普段着の文章

物部俊之 日誌 「私はこう考えますけど、あなたはどうですか」




ミニ豚を屠殺したことと、その目的について思うこと

西日本新聞 岐阜でミニブタ2頭検査なく処分 豚コレラ予防名目、愛護法違反か https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/470347/

岐阜県では、豚コレラが広がっており、防疫を目的に、ぎふ清流里山公園が飼育していたミニ豚2頭を屠殺処分にしたとのこと。 そのミニ豚がコレラに罹っているかどうかの確認をせずに屠殺したことと、愛玩目的のためのミニ豚だったらしく、問題となっている。その上、農林水産省も屠殺するまではなかったのではと言っているらしく、岐阜県も管理業者も大変だろうなと思います。

この記事に私が関心を持つのは、アドラー心理学から、見えてくるものがあるなぁと思ったからです。

記事抜粋開始

管理事業者が11月22日、「確実な防疫のため処分したい」と電話で県に相談。県は「やむを得ない」と判断し、

記事抜粋終了

何故、コレラの検査をしなかったのか、何故、せずに処分をしたのか。アドラー心理学では、トラウマは存在しない、人は目的のため行動するのだとしています。 正確には、トラウマは存在しない、ということではなく、トラウマは存在しないということにしておきませんかという提案だと、私は考えておりますけれど。

さて、屠殺処分をした事業者の目的は何か。
それは自分の管理やその能力を隠避するためであるのではと思います。
つまり、ミニ豚が豚コレラに感染していた場合、管理者として責任を問われることになるからです、また、今後もそのミニ豚が生きていると、現時点では感染していなくても、今後、感染するかもしれない可能性がある、その可能性を排除するためには殺すしかないと判断したのではないのかと思います。
つまり、自分の価値を維持するために他者を犠牲にする、アドラー心理学でいうところの他者の価値を低減することで、自身の優越性を維持する行為であると私は捉えます。

そして、では、何故、県は管理事業者の提案を受けいれたのか。本来ならば、そのミニ豚がコレラに罹患しているかどうかをまずは考えるのではないでしょうか。
私は、まさしく、県の担当者が「考えなかった」のではないか、と思っています。 昨日にも、少し書きましたが、「考える」とは、いくつかある選択肢の中で、一番、自分が幸福になる選択をするといこと、と捉えるなら、選択肢の中から「屠殺する前に検査するという」選択を選らべばよかったのに、それをしなかった。
それは、まさしく考えなかったのだと私は思います。
さて、ここから、「考えることを放棄した人」というキーワードを利用し、全体主義について、くどくど書いていこうと思ったのですが、年寄りなので、体力がありません、いずれまた。
2018.12.04
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ちょっとだけ見た。処罰教育とのかかわり

「ハットグ」大人気でコリアタウン新大久保はゴミだらけ!串・容器ポイ捨て、歩道しゃがみこみ
https://www.j-cast.com/tv/2018/11/07343130.html

ワイドショーによるとですけれど、新大久保、えらいことになってる、前回、私が新大久保駅を降りたときは、駅が一部工事中だったこともあり、駅周辺はかなりの人だったけれど、駅を少し離れれば普通に歩くことが出来ました。
番組によると、歩くのも大変な人で、かつ、このハットグというのの食べ残しやなどなど、放置されていて大変らしい。レポーターが捨てた瞬間の人に注意をしたところ、見事なくらいの逆ギレを食わされていました。

さて、記事では、

記事抜粋開始

最終的には道徳観だと思います

記事抜粋終了

と最後に書かれていますけれど、これは道徳観の問題ではなく、まさに教育の成果ではないかと思います。
アドラー心理学の観点から考えると、賞罰教育、要求したことが出来れば褒め、出来なければ叱る、これにより、子供は他人の評価によって行動様式を決定する、褒められるなら頑張る、叱られたから頑張る、つまりは、他人がどう見ているかによって自分自身の行動を決定する、言い換えれば、自分自身で善悪の判断をしないということです。だからこそ、レポーターの注意に逆ギレという行為を為すのも、自分以外の人たちもゴミを路上に捨てているではないか、他人は許されて自分は非難されるのは不公平ではないか、という論理によって怒り出すわけです。
そこには、自分自身で考え、ゴミをこんな形で道路に不法投棄をすると他の人たちに迷惑がかかるよな、なんて思考には至らない、だからこそ、自分の権利を侵害されたため、「怒る」という表現を示すわけです。

だから、こういった不法投棄をやめさせようとするなら、「自分で考える」という教育が必要なのではないかと思います。
先日、書店にて、高校生向けの新書を立ち読みしていましたが、「考える」とはどういう行為かについて、いくつかの選択肢の中で、一番、自分を幸福にするものを選択するということだと書かれていました。
それには、一つ条件があって、自分というものを、今、現代の自分だけではなく、未来の自分、過去の自分をも含めて、自分と言っています。
つまり、ゴミの散乱する社会で生きることが貴方にとって幸福ですか、この視点において、自分の行動を決定せよということです。

さて、ごにょごにょ、書きましたけれど、私自身、こうすれば解決という策を持ってはいません。いったい、どうしたらいいのでしょうね。
2018.12.04
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