遥の花 十話 最終話

花見と言っても、桜の花を愛でるというような風情はない。所狭しと屋台の並んだ先、公園を一歩入れば、満開の桜が青い空をその無数の花びらで見事に遮ってしまう。
しかし、一度、視線を落とせば、ビニールシートの青が辺り一面、賑やかな花見客が持参する小さな空にあちらこちらと埋め尽くされている、まるで、空にいるようなものだ。
男はビニールシートの端に座り、缶ビールを少しずつ飲んでいた。商店街の花見、幸がしばらく前から、週に一度、魚弦で1時間ほどだが、手伝うようになり、そのよしみで男も商店街の花見に参加したのだった。
「先生が来てくれるなんてびっくりだよ」
洋品店の女店主が男の前で笑った。しばらく前に膝を痛め、折り畳みの座椅子にすわっているのだが、それが正座する男の背の高さにあい、ちょうどいい話し相手になっていた。
「私も、こう賑やかなところは初めてですね」
男は笑顔を浮かべると、缶ビールを横に置いた。
「昼下がりの暖かな日です、見上げれば桜色の空」
「いいねぇ、贅沢だ」
女店主は笑うと重箱に詰めた巻き寿司を一つ食べる。柔らかな日差しが心地よい。
「幸ちゃんもすっかり元気になったねぇ」
「幸はしっかり働いていますか」
「佳奈ちゃんの横で声張り上げているよ」
「良かった」
「先生は幸ちゃんのことになると、ほんと、うぶな少年みたいな顔になるねぇ」
「この齢で少年と言われても褒められた気にはなりませんが」
「褒めちゃいないってことさ」
女店主は声を出して笑うと、重箱を男に差し出した。
「今年はあたしじゃなくて、娘が作ったからさ、少し甘すぎるけど食べてみなよ」
「ひとつ、いただきます」
男が一つ巻き寿司を食べる。
「美味しいですよ、娘さんというと、お姉さんの方ですか。確か、妹さんは、どちらでしたっけ、嫁ぎ先が遠かったような」
「妹の方は結婚して正月くらいに、ちょっと顔を見せるくらいさ。姉は結婚もせずぐずぐずしているからさ、巻き寿司でも作りなって言ってやったんだよ」
男は笑って頷くと、もう一ついただきますと巻き寿司を食べる。
「先生さ」
「はい」
「姉の方の涼子をさ、嫁にもらってくれないかねぇ」
男は笑いながら、首を横に振った。
「この齢で結婚は勘弁してください。もう元気もありませんし、幸との二人暮らしが板に付いてしまいました。今は二人でちょうどなんですよ」
「でも、幸ちゃんもずっと先生と一緒というわけにいかないだろう、その内、好きな男連れてくるじゃないかい」
「どうなんでしょうね、来たらどうしましょう。虚勢を張って物分かりのいい親父を演じるか、それとも、聞きたくないと逃げ出すかな」
男がほんの少し溜息を付く。
「先生、幸ちゃんに惚れてるんじゃないかい」
「そうかもしれませんね」
女主人が呆れて笑った。
「相思相愛だねぇ」
「え」
「昨日、幸ちゃんと珈琲飲みながらさ、言ってたよ。自分がお父さんのお嫁さんになるってさ」
「それは、なんて嬉しいこと」
男が笑う。女主人も釣られて笑った。

ふと女主人は真面目な顔になって男に言った。
「幸ちゃんからあの話は聴いたかい」
「あぁ、商店街のイメージガールとかいうのですよね」
男は笑みを消し、缶ビールを一口飲む。

「幸は絶対嫌だ」
女主人の肩を揉みながら、幸が言い切った。
「わっ、びっくりした。幸ちゃん、いつの間に」
幸はにっと笑うと、それには答えず男に言った。
「お父さんも嫌だよね」
「そうだな、あまり目立ち過ぎるのは良くない。週一でお店を手伝わせてもらうくらいでちょうどいい」
幸はほっと安堵の表情を浮かべる。
「母さん、幸にも色々とね、事情があるのさ」
幸は女主人に笑いかけると、今度は首の後ろ辺りを柔らかく揉み出した。
「母さん、気持ちいいかな」
「なんだか、背中が軽くなっていくようだねぇ」
「母さんは少し猫背、もっと胸を張ってえらそうにしてください。お喋りはとってもえらそうなんだから」
「はは、幸ちゃんに叱られた」
女主人が気持ち良さそうに笑う。
「ね、お父さん、デートしよう。せっかくの桜だもの、恋人同士は桜の下で愛を語らなきゃ」
「父さんは愛よりも食い気だな、屋台が気になってしょうがない」
男はすっと立ち上がるとブールシートから降り、靴を履く。
「母さん、行ってくるよ」
「あぁ、いっといで」
幸は女主人に笑顔を浮かべると、男を追って走りだした。

二人が出掛けた後、ふっと佳奈が女主人のところにやって来た、商店街の大所帯、人が多く、二つに別れて花見をしていた、男どもが騒いでいるのは一つ向こうのブルーシートだった。そして、佳奈は男共の酒の世話をしていたのだった。
「おつかれさん。なんだか、向こうは賑やかだねぇ」
佳奈はお茶を一口飲むとほっと一息ついた。
「男は女を召使いか何かぐらいにしか思っていないんですよ」
「男なんてそんなもんさ、昔、亭主もそうだったねぇ。大酒飲んで、女房こき使うのが、男の甲斐性のように言ってたもんだ」
佳奈は頷くと、一つ、巻き寿司を食べた。
「美味しいです」
「涼子に作らせたのさ。まあまあって感じだね」
「涼子ちゃん、もう随分、見ていないですよ。確か、学校の先生でしたよね」
「教師もこの頃は忙しいらしいよ。あたしですら、たまにしか顔を見ていないんだ」
女主人は一つ溜息を付き、ビールを開けた。
「さっき先生にね、涼子を嫁に貰ってくれって言った」
「うわっ、それで・・・」
「躊躇なく断られてしまった」
「そりゃそうですよ。先生、幸ちゃんに恋愛してますもん、で、先生、生真面目だから、そんな自分を許せないというか、感情を抑え込んでいますから」
女主人がにやっと笑った。
「純な男は少しばかり苛めたくなるねぇ」
「人が悪いなぁ。でも、面白いですけどね、そういのは」
「ただ、問題は親子だってことだ。最近は世の中が変になってか、親子ほどの齢の差の夫婦も珍しくはないけど、でも、本当の親子ではねぇ」
「大丈夫ですよ、だって、本当の親子じゃ・・・。うっ」
女主人が驚いたように目を見開いて佳奈を見つめた。
「それじゃ・・・、男共の様子を見て来ます」
立ち上がりかけた佳奈の裾を女主人がしっかりと捉えた。
「待ちな。そういう面白い話は最後までしておくれ」


「うわぁ、佳奈さん、喋っちゃった」
「どうしました」
男は隣りを歩く幸に話しかけた。
「あのね・・・、前にね、佳奈姉さんに買い物付き合って貰ったとき、ちょっと喋っちゃった」
「なんて」
「あの、あのね。お父さんは本当のお父さんじゃない、だから、幸はお父さんを一人の男として愛することができるって。・・・ごめんなさい」
「それを、いま、佳奈さんが洋品店の叔母さんに喋ってしまったってことか」
男はくすぐったそうに笑った。
「戻ったら、どんな顔して出迎えてくれるかな」
「お父さん、怒らない」
「どうして」
「だって」
男は少し笑うと立ち止まった。
「ちょっとビールでね、父さん、酔ってしまっているのかもしれない。だからかな、それが楽しく思える、不思議だな」
「お父さんは酔っ払いだ」
幸は笑って男の腕を抱きかかえた。

ただ、心配です、あなたのことが
私のことですか
はい、あなたの日常を崩してしまうやもしれません
私の日常は
私がいることで商店街の皆様とあなたの間に諍いが生じれば大変なことになります、ただ、私が皆様の希望をお受けすれば、きっと、たくさんの人達に私の存在が知られ、良くないモノ達が現れるようになります
さて、まず、何から申し上げましょうか
はい
私の日常、それは君が私の隣りに居てくれること、それが私の大切な日常なのです。それ以外の日常は私にはあり得ません。そして、君がたくさんの人達に祭り上げられるのは、昔、君が人身御供になったことと、私には重なるのです。だから、私はどうしてもそれを認めることができないのです。
君が思う以上に、私には君が必要なのですよ、君がとても大切なのです。
あなたは本当に私を大切にしてくださいます、私はあなたにどれほどのものをお返しできるでしょうか。
もしも、かなうなら。
はい
いつまでも君の隣りにいさせてください。それだけが私の願いです。
わたしのようなもので良ければ、必ず。

「そうだ、お父さんにいわなきゃ、って思っていたことがあるんだ」
幸は見上げると、にっと笑った。
「何をです」
「幸は一杯勉強しているよ、昨日、DNAの本を読んだんだ」
「遺伝子とかだったかな」
「幸はお父さんから体をいただいた、つまり、お父さんと幸のDNAは同じってことだよ、一卵性双生児みたいに、普通の兄妹や親子よりも、ずっとずっと近い存在なんだ。これは幸にとって、とっても嬉しいことなんだ、お父さん、手を出してみて」
幸は男の左手を取ると、自分の掌の指紋と見比べる。
「あ・・・、指紋は違うなぁ」
「指紋まで一緒というなら同じ人になってしまうよ、幸は幸という個性なんだからね」
男は笑顔を浮かべると幸の手をそっと握った。
「幸の手は柔らかくて優しい感じがするよ」
男は手を離すと、自分自身の掌を見つめた。
「父さんの手はざらざらだ」
男は笑うと後ろ手に両手を組む。
「それがお父さんの個性なのです。幸は好きだよ」


「つまりはだよ、先生は幸ちゃんが商店街のイメージガールにならないほうがいいと言ってる、で、幸ちゃんも絶対嫌だと言っている」
「本当の親子じゃないってことは秘密ですよ、誰にも言わないでくださいよ」
「大丈夫さ、あたしゃ、佳奈ちゃんよりずっと口が堅いさ」
女主人は笑うと、腕組みをして考える。
「そうか、駆け落ちだな。これは」
「変なこと考えないでくださいよ」
「いやいや、つまりはだ。先生と幸ちゃんは相思相愛、惚れあっている。しかし、親子ほどの齢の差、幸ちゃんの本当の親が認めるはずがない、で、二人、駆け落ちをした。しかし、ここで、商店街のイメージガールなんてことで盛大に顔を出したら・・・。うん、面白い、なんかわくわくするね。先生も人畜無害な顔してるくせにやることはやるもんだ」
佳奈はどう収めれば良いのか、思い浮かばずうろたえていた。
「よし、あたしゃ、応援するよ。二人を添い遂げさせてやろうじゃないか。一肌も二肌も脱いでやるよ」
「あ、あの、おばさん」
「ん」
「あの、えっと、あの二人は、多分、ですけど、こういうどっちともつかずの状態を楽しんでいる、と思うんですよ」
「そりゃ、どういいことだい」
「恋愛中というか、そういう、なんていうのかなぁ、甘酸っぱい時代を楽しんでいるというか」
「しかし、先生もいい齢だよ、っていうか、いい齢なんかとっくに過ぎちまってるよ」
「でも、幸ちゃんにとっては、今のこの関係が」
女主人は、うーんと唸り考え込んだ。
「そうだねぇ、なにも女が男に合わせなきゃならないわけじゃない。幸ちゃんには、まだまだ、楽しむ時間が必要なのかもしれないね」
「そうですよ、幸ちゃんもあの齢で主婦やらせるのは可哀想ですよ」
「しょうがない、当分、見守ってやるだけにするかねぇ。うん、ほら、噂をすればだ」
佳奈が振り返るとタコ焼きの包みを両手に幸が駆け寄って来た。男はお好み焼きの袋を持っていた。
どうしよう・・・、佳奈は一人呟いた。
「母さん、佳奈姉さん、ただいま。タコ焼き、食べよう。お好み焼きもあるよ、リンゴ飴も」
男もブルーシートの荷物を置くと、
「それじゃ、ちょっと」
「あれ、先生、どこに」
「あちらで、ちょっとお喋りして来ます。佳奈さん、幸の相手してくれないかな」
「あ、あの。先生」
男はにっと佳奈に笑いかけると、もう一つの宴会場へと向かった。
「どうしたの、佳奈姉さん。顔色悪いよ」
けげんな顔をして、幸は佳奈に尋ねた。
「あ、あの・・・、喋っちゃった」
「なにを」
「えっと、あの」
幸は笑みを浮かべると、すっと人差し指で佳奈の唇に触れた。
「言わなくていいよ。幸は佳奈姉さんが好きなんだからさ」
手を離し、幸は女主人に話しかけた。
「母さんは歩くとき、膝を突き出すように歩く、だから膝を痛める」
幸は女主人の前に座ると、両手を女主人の膝に重ねた。
「母さん、膝全体が暖かくなってきたでしょう」
「なんか、膝の中が柔らかくなっていくようだ」
幸は手を離すと、立ち上がり、女主人の両脇に手を差し入れ立たせた。
「手を離すよ」
幸が手を離す、女主人は信じられないと自分の膝に触った。
「ぜんぜん痛くないよ、いや、以前より調子が良いくらいだ」
「でも、今までと同じ歩き方をしたら、また、膝を痛めることになる。ゆっくりとね、ちょっと、膝を伸ばし加減にして、足の裏、全体で地面に着くように歩くといいよ」
幸は笑うと、タコ焼きとお好み焼きの袋を開けた。
「いっぱい買ってきた、みんなで食べよう」


「大将、俺は感謝しているよ。幸が魚絃さんにお世話になってからさ、人見知りもなくなってね、本当にありがたいと思っている、でも、それだけは勘弁してくれないかな」
「先生、なにもたいしたことじゃなくてさ、商店街で作るポスターのまんなか、幸ちゃんに大きく笑顔で写ってくれればいいんだけなんだ」
男は困ったように笑顔を浮かべた。
「少しばかり事情があってね、幸を写真とかにね、写されたくないんだよ」
魚絃は腹を括ったように男を睨んだ。
「それは先生のエゴってもんじゃないかい」
「いや、事情があるんだよ、簡単に話せるような理由ならいいんだけど、詳しいこと、言うわけにいかないんだよ」
「みんな言ってるぜ」
「何をかな」
「先生が幸ちゃんを溺愛して、無理やり、そのなんだ、男と女の関係を作って、幸ちゃんを苦しめているってな」
「ん・・・、それは誤解だ。確かに大切な娘だからさ、愛しているって言っても間違いじゃないけどね。それは噂や妄想が一人歩きしているだけだよ。幸が働いていてさ、そんな陰があるかい、無理強いされてそうに見えるかな」
「それは・・・」
「頭下げるよ、今回の話はなかったことにしてくれよ。頼むからさ」
「こっちこそ頼むよ、先生。俺ら、もう決めたんだ、これで行こうってな」
いつの間にか、商店街の男たちが男と魚絃を中心に車座にすわっていた。
「息子が大学へ行くんだ」
魚絃の隣り、金物屋。
「大学のな、入学金がいるんだ、もうけなきゃならないんだよ。あの子が商店街に来てから売上があがってんだ。なんとか、ここでどんと儲けたいんだよ」
後ろからパン屋。
「近くにできたスーパーから客を取り戻すんだ、そのためにはポスター作って、幸ちゃんに商店街のテーマソングを歌ってもらうんだ」
男は小さく溜息をつく。
魚絃が駄目押しに、男に言った。
「商店街で先生に帳簿つけてもらっているのは、俺んちも含めて半分以上だ。それがなくなったら先生も辛いんじゃないかい」
男は寂しそうに笑うと立ち上がった。
「ここは引き下がらせてもらうよ」
男はブルーシートから出、靴を履いた。
「先生、わかってくれたのか」
魚絃が大声で言った。
「いや、明日にでもね、預かっていた書類、全部返すよ。俺は娘が最優先なんだ」
「馬鹿野郎」
罵声に、男は哀しそうな笑顔を浮かべ背を向けた。

「お父さん、どうだった」
幸が歯にアオノリを付けたまま、戻って来た男に話しかけた。
「予想どおりだった」
「そっか・・・。ごめんね、お父さん」
「あの、うちの亭主、先生に失礼なこと言ってなかったかな」
「ん、大丈夫だよ、佳奈さん。なんだかな、幸も佳奈さんも歯にアオノリがついている」
男はくすぐったそうに笑った。
「や、やだっ」
あわてて幸はお茶を飲んだ。
「先生、まぁ座りなよ」
「いえ、今日はこれでお暇します、急ぎの用事ができたものですから。幸、膝はどうだった」
「膝の半月板修正と軟骨の増強、母さん、普通に歩けるよ」
「それは上々」
男は笑うと背を向けた。幸はあたふたと靴を履き、男にしたがった。
「それじゃね、佳奈姉さん、後片付けお願い。母さんも気を付けてね」
幸はにっと笑いかけると、男を追って駆け出した。
二人の姿が人込みに紛れ消えて行く。
「先生って何者なんだい」
女主人が呟いた。
「え・・・」
「まるで普通の人間じゃないように見えた」
「へんなこと言わないでくださいよ」
「初めてだ、先生の後ろ姿が透けて見えたような気がしたんだ」
「そんなことあるわけないじゃないですか」
「そ、そうだね」
女主人は落ち着こうと、お茶を飲む。
「は、あれ、あたしゃ惚けちまったのかい」
女主人が叫んだ。
「佳奈ちゃん、先生の名前、名字はなんていったっけ」
「え、それは、それは・・・」
佳奈は自分も男の名が思い浮かばずにいるのに気が付いた。何だったろう、事務所の看板を思い出してみる、封筒に印刷された名前を思い出そうとする、下の会計事務所は思い出せるのに、どうしてだろう、始めから知らなかったかのように、男の名字が思い出せない。
「叔母さん、先生のとこ、行って来ます」
「なんだか変だ、頼んだよ」
「はいっ」
佳奈はあたふたと靴を履くと駆け出した。公園を飛び出す、公園の入り口には何件もの屋台が並んでいる。
辺りを見渡す、たくさんの人だ。
とにかく、先生ちへ行こう。
しかし、佳奈は立ちすくんでしまった。そして、力が抜けたように、膝をついて、しゃがみこんでしまったのだった。
「先生ち、何処だったろう」
呟いた。なんで、先生のとこ、思い出せないんだ、今まで、幸ちゃんと先生ちでお茶を飲んだり、それから書類の控えを持って行ったりしていた、道が分からないなんて、そんなことあるはずないのに。
佳奈は人目もはばからず叫んだ。
「先生、幸ちゃん」
「どうしたの、佳奈姉さん」
振り返ると、幸が両手に屋台で買ったお好み焼きの袋を持って立っていた。
「あ、あの、あのね」
「あ、姉さん、涙出てるよ、もう、しょうがないなぁ。お父さんは徹夜で書類を仕上げなきゃって帰っちゃったし、幸はさ、晩ごはん用にお好み焼き買ってたんだ。」
幸は少しかがむと、佳奈の目許を袖で拭った。
「佳奈姉さんは大人なのに迷子だ」
幸は笑顔を浮かべると、佳奈を立たせた。
「先生の家が分からなくなった」
「それはしょうがない。お父さんは幸を守るために、商店街の人達との十年間の縁とこれから先を切ってしまった、幸は、まだ佳奈姉さんや母さんと縁が繋がっているから、こうして会えるし、お喋りもできる」
幸は寂しそうに笑みを浮かべた。
「佳奈姉さん、お父さんの家を思い出そうとするのじゃなく、幸の家を、幸の家の場所を思い出そうとしてごらん」
佳奈がほっとした顔をする。
「思い出せたみたいだね。しばらくはあの家にいるから、佳奈姉さん、遊びに来て。楽しみにしているから」
幸が歩きだそうとするのを、佳奈は両手でしっかりと止どめた。
「お願い、幸ちゃん。これじゃ、納得できないよ」
「困った・・・」
幸は背を向けたまま呟いた。
「場所を替えよう」
そう幸が呟いた途端、人の姿がすべて消え、全くの無音となる。取り残されたように屋台だけが立ち並ぶ。
「ここは」
「違う次元の世界、この世界には佳奈姉さんと幸の二人っきりだ。誰も聞き耳を立てる奴はいないから安心なんだ」
幸は屋台に設えられた丸椅子に座る、両手の袋を屋台の軒先に置いた。
「佳奈姉さん、お喋りしよう、隣り、どうぞ」
幸が優しく笑みを浮かべる、佳奈はほっとしたように幸の隣りに座った。
「すべて話すかな、でも何から話せば良いのかな」
幸は少しうつむいた。
「そうだね、幸のこと、そして、幸とお父さんの関係から話ししてみるか」
「幸ちゃんのこと」
「うん、正直に話すよ」
「ありがと」
佳奈が呟いた。
「佳奈さんは人の心を聞く。例えばね、誰もいないのに、いないはずなのに声が聞こえたことはないかな」
「今はほとんど無いけど、子供の頃は多かった」
「手を見せてみて」
幸は囁くと、佳奈の手を取り、手首を見る。
「守髪(もりがみ)が入っている。これはお父さんの父親の髪だ、縁があるのかな」
幸は自分の髪を一本抜くと、佳奈の手首に巻く。その髪は手首の中に融けるようにして消えてしまった。
「覚えているかな、子供の頃、男の人にこんなふうに手首に髪を巻いてもらったこと」
「そうだ・・・、思い出した、小学生の頃、法螺貝持ったしゅけんじゃ。いきなり目の前にやって来て、自分の髪の毛を抜いて、あたしの手首に巻いた」
佳奈はそっと笑みを浮かべた。
「もう大丈夫だよって言って、そのまま去って行ったんだ」
「佳奈姉さん、良かったね。幸はさ、出会えなかったんだ、そういう人に」
幸は笑みを浮かべると、視線を外し少し俯いた。
「声の主は、妖怪、あやかし、魔物、或いは祟り神と呼ばれている奴らだ。声を聞いてしまえば引かれて食われてしまうよ」
「本当にいるの、そういうの」
「いる、でも、佳奈姉さんは大丈夫だ。幸の守髪はそんな奴らを微塵も寄せ付けない」
にっと笑うと幸は佳奈の手を握った。
「あたしのいたところは・・・、ううん、幸のいたところは迷信深いところでね、祟り神を畏れ敬っていた。幸は霊媒体質で、心の声も聞く、ついでに随分と美人だ、きっと神様もご満足いただけるだろうと人身御供、生け贄にされたんだ。」
「そんなことが今でも・・・」
「百年以上昔の話さ。あたしは祟り神の腹の中で百年、生きていた、つまりもう人間じゃなくなっていた。あたしは祟り神に使役されていた、男を女の魅力で引き込んで、そいつを祟り神に食わせる、餌みたいなものだ」
幸は佳奈から手を離すと、空をぎゅっと睨みつけた。
「そんなことが本当にあるの」
「現実を一歩踏み違えて、穴に落ち込んだら、そういう奴らが口を開けて待っているのさ」
幸はふっと息を漏らすと佳奈に笑いかけた。
「信じてくれる、佳奈姉さん」
「信じるよ、第一、こんなさっきまでたくさんの人達がいたはずの桜の公園が、本当に今、幸ちゃんと二人っきりになっているんだから」
「ありがと」
幸は小さくふふっと笑うと嬉しそうに言った。
「お父さんに会ったのは、およそ二年前。いつものように男を引き込み、体売って、祟り神に食わせる餌になって、そう、いつものように・・・」
「お父さん、違ったんだ。あたしが裸でベッドにいるんだぜ、どんな男でも理性なくしてむしゃぶりついてきた。でも、お父さんは世間話をするんだ。そして、祟り神が正体を現わした時、あっけないくらいあっさりと、奴を退治して、あたしを助け出してくれたんだ」
「でもね、あたしは既に人間じゃない、奴と一心同体みたいなものだった、だから、あたしも死んでいくしかなかったんだ」
「そのとき、お父さん、こう言ってくれたんだ。生きることを選びなさい、私の命を半分あげようってね」
幸は呟くように言うと、自分の手のひらを見つめた。
「この体も血も命も、お父さんに半分分けていただいたもの。この体にはお父さんと同じ血が流れているんだ」
「だから、幸ちゃんはお父さんが好きなの」
「それもある、でも、本当に女としてあの人に惚れたんだ。もう、あたしには親も姉弟もいなかった、救い出してもらっても行くところなんかなかった。あの人はそれなら私のところに来なさい。年齢的にも親娘でいいでしょうって言ってくれた。あたし、今なら妻にしてくださいって言ってたかもしれない」
「一緒に暮らすようになってね、幸せになりなさいという思いを込めて、お父さんはあたしに幸という名前をくれたんだ」
「普段の先生からは想像がつかないよ」
「そうだよね、お父さん、もっとかっこいいとこ、外に出したらいいのに。地味で正直が一番楽って言ってるんだから」
幸は少し声を出して笑う、とても幸せそうな声だった。
「ただ、お父さんにはとても迷惑かけた。佳奈姉さんに初めて声をかけてもらった時」
「背中向けてうずくまってたね」
「大きな声がとても怖かったんだ、だから、佳奈姉さんに声をかけてもらってとても嬉しかった」
佳奈が照れ臭そうに笑う、まるで少女のような幼い笑みだった。
「お父さんのところに来た頃、いつもはね、人が怖くてね、おとなしくしているけど、たまに、なんだか不安で一杯になって、もうわけ分からなくなって、大声あげて意味の分からないこと喚き出したり、障子やふすまを破ったり、硝子割ったりもした。もう、自分自身がどうしようもなくなるんだ、そして最後には部屋の隅でうずくまってぶるぶる震える」
「お父さん、一度も怒ったことないんだ、抱き締めてくれて一緒に泣いてくれるんだ、もう大丈夫だよ、ここは幸の場所だ、安心していいんだよって、繰り返し言ってくれる。そして、こんなこと言うんだよ。棚がつぶれたりして大変だなぁって思うけど、板買って来て、こう、鋸で切る、その時、幸が板の片方をしっかり押さえてくれているの見ると、親子っぽくっていいなぁなんて」
「そう、嬉しそうに言ってくれる、幸の心はとろとろになる。あぁ、もう、お父さん、大好きって思ってしまうんだ」

「ただ・・・」
幸は微かに視線を落とした。
「お父さんは自分が死んだ後のことを考える、幸が一人でも生きて行けるように考える、お父さんは凄い武術使いで、映画に出て来るような魔法使いだ。お父さんは全ての術を幸に教えてくれた。どんな敵にも勝てるように。そして、たくさんの友達が出きるようにも考えてくれた、佳奈姉さんにこうしてお喋り出きるのもそうだし、いろんな友達や知り合いもできた、幸一人じゃ、到底できなかった」

幸はふっと顔を上げ佳奈に言った。
「幸はとても美人だろう、性格はともかく」
「うん、見れば見るほど完璧な美人だと思う、性格は・・・、だけど」
「微妙な言い回し、ありがと。でもね、結局は、美人ってのが問題なんだ。この美人ということで、神様が喜ぶだろうと生け贄にされた、そして、今は商店街の男達が売り上げ向上を狙って幸を御輿に載せようとする」
「亭主もその話になると眼の色変わっていた。何考えているんだ、こいつって思ったよ」
「幸は一度魔物にさらわれた身だ、魔物を引き込みやすい体質になってしまっている、その上、そんな思いが膨れあがっていくと、いろんな妖しい奴らが近づいてくる。いろんな面倒ごと、不可思議なことが増えていく、その内、みんな頭が固まってしまって、もう助かるにはこれしかないって幸は妙な神様に捧げられてしまうのさ」
幸は沈んだ表情になると少し猫背になり頬杖をつく。そして、ひたすら前方を見つめた。
「顔に傷をつければ、こんなことはなくなるだろう。ざっくりと頬にでも切り傷をつければいい」
佳奈は幸の沈んだ声に驚いた、幸の表情を長い髪が隠している。
「でも、この体はお父さんにいただいたもの、この体には絶対に傷をつけない」
ふっと幸は背伸びをすると大きく深呼吸をした。
幸は佳奈に笑顔を向けた。
「佳奈姉さんにはとっても大切にしてもらった、幸のこと、気にかけていただいた。だから、幸のこと正直に話したんだ」
「どう、答えればいいかわからないよ。話が重すぎて」
佳奈はひとつ溜息をつくと、幸を見つめた。
「お姉さん、幸ちゃんの頭、なでて上げるよ」
「うん、ありがと」
佳奈が幸の頭をなでる。
「幸ちゃんはえらいよ、がんばった」
「うふふ。頭、撫でられるの好き」
そして、幸は立ち上がると佳奈の後ろに立ち、そっと佳奈の頭を撫でる。
「気持ちいいでしょ」
「いいね、気持ち良い」
「佳奈姉さん、今回のことで、大将たち男を怒っちゃだめだよ」
「殴ってやろうかと思う」
「それはだめ。もともと男なんてガキで我が儘な種族なのさ」
「先生も」
「お父さんは別、だって、幸のお父さんだもの」
佳奈は愉快に笑った。
「あ、お父さん、引き返して来た。元の世界に戻るよ」
その一言で、二人の回りにはたくさんの人達が行き交う公園入り口の前に世界は姿を替えた。

「お父さーん」
幸が男に声をかける、男は笑顔で手を振った。
「遅いからどうしたのかと思った」
「幸が襲われたと思った、誘拐されたって思った」
「いや、幸が誰かを襲ってんじゃないかとひやひやした」
「わっ、ひどいな、それ。幸は優しい女の子なのにさ」
幸が佳奈に同意を求める。
「幸ちゃんはかわいい、かわいい」
「感情がこもってないよ」
佳奈が愉快に笑う。
「ほんと、良い子だ」
男がすまなそうに笑った。
「佳奈さんには迷惑かけて申し訳ない」
「本当に男ってのはどうしようもないバカタレだよ」
「はは、返す言葉がないよ」
「先生、聞きたいんだけどさ」
「なんだい」
「あたしらは友達かい」
「ああ、共通の特技を持つ友達だ」
「これからもかい」
男は柔らかく笑顔を浮かべた。
「もちろん、これからもね」
「安心した、これが一番の安心だよ。先生は嘘だけはつかないからさ」
男がくすぐったそうに笑う。
「いい人だよ、佳奈さんは」
男がそっと幸の頭に手をやる。
「佳奈さん。幸は佳奈さんを本当に自分の姉のように慕っている、これも縁というやつなのかな。我が儘なところもあるだろうけど、これからもよろしく頼むよ」
「ええっ、幸は我が儘じゃないよ。自分の意見を優先するだけさ」
「楽しい妹だ。飽きないねぇ」
「それじゃ、佳奈さん、帰るよ」
「母さんも一緒に来てね、仲間はずれにすると叱られちゃうよ」
「ああ、そうするよ」
佳奈は小さく溜息をつき笑顔を浮かべた。
男が少し会釈をする、背を向けようとしたとき、佳奈は思いだしたように言った。
「先生」
「ん・・・」
「あのさ、言いにくいんだけどさ・・・、怒らないでよ。先生の名字や名前なんだったけ」
「うわ、ひどいなぁ。十年以上のつきあいだよってね」
男はポケットから名刺入れを取り出し、ペンで名前を書き込んだ。
幸がその名刺を取ると、佳奈に手渡した。
「由緒のありそうな名字に名前だ、似合わないね」
「ああ、だから、誰にも教えなかったのさ。初めて人に教えたよ」
「えっ・・・」
佳奈が顔を上げた瞬間、男の姿がふいっと薄れそのまま消えてしまった。
「本当にお父さん、魔法使いでしょう。恥ずかしがり屋のね」
「うわぁ、面白いねぇ」
「それじゃあね、必ずだよ」
「ああ、明日にでも行くよ」
「楽しみにしてる」
幸は一瞬、寂しそうな表情を浮かべたが、にっと笑うと手を振り駆けだした。
幸の姿が人影に消えるまで佳奈はそのまま見送る。
ふいに佳奈はしゃがみこむと、小さく溜息を漏らした。
先生や幸ちゃんと行くのもありなのかなぁ、そんなふうにも思う。
でも、子供の顔を思い浮かべると、あいつらをしっかり育てなきゃって思うし、蹴っ飛ばしてやろうかという亭主だけど、あれでいいとこもある。
あ・・・、泣いているのかなぁ、涙出ていないのに。
「どうだったい、佳奈ちゃん」
「あ、おばさん」
女主人が駆け寄って来た。
「遅いからどうしたんだと思ってね」
佳奈は立ち上がると、少し笑った。
「幸ちゃんが明日、遊びに来てって言ってましたよ」
「そうか、会えたかい。良かった」
「本当に膝、大丈夫になったんですね」
「前より調子いいくらいさ。ん・・・」
女主人が佳奈の顔をのぞき込む。
「泣いてんのかい」
佳奈はなにも言わず、女主人にしがみつくと小さく小さく泣きだした。
おとうさん
ん、どうしました
幸はなんだか割り切れない複雑な気持ちだ、こんな変な気持ち初めてだよ
哀しいとか、楽しいとかね、人の気持ちってのは、そんな単純に表すことはできない
哀しくて楽しかったり、相反する気持ちがいろいろ混ざり合って人は苦しむ
つまりは、幸が一人の人として成長したってことだ
人になるっていいことばかりじゃないね
そうさ、でも・・・。本当に嬉しいなぁってこともあるからさ、たまにはね。


終わり