異形 流堰迷子は天へと落ちていく 一話

短編幻想小説『異形』の続編です

月曜日 18 7月 2011 at 12:42 pm.

瀟洒なホテルのラウンジ、碧のドレスを見に纏った女が一人、カウンターにいた。深い海の色をしたカクテルを前に、物憂げに頬杖をついている。
若い男が一人、何げない仕草で女の隣に座った。
「君の瞳はどうして虚ろなんだい」
女はふっと顔を男に向けた。
赤くひいた唇が妖艶な気配を漂わせる美しい女だった。
「好きな男が席を外している、それだけのこと」
「君みたいな素敵な女の子を独りにしておくなんて信じられないな」
女は吐息を漏らすと、男を軽く睨んだ。
「そこさ、あたしの待ち人の席なんだ。外してくれないかな」
「どう、俺と夜を楽しまないかい」
女は初めてにっと笑った。
「我が儘な奴だなぁ」
「男は永遠に少年なのさ、欲しいものはどうしても欲しい」
女は引き込むように笑みを浮かべると囁いた。
「そんな我儘ばかり言ってると、君を食べちゃうぞ」
にいいぃっと、女は笑う、八重歯が白く輝いた。
瞬間、魂が抜けたように若い男が固まってしまった。

「少子化に拍車をかけてしまいました」
「いいのさ、お父さん。こういう女の敵は去勢しておかなきゃね」
幸は平気な顔して、戻ってきた男に笑いかけた。
男は幸の隣に座る若い男の頭を軽くぽんぽんと叩き、話しかけた。
「ここでのことはすべて忘れなさい。そして、ドアを開けて出て行きなさいな」
若い男は無表情のまま、操り人形のように立ち上がるとすたすたと歩いて出て行った。
「ふっ、命冥加な奴」
「何言ってんだか、思いっきり悪役の台詞だよ」

男は椅子に座ると、幸のカクテルを見つめた。
「素敵な色だね、海の奥底から空を見上げればこんな色なのかもしれないな」
「お父さんの気障は許してあげます、天然だから」
「思ったことを言っただけのこと」
幸はにっと笑うと顔を寄せた。
「何飲む」
「こういうところで烏龍茶とかいうと叱られるのかな」
「大丈夫じゃないかな」
幸はバーテンに声をかけた。
「烏龍茶をお願いします」
バーテンは表情を変える事なく、烏龍茶の小瓶を取り出すと、グラスに継ぎ、男の前に置いた。
男が一口飲む。
「お茶は美味しいな」
幸はくすぐったそうに笑うとカクテルを飲む。
「なんだか、幸はとても御機嫌だな」
「そりゃそうだよ。贅沢晩ご飯だよ、一カ月分の食費を一晩で食べるなんて信じられないよ」
「いいじゃないか、一年が13カ月あると思えば良いだけのこと」
「なるほど。今晩だけはその考え方に賛成します、でも、残りの30日はお水だけです、ふふっ。とにかく、旅の最後の晩、最後くらいは贅沢と思ったけど、男の人の金銭感覚はだめだ、明日から幸がしっかり倹約を教えてあげるよ。このドレスだって、ハイヒールだって、値札一桁間違えているのかと思ったよ」
「でも、幸に似合っているよ。その唇もとても素敵だ」
幸が恥ずかしそうに笑う、まるで子供のようなあどけない笑みを浮かべる。
「冒険して思いっきり赤いのにしたんだ。ね、お父さん」
「ん」
「幸、この一年で背が伸びたよ。ハイヒール履いたら目の高さ、お父さんと同じだもの」
「そういえば、顔付きもちょっと大人びた感じがする」
「幸はいい女になりましたか」
「とってもいい女になりました」
幸は足をばたつかせながら、にひひっと笑う。
「そういうとこは子供だ」
「だって嬉しいんだもの」
男は笑うと、立ち上がり、支払いを済ませた。
「そろそろ行こうか」
「うん」
立ち上がった途端、幸はバランスを崩し男にしがみつく。
「酔ったかな」
「うん、足がなんだか軽い。でも、ハイヒールって初めてだからそれもあるよ」
男は笑うと、幸の腰に手を回し、そのまま、すっと2センチほど、腕全体をあげる。
「これでいいかな」
「えへへ。体が浮いて、楽ちんです」
男は少し笑うと、もう片方の手でドアを開けた。


男は夜の住宅街を幸を背負って歩いていた。慣れないハイヒールに幸が音を上げたからだった。
「ごめんなさい、お父さん」
「ん、いいよ。父さん、気づいてやれずにごめんな、足、痛かったろうに」
幸は両手を男の首に廻すと、そっと頬を寄せた。
「お父さんは幸のためにいっぱい頑張ってくれる、幸はそんなお父さんに一体どれほどのものを返せば良いんだろう」
「そうだなぁ、多分、父さんは幸が居てくれないと、何もせずにそのまま部屋の隅で衰弱死してミイラになってしまいます、だから、父さんを捨てないでください」
男はくすぐったそうに笑った。
「幸もお父さんが居なくなったら、狂ってしまうよ。そして全世界を破滅に導いてしまうと思う」
「世界平和のために一緒にいなきゃな」
「うん」
幸が幸せそうに笑った。
「お父さんは、酔うと子供みたいにかわいいくなるなぁ」
「そして、酔いが醒めると年甲斐もないことを喋ってしまったと考え込んでしまう」
男は言葉を繋ぐと少し息を漏らす。
「父さんの個性と思ってください。父さんさ、最初、頑張って幸をしっかり育てなきゃって思ったけど、あぁ、ちょっと違うんだって気づいたな」
「どう違うの」
「幸は事の善し悪しをしっかり自分で考えることができる。父さんが頑張って幸を立派な人間に育てようなんて思わなくても、ちゃんと育ってくれている、父さんが幸に育てられているくらいだ」
「それはお父さんがいてくれるからだよ」
「娘にそんなふうに言ってもらえるなんて、父さんは幸せだ。・・・ん、ちょっと饒舌になってる、まだ、食前酒が残っているのかな」
「酔ってるお父さんも好きだよ」
「ありがと」
男はそっと笑顔を浮かべた。
あの角を曲がれば、家が見えてくる。一年間、留守にした家だ。
「お父さん」
「ん」
「家なかったらどうしよう」
「それは困るな」
「ね、もう一度、旅に出ようか」
「タコ焼き屋さんとクレープやりながらか」
「うん。車の中はとっても狭かったけど、ぴたっとお父さんに引っ付いていて楽しかった」
「そうだな、車屋さんから、車を返してもらって、貸倉庫にいれた荷物を出して」
「今度は南へ行こうか、お父さん」
「次は日本を出てみたいな」
「何処行く」
「スペインに行ってみたいな、夕日に染まる宮殿を見てみたい」
「それじゃ、幸はスペイン語勉強するよ」
「楽しみだ。でも、本当は」
「ほんとは」
「居間で大の字になって寝そべりたい気分である」
幸は男の背中で笑うとぎゅっと頬を寄せた。
「その気持ち、とっても分かるよ、お父さん」

漆黒の闇の中、二人の家が一年ぶりの男と幸を出迎えていた。
「あったね、でも、他人の家みたいだ」
「家は生きている、いまは仮死状態みたいなものだよ」
男は幸を背負ったまま、門を入ると配電盤のブレーカーを戻す。門柱のあかりが灯った。
そして、幸が男の背中から手を伸ばし、鍵を解錠した、玄関の戸を開く。
一歩、足を踏み入れあかりを灯した。静かに家は息を吹き返し、二人はやっと自宅に戻って来たと感じることができた。
「降ろすよ」
「うん」
幸はやっと男の背中から降りると玄関の廊下に立った。廊下が一面、白い粉を被ったようになっていた。
「うひゃあ、埃だらけだよ」
「一年ってすごいな」
幸はぱたぱたと台所へ駆け込むと、絞ったぞうきんを持って来た。そして廊下を拭いて行く。
「お父さん、拭いたところを歩いて」
「ありがとう」
男が靴を脱ぎ、廊下を歩く。
「お父さん、今晩は廊下と居間だけでも掃除をするよ。お父さんは座ってて」
「大丈夫、箒で掃いて行くよ。それより、幸、ドレスは脱ぎなさい、碧が灰色になってしまうぞ」
「うわっ、大変だ」
幸は男に背を向ける、男は背中のチャックを降ろした。
「ありがと」
幸がその場でドレスを脱ぎ出す、その姿は少し大人びた、非のうちどころのない理想的な体型だった。
男が慌てて、目を瞑り背中を向けた。
「お父さん、意識した」
ドレスを脱ぎ、下着になった幸が笑う。
「ガーターに網タイツがとっても蠱惑的だよ、それにこの赤い唇、お父さんに赤い印をつけてあげよう。」
「早く何か着なさい」
男が背を向けたまま言う。
幸は男の背中に体を寄せると、耳元で囁く。
「お父様、幸、とっても体が熱いの、お父様の体で冷やして欲しいよ」
そっと幸が左手で男の胸を、右の手のひらで男の臍を服の上から押さえる。
「熱いのなら風邪薬を飲んで寝なさい」
「風邪薬じゃ、この体の火照りは収まらない、お父様が抱いてくれなきゃ」
幸の右手の爪先がそっと下へ向く。
「お父様だって、ほら、首筋汗が出て来ているよ、ね、お父様」
「ええっと。早く着替えてきなさいっ」
「はぁい」
幸が笑いながら、箪笥へ服を取りに行く、男は疲れたように、そのまま座り込んでしまった。
絶対の信頼を幸は俺に抱いてくれている、その信頼を損なうことは俺にはできない。
硝子戸を開ける、隣りの塀が視界を遮っていた。
しかし、外からの風が心地いい。

「お父さん・・・」
男が振り返ると、普段着に着替え、化粧を落とした幸が青い顔をして立ちすくしていた。
「それじゃ、箒で埃を外に、ん、どうしました」
「幸はえっちじゃないよ、えっちじゃない。ごめんなさい、お父さん」
「さっきのことか」
「洗面所で化粧を落としたら、恥ずかしくなったんだ、おとうさん、幸を嫌いにならないで」
男は柔らかに笑みを浮かべる。
「色んな幸がいて、父さんはどきどきしたり、わくわくしたり、あたまかかえたりで大変だ。でも、それはとっても楽しいこと。楽しいと思えるのは幸が大好きだからだよ」
男が手を差しだした。
幸が男の胸に飛び込んだ。
「ごほっ」
幸が咳き込む。男がそっと幸の背中をさすった。
「埃だらけのところに走りだすんだから」
「だって」
「さ、立ちなさい、この部屋、掃除しなきゃ寝るところがない」
男は幸を立たせると、箒を持って部屋を掃きだした。
「お父さん、庭がない」
幸が叫んだ。庭には幸が畑を作り、その向こうには梅林が続いていたはずが、すぐそこに隣りのブロック塀が見えていた。
「幸、気づくのが遅すぎるよ」
「まさか、思いもしなかったんだもの」
「一晩過ぎれば元に戻るさ。この家とあの空間は父さんの存在が鍵になって繋がっていた、一年の間にそれが切れてしまっただけ。戻って来たから、また、繋がるよ。幸の畑がどんなふうになっているかはわからないけどね」
「良かった・・・」
ほっとした顔で幸は、男の掃いた後から、固く絞った雑巾で畳を拭いて行く。
一通り部屋の掃除を済ませると箒を片付ける。幸はお茶を沸かしに台所へと行った。

久しぶりだな、親父。隣りの塀が見えるなんて。ここへ二人で来た頃のことを思い出すよ。
男が小さく呟く。十代半ばの頃のこと、男は目を瞑り思い出していた。
親父や祖父さんは幸の力をみずち家に取り込もうと捜していた。善意じゃない、幸と子供を為すことで、巨大な才能を持った後継者を得ようとしたからだ。でもさ、人の世にそんな力を持った存在はいらない、危険なだけだよ。
「お父さん、お茶入ったよ」
「ん、ありがとう」
男は湯飲みを取ると一口飲んだ。
「幸のお茶はとっても美味しいです」
「普通に入れているだけだよ」
幸が照れくさそうに笑った。
「ね、お父さん」
「ん」
「唐突だけどね」
「なにかな」
「鶏を飼おう、それと、山羊も。本当は牛だけど、なんだか大きくて大変そうだから山羊」
「いきなり・・・。さすがにびっくりした」
男は笑うと湯飲みをお盆に戻した
「新鮮な卵を食べることができそうだね」
「あのね、幸は自給自足がしたいんだ、旅の中でずっと思っていた。色んな人達と旅の中で関わって楽しかったけど。だけど・・・、ちょっと疲れた」
「自給自足か、そういうのもありかもしれないね」
「でも、仕事しなきゃだし、どうしよう。もう一度、会計事務所を始める」
「お客さん、譲ってしまったからね。譲った友人の会計事務所にアルバイトでって話はしていたけど、どうかな、一年も経つからさ」
「ね、ここでお総菜と喫茶店をやろう、事務所にテーブルと椅子をおいて。中古なら安くであるよ」
「でも、幸は人と会うのが」
「幸は牛乳と卵と野菜をお店に納品する業者さんになります。新鮮な卵や野菜を取り揃えてますよ」
男はくすぐったそうに笑った。
「楽しいだろうね。でも、それじゃ、父さんが喫茶店のオーナーになるのか。接客業できるかな」
「大丈夫だよ、この一年間でお父さん、随分、愛想笑いができるようになりました」
「ん・・・、父さん的には悩みどころだ。でも、面白いかもしれないな」

幸は立ち上がると、昨年のカレンダー、四月を切り取り、裏向けて畳の上に広げる、そして、俯せに寝転んだ。
「お父さん、横」
「え、あぁ、うん」
男も横に寝そべると、カレンダーの裏、白い紙を眺める。

「ここは、住宅街だからね、近所の人達をお客様にしなければなりません」
幸が鉛筆で「住宅街」と書き、丸で囲む。
「そしてこの辺りの人達は佳奈姉さんのいる商店街か、その隣りのスーパーへ買い物に行きます。幸い、ほとんどの人が自転車か歩いて行きます」
「そうだね、車で行く人は少ないな、大きな買い物をする時くらいかな」
「そう、だから、歩いて帰る人達に、ちょっと寄り道してもらえるようなお店にするのです」
幸はにっと笑うと、お店を正面から見た絵を書きだした。
「何を売ろうかな」
「商店街やスーパーに売っているのと同じものは買ってくれないだろうな」
「そうだよね、今はたいていのもの、売っているからなぁ」
男は真剣に考えている幸の表情が見ているだけで楽しく思えたがふと呟いた。
「専門店を考えたら」
「専門店、そうだ、オーガニックとか自然派とか、あんまりうさん臭くない程度で」
「そういえばハーブが随分育ったね」
「お父さん、ハーブティーを喫茶店で出そう、そして、ハーブティーのブレンドも販売する。」
「なら、お総菜も無農薬とかの路線かな」
「うん、幸、頑張って無農薬で野菜を作るよ。えっと、献立はどうしよう」
「たくさんの献立を毎回考えるのは大変だな」
「それじゃローテーション。季節ごとに」
「なら、半月で回転させる、つまり十五品、これと季節で、六十品目を回して行こうか、それくらいならなんとかなりそうだな。ただ、位置付けだな」
「位置づけって」
「いくつかあるおかずの一つになるか、これひとつでおかずになるか」
「うーん、値段帯をスーパーのと同じにするなら」
「お総菜は一種類だけ、量は一回の食事分、この住宅街はお年寄りの二人暮らしが多いからね、それを念頭に置く。売れ残ったら、それ食べなきゃならないから、あんまりたくさんは作れない」
「お総菜は三百円までにしよう、お父さん、パックとかさ、入れ物っていくらくらいするんだろう」
「まとめて買えば、随分安いと思うよ。ただ、自然派を言うなら、量り売り、蓋のできる容器か、深目のお皿持ってきてくださいかな、パックも販売はしますけど、って姿勢になると思うよ」
「うん、なんだか説得力があるよ、その方が」
幸は絵の横にお総菜三百円(量り売り)と書き、その下にハーブティーと書き添えた。
「喫茶メニューはどうしよう、ハーブティーも何種類か用意しようかな」
「ハーブティーは種類が必要だな。食事は軌道に乗ってからかな。そうだ、最初はハーブティーにスコーンとかビスケットとか添えるくらいでいいかもしれないね」
「お父さん」
「ん」
「もう、明日から喫茶店できそうだよ」
「はは、それはちょっとね。保健所とか、お手洗いの設備とか、もっと煮詰めなきゃな」
幸はごろんと仰向けになると嬉しそうに笑った。
「なんだか、とっても楽しいよ、わくわくする」
男はふっと顔をあげ、窓から外を眺めた。
「幸、外を見てみなさい」
「あ、塀が無くなった」
「幸の作った畑はどうだ」
「うわぁ、随分と草が生えているよ。そうだ、お父さん、あの草は鶏の餌にしよう」
「そうだね、そして、浅蜊のおすましをいただいた翌日は」
「貝殻も砕いて、鶏の餌にする」
「よくできました」
男は笑うと体を起こした。
「もう遅いな。布団出そう」
「うん」
幸は素早く立ち上がると押し入れから布団を取り出す。
大きなナイロン袋に圧縮した布団。
「掃除機で、空気吸い込んでさ、お布団が薄くなったけど、重さは一緒なんだよね、なんか、不思議だ」
幸が袋から布団を出して行く。
「そういえばね、体積が小さくなると、なんとなく軽くなったような気がするんだけどね」
幸が布団を取りだし、敷いていく、二組の布団を寄せて敷いて行く。
「幸、ちょっと引っ付け過ぎ、もう少し離しなさい」
「だめだよ、お父さん。布団は夢を渡る舟、離してしまえば、夜の闇に離れ離れになってしまうよ」
「幸、その台詞、ずっと考えていたな」
「うふふ、妙に説得力があるでしょう、お願い、今晩だけはさ」
「まっ、いいよ。少しお酒が残っているのかな、眠たくて仕方が無い」
男は隣の部屋で寝間着に着替えると、部屋に戻って布団にもぐりこむ。
幸は布団の上でパジャマに着替えた。
「お父さんは幸が着替えるとき、目を瞑ってしまいます、どうしてですか」
幸も布団に潜り込み、にっと笑って男の顔をのぞき込む。
「これが父さんの幸への礼儀。幸は父さんにとって、とっても大事な人だから、大切にする、そのための礼儀」
「お父さんが、そう言ってくれるの、とっても嬉しい。だから、何度も訊ねてしまう」
「今度から、テープに吹き込んでおくから、それを聴いてください」
男が少し笑う。幸も楽しそうに笑った。
「お父さん、あかり消すよ」
「あぁ、お休み」
「お休みなさい」
幸は明かりを消し、布団に戻る。
闇の中、幸は男の顔をじっと見つめている、その瞳に一筋の涙が流れた。
「お父さん、ありがとう」

明け方近く、男は目を覚ました。まだ、辺りは暗い。
男はぐっすりと幸が寝ているのを見て、硝子戸を開けた。
朝の冷たい風が流れ込む、男は素早く部屋を出ると、硝子戸を閉め、縁台に座る。
梅林の遥かに向こう、ほんの少し空が白み始めていた。

梅林の修行場が、畑になり、今度は鶏を飼うと言う。なぁ、親父、なんだか想像つかないな、命を削ったこの修行場が、とっても和やかになる。でもな、俺はそれがとても嬉しいんだ。武術や呪術は本家が伝承を続けて行けばいい。こんな力は幸の代で最後になるよ、本家もその方がありがたいだろう。
朝から、大掃除、そして、鶏小屋を考えなきゃならない、俺にとっても、その作業はとても楽しいことだ。

ふと、幸が目を覚ました。布団に男がいないことに気づき、慌てて立ち上がりかけたが、硝子戸の向こうに男の姿を見つけ、ほっと吐息を漏らす。
足を崩し、幸は掛け布団を抱き締め、男の背中を通して、男と同じ方向を見る、それだけのことが幸にはとても嬉しいことだった。男が幸の視線に気づき振り返る。
「寝ていなさい、まだ、早いからさ」
幸は笑みを浮かべ、人差し指で自分を指さし、そして、男の横を指さした。
男が笑って頷くのを見ると、幸はかけ布団を抱き締め、外に出た。そして男の横に座ると、掛け布団の端を男にかけ、もう片方を自分の背中にかける、包まるようにして男に寄り添う。
「お父さん、おはよう。今日、これが一番最初の幸の言葉」
「おはよう、幸。起こしてしまったかな」
「ううん。ね、お父さん、こうしていると野宿しているみたいだね」
「そうだな。ん、ほら、空の端、随分白くなってきた」
「一日が始まるね。お父さん、今日は大掃除の一日だ」
「大掃除か、大変だ」
「大丈夫、幸が全部するからさ」
「父さんも頑張るよ、旅でもそうだったけど、幸はなんだか頑張り過ぎ、体を壊さないか心配だ」
「幸はお父さんにいっぱい迷惑をかけている、お父さんの仕事もだめにしてしまった、そして、こうしてさ、お父さんの独りの時間も潰してしまっている」
「そうじゃないよ」
男は幸の頭をそっと撫でる。
「父さんは自分が幸せな方を選んだだけ、それだけのこと」
空全体が闇から薄青く移り変わり、遠く連なる梅林もその姿を現し始めた。
「さて、急いで大掃除をして、それから、鶏小屋を作ろう、基本は放し飼いの方がいいだろうけど、あっちこちで卵を産んだら探すの大変だ」
「大きいのがいいな」
「そうだな、いいのを作ろう、そうだ、幸は佳奈さんに帰ってきたこと連絡しておきなさい」
「そうするよ、また、楽しい日が始まる気がする」
幸は柔らかに笑みを浮かべた。

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