異形 流堰迷子は天へと落ちていく 四話

男、死ぬ

「幸は世界で一番幸せな女の子だと思うよ」
幸は男の膝を枕に横になる、晩秋の小春日和、お昼前。
縁台に座る男の膝に頭を預け、広がる畑を眺めた。畑の向こうに時々白い影が動く、子山羊が三匹、草をはんでいるのだ。
秋野菜、緑色が広がる収穫前の一時。
「頑張って世話をしてたからね、幸は」
「ううん、今の幸せは、幸がお父さんにひざ枕をしてもらっているっていうこと、そして、お父さんも世界で一番幸せなお父さんなのです」
「父さんもか」
「そう、可愛い娘のひざ枕ができるなんて、こんな幸せなことはないよ」
男はくすぐったそうに笑った。
「幸、父さんを幸せにしてくれてありがとう」
「どういたしまして」
幸はにひひと子供っぽく笑うと、ぱたぱたと足を振る。
「幸はちっちゃな子供だな、あかねちゃんや恵子さんの前ではしっかりしているのに」
「今の幸が本当の幸なのです、だから、正直にお父さんに甘えるのです。そうだ。ね、お父さん、恵子さんには驚いたなぁ」
「ん・・・、あの人は頑張り屋さんだな」
あれからもう一年近くが経つ、男は右腕を無くした時のこと、鬼紙老の屋敷にあかねちゃんを送り届けたこと、坂村恵子にたまたま、情けをかけたこと、そんなことを思い出した。
「恵子さんはあと三十分くらいで来ます、それまで、ね。ひざ枕良いかな、それとも、今度は幸がひざ枕してあげようか」
「大事な娘だからさ、ひざ枕してあげるよ。それから、仕事再開だ」
「今日は恵子さんに畑任せて、幸、お父さんの仕事、手伝おうか」
「どうしたの、幸。この三日くらいかな、幸は父さんにとってもひっつき虫だ」
「なんだか、甘えたい、そんな気分」
「お風呂とお手洗い以外はずっと幸がひっついている」
「ね、お父さん」
「ん」
「お風呂、一緒に入ろうか。背中、流しっこしよう」
男は笑うと、こつんっと幸の頭を小突く。
「それはだめ。でも、そう言ってくれることは自体は嬉しいよ」
男は吐息を漏らすと、眼前に広がる畑を眺めた。
普通に歩いて五分くらいは畑だ、その向こうに梅林が連なる。
縁台から、梅林も見えるようにと、ちょうど、畑の切れ目、畦道が梅林へとつながる。
「援農、だったっけ」
男が呟いた。
「恵子さん、うちに二日間、それから外の田舎へも農業を三日間手伝いに行って、あとの二日をスーパーでレジ打っている」
「たくさん退職金、出たんじゃないのか」
「高校生の妹が大学に行くそのお金に退職金を使いたいって、恵子さん、その退職金には手をつけていない。大学四年間、五十回くらい繰り返せるくらいのお金だけど、使いかけるとずるずると使ってしまうかもしれないから、今は使わないって言ってた」
「しっかりしているね」
「恵子さん、いまは畑仕事が一番楽しいって、喜んでいてくれるよ」
「人が喜んでくれると嬉しいものだな」
「そうだね、ただ、問題はあかねちゃんだ」
幸が少し顔を曇らせ呟く。
「やっていることは正しいと思うけどね」
あかねはこの一月ほどここには来ていなかった。
矛盾を正したい、それが自分の使命なのではと語るあかねちゃんの真摯な表情に幸は何も言えなくなってしまったのだった。
「格差社会、貧富の差が開いて行くこの時代を変えて、誰もが慎ましやかに、そして幸せな日常を送ることが出来るようにしたい。確かにそうなんだけど」
「幸が心配なのはわかるけどね、今はあかねちゃんの思うようにさせてあげなさい。ただ、そうだな。あかねちゃんの武術の進歩は」
「かなりのものになったと思う」
「読心能力は」
「充分だと思う」
「護り髪は」
「しっかり・・・」
男は幸の頭を優しく撫でた。
「あかねちゃんは幸の大切な妹だ。それはかわらないよ、必要な時は助けてあげなさい」
「うん、そうする」
幸は静かにそう答えた。
「ね、お父さん」
「どうしました」
「お父さんはずっとずっと、幸と一緒にいてよ。絶対だよ」
幸は微かに震えていた。
男は幸の頭を軽くぽんぽんと叩く。
「お風呂とお手洗い以外は一緒にいるかな」
男が小さく笑う。
幸は急に起き上がると男にしがみついた。
「幸がお父さんを護るよ、どんな奴からもお父さんを護るからね」
「どうしました、ゆっくり話してごらん」
男は軽く幸の背中をなだめるように叩き、幸の言葉を待つ。
「お父さんがお父さんが死んじゃう」
呻くように幸は言葉を呟く。
「それは大変だな」
男は小さく笑った。
「お父さん、幸、夢をみたの。母さんちへお喋りに行って、帰ってきたら、部屋中、血で真っ赤で、お父さんが部屋の真ん中で、真ん中で・・・」
幸が苦しそうに咳き込む。男は幸の背中を柔らかく撫でる。少し幸が落ち着いたのを見て、男は話しだした。
「夢のようになるんじゃないか、予知夢じゃないかと幸は心配しているわけだ」
幸がそっとうなずいた。
「心配屋さんだ、幸は」
男はそっと笑みを浮かべる。
「父さん、とっても強いよ、幸のためならとっても強くなる。でも、上には上がいるからな、うわっ、ピンチかもって思ったら、幸に助けてって叫ぶことにするよ」
男はそっと笑みを浮かべる。
「それに、ここは何重もの結界で固めてある、だから、ここに入ることができるのは、あかねちゃんと恵子さん、瞳さんと佳奈さんだけかな。それに幸と父さんだけだ。恐い奴らは入れないよ」
男はそっと笑みを浮かべ、幸の頭を撫でる。
心配で一杯になっている、男は幸からこんなにも大切に思われていることを素直に嬉しいと思う。何度、ありがとうと言っても言い足りないくらいだと思う。いや、自分自身がそれほどに、思ってもらえる存在なのかとすら思ってしまうのだ。
ただ、男は幸がどうしてそんな夢を見たのだろうと思う。
声を押し殺して泣きじゃくる幸の姿、俺に気の利いた言葉の一つもあればと、そっと左手で幸の頭を撫でる。
「手があったか・・・」
一瞬、男は神経を研ぎ済ませた。違和感を探す、後方、なるほど・・・
「幸、顔をあげなさい」
男が呟くように言う。
泣き腫らした幸がそっと顔をあげた。
「人の心を読むというのは、自分と相手の心を繋げることだ。だから、人の心が見えてくる。そして、もう一つ、心を繋げば、その相手の心に感情を植え付けることができる」
「うん」
「試してみせようか、相手の心に不安や焦りをいっぱい植え付けてみよう」
男がにっと笑った。

「うぉぉぉっ」
家の中から、雄叫びが轟いた。
「幸、杖、右手」
「はいっ」
幸が空から取り出した杖の中ほどを男が左手に持つ、その下端を幸が右手で持った。
男の頭上に振り落とされた刃、杖で受けた一瞬、微かに幸が杖を手元に引く、刃筋が流れ、相手の姿勢が崩れる、男が杖の先端を大きな円を一部切り取ったように落とすと、刀を持ったまま相手が庭に投げ落とされた。

「なるほど、自分の右手を切り落として、元の私の腕を繋いだということか。肩のところに丸い輪っかが付いているね、それが血液型の違いなどを吸収しているようだ、神崎さんの仕業だな」
男は溜息を付くと、幸に杖を返した。
「君は確か一年前の人だったね、私が呪いを施して、一年、まっとうに働いたらやって来い、呪いを解いてやるといった」
黒服はゆっくりと立ち上がると、男に刃を向けた。
「人の数倍は体力を持つ君だ、引っ越し屋さんなんていいんじゃないかって言った記憶があるのだけどね、あんまり、そんな風には見えないな」
「俺の生きる道にそんな選択肢はない、それに、何よりもお前を殺さなければ俺のプライドはずたずたに引きちぎれたままだ」
「で、君はその右腕を鍵にしてこの結界の中に入り込んでいたわけだ、隙あらばとね。どうだい、その腕は、良い感じかい」
男は気楽に笑う。むっとしたように黒服は男を睨んだがふっと笑みを浮かべた。
「この一年、神崎のデーター収集に付き合って、かなりの魔を斬ってきた、俺は確実に強くなった、あんたの腕は最高だ」
「お褒めいただきありがとう」
幸が我慢ならないと杖を黒服に向けた。
「お父さん、こいつは幸にまかせて」
「いや、これは父さんの責任だ、幸はここで見ていなさい」
男は縁台を降り、つっかけを履き前に出る。黒服との距離が縮まった。
「私の呪いは既に解除されているようだね、神崎はしないだろう、まともに私を敵に回すことになるからな。なら、誰だ」
男が黒服の目を微かに睨む。
「あぁ、あの破戒坊主か、あいつは後先を考えないからな」
男は小さく呟くと口元に笑みを浮かべた。
男は一歩踏み出す、気圧されて黒服が退いた。
「君は後悔していないかい、だってさ、ここに来なければ、好きにできたわけだ、呪いも解除されているんだからさ」
男は笑みを浮かべたまま、ゆるやかに黒服に歩み寄る。
「どうしました、後ろに下がるだけでは君の立場は余計に悪くなるよ」
黒服は震えていた、
「あんたはどこまで強いんだ」
男は答えず、左手を黒服に向け、人差し指を上から下へと向ける。瞬間、黒服の右腕が引きちぎれた。燃える、右腕が灼熱の炎を吹き出し、燃え尽きた。
「その腕の輪が君の流血を抑えている。殺しはしないさ、それほど、私は親切じゃない」
男がそう言い終えた瞬間、黒服が消えた。
「結界に排除されたか。元の世界で彼なりに生きて行けば良いさ」

男が振り返ると、幸が茫然とした面持ちで男を見つめていた。
「ん、どうした」
「お父さん、ごめんなさい。幸がお父さんの腕を斬らなければ、お父さん、自分の腕を燃やさなくても良かったのに。幸は、幸はどんどん、お父さんを不幸にしてしまうよぉ」
男はそっと笑みを浮かべると、幸を左手でぎゅっと抱き締めた。
「幸、父さんを両手で抱き締めてくれないか」
幸が力一杯男を抱き締める。
「父さん、抱き締められるってことが、こんなにも幸せで暖かいことを幸に教えてもらって、とっても幸せになった」
「そして、幸」
「うん」
「幸は、父さんのこと、大切に思ってくれる、それがとても嬉しい。父さんはとっても、とってもね、幸せになった。今が、父さん、生まれて来てから、一番幸せなんだ。幸、ありがとう」
男は柔らかに笑みを浮かべる、
「父さんは幸を幸せにできているかな」
「幸も幸せです」
男は手を離すと、幸の横に座った。
男が少年のような幼い笑みを浮かべた。
「これからもずっとよろしく」
幸は男の左手を、両手でぎゅっと握り締め、泣き濡れたまま、男に微笑んだ。
男は長い間一人で生きて来たが、もう一人では生きて行けないなと思う。それは、なんて幸いなことだろうと強く思った。

「おはようございます」
玄関口から坂村恵子の声が響いた。
「幸、鍵をあけて来なさいな」
「はい」
幸は縁側から家に入ると、戸を開け恵子を招き入れた。
以前より血色も良く、朗らかになった恵子が男のところにやって来た。
「おはようございます」
「恵子さん、おはよう。ん、また、恵子さん、体格良くなってないかい」
「ひどいなぁ、私も年頃の女の子ですよ」
恵子が嬉しそうに笑う、
「そうだよ、お父さん、恵子さんに失礼だよ。ね、体重計出してくるから、変わってないの証明しょう」
「あはは・・・、それはちょっと・・・。ごめんなさい」
恵子は袋から瓶詰を取り出すと、幸に手渡した。
「大根で作った千枚漬けです、漬け汁にちょっと工夫ありです」
幸は受け取ると、蓋を取り、少し匂いを嗅ぐ。
「美味しそうだよ、お昼ごはんに食べてみよう」
「それも物産展の商品か」
男が尋ねた。庭の畑では幸が中心になって、野菜をつくっていたが、食べきれない分を佳奈を通じて、商店街の八百屋に卸していた。その縁で、前回、近所で開催された物産展に出展し、評判は上々、そして、二回目の参加となったのだった。
「加工した方が利益がいいのです。今度は、お父さんも来て」
「売り子しなくてもいいなら、見に行くよ」
幸がくすぐったそうに笑う。
「先に言われちゃった。それじゃ、お父さんは幸の頭を撫でる係、幸はお父さんに頭を撫でられるととても元気になるのです」
「あんまり撫でて、幸の頭が禿げたら大変だ」
「禿げるくらい撫でてほしいかも」
幸はくすぐったそうに笑みを浮かべると、テーブルに恵子が持って来た瓶詰を置いた。
「そうだ、お父さん、今晩は鍋にしよう。ね、恵子さん、今晩用事ある」
「私は大丈夫ですけど」
「お父さん、いいかな」
「いいよ」
幸はにっと笑うと恵子に言う。
「鍋、一緒に食べよう。あ、恵子さんのお母さんや物産展覗きに来てくれた妹の、礼子ちゃんはどうかな」
「妹は幸さんの大ファンですから、何があっても来ますよ」
幸がけげんな顔をした。
「幸は礼子ちゃんと挨拶しかしてないよ」
「妹は、幸さんが、脅しに来たやくざを殴り倒して、足で踏んでいるのを」
「あぁ、その話はもういいです。恵子さん、畑にどうぞ」
慌てて、幸は恵子を畑へと送り出した。
戻って来た幸がばつの悪そうな顔をして男を見る。
「父さん、初耳でした」
「ごめんなさい、だって」
「幸に怪我がなければいいよ」
仕方なさそうに男が笑う。
幸はほっと吐息を漏らすと男の後ろ、背中に被さるように体を預け、男の肩から顔を出す。
「幸はえらそうにしている奴や、むちゃを言う奴が嫌いなんだもの」
「父さん、幸にえらそうにしないよう気をつけなきゃ」
「お父さんは幸にえらそうにしてもいい人なのです」
「でも、倒れたところを踏まれるのはなぁ」
「お父さんにはそんなことしないよぉ。もぉ・・・」
幸はそっと男に頬を添えると囁いた。
「貴方は私との日々を楽しんでくださってますか」
「楽しんでいます、本当にありがとう。君はどうですか」
「寝てしまうのが惜しいくらい、朝になるのが待ち遠しいくらいに楽しんでいます、娘にしてくださってありがとう」
「君に言いたい」
「はい」
「父親にしてくれてありがとう」
そっと幸は、そのまま体を預け目を閉じる。
そして呟いた。
「幸せです」

ふっと幸が目を開ける。
「お父さん、次は喫茶店だ。ここで開店するよ」
「え、あぁ、忘れてた。ハーブティーの専門店とか話していたな」
「お父さんがマスターなんだからね」
「父さん、恥ずかしがり屋だからなぁ」
「ね、マスター、なんだか、あたし、疲れちゃった」
「お嬢さん、それなら、カモミールを中心にした当店オリジナルのハーブティーがお勧めですよ、リラックス効果抜群です、ゆっくりしてくださいな」
幸がにひひと笑う。
「お父さん、合格です」
「本当にこんな歯の浮くようなこと言うのか」
「そおだよぉ。ね、お父さんはどんな服が似合うかなぁ。少し固めの方がいいかな」
「まっ、それは考えておいてくれ。そうだ、父さん、午前中に仕事を済ましたら、ちょっと出掛けてくるよ」
「幸もついて行っていい」
「どうかなぁ、幸の教育に悪そうなやつだからな」
「なら、行かなきゃ。だって、幸はお父さんのボディガードだからね」
「うーん、まぁ、これもまた勉強かな。それじゃ、父さん、ピンチになったら、助けてって叫ぶことにするよ」
幸は満辺に笑みを浮かべると後ろから男をぎゅっと抱き締めた。
「お父さんは幸にとっても甘いです、あまあまですよ」
そして、唇で男の耳をくわえる。
「はぐはぐ」
「やめなさい、父さんは汚いから」
幸は口を離すと囁いた。
「汚くありません、それに、なんてお父さんは幸に甘いんだろ。そうだ、お父さんはお砂糖で出来ているのです、珈琲に入れたらきっと溶けてしまいます。もう、食べちゃうぞ」

「ええっと、幸さん、お取り込み中、申し訳ありませんが・・・」
困り切った顔をして恵子が二人の前に立っていた。
「ごめん、恵子さん、夢中になってた・・・」
男は立ち上がると幸の頭を撫でる。
「父さん、仕事に戻るよ」
「うん、お父さん。ね、お出掛け、一人で行っちゃ嫌だよ」
男は笑みを浮かべ、頷くと部屋へ戻った。

まだ、ぼぉっとしている幸の目の前で坂村が手を振る。
「まだ、余韻に浸ってますか」
幸は笑みを浮かべると、頭を振った。
「ごめん、恵子さん。えっとなんだっけ、まだ、頭が働かない」
「出荷の時間です」
「ああ、そうだった」
幸は縁台から降りると靴を履き、畑を歩く。長靴は絶対に拒否という姿勢だ。
鶏が雑草を食んでいる。
幸は秋茄子やホウレン草を見て回り、出荷に頃合いのものを竹で編んだ籠に入れて行く。
「一度聴いてみたいと思っていたんですけど」
坂村が幸に尋ねた。
「ん・・・」
「無造作に採っているようにしか見えないのに、ちょうど良い状態の野菜を選んでいますよね、どうやっているんですか」
「声を聴いているだけだよ」
幸が手を止めずに言う。
「幸ちゃん、幸ちゃん。ボク、食べ頃だよ、採って、採ってってね。野菜の声が聞こえてくるんだ」
「で、本当は」
坂村が促した。
「少なくてもこの一週間の状態を全部暗記している、何処にどれくらいのがあるかってね。それぞれ、時間軸を元に、変化を微分化して、その加速度を求める、それが主な判断材料かな。もちろんパラメーターは複数あるけどね。な、可愛くないだろう」
「可愛くありません」
「ボク食べ頃だよ、幸ちゃん。これの方が受けが良いよね」
幸は笑いながらも手を休めずに収穫して行く。
「恵子さんは勉強熱心だな。農家に嫁げ、引く手あまただぜ」
「それは、親戚の叔父さん的発想、散々言われてますよ」
幸は声を出して笑うと、籠を坂村に渡し、新しい籠に収穫を始めた。
「あれから一年、スーパーでのバイト以外はすっかり百姓だ。恵子さんはこれからどうしていきたいんだ」
手を休める間もなく、幸が坂村に尋ねた。
「そんな難しいこと、聞かないでくださいよ。ただ、なんだか、社会から一抜けたって言いたい気分です」
「以前、あかねちゃんがお父さんに言ってたんだ、大学を卒業したらここで暮らしたいってね。ここは、ある意味、シェルターみたいなものなのかもしれない」
「かも知れませんね、ここに来るとほっとします」
ふと、幸は手を止めた。
「あかねちゃん、どうなるんだろう。もろいところがあるからなぁ」
幸は溜息をつくと、満杯になった籠を置いた。
「次は恵子さんの番」
幸は新しい籠を坂村に渡すと、満杯になった籠二つを縁台にまで運ぶ。
「恵子さん、幸はお昼の用意をしてきます」
坂村に声をかける。
「お願いしまーす」
坂村が陽気に答えた。幸が家に戻って行くのを見終えると、収穫に戻る。坂村は本当に今が幸せだと思う。
坂村は手を止めると、秋の遠い空に向かって言う。
「幸せだぁ」
あまり大きな声では言わない、叫んでみても良いのだが、幸に聞かれて笑われでもしたらと思うと、声が小さくなってしまう。
「おぉい、恵子ちゃん」
振り返ると、縁側から、佳奈がやってきた。
「ごめんなさい、まだ、収穫が」
「いいよ、あたしも早く来たからさ、手伝うよ」
佳奈は恵子のところにやって来ると、言った。
「この辺のを採っていけばいいのかい」
「はい、あまり小さいの以外で」
佳奈も見よう見まねで採っては籠に入れる。
「恵子ちゃんも明るくなったねぇ」
坂村が初めて佳奈にあったのは、ここへ来てすぐのこと。随分と幸に脅かされていたのだった。
「そりゃ、幸さんからとっても恐い人だって聞いてましたもん」
「こんな優しいお姉さんを恐いだなんて、冗談にも程があるね」
佳奈が笑う。
「でも、読心能力、心を読まれてしまうって云うのにはびっくりしました」
「そうだね、意識を向ければね、目の前で喋っているみたいにさ、わかるよ。それって恐いかな」
「いまは全然。って言うか、言わなくてもわかってもらえるし、楽かもしれない。よくよく考えてみれば、私は考えていることと喋っていること同じですから」
「誰もがそんなふうに思ってくれるなら、あたしも嬉しいんだけどね。以前は悩んだ、自分は何者なんだって悩んだ」
ふと、坂村は笑みを浮かべると、佳奈を見つめた。
「佳奈姉さん、悩んでますね、それに少し怒っている」
「え、どうして」
「私は心を読む能力は無いけど、推理は出来ます。会話の内容、声質、誰か悩みを聞いてくれないかなぁって思っている」
「驚いた、その通りだ」
佳奈は素直に驚くと、恥ずかしそうに笑った。
「佳奈姉さん、私には解決出来る力はないけれど、聴くだけでもいいなら話してください」
「恵子さん、齢幾つだい」
「ええっと、もうすぐ二十五かも・・・」
「うちのガキと三歳違いか、しっかりしているなぁ」
佳奈は溜息をつくと、手を止める。
座って空を見上げた。
「どういう仕組みになってんだろうね、ここは」
今日の収穫は終わったと、坂村も手を止める。
「この畑を越えたらひたすら梅林です、でも、その向こうに川があって魚釣りが出来るとか、幸さん、言ってましたよ」
「おっかないよ、迷子になったら大変だ」
佳奈は笑う。落ち着いた笑みだ。
「あのさ」
「はい」
「親子喧嘩と夫婦喧嘩をして、ついでに亭主の親とも喧嘩してきた」
「四面楚歌、大変ですね」
坂村が笑う、つられてか、佳奈も笑った。
「あぁ、大変だ」

「どうぞ、座ってください」
幸がテーブルに料理を並べる。
幸が男の向かいに、佳奈と坂村がテーブルにつく。
焼き飯の、ご飯よりも野菜が多い。
「本で読んだんだ、ご飯よりも野菜が多い、野菜炒めご飯」
「ちょっと中華風かな」
佳奈が言う。
坂村が少し食べて言った。
「和風ですね、胡麻油が入っているんですよ」
「美味しいかな」
少し不安げに幸が佳奈に尋ねた。
「とっても美味しいよ」
幸が男の向かいに、ほっとしたように笑みを浮かべる。
「と、云うことで、佳奈姉さん、恵子さん」
幸がにっと笑った。
「幸はこれからお父さんとデートです。お昼からの出荷にはお手伝い出来ません。ごめんなさい」
幸が頭を深々と下げた。
「わかっているよ」
佳奈が笑った。
「もう、さっきから幸ちゃん、嬉しそうににやけているんだからさ。顔見ただけで見当つくさ」
「ほんと、佳奈さんの言う通り、機嫌いいし、そわそわしているし」
「申し訳ないね、暗くなるころには帰ってくるから。そうだ、佳奈さん、夜は無理かい」
男が言った。
「恵子さん達と鍋をしようって思うんだけどね」
「主婦ですけど、少しなら大丈夫ですよ」
「幸が美味しい鍋作るよ、恵子さんや、恵子さんの妹やお母さんも来るから賑やかだよ。楽しみだなぁ。あ、幸の母さんは来れないかな」
「礼子さん次第だね。帰って来るの、遅いからなぁ」
幸が男を見る、男が頷いた。
「それじゃ、学校まで、幸が迎えに行くよ。佳奈姉さん、母さんにそう伝えてください」
佳奈はうなづくと笑った。
「あぁ、わかった。デート、楽しんでおいで」
「うん」
幸が答えた。
後を二人に託し、男と幸が出掛ける。
「佳奈さん。幸さん、幸せそうでしたね」
部屋に戻ると坂村が言った。
「だねぇ、あれほど父親が好きな娘もいないだろうね」
「父親って言うより、まるで恋人ですよ。あたしは自分の父親にって、もう、随分会っていませんけど、あんなには甘えられないな」
「ご両親、離婚したとか言ってたね」
「子供の頃です、中学生でした。先生は別居中なんですか」
「ん・・・」
佳奈が怪訝な顔をしたが吹き出した。
「あぁ、違うよ洋品店の叔母さんを幸ちゃんが母さんって呼んでるだけさ」
「え、そうだったんですか。確かに顔が似てないって思ってましたけど」
坂村が苦笑いをした。
「あの叔母さんから、あんな絶世の美女が生まれるわけないって、なんて言ったら叔母さんに叱られるな」
佳奈は笑うと縁側に座った。
佳奈が縁側に座りながら、日差しを浴び、ほっと吐息を漏らす。
「もうすぐ三年になるのかなぁ、幸ちゃんに初めて会ってさ、話した時のことを思い出すよ」
「幸さんって、元気な女の子だったんでしょうね」
「いや・・・」
佳奈は硝子戸の端に背を預け、呟いた。
「臆病な女の子でさ、先生以外の人間を恐れていた」
「それって想像つかないですよ」
「だろうね、先生は、どうしてだか、自分がいつ殺されても仕方のない人間だと考えているんだ、だから、幸ちゃんが一人でも生きられるようにと、先生は必死にしっかりした女性に育てた、しっかり育て過ぎたかもしれないけどね」
佳奈は気持ちを入れ替えるように笑った。
坂村が佳奈の横に座った。
「先生、強く育て過ぎましたねぇ」
坂村も笑う。
「余程、先生は幸ちゃんが可愛くて、心配なんだろうね」
「でも、幸さんは真っすぐですよ。格好いいです。あたしも好きですよ」
「わかるよ、あたしも幸ちゃんのファンだからさ」
坂村は初めて会った時のサングラスを降ろし、にっと笑う幸の笑顔を思い出した。迎え入れてもらったように思えた、本当に嬉しかった。
「さて、佳奈さん、仕事再開、いいですか」
「よし、頑張ろう」
佳奈は立ちがると、思いっきり背伸びをした。


男とサングラスを掛けた幸は、二人、路線バスに揺られていた。電車でおよそ三十分、その後、駅からの路線バスに乗る。
乗客は十人程度、幸は二人掛けの座席、通路側、その横に男が座っていた。
「幸、窓側に座らないのか、景色がそっちからじゃ見ずらいだろう」
「だめだよ、幸はお父さんの右腕なんだからさ。悪い奴が右から襲って来た時には、幸がばしっとやっつけなきゃ」
男がくすぐったそうに笑った。
「父さんが悪い奴で正義の味方が退治に来たのならどうする」
「もちろん、ばしっとやっつける」
「なるほど、父さん、責任重大だ。悪いことしないようにしなきゃな」
男は寂しそうに笑みを浮かべると座席の背もたれに体を預けた。
「父さん、以前はとっても悪人でした。これから会おうというのはね、その頃の父さんを知っている悪人だ。友達じゃないけどね」
「どうして、そんな奴に会うの」
「あの忍者に施した呪を解いたのがそいつだ。呪を勝手に解くというのは敵対関係を選んだということだ、つまり、好んで父さんと敵対関係を選んだ奴の真意を知りたく、思ったんだ」
「知ってどうする」
「これからの生活にとくに問題がなければそそくさと帰る。問題があれば解消して帰る」
「幸的には、すかっと解消して帰りたい」
「困った娘です」
男がそっと笑う。
二人は終点のバス停で降りる、ほとんどの乗客も、途中のバス停では降りずに、終点のバス停で降りたが、燦々午後に姿を消して行った。
山の麓にある静かな山村だった、ふと幸は振り返りバス停を見る。
金魏護寺とある。
「そのお寺へ行く、もともと真言宗のお寺で現世利益の加持祈祷を主としている、もっとも今はどんなガイドブックにも載ってない」
幸は山の中腹を見上げた。
「お父さん、結界がある、こちらに関心を持つなという嫌意の結界だ」
「あぁ、誰もがなんとなく無視してしまいたくなる気分になる。あの寺は暗殺者養成所で、政治家や秘書が自殺した場合のほとんどはあの寺の仕業だ、そんな場所だから招いた奴以外は関心を持つなということなんだろう」
「なんだか、お父さん。大暴れできそうだね」
「それは勘弁してください」
幸はそっと笑みを浮かべる男の上着、右袖を両手で掴む。微かに唇を噛んだ。
男は左手で優しく幸の頭をなでる、
「お父さん、軽々しいことを言ってごめんなさい」
「幸は父さんにとって、とっても良い子だ、それはかわらないよ、どんな時もね」
そっと男は左腕で幸を抱き締めた。
「これからも幸が幸せでありますように」
男が小さく呟いた。


幸と男は簡単に結界を擦り抜け、境内へと入った。微かに霧が辺りに漂うが、視界には問題ない。
たっとうがいくつも並ぶ広大な寺院だ。
「この霧、核が金属の粉だよ」
「侵入者探査システムだ、密度変化による電位差を測定している」
「お父さん、部分的に気圧を操作して、姿を消そうか」
「いや、それほど警戒する必要はないよ、ただ、幸はか弱い女の子、いいね」
幸がそっと頷いた。

「これは珍しい、名無し様ではありませんか」
「館長直々とは恐れ多い、お久しぶりです」
霧の中から独りの僧が現れ、男に声を掛けた。この寺の護人、僧兵の管理者でもある。
「ここ数年来、一度、鬼紙老の元に現れた他は、全く、噂も何も伝わって来ず、いったい、どうされたのかと思っておりました」
「事務仕事とたまに畑作業の手伝いという日々を続けております」
男が静かに答えた。
「うんうん、人は静かに生きるのが一番、良い生活を送っておられますな」
「ところで愚円さんはどちらに」
「あれは六角堂におります。あの者ももう少し落ち着いてくれればと思うのですが」
「閉じ込めてあると」
僧は頷いた。
「食事を差し入れる以外は。しかし、名無し様にせっかくお越しいただいたのですから、扉は開けておきましょう」
男は一礼し、僧が指し示す方向へと歩きだそうと、
「おや、このお嬢様は」
「私の娘です」
不安げに幸は男の右袖をしっかり握ったまま、僧を見上げた。
「初めまして」
男は微かに笑みを浮かべた。
「長く別れて暮らしていたのですが、数年前に引き取りまして、今は一緒に暮らしております」
「なるほど、それが理由ですな。良いことです」
「それでは」
男は僧に会釈をすると、幸を連れ歩きだした。
しばらく歩き、男と幸は夢殿を模した六角堂の前にやって来た。話どおり、扉が一つ、開け放たれている。
「お父さん、あの建物だよね」
幸が囁いた。
「頑丈な建物だな」
「大丈夫、幸がお父さんを護ります」
「うーんl
男が微かに笑みを浮かべる。
「父親としては娘に対して、かっこ良くいたいな」
「娘と致しましては、案外やれるじゃないかとお父さんに認めてほしい」
ふと、男が目頭を押さえた。
「どうしたの」
「ちょっと感動、齢を取るとだめだな、涙腺が弱くなってしまう」
「幸はお父さんのそういう少年っぽいとこ、好きだな」
「幸・・・」
「ん・・・」
「これ以上、父さんを泣かさないでくれ」

二人が六角堂に入った途端、扉が勢いよく閉ざされた。二人は振り返ることもせず、中央を見る。僧が一人、座禅をした姿のまま、空中に浮かんでいた。ぼろぼろの衣に、生まれてから一度も風呂に入ったことがないのではないかと思えるような垢だらけの姿だ。
「愚円、最近、風呂に入ったのはいつだ」
男が呆れたように声をかけた。
「久方ぶりの親友の言葉がそれだとは寂しいものだな」
「大丈夫だ、俺はあんたと親友だった記憶はない」
僧は口元ににやりと笑みを浮かべると足を伸ばし、床へと着地した。
「ところで無よ、なにをしに来た」
「俺の呪を解いた理由を問いに来た」
僧はふと思い出そうと空を睨んだが思い当たったらしく男を見る。
「魔人に呪いをかけられた哀れな男を救うたことがあった。これもまた修行」
「で、本当の理由はなんだ」
男が重ねて言う。僧は仕方がないなと笑うと、そのまま、床にあぐらをかいた。
「館長からのお達しだ、こいつの呪を解けば、世の縁を切り、姿をくらました無をおびき出し、捕獲できるだろう、あいつは自信家だから、必ずやって来るってな。で、のこのこやって来たわけだ、それも女連れとは驚いた」
大声で愚円が笑った。
男は愚円を睨んだが、気を取り直し言った。
「それだけ聞けば充分だ、帰ることにするよ」
「それは無理な話だ。この六角堂からはさすがのお前さんでも力不足だ」
「あぁ、外からは入ることができても、中からは、簡単には出られない。面白い仕組みだな」
「ただひとつ、俺とお前さんが力を合わせれば出られないこともない」
愚円が男に語りかけた。
「どういうことだ」
「山を降り、世俗にまみれて楽しく暮らしたいってことだよ」
「残念だ、協力はできないよ、風呂に入って身奇麗にしていたら、考えなくもなかったがな」
「ゆっくり考えて結論を出してくれ、時間はたっぷりある。それに女もいる、楽しいぜ」
「奴らは何故、俺を捕獲する必要があるんだ」
「政権が変わったからさ。この寺は前政権と深い繋がりだ。だから、現政権が煙たがっている。そのうち、現政権側のやつらと戦うことになるだろう。手元にあんたがいれば利用価値は高い」
「それだけ教えてくれれば充分だ、帰るよ。俺は大事な娘を好色な目で見る奴を許せないんでな」
男は幸に笑みを浮かべると扉へ向かう、幸も男の後を追った。
男は扉を軽く叩く、外からの明かりに僧が二人立っている、その影が見える。
「用事は終わりました。扉を開けていただけませんか」
僧の一人が答えた。
「食事はこちらでご用意致しますので、御ゆるりと滞在くださいませ」
「今晩は約束があり、どうしても帰りたいのです」
「館長からの許しがないかぎり、ここを開けるわけには参りません」
いきなり男が扉を蹴り、その男の足が扉の中に吸い込まれるように消えた。
「反対側を見な」
愚円が後ろから男に声をかける。そのままの姿勢で、男が後ろを見ると、六角、反対の扉から男の足が生えたように突き出していた。
「ほんの数ミリで空間を変換しているのか、たいした法力だな」
「俺を閉じ込めるような奴だからな」
愚円が近づこうと立ち上がったが、男がそれを制した。ゆっくりと足を戻す。
「それ以上近づくな、俺は娘の近くに好色な男がいるのを好まないんだ」
「相当な親ばかだな」
一瞬、幸が愚円を睨みつけた。
「くそぼうず、だまってろ」
鋭く怒鳴りつけた幸の言葉に愚円が硬直した。
「うーん、ちょっとびっくり」
男がくすぐったそうに笑った。
「ごめんなさい、だって、お父さんを馬鹿にされるのって許せないんだもの」
「だな、ありがと、庇ってくれて」
幸が恥ずかしそうに笑みを浮かべる、
「父さんではここを破るのは無理だ、助けてくれるか」
幸がにっと笑う。
「お父さんの役に立つのは嬉しい」
そして、空中から刀を取り出すと、静かに構えた。刀を右手、後ろへと流れるように持つ。いや、落ちないように柔らかく支えているだけだ。
瞬間、幸が間合いを詰め、すくい上げるように横一文字に壁を切り裂く、男の目が捉えたのはそこまでだ、気が付けば、四方、人が通り抜けられる程の四角い穴が穿たれていた。
幸は刀を消すと、男から譲り受けた杖を取り出した。杖を左に持ち、右手で男の左手を握る。促すようにして外へ出た。

外では茫然と館長を先頭に僧兵の姿をした僧達数十人が二人を見つめていた。
幸は男の手をしっかりと握ったまま、館長の前へ出た。
「ここではあんたが一番偉いんだろう」
返事ができず、館長はただ頷いた。
「お父さんとあたしは静かに地味に暮らしている、それで充分幸せだからだ。政争も、切ったはったも嫌いだ」
「あ、あぁ」
「今後、お父さんとあたしの生活に一切かかわらないと約束しろ、そうすればこのまま帰ってやる。もしも、約束できないというなら、この山ひとつ、粉みじんにして平野にしてやる、すっきりするぜ。さあ、どうする」
館長は戸惑ったように男の顔を見た。
「いや、娘が心配で、悪い男に泣かされないよう強く育てたのですが、思っていたより随分と強く育ってしまいました」
男も困ったように笑った。
「そのように笑われても・・・。いや、お嬢さん、良く分かりました。一切、干渉致しません」
「ありがとう、その言葉、信じるよ」
幸は振り返ると男ににっと笑みを浮かべた。
「お父さん、帰りはお鍋の材料、買って帰ろう」
「そうだな」
男が笑った。
「なんだ、なんだ、お前ら、なににやけてんだ」
やっとのことで、愚円が六角堂から出てきた。
「愚円、出てきたのか。六角堂に戻っていなさい。出るのを許した覚えはないぞ」
「今出なきゃ、いつ、出られるかわからないからな」
「まあ、いい。なんだか、争うのがつまらなくなってしまった」
ふと、男が空の一角を睨んだ
「新手ですね」
なんらかの情報が入ったのだろう、ヘリコプターの爆音が近づいてきた。
「お父さん、あれは」
「ここの敵対組織だな。監視されてたのかな」
「人工衛星だ」
幸が天に指先を向けた。男と館長も幸の示す方向を睨む。
「さすがに見えないな、父さんには」
「破壊しておこうか。上から覗かれてるのは、なんかうっとおしいよ」
「・・・そうだな。でも、かなり高い」
「簡単だよ」
幸が指先を鳴らす、瞬間、小さな光が虚空に輝いた。
「粉微塵」
幸がにっと笑った。
館長は驚きのあまり、一歩退いたが、平静を装い、幸に頭を下げる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」

その間にもヘリコプターは近づき、プロペラの生み出す突風が樹木を揺らす。
「お父さん、攻撃してもいいかな」
「殺さない程度にね」
「わかった、遊んでくるよ」
幸の姿が消えた。
「才能を十二分に恵まれた人間が、生命をかけた修行を一生続けても、あれだけの能力は身につきません、いったいどういうことなのです」
館長が声を抑えて男に問う。
男は自分自身に語りかけるように呟いた。
「私はあのとき、あの子はもともと人であったと思っていたのですが、間違っていたのかもしれない、もともと、あの子は神だったのかもしれない」
「あのとき・・・」
男は寂しそうに笑みを浮かべると口をつぐんだ。

緑色の飛行船のようなヘリコプターが着地する。台風並の風が六角堂以外のたっちゅうを揺れざわめかせた。
幸はヘリコプターの手前に陣取り、仁王立ちに立つ、腕を組む、にぃぃぃっと唇を歪め笑みを浮かべた、長い髪が逆巻く。
僧兵達を後方に従え、自信に満ちたその姿はまさしく闘神。
ハッチが開き、完全武装を施した兵士だろう、十人駆け降り、幸と向かい合う。背中にはタンク、肩には大きな、火炎放射器だ。寺すべてを焼き払う予定でやってきたのだ。
ヘリコプターの回転翼の速度が次第に落ちる、それに合わせ風が収まり始めた。

「似たようなのが雁首揃えやがって、楽しいなぁ。なぁ、一等先に殺されたい奴、手ぇ挙げてくれ」
十人が一斉に炎をはらんだ銃口を幸に向けた。
「なんだよぉ、可愛い女の子を焼き肉にする気かよ。しょうがねえな、そんな悪い子はお仕置きだ」
ふと、真ん中の頭ひとつ抜きん出た兵士が片手で他を制した。そして、火炎放射器とタンクを降ろすとヘルメットを外す。
まさしく人間よりひ熊に近いのではないかと言いたくなる男だった。
男は、にたぁっと唇を歪めると、腰の後ろ、タガーナイフを抜き、幸に剣先を向けた。
「いいやつだなぁ、あんた」
幸は嗤うと、右足を微かに前へと出す。
「女を切り刻むのが楽しいってことは、女の敵だ。遊びがいがあるよ」
幸は左のつま先を真左に向けた。
「来な」
幸が低く呟く、一瞬でひ熊男がナイフを片手に飛び込んで来た。右手に刃が輝く。幸は微かに体を真左に揺らす、刃が幸の体をすれ違い、その瞬間、幸の右手が男の顎に在った。
「回れや」
幸が呟く。
男がのけぞるように後ろへ回転、そのまま、幸は男の頭を地面に叩きつけた。
「頑丈だなぁ、生きているじゃないか」
幸は地面に頭を突き立てままの男の右手をぐしゃっと踏み付ける。念のためにと、もう片方の手も踏み潰した。
一歩踏み出す、瞬間、幸の姿が沈んだ、回し蹴り、独楽のように回転し、男を僧兵のところまでけり飛ばした。
幸が僧兵達を睨みつける。
「お前ら、そいつを六角堂にほうり込んでおけ」
「はいっ、直ちに」
あたふたと僧兵達が男に駆け寄る。

「いったい、あやつらは誰の指示にしたがっているのか」
館長が溜息交じりに呟いた。
「まぁ、少々荒っぽいところもありますが、親思いの良い娘ですよ」
「少々ですか」
館長が溜息をつく。
「もし、お嬢さんに弱点があるとすれば、貴方自身ですね」
「ん、なるほど、そうかもしれませんね」
一瞬、館長の右手が消えた、男の首を針で刺す、しかし、男の手には小石が、石の先で男は針を受けていた。
「筒になっている針ですね、中に毒が仕込まれている」
「良くご存じですな」
「この世界、長いですからね」
ふっと館長が手を戻した。
「ここの責任者といたしまして、現政権の手土産になるかもと思ってしまいました。迷いに憑かれてしまいました、申し訳ありません、それでではありますが、なんとか、この刀、納めていただけませんでしょうか」
館長の額寸前のところに、幸の刀がその切っ先を向け、浮かんでいた。
「この霊刀も娘に与えてしまいまして、私にはどうしようも。しかし、見事な使いこなし。私が針を浮けていなければ、館長の額が風通し良くなっているところでした。娘を人殺しにせずに済んで良かった」

九つの炎が幸を捉えた。しかし、炎が届くよりも早く幸の姿が消えていた。次々と幸は杖で兵士たちの腕を折り、指を潰して行く。しかし、最後の兵士だけ、首筋を軽く打ちすえ、気絶させるに止めた。
「こいつら、手当して六角堂に閉じ込めておけ。あとは館長の指示に従え。いいな」
「はいっ」
僧兵達が勢いよく返事を返した。
幸は気絶させた兵士が体型から女であると判断していた。幸は兵士の手首を掴むと、引きずり男の元に戻った。

「お父さん、誰も殺していないよ」
「お疲れさま」
「えへへ、どういたしまして」
幸が照れたように笑う。
「お嬢さん、この刀、なんとかしていただけないでしょうか」
「ん」
幸は初めて気づいたように刀を突き付けられた館長の額を見つめた。
「なんだ、そのまま、押し込んで欲しいのか」
「と、とんでもない」
幸は笑みを浮かべると、その刀を消した。
「なぁ、館長。お父さんとあたしはふたりっきりの家族だ、どっちか一人欠けても家族じゃなくなってしまうんだよ。あんたも下の町に女房と息子を持つ身だ。息子が殺されたら嫌だろ、そこんとこ、考えてくれな」
一瞬、館長の顔が青ざめる。
「まだまだ、修行が足りないな」
ふっと幸が笑う、しかし、もう関心がなくなったと、引きずって来た兵士を、少々荒っぽく仰向けに寝かせた。
そして、ヘルメットを脱がす。女の顔が現れる。ふと、男はその女の顔を見つめた。
「何処かで見たな、その顔。あぁ、あの時のか」
「えぇっ、浮気はだめだよっ」
男はくすぐったそうに笑った。
「こんなおっさん、誰も相手してくれないよ。以前、鬼紙老宅からの帰りに拉致されてね、尋問して来たのが彼女だ」
「お父さん、拉致って、それ初めて聞いた」
「うん、父さんも初めて言ったかな」
「もぉ、お父さんったら。万が一のことがあったら」
「大丈夫だよ、這ってでも帰ってくるさ。大事な娘を心配させるわけにはいかないからね」
幸がふっと恥ずかしそうに俯いた。
「お父さんったら、もぉ」

「しかし、こんな荒事のできる身体能力は無かったはずだが」
男は女の顔を睨んだ。
「男、まさか・・・」
男は女をうつ伏せにした。
「首筋から、腰まで、切ってくれるか」
「は、はい」
幸は刀を取り出すと、素早く、撫でるように服を切り裂いた。
男が女の項から腰までを脱がす。少し、治りかけた傷が首筋から、腰まで続いていた。女の髪を上げ、後頭部をまさぐる。
「頭蓋骨を切断した跡があるな」
「これは・・・」
館長が呟いた。
「なにか思い当たることでも」
男が問いかけた。
「三十九番の字を持つ殺人鬼」
館長が答える。
「三十九が女の体を手に入れたと、ある組織に潜入している者から報告を得ました」
「なるほど」
男は呟くと、女の後頭部を見つめる。
「確かに頭の中は三十九だ、こんな形で再会するとは」
「医療技術と魔術の融合ですな」
館長も小さく呟いた。
「お父さん、元の女の人はどうなったんだろう」
「奴の記憶の中に少し残っている。実験用に保存されているらしい」
「助けに行こう」
「でも、これは三カ月前の奴の記憶だ。いまはどうなっているか、わからないよ」
「でもでも、お父さん。あたし、こういうの、本当に許せないんだ」
男は幸の真剣な眼差しを見て思った。すべての情報を遮断された脳、これは闇の牢獄に閉じ込められたのも同じだ。幸は自身の過去と重ねているのだろう。
男は空中から硝子の球を取り出した。そして、三十九の体の上に軽く浮かべる、硝子の球は大きくなり、人一人分の大きさになると三十九を飲み込んでしまった。そして、軽く男が指を振ると、滑るように硝子球が六角堂へと飛んで行った。
「捕虜をどう利用するかについては、私も娘も関わりません、御ずいに」
男は館長に呟いた。そして、幸の横に立つ。幸は両手で男の左手をしっかり握ると、少し微笑んだ。そして二人の姿が消える。
館長が一人呟いた。
「無の技は、嘘か真か、神を統べる技と聞いたことがある。ならば神が神を統べる技を得た時、その神は」
「絶対神、他の神は位落ち、あの娘が唯一の神になる」
いつの間にか、愚円が館長の横で呟いた。
「神も仏もあったもんじゃねえな」
愚円が嘯いた。
「愚円、お前、阻止できるか」
「たかだか、人間様の出来ることなんざ、しれているさ。金輪際、あの娘には近づきたくないな、それは、館長、あんたもだろう」
「あぁ、無には、世界平和のためにも仲の良い父娘でいてもらおう」
「館長、あんたから世界平和なんて言葉がでるとはな」
「愚円、つまらぬことを言っていると、六角堂にほうり込むぞ」
「いくらいい女でも頭の中が、がたいのでかい三十九ではやる気になれねぇよ。昔、奴が妙に流し目してきやがると、うっ、気持ち悪ぇ」
館長の苦虫を噛み潰した顔に、愚円はこれ以上喋っても、機嫌を損ねるだけだと、僧兵達のもとに戻った。

直径一メートルほどの円柱型水槽にそれは在った。
「お父さん、あれだ」
モノクロームの床がにび色にねめつける。少し光量を落とした研究室、幾人もの研究員が、それぞれの研究に没頭している。
脊髄を中心に神経の一つ一つには金属片、伝達される電気信号を増幅させるのだろう、いくつもの電子機器と繋がっている。
男は何げない動作で、一人、手持ち無沙汰に見える研究員に声をかけた。
「ここではどんな研究をしているのかな」
研究員はなんの戸惑いもなく答えた。
「これからは宇宙への進出です。ここでは、脳の基本データーの抽出を主にしています。ここのデーターを元に人間と機械の融合を促し、いずれは、宇宙服を必要としない機械の体を持った人間の誕生です、その他、宇宙ステーションを建造するための機械になった人間が、製造作業に従事すれば、今の効率を遥かに超え、精度の高い作業が可能になるでしょう。これは素晴らしいことですよ」
「なるほど、夢物語が現実になるということか、でも、実際はまだ先の話、私などが生きている間には見ることは出来ないのでしょうね」
「いいえ、五年先にはプロトタイプの完成がほぼ確実です」
「五年ですか・・・、それなら、まだ、生きていられそうだ。ところで、この脳は一体誰の」
「脳は健康なものでなければなりません、これは、このプロジェクトの意義に賛同した」
幸は研究員の解説を途中に、生理液に浮かぶ脳を見つめ、意識を探った。
意識は闇の中にいた。
無、貴方ならきっと助けてくれる、お願い、早く、早く
幸は闇の中に浮かぶ意識と同化し、言葉を繋いだ。
君の名前は
わからない、確かに覚えていたはずなんだけど、忘れちゃった
君は無を知っているの
とっても強い人、あの人なら私を助けることができるはずなんだ、ここから出してくれるんだ
貴方は無なの
私は無じゃないけれど、無に一番近い存在。安心していいよ、私には力がある、まずは君に光をあげよう
闇に白い小さな光が生まれた。光りは徐々に大きくなり、闇を白く染めた。
少女が丸く俯せになって、うずくまっていた。
幸は少女に近づくと、腰を下ろし、そっと少女の髪に触れた。
「目を開けてごらん」
「やだ、暗いのはもうやだ」
「大丈夫だよ」
「明るくしたからさ」
幸の言葉にそっと少女は顔を上げ幸を見つめた。
「ね、明るいでしょ。お姉ちゃんの顔、わかるかな」
「わかる、綺麗な人」
時間感覚が失われていく間に、退行現象が生じ、子供の意識になってしまったのだろう。
「お姉ちゃんがここから出して上げよう。お姉ちゃん、強いぞ、だって、無の娘だからね」
少女が安心したように笑みを浮かべた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
幸は少女の頭を優しく撫で、囁いた。
「今度、目を覚ます時は、青い空の下だ。楽しみに眠っていなさい」
少女は少しうなずくと目をつぶった。

研究室では歓声が上がっていた。
「活性化したぞ、脳が目覚めたんだ」
男の前にいた研究員が悲鳴のような雄叫びを上げた。
激しくモニターが明滅する。各部に取り付けられたセンサーの信号が、グラフとなりプリンターから弾き出される。

ふと、幸は水槽の下、小さな落書きを見つけた。
めぐみちゃん、ごめんね。
「どういうこと・・・」
幸が小さく呟いた。
「三十九という名の殺戮者の本名は誰も知らない。ただ、奴は女になりたがっていた、女そのものに。奴とここにいる彼らの組織と利害が一致したのだろうな、奴は女の体を手に入れた、追い出された女の脳と心は水槽の中だ。落書きは三十九が、その時の気分で書いてみたものだろう、記念に」
幸は俯き声を振り絞った。
「そういうの・・・、許せない」
「うわあぁぁっ」
幸が悲鳴、いや、雄叫びを上げた。
まるで嵐だ、幸を中心に風が逆巻き、研究員達を壁に天井にと打ち付ける。男は硝子球を浮かび上がらせると、水槽に鋭く投げ付けた。割れるかと思いきや、硝子球は巨大化し、水槽もろとも脳を飲み込んでしまった。
「彼女の脳を破壊してしまったら本末転倒。さぁ、幸、帰ろう」
「許せない、許せない。閉じ込められるのがどれほど苦しいか。絶対に許せない」
男は自分を見失った幸を見た、百年以上に渡る自分自身の苦痛があの落書きをきっかけに顕在化したのだろう。
「幸、心を沈めなさい」
「うおぉぉ、許せない」
俺の声も聞こえないか・・・
男は左手で幸をしっかり抱き締めた。
「幸。どれほど苦しかったか、辛かったか。ごめん、父さんには全てはわからない。でもね、いま、幸には新しい生活があり、たくさんの友達も増えた。それを大事にしてほしいんだ」
幸の体から衝撃波が生まれ、男の内蔵をえぐる。喉から血が溢れる。
男はふと思った。誰にも殺されたくない、幸とずっと変わらぬ生活を続けたいと思った、でも、あぁ、幸になら殺されてもいいかなと思う。幸は泣くかな、泣いてくれるかな。
泣いたら可哀想だな、でも、たくさん、友達も出来たから立ち直ってくれるかな。
考えてみれば、幸と出会うまでは、俺も殺人が日常生活のような男だった。そんな男が真面目な振りして、幸せな生活を送ることが出来た、もう・・・、これ以上は望むべきじゃないな・・・
幸、ありがとう
男の力が抜け、そのまま俯せに倒れて入った。
天井が軋み出す、壁がひび割れた。風は幸を中心にいよいよ激しくなり、
「こらっ、しっかりしなさい」
幸の前に透けて後ろが見える、もう一人の幸がいた。
「もう一人のあたし・・・」
次第に風が収まり、静寂と化して行く。
「空気中の粒子の有り合わせで体を作ったけど、密度が粗いなぁ」
半透明の幸は自分の手のひらを見つめて呟いた。
「あたしが外にいる」
「幸という存在の構成は百のうち九九はあなた、私はひとつだけ。つまり、あなたがしっかりしなきゃいけないの。なのに、このざまはなんなの。もっと、自分の感情を操れるようになさい」
「ご、ごめんなさい・・・」
「ごめんなさいじゃありません。足元、ご覧なさい」
ふと、幸が足元を見る、俯せに、男が倒れていた。
「お、お父さん。うわあぁぁっ。お父さん、お父さん」
慌てて幸はしゃがみこむと男を抱き上げた。
「お父さん」
「大恩あるお父様を殺してしまったのですよ」
「うわあぁぁ」
涙に鼻水、ぼろぼろに泣く幸を、溜息交じりに半透明の幸は見つめていたが、ひざまずくと、幸の顔を覗き込んだ。
「泣くのはそれくらいにしなさい。私にはあなたを叱ることしかできません、この状況を変えることができるのはあなただけなのです」
「この状況を・・・」
半透明の幸は、幸を励ますように、にっと笑った。
「まだ、お父様の心臓が停まって四分。すぐに人工呼吸、神気を吹き込みなさい」
「は、はい」
幸は男を仰向けに寝かせると、口移しに息を男に吹き込む。
「同時に内蔵の修復。それが済んだら、直接、心臓を掴んでマッサージしなさい」
幸は男の背に左手を差し入れ、右手を腹部から中へと溶け込ませて行く。
半透明の幸は辺りを見渡した。倒れた人、コンピューターに挟まれた人、傾いだ機械、見上げた。天井自体が光っている、LEDが内蔵され、最小限の影響に止まったため、こうして明るさが残ったのか。
ゆっくりと見下ろす、幸が放心したように口を開け、宙を見つめていた。
微かに男の心臓が動くのがわかる。
「間に合ったようね」
「はい、なんとか」
半透明の幸は嬉しそうに微笑むと幸の頭をそっと撫でた。
「よくできました。でも、お父様にも困ったものです。執着がないというか、とても恐ろしい冷徹なお方なのに、娘には驚くほど甘い。ご自分の命さえ差し出してしまう、仕方がありませんね、お父様にもっと責任を担っていただきましょう、容易く死ねないように」
「責任を」
「そう、私達はお父様に娘にしていただいたけれど、実のところ、娘よりも妻になりたいのが本心、違いますか」
「もちろん、それは。でも、お父さんは」
「現状はたいしてかわらないでしょうけど、お父様には、妻になってくれと言っていただきます。ね、だから、邪魔しちゃだめよ」

二人の幸は庭の梅林へと戻ってきた。そして、男を仰向けに寝かせ、脳の入った球を空に浮かせる。半透明の幸は、幸に溶け込むようにして消えた。
幸は男の横に膝をつくと、そっと、呼びかけた。
「お父さん、お父さん」
男がゆっくりと目を覚ました。
「あれ・・・、地獄じゃないな。梅林、うちに帰って来たのか」
「お父さん、何処か、痛くない」
「ん、幸。幸は怪我していないか」
「幸は大丈夫だよ」
「そっか」
男は笑みを浮かべると、左に体をずらし、上半身を起こす、慌てて、幸が背中を支えた。
そして囁く。
「ごめんなさい、幸はお父さんを殺してしまいました」
男は左手で自分のお腹に触ってみる。
「ちょっと腹囲が小さくなったかな、ちょっとだけ、かっこよくなったかもな。ありがとう」
「お父さん」
「ん・・・」
「お父さんは幸を叱らないね」
男は困ったように笑みを浮かべた。
「男親はだめだな、叱るという発想が希薄だ。今回のことも父さんがしっかり幸を育てていたらね、こんな、幸自身に辛い思いさせずに済んだのにな」
「お父さんはこのままでいてください。だって、こらぁってお父さんに怒鳴られたら、幸、泣いてしまうよ」
「それは大変だ」
「幸は失敗したら喉が涸れても、ごめんなさいって言い続けるから」
男は左手で幸の頭を撫でる。
「幸はどう行動すればいいか、自分で考えることができる。ただ、今回は昔のことと重なって感情に流されてしまった。でも、そのこと、経験したからね、次は大丈夫だよ。自分自身を信頼してあげなさい」
「お父さん」
幸がそっと顔をあげる。
「幸にはたくさんの友達ができた。それも幸の大きな支えになるよ、きっと」
男は笑顔を浮かべた。
ふと、男は浮かんだままの硝子球に入った脳を見た。
「彼女をなんとかしなきゃな」
幸は振り返ると、硝子球を見る。
「幸が彼女の体を創るよ」
「三位全てがなくなってしまっている、難しいぞ。といって元の体はたくさんの人を殺してしまって穢れてしまっているから使えない、脳まで穢れに侵されてしまう」
「うん、でも、今の幸なら出来そうな気がするんだ」
幸はゆっくりと立ち上がると、硝子球に近づく。
幸が両手を伸ばし、硝子球に向ける。ゆっくりと硝子球が月の白い輝きを放ち出した。
男は驚いてそれを見つめた。次第に白い輝きは人の形を取り出し、その光が消える頃、あの時の彼女をほんの少し幼くした女性が立っていた。
男は驚いたようによろけながら立ち上がった。呪的に構成された体じゃない。あれは、全く、普通の人間だ。
ゼロから体を創ったのか。
「お父さん、彼女の精神が子供に退行していたから、体も少し幼くしてみたよ」
幸が男にそう話しかけた瞬間、ふわっと幸の体が浮かんだ、目を閉じ、幸がゆっくりと浮かび上がって行く。
男は駆け出すと、飛び上がり、左手で幸を抱き締める、しかし、幸の体を男の手は擦り抜けてしまった。
男は茫然と空に浮かぶ幸をぎょしした、全てを理解した。
声にならない音を男は幸に叫んだ。
幸の真の名前。そして、唯一の願いを叫ぶ。
「帰って来てくれ、幸」
幸の目が開き、男をぐっと睨みつける、そのまま、急降下、落ちてくる幸を男は抱きとめ、仰向けに倒れた。
幸は男の上にのしかかったまま、低く男に語りかけた。
「神に戻るはずの私はあなたさまの我欲により、その機会を失ってしまいました。私はもはや神に戻ることは出来ませぬ、私はあなたさまの娘という、あやふやな立場に閉じ込められてしまいました」
「君には申し訳ない、どうしても幸と別れたくなかったんだ」
「それがあなたさまの我欲。今となってはどうしようもありませぬ。さぁ、あなたさまの責任の著しを言の葉になさいませ」
男は決意して言った。
「私の妻になってくれ」
幸はふっと笑みを浮かべた。
「あなたさまの我欲により私は留まります、やっと、幸も私もあなたさまの妻になることができたと嬉しくて仕方がありません。どうぞ、末長く、よろしくお願い致します」
言葉を終えると、幸が二人に別れた。薄い姿の幸が、男と幸の横に座る。
「幸、日中から、仰向けの殿方に馬乗りするとは、はしたないですよ」
薄い姿の幸が幸に笑った。

男は一つ溜息をつくと、二人の幸を前にして語り出した。
「幸はもともとは神様だったのだろうと思う。武術や呪術が父さんの能力を遥かに越えたのも、神と人との基礎能力が遥かに違うからだ。その幸が、彼女の体を全くのゼロから創り出した。全くの無から有を産みだす、これこそが神の能力だ、この能力を使ったため、幸は自然に神へと、あまねく普遍の存在に変わって行こうとした」
薄い姿の幸が笑みを浮かべた。
「真実の名前を叫んで、留めていただかなければ大変なことになるところでしたわ」
「あまねく普遍の存在、それは」
男の言葉を薄い姿の幸が繋いだ。
「空気みたいなもの、こうして、お喋りも出来ません」
幸も男と同じ溜息を一つつく。
「貴方は無茶だよ。もしも」
「無茶ではありませんよ。留めてくださると確信しておりましたから」
ふと、気づいたように薄い姿の幸は男を見つめた。
「貴方か・・・。私は幸の別人格ではありますが、こうして体外に出、空気中の粒子を集めて、薄いながらも形どることが出来るようになりました。おまえさま、私にも名前をつけてくださいませ。おまえさまが幸に甘い分、私は、たまに幸から出でて、叱り付けなければなりません。そうだ、幸と似たような名前が良いですわ」
男は困ったが、あらがえずに言った。
「幸乃、にしましょう」
「ありがとうございます、素敵な名前ですわ」
幸乃は男に笑みを浮かべると、振り向き、幸に言った。
「疲れました、私は貴方の中に戻って当分の間、眠りますが、妻として、娘として、しっかり、お父様を支えるのですよ、わかりましたね」
「は、はいっ」
幸乃は、にっと笑うとそのまま、姿を消した。幸はそっと幸乃のいたところに、ふわふわと手を動かしてみる。
「うひぃ、大変だ」
緊張の解けた幸が叫んだ
「もう多重人格どころか、多重人間になってしまったよ」
「父さんの代わりに幸を叱ってくれる人が出来てしまったな」
男がくすぐったそうに笑った。足を投げ出し、幸も情けなさそうに笑う。
「あの人に、幸乃さんによろしいですねって言われると、反射的にはいっって答えてしまう」
「父さんは、以前から、少しずつだけどね、喋っていたけれど、淑やかな、控えめな人に思っていた」
「それは猫かぶっていただけ。幸乃さんは強いよ、幸があんな世界で百年以上、狂わずにいることができたのも、今の幸乃さんという人格と暮らしていたからかもしれない」
幸はごく自然に男を抱き締めると、耳元で囁いた。
「ね、お父さん、今晩、えっちしようか」
「うっ・・・」
男は幸の言葉に固まってしまった。顔が真っ赤にほてり出す。
「夫婦だもの、妻として不思議じゃないよ。幸、とっても気持ち良くしてあげるよ」
「いや、あの、うーん」
男が口ごもる。
「むしゃむしゃ、お父さんを食べちゃうぞ」
「いや、そうだ、確かに父さんは妻になってくれと言った。そうだ、確かにそう言った・・・」
男は自分に納得させようと呟く。
幸は笑いながら、体を離した。
「幸はね、お父さんに要求されたらすぐに受け入れる。だって、本当に愛しているもの。でも、なんていうかな、幸はお父さんにとって特別の存在でありたい。そう思うと、えっちをしない方がいいのかななんて思う。お父さんにもっと近づきたい、服のその厚みすら邪魔だと思うくらいなんだけどなぁ」
「幸がこんなおっさんを愛していると言ってくれるのはとても嬉しい。ただ、父さんは暗殺者としてたくさんの人達を殺して来た過去がある。殺人鬼と忌み嫌われた時代もあった。すっかり穢れているんだ、父さんは」
幸はにっと笑うと男の左手を両手で包み込んだ。
「ならば、その穢れ。半分、幸が担いましょう」
「いや、大切な娘を汚すわけにはいかない」
「お父さんの頑固者」
「そうさ、父さんは頑固です」
「開き直ったな」
幸が楽しそうに笑った。
「お父さんは幸を妻にすると約束しました。ただ、幸も体を許してしまうと、夫は出来ても、お父さんがいなくなってしまうようでなんだか寂しい。ということで、本来なら、幸のやりたい放題ですが、幸は優しい娘です、妥協してあげましょう。御風呂を大きくして大人二人が寛げるように明日から工事します。完成後、裸のお付き合い、背中の流しっこもします。これ以上は譲れません。よろしいですか、よろしいですね」
「わ、わかった・・・」
幸は男に抱き着くと、くすぐったそうに笑った。
しかし、ふっと笑い声を止め、幸はぎゅっと男を強く抱き締めた。
「お父さんを殺してしまったって気づいた時、あぁもうだめだ、幸はなんてことをしてしまったんだって思った。そして、頭が真っ白になって何をどうしたらいいのかもわからなくなったんだ」
「父さんは幸が立ち直ってくれるかな、啓子さんやあかねちゃんたちとしっかり生きていって欲しいと思いながら死んだ、それだけが気掛かりだった」
「お父さんは優しすぎるよ」
幸が唇をかむ。
「それは仕方ない、幸が大切なのは変わらないからさ」
「幸乃さんが初めて幸の前に現れたんだ、叱られて、それから、人工呼吸やお父さんの内蔵を修復するようにって教えてくれた。お父さん、ほんとうにごめんなさい」
「これは、父さんも幸乃さんに頭が上がらないな」
男は少し笑う。
「ね、お父さん、新しい右腕、作ってあげようか。今の幸なら出来るよ」
思い詰めた顔で幸は男の目を見つめた。
「右腕は幸とこれからも一緒に暮らすためになくしたもの、だから、右腕はなくていいよ」
「幸はお父さんに右腕があってもずっとお父さんといるよ」
「ありがとう。でも、その時の思いに、今も誠実でありたいからさ。それとも、幸は、父さんに右腕がないの嫌か。辛いこと、思い出してしまうから嫌か」
「嫌じゃない。ただ、お父さんは幸にとっても甘いくせに、自分にはとっても厳しい」
「かっこつけているだけさ。だって、幸にかっこいい父親って思われたいからな」
男はそっと笑みを浮かべると、左手で幸の頭をなでた。
「今回のことで父さん、思った」
「何を」
「呪的な延命はしないけど、それでもね、長生きして幸とこれからも暮らし続けたいってね。死んだままにならなくて良かった」
「幸はこれからはね、負の感情に流されずにするよ。感情に溺れずにしっかりするよ」
男はくすぐったそうに笑った。
「よろしくお願いします。もう、父さんじゃ、幸の暴走を止められないからさ。さてと、幸。恵さんをなんとかしてくれ」
「うん」
幸はふと立ち上がると、眠ったままの恵を抱きかかえ、戻って来た。
「お父さん、ここで一緒に暮らすのがいいのかな」
「いずれは彼女も記憶が甦るだろう、それまでは心と体を養生させる必要があるだろうな。だから、彼女が戻りたいと思うまではここにいる方がいいだろう」
「そっか、そうだよね」
幸は恵を見つめると、彼女の耳元で声をかけた。
「おおい、目を覚ませ」
幸の呼びかけに恵がゆっくりと目を開ける。
「約束どおり、青空の下だ。見えるか」
「明るい、空が青いよぉ」
笑みを浮かべる恵の瞳が涙で潤む。
ふと、男は坂村が畑からこちらにやって来るのを見た。
「先生、そろそろ、鍋の準備しないと」
幸の膝に裸の女がいるのに気づく。
「まっ、大概のことには驚きませんけど」
坂村が恵の顔を覗き込んだ。
「あれ、恵だ」
幸は見上げると坂村に尋ねた。
「知り合いなの」
「大学の時の、一つ下の後輩です、クラブが一緒で」
幸は男を見つめた。
「そうだな、人を闇に追いやる一連の仕組みが、その大学にあるのかもしれない」
幸は溜息をついた。
「お父さんと静かな生活を送りたいのに」
「父さん、幸に付き合うよ。でも、今は鍋のこと、考えさせてくれ。こんなにお腹が減っているのは初めてだからさ」
幸は男の内蔵を再生させた時、老廃物をすべて消したことを思い出した。
「うわっ、すぐに用意するよ。恵子さん、恵さんをお願い」
幸は坂村に恵を預けると、慌てて、家へと戻った。
「先生、何があったんです」
「そうか、まだ、数時間しか経ってないんだな、お昼食べてから」
男は笑うと、坂村に言った。
「大冒険活劇。それに幸が二人になった」
「幸さんが二人、それって、姉妹喧嘩で世界が滅びますよ」
「その時はあきらめてくれ」
男が笑った、坂村も情けなさそうに笑う。
「坂村さん、彼女に服を着させてくれないかな。服は幸に選んでもらってください」
坂村は頷くと恵を抱きかかえ家へと戻った。

「こんなに賑やかになるとは思いもしませんでした」
男がふっと呟く。その男の横には幸乃が座っていた。半透明で後ろが透けて見える姿はまるで幽霊のようにも思える。
「ただ、女性ばかりですわね」
「幸乃さんはその方がいいのでしょう」
「ええ、おまえさま以外の男は嫌悪しています、幸も私も」
少し不機嫌そうに幸乃は答えた。
「男は性根が汚いのばかりです。一キロ以内に近づくなという気分」
「それは手厳しい」
「百数十年、男を食ってきた結論です」
ふっと幸乃は笑みを浮かべると男を見つめた。
「おまえさまは幸と情を交わされようとされませんね。御風呂で背中の流しっこ、まるで子供同士のよう。せっかく、背中を押して差し上げましたのに」
「多分、それは父と娘という関係を大切にしたいと考えているからかも知れません。何の計算も打算もなく、見返りも必要とせず、ただ、大切と思うことの出来る関係。この関係は現在進行で私を救ってくれています」
「そんな素直に返されてしまうとは・・・。でも約束は約束。おまえさま、浮気はご法度。幸と幸乃は娘でもあり、妻でもあること。お忘れなきように」
「ええ、大丈夫ですよ、幸乃さん」
幸乃はふと思案顔に俯いたが、すぐに顔を上げた。
「おまえさま、試しに幸乃と呼び捨てになさいまし」
「幸乃・・・、ですか」
幸乃は得心いったかのように笑みを浮かべた。
「私のことも幸乃と呼び捨てになさいまし。その方がうれしゅうございます」
ふっと顔を寄せると幸乃は男に囁いた。
「もぉ、幸乃だってお父さんの娘なんだよ。大事にしてくれなきゃ怒るぞ」
幸乃の笑顔が凍りつく、真っ赤な顔をして俯いた。
「あ、あの」
男が戸惑う。
「あぁ、だめだ。恥ずかしい、今のは無しにしてくださいまし」
幸乃は自分自身に呆れたかのように声を出して笑った。
「私はおまえさまのことを、父としてより、夫として見ているようです」
「大事に思ってますよ」
幸乃は照れ笑いを浮かべると、家を見やった。
「幸にたたき起こされました。おじやを作りながら、お父さんが死んじゃうと泣いて、私に見に行ってくれと。随分、しっかりしたくせに、おまえさまのこととなると、頼りない子供になってしまう。ほんに面白いこと」
「大事に思ってくれる人が居てくれるのは嬉しいことです。ただ、私自身があまり大切には育ててもらっていないので経験がない。このままでいいのかなと思います」
「いいのですよ。今のまま、幸と幸乃を大事に育ててください。この御恩は存在と笑顔でお返し致しますわ」
家の中から坂村の叫び声が聞こえた。
「ん、どうしたのかな」
「あぁ」
幸乃はいたずらげに笑った。
「物事に動じない坂村さんのこと、それならばと、あの方の目の前で、幸の背中から、蠢くようにおどろおどろしく登場致しました。硬直されていましたが、やっと意識を取り戻した様子」
男も仕方無さそうに笑う。
「考えて見れば、食卓がないと私は食べることができません、家に戻りましょう」
「そうですね、私も坂村さんとお喋り致しますわ」
男が歩く、幸乃もその横を歩いた。
男は思う、存在と笑顔、本当にそれだけで充分だ、願わくは、この関係が少しでも長く続きますようにと心から願った。

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