとろとろのスープにしてしまう」
「こんなおっさんが少年なわけないよ。さ、晩御飯を作ろう、お腹、空いていないか」
幸は、足を崩し、ばたんと仰向けに寝そべってしまった、
「うわぁ、お腹減ったよぉ。そうだ、とろとろのポタージュスープが食べたい」
「じゃがいもと玉葱、あったな。それじゃ、大事な幸が飢えてしまわないように作ってくるよ」
立ち上がった男に幸がしがみついた。
「幸も行きます、そして、味見をして差し上げましょう」
「幸は厳しいからなぁ、美味しくないって言われたら、父さん、今度は悲しくって泣くかも」
「大丈夫。幸はお父さんには甘いからね。ね、立つのが面倒、お父さん、台所まで引っ張ってください」
「そんなことしたら、脚が擦りむけてしまうぞ」
男は左腕で軽く幸を抱え上げた。

幸は晩御飯を堀炬燵の上に並べた後、硝子戸を細目に開け、夜の外を覗く。
雨音と共に、遠く、蛙の鳴声が聞こえた。
男は左腕でお茶の沸いたやかんを持ってくる。掘り炬燵に入ると、幸に話しかけた。
「雨が降り出したのか、雨蛙だな」
幸は硝子戸を閉め、振り返ると頷いた。
「多様化して面白いことになったな」
幸も掘り炬燵に入ると、少し困ったように笑みを浮べる。
「ごめんなさい、お父さん」
「謝ることはないよ、これが本来の姿だからね」
異界は異物の侵入に警戒するため、単純な生態にしていたのだが、畑を作ることでさまざまな動植物が増えてしまっていたのだった。
「幸の影響かな、父さんも農業に興味が出てきたよ」
「お父さん」
幸がそっと囁いた。
「ん、どうした」
「幸はたまにね、こう思うんだ。現実世界と異界との繋がりを閉ざしてしまって、お父さんと異界で二人っきりで生活してみたいってね」
「疲れたかな」
「そうじゃないんだけど、ちょっとね」
ふと、男は幸の背中から首筋へと手をやった。そして、首筋を包み込む。
「なんだか、暖かい、気持ち良くて体が浮かんでしまいそう」
「澱のように疲れが溜まっている、ちょっと頑張り過ぎだな、幸は。どうだ、軽くなったか」
幸は頷くとそっと笑みを浮かべた。
「お父さんは頼もしいなぁ」
「ありがと。な、幸」
「ん・・・」
「いずれは異界に生活の拠点を移動させる必要があるだろうと思う。それが多分、双方の幸せだ。それは父さんも思うよ」
幸はそっと頷いた。
それ以降は二人ともその話題には触れず、晩御飯を食べ始めた。
「お父さん、このポタージュスープ、美味しい、味見した時より美味しくなってる」
「工夫をひとつ足したからな。合格できたかな」
「合格です、お店にも出せるよ」
幸は、にひひと笑うと、嬉しそうにスープを飲む。
「最初はカウンターだけだったな」
「うん、基本は木目調、オークとかね、濃い目の色合いで統一。いい感じになると思うよ」
「楽しみだな」
幸は男の顔を見上げると眩しげに笑った。
「お父さんのお陰で幸はいろんなことができる、ありがとう」
「いや、幸が頑張りやさんだからさ、父さんはあたふた幸の後ろを追いかけているだけだよ。でもね、それがとても楽しい、ありがと」
幸は男の左手を両手でぎゅっと握る、そして、自分の額を重ねた。
「お父さん、幸を娘にしてくれてありがとうございます」
「父さんこそさ、幸が居てくれなかったら、悪人のままだった、救ってくれてありがとう」
不意に幸が顔を上げた。
「護り髪、礼子ちゃんだ」
「何かあったんだな、父さんも行くよ」
「幸、一人で行ってきなさいな」
「幸乃さん」
男は幸の横に、幸乃が座っているのに初めて気が付いた。
「いま、幸の体から出てきました。お父様には折り入ってお話ししたいこともあります。幸、一人で行ってきなさい」
「一人で行くのは大丈夫だけど、幸乃さん、お願いだから・・・」
幸乃がにいぃっと笑みを浮かべた。
「万事塞翁が馬、安心しなさい」
「あぁ、幸乃さんのそれが・・・、本当に変なことを言わないでください。幸は今の生活に満足していますから」
幸乃は笑みを浮かべたまま、幸を推す。
「早くしないと、礼子ちゃん、喰われてしまいますよ」
「お、お父さん」
「ん」
「幸は今の生活に満足しています、本当だからね」
「ありがと。そうだ、幸、これを持って行きなさい」
男は空から硝子球を取り出すと幸に手渡した。
幸の姿がかき消すように消えた。
「さてと」
幸乃は男を少し睨む。
「お前さまは幸の気持ちがわかっていません、たとえば、ほれ」
幸乃が男の右の肩口を指さした。
「これは・・・」
「お前さまにも理屈はございましょう、ようは、その御理屈と幸のどちらか大切か、天秤に掛けてごらんなさいませ」

幸は妙に人気のない、夜の街に一人立っていた。かなりの繁華街のはずであるのに、誰ひとりいない。
ブランドを並べた、個性豊かな、いくつもの店が煌々と軒先を照らしている、しかし、物音ひとつしない。すべての音が消えていた。
捕獲者には音が邪魔なのだろう。
幸は幸乃が言うであろうことを理解していた、願わくは、あいまいにそれとなく、言って欲しい、いや、言わずにいてくれればそれが一番なのだ。
幸は男に、これ以上負担をかけたくなかった。
「早く済まそう」
幸が小さく呟いた時、遠く、足音が響いた。
足音二つ、思いっきり駆けている。
啓子の妹、礼子だった、同じくらいの背丈の女の子の手を引っ張るように走ってくる。
「幸さん。どうしてここに」
礼子は息せききって幸に駆け寄った。
「早く逃げてください、鬼が追ってきます」
「わかってる、だから来た」
幸はふと礼子が手を握っている女の子を見つめると、片手でその顎をくっと上を向けた。
「中原理絵子、礼子ちゃんの親友か。自分の親友を危険に晒すなよな」
「幸さん、早く」
礼子が叫んだ。
「大丈夫、ここで鬼共を始末する」
幸は片手で理絵子の腹を押さえた。
「鬼をはらまされたか。落としておくか」
「あたしの赤ちゃん・・・」
「馬鹿野郎、お前の中にいるのはただの鬼だ」
幸の手が理絵子の腹に入り込み、その手を抜いたとき、青く光る、角のある赤ん坊が、その瞬間、幸の手の中で紅蓮の炎に燃え、消えてしまった。
「あ、あの人の赤ちゃんが・・・」
幸は理絵子を睨みつけると、ぐっと顔を寄せた。
「あの男のことは忘れな、もう人じゃない。なぁ、片思いでいいなら、既婚のあたしに惚れてみるか」
幸がにっと笑った。

「やっと見つけたよ、理絵子。急に走りだしてどうしたんだよ」
男が二人、やって来た。
「幸さん、あいつらが鬼です、今は人の姿をしているけれど。角が、牙が」
「礼子、理絵子を後ろから羽交い締めにしなさい」
「は、はい」
慌てて、礼子は理絵子の後ろに回ると両手でしっかり抱き締めた。幸が硝子球を二人の上に軽く放り投げる、硝子球は粉々になって二人の回りを回転しだした。
「礼子、動くなよ。その結界の中にさえいれば安全だ」
「は、はい」
男たちが近づいてくる、ほんの数メートルのところで、幸は男たちを制した。
「これ以上近づくな、あたしは男嫌いでね」
「うひゃあ、すげぇ美人さんだ。な、理絵子、紹介してくれよ」
幸は空から抜き身の刀を取り出した。
「早く鬼に変態しな。人の姿では太刀打ちできないぜ」
男は本性を現したかのように幸を睨み付けた。

「お前、ただの女じゃないな」
「ああ、ただの女じゃない、すげぇ美人さんだ」
幸はにぃと口を歪め笑みを浮かべると、右手で刀を持ち刃先を男に向けた。男たちは表情を変えた。軋むような音が男達の体から響きだし、巨大化して行く、ほんの数秒のうちに、青く燐光のように光る鬼が二体、立っていた。
「礼子」
「はいっ」
「姉妹そろって運が悪いな」
一瞬、幸の姿が消えた。いや、あまりの速さに礼子の目では幸の動きを追うことができなかった、それは、鬼にとっても同じだった。二体の鬼の首を同時に刎ねる、その血しぶき浴びるよりも早く、幸は鬼の背中に移動すると、その原をなぎ払った。

幸が再び、礼子の前に現れた時、その背後にはいくつもの青い肉塊が転がっているだけだった。
「燃やしておくかな」
幸の呟きに呼応するかのように肉塊が燃え上がり、黒い消し炭となって消えてしまった。
ふいに幸は少し離れた街路樹に向かって声をかけた。
「そこの魔術師、出てこい。まさか、無事に帰れるなんて思ってないだろうな」
黒いマントを羽織った男が姿を現した。
怯えきった表情で幸を見る。
「せっかくだ、あんたも斬っておくか」
「そ、それだけは勘弁してくれ」
幸が魔術師を睨んだ。
「なるほど、人狩り。鬼の遊び、あんたは、その連絡係ということか。なんだよ、鬼の使いぱっしりじゃねえか」
「均衡が崩れたんだ、鬼がどんどん強くなって来た」
「まさか、世情の乱れを責にするつもりじゃないだろうな」
幸は魔術師の言葉を冷たく返した。
「お前らが弱すぎるんだよ。ん、お前、あの暗殺寺の出身か」
幸はふと愉快そうに笑みを浮かべた。
「もう一度寺へ帰って修行をし直せや、絶世の美女にそう言われたって言えば、館長も受け入れてくれるぜ、もっとも、あんたが生きて寺へ辿りつけたらの話だけどな。早く行け」
魔術師はあたふたとうなづくと姿を消した。
「あれは鬼のところに戻るな」
幸は関心をなくしたように冷たく呟いた。
振り返ると幸は硝子の結界を消した。
「幸さん、ありがとうございます」
ほっとしたのか礼子はしゃがみこんでしまった。
「めったにない経験ができたわけだ、ただし、次は助けないぞ」
幸は怒ったように言うと、手を横に伸ばした、その手が消える、
「あ、うわぁっ、な、何」
啓子が幸の手に背中を引っ張られ現れた。左手にお茶碗、右手にお箸を持ったまま。
「幸さん、無茶ですよ。晩御飯食べていたのに」
「悪いな、礼子ちゃんが鬼に襲われた」
「え・・・」
啓子はしゃがみこんでいる礼子を見つけると、慌てて抱き締めた。
「礼子、大丈夫。怪我は」
「大丈夫だよ、お姉ちゃん」
「あまり大丈夫じゃない」
幸が啓子の背中に話かけた。驚いたように、啓子が振り返る。
「礼子ちゃんと、その理絵子ちゃんは、一週間、預かる、ゆっくりと穢れを払ってやるよ」
「よろしくお願いします」
啓子が頭を下げた。

幸は三人を連れ帰ると、そっと玄関を開けた。
上がり口に笑みを浮かべた幸乃が立ち、四人を向かえていた。
「お疲れさま、御風呂わいていますわよ」
「幸乃さん、お父さんには・・・」
「迷った時は前進あるのみ。しっかりはっきり申し上げました、あとはよろしく」
幸乃は幸に近寄ると、すっと幸に溶け込んでしまった。
幸は留守にしていた間の幸乃の記憶を確認して慌てふためいた。
「啓子さん、二人を御風呂に入れてください。そして、徹底的に体を洗わせるように」
「は、はい」
啓子の返事を聞く間もなく、幸は男がいるであろう御風呂の竈へと駆け出した。
新しい御風呂は薪で焚くようになっており、外に竈が設えられていた、もちろん、中からでも追い炊きくらいはできるようになっている。
男が竈で薪をくべていた。
「おかえり、体冷えたんじゃないか、もう一度、幸、風呂に入るか」
「お父さん」
「ん」
幸は男に駆け寄ると、しゃがんでいる男の前で跪いた。
「ごめんなさい。幸乃さんの話したことは」
男がくすぐったそうに笑った。
「幸乃さんのこと、怒らないようにね」
「でも」
「幸乃さんにとって幸はとても大切な妹なんだろう、だから、幸の幸せを一番に考えている、たとえ、自分の存在が消えても、幸が幸せであればってね」
「その辺、父さんも同じように幸が大切だ。幸の幸せが父さんの幸せだからさ」
男は手を伸ばすと、そっと幸の頬に触れた。
「幸が幸せでありますように」
幸が男をぎゅっと抱き締めた。
「お父さん、幸乃さん、ありがとうございます。幸はとっても幸せです」
幸は男の心臓の鼓動を楽しむかのように男に身を寄せていたが、ゆっくりと顔をあげた。
「右腕、作らせてください」
「ありがとう」
ふと、幸が玄関口の方向を見つめた。
男はくすぐったそうに笑った。
「幸、啓子さんを攫って来たんだろう、恵さんと啓子さんのお母さんだ」
恵は実家には戻らず、啓子の家で居候をしていた。食事時、啓子が目の前で消えるのを見て、男の元に慌てて相談に来たのだった。
「お父さんと二人っきりの生活が・・・」
「なんだか、当分、賑やかになりそうだな。玄関口へ二人を迎えに行きなさい」
幸はうなずくと、玄関口へと走って行く。
男が風呂場へと声をかける。
「啓子さん、湯加減どうだい」
「ありがとうございます、ちょうどいいです」
中から、啓子の声が聞こえた。
「幸も御風呂にはいるだろう、中から追い炊きできるから後は任せるよ」
「ありがとうございます」
男が居間に戻ると、幸が二人に謝っていた。男はくすぐったそうに笑みを浮かべると、お茶を沸かしに台所へ向かった。
とたたっと幸が男の元にやって来た。
「お父さん、ごめんなさい、二人も今晩泊まることになっちゃったよ」
「いまから夜道を帰るのも危ないだろう、もう一度、御飯を炊かなきゃな。野菜は畑にあるだろうし、冷蔵庫はどうかな」
冷蔵庫を開け、しゃがむ男の後ろから、幸がその背中におぶさり、男と一緒に覗き込む。
「お父さん、これは鍋だね。かしわとお豆腐」
「そうだな、野菜で水増しして。冷御飯は雑炊用、これから炊く御飯はおむすびにしてしまおう」
「なんだか、お父さん。民宿の亭主と女将は大変だ」
「大丈夫だろう、うちの女将さんはしっかりしているからな」
幸がにっと笑った。
「うちの亭主は気配り上手だし」
男は急須と湯飲みを二つ用意する。
「持って行きなさい、もうすぐお湯も沸くからさ。それと、啓子さんに御風呂の沸かし方を教えてあげなさい」
「うん、わかった」
幸は急須と湯飲みを持って、二人のいる居間へと行く、男はそっと笑みを浮かべた。
賑やかなのはいいな、男は呟いた。