遥の花 流堰迷子は天へと落ちていく 二話

「母さんにも困ったもんだなぁ」
幸は笑うと、洋品店の女主人を布団から助け起こした。
旅から帰ったことを佳奈に報告した、その時、幸は佳奈から洋品店の女主人が寝込んでいると聞き、シャッターの裏側、店の奥の寝室へ女主人を見舞いに来たのだった。
幸は女主人を布団に座らせると、頭からゆっくりとマッサージを始めた。
「母さん、ちょっと痩せたね。礼子さんに心配させちゃだめだよ」
「あの子も学校が忙しいからね、あたしのことなんざ、気にもかけちゃいないよ」
娘が二人、次女は結婚して家を出たが、長女の礼子は、未婚で、女主人と一緒に暮らしているのだった、しかし、勤めている高校が忙しく、ほとんど、家にいることができずにいた。
「なるほど、子の心、親知らずってやつだ」
幸が、肩から背中へと摩っていく。
「どう、母さん」
「不思議だねぇ、幸ちゃんの触ってくれるところから、なんだか、元気になっていくようだよ」
「母さんはとくに病気でもなんでもない、まっ、流行りの鬱から体を動かさなくなって、筋肉が衰えて、って悪循環を起こしている。幸がいなくなって寂しかったの」
「幸ちゃんの憎まれ口聞けないのは確かに寂しかったね」
女主人がやっと笑った。
「笑ったね」
「あぁ、笑った」
「笑うのが一番だよ」
幸はほっと笑みを浮かべると、女主人をうつ伏せに寝かせ腰に触れる。
「母さん」
「なんだい」
「明日から一時間、母さんの時間をちょうだい」
「え・・・」
「散歩をしよう、一週間も歩けば、一年前のようになる。商売もできるようになるよ。自営業者は死ぬまでずっと働くのさ。ふふっ」
「難儀だねぇ。奴隷みたいなもんだ」
「人間、働いてなんぼ、これ、母さんが幸に教えてくれたんだよ。幸、珈琲をいれてくるよ」
幸は女主人を座椅子に座らせ、勝手知ったる台所へと向かった。


男は佳奈からの電話を受けていた。
「そうですね。私自身は関わることはできないけれど、幸の意志は一番に尊重する、いま、私に言えるのはそこまでかな。ええ、それでは」
男は電話を切ると溜息一つをつく。
そして呟く。あまり、お勧めではないな、と。

幸は裏口から商店街を抜け出すと、ほっと吐息を漏らした。幸は佳奈と女主人以外にはできるだけ会いたくなかったのだ。
一年前の事件の責、これの一因に自身の存在があったことを幸は認識していた。

幸は下水の上に並べられたセメントの蓋の上をとんとんと小走りに進む。
・・・お姉ちゃん・・・
ふと、幸は誰かに呼ばれた気がして振り返った。
「え、あかねちゃん」
振り返ると、あかねが笑顔で幸の後ろに立っていた。
「お姉ちゃん、さよなら」
「えっ」
幸があかねに手を伸ばしかけた瞬間、その姿がかき消すように消えてしまった。
「なに、これって・・・。ま、まさか・・・。うわぁぁぁっ」
幸は叫び声を上げた、そして、空を睨みつけると、その姿を消した。
マンションの一室、あかねは血を流し倒れていた、そして、その前には、血まみれの、大きな硝子の灰皿を掴んだあかねの父親が息荒く立っていた。
「悪魔め」
そう呟くと硝子の灰皿を両手で掴み直し、振り上げた。
「滅びろ」
マンションのドアが轟音と共に破裂した、
「であぁぁぁっ」
幸が灰皿を蹴り上げる、空中でガラスが弾け粉微塵になった、一転し、あかねの元に駆け寄っる。
「なんてことを」
幸はひざまずくと、両手であかねの頭を抱えた。
「お姉ちゃんが助けてあげるよ」
幸の両手があかねの頭に溶け込んで行く。
「お前も悪魔だな、ここから出て行け」
あかねの父親が転がっていた金属バッドを拾い、振り上げた。
幸が叫んだ。
「お父さんっ」
「ん、ここにいるよ」
男はあかねの父親を床にうつ伏せに押し倒していた。
「目に見える距離の瞬間移動は何度かやったこともあるけど、電車で一時間の距離を一瞬で跳ぶのは初めてだ、結構、きついな」
「ごめんなさい、お父さん」
「それよりあかねちゃんは」
「なんとかする、死なせない」
男は頷くと、改めて部屋を見渡した。
壁も床も血で赤く染まっている、そして、ごみ箱、押し潰したカップラーメンが山になっている。洗濯物も散らかっている、女物は見あたない。
「お父さん、大丈夫、修復出来た」
「意識はありますか」

「あかねちゃん」
幸があかねに語りかける。
あかねは微かに笑みを浮かべると小さく呟いた。
「お姉ちゃん」
大切な宝物のように、幸があかねを抱き締めた。
男はその様子を確認すると、幸に声をかけた。
「あかねちゃんを連れて帰りなさい」
「お父さんは」
「ちょっとね、お喋りしてから帰るよ。あとは任せなさい」
幸は頷くと、あかねを抱きかかえ立ち上がった。
「お父さん、お願いします」
男は笑みを浮かべ、頷いた。幸とあかねの姿がふっと消えた。
男は手を離し、テーブルの椅子に腰掛ける。
「さて、君の言い分をお聞きしましょうか、ゆっくり聴いてやるよ」


「服を脱がせるよ」
幸はそっと笑みを浮かべると、あかねの服を脱がせ、布団に寝かせつけた。あかねの体は至る所で赤黒く内出血をしていた、足の骨も折れている。どんなに痛かっただろう、辛かっただろうと思うと、大声で叫びたくなる、しかし、幸は笑みを浮かべたまま、両手をあかねの体の中へと踊らせて行く、骨を繋ぎ、切れた筋肉や血管も繋いで行く。
しばらくして、幸は両手を戻すと、額の汗を拭い、ほっと溜息をついた。
「あかねちゃん、痛いところ、あるかな」
「ううん、お姉ちゃん、ありがとう」
幸は笑みを浮かべ、あかねの頬をそっと触れる、そして、幸はあかねの手首を両手でそっと掴んだ。手首には幸が紡いだ守り髪が間違いなくある、あかねが幸に助けを呼べば、どんなに離れていても、幸に声が届くはずだった。あかねちゃんは助けを呼ばなかったのか、と幸はいぶかしる。
「だって、あかねは悪魔だから滅びた方がいいんだもの」
「え・・・。あかねちゃん、お姉ちゃんの考えたことが分かるの」
「うん。お父さんは私は悪魔になったから滅ばなければならないって言うから」
「何言ってるの、あかねちゃんは人間だよ、心を読むくらい、ちょっと特技がある、それだけのことなんだよ、他の友達より、勉強が出来たり、走るのが速かったり、そんなのと同じことなんだよ」
幸はあかねの手を両手でしっかりと握った。


「君の言い分を一通り聴かせていただいた上で言うなら、君はどんなことがあっても娘の側に立つべきだったということかな」
「あんたら、いったい、何者なんだよ」
「うーん、君には言いたくないな。それよりね、そこの流しにタオルがあったろう、それ水で洗ってさ、堅く絞って、今から拭き掃除だ。俺がしっかり見守っててやるよ。君がその手で傷つけた君の娘の血を、同じその手で拭き取れ。でなきゃ、俺は君を殺すぜ」
笑みを浮かべたままの男の言葉は、その表情とは裏腹に、怒りがはちきれそうになっていた。

辺りが薄暗くなったころ、男は改札を出、家路へとついた。ふと、商店街入り口のタコ焼き屋に目が向く。
買って帰れば喜ぶかなとのぞき込んだ。
「いらっしゃい、いくつにします」
「そうだ、タコ焼きより、回転焼きの方がいいかな、回転焼きを6個で」
「へい、お待ちを。あれ、お客さん、あんた・・・」
「なんです」
「いや・・・、よく知っている人のように思えたんだけどなぁ」
「なかなか、商売上手ですね、昨日、越して来たばかりですよ、楽しいおやじさんだ、また、買いに来ますよ」
店のおやじは照れ笑いをし、そそくさと回転焼きを箱に積めた。男はお金を支払い、回転焼きを受け取ると、歩きだす。
そして呟いた。
俺も随分丸くなってしまったな、と。

「お父さん、お帰り」
「ただいま」
玄関口で幸がにっと笑った。男は玄関口に腰をかけると、紙袋を置く。
「あかねちゃんの着替え」
「あかねちゃんのお父さん、出してくれたの」
「当分、お嬢さんは私が預かりますってね、出してくれたっていうより、出させたって感じかな」
「詳しいことは後で話すよ、とにかく、当分の間、あかねちゃんはここで暮らします、幸、あんまり、いじめないようにね」
「ん・・・、多分、大丈夫だよ。基本は幸、優しい女の子だからさ、ん、お父さん、これ何」
「回転焼き、商店街の入り口で買った」
男は幸に回転焼きの包みを渡した。
「六個入ってる、ということは、あかねちゃんは小さいから二つ、幸は四つだな」
「え、父さんの分は」
「しょうがないなぁ、それじゃ幸の、半分、お父さんにあげるよぉ。ちゃんちゃん」
男はくすぐったそうに笑みを浮かべると、幸の頭をなでる。
「ありがと」
男が居間に入ると、布団にあかねが横になって寝ていた。男は枕元に座ると、あかねの顔をじっと見つめた。
「体の傷は直したよ」
「そうか・・・。ぐっすり眠っている」
「安心したみたい」
「晩ご飯まで寝かせてあげよう」
男は立ち上がると、硝子戸を開け、庭を見る。少し薄暗い。
「お父さん、なんだか、一日があっという間だった。昨日まで旅を続けていたのが夢のようだよ」
男が振り返る。
「本当にそうだな。佳奈さんやおばさんは元気にしてたかな」
「佳奈姉さんは元気、でも、母さんが寝込んでた。ちょっと鬱になって、体動かさなかったみたい。それでね」
「ん」
「幸、一週間、毎日一時間ね、母さんと散歩しようと思う、そう約束したんだ」
「そうだね、それが良いと、父さんも思うよ、ただ、気をつけなさい。佳奈さんとおばさん以外には姿を見せないようにね」
幸が寂しそうに笑みを浮かべると、小さく吐息を漏らした。
「男はどうして侵略しようってするんだろう。少しでも多くを得ようと企むんだろう、これくらいで良いかなって謙虚さがないんだろう」
「さあね、ただ、男は行き着くところまで突き進んで、壁にぶつかるまで、考えたり、我が身を振り返ったりできないようにできあがってしまっているんだろうね」
「お父さんもそうだった」
「父さんは・・・」
男は少し考える。
「簡単に人を殺せる力を身につけた、それからは謙虚っていうかな、意識して強く自制するようになったかな。それまでは・・・、秘密」
「ん・・・、男がお父さんみたいに優しい人ばかりになれば、世界は平和になるのかな」
男はくすぐったそうに笑った。
「父さん、幸には優しいかもしれないけど、他の人にはかなり冷酷かも」
「幸は特別ってこと」
「愛している人にはただただ優しくなってしまう、それだけの単純なこと。さて、晩ご飯の用意をするかな」
「お父さん、お願い、もう一度言って」
「晩ご飯の用意を」
「その前だよ、もぉ」
「冷酷かも、だったかな」
「ううっ、お父さんってば」
「大声出すと、あかねちゃん、起こしてしまうぞ」
男は笑うと、台所へと向かった。

炬燵布団を外した掘り炬燵にオムライスを並べた。幸はそっとあかねを起こすと、掘り炬燵に座らせる。
そして、にっと笑みを浮かべると、あかねの横に座った。
「一緒に食べよう」
あかねはそっと笑みを浮かべると、小さく、うんと呟いて頷いた。

夕食を終え、男の先にお風呂に入りなさいという言葉に、幸はあかねと風呂へ入る。男は後片付けをしながら、結局、あかねちゃんは、ほとんど喋らなかったなと思いかえした。今も彼女自身、自身のことに対して随分戸惑っているのだろう。
また、明日、考えよう。


朝、久しぶりに男は一人の部屋で起き、着替えていた。幸は、目立たないよう朝の早いうちに女主人のところへ出掛けたのだが、あかねはここに居たいと留守番になったのだった。
男が着替えて、居間に入ると、あかねは掘り炬燵に座り、開け放った硝子戸から外の風景を眺めていた。
「あかねちゃん、朝ごはんは食べましたか」
あかねは振り返ると、笑顔で頷いた。
「そっか、おじさんはだめでね、朝は珈琲しか飲まない、幸には体に悪いと叱られているんだけどね。横、いいかな」
あかねが頷くのを見て、男はあかねの斜め向かいに座った。
「お喋りしていいかな。昨日のことやこれからのこと」
あかねが少し表情を引き締め頷いた。
「まず、あかねちゃんのお父さんとあれからお話した。そしてね、当分、お嬢さんは私が預かりますっておじさん言ったんだ。お父さんは随分落ち着いていた、そして、後悔していたけど、自分自身がまた同じようなことしてしまうかも知れないと言ってた。自分を抑え切れないらしいね」
「お父さんは心の病気だと思う。おじさんの友達には、こういう病気のね、専門のお医者さんがいるから、頼んでおいたよ」
あかねが瞬きもせず、じっと男の目を見つめる。
「お母さんの連絡先はおじさん、今日、調べて連絡するよ」
男は父親の話で、あかねの母親が疾走したのを知った、半年前のことだったらしい、あかねがおかしく思えるようになったのはそれからすぐだったということらしい。

「そして、あかねちゃんのこと。あかねちゃん、ここで生活をしてください、幸にね、人との接し方を教わりなさい。そうすれば、戸惑うことなく生きていけるようになるよ」
「ありがとう」
初めて、あかねは小さく囁いた。そして、俯く。
男が言った。
「あかねちゃん、それとも、あかねさんって言った方が良いかな」
あかねが驚いて男を見つめた。
「精神年齢が急に上がって、戸惑っているんだろう、いつからかな」
あかねはぎゅっと俯いたが、やがて決心をし、男をしっかり見つめた。
「半年前です。いつも見ていたテレビアニメが急に子供っぽく思えて飽きてしまったのが最初でした」
まるで、十代後半、いや、二十代のしっかりとした物言いであかねが話始めた。
「小学校でも、どうして、私はこんな子供たちと生活をしているのだと疑問に思えて仕方がなかったのです、そのうち、ひきこもりと称して部屋から出るのをやめてしまいました」
男はなだめるようにそっと笑顔を浮かべる。
「他人の心が見えてきたのもその頃からですか」
「最初は母でした。母の前に立った時、母は何を独り言を喋っているんだろう、そう思ったのですが、母の口は動いていませんでした」
男はしばらく俯いて目をつぶる、そして、顔を上げるとあかねに言った。
「あかねさんのね、病気や怪我ならいくらでも直すことができる、でもこれは病気でも怪我でもない、君の変化なんだ。だから、元に戻すこともできないんだよ」
「はい・・・」
「あのときの外神との接触で、少しずつ、君の潜在能力が顕在化したのだろう」
男は一つ吐息を漏らしたが、励ますように笑顔を浮かべた。
「幸は、ある意味、君の大先輩だ、心を二つ持って気持ちのやり繰りをしている、あかねさん、幸と一緒に暮らしなさい、そして、幸を参考にゆっくりと落ち着き方を探して行きなさいな」
あかねがほっとしたように笑みを浮かべた。
「おじさん、優しい人ですね、幸さんが夢中になるの、わかります」
「面と向かって言われてしまうと、なんだか照れるな。ただ、あの子の笑顔を見るのが好きだからね。それは、ん、本当はあかねさんのお父さんも同じなんだよ、それだけは心のどこかに置いて、忘れないようにね」
「はい」
「いい返事です、そうだ、そろそろ、幸、帰って来るかな」

「ただいま」
玄関口で幸の声が聞こえた。
とたとたと幸は居間に入ると、男の向かいに座った。
「お帰り」
「幸お姉ちゃん、お帰りなさい」
「あかねちゃん、ただいま」

「なんだか、二回、ただいまって言うの新鮮だなぁ」
幸は笑うと、袋を男に見せた。
「鯵、かあさんが買ってくれた。あ、幸、一度は遠慮したよ」
男は笑うと袋を覗き込んだ。三匹の鯵が袋に入っていた。
「美味しそうだね」
「お父さん、鯵を二枚に開いて」
「ん、どうするの」
「天日干しにします。塩を振って干すのです、とっても美味しいと思う」
「なんだが、幸はどんどん自給自足へと向かって行くなぁ」
「いまはね、お父さんとあかねちゃんと佳奈姉さんと母さん。四人とだけ喋ることができれば良いんだ、幸はぷち引きこもりなのです」
「瞳さん、忘れてるよ」
「瞳さんか・・・。本当に普通の主婦になっているからさ、あまり、ちょっかいかけない方がいいと思うんだ」
「そういう生活が一番だろうね」
男は少し寂しそうに笑った。
「お父さん、昼からどうする」
「父さん、さ。会計事務所の友人のところと、それから、あかねちゃんのお母さんに会いに行ってみようと思うよ」
「居場所わかるの」
「実家の住所は確認した、まずはそこから当たってみるかな。幸はあかねちゃんと留守番、いいかな」
「ん・・・、それじゃ、留守番しているよ。あ、お父さん、庭に川は流れていないのかな」
「今度は釣りをする気ですか」
「これからは動物蛋白質も必要だ」
男は笑うと、立ち上がって袋を持ち上げた。
「練習場所と反対方向に行けば、川があるよ。昔、親父が魚を放流していた。どうなったかは知らないけれどね」
「それじゃ、あかねちゃんと冒険しているよ」
幸はにっといたずらっぽく笑った。
「ほどほどにね」
男は呟くと、背広に着替えるために部屋を出た。

男が出掛けた後、幸はあかねを連れて庭に出た。
「畑の隣りに鶏小屋を作ります。材料揃えなきゃな。でも、まずは設計図をつくらなきゃね」
あかねは俯き、じっと足元を見つめていた。
「どうしたの、あかねちゃん」
「なんでもない・・・」
「変だよ、あかねちゃん。そうか、お母さんが恋しいのかな。きっと見つかるよ。大丈夫だよ」
「幸お姉ちゃん」
あかねが泣き出しそうになりながら、幸を見上げた。
「怖い・・・」
「怖いって、大丈夫さ。お姉ちゃん、とっても強いぞ、あかねちゃん、どんな奴からでも護ってあげるさ」
「おじさんが、おじさんがとっても怖い」
「おじさんって、幸のお父さんのこと」
あかねが小さく頷いた。
「うーん、本当は、お父さん。とっても冷酷で鋭い人だったと思う、でも、今は優しいし、幸を大切に思ってくれる、あかねちゃんのことも、とっても心配しているよ」
あかねがじっと幸の目を見つめた。
「幸には絶対に言うな、裸になれって・・・。裸になったあたしの両足を掴んで、おじさんが・・・」
「そ、そんなこと、そんなことないよ。お父さんがそんなこと・・・」
幸は驚きのあまり、力が抜けたように座り込んでしまった。
肩を落とし、俯いたまま、幸が呟く。
「お父さんは、お父さんは・・・」
あかねがにぃっと笑みを浮かべた。
「幸お姉ちゃん、ごめんなさい。でも、もう、怖くて」
俯いたまま幸が、囁くようにあかねに話しかけた。
「あかねちゃん。それが本当なら」
「幸お姉ちゃん、ここから逃がして」

「あはは、あのね、あかねちゃん、幸はさ、あかねちゃんの大先輩なんだ、その意味、わかるかなぁ」
「えっ・・・」
幸がゆっくりと顔をあげる。
幸は愉快そうに笑みを浮かべていた。
「甘いなぁ、あかねちゃん、嘘はもっと巧くついてくれないと面白くないよ」
「幸お姉ちゃん」
「あかねちゃん、潰すのが楽しいんだろう、破壊することが、もう、ぞくぞくするくらい快感なんだろう」
不意にあかねは背後に気配を感じた。
幸が笑っていた。
「いいよね、楽しいよね。人が泣いたり苦しんだりしたら、もう、最高だよね」
「お姉ちゃんが二人」
「違うよ」
あかねの耳元で幸が囁いた。
三人目の幸があかねの耳をそっと噛む。
あかねが悲鳴をあげて飛びのいた。
4人、5人と次々と幸の数が増えて行く。
「楽しいね、あかねちゃん。わくわくするよね」
10人、11人、笑う幸が次々とあかねを取り囲んで行く。
あかねが尻餅をついたまま後ずさる。
「うふふ、あかねちゃん」
「うわぁぁっ」
あかねの腕に、幸の顔が浮かんでいた。
「ごめんなさい、幸お姉ちゃんごめんなさい」
「謝る必要なんてないんだよ」
あかねの頬に小さな幸の顔が浮かび上がる。
「そうだ、あかねちゃんに、ほんのちょっとだけお姉ちゃんの闇を見せてあげるよ」
目の前にいた幸がじわっとあかねの腕を掴む。
「楽しいぜ、でも、あんまり見ると、あかねちゃんが発狂してしまうから、ほんのちょっとだけにしておくよ」
「あ、ああっ、ご、ごめんなさい」
手を掴んだまま、幸の頭がぽろんと落ち、転がると、あかねの足元でにたっと笑った。
「楽しんでもらえると嬉しいなぁ」
無数の幸があかねを幾層にも覆い囲んで行く。
「あかねちゃん、特別だよ」
にたっと笑う幸の頭が、ぼとぼとと落ちて行く。幾つも幾つも、幸の頭が転げ落ち、あかねの足元に転がって行く。
「ごめんなさい。おじさんのこと、嘘です、ごめんなさい」
「怒ってないよ、全然、怒ってないよ」
ぼろぼろと幾つもの幸の頭が落ちてくる、あかねは茫然と目を見開き、喘いでいる。あかねが、幸の転がる頭に押し潰されていく。
「楽しいな、見せてあげるよ」
「みせてあげる、特別だよ」
「あはは、楽しいな、あかねちゃん、大好き」
ふっとあかねの力が抜け、そのまま、気絶し仰向けに倒れ込んでしまった。
すべての幸の姿が消えた。
そして、一人になった幸があかねの隣りに現れ、その顔を覗き込んだ。
「案外、もろいな」
幸は鋭い表情であかねを見つめると、そっと指先をあかねの額に沿えた。かすかに、指先があかねの額に潜り込む。
「戻ったな。親が最後まで愛していれば、こんなふうにはならなかったのに」
幸は笑顔を作ると、あかねの枕元に座り、声をかける。
「おおい、あかねちゃん。起きて、起きて」
幸の声にあかねは意識を取り戻し、ゆっくりと目を開けた。
「あかねちゃん、1年ぶり、大変だったね」
「ごめんなさい、お姉ちゃん、ごめんなさい」
幸がぎゅっとあかねを抱き締める。
「あかねちゃんの心の中には邪悪がある、でも、それもあかねちゃんなんだ。だから、消してしまうことはできない、押さえ込んだだけ。幸姉ちゃんは、ずっとあかねちゃんの味方だ、これからもずっと。だから、もう一人の自分の操り方、教えてあげるよ。もう、怖くないよ」
あかねは幸の腕の中で静かにすすり泣く。

男はとある田舎の築二百年以上は経つだろう、大きな屋敷にいた。座敷に案内され、向かいに座る老人を微かな笑顔を浮かべ見つめた。
この屋の主であり、あかねの母方の祖父にあたるこの老人はぐっと男を睨みつけていた。
「君が孫のあかねを預かっているというのは本当か」
「はい、ただ、勘違いしないでいただきたいのは、拉致だとか誘拐だとかそんな物騒なものではなく、単にあかねちゃんが私の娘の友達であること、そして、こちらのお嬢さんがあかねちゃんを残したまま放逐し、また、御亭主も精神科の医師にかからなければならない状況になりまして、結果、お預かりした次第。それを、こちらのお嬢さん、つまり、あかねちゃんのお母さんにご連絡したく伺った次第です。お嬢さんはご在宅でしょうか。例えば私の後ろ、襖の向こうですとか」
「君は何者だ」
「と、申しますと」
「女がまるで君を何十年もの知古のように、座敷に招いた。本来ならば」
「名前も知らぬような男は玄関先で話を聴くものだとおっしゃりたい」
男は笑顔を浮かべたまま、主の言葉を継いだ。
主が目を逸らさずに頷く。
「私も名乗る前のちょっとした雑談だけで、ここに座らせていただき、自己紹介をする機会を逸しまして、少々戸惑っています」
男は笑顔を浮かべたまま答えた。
「ただ、思い出しました。随分、昔、依頼を受けた父親とこちらへ伺ったことがあります」
「なんだと」
「代変わりしました、名無し、無です」
主の顔が一瞬青ざめた。
「儂を殺しに来たのか」
「いいえ、そういう仕事からはすっかり足を洗っております。娘が出来たのを機にやめました。不思議な縁とでも申しましょうか、本当に先程申しました通り、あかねちゃんの件で伺ったのです」
主は男を値踏みするようにねめつけた。
「君のこの屋へ来た目的を説明してもらおう」
「貴方のお孫さん、あかねちゃんを元の普通の女の子に戻し、両親と暮らせるようにすること。私の娘がそれを強く望んでおりまして、娘の希望を叶えてやりたいと、こちらまで伺った次第、それのみです」
「それを信じろというわけだな」
「もちろん」
男は笑顔で答えた。
「なるほど、女共が君をすぐに屋敷に上げた理由が分かる。わかった、君を信じよう」
「ありがとうございます」
男は会釈をすると、出されていたお茶を飲む。
「薬物には耐性があります」
男は小さく呟いた。

「さて、貴方はこの国の、裏の大立者です。支配者階級と言ってもいい」
「昔の話だ。既に息子に跡目を譲り、儂は引退しておる」
主は表情も変えず答えた。
「その孫が外神に魅入られてしまったというのも、何かしらの因縁があるのやもしれませんね」
「外神だと・・・。あかねが外神に」
「外神のことはご存じのようですね」
「あぁ、知っている。見たことはないがな。邪悪の根源であり、無限の力を持つと聞いている」
「外神がこの世界に存在し続けるには依り代となる人間が必要です。あかねちゃんは素質があったのか、呼び出した組織に外神の依り代とされかかったのです。幸い、それは寸前に防がれたのですが、あかねちゃんは外神の影響を受けてしまい、人の心を読む力と邪悪な心を内に増大させてしまった。それからは、貴方のお嬢さんにお聴きになる方が良いでしょう」
主は目を伏せ、急に意気地を無くしてしまったように肩を落とした。
「君はあかねを元の素直な子供に戻すことができるというのかね」
「先程、娘が元に戻したようです。ただ、邪悪な心を持つあかねちゃんも、また、あかねちゃんであり、完全に消し去ることはできません。ですから、あかねちゃんが自分の心を抑制できるように教育しなければならない。一週間、いただいたらこちらに連れて来ましょう」
「すまない」
「余程、あかねちゃんが可愛いようですね」
「跡を取った息子にも子供がいるが、娘の子、駆け落ちするような出来の悪い娘だが、その子供は利発で可愛いのだ」
男は、そういうことかと呟いた。
「それでは、用件も済みましたので帰ります、一週間後に、また、お邪魔致します」
「よろしく頼む」
男はうなずくと立ち上がり部屋を出る。何事も無く、玄関口で靴を履いた時、女が近寄り、男の声をかけた。
「あ、あの」
「あぁ、あかねちゃんのお母さんですね」
「は、はい。あかねは元に戻るのでしょうか。また、三人で暮らせるのでしょうか」
「あかねちゃんは大丈夫です。ご主人も私の友人の精神科医に診てもらっているのですが、大丈夫だと思いますよ」
男は笑みを浮かべ会釈をすると屋敷を辞した。

男は駅のプラットホームに居た。屋敷を辞し、半時間ほど歩いたところにある小さな駅だ。夕暮れ時、まだ、さほどは暗くない。
ベンチに座る、あと、30分は列車は来ない。ちょっとした時間つぶしくらいにはなるだろう。
男を取り囲むように黒い影が五体、影はゆっくりと黒服を着た男達の姿に変わる。
「乱破、時代劇でいう忍者の方々のようですね。私に何か御用ですか」
この時代になっても、セキュリティ要員として、昔のいう、忍者が、新たに組織化され重要人物の身辺擁護にあたっていた。
「貴様には死んで頂く」
「もう少し待っていただけませんか、少しばかり数十年程。例えば、私が百歳になる頃まで」
「笑止。貴様は己を無と名乗ったが、俺が噂に聴いた無とは随分違うな」
「噂は一人歩きをするものですし、私自身、娘が出来てから随分変わったなぁと思いますよ。ところで、貴方方を雇っているのは、あのお祖父さんの跡目を継いだ息子の方ですね」
「貴様に答えるいわれは無い」
「つまらない跡目騒動みたいなものですね。息子は、父親の溺愛する妹の孫が煩わしくて仕方がない。外神をちょうどいいと、その孫を依代に仕立て上げたのは、まっ、そこまで言うのは野暮というものか。皆さんの顔付きが変わりましたね。怖いなぁ」
「貴様の無駄な一言が確実な死をもたらしたようだな」
「万事休すということか」
男は呟くと微かに俯く。
「さて、どうしようかな」
男は顔を上げ、ゆっくりと立ち上がる。
「ひの、ふの、みと・・・、五人いらっしゃるようで。あまり目立つことはしたくないのですが、少しばかりストレス発散のため、運動してみましょうか」
男が右足を半歩出す。
黒服たちが一瞬、後ろへ引き間合いを開けた。
「あくまでもストレス発散なので、死なないように手加減してあげますよ」
黒服達が、男を瞬きせず睨みつける。
男の姿が消えた、その瞬間、男は正面にいた黒服の背後に立つ、その左手は既に黒服の顎を捕らえていた。
男は半歩下がり、同時に左を地面に落とす。
瞬間、男は宙を飛び上がり、隣にいた黒服の後頭部をなぎ払うように蹴る。数メートル先まで黒服は弾き飛ばされた。
黒服達はその間、全く動けなかった、全く異質の速さに対応出来なかったのだ。
「世の中、便利になると、人は体の動かし方を忘れてしまうのかもしれませんね」
男は立ちつくしたままの黒服の肩を軽く叩いた。
「君はそうは思いませんか」
「うっ、うわぁぁ。殺さないでくれ」
その叫び声を引き金に、残った二人が血相を変えて逃げ出した。
男は肩を叩いた黒服の首に腕を回すと、逃げられないよう押さえ込んだ。
「君には仕事があります。意識失ったこの二人を連れて帰りなさい。せっかく、手加減したのにこのままほって置いたら大変だからさ。わかりましたか」
「わ、わかりました」
「本当にわかったのかい。このまま、逃げ出したりしたら、君だけ殺すぜ。本当に二人を病院まで連れて行くかい」
男は黒服の耳元で囁いた。
黒服が息もたえだえにひたすら頷く。
「素直さは大切だ」
男が力を緩める、
黒服は転げるように前に進むと倒れ込んでしまった、男は倒れていた二人を軽く蹴る。二人とも意識を取り戻し目を開けた。
そして、男は何事もなかったようにベンチに座った。
しばらくして列車が来る、男はそのまま、立ち上がり列車に乗った。

幸とあかねは縁台に座り、ほおぉと梅林に沈む夕日を眺めていた。
「幸はさ、お父さんがいると真面目で気配りの出来る人になる、でも、いないとさ、だめ人間なんだよ。あぁ、早く帰って来ないかな。あ、でも、晩御飯の用意もしなきゃだし」
「幸さん」
「ん・・・」
「私にはとても目まぐるしい一日でした。いま、やっと落ち着いた気分でいます。だから、この時間がとてもいとおしく思えるんです」
幸はにっと笑うと、あかねの肩に腕を回し、頬を寄せた。
「もうしばらく、夕日を眺めていよう。沈んだら、晩御飯の用意をしよう。そうだ、あかねちゃん」
「はい」
「やっぱり、幸のこと、お姉ちゃんって呼んで欲しいな」
「お姉ちゃん」
「おお、我が妹よ」
幸は嬉しそうに笑った。

男は商店街入り口のタコ焼き屋の前にいた。
「回転焼き六個と、そうだな、八個入りのタコ焼き、三舟お願いします」
「はいよ」
店主が手際よく、タコ焼きをひっくりかえす。
「景気はどうです」
「ん、だめだ、参ったよ」
「まぁ、景気のいいところなんて、ほんの一握りですからね」
「この商店街も良かったんだけどさ、ほら、近くに業販スーパーや安売りの店が増えちまって、随分、客を取られちまってね」
「商売敵ってやつですか。ただ、商店街の良さをもっと前面に出した上で、協力して商品を組み合わせてみる、お客さんをもっと能動的に組み込んでみるのが一番かなと思いますよ」
「ほぉぉ、お客さん、ちょっと、詳しく聴かせてもらえないかい」
かんてき、いわゆる七輪である、を二つ。
一つにはご飯を炊き、もう一つは網を乗せ鯵を焼いていた。
「あかねちゃん、鍋の中でゴトゴト言い出したら、声かけてね」
「は、はいっ」
あかねは幸が鍋でご飯を炊くことに目を丸くしていた。幸はパタパタと団扇で空気を送り、鯵を焼いている。
「あの、お姉ちゃん、炊飯器あったけど」
「あるんだけどさ。これの方が美味しい。それにね、旅している間、ずっとこうやってご飯を炊いていたんだ」
幸がくすぐったそうに笑った。
「ここは梅の枯れ枝もたくさんあるし、落ち葉もね、濡れた新聞紙と混ぜて、ぎゅっと重しで押さえ込めば、いい感じの薪になる。そうだ、竹を植えよう、成長早いから薪にちょうどいいや」
「これって、すっかりアウトドアですよぉ」
あかねが呆れたように溜息をついた。
不意に幸が振り向いた。
「あ、お父さん、帰ってきた」
幸はまだ焼けていない鯵を皿に戻すとあかねに言った。
「あかねちゃん、音がしたらね、鍋を降ろして、そこの新聞紙の束でぎゅっと鍋を包んでくれる。保温調理になるからさ。幸はお父さん、迎えに行って来る」
幸はぱたぱたと庭を走り、玄関へと走って行った。
「ご飯炊けたら、お魚、焼き直そう。可愛いお姉ちゃんだ・・・」
あかねが幸せそうに笑みを浮かべた。

「お父さん、お父さん、お父さん、お帰りっ」
「ただいま」
「おおっ、お土産ありだ」
「タコ焼きと回転焼き。幸、タコ焼き食い飽きているのなら」
「食べる、食べるよ。タコ焼き飽きるなんて関西人にあるまじき所業だ」
「幸、関西人なの」
「タコ焼き食べている時は関西人なのです。さいでっか、ほな、おおきに」
にひひっと笑うと、幸は男の手を引っ張る、つられて男が上がり口に上がると、幸は脱いだ男の靴の向きを直した。
「幸はあかねちゃんを苛めてませんか」
幸は男からお土産を受け取ると、少しばつが悪そうに笑った。
「ちょっと苛めちゃった、こんな感じ」
ぽろっと幸の頭が落ちる。
うわぁっ、と、男が驚き、幸の頭を抱きとめた。
「幻術か・・・」
男の腕の中には何もなかった。
「親をびっくりさせるな」
「ね、お父さん。泣きそうになった」
「泣き過ぎて乾燥して、ミイラになるところだった」
「そしたら、幸がお父さんにホースでじゃぶじゃぶ、水をかけてあげるよ」
男は少し吐息を漏らすと、幸の頭を撫でる。そして、少し笑顔を浮かべる。
「居てくれるだけで嬉しい。ありがとう」
「どう致しまして、お父様」
ばふっと幸は男にしがみつく。
「お父さんも幸をぎゅっとして」
男は戸惑いながら、幸を抱きしめた。
そして、男はまるで子供のように顔を赤らめると少し笑った、そして手を離す。
「お父さん、今度は裸で抱き合おう」
「ごめん、それは無理」


男が着替える間、幸が庭へ戻ると、あかねが鯵を焼き直していた。
「ありがと、あかねちゃん」
「お姉ちゃん、美味しく焼けました」
「いい匂い。それに三人で晩御飯、なんか楽しいなぁ。あかねちゃん、テーブルにお皿並べてくれる、幸はおすましをつくるよ」

食卓にご飯、鍋からおひつに移し、焼き魚とおすまし、それに少しお漬け物。
三人はいただきますと手を合わせ、晩ご飯を食べる。
「鰺は、ちょうど塩味も効いていて美味しいね」
男が言うと、幸がにひひと笑った。
「少しコツがわかってきたよ。今度はイカも干してみるかな」
「するめとか作って、炙って食べたら美味しいだろうね」
「あ・・・、するめ食べ出したら、幸は一日中、何もしないでするめを囓っているかもしれない」
「お姉ちゃんなら、本当にそうしているかもしれません」
あかねが会話に入ろうと思い切って声を出す。
幸はそれを受けて、まんべんの笑みであかねの頭をなでた。
「安心して、あかねちゃんにも半分、分けてあげるよ。かんてきでするめ、炙りながらさ。日本酒があればもう最高だ」
「幸、あかねちゃんにお酒はだめだよ」
「それじゃ、濃いめの番茶かな。お父さんは珈琲、珈琲は無理があるなぁ」
「さすがに父さん、珈琲が好きでもするめとは一緒に飲まないよ」
男は少し笑うと、漬物をご飯に載せた。
ふと、思い出したように男は少し笑うとあかねに話しかけた。
「あかねちゃん、最初に言うべきだったけど、お母さんに会ったよ。元気そうでした」
「お母さん、おじいちゃんのとこに」
「そう、で、少し喋って来た。また、あかねちゃんとお父さんと三人で暮らしたいって話してくれた」
「お母さんが・・・」
急にあかねは俯くと涙を流した。
幸がそっとあかねの背中をさすった。
「お母さんにもお父さんにも、とっても酷いことをしました」
あかねはお茶碗を置くと、ぎゅっと拳を握り締めた。
「崩壊して行く家庭がとても嬉しかったんです」
男は小さく吐息を漏らした。
「あかねちゃんが悪いわけじゃない、あかねちゃんの心を悪くした奴が一番悪いってこと」
男がそっと笑みを浮かべた。
「一週間したら、お母さんの所へ行こう、それまでに、幸」
男は幸に向き直ると言った。
「あかねちゃんに線を一本、作ること。いいかな」
幸は男をじっと見つめ、そしてしっかりと頷いた。
「さぁ、あかねちゃん、食べよう。せっかくのおすましも冷めちゃうからね」
幸はあかねにそっと笑いかけた。

男が流しで洗い物をしている間、幸はあかねに数学を教えていた。今晩中に微積分の概念まで教え込むつもりらしい。テーブルに参考書を広げながら教える幸の言葉に男はあかねちゃんも大変だなと少し笑った。
ものの善し悪しを見極めるためには、まずは基準となる線を一本、作り出さなければならない、そして、その線は細くて鋭いほど、善し悪しを見極めることができるようになる。
数学をしっかり理解させることで、幸はあかねの判断能力を高めようと考えているのだろう。
幸も成長したなと、手を止め、男は振り返り幸を見る。ふと、幸は男の視線に気づくと、立ち上がり、男の前に頭を差し出した。
「え・・・」
「頭、撫でて」
男は少しと惑いながらも幸の頭を撫でる。
「幸は立派ですか」
「うん、立派、成長したなぁって感心した」
「えへへ」
幸はまんべんの笑顔を浮かべるとテーブルに戻った。

朝、男は目を覚ますと、着替えを済まし、居間に入った。
あかねがテーブルに一人、取り残され、ぼおっと外を眺めていた。男は幸が洋品店のおばさんの散歩に付き合っているのだなと気づいた。
「おはよう、ひょっとして、その姿、あかねちゃん、徹夜したのかな」
「どうしてお姉ちゃんはあんなに元気なんだろう」
ふと、あかねは男に気づき、慌てて笑顔を浮かべた。
「おじさん、おはようございます」
男は笑みを浮かべると、お湯を沸かす。
「お疲れさま、部屋で寝て来なさいな、カーテン締めたら、日差しも避けることができるから」
「でも、寝てしまうと詰め込んだものが消えてしまいそうで」
男はマグカップにインスタント珈琲をいれる。
「公式なんか忘れてもいいよ、忘れたら公式を自分で組み立てればいいだけのこと。それに寝る方が脳を休めることができるからね」
男は適当にお湯を入れかきまぜる。以前はしっかりと珈琲豆から準備していたのだが、旅の最中、手抜きのインスタント珈琲にすっかり慣れてしまっていたのだった。
男は立ったまま珈琲をすすると、いたずらっぽく笑った。
「幸と付き合うなら、休める時は休んでおきなさい。体がもたなくなるよ」
あかねは、昨晩の切れ間なく自分に教え込む幸の姿を思い出して、やはり寝ておこうと立ち上がった。しかし、あかねは一瞬、唇を噛むと、決心して男の前に立った。
緊張した面持ちで男を見つめる。
「ん、どうしました」
「ごめんなさい」
「え・・・」
「昨日、おじさんのこと、お姉ちゃんに悪く言いました」
「あの、足を、足を・・・」
男は珈琲を、一口、すすると少し笑った。
「知ってるよ。でも、その時のあかねちゃんと、今のあかねちゃんは別人だってことも知ってる。さあ、休みなさいな」
男は笑顔を浮かべたまま、あかねの頭をそっと撫でる。
あかねはほっとしたのか、笑みを浮かべた。

あかねが寝付いてしばらくした頃に、幸が戻って来た。
「ただいま、お父さん」
「おかえり、どうだった」
「歩くのはもう大丈夫だよ。歩きながら、ずっとかあさんの愚痴の聞き手になってた」
「それはお疲れさま」

男と幸はテーブルに着く、ふと、幸は辺りを見回した。
「おとうさん、あかねちゃんは」
「ついさっき寝たところ。一時間くらい寝かせてあげなさいな」
「そうだね、ちょっと張り切り過ぎた。今晩は復習と、複素数をちょっとだけ教えよう」
「幸は寝なくて大丈夫かな」
「あかねちゃん、起きるまで寝ていようかな、お父さんは」
「昨日、事務所から書類を預かって来たからさ、それを処理するよ」
「今日はお出掛けしなくてもいいの」
「そうだな、とくに出掛ける用事は無いな」
「お父さん、左手、いい」
「いいよ」
幸は男の左手をそっと握ると、横になり、もう片方の手を添え、枕にしようとしたが、高さが合わなかったのだろう、仰向けになり、お腹の上へ手を載せる。
「いま九時過ぎ。お父さん、十時になったら起こして」
「わかったよ。ぐっすり寝なさい」
「うん、お休みなさい」
「おやすみ」

男は右手だけで、器用に鞄から書類を取り出すと、テーブルに並べる。そして、書類の確認を始めた。
しばらくして、ふと、男は顔をあげると、玄関口の方向を見つめた。
「佳奈さんか」
ベルが鳴った、しかし、音が小さい、修理しなきゃなと男は・・・、幸が左手をしっかり握っていて動けない、男は玄関口に向かって声をかけた。
「佳奈さん、どうぞ、入ってください」
佳奈は遠慮がちに開き戸を開けると、中へと声をかける。
「いいかな、先生」
「動けないんだ、どうぞ、上がってください」
佳奈が部屋に入ると、
「なるほど、これは動けないやね」
男の左に幸が寝そべり、男の左手を両手で包み込んでいる。
「うーん、凄いえっちだ」
「え、父娘で手を握ってと言われると、あれだけどさ、でも単純に手を重ねているだけだよ」
佳奈は笑うと、幸の横に座った。
「先生は朴念仁だからしょうがないな。裸で抱き合うより凄いよ」
「え、そういうものなのか」
男は少し狼狽えたが、手を解くこともできずに顔を赤らめた。
「相変わらず、先生は幸ちゃんのことになると、少年になるねぇ」
「いい年こいたおっさんが少年と言われてもな、恥ずかしいだけだよ」
男は少し笑うと、テーブルの上の書類を一つに纏めた。
「先生はもう会計事務所、開かないのかい」
「幸とね、過ごす時間を増やしたい。まだまだ初心者家族だからね。自分で事業を始めるとなかなかそんな時間が作れないよ」
「これだけ美人の娘だもの、父親でもとち狂ってしまうのしょうがないな」
佳奈が笑った。
「幸はそんなに美人なのか。幸はぜんぜん、自分なんか美人じゃないってね、言ってるけど」
一瞬、佳奈は息を飲み、男の顔をまじまじと見つめた。
「幸せな人だ、先生は」
佳奈が溜息をついた。
「先生、イカの新しいの、入ったから持って来たよ。冷蔵庫に入れておくよ」
「佳奈さん、ありがと」
佳奈は立ち上がり、勝手知ったる台所の冷蔵庫へとイカを仕舞う。
ふと、視線を上げたとき、佳奈はあかねを見つけた。
「先生、悪いことしてないかい」
「テレビに出て来そうな可愛い女の子じゃないか」
あたふたと佳奈が戻って来た。
「幸の友達だよ、妹みたいなものかな。そうだ、佳奈さん、急いでいるかい」
「いや、いいけど」
「十時まであと五分、待っててくれるかな」
「いいよ、あたしも先生にお礼いわなきゃならないし」
「なんかしたっけ」
「タコ焼き屋の良さんに教えてくれたろう、商店街活性化の方法」
「あれね、いや、佳奈さん電話してくれたからさ、ちょっと考えていたんだ。タコ焼き買うついでに喋ったんだけど、まずかったかな」
「ありがたいけど、良さん、集まりでね、自分が考えたように言うんだ、あたしゃ、それに腹が立ってさ」
「アイデア料出せって言うなら、考えものだけど。彼もそうは言わないだろう」
「そりゃ、そうだけどさ。良さん、次の商店街の会長選挙、もう自分が会長になった気でいるよ」
男は幸を起こさないよう、でも、愉快そうに笑った。
「男は齢をとると名誉が欲しくなるもんだよ」
「そういう先生はどうなんだよ」
「私はそういうのとは無縁だ。それに今はね、幸にさ、恥ずかしい父親だと思われないようにするので一杯だな」
「ちゃんと髭も剃って身だしなみを気をつけていますってね」
佳奈がからかうように言う、男がくすぐったそうに笑った。
「本当にそうだよ。ん、十時だな」
男は幸を見つめ、声をかけた。
「幸、十時だよ、起きなさい」
幸が、うん・・・、と唸りながら、寝ぼけ眼で体を起こした。
「もう少し、寝るか」
「ううん、お昼まで、あかねちゃんと掃除しなきゃ」
幸はやっと男の手を離した、ふと、幸は佳奈がいることに気づいた。
「佳奈姉さん、おはよう」
「おはよう、洋品店のおばさんから幸ちゃん、イカが欲しいって聞いたから持ってきたよ、冷蔵庫の中」
幸は嬉しそうに笑うと、佳奈に向き直った。
「ありがと。そうだ、佳奈姉さん、あかねちゃんを紹介するよ、待ってて」
幸は立ち上がるとあかねを呼びに行った。
「そうだ、先生」
「ん」
「ほら、親戚の瞳さん、先生や幸ちゃんのこと心配していたよ、旅のこと、話してなかったのかい」
「話してなかったな。瞳さん、たまに買い物に来るのかい」
「瞳さんち、遠いけどさ、それでも月に一度くらいは買い物に来てくれるんだ」
「そうだね、後で連絡をいれておくよ」
瞳がここで生活していた頃、親戚ということで佳奈に紹介していたのを男は思い出した。
「佳奈姉さん」
幸はあかねの横で、にっと笑顔を浮かべた。
幸の声に佳奈が笑みを浮かべ向き直った瞬間、佳奈の頭の中に、初めまして、という声が響いた。
「これは・・・、驚いた」
佳奈はあかねに向けて、こんにちわと、言葉を送った。
あかねが、少し驚いたように目を見開いた。
「本当にお姉さん、心を読むことが出来るんですね」
あかねはぺたんと佳奈の前に正座をすると、恥ずかしそうに笑った。
「幸ちゃん、これはどういうことなんだい」
「あかねちゃん、半年前から、心を読むことが出来るようになってね、幸が普通に日常生活を送ることが出来るよう指導しているのです」
「ほぉ・・・、なんていうか、いや、もうびっくりだよ。幸ちゃんが指導しているなんて」
「ええっ、びっくりはそっちなの」
「だってさ、初めて幸ちゃんに会った時の」
「ああっ、だめ。それは秘密だよぉ」
「いいじゃないか、可愛かったよ」
佳奈はしょうがないなと笑う、
佳奈は、一年、見ないうちに幸がしっかりとしたのを驚きつつも、嬉しく見守っていた。不思議な出会いだとつくづく思う。

佳奈が帰った後、幸とあかねは家の掃除を始める。男も書類の整理、そして、事務仕事を始めた。時々、幸があかねに掃除の手順と要領を教える声が聞こえる。男は自分がなんて幸せなのだろうと思う。そして、願わくば、自身が死んだ後も、幸が幸せに暮らしてくれればと願う。

昼を過ぎ、男が瞳の話をすると、幸が眉を曇らせた。
「瞳さん、なんかあったのかなぁ」
「あとで、父さん、行ってみるよ」
幸は少し俯き考えていたが、男をじっと見つめた。
「ううん、幸が行くよ。おばさんにも会いたいし」
「瞳さんのお母さんだったかな」
「うん、幸は更生した親切な不良少女なのです」
そっと幸が笑みを浮かべた。
「幸はやさしいな」
「そりゃそうだよ」
「え」
「お父さんは幸にとてもやさしくしてくれる、だから、幸はやさしくされることがとっても嬉しいことを知ってる。そうするとね、なんだか、嬉しいなという気持ちを伝えたくなるんだ」
思わず、男は幸を抱き締めたが、慌てて手を離した。
「ごめん」
「どうして謝るの。お父さんに抱き締められるのは幸の一番嬉しいことなのにさ」
「いや、まっ・・・」
「うふふ、お父さんも随分成長しました。でも、もう少し積極的でないといけませんね」
男は照れて、恥ずかしそうに笑ったが、落ち着きを取り戻し言った。
「幸、あかねちゃんはどうする、連れて行くか」
「社会勉強にはいいけど、瞳さんとあかねちゃんはお互いを知らないから、ん・・・、あかねちゃんが瞳さんの素性を知ったらどうなるかな」
「瞳さんはあかねちゃんを見ればあの時の娘だってすぐにわかると思うよ。それに、あかねちゃんは聡いし心を読むこともできるからね、お互いが知ることになるかもしれない」
「そっか・・・、どうしよう」
「そうだな。あかねちゃんを連れていきなさい、そして、万が一の時は父さんを呼びな、駆けつけるからさ」
幸が笑みを浮かべる。
「お父さんが駆けつけてくれるなら、幸は元気一杯。もう、鬼の大軍にだって、勝負かけるよ」
「それはやめてください。幸が刀片手に大笑いしているのが目に浮かんでしまう」
男はくすぐったそう
に笑った。

幸は地味なTシャツにゆったりとした黒のカンフーズボン、それに帽子を目深にかぶっていた。
髪は後ろで柔らかく結わえている。
「お姉ちゃんはどうしてそんなかっこうするの、とっても綺麗なのに」
「これが一番動きやすい、それに、幸は美人すぎるからさ、男の視線が煩わしくてね。いや、お父さん以外の男には見られたくもないんだ。男は大嫌いだ」
「ね、おじさんがお姉ちゃんのこと、美人だっていったらどう答える」
「ううん、幸なんか、ぜんぜん、美人じゃないよ、普通だよぉ、ってね」
幸はにいっと笑うと、あかねの頭をぽんぽんと叩く。
「惚れた人には素直で無邪気な良い娘に思われたいのさ」
幸とあかねは家からしばらく離れたスーパーマーケットの前に立っていた。
「ここで友人と会う。腐れ縁という奴かな」

瞳は買い物カゴを持ったまま、スーパーの中を歩いていた。気になることがあるらしく、心ここにあらずの様子を見せていた。
でも、たまにはハンバーグくらい作ってやらないと・・・、ふと、ミンチ肉に瞳の手が伸びた。
「あと二分待ちな、店員が三割引のシールを貼ってくれるぜ」
真横で声が聞こえた。驚いて瞳が振り向いた。
「幸さん・・・」
「久しぶり。ん、元気そうじゃないな、どうした」
「あの、あの・・・」
何から喋れば良いのか、整理がつかず、瞳は苦しそうに蹲ってしまった。幸は仕方無さそうに笑みを帽子の影で浮かべると、そっと顔を近づけた。
「出来ないことは出来ない、でも、出来ることならしてやる」
幸の声に元気づけられたのか、瞳はやっとのことで立ち上がると、思い切って幸に言う。
「母を、お願いです、母を助けてください」
一瞬、幸の眼差しが鋭く瞳を貫いた。
「おばさん、どうかしたのか。場所を変えよう」
幸が瞳の手を取った。
あかねが慌てて、三割引のミンチ肉をカゴの中にいれた。
「あかねちゃん、これで清算して入り口で待ち合わせ、いいかな」
幸があかねに財布を渡す。
あかねは頷くとレジへと駆けて行った。

スーパーマーケットの出口近く、少し人どおりの少ない場所で瞳は幸につっかえながら話す。
「母は病気で、病気で、あと一カ月って・・・」
「瞳さん、あんたの心、読んで良いか」
「は、はい」
幸は瞳の顔をじっと見つめた。全身転移、がん、瞳はどうしてもこの言葉を口にできなかった。口にすることが恐怖で仕方なかったのだった。
「他の病院は当たってみたのか」
「はい、でも、何処も手遅れだと」
幸は瞳の頭の中に浮かぶ病院の数が五十を越えることを確認した。

幸は瞳が家族に溶け込みやすいよう、瞳の母親に会い、不登校の少女として話をしていた。思い出す、本当に、ただただ、良い人だった。子を心底心配し、孫を目に入れてもいたくないという、ごく普通の人であった、良い人だ。

「ここで返事はできない。行ってから考える、瞳さん、車で来たんだろう、病院まであたしとあかねちゃんを連れて行ってくれ」
「あかねちゃん・・・、あ、それは」
「余計なことは考えるな」
あかねが買い物袋と財布をもち駆け寄って来た。
「これ。たくさん、ドライアイスを入れてもらいました」
「そうだね、すぐに冷蔵庫に入れられそうにないからちょうど良いかな」
あかねが、幸に財布を返す。そして、買い物袋を瞳に差し出した。
「どうぞ」
「あ、ありがとう・・・、本当にごめんなさい」

瞳の運転で幸とあかねは病院へ向かった。

「なんだか変な気がします、落ち着かないような」
あかねが幸にそう呟いた。幸とあかねは後部座席に座っていた。
「ルームミラーから後ろの車を覗いてごらん」
幸の言葉にあかねは少し背を伸ばし、ルームミラーから後ろを覗く。黒い車が三台、後ろに張り付いていた。
「あれは」
「あかねちゃんが、外に出るのを待っていたんだろう。しかし、これは恣意行為、実力行使に出るつもりだな、なめられたもんだ」
「撒きます、しっかり掴まっててください」
瞳が鋭く囁いた。
幸があかねの肩をしっかり抱き寄せた。
交差点、赤、瞳はアクセルを踏み込む。何台もの車をすり抜けるように右へ曲がった。アクセルは戻さない。
怒号、クラクションのつんざめく音が遙か後方へと消えていく。ハンドルをいきなり切る、軋みがなり立てる車、車一台やっとの一方通行をアクセルべた踏みで駆け抜ける。
交差するとおりの向こうに病院の入り口が見える。
瞳はううっと低く唸ると、赤信号の交差点を飛び出した。

あかねの手を取り、幸は瞳に聞いた病室へと向かう。
がくがくとあかねの脚が震えてた。
「無茶です、あれは、あの運転は無茶です、違反ですっ」
「運が良いとしか言いようがないな、横から車が来ていたら終わりだ」
幸が平気な顔して笑った。
固まっている瞳を後から来いと幸は言い残して病室へ向かっていた。あれだ、327号室、一番の端の部屋だ。
一瞬、幸の脚が固まった、心電計の不規則な音が聞こえる。

幸は一つ深呼吸をすると、病室に入った。
個室だ、酸素吸入器が取り付けられ、はっきりと見えるのは目元だけだが、確かに瞳の母親だった。あかねの手を離し、幸は茫然とその姿を見る。窓からの青い空が、あまりにも不似合いで美しすぎる。
帽子を取り、幸はベットに駆け寄った。そして、母親の耳元に語りかける。
「幸です、憶えていてくれてますか、いっぱい、お喋りしましたね、遅くなってしまってごめんなさい」
微睡みかけた意識の中で、何かが繋がったのだろう、微かに顔を向け、そっと笑みを浮かべた。何か、話したげにしているのだが、声を出す力も残っていないようだ。幸は耳元で優しく囁いた。
「幸は言いましたね、本当のこというと、幸は神様なのです。瞳さんが帰ってきたのも幸のおかげです、そして、お母さんが、お母さんの病気が治って元気になるのも幸のおかげなのですよ」
哀しげに笑みを浮かべる。幸は瞳の母親の手をぎゅっと両手で握ると、額をそっとそっと重ねた。
「お父さん、ごめんなさい・・・」
ゆっくりと瞳の母親は目を閉じ、眠り込んだ。
幸は、顔を上げ、天井をにらみつける。
そして、振り返った。瞳が息を切らし、部屋に入ってきた。
「瞳さん」
「は、はいっ」
「一度だけだ、助けてやる。あんたの母親には世話になったからな。だけど、完全に腫瘍を取り除くことは出来ない、こいつらも、元はあんたの母親の体だからだ。普通に生活できるようになっても、再発するかもしれない。つまんねぇ鮫だとか、わけのわからない薬もどきを飲ませるなよ。もっとしっかりした病院で確実な治療をさせろ、いいか、わかったな」
「はい、わかりました」
にらみ付ける幸に、瞳は弾かれたように答えた。
「あたしが良いと言うまで、ドアの外で待ってろ。しっかりドアを閉めて、誰も入れるな、医者や看護婦、一切の例外無しだ。わかったら、部屋を出ろ、ドアの前、踏ん張って誰も入れるな、いいな」
慌てて、瞳はうなずき、部屋を出るとドアの前、かばうように立つ。
幸は一つ、溜息をつくと、力無くあかねに笑いかけた。
「あかねちゃん」
「は、はい・・・」
「怪我ならさ、どんな酷い怪我でも直すことが出来る。でも、病気は別なんだよ。変質していく体も、また、その人自身なんだ。だから、あかねちゃんの怪我を治したようには行かない。ね、あかねちゃんはさ、幸がお父さんをあんなにも好きなのが不思議だろう」
「は、はい」
「幸はさ、とっくに死んでいたんだ。それを、お父さんが自分の生命を削って幸を生き返らせてくれたんだ。この体全て、髪の毛一本に至るまで、お父さんのおかげでここにある、それを少しでも傷つけるなんて、それを選ぶなんて、幸にとってそれは絶対に許せないことなんだ」
いきなり、幸は左手小指を噛み千切った。
あかねが息を呑み、蹲った。
幸は噛み千切った小指を右手で持つと、あかねに言った。
「しっかり、睨んで見ておきなさい」
あかねが幸の気迫に飛び上がるようにして立ち上がった。
幸は、瞳の母親のお臍に千切った小指を載せると、両手をそのまま母親の腹部へと溶け込ませていった。
「体力が無くなっている分、しっかり支えてあげるよ」
幸は涙を流しながら笑みを浮かべた。

ドア越しに瞳には幸の声が聞こえていた。
涙を流さないように歯を食いしばる。
看護婦が点滴を用意しやって来た、ごく日常の表情だ。
「お嬢さんですね、点滴の準備をしますから」
「ごめんなさい、いまは誰もお入れすることは出来ません」
「はい・・・。あの、おっしゃっている意味が分からないのですが」
「ごめんなさい、どうしても、このドアを開けることは出来ません」
「なにをおっしゃっているんですか、こんなことは初めてです」

「見つけたぞ」
男のわめき声が轟いた。
先程の車を運転していた男たちだ。三人、四人、五人だ、がなりたてながらやって来た。
「ここは病院です、静かにしてください」
看護婦が叫ぶ。
「邪魔だ」
先頭の黒服の男が看護婦を払いのけた。
「鬼紙家の孫娘はここだな。ドアを開けろ」
「だめです、絶対に開けません」
「なんだと」
黒服が瞳の胸倉を掴みかけた瞬間、飛び上がり、黒服の内蔵を鋭く、右足の爪先で突き刺した、くの字になって弾き飛ばされる黒服。これは以前、幸から教わった武術の動きだった。
四人の男たちが瞳に向かって一斉に拳銃の銃口を向けた。
「おもしろいことをやってくれるな。だが、ここまでだ。俺達は孫娘さえ、生きて連れ帰れば良い、他の奴らは死んでいてもいいのさ、跡処理屋にまかせておけば綺麗に片付けてくれるからな」

「いやいや、自分の始末は自分でつけなさい、大人なんだからね」
男は瞳の前に立つと、くすぐったそうに笑った。
「先生」
瞳が叫んだ。
「先生ってほどじゃない。俺は、いや、私は瞳さんには何も教えていないからね、ただ、幸の教えたあの蹴りは見事だ。練習、欠かさなかったようだね」
「どっから現れたんだ、こいつは」
黒服が脅え叫んだ。
「君の右手側、歩いて来たんだけど気づかなかったかい」
「なんだと」
「ほら、それが証拠にその拳銃持つ右手、妙に痛くはないか」
黒服が初めて気づいた。肩口から血があふれ出している。
「うわぁぁつ」
「ここが病院で良かった、早く繋いでもらいなさいな、皮一枚でつながっているその腕、落ちてしまうよ」
黒服たちが拳銃を持っていることも忘れ逃げ出した。

男はドアの横、壁に背を預けると一つ、吐息を漏らした。
「さて、どうしたものかな」
「申し訳ありません、大事な幸さんに大変なことを」
「いや、これは幸が選んだことだ。瞳さんが私にどうこう言う必要は何もない。ただ、私は新米の父親だからさ、幸を叱るべきか、それとも、褒めるべきなのか。判断かつかずにいる、なんだか、情けないよ」
半時間も経っただろうか、ドアが開き、あかねが顔を出す。
「入ってください」
瞳がおそるおそる部屋へと入る。
ベッドには酸素マスクを外した瞳の母親が、先程とは別人のように寝息をたて、気持ち良さそうに寝ていた。
しかし、ベッドの足元、幸が頭を抱え、震えながら蹲っていた。
「おじさん、お姉ちゃんがお父さんに申し訳ないって・・・」
男は哀しそうに笑みを浮かべ、あかねの頭を撫でると、病室に入る、そして、幸の横、病室の床に座った。そして、ポケットから包帯を取り出す。
「自分の体に傷つけるとは何事だと叱るべきかと考えた、それとも、身を犠牲にして人の生命を救った娘を褒めたたえるべきかと考えた。なんかね、ごめんね。父さんにはどっちも無理だ」
止血をし、男は幸の左手に包帯をしっかり巻いて行く。
「お父さん、ごめんなさい」
男は何も言わず幸を抱き締めた、そして、静かに静かに泣いた。
「何も言えずに泣くだけの父親ってかっこ悪いな。ごめんね、幸」
男はそう呟いて静かに泣き続ける。
そして、どれほど経ったろう、男は幸をだきかかえ、あかねを促し、静かに病室を出て行った。

家に帰ると、居間に幸を寝かせ、男はその枕元に座る。
「おじさん、お姉ちゃんは」
「回復力が随分と強い、夜には目を覚ますと思うよ」
「それじゃ、晩ご飯作ります」
「ありがとう」
あかねはほっとしたように笑みを浮かべると、台所へ向かった。
「幸、なんだかさ、お揃いになってしまったな」
男は幸の左手を両手で包み込む。
「痛かったか、苦しかったか、恐かったか。でもな、大きな決断を自分で決めたこと、父として、家族として、誇らしいよ。でも、ほんというと、父さん、こんなに狼狽えたのは初めてだ」
硝子戸からの外の景色、夕刻、西日が差し込み始めた。炭の焼ける匂い、あかねがご飯を炊き出したのだろう。
不思議なほど静かだ。
男は幸の左手を包み込んだまま、幸の寝顔を見つめる。
自分は本当に幸が大切なのだなと改めて思う。
こんなにも大切な人と、こうしてここに一緒に居ることができるということが、なんて幸せであるのかを、幸に感謝した。

どれほどの時間が経ったろう、日は沈みきり、外は仄暗く、辺りを闇が漂いだした。
「お父さん、ごめんなさい」
「ん、気が付いたか」
「お父さんにいただいた大切な体を傷つけてしまいました」
「父さんはさ、とてもつらいんだ。でもね、それは、幸がどんなに痛かっただろう、苦しかっただろう、それを代わってやれなかった自分が情けないなってね、それだけが、ただただ辛いんだ。でも、こうやって、幸とお喋りしてほっとしているよ」
「お父さん、ずっと手を握ってくれていたの」
「だってね、幸が何処かに行ってしまわないか、とっても、寂しかったからさ」
「幸はずっとここにいるよ、いてもいいよね」
「あぁ、いていいよ。ずっとね」
「お父さんもいるよね」
「あぁ、いるよ」
「うふふ」
幸が小さく笑った。
「なんだ、泣いていた女の子が、もう笑った」
「だって、嬉しいもの」
「幸が嬉しいなら、父さんはもっと嬉しいよ」

「あぁ、くんくん」
「どうしました」
「香ばしい匂いがする、これは」
「あかねちゃんがイカを焼いているんだろう、晩ご飯のおかずにね」
「おなか減ったよう、ぺこぺこだぁ」
「幸、起き上がれるか」
「ん・・・」
幸は男の首に右腕を回す、男は両腕で幸を抱き起こした。
そして男があかりをつける、幸は少しふらつきながら立ち上がった。
「大丈夫か」
「うん、大丈夫」
ふと、幸は自分の左手を見る。
「お父さんと一緒だ」
「困ったところばかり似るなぁ」
「えへへ、できの良い娘ですから」
「本当に良い娘です」
男はわしわしと幸の頭を撫でた。
「幸」
「ん・・・」
「父さん、人はさ、本当に愛することのできる人、そんな人と巡り会えるのはとても幸せなことだと思う、そして、その人が隣りにいてくれる、これ以上の幸せはないなと思うよ」
「お父さん、それ、幸のこと」
「そうかもな」
「お父さん、ありがとう」
「どういたしまして」


「うわぁぁっ」
幸が湯船の中で悲鳴を上げた。
夕食を終え、あかねと二人、御風呂に入っている最中だった。
洗い場で体を洗っていたあかねが驚いて振り返った。
「お姉ちゃん。左手大丈夫」
幸は左手をスーパーの買い物袋で包み込み、輪ゴムでしっかりと留めていた。
「失敗したよぉ」
幸が涙目になって呟いた。
「あのおばさんの治療ですか」
「ううん、さっきお父さんがさ」
幸はあかねに、起き上がった時の男の言葉を繰り返した。
「うわぁ、それでお姉ちゃん、どう返事したの」
「ありがと・・・」
あかねは溜息を漏らすとなだめるように笑顔を浮かべた。
「いつか、また、おじさん、告白してくれますよ、多分・・・。合掌」
そっとあかねが両手を合わせ合掌する。
「あかねちゃんの何もかも分かったような顔、むかつきますぅ」
「だって、いつものお姉ちゃんらしくないんだもの」
「だって、だって。本当にお腹が減ってたんだよう」
「食い気優先ですね、案外、お姉ちゃんっぽいかも」
「ううぅ」
幸は湯船で唸ると、いきなり立ち上がり、あかねを後ろから抱き締めた。
「あかねちゃんをいじめてやる」
「あ、あの。へんなとこ、触っちゃやだ」
「大丈夫だよ、とっても気持ちいいんだからさぁ。大人の秘め事をじっくり教えてあげるよ」
「あかねはまだ子供です、そんなの知らなくていいんです」
あかねが叫ぶ。幸は余計に面白がってあかねの首筋をじっとりと嘗めた。
「ひぃやぁぁ」
振り返ったあかねが幸の顔を引っ掻いた。

男は愉快に笑うと、二人を見た。
あかねが幸の顔に絆創膏を貼っていた。
「なんだか、本当に仲の良い姉妹だ」
「ちょっとした冗談だったのにさ」
幸が拗ねたように言う。
「身の危険を感じました」
あかねは怒りながらも、まるで保護者のように幸の頬に絆創膏を貼る。
お風呂上がり、男はそんな二人の姿を見て笑う。
本当に幸せな時間だと、そう思った。
「でも・・・、こういうの、初めてです」
ふと、あかねが呟いた。
「え、初めてって」
幸が問い返す。
「我慢せずに感情を出してしまうことが」
「そっか。それは楽しいかな」
「とても楽しいです、思いっきり深呼吸している気持ちです」
幸はにっと笑うとくしゃくしゃとあかねの頭を撫でる。
「あかねちゃんは幸の大切な妹だ」
「でも、幸。来週はあかねちゃん、お母さんのところに帰るんだから、寂しいって泣くなよ」
「あ・・・、泣くかも」
ふと、幸が溜息をついた。
「うわっ、本当に泣くかもしれない、どうしよ」
「私は泣かないけど、お姉ちゃんは泣くかもしれない」
あかねが幸を覗き込んで言う。
「なんだよぉ、一緒にわんわん泣こうよ」
男がくすぐったそうに笑う。
「あかねちゃんには自分の身を守るために武術を身につける方が良いかもしれない、幸、教えて上げなさいな」
「そしたら、一週間に一度くらいは会えるね。そういえば、車で追いかけて来た奴らって」
「忍者だ」
男はインスタント珈琲の蓋を開けながら事もなげに言う。
「映画で出てくるような」
「元はね。彼らは明治からこっち、政治家や財界人のボディガードから暗殺まで、主に裏の仕事に従事している。時代劇に出てくるような黒装束はしてないけどね」
適当にお湯を容れる。
「あかねちゃんの母方のおじいさんは大金持ちで、この国を実質支配している人達の一人なのさ。いや、元はと言う方が正確だ。跡目は長男に譲って隠居しているからね」
「そんなあかねちゃんがどうして」
「あかねちゃんのお母さんの兄、これが、随分な人だからね。多分、あかねちゃんに自分の立場が揺るがされるのではと脅えているのだろうな」
「でも、あかねちゃんって、まだ子供だよ」
「そうなんだけどね」
男はそっと笑みを浮かべると口をつぐんだ。

幸はそれ以上追求せず、あかねを促し、昨晩の続き、数学の復習を始めた。
男は台所で食器を洗う。
男は考えた、あかねの祖父宅にて、次に来る日を伝えていたその日より、一日早く行く方が良いかもしれない、護り髪は残しておいたが、用心に越したことはない。

朝、男が目を覚まし、居間に入ると、幸とあかねが、火のない堀炬燵に足を入れたまま、居眠りしていた。
時計を見る、少し早く起きすぎたのか。二人に掛け布を被せる。
気持ち良さそうに眠っている。
朝ごはんを作ってやるかなと男は台所へ向かった。

男は手早く、玉葱とワカメでお味噌汁を作る、お櫃を覗いて、ふと思いつき、おむすびを作った。あとは、玉子でも焼くかなと、
「お父さん、おはよ・・・」
「ん、おはよう。まだ早いから寝てなさい、遅くまで起きていたんだろう。無理するな」
「ん・・・、お腹減った」
幸は男に抱き着くと、そのまま手を伸ばし、お皿からおむすびをひとつ取る。
「お父さん、食べていい」
「いいよ」
笑顔を浮かべ食べる。
「お父さんのおむすびは美味しい、目が覚めた。これは梅干しだ」
「冷蔵庫の中、有り合わせだけどな」
「美味しいよ、あ、お味噌汁だ。うーん、食べたいけど、母さんの散歩に付き合ってからにするよ」
「そっか、気をつけな」
「うん、行って来る」
男は幸を見送った
卵焼きを焼く、そして、二つに分け、皿に盛った。
そして、男はお湯を沸かし、インスタント珈琲を作る。男の朝食だ。
居間に戻ると、男は硝子戸から外を眺める。鶏小屋を作るの、手伝うかな。いや、それは幸に任した方がいい。ふと、男は気づき、カーテンを締めた、眩しいだろう。
男が居間を出ようとした時、
「おじさん、おはようございます」
「ん、おはよう」
振り返り、男は笑みを浮かべた。
「もっと寝ておいた方が良いよ、無理し過ぎて体を壊しては意味がない」
あかねが柱時計を見て言った。
「三時間は寝ましたから、大丈夫です。それに、数学は分かり出すと、なんだか、わくわくして面白いんです」
「そうだね、数学は楽しくて美しい」
男は珈琲をすすると、少し笑った。
「数学と哲学は、自分が迷った時に助けてくれる大きな力になると思うよ。あまり時間がないから、哲学は教えられないかもしれないけどね」
「あの、おじさん」
あかねが思い切ったように言った。
「どうしました」
「私は叔父の地位には関心ありません」
「大金持ちになれるよ、欲しいものは手に入るし、人を自由に動かすこともできる」
「多分、私はそういうものに嫌悪しています」
「多分・・・」
「ごめんなさい、曖昧な言い方で」
「いや、はっきり言い切れる方が教条的で却って不安になる、正直な表現だと思いますよ」
男は笑みを浮かべ、珈琲を啜る。
「いまはどう考えますか、これからの人生を」
「勝手なことを言ってもいいでしょうか」
「どうぞ」
男は珈琲を堀炬燵の上に置き、あかねの向かい側に座った。
「高校までは行きたいと思っています」
「いま、あかねちゃんは小学四年生だったかな」
「はい、今後、クラスに馴染むことが出来るかどうかはわかりません、違和感はあります。でも、高校まで続けて、社会のことや人のことを知り、肯定できるかどうかは別にして、馴染んでおきたいと思います」
「あかねちゃんは人の心を読むことが出来る、ただ、今後は幸のように、いろんなね、力が使えてしまうようになるかもしれない。それは、この社会では却って生きづらくなってしまう。幸は意識しているかどうかはわからないけれど、商店街の人を姉さん、母さんと呼ぶ、それは家族というものに憧れているのと同時に、他人と馴染むことが出来るようにしたいという気持ちの表れだと思っているんだ。他人にない力をたくさん持ってしまうと、普通に生きていくことが難しくなる。でも、馴染む努力を捨てるのは間違いだと思う。だから、あかねちゃんの考え方でいいと思うよ」
「ありがとうございます。それで・・・」
あかねが少し言いよどんだ。
「いいよ、言いなさいな」
「一週間のうち、一晩だけでも、ここで生活をしたい。お姉ちゃんと一緒に畑を作ったり、鶏の世話をしたいんです。そして、高校を卒業したら、ここで生活したい」
男は、瞬きもせず言い切ったあかねの言葉を聞いて、少し視線をずらし、硝子戸から梅林を眺めた。梅の精が二人、ここで生活をしていくことになるということか、シェルター、この地は社会からの避難場所みたいなものかもしれない。俺はその時もこうして生きているかな。
男はやわらかく笑みを浮かべた。
「考えてもいなかったよ」
「ごめんなさい」
「あかねちゃん」
「はい」
「良い考えだと思うよ。もちろん、あかねちゃんのお母さんやお父さんの考え方がある、それは尊重する。また、幸もどう答えるかは私にはわからない。でも、私はあかねちゃんにとっても、幸にとっても、それは良い考えだと思うな」
男は珈琲を一口飲み、にっと笑った。
「幸がどんな反応をするか楽しみだ」
男は珈琲を飲み干すと、硝子戸から外を眺める。
「幸は、畑とたんぼまで作ってしまうかもしれないな。そして鶏を飼って、そういえば、山羊も飼いたいとか。多分、幸、一人では手が回らない、あかねちゃんが居てくれたら助かるだろうな」
「楽しいだろうなと思います」
「そうだね、梅の木が多いから、梅干しは作ることができるけれど、それだけでは寂しいかもしれない、桃とか、いろんな果樹を植えるのもいいな」
「頑張ります」
男はあかねの言葉に少し笑うと、うなずいた。
「幸をよろしく」

「お父さん、お父さんっ」
幸があたふたと戻ってくると、掘り炬燵に滑り込んだ。
「定位置に着陸」
「どうしました、お腹減ったか」
「見張っているやつらが居る、きっと忍者だ」
「うちをか」
幸が頷く。
「ね、忍び込んでくるかな」
「ごめんなさい、私のせいです」
あかねが脅えたように呟いた。
「うん、なんだか、わくわくするよ。あかねちゃんのおかげだ」
幸は笑うと、宙から刀を取り出す。かなりの長刀を右手で軽く水平に構える。
「あ、でも、掃除が大変だ。やっぱり、外で斬っておくかな」
男は呆れたように吐息を漏らした。
「家には結界が張ってあるから、招かれざる客は入ってこれない。幸、はっきりと相手が攻撃の意志を見せない限りは手を出さないようにね。父さん、幸が笑いながら人を斬って行くの想像したら、なんだか、幸の育て方、間違えたかなぁって悩んでしまうよ」
「大丈夫、幸はお父さんの思いどおりの娘に成長しているよ。自己申告だけど」
「わかった、とっても安心した」
男は仕方無さそうに笑みを浮かべ、立ち上がった。
「幸も、幸も行くよ」
幸は刀を消し、立ち上がったが、不意にあかねを背中から抱き締めると、耳元で囁いた。
「幸も楽しみにしているよ」

男は、風景に同化したとしか思えないほど、気配を消した黒服の忍者の横に立った。
「仲間は何人いますか」
その忍者は男の家を見つめながら答えた。
「八人、俺を入れて九人だ」
「何故、見張っているんです」
「鬼紙老の孫娘を奪取する。依頼を受けた」
「何方からの依頼ですか」
「鬼紙家当主直々だ」
「なるほど、伜の依頼ですか。なら、孫娘は無事にはすまなさそうですね」
「そんなことは俺の知ったことではない」
「それはそうでしょうね」
男は頷くとブロック塀にもたれ掛かった。
「どうして突入しないのです」
「名無しだ。あの家には名無しがいる。稀代の魔人 名無しがいるんだ」
「名無し、聞いたことあります」
「名無しとの接触は避けたい、奴が家を出て、奴の娘と鬼紙老の孫娘だけになるのを待つ」
「なるほどね。いま、名無しは家におりませんよ」
「なんだと」
忍者が驚いて男に振り返った。
「待てっ、俺は一体、誰とこんな話をしているんだ・・・」
男は何事もなかったように言った。
「私が貴方の前にこうして居ります以上、あの家には名無しは居りません」
刀を肩に、幸がふわっと宙から現れた。
「お父さん、八人でいいかな、一応、言われた通り、峰打ちで済ました、骨が欠けているかもしれないけど」
「九人ということだから、数は合ってるね」
「あぁ、でも、なんだか、峰打ちなんて欲求不満だよ。ね、あの首、すとんって、落としてもいいかな」
「どうしようかな。まだ、お喋りの途中だからね」
幸が忍者ににっと笑いかけた、その瞬間、彼の喉元に刀の切っ先が触れていた。刀を振う様子もなく、一瞬にしてその切っ先が喉元にあったのだった。
「おじさん、安心していいよ。苦しむ間もなく、頭、落ちるからね」
「だけど、頭が落ちる前に、君の知っていることをいくつか、話、してくれるかな」
「話せば助けてくれるのか」
喘ぎながら黒服が答えた。
「君を生かしておいて実害が無ければ、そういう選択も、ひょっとしたらありかもしれない。君は無害かい」
「あんたの恐ろしさは知っている、あんたには手を出すつもりは無い」
男は黒服を睨む。男の眼に、黒服は腰が抜け、地面に座り込んでしまった。
「そうか、あの時の残党か。思い出したよ」
男は幸にそっと笑顔を浮かべた。
「刀、戻しなさい」
幸が素直に刀を降ろした。そして、興味深そうに黒服を見る。
「五年前、何人か、生き残ったのは知っていたんだけどね、さて、どうするかな・・・。他の奴ら同様、一度くらいは機会を提供してみるのもいいかな」
男はしゃがむと黒服と同じ目の高さで話しかけた。
「この娘は私の娘だ、とても大切な娘でね。君の標的、孫娘ってのは、娘の友人なんだよ。いや、娘にとっては妹のようなものなんだ。だからさ、君らが任務を遂行すると、私の大切な娘が嘆くわけだよ。私は親として、嘆く娘にどう話しかければいいと思う」
「それは・・・」
黒服が口ごもる。
「難しいよね。それに頼りない父親だなんて思われたら辛いよ」
「放棄する、俺はこの依頼から降りる」
「いい提案だ。ただ、残念なことに、君の言葉が真実であり続けるか、私にはわからない。とりあえず、この急場をなんとかやり過ごそうってだけかもしれない」
「本当だ、約束する」
「言葉だけではなぁ、困ったねぇ。だって、君が一抜けたといってもさ、鬼紙家の伜は、はいそうですかとは、君を解放しないだろう、いろんなこと、君は知っているわけだからさ」
「五年前の事件に居合わせた者であんたに逆らえる奴はいない」
「娘の前でその話はするな」
冷たく男は黒服を睨んだ。

あかねは考えていた。二人が外に出、一人になった自分が何をすればいいのか、いま、この瞬間に自分がここに存在する理由は何なのか。
あかねは元気良く立ち上がると、台所にあった幸と自分の朝ごはんを居間の堀炬燵の上に並べる。
そして、もう一度、台所に戻ると、おひつを開け、中を覗く。まだ、ご飯が残っている。冷蔵庫を開けると鮭の切り身が残っていた。
「おじさんにおむすびを作ろう、朝ごはんは大切だし、三人で食べる方が楽しい」
慣れない手つきであかねがおむすびを二つ作り、皿に載せた時、幸が戻ってきた。男もすぐに戻ってき、玄関を施錠する。本当に朝刊を取りに行って戻って来ただけというほどのものだ。
「え、あかねちゃん、その大きいおむすびは」
「おじさんにって思って」
「ありがとう。お父さん、幸が作っても朝は食べないけど、あかねちゃんが作ったのなら気を使って食べるかもしれない」
にっと幸が笑う。振り向いて男に言った。
「三人で朝ごはんを食べよう」
「えっ、ああっと、父さんは」
幸がぐっとあかねの作ったおむすびを差し出す。
「健気な小学四年生が小さな手で握り締めたおむすび、一緒に食べようと結んだおむすび、まさか、食べないなんて言わないよね、お父さん」
「・・・ありがたくいただきます」
男は仕方なさそうに笑った。

掘り炬燵を囲んで朝ごはんを食べる。
「朝、食べるのは、ここに住んで初めてかもしれない」
「朝は食べる方がいいんだよ」
「そうなんだけどね。そういう和やかさとか、落ち着きみたいなもののと縁がない家だったからさ」
幸が興味深そうに男の顔をのぞき込んだ。
「ん、どうしました」
「お父さん、正直に言いなさい、五年前、何をしたんですか」
「えっとさ、ん・・・、あれ、思い出せないや、しょうがないな、もう、父さん、齢だからなぁ」
「五年前」
あかねが呟いた。
「見張っていた人、五年前に、お父さんに会ったことがあるらしくてね、お父さんのこと、随分と脅えていたんだ」
幸があかねに言う、しかし、これは男に聞こえよがしに言ったものだった。
「でも、おじさんはとってもいい人だから、相手の人がとっても悪い人だったのかもしれない」
「あ、ちょっと思い出した。彼はとっても悪い人だった、うん、そうだ、そうだった」
「お父さん。いまの、とっても苦しいです」
「ごめん」
男が少し俯く。
「父さん、以前は悪い人だったからさ、そういうの、幸に知られたくないんだ」
「合格、百点満点です」
幸が笑った。
「合格できましたか」
「はい、おめでとうございます」
「安心した」
「お父さんの過去は聞かないよ。今のお父さんが幸の大好きなお父さんだから。それに、幸の過去も人に言えるようなもんじゃないし」
「お姉ちゃんって」
「お父さんに助けてもらうまでは、最悪だったんだ」
幸は俯くとじっとテーブルを睨みつける。
涙がひとつ零れる。
「こうして安心して三食いただくことができる。暖かい布団にも寝ることができるし、お父さんはとても大切にしてくれる,、我が儘言っても怒らずにいてくれる」
幸の瞳からつらつらと涙が流れる。
「とっても、とっても、毎日が楽しい、楽しすぎるくらいなんだ。うわぁ、涙止まらない、顔、洗ってくる」
幸は立ち上がると、あたふた、洗面所へ走っていた。
「お姉ちゃん」
あかねが小さく呟いく、そして思い切ったように男に話しかけた。
「おじさん、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「おじさんはお姉ちゃんが美人だから好きなんですか」
「おじさんはね、美醜が良く分からないんだ。普通の生活を送ってなかったからね」
男は仕方なそうに笑う。
「そうだね、親が子供を大切に思うことに理由付をするのは案外難しい。ただ、敢えて言うなら、幸はおじさんのことをとっても大切に思ってくれている。大切に思ってくれている人を好きになることはたいして不思議じゃない、そうじゃないかな」
「それは恋人としてでしょうか」
「否定しづらいな。おじさんがもっと若くて、ずっと良い人間だったら・・・、親子じゃなく、夫婦を選んだかもしれない。あかねちゃん」
「はい」
「人はその場に存在するにはそれなりの理由がある。おじさんと幸が一緒に生活するのも、お互いの足らない分を補っているんだと思う。それは、いまの、あかねちゃんにも言えることだ」
「それが私のここにいる理由」
「そうだね、おじさんはあかねちゃんが尋ねることに素直に答えた。それは、そうするのがいいと思ったからだ」
「お姉ちゃん、見てきます」
あかねの言葉に男はそっと笑みを浮かべた。

あかねは立ちすくんでいた。洗面所の前、大の字になって、幸が仰向けになって寝転がっていた。顔には白いタオルを被せて。
「お姉ちゃん・・・、お姉ちゃん」
あかねが大声で叫んだ。
「もう大丈夫だよぉ」
タオルの下から、幸が答える。
あかねは幸の横にひざまずくと、そっとタオルを取り去った。涙を流したままの幸がいた。
「昔のことを思い出すと発作が起こるんだ、でも、前ほどじゃない」
「お姉ちゃん、涙が止まらないの」
「涙流せるってのはいいな。人に戻って良かった」
幸が小さく呟く。
「前はさ、もっとひどかったんだ、大暴れだよ。大声で喚きながら、硝子や雨戸は割るし、お父さんに椅子や包丁まで投げ付けたんだ。でも、お父さんは怒らないんだ。それに避けないんだよ、椅子も包丁もテーブルも。どうしてかわかるかな」
「わからないよ」
「こうやって投げてくるのも、それは幸の言葉だから、避けたりせずにちゃんと、受け入れるよ、なんて言うんだ。もう、参ったよ。そんなこと、言うなんてさ」
幸が右手をあかねに伸ばした、あかねはそれを両手でしっかり掴むと、ぐっと引っ張り上げた。
そのまま、幸は上半身を起こすと、あかねをしっかり抱き締める。
「幸はあかねちゃんのお母さんじゃないけど、そんな気分で抱き締めてあげよう。人のぬくもり、大事にしよう」

三人は朝ごはんを終えると、男は部屋に戻り仕事の続きを、幸とあかねは庭に出て、鶏小屋の相談を始めた。

ふと、黒服が目を覚ました。地面に座り込みブロック塀にもたれ掛かっている自分に気づく。
あまりの恐怖に意識を失ったのだった、五年前の惨劇が目の前によみがえる。黒服は男の言葉を思い出した。
慌てて、左腕の袖めくりあげる。「無」と一文字、痣が浮かんでいた。
一年過ぎた後、その痣はお前の体を蝕み腐らせて行くだろう。だから、ちょうど一年後、俺の目の前に現れろ。その時のお前次第で、痣を消すかどうか、考えてやる。

たんたんと金づちで釘を打つ音が聞こえる。
男は部屋で事務仕事をこなしながら、聞くともなしにその音を聞いていた。先程まで、止まり木を上から吊るすか、下から支えを用意するかで悩んでいたようだが、どちらかに決めたのだろう。
板を鋸で切る音がした、長すぎたのかな。
金網を買いに行かねばならないだろう、昼までに仕事を片付ければ買いに行くことができるなと、男は思う。
俺に足らないものはたくさんある、これを幸が補ってくれているのだなと、男はつくづく思った。

「お姉ちゃん、これ、大きすぎないかな」
あかねが戸惑いながら言った。
「設計図と随分違うけど」
幸は両腕を組み、うーん、と唸る。
「設計図は希望的観測、ただ半分くらいで良かったかな」
およそ、床は十畳、高さは二メートルはある。まだ、骨組みと筋交いだけで、これから壁や屋根を張ろうとしていた。
「予定より鶏を増やそう、そうだ、アイガモを一緒に飼おうかな、でも一緒だと喧嘩するかも」
幸は気楽に言うと嬉しくてたまらないと笑顔を浮かべた。
「ところであかねちゃん」
「はい」
「鶏って何処で売っているか知らないかな」
「え、調べて・・・」
「うん、まだ」
幸が笑顔で答える。
「調べておきます」
あかねは溜息ひとつ、つくと答えた。幸がにっと笑うとあかねの頭をなでる。
「ありがと。頼りになります」

あかねが祖父宅へと戻る朝、三人は掘り炬燵に座っていた。もちろん、冬ではないので炬燵布団は使っていない。
男があかねに説明をした。
「もうすぐ、あかねちゃん。お父さんがここに来る。そうしたら、四人でおじいさんの所へ行こう。向こうにお母さんが待っているから、しばらくは、おじいさん宅で三人暮らすことになるだろうと思う」
「お父さん、あかねちゃんのおじさんて奴、どうしよう、すぱっと斬っちゃおうか」
男は困ったように笑みを浮かべると、幸の頭をこつんっと小突く。
「さらっと、日常会話の中に斬るとか入れないように」
「はぁい」
男は幸の頭を軽く撫でる。
「あかねちゃんが高校を卒業したらって話はしたろう」
「うん、それ、楽しみなんだ」
「お姉ちゃん、ありがとう」
幸が、にひひと笑う。
「叔父さんがなくなったら、あかねちゃんにその跡をってなるから面倒なことになる。叔父さんには元気に生きていてもらう方がいいってこと」
「面倒臭い話だ」
幸が小さく溜息を漏らした。
男がふっと後ろを向く。
「通りを曲がって、あと三分ってとこだ」
男はあかねの父親がやって来るのを感じた。
「あかねちゃんのお父さんの後ろ、五人、お客様がいるよ。幸が挨拶に出てもいい」
「父さんも行くよ、あかねちゃんもこれからのことを考えると見ておいた方がいい」
「それじゃ、お父さんはあかねちゃんの護衛役」
「そういうことだな」
幸が引き込むようににぃいっと笑った。
「止めちゃだめだよ。ね、お父さん」