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Mar 11, 2020

ミニ豚を屠殺したことと、その目的について思うこと
西日本新聞 岐阜でミニブタ2頭検査なく処分 豚コレラ予防名目、愛護法違反か https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/470347/

岐阜県では、豚コレラが広がっており、防疫を目的に、ぎふ清流里山公園が飼育していたミニ豚2頭を屠殺処分にしたとのこと。 そのミニ豚がコレラに罹っているかどうかの確認をせずに屠殺したことと、愛玩目的のためのミニ豚だったらしく、問題となっている。その上、農林水産省も屠殺するまではなかったのではと言っているらしく、岐阜県も管理業者も大変だろうなと思います。

この記事に私が関心を持つのは、アドラー心理学から、見えてくるものがあるなぁと思ったからです。

記事抜粋開始

管理事業者が11月22日、「確実な防疫のため処分したい」と電話で県に相談。県は「やむを得ない」と判断し、

記事抜粋終了

何故、コレラの検査をしなかったのか、何故、せずに処分をしたのか。アドラー心理学では、トラウマは存在しない、人は目的のため行動するのだとしています。 正確には、トラウマは存在しない、ということではなく、トラウマは存在しないということにしておきませんかという提案だと、私は考えておりますけれど。

さて、屠殺処分をした事業者の目的は何か。
それは自分の管理やその能力を隠避するためであるのではと思います。
つまり、ミニ豚が豚コレラに感染していた場合、管理者として責任を問われることになるからです、また、今後もそのミニ豚が生きていると、現時点では感染していなくても、今後、感染するかもしれない可能性がある、その可能性を排除するためには殺すしかないと判断したのではないのかと思います。
つまり、自分の価値を維持するために他者を犠牲にする、アドラー心理学でいうところの他者の価値を低減することで、自身の優越性を維持する行為であると私は捉えます。

そして、では、何故、県は管理事業者の提案を受けいれたのか。本来ならば、そのミニ豚がコレラに罹患しているかどうかをまずは考えるのではないでしょうか。
私は、まさしく、県の担当者が「考えなかった」のではないか、と思っています。 昨日にも、少し書きましたが、「考える」とは、いくつかある選択肢の中で、一番、自分が幸福になる選択をするといこと、と捉えるなら、選択肢の中から「屠殺する前に検査するという」選択を選らべばよかったのに、それをしなかった。
それは、まさしく考えなかったのだと私は思います。
さて、ここから、「考えることを放棄した人」というキーワードを利用し、全体主義について、くどくど書いていこうと思ったのですが、年寄りなので、体力がありません、いずれまた。
2018.12.04


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