遥の花 流堰迷子は天へと落ちていく 三話

遥の花 流堰迷子は天へと落ちていく 三話

鬼紙老とあかね

「お父さんは、あかねちゃんの父親を連れてきて。幸はちょっと遊んでくるよ」
門柱の手前に男と幸とあかねが立っていた。通りの向こうからやってくるのはあかねの父親、大きめの旅行鞄を転がしやって来る、治療が功を奏したのか、血色も良いようだ。
ただ、あかねの父親の後ろには。

「あれって、気づいていないのかなぁ」
幸が愉快で仕方ないと低く笑う。

「気づかないし、彼は先天的に影響を受けにくい人なんだよ」
百鬼夜行、あかねの父親の後ろを異形のモノたちがふわりふわりとやって来る。まさしくの鬼、首から上だけが人の犬。半魚人や、あれは蛇だろうか、それとも小竜だろうか、伝説の妖怪たちが百以上、ゆらゆらとやって来る。
「病院には結界を張っておいたから、この道中、待ち構えていたんだろうな」
「あれも叔父さんのせいでしょうか」
あかねが呟くように言った。
「取り殺そうというのだろうけれど、あんまり、本気ではないようだ。やっつけ仕事だな」
男が応える。
「そっか、あかねちゃんにも見えるのか。なら、幸の活躍をじっくり見ていてね」
にぃぃっと幸が笑う。
男は困ったように笑みを浮かべると、あかねに言った。
「多分ね、叔父さんの差し金だろう。数は多いけれど、骨のあるのは四体の鬼と四神を象った奴だけだな」
男は門柱の裏に立て掛けていた木の棒を取る。一メートルと少しの細長い棒だ。
「良い機会かもしれないな」
男はひとつ、吐息を漏らすと門柱の外、結界を出た。
幸がその後を追う。
男が何げなく歩く。しかし、その足取りは軽く、いや、ほんの数ミリ、男は地面から浮いていた。
「父さん、あかねちゃんのお父さんを結界の中に連れて行くよ」
「それじゃ、幸は後ろの奴ら、みんな斬っちゃう、なんだか、嬉しいなぁ」
「幸、理性を保て、幸は強すぎる」
「うるさい、しっかり楽しませてもらう」
男は溜息を小さくつく、その瞬間、男の姿が消えた。
男はあかねの父親の横に現れると、すぐ後ろに陣取っていた鬼を、中段、棒で突く。鬼が一瞬、倒れかけた。男はあかねの父親を片手に抱えると姿を消した。
一瞬の後、男はあかねの横に気絶した父親を寝かせる。
「移動の速さに耐えられなくて、ちょっと意識を失っているだけだからね。すぐに起きてくれるよ」
「ありがとうございます、でも、お姉ちゃんが」
男が振り返る。
二匹の鬼を両断した幸がの笑い声がここからでもはっきりと聞こえる。片手に長刀を軽々と持つ幸の姿は絶対的確信の元に勝利を示していた。
「狂気の壁を越えて、向こう側へ入り込んでしまったということだ」
「おじさん、それがわかっていて・・・」
「一度は向こう側に行かないとね、自身の力がどれほど強く恐ろしいものかはわからない。いまなら、おじさんの力でなんとか連れ戻すことができると思う。今、以上、幸が強くなったらおじさんでも無理。いい機会なのさ」
男が寂しそうに笑った。
「ごめんなさい、おじさん」
男はいたずらっぽくにっと笑う。
「幸には普通の平凡な生活を送って欲しい、親なら誰でも思うこと。ただ、ちょっとね、強すぎるんだ、幸は。もちろん、そう育てたのはおじさんなんだけどね、なんだかさ、反省しているよ」
男はあかねに言うと、立ち上がった。
「あかねちゃん、お父さんが意識を取り戻したら、居間にお通ししなさい」
「おじさんは」
「幸と後から戻る。ただ、幸だけが戻ってきたら」
「お姉ちゃんだけが」
「そのときはごめん、おじさんはもう死んでるから、無責任なこと言うけど、なんとか逃げてくれ」

幸が三匹目の鬼を片手袈裟掛けに斬る、瞬間、男は鬼を横から蹴り倒した。刀が空を斬る。
「邪魔をするなと言ったろうが」
幸が男を睨みつけた。
「幸、理性を取り戻しなさい。その刀は本当に、永劫、この世との繋がりを断ってしまう。それは、幸、自分自身の心を傷つけていくのと同じことだよ」
「わけのわからない説教に聞く耳は持たない。お前が殺されたくないのなら、ここから消えてしまえ」
男は仕方なそうに笑みを浮かべた。
「そうはいかない、これでも父親だからさ」
男は棒をおよそ三分の一の位置に、右手で持ち、先を幸に向ける。
「杖は相手の動きを制する武器、剣とは異なる性格を持つ武器だ。これで幸の動きを制してあげよう」
表情を変える事なく幸が男の首を凪いだ、一瞬、腰を落とした男が剣筋を避け、幸の首に杖の先端を添えた。
幸は杖の先端を嫌い、半歩下がったが、男がゆるやかに歩み寄る、先端は幸の目の前に移動した。
「絶対的速度は幸の方が遥かに上だな」
男が小さく呟く。
幸が姿勢を思いっきり落とし、剣を下から跳ね上げた。男はその動きを読んでいたように、左に半歩躱し、浮かび上がった幸の両腕を杖で下からすりあげる。円を描くように、幸の腕を押え込みかけたが、するりと幸は流れから逃れると、打突、剣を男の心臓に向けて突いた。
男は交差させるように剣に向かって突く、杖の厚み分、剣が逸れた。
「面白いなぁ、それ」
幸がにたりと笑う。
「変化が速い」
「それが杖の本質だ、よく見抜いたな」
男が答えた。
「剣はその構造上、平面の動きを連続させることで立体的な動きを作り出す。杖は最初から立体的な動きができる分、有利なのさ」
幸の姿が一瞬、後ろに流れ、入れ替わるように剣先が男の目の前に現れた。男が半歩前、杖で制しながら前に出る。
「早速、剣の動きに取り入れたか。ほれぼれする」
「もう、教えてもらえないのは寂しいな、それとも、まだ、引出し、何か残ってる」
「いや、引出しに残ってるのは、黴びた匂いと埃だけ」
「それじゃ、さよなら」
幸は笑みを消すと、手首を返す、横になぎ払う、膝を抜き、男が背を落とす。男の髪の上を剣が擦り抜けた。
とんとんと男は二歩下がると後ろ手に杖を構える、幸の位置からは杖が見えない。
「幸、これから父さんが壁の向こうから救い出して上げよう」
「こんな楽しいことはないよ、ここはとってもいこごちが良いんだ。ね、父さん」
「ん・・・」
「父さんより強い奴っているのかな」
「そうだな。人では、あんまりいないんじゃないかな。人外ではいるだろうけどね」
「そうか、なら、まだこれからも楽しめそうだ」
男は答えず、微かに身を落とした。
「行くよ」
「今までありがとう」
男の姿が幸の左に現れ、その脇を打つ、幸が剣をするりと下げ、その腹で杖を流した。そのまま、平面に回転させ、男の首を引き斬る。男は杖をかつぎ、半歩前に剣を避ける。
振り向き様に中段へ突き込んだ。
二人の動きはあまりにも美しく恐ろしいものだった。
幸は迷いなく男を殺そうとしていた、しかし、男は幸に杖の動きを教え込もうというかのように見える。

百鬼夜行の魑魅魍魎たちが消えて行く。
二人の動きに気圧され、恐怖が、操っているであろう術者の影響力を遥かに越え始めたからだ。

一瞬、間合いが広がった。男の使う杖の間合いは短く、剣の間合いは遠い。男はそれを意識して、間合いを詰めていたのだが、幸に絶対的な速さにて引き離されたのだった。

どうする、右腕一本、諦めるか・・・

振り下ろす幸の剣が、男の右手を斬り落とした。
その瞬間、幸に隙が生まれた。
男は間合いを詰めると、左手で幸の頭をこつんと小突く。
「え・・・」
幸の動きが止まった、剣を地面に落とす。
男は幸の頭をくしゃくしゃとなでた。
「幸、優しい娘に戻りなさい。こちらに帰ってきなさいな」
「え、お父さん・・・。お父さん、うわぁぁっ」
幸は男の右腕が斬り落とされ、血が吹き出しているのを見た。
「ん、大丈夫だ。意識で右腕への血管を収縮させるから」
幸は自分の服を引きちぎり、肩先を縛り付ける。
「お父さん、お父さん」
悲鳴のように男を呼ぶ。男は左手で、幸をしっかり抱き締めた。
「幸、日常と狂気の境目がわかったか」
幸が男の胸の中でこくこくと頷く。
「越えないようにな。常に日常にいること、いいね」
「わ、わかった・・・」
「幸はとってもいい娘だ」
男は手を離し、座り込む。
幸は呆然と突っ立ち男を見下ろしていた。
「幸」
「はい・・・」
「父さんもな、親父の腕を斬り落とした。力を持つとどうしようもない衝動が湧いてくる、衝動の後、それがどれだけの影響を与えてしまうかわからなくなる。だから、これでいいんだよ、そうじゃないと、本家みたいになってしまうぞ」
男は少し笑う。
「お父さん、嫌だよ、こんなの嫌だよ」
ぼろぼろと幸が泣きじゃくる。
「本当にね」
男は少し頷く。
「でも、幸と関わりを持って、一緒に暮らすのは、父さん、とっても楽しいんだ。幸は嫌かな」
「お父さん、幸が嫌だって言ったら、そうか、しょうがないなぁって言うでしょう」
にっと男が笑った。
「幸に約束するよ。言わないようにする、だって、父さん、幸と一緒が一番良いからな」
一瞬、黒い影が走った。あわてて幸が振り返る、男の切り離された腕を抱えた黒服が逃げ去って行く。
「追うな、幸」
「だって、あれは」
「あの片腕は、これからも幸と楽しく暮らせるようにと、その対価にした腕だ。だから、あの腕はもう父さんの腕じゃない」
男は小さく溜息をついた。
「せっかく、まっとうに生きられるようにしてやったのに」

空気が揺れた、神崎が空気の扉をかき分けるようにして現れた。
「やぁ、神崎さん。魍魎を操っていたのはあんたか、だろうな。鬼紙家息子の依頼か」
「先生に嘘を言うとこっちが危ない。おっしゃるとおりだ」
幸がぎろっと神崎を睨みつけた。
「おおっと、睨まないでくれ。竦み上がってしまう。当世の義理があってさ、断れないんだよ」
脅えながらも、にやけた笑いを浮かべる。
「ところで先生、あの腕はどうする」
「私がどうこうするって代物じゃない、私の腕じゃなくなったんだからね」
「そうか。めったにない宝物だ、ありがたくいただくよ」
「奴から奪うのか」
「あぁ、名無しの右腕だ。こんな研究材料はまたとない」
「私の知ったことではないけれど、奴と話す機会があるなら伝えてくれ」
「なんと伝えればいい」
「残念だったと」
「承知」
空気の中に溶け込むようにして、神崎の姿が消えた。

男はゆっくりと立ち上がった。
「お父さん」
「ん」
幸は男に添うと額を男の胸に重ねた。
「幸はごめんなさいとは言いません。ずっと、この気持ちを、気持ちを・・・」
幸は男にしがみつくと、大声で泣き出した。
「お父さん、ごめん、ごめんなさい。もう、悪いことしないよ、優しい良い子でいるよぉ。ごめんなさい」
男はゆっくりと左手で幸の頭をなでる。
「父さんは今の幸も大好きだし、とってもかっこいい幸も好きだ。台所できょろきょろとお菓子つまみ食いしている幸も好きだし、あかねちゃんのお姉さんになっている幸も好きだし、にかっと満辺に笑顔を浮かべている幸も大好きだ。本当に幸と一緒にいて楽しい。これからもよろしく」
幸は息切れするように、ぜいぜいと息を弾ませいたが、ぐっと息を飲んで見上げる。
「お父さん、これからもよろしくお願いします」

あかねとその父親を居間に残し、あたふたと幸は男を風呂場へと連れて行く。
幸は男の上半身を脱がせるとシャワーで右肩を洗った。
肩と肘、ちょうど中間辺りに鋭い断面を見せていた。
「いいよ、あとは父さんがやるから」
「だめだよ、これは幸の仕事だ」
幸が斬り口に両手を添える。ほの白く、幸の掌が光を放つ、これは月の明かりだ。
そっと幸が手を放す、皮膚が広がり、傷口を包み込んでいた。

「お父さん、これからは幸がいつも横にいるよ。ご飯も幸が食べさせてあげるし、御風呂やお手洗いだって、幸が手伝うよ」
「いや、お願いだから勘弁してくれ、恥ずかしい」
「でも」
男は幸の真面目な表情に困り切ったように笑みを浮かべた。
「父さん、両利きだし、本当に必要と思ったら、義手をつくるよ、日常生活に不便のないくらいのをさ」
「お父さん」
「ん」
「本当にごめんなさい、幸はお父さんの仕事もだめにしちゃったし、片腕にもしてしまった」
「でもさ」
男はそっと笑みを浮かべた。
「幸が父さんの前に、こうしていてくれる。それはなにものにも代え難い父さんの幸せなのさ」
「お父さん・・・」
「幸が幸せになるようにって、名前を付けたけど、なんだか、父さんの方が幸せになったみたいだな」
男はそっと、左手で幸の頬に触れた。
「もっと、幸が幸せになりますように。幸が楽しい日々を送ることができますように」
男はふっと顔を寄せ、口づけしかけたが、思い止どまると、そっと笑った。
「なんか、父さん、上半身裸だと変になってしまう、セクハラだな。服、着てくるよ。幸も服破いてしまって、着替えて来なさいな。これから出掛けるからね」
男が立ち上がりかける、幸が男の左手を掴んだ。
「ん、どうした」
「責任取って」
幸が俯き呟いた。
「え」
幸は男を見上げると睨むようにして見つめた。
「幸はお父さんが好きです、一人の男性として愛しています。この気持ち、責任取ってください」
男は困ったように笑みを浮かべたが、少し、吐息を漏らすと、手首を返し、幸の指先をほどく。そっと、幸の頬に手を添えた。
少しぎこちない口づけを初めて男からする。
「ごめんね、いま、恥ずかしがり屋の父さんができるのは、これで精一杯なのです。ちょっとは責任、とれましたか」
「父さんからキスしてくれたのは初めて、初めてだ」
にひひっとほがらかに幸が笑った。
「泣いてた女の子がもう笑った」
「ありがと、お父さん」

二人は血のついた服を着替え、居間に戻った。
あかねが男の姿に何か言いたげだったが、口をつぐむ。
男は座ると、あかねの父に話しかけた。
「どうです、体の調子や気分は」
父親は落ち着いた笑顔を浮かべた。
「随分良くなりました、貴方のおかげです」
「それは良かった、これから当分、貴方とあかねちゃん、奥さんの三人、鬼紙家で暮らすことになるでしょう。鬼紙家のことはご存じでしょうね」
あかねの父親が頷く。
「駆け落ちをするまでは、私は議員の秘書をしておりました。鬼紙老と議員の連絡を取り持っておりました。ですから、表のことも裏のこともいくらかなりと存じております」
「なるほど。知っていて駆け落ちをするとは、豪気な人だ」
男は笑うと、立ち上がる。
「私と娘もご一緒致します。役に立つと思いますよ」


四人が鬼紙家近くの鄙びた駅に着いた頃には、辺りは薄暗くなっていた。
「駅の回りは森ばかり」
濃いサングラスをした幸が呆れたように呟いた。
「鬼紙家専用の駅みたいなものだな」
「森を通って半時間ほど歩くと大きな門がある。もっとも、この駅舎だって鬼紙家の敷地内だけどね」
「それって、大金持ちってこと」
「お金と土地と裏の権力を持っている」
「よくご存じですね」
あかねの父親の言葉に男は微かに笑みを浮かべた。
「随分、昔、親父が鬼紙家からの依頼を受け仕事をしました、私は見習いとして親父に従っていたのですよ」
「あかねちゃん」
幸が急にあかねに話しかけた。
「お金に目がくらんじゃだめだよ」
あかねがくすぐったそうに笑う。
「大丈夫です」
男が笑った。
「幸は大金持ちになったらどうする」
「うーん、お取り寄せとかの、カロリーが高くって、美味しいのを吐くくらい食べる。それくらいかなぁ、思いつくのは。そうだ、お父さんに車を買ってあげよう」
「車はいらないよ、電車やバスで充分」
「なら、電車とバスを買ってあげるよ」
「父さん、電車なんて運転出来ないぞ」
「なら、運転手を雇って」
「それなら、始めから乗車券買って乗るのと変わりないよ」
「それもそうだ。つまりは今で充分、お父さんも欲が無いなぁ」
「過ぎた欲は身を滅ぼす。父さんは幸と一緒に暮らしたいという欲がある、これでもう充分だ」
「もぉ、そういうことなら、平気で言えるくせに」
幸が照れたように小さく呟いた。

幸を先頭に歩く。舗装はされていないが、バスでも充分行き交うことの出来るような幅広い道だ。
男が、あかねと父親を挟むように、最後尾を歩く。
それでも、夕刻、両端をうっそうとした木々が生い茂るため、少し薄暗く、不思議と道幅が狭く感じられる。
「どうも、変なのですが」
あかねの父親が言う。
「どうしました」
男が答えた。
「先程から、どうも、見られているような、そんな気がしてならないのです」
あかねの父親の問いにどう答えるかなと男は考えた。
実のところ、両端の木立には偵察だろうか、何人もの人間が息を潜め、四人を監視している。
さて、これが鬼紙老の差し向けた者か、それとも、息子、現当主敬一郎の放った者かによって、対応は変わるのだが。
実際に、尋ねればいいかと、男は左の茂みに身を寄せると、左手を鋭く茂みに差し込んだ。男の腕がすっと下に落ちる、影が弾かれたように、一転し、男の前に落ちた。
狐の顔をした人間が仰向けに倒れ気絶していた。
「ん、これは息子の側だな」
幸は男に駆け寄ると、狐の顔をじっと見つめる。
「お父さん、以前と同じだ」
「狐人間・・・」
あかねの父親が唸った。
「なんなんですか、これは。これ、人ですよね」
幸はしゃがむと、狐の顔を掴む。
「幸、取れるかな」
「簡単だよ」
幸は少しひねりながら、狐の顔を剥ぎ取る、下から普通の女の顔が現れた。
「狐を模した精巧な面です、付けられた人間が自分の顔と間違うくらいですよ、前面に触覚センサーが取り付けられていて、それが脳に信号を送る。当人は自分の顔だと錯覚します」
男はあかねの父親に説明すると、女の頬を軽くたたく、女が気づいた。
「み、見るなぁ」
女が両手で顔を隠し背を丸める。
「どっちをです。狐の顔、それとも、あなた本来の顔ですか」
「え・・・」
女は惚けたように手を下ろした。
「あたしの顔」
「狐の面はこっち」
幸はそう言うと、女に面を見せる。
「お面だったの・・・」
男が女の目をじっと見つめる。
「まだ、人を殺してはいないようだね、それなら」
男は笑みを浮かべると、女に話しかけた。
「いま、君には二つの道がある。このままの生活を送るか、それとも、ごく普通の生活を送るか。君はまだ二十代半ば、やり直したいというなら、ここから救い出して上げよう、どうする」
女はぼぉっと男を見つめていたが、いきなり、足をそろえ正座すると、男に頭を下げた。
「お願いします、普通の生活がしたいんです」
「良い選択だと思いますよ、立ちなさい」
弾けるように、女が立ち上がった。
「君、鬼紙老は何処にいます」
「地下牢です、昨日から」
「ありがとう」
男がそっと笑った。

幸はにっと笑うと、狐面を引きちぎり、投げ捨てる。そして、自分の髪を一本、抜くと、女の手首に巻いた。
「坂村惠子、二十三歳。大学卒業後、鬼紙家の所有する持ち株管理会社に入社」
幸が濃いサングラス越しに女の目を見ながら呟いた。
「どうしてそれを」
「秘密だ。でも、惠子さん、少なくとも、ここを離れる一時間程の間、私達を完全に信じ切ってくれ。信じてくれさえすれば、元の世界に返してやる」
「は、はいっ」
幸の凜とした表情に圧倒され、女は声を上ずらせて返事した。
「あたしの名前は幸」
幸はサングラスを下に少しずらすと、鋭く坂村の眼を見つめた。そして、ほっと力を抜いたように笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ、よろしくな」
幸はサングラスを戻すと、歩きだす。

幸を先頭に五人は玄関のたたきに立っていた。
五人の周辺には二十数人の狐面が、あるものは仰向けに、またあるものは弾き飛ばされ、玄関の扉に突き刺さっていた。
ほんの一秒にも満たない一瞬に、攻撃しようとした狐面達を幸は打ち倒していた。
男以外には幸が動いたことすら見えなかっただろう。目の前に立つ、あかねの叔父、啓一郎ですら。
「あんた・・・、名前は」
幸が啓一郎にぶっきらぼうに尋ねた。
「私は・・・」
普段なら怒鳴りつけていただろう、しかし、目の前に立つ幸の気配に、畏怖を感じ、言葉を続けることができなかった。

男は器用に倒れている狐面達を踏まぬよう、幸の隣りへと出た。
そして、啓一郎の背広のボタンを一つ取ると後ろへ放り投げる。
「隠しカメラとそれから」
男は気楽に呟くと、左手で啓一郎の左のこめかみを軽く打つ。小さく、軋む音がした。
「本部から指示を得るための骨伝導イヤホンはこれで使いものにならない」
「お父さん、こいつ、本物じゃないの」
「東京の本部にいる啓一郎の影武者の一人だ、奴は危ないところに行くのが好きではない人なんだろう」
幸が啓一郎の影武者をじっとりと睨みつける。
「案内しな、地下牢へ」
「な、なんのことだか、わからないな」
上ずった声で答える。
幸はにいぃと口元を歪め、笑みを浮かべた。
「このまま、首の骨を折られて死ぬか、それとも、地下牢へ案内してから死ぬか、二つに一つだ。でも、地下牢を選べば、あたしの気分が途中で変わって、あんたは死なずに済む可能性もなくはない。いま、どちらを選ぶか、決めな」
啓一郎の影武者は膝を震わせ、尻餅をつく。口元が恐怖で震えていた。
「選べないなら、あたしの楽しい方、選んでやるぜ」

男は溜息をつくと、こつんと幸の頭を小突く。
「お父さん、痛いよぉ」
「幸、ほどほどにね」
「ごめんなさい」
男は笑みを浮かべて、幸の頭を撫でると、靴を脱ぎ、玄関を上がる。
「案内も何も、場所わかっているんだから行くよ」
「はぁい」
幸も靴を脱ぐと玄関を上がった、そして、振り返る。
「あかねちゃん、行くよ」
「は、はいっ」
あかねは坂村の背中を押し、言った。
「良かったですね、先におじさんに出会っていて」
「私もこうなっていたの・・・」
坂村が倒れている同僚を見渡す。
「はい。ただ、これでも、斬られて、体二つになっていないだけましです」
難無く隠し扉を開けた男の後ろを四人が追う、階下を降りると、時代劇で見るような太い木の格子で固められた牢屋が続く。
「あまり好きな匂いじゃない」
幸が小さく呟いた。
かすかな異臭は人のものではなく、また、獣の匂いでもない。
「鬼紙家は、その名のごとく鬼を研究していた。より、うまく使役するためにね。昔、父さんと親父がここに来た、それは支配を断ち切った鬼を制することだった。それ以降、ここには鬼はいなくなったんだ」
かすかに女のすすり泣く声が聞こえた。
「お母さん」
あかねが叫んだ。
あかねが走りだす、幸があわててそれを追った。

地下牢には鬼紙老と従者十人が正座をし、眼を瞑っていた。一人、あかねの母親が脚を崩し泣いていたのだった。

「おお、あかねか。ならば、あの男もいるのだな」
鬼紙老が静かに呟く。
幸はふぃっと格子を擦り抜け、十二人の体に触れる。幸の手には小さな機械が載っていた。ふっと息を吹きかけると、跡形もなく消えた、その瞬間、遠くに爆発音がこだました。
「動けば爆発。自分の親や妹にこういうことをするのか」
幸が小さく呟いた。
「狂っているんだろうね」
男は旧式の錠を左手でなんなく壊し、扉を開けた。
「牢屋に入る趣味はありません。どうぞ、出てくださいな」
深く息を吐き出すと、鬼紙老は目を開け、男に頭を下げた。
「助けてもらったな」
「どういたしまして」
あかねの父親が鬼紙老に肩を貸し外へ連れ出す。あかねと幸が、泣き崩れるあかねの母親をなだめ、外へ連れ出した。従者も十人、這うように出ると、ほっと息をつき、脚を延ばす。
やがて、脚の痺れも取れ、階上へと階段を上る。全員を先に上がらせ、男は地下への隠し扉を元に戻した。
ふと、男が玄関に向かって声をかけた。
「神崎さん、わざわざどうされました」
誰もいない玄関口、しかし、ふわっと杖を片手に一人の紳士が現れた。次の瞬間、幸が刀の先を神崎の喉元に向ける。
「お父さんの右手はどうした」
「先生の右腕は手に入れた、ただ今、分析中さ」
「この野郎・・・。ここで、いま、あんたをまっふたつに斬ってから、お父さんの腕、取りに行く」
「先生、なんとか言ってくれ」
想像以上の幸の怒りに神崎はまともに脅えた。表情に余裕が消えている。
「取りに行くことはありませんが、それは別として。随分と、神崎さん、お腹が豊かになられたようですし、ちょっと、幸に斬ってもらったらいかがです、お腹の辺り、上からすとんと」
「お願いだから冗談は止してくれ。先生の一言に私の命がかかっているんだ」
男は少し笑うと、幸に刀を収めさせた。
幸は戻ると、男の背中にぎゅっとしがみついた。
「ごめんなさい、お父さん」
「いいよ、ありがとう」

鬼紙老が気づき、部屋から玄関口に戻って来た。
「神崎君か、どうした」
「お久しぶりです、鬼紙老。残念ですが、悪いご報告を致さねばなりません」
「息子のことか」
「はい、啓一郎様が鬼と融合し、こちらへと向かわれております、あと、半時ほどで来襲なさるであろうと思われます」
「そうか・・・、あれには荷が重すぎたか」
力無く倒れそうになるのを、男が左手で支える。
そして、ゆっくりと鬼紙老を床に座らせた。あかねの父親がそれに気づき、あわてて、座椅子に鬼紙老を座らせた。
男は幸を連れ、部屋へと戻った。

「お父さん、どういうことなの」
「ん、さっきの話か」
「人が鬼を支配しようとして、逆に支配された、その結果、人の知識と思考能力を得た鬼がここへ攻めてくるという話だ。神崎さんの見せ場が始まるのさ」
男は興味無さそうに言うと部屋を見渡した。時代劇のお城にあるような大広間の一角、あかねが母親に寄り添っていた。
そして、坂村が一人ぽつんと所在無げに座り込んでいた。
男が坂村の前に正座する、幸がその横に座った。
「も、申し訳ありません。私、何をどうしたらいいか、整理がつかなくて」
「いえ、いいんですよ、こんな特殊な状況に対応できる方が不思議なんですから。さて一通り用事は済みました。このまま、貴方を連れて帰るつもりだったのですが、少し待ってもらえますか、一時間程」
「お父さん、鬼と闘うの」
「その必要はないだろう、なんて言ったって、折角の神崎さんの見せ場だ、今後のスポンサー拡充のためにも、彼にとってはちょうど良い機会。関わる気はないし、あんまり、目立つと幸と静かに暮らせなくなってしまう。それは大問題だからな」
男が笑みを浮かべた。
「お父さんったら、もぉ」
幸が照れたように俯く。
男は自然と幸の頭を撫でると、立ち上がった。
「他の人達の様子を見てくるよ、幸はここで三人を見ていなさい」
「お父さん」
「ん、どうしました」
「一人で危ないことしちゃ嫌だよ、だって、幸はお父さんの右腕なんだもの」
「大丈夫だよ、幸は心配屋さんだ」
男が部屋を出ると、幸はほぉっと呟いた。
「お父さん、可愛いなぁ・・・」
「優しい人ですね」
ふっと坂村が一人呟いた。
「嬉しいなぁ、わかるかい」
幸が坂村に話しかけた。
「は、はい」
「ほんとにさ、とっても良いお父さんなんだ、こんな、あたしなんかが、お父さんって呼ばせてもらえる・・・、あぁ、だめだ、泣いてしまいそうになる」
幸は俯くと、涙を一つ零した。
いつのまにか、あかねが幸のそばに来ていた。
「お姉ちゃん、おじさんの右腕は」
「あたしが斬った」
幸はゆっくり顔を上げる、凍りついた表情だ。
「お父さんはどんな奴が襲って来ても大丈夫なように、武術と呪術をあたしに教えてくれた」
「あたしは教えてもらったその術で本当にお父さんを殺そうとした、まっふたつに斬るつもりだった」
「そんなあたしに、優しい幸に戻れって頭撫でてくれるんだ。全然怒らずに、痛そうな顔一つせずに」
幸は俯き、歯を食いしばった。
あかねは両手をそっと幸の手に重ね囁いた。
「お姉ちゃん、幸お姉ちゃん、幸ちゃん。あたしじゃない、幸だよ」
幸は深く息を吐き出すと、ようやっと力を抜く。
「ありがと・・・」

男は調理場にて分けてもらった楊枝をいくつか手にし、屋敷を歩く。至る所に階段があるのは、山一つが屋敷になっているからだろう。まるで迷路にも思える。
男は時々立ち止まり、楊枝を角に刺していく、刺された楊枝はふっとその姿を消してしまう。
「先生、面白いことをやっているじゃないか」
いつの間にだろう、神崎が男の横を歩いていた。
「弱った結界に芯を刺して修繕しているのですよ」
「いいのかい、他所の者に己の技を見せても」
男は気にする風もなく歩く。
「いいんじゃないですか。一目見て悟られるような技ならたいして隠す値打ちもない。逆に仕組みが悟られないのなら、隠れてやろうが目の前でやろうが変わらないでしょう。それより、準備はできているのですか」
「あぁ、賑やかに花火を打ち上げるつもりだ」
「神崎さんも元気だ、引退されるおつもりはないんですか」
「死ぬまで現役さ」
「なるほど、下の者は随分と迷惑がっているでしょうに」
男は立ち止まると、くすぐったそうに笑った。
「先生こそ、闇の仕事はもうしないのかい」
「しませんよ、だって、娘に、お父さん怖い、なんて思われたら大変です」
「先生の価値観はすべて、娘を中心にしているということか。まさしく、傾城の美女ですな」
「えぇ、自分が大物政治家や大会社の社長でなくて良かったと思います」
男は答えると、最後の楊枝を角に刺した。
「これで、障壁は随分しっかりしました。さて、私は部屋に戻ります」
「先生、最後にひとつ、聞きたいことがある」
「なんですか」
「いつまでままごとをしているつもりだ」
語気を強めて神崎が言った。
男は寂しそうに言った。
「私を殺したいと思う者は多い、それは当然の報いとして受け入れる、私はいつか殺されるでしょう。ただ、死んでも、私はあの子の父親であり、父親でありたいのですよ」
瞬間、神崎が隠していた銃を男に向けて撃つ。男は何もかもわかっていたようにその弾道を避けていた。
「先生、あんた、あの女の剣を避けることができたのじゃないかい」
「あの子はまだ心が弱い、私は父親です。しっかり、心も育ててやらねばなりません、私がいなくなっても元気で生きて行けるようにね、そのためには、右腕一本、惜しくはない」

男が部屋に戻ると鬼紙老を前に、あかねの両親がかしこまって正座していた。あかねは坂村と幸の間に座り、ぎゅっと幸の手を握っていた。
男は静かに鬼紙老の隣りに座る。
「鬼紙老、随分と難しい顔されていますね。御子息のことについては、心からお察し致します」
「君には随分世話になった」
「いいえ、御老のお役に、少しでも立てれば望外の喜びです。では、最初の取り決めのように、落ち着くまで、家族三人、ここで生活するということでかまわないですね」
「そうするつもりだ。お前達、いいな」
少し脅えたようにあかねの父親が頷く。
「御老、つかぬことをお伺いしますが、跡目はどうされます」
「外に三人の息子がいる、どれかに継がせるつもりだ」
ふと、驚いたように鬼紙老は男を見た。
「君ほど危険な奴はいないな、まるっきり、警戒心が生まれん。いらぬお喋りをしてしまった」
男は静かに笑みを浮かべると、微かに頭を下げた。
あかねちゃん・・・、ふっと男が心の中で呟いた、不意にあかねが寄ってくると鬼紙老の前に座ったのだった。
「おじいさま、いっぱい、いっぱい、ごめんなさい」
必死になって涙をこらえている思い詰めた表情。これは・・・、微かに違和感を感じる、男はそっと幸に向き直ると、にっと笑みを浮かべる幸。
なるほど、演技指導済みということか。
戸惑うように鬼紙老の手が空を掴む。
あかねはしっかりと鬼紙老の手を両手で握ると、ぎゅっと力を加え、そのまま額を拳に重ねた。
「お父さんとお母さん、駆け落ちしたことを許してあげてください」
あざといが、覿面の効果があった。鬼紙老の、まさに鬼の目に涙だ。
「おじいさんと呼んでくれるのか」
あかねは顔を上げると、じっと鬼紙老の目を見つめた、そして柔らかく笑みを浮かべる。
「運動会にも来てくれたよね、学芸会も。ありがとう、おじいちゃん」
鬼紙老が嗚咽し、涙を流す姿、珍しいものを見たと男は思う、それにしても、そうか、あかねちゃんは鬼紙老の記憶の中に運動会や学芸会の記憶を見つけて、そう言ったのか。
男が振り返り、幸を見る。少し睨んでみる、幸はにっと笑みを浮かべると、ばつが悪そうに少し舌を出した。
丸く収まればそれでいいかと、男は立ち上がる、瞬間。
「幸、坂村さん連れてこちらに来なさい」
幸は坂村を抱えると、一瞬にして男の元に現れた。
「神崎、やはり芯を抜いたな」
男が呟く。
外から聞こえ出した爆発音、雷の音、一瞬、閃光に部屋が青く染まる。
男は左手を肩の高さに上げ、人差し指を横に走らせる。空間が切れる、水だ、溢れるような滝の流れが現れ、足元に届く寸前に消える、まるで、滝の流れを一部切り取ったようだ。どうしてだか、これだけの水量なのに音が聞こえない。
男が前方に鋭く左手を延ばす、一瞬にして、滝は透明な壁になり、部屋を二つに分断した。
「お父さん、来たよ」
幸が小さく呟いた。
轟音と共に水壁の向こうだけが地震のように崩れ、夜空を穿つ、屋根が吹っ飛び、独りの男が、闇の空からゆらりと落ちて来た。
「見せ場を作る気か、迷惑な」
男が呟く。

「社長」
顔を上げた男の顔を見て、坂村が叫んだ。
鬼と化した啓一郎だった。
啓一郎は坂村の言葉を無視し、鬼紙老を見つめる。
「親父、俺の異母兄弟は何処だ」
「なんのことだか、わからんな。しかし、情けない、鬼紙家の当主が鬼に征服されてしまうとは」
啓一郎はにたりと笑うと、鬼紙老に一歩近づく、慌てて、あかねが鬼紙老の前に、両手を広げ立ち塞がった。
「ほぉう、あかねか。しっかりしたもんだ。しかし、どうも、お前はかんに触る、どいてろ」
「どかない、おじいちゃんを守る」
啓一郎は大声で笑い出した。
「愉快だなぁ、お前が守ってくれるのか、親父をさ。異母兄弟も煩わしいが三人のうち二人は殺して来た。後一人、殺せば、俺の地位は安泰なんだが、どうも、あかねが憎たらしい。今のうちにこいつも殺しておくかな」
啓一郎が牙のある口を大きく開ける、いや、開けるどころか、顎の関節が外れ、下顎が真下に落ちた、炎だ、青い炎が啓一郎の口から大きく吹き出した。
ぎゅっとあかねが目をつぶる。
「あかね、逃げろ」
思わず、鬼紙老が叫んだ。
水の透明な壁が容易く炎を遮る。
「感動の場面、申し訳ないけど、私の水の結界はそんなやわじゃないんだよ」
男は少し寂しそうに笑みを浮かべた。
「随分、小物の鬼に体を取られてしまったんだね、啓一郎君。今更、言ってもしょうがないけれど、向いてなかったんだな」
男が闇夜を見上げた。
光が落ちて来た。
啓一郎の腕に鎖が絡まり、引きちぎれるほど、両端に引っ張られた。
神崎の部下が二人、両端で鎖を強く曳いていたのだった。
神崎が闇の中からするりと現れた。
「鬼紙老、申し訳ありません。鬼は千体を超え、一匹、こちらに取り逃してしまいました。鬼紙老とお孫様を危険に晒してしまったこと慚愧に耐えません」
「いや、神崎君、よくやってくれた。君に任せれば安心だな」
鬼紙老が答えた。
「ありがたいお言葉にございます、今より、本社に残った鬼共を一掃して参ります」
「うむ、頼むぞ」
「はっ」
慇懃に神崎が頭を下げる。

「おい、神崎」
幸が大声で喚いた。
「おや、先生のお嬢さん」
「あたしはお父さんをないがしろにされるのを許さない。お前、これからは安心して寝れねぇぞ。いつ、あたしがお前の首、落としに行くかわからねえからな。毎日、首、洗っとけ」
睨みつける幸に神崎はその恐ろしさを思い出し脅えたが、顔には出さず愛想笑いを浮かべた。
「同じ人間同士、話し合えばわかる、今度、先生と一緒に話し合おう、な、なっ」
すっと神崎が消える。部下と啓一郎も消えてしまった。

「なんというじゃじゃ馬娘だ、あかねがこんな女といたとは」
鬼紙老がため息をつき、呟いた。
幸が鬼紙老を睨みつける。
「じゃじゃ馬娘結構、じいさん、あかねちゃんはしっかり教育してやるよ。そのうち、じいさんに、なぁ、じじいよぉ、小遣いくれよ、今月ピンチなんだよぉって言えるようにさ」
「な、なっ」
鬼紙老が顔を真っ赤にした。
「あ、あの、大丈夫ですから。言いませんから」
あかねが困り切ったように鬼紙老に呟いた。
「じいさん、今度の土曜日、遊びに来るからな、御馳走用意して待ってろよ」
「ばっ、馬鹿もーん」
鬼紙老が大声で叫んだ。
幸は振り返ることもなく、すたすたと部屋を出て行った。
男は愉快そうに笑みを浮かべ、少し会釈をすると、坂村を促し、部屋を出た。

屋敷を出、駅へと歩く。
不意に幸は立ち止まり、男の裾を握って呟いた。
「お父さん、ごめんなさい」
「え、いいよ、面白かった。本当に幸はえらそうにしている人が嫌いだな」
「えらそうにしている奴と金持ちは嫌い」
「なるほど、両方を満たしているもんな」
男はくすぐったそうに笑った。
幸が坂村の顔を見る。
「あ、あの、私はお金持ちではないので」
坂村が慌てたように言った。
幸は笑みを浮かべると、顔を横に振った。
「これから、電車に乗って帰るには、その格好はちょっと厳しいなと思っただけ」
「あ・・・」
坂村が呟いた、首から下は黒の全身タイツだ。機動性は良いが、町中で着るものではない。
「幸、坂村さんと先に帰っていなさい。女性同士の方がいいだろう」
「それじゃ、お父さん。晩ごはんのおかずをお願いします」
「駅前のスーパーで買って帰るよ」
幸はポケットから財布を取り出すと二千円、男に渡した。
「今晩はお客様がいるから奮発。お父さん、鍋にするよ、お魚とお豆腐と野菜と卵は冷蔵庫にあるからね」
男はふと笑みを浮かべると幸の頭をなでる。
「えへへ、どうしたの。お父さん」
「なんだか、とっても、幸せな気分になった、ありがとう」
「どういたしまして」
幸は左手で坂村の右手をしっかりと握った。
ふっと二人の姿が消えた。
男は駅へと歩く。この時間だ、列車は空いているだろう、途中まではのんびりするかな。

幸と坂村は家の前にいた。
「ここは・・・」
「幸んち、家に着いた」
「さ、さっきまで、駅へ戻る途中で」
「幸にはあまり距離は関係ない、歩いたり、列車に乗るのは、人としての意識を失わないため」
ふぁさっと幸の右手に大きなシーツが現れた。
「家には幾重にも結界が張ってある。そのボディスーツは呪で筋力を増加する仕組みだ、それをぬがなきゃ家に入れない」
「ここでですか・・・」
「大丈夫、人通りはない、さぁ、なんなら、手伝おうか」
「え、あ、あの」
幸はにっと笑うと坂村のお腹に右の手のひらを添えた。
火花を散らしながら、一瞬でボディスーツが燃え尽きた。幸は持っていたシーツを坂村に被せると、家の中へと連れて入った。
幸は坂村の手を握ったまま、明かりを付ける、落ち着いたように息を漏らすと、坂村を掘り炬燵に座らせる。
「いま、お風呂の用意をするよ。下着は使ってないのがあるからそれを使ってくれ。服は幸のちょっとゆったりしたのを選ぶよ。仕方ないことだけど、坂村さん、腰回りも筋肉付き過ぎだからな」
平気な顔をして、幸は言うと、てきぱきとお風呂に水を入れ沸かす。途中、お米を研ぎ土鍋に入れ、水を張った。手慣れたふうに家事を続けた。
「十五分くらいで炊けるからお父さん、帰ってきてから火にかけよう」
呟き、湯船を覗く。もう少しだ、タンスから、袋に入ったままの新しい下着と、これでいいかなと、ベトナムの民族衣装、あおざいとセットになったパンツを取り出した。
「坂村さん、これで我慢して」
「あ、ありがとうございます」
坂村は受け取ると、ほっと吐息を漏らした。シーツだけでは頼りなかったろう。
「とにかく、しっかり、体を洗ってくれ。体中の傷や打ち身を擦り落とすくらいにさ」
「はい・・・」
坂村が裸になった一瞬、幸はその体が傷だらけなどを認めていた。
「鞭でできたようなみみず腫れもあったな、辛い扱い受けていたのか」
「事務で就職したはずが、こんなことに」
「穴に落ちてしまったのは不運としかいいようがない。これからのことを考えな。これも縁だ、助けてやれる範囲で助けてやるよ」
ぶっきらぼうな言い方だが、少し寂しくも聞こえる、幸は自身の経験を少し坂村の現状に重ねていたのかもしれない。

男は途中、数人の男に列車から連れ出され、駅舎の奥の一室へと監禁されていた。
テーブルを挟んで、男の前には一人の美女がにこやかに笑みを浮かべ座っていた。二人の回りを屈強な男たちが十人、囲むようにして立ってさえいなければ、案外、快適な環境と言えるかもしれない。
男はゆっくりと背もたれに背中を預け、少し俯く。静かな表情だ。
「貴方の数値が解析不能と表示されたため、こちらにお連れ致しました」
女が丁寧な口調で男に言った。
「数値と申しますと」
男が尋ねる。
「人はそれぞれ多少なりとも霊的能力、また、超能力と呼べるものを持っています。私達は監視カメラにとらえた人達の数値を測定し、一定以上の方達をスカウトしているのです」
男はゆっくりと顔を上げると微かに笑みを浮かべた。
「なんだか、SFの映画やドラマのお話のようですね。ただ、どちらかと云えば、子供向けかな」
女は一瞬、睨んだがすぐに笑みを浮かべた。
「ぜひ、貴方をスカウトしたいのですがいかがでしょう。もし、少しでも関心をいただけるなら」
「関心ありません、全くありません。ですから、解放していただけませんか。早く帰らないと娘が心配するのですよ」
「これは国家的プロジェクトです、貴方が秀れた能力を持つ以上、国民としてプロジェクトに参加する義務と権利があるのです」
「話の前後、少し矛盾していらっしゃいますが、権利は放棄、義務は税金だけで勘弁していただけませんかね」
男は背を預けたまま、俯き目を瞑る。
「ここで、映画とかなら、秘密を知った以上、ただでは帰れなくなったりするわけですが」
男は目を瞑ったまま呟いたが、ゆっくりと顔を上げた。
「今の今、すぐに解放していただけませんか、恵さん」
女が目を見張った。
「心が読めるの」
「高村恵、ご住所と電話、携帯電話の番号も申しましょうか。それに、ご両親のお名前やご住所も。そして、ご両親の娘に対する悩み。娘は一人住まい、商社に就職したはずなのに、どうも最近、変だ、なにやら、怪しげな連中が出入りしているらしいと心配されていますよ。ついでに言うと、三日前が久しぶりの休日、洗濯物をまとめてコインランドリーに行ったのがお昼過ぎ、隣りで洗濯物をしている男に少女のような気持ちでひかれる、なんだか、恥ずかしくて声がかけられない、そのまま、何事もなく別れたけれど、また、会えるかなと思っている、今度は思い切ってお茶に誘おう、でもでもと逡巡中」
「や、やめろ」
女が叫んだ。
「彼の名前は吉村慶樹。二十六歳、半年前に彼女と別れフリーです。ただ、ちょっと気になる女性がいる。それは三日前のコインランドリーでのこと、山のように洗濯物を抱えた女性がやってきた。随分と疲れている様子だ、手伝いましょうかと声をかけようとしたが、ここで何をどう手伝うというんだと考え直す、彼もまた、声をかけたく思いながらも」
「た、頼むからやめてくれ」
男はくすぐったそうに笑った。
「ちょっと勇気を出せばいいんですよ」
女は唸るように言った。
「今すぐにでも帰ってもらいたいのが本心だ。でも、これだけの逸材を・・・」
「貴方の上司、中村にこう言いなさい、自らを無と名乗る男に遭遇したと」
男は立ち上がった。
「それでは」
端に立っていた屈強な男二人が立ち上がった男を羽交い締めにした。
「まだ、話は終わっていない」
「いいえ、話は終わりました」
一瞬、男が膝を曲げた、その瞬間、羽交い締めしていたはずの屈強な男が部屋の向こうへと弾け飛んだ。
男は何事もなかったようにドアを開け出て行った。

幸は坂村の下着と着替えを持ち、坂村を庭へと促す。風呂上がり、坂村の髪はまだ少し濡れていた。シーツを身に纏い、戸惑いながらも庭に出た。
「どうして」
虚空には満月、手前の畑の向こうには、限がないような梅林が続いていた。
「ここ町中ですよね、隣りの家もなにもない」
「そこに縁台があるだろう、シーツを敷いてうつ伏せに寝な」
「は、はい」
坂村が慌てて返事をすると、戸惑いながらも、シーツを縁台に敷き、そっと幸を振り返る。
「女同士、付いているものは同じだ、珍しくもないよ。さぁ、うつ伏せになりな」
言われるままに坂村は縁台の上、うつ伏せに寝転がった、不安に目を瞑る。
幸は縁台の前で、膝を地面につき、手のひらを月に向けた。幸の手のひらが白く輝いた。幸は手のひらを坂村に近づけ、頭から首筋、踵まで、月の光を当てて行く、たくさんの傷が消えて行き、柔らかな白い肌へと戻って行く。
「次は仰向けだ」
「は、はいっ」
坂村はぎゅっと目を瞑ったまま、仰向けに向き直る。
同じく、幸が月の光を照らしたところから、傷が消えて行った。
「目を開けな」
おそるおそる坂村が目を開ける。
幸は下着を坂村に渡した。坂村は起き上がると下着を、
「傷が無くなっている」
驚いて坂村が叫んだ。
「風邪ひくぞ、早く服を着なさい」
戸惑いながらも下着を着け、服を着た。
月光の下、二人、ベンチに座る。
「今晩は泊まってくれ、明日の朝、送って行く」
「ありがとうございます」
「ん、腹、減ったか」
「あ、いえ、あの・・・、ちょっと」
幸はくすぐったそうに声を出して笑った。
「お父さんは一仕事しなきゃだし、帰るのにまだかかりそうだ。なんか、軽いもの、おやつ代わりに作るよ」
幸はそう言うと立ち上がり家へと戻る、坂村はぼぉっと満月を眺める。
なんて、穏やかなんだ

男は坂村の家、その玄関口に立った。
母親と妹との三人暮らし。
窓からあかりが見える、二人は在宅中。男は空から、左手をやわらかく招くように動かす、その手には二つの、硝子の風鈴が現れた。男がふっと息を吹きかける、二つの風鈴は空中を滑るように流れて行き、ドアを擦り抜け消えてしまった。
「宣言しておくかな」
男は右手を出そうとしたが、その腕が無いことに気づく。
「気をつけないとな」
男は呟くと、左の人差し指で表札をなぞった。

関わるべからず 無

男は次に空中から硝子の球を取り出すと闇へと放り投げる。
屋根の上で硝子の球が音もなく弾けた、無数の硝子の粉がぶわっと広がり落ちて行く。
「間に合ったか」
男が小さく呟いた。
振り返る、七人の男たちが立っていた、軽い普段着だが、顔付きはプロの顔だった。
先頭の男が低く唸るように言った。
「誰だ、お前は」
彼がリーダーだろう、値踏みするように男を睨みつける。
「この家と住人を保護する者です。もしも、あなた方がなんらかの危害を加えることを目的でここにいらっしゃったのなら、排除します」
「排除してもらおうか、出来るなら」
先頭の男がにたりと笑う。
男は対して気にするふうもなく、気楽に言う。
「裏の世界を抜けようとすれば、どうなるか、その制裁ですね。ま、見せしめってやつですな。つまらん話だ」
男はゆっくりと極端な左半身をとる。
相手の男達がナイフを構えた。
「面倒臭いのでちゃっちゃっとかかってきてください」
何も言わず先頭の男が腰にナイフを構え、突っ込んできた。
男は寸前で、左に微かに避け、相手の首筋に手のひらを添える、瞬間、突っ込んだ男の脳天が地面に激突した。
「割れたかな、左は加減が難しい」
男が小さく呟く。
男は微かに笑みを浮かべたまま六人に向き直った。
「次は誰ですか、それとも全員でかかってきますか」
男達はお互いの顔を見合わせる、
「では、私から参りましょう」
男は微かに姿勢を落とす、そして歩きだす、全く左右にぶれる事なく、そして、微かに足裏が地面から浮かぶ。相手が満足に反応出来ないのは、男の動きに振れがなく、距離感が全くつかめなくなるからだ。
男は次々と打ち倒す。あっけないほど男たちが静かに倒れて行く。
「うわぁぁっ」
男の後ろで悲鳴が聞こえた。
振り返ると、男はにっと笑った。この笑い方は幸が時折、見せる笑いだ。
別動隊が家の反対側から侵入しようとしたのだ、硝子の無数の破片が渦巻き、侵入者達の体を引き裂いていた。

男は闇の中へ向かって声をかけた。
「出てきなさいな、今はまだ、君達に危害を加えるつもりはない」
男達が三人現れた。一人が術師、後の二人はボディガードだなと男は見抜く。
「この世界は早い者勝ち、それを引っ繰り返したいのなら力で返せ。それでよろしいですか」
男は愉快そうに言った。
「何者だ、お前は」
「縁あってこの家とその家族の保護者になりました」
「名はなんという」
「名前はありません、ただ、字は「無」」
術師が明らかに動揺した。
「あんたほどの者がどうしてここにいるんだ」
「私にとって、目に入れても痛くないほど可愛い娘の友人宅なのです、娘からどうして助けてくれなかったのなんて責められでもしたら家庭崩壊してしまう、父親は大変なのですよ」
男は引き込むように笑みを浮かべた。
そして呟く。
「どうします、やりますか・・・」
相手の術師は大袈裟なほど首を横に振る。
「帰るよ。あんたとやるなんて、命がいくつあっても足りない、依頼者もこの世界の人間だ、類が自分自身まで及ぶことくらいすぐにわかるさ」
術師はあっさりと背を向けると、姿を消した。
「賢明です」
しかし、術師を守っていたはずの男二人が残る。
「どうぞ、お帰りください」
男が軽く声をかける。
二人の男がゆっくりと近づいてきた。
「俺は、「無」という字を持ち、忌み嫌われるその男がどれほどの者か試してみたい」
「しょうがないガキだな、間違った選択をしてくれるとは」
男はくすぐったそうに笑う。
「しかし、せっかくだ、武術だけで相手させていただきましょう」
二人の男が変身した。狼男、まさしく、体が二倍は膨れ上がったろう、剛毛に身を覆われた狼の顔を持つ男が二人。
「なるほど、どこにそんな自信があるのかと思いましたが、とうに人間をやめていたということか、それは楽しいね」
いつの間にか男の左手には抜き身の小刀があった。
一気に間合いを詰める、つかみ掛かってきた狼男の腕を一瞬に斬り上げる。
間合いを開け、男が振り返ると、腕の切り口から肉が盛り上がり、見る間に腕が再生してしまった。
「狼男の特性は備えているようだ。早めに済ますかな」
男は普通に歩くように狼男へと歩いて行く。牽制するように二頭の狼男が唸りを上げた。
「発声器官が人のものとは随分変ってしまっているようだけど、君達は元の姿に戻ることが出来るのかな、いや、今から、息をしなくなるんだから、関係ないか。変身のためのエネルギーの核、それを潰してみよう」
一頭が背を落とし、四本足で飛んでくる、もう一頭は少し軌跡をそらし男に向かった。背を落とした方が両腕で男の膝をすくい上げ、男の脇を咬み千切ろうとした、一瞬、男の動きが加速する。狼男の後頭部に拳を落とす、首の後ろが閃光を発し、その首が吹き飛ぶ。もう一頭が男の顔面へ右の回し蹴りを放った。
男はそれを左手の甲でなでるように流す、狼男が蹴り足を軸に一転し、地面に頭が激突した。
首が完全に九十度を超える。男が素早く、狼男の胸を差すように爪先で蹴る。閃光が走り、狼男が崩れた。
「雑な作りだな」
男は呟くと、もといた門柱に戻る。
・・・まだ、お客さんがあるかもしれない。もうしばらく、こうしているか・・・


「うまいか」
「は、はい。美味しいです、体も暖まります」
「そっか」
幸がにっと笑った。二人、炬燵に入り、坂村は幸が有り合わせで作ったじゃがいものお味噌汁を飲んでいた。
「なんか、なんだか・・・」
坂村が不意に泣きだした。
「良かった、生きてて良かったです」
幸は仕方なさそうに笑みを浮かべた。
「別に後に出てきたやつらも殺すまではしてないからな」
「あ、いえ、そういう意味では」
幸がくすぐったそうに笑った。
「これからは真っ当に生きて行けばいい、しなくてもいい経験をして、少し、時間を無駄にしたけどな。坂村さんはこれからどうするつもりだ」
「怖いです、人が怖い。出来るなら自分の部屋にずっと閉じこもっていたい」
お味噌汁を見つめながら、坂村が答えた。
幸は吐息を漏らすと、小さく呟いた。
「まっ、人のこと言えないけどな・・・」

「坂村さん、あんたにはかなりの退職金が、口止め料込みで入ってくる、ばあさんになるまで閉じこもっていられるよ。ただ、そういう生活はあまりお勧めじゃないし、かといって、また、変な会社に紛れ込んでしまったら大変だ」
幸は坂村の目をじっと見つめた。
「給料でないけど、週に一度、ここに来て働く気はないか」
「え・・・」
「庭でね、畑をつくっているんだ。いずれ、たんぼも作って、お米も作りたいなと思っている。坂村さんが次にしたいことを見つけるまでの間、手伝ってくれると嬉しい、給料は出せないけど、現物支給ならできるかなと思う」
坂村が目を輝かせた。炬燵から出ると、幸に向かって正座をする。
「やります、お願いします」
「そこまで反応されるとは思わなかったよ」
幸は少し当惑気に笑うと、ほんの少し小首をかしげる。
「ありがと、こちらこそ、よろしく」
ふと、幸は玄関口を見つめた。
「あ、お父さん、帰って来た。出迎えに行ってくる、これから鍋するからさ、思いっきり食ってくれ」

男は玄関の手前、門の前で考え込んでいた。幸が狂暴になったのは俺の血のせいだ、狼男を二人殺した、最初の奴らは殺すまではしていない、いや、硝子球の結界で一人殺した。殺すことになんの戸惑いもない。こんな俺は幸の父親失格ではないのか。
ばんと扉が開き、幸がとびだして来た。
「お父さん、お帰りなさい」
「あ、あぁ。ただいま」
「どうしたの、暗い表情だよ」
幸がそっと男の顔をのぞき込んだ。
「いや、大丈夫だよ」
男はそっと笑った。幸はいきなり、男に抱き着くと、ぎゅっと男を抱き締め、顔を上げる、じっと男の顔を見つめた。
「幸はなんでも出来るお父さんが好き。でも、どうしようって悩んでいるお父さんの方がもっと好き、だって、幸が助けてあげられるかもしれないもの」
「幸・・・」
幸がにっと笑う。
「だから今のお父さんはとっても好き」
幸は引き込むように笑みを浮かべると、囁いた。
「狼男は強かったですか」
男は仕方なく笑みを浮かべる。
「随分と弱かった、びっくりした」
ふふっ、と幸が小さく声を出して笑う。
「幸はお父さんの味方です。いついかなる時も、味方し、お父さんを肯定します。だから、力強く生きなさい」
「なんだか、結婚式の言葉みたいだ」
男が少し笑った。
「お父さん」
「ん・・・」
「とっても濃いキスしようか」
「父娘だからだめ」
男が久しぶりに少し声にして笑った。

坂村は緊張していた。幸に対しては、少し気持ちも柔らかくなったが、男にはいくばくかの恐怖を感じていた。炬燵から出て、正座して待つ。
幸が男の上着の裾、引っ張るようにして戻って来た。
「あれ、どうしたの。恵子さん、正座して」
先程と、話し方も声の高さも変っている幸に少し驚きながらも、
「改めてお礼とご挨拶を」
「いえ、そういうのは無しで」
男が笑顔で答えた。
「それは、あおざいですね、綺麗です、似合っていますよ。うっ・・・」
いきなり、幸が男の頬をつねった。
「お父さん、あかねちゃんは可愛いねと言っても許します、子供だから。でも、恵子さんはだめ、だって、幸、嫉妬してしまうもの」
男は頬さすりながら笑った。
「こんな、おっさんを好きだと思ってくれる変わり者は幸くらいだよ。さぁ、ご飯の用意をしよう、父さん、手を洗ってくるよ」
「私もお手伝いします」
慌てて、坂村が立ち上がった。
「恵子さん。それじゃ、冷蔵庫の中にお豆腐とか鍋の具が入っているから、切っておいてください。幸はお父さんと一緒に手を洗ってきますから」
「え、手くらい一人で洗えるよ」
「だめだよ、幸はお父さんの右手代わりなんだから」
男は幸に急き立たされ、洗面所に行く。
ふと、坂村は、十年になるだろうか、離婚した父親の顔を思い浮かべた。再婚したらしいけれど、元気にしているだろうか。

「ほら、お父さんの左手と幸の右手で、ちょうど一人分だよ」
幸は男の背中に左手を回し、右手で石鹸を擦る。そして、男の指を右手で洗って行く。
「や、やっぱり、父さん、自分で洗うよ」
「どうして」
「なんだかあれだ、恥ずかしいっていうか、なんか、とってもえっちだ、これは・・・」
幸はそっと男の頬に顔を寄せる、そして囁いた。
「幸はお父さんがとても大切です、愛しています。お父さんにはたくさん迷惑をかけたし、これからも、ごめんなさい、迷惑をかけてしまうと思います、でも、お願いです。どうか、幸を隣りにいさせてください」
「同じ言葉を返していいかな」
「え・・・」
「父さんは幸がとても大切で、愛しています。ただ、自分に自信がないから戸惑ったり、右往左往してしまう。でも、父さんを幸の隣りにいさせてください」
くすぐったそうに二人が笑った。
そして、二人、一緒に囁く。
「隣りにいること、許して上げます」