遥の花 藍の天蓋 ラズベリーパイ

智里は緊張していた.忍び込んで要人を暗殺したことはいくらもある。でも、お昼前のこの時間に呼び鈴を鳴らして訪問するなど初めてのことだった。
大丈夫、押して、音が鳴って、香坂さんが出てくれば、営業スマイル、こんにちはと言えば良いだけだ。
いや、これはインターホンだから、まずはどちらさまという声が出る。明るい声で喫茶店の名前を言えばいい。
智里は大きく深呼吸をすると、ボタンを押す。
「どちらさま」
後ろから声がした。素早く右に寄りながら反転する。攻撃を避け、状況を確認するためだ。
女の子、智里はほっと息を漏らした。
「こんにちは、智里さん。十分間、うちの前で硬直してましたね」
にかっと笑う女の子は香坂の娘、円(まどか)だった。
驚いた、確かに呼び鈴のボタンに気を取られていたのは確かだけれど、背中に人の気配を感じ取れなかったなんて、それでも、智里は緊張を抑え、笑顔を浮かべた.
「こんにちは。今日はお伺いして、お母様にお話をうかがおうと」
「知ってますよぉ、昨晩、母さん、大変でしたよ.どこまで喋ったらいいんだろう、これはいいか、あれはまずいかって。で、母さんに言ってやったんです。喫茶店のマスターに頼まれたんだから、何もかも喋ったらいいんじゃない、がつんと言っちゃえ、って」
円は戸惑うことなく、智里の手を取ると、門扉を開いて中に入った.
普通の住宅街の一軒.ただ、家の大きさは隣、正面の家と比べて二回りは小さいだろう、代わりに庭が大きく取られ、中央に大きな樹、あとで教えられた名前だがカイノキというらしい、それを囲むようにたくさんの花が植えられている。そして、敷地を囲むように刺のある背の低い潅木が植えられていた.これもあとから教えられた名前だが柊という.
木の根元に白いテーブルと椅子が三つ、置かれていた.
「智里さん、いらっしゃい」
香坂がサンダルをつっかけ、家から出てきた。
「あ、あの。いつも、ご贔屓にありがとうございます。えっと、あの、あさぎからこれを」
戸惑いながら智里は紙袋を香坂に手渡した。
香坂が袋の中をのぞき込んだ。
「ラズベリーパイね、あさぎさん、覚えてくれていたんだ」
香坂は笑うと顔を上げた。
「以前、お店でいただいたとき、美味しくてね、ホールで食べたいなぁって言ったのよ」
香坂が子供のように微笑んだ。智里はそれを覚えていたのが男であると言いたかったのだが、それを言い出せず曖昧に笑みを浮かべた。
「さぁ、どうぞ」
香坂が智里を木の下の椅子に座らせる。
円がパイを受け取り言った。
「紅茶の用意をしてくるよ。母さんは智里さんとお話していて」
円が台所へと走っていった。香坂も智里の前に座ると、智里を興味深そうに見つめた。
智里は気まずそうに俯いていたが、意を決したように顔を上げた。
「私は暗殺や拉致、たくさんの人を殺しました」
香坂は頷くと、囁いた。
「それで、いま、苦しくて仕方がないということね」
香坂が目を細め、智里を見つめる。
「なるほど、こんな自分がこれほどに幸せでいいのか、と悩んでいるわけね」
香坂の言葉に智里が深く頷いた。香坂は背もたれに背中を預けるとふっと息を吐く。
「人を殺すのは悪いこと、どうしようもなく、それは悪いことなのよ。智里さん、わかるかな」
智里が頷いた。
「殺した人を生き返らせない以上、悪を為したことは消えないし、何かで補うってことも出来ない。でもね、そんなことは百も承知なわけ」
香坂がばしっとテーブルを叩いた。驚いて、智里は顔を上げた。
円の声がした。
「用意できたよ」
片方に半円のラズベリーパイとナイフ、もう片方で、器用に紅茶セットを持つ。香坂がパイを受け取り、テーブルに起き、円が紅茶セットを置いた。香坂が半円のパイを三等分する。
「横から見ても厚みがあるわねぇ、美味しそう」
香坂がうっとりとパイを見つめた。
「あさぎさんって、料理の天才だものね」
そう言って、香坂が自分の言葉に頷いた。
円が紅茶の準備をする。茶葉をまずは蒸らす。
「母さん、声聞こえてたよ。御近所迷惑だ」
円は笑うと、智里を見つめた。
「喫茶店のマスター、無とね、初めてあったとき、怖かったんだよ。なんていうかな、もう絶対に関わっちゃだめだ、すぐに逃げるんだって思ったよ。今はね、あんな、気のいいおじさんしているけどさ。幸さんがやってくる何年も前の話、怖かったよね、母さん」
香坂が深く頷いた。
「あれはねぇ。鬼よりも怖いよ、でも、それ以外、選択肢がなかったんだ」
香坂が顔を上げた。
「先に言うべきだったけど、私も暗殺者だった、政治家や官僚、大企業の重役、国の内外関わらず殺した、特に紛争地では息をするように人を殺した」
智里は信じることができなかった、とても品の良い婦人、そして可愛い娘、どこにそんな陰があるというのだ。
「本当に」
智里の言葉に香坂は頷いた。
「智里さんとは別の組織。でも、やっていることは同じだったと思う」
円はパイを三つに切り分けると、二人の前に置き、紅茶をカップに注ぐ。紅茶の香りが一気に膨らんだ。
「智里さん、まずは紅茶をどうぞ」
円の言葉に智里はカップを口まで持ってきたが、かなり動揺していたのだろう、口を付けただけでカップをテーブルに置いた。香坂が一口パイを食べる。
「あぁ、これ。この味だわ」
うっとりとしたように香坂が目を細めた。
円は智里に笑みを浮かべると、少し顔を寄せた。
「私はまだ小学生でした。私はすっごいお嬢様で屋敷には何人もの召使いがいたんです。お父様は忙しい方であまり屋敷にはいらっしゃらなかった。母ともあまり会ったことがありません、母は趣味と慈善事業に熱心で、私のことは女中と家庭教師に任せっきりだったんです」
智里は混乱していた、円さんは何を話してるのだ、母親は香坂さんで、それなのに、慈善事業がって、どういうことだ。
「夜中、珍しく私は目をさまして、お手洗いに行くため、廊下を歩いていたとき、父の書斎で呻くような声と物音を聞きました。そっと、ドアを開けると、父はナイフで首を刺され、崩れ落ちたのです」
円がすぃっと香坂を見つめた。
「私が犯人」
仕方なさそうに香坂が答えた。
「まさか仕事を見られてしまうなんて思いもしなかったし、そう、あれは、円の言葉に動揺したのよ」
香坂は一口紅茶を飲むと智里を見つめた。
「貴方は私の父を殺しました。これで、私の人生も狂ってしまいました、貴方はその責任をとることがでいるのですか。って小学生が私を見据えていうのよ」

「すっかり虚をつかれたわ。自分でも信じられないくらい動揺したの」
円が笑った.
「子供特有の素直な質問をしただけなのに、母さん、硬直したんだよ」
「私には円は人間じゃない、異質のものだって恐怖でいっぱいになったのよ」
香坂は告げ口する女の子のように拗ねた口ぶりで智里に言った。
「あ、あの、えっと。お話は戻りますが、円さんは香坂さんの子供では」
混乱しつつも、智里は言った。
円はわざと難しい顔をし、智里に言った。
「私、円は実の父を殺され、犯人に誘拐された哀しき乙女でございます」
「ついて行くって言ったのは円よ」
香坂が即座に否定した。
円は椅子の背もたれに背中を預け、紅茶を一口すする。
「不思議な程ね、悲しくなかった、父親が目の前で殺されたのに。流行の家族崩壊だったのかなぁ。ううん、それは本当じゃないな、多分、私は命の大切さ、それは自分の命も含めてだけど、命の大切さを知らなかったんだと思う、あの時までは」
「あの時」
智里が聞き返した。
円がすっと香坂に視線を送る。香坂も重々しく頷いた。
「私は円を背負って屋敷を飛び出したのよ、すっかり、円に飲み込まれていた。子連れで組織に戻ることもできないし、ということは、組織を抜けたとなる、追っ手がやって来るのは確実。どうすればいいのか」
香坂はふっと言葉を飲み込み、少し冷めた紅茶を飲み干した。
「私の師匠は無の知り合いだ、おおよそ、どこいらかに無が住んでいることは知っているって程度だったけど。そうだ、私は無の傘下に入れば、安泰だと思った、幸ちゃんが来てからの、人の良いおやじじゃなかった頃の無に睨まれて無事な組織なんてなかった」
智里も以前から、無の噂は聞いていた。和やかな男を思うと噂が噂を呼び、恐ろしい虚像を作り出していたのかなと思っていた、それだけに、以前の無の話は半信半疑ながらも興味深い話だった。
「円を連れてこの町の駅に辿りついた。ここだと思った、だって、私には一メートル先が無の結界で霧に包まれていたんだから」
香坂は腕を組み、少し体を起こす。そして、思い出すように目をつぶった。
「私は結界の中では異分子だ。いずれ、無があらためるためにやって来るだろう。その時、なにもかも話して、結界の住人にしてもらおう。額を地面に擦りつけてでも」

香坂の言葉に円はほおばったラズベリーパイを飲み込み笑った。

「改札口を出て、私と母さんは改札口すぐそこのバス停のベンチに座った。もうくたくた」
円が空を見上げる、青い空だ。
「大変だぁって顔を上げると、今日と同じ雲一つない青空。母さんには見えなかったろうけど。それがさ、一瞬で真っ暗になったんだ。私は体も心もくたくただったけれど、不思議と楽しかった。狂っているのかなぁ、自分の父親を私の目の前で殺した女と行動を共にしているのに。あの時は、あぁ、と大きく伸びをした瞬間だった」
円は俯くと、初めて不安げな表情を浮かべた。
「真っ暗になったんだ。何も見えない全くの闇。座りこんでいたバスのベンチの感触も消えて、瞬間、体が無くなった。意識だけが残ったんだ。気が狂うと思った、五感全てが無くなってしまう。こんなに心細くて、私、叫ぼうとした、でも、叫ぶ声すらないんだ。私には何時間も何日もに思えた。心の中でごめんなさい、ごめんなさいって呻いていた。永遠の闇だと思った、実際は一分くらいだったけど」

ふっと香坂が言葉を発した。
「二人して無の作り出す闇が消えて、光が戻ったとき、私には白い靄が消えて、すっきりとした青空が見えた」
香坂は智里に笑いかけると、ちょっと、恥ずかしそうに笑った。
「ごめんね、関係のない話を繰り返して」
「あ、あの。色々、驚きで」
智里はうまく言葉に出来ず言いよどんだ。
「智里さん、私も円もね、無には、いや、喫茶店のマスターって呼んだ方がいいのかな。感謝しているのよ、それは本当、間違いない」
香坂がいたずらげに笑った。
「ただ、幸ちゃんが来る前の術師としての無と邂逅したということを誰かに喋ってみたかっただけ。いまは本当に優しい良い父親しているもの、想像できないよ、あの頃から思えば」
円も笑うと、少しティーカップを口に運ぶ.
「私は死んだことになっていて、捜索されることもない.そして、母さんは学校の給食のおばさんとコンビニの掛け持ち、私は高校生.休みの日には母さんと木の下でお茶を飲んだり、本を読んだり、お喋りしたり.遥に貧乏だけど、今の方が、生きているなと思う」
円は紅茶を飲み干すと、香坂に顔を向けた.香坂も頷く.
そして、香坂が智里を見つめた.
「優しい人間より、悪人である方がすっきりしていいもんだ」
香坂が静かに呟いた.
「為した悪は消えない.殺した連中が夢に出てくる.それをなかったことにするのは意味がないんだよ」
智里は香坂の表情の変化に驚いた.確かにこの眼は数え切れないほどの死を目の前で見ている.
「連中と一人でやりあうのはどだい無理な話だ.ならば、助けてくれる味方を増やせばよいそれだけのこと」
ふっと、香坂はやわらかな笑みを浮かべた.
「前を歩いている人がハンカチを落としたとする、すっと駆け寄ってさ、ハンカチを拾って、落ちましたよと声をかける、すると、ありがとうって言ってくれる、人からのありがとうを集めてさ、連中が押し寄せてくるのは防ぐ、いくつも、いくつものありがとうを集めて、それを積み重ねて、確かに私は散々ひどいことをしたけど、いまは良いこと、善いこと、いっぱいしているんだ、たくさんの人たちが感謝してくれているんだ。たくさんの善いことを前に押し出して、連中を乗りきるのさ」
円はいつのまにかスマホを操作していた.そして、顔を上げると香坂に言った.
「ニュースだ.テロに失敗した連中が、人質取って立てこもっている」
香坂が紅茶をぐっと飲み干した、そして、立ち上がる.
「ハンカチ拾うのも、テロリストを殴って失神させるのも同じこと。命がかかっている分、ポイントが高い気はするけどさ」
「パスポートとか用意してくるよ」
円があたふた家の中へ走る.
「あ、あの。えっと」
智里があたふたと香坂を見つめた.
「実地研修させてあげる。要点は気絶はさせるけれど殺さないこと.テレビカメラに映らないこと、これくらいかな」
智里は思った.ああ、確かに二人はこちら側の人だ.智里もお腹にぐっと力を入れ、立ち上がった.

 

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